イエス・キリストをより良く知るために

目標から目を離さず、ひたすら競走レーンを走りぬく。・・・へブル人への手紙11章

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

クリスチャンとは、どんな人生を過ごす人たちのことを言うのか?
要約して言うならば、「クリスチャンの人生は、イエス様から目を離さず、神様が私たちの前に置いてくださった競走を、誠実に忍耐強く走り続けていくことだ」と言えるでしょう。
以下具体的に聖書の光に照らして説明していこうと思います。

1.「こういうわけで」とは?

まず新約聖書へブル人への手紙12章の1節は「こういうわけで」と始まります。どういうわけかというと、このヘブル人への手紙の11章までに書かれていたことを受けているのですね.
そこで11章にはどういうことが書かれていたのかということを振り返ってみると11章1節で、この御言葉はとても有名な聖句ですが「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって賞賛されました」とあります。
なぜこのようなことが教えられたのかと言いますと、この前のヘブル人への手紙10章35節のところに「あなた方の確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」とあり、さらに36節では「あなた方が神の御心みこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」と書いてあります。
つまりこの手紙を受け取ろうとしている人は、今は信仰のゆえに、激しい迫害を受けている人たちなのですね。そして何人もの人たちが、ローマ帝国の迫害によって命を落としたのですが、また多くの人はこの迫害のゆえに信仰を捨てたり信仰から離れたりしていた人たちがいたんですね。

そういう状況の中にいるクリスチャンたちに、このヘブル人への手紙の著者は、信仰を捨ててはならないということを言っているのです。
今は苦しいかもしれないけれども、神様は私たちに約束をしていてくださっている。その約束をいただくために、私たちに必要なのは忍耐であると教え、信仰を捨てないでようにと言っているわけですね。

2.信仰=神の言葉を信じる→それに従って行動する→命を保つことができる

じゃあ「信仰を捨てないように」と言ったんですけれども、その信仰というのはどういうものなのかというのをこの11章の初めから教えているわけです。
10章の36節のところでは信仰というのは「神様の御心を行うことだ」と言っているわけです。さらにですね、信仰とは「神の言葉を信じて、それに従って行動すること」だと言っているわけですね。そしてそれは、10章の39節にありますように「信じて、その信仰のゆえに命を保つものだ」と書いているわけです。
そのことをさらに詳しく説明して、11章の1節に「信仰は望んでいる事柄を 保証するものだ」というわけです。

3.信仰は望んでいる事柄を 保証するもの

 つまり信仰というのは、未来に起こる事、将来に起こることを信じ、それが確かに起こるということを保証し、あかしするものだということなのです。

今この手紙を受け取ろうとしている人は、今申しましたように苦難の中にいて、あるいはこの迫害の中にいて、命を落とすかもしれない、地上の人生をもうすぐ終わるかもしれないというような状況にあるわけですね。
しかし、信仰生活は、この地上の生活で終わるものではないと言うわけです。「現在、そしてその後に起こる将来のことを保証している」のが信仰なのだと11章1節で書くわけであります。また「信仰は、目に見えないものを確信させるものだ」とも 言っています。
これはどういう意味かというと、私たちは現在、日々いろんなことに直面して生きている。激しく迫害され、今この手紙を受け取ろうとしている人々、そしてクリスチャンとして苦労して生きている人たちにとってみれば、どうしてそんなことになってしまうのだろうと思ってしまうかもしれない。
しかし、今起こっていることに一喜一憂してはならない。なぜなら、私たちは信仰を持って生きている、ということは、現在私たちに起こっている数々の出来事の意味や、その背後にあることを、私たちは信仰によって知ることができるから、本当の意味を知ることができるからだというのですね。

そしてその例とし、このヘブル人の手紙の11章27節に、モーセの言葉が挙げられています。

モーセは「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。 目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです」と、その例を挙げているわけですね。
つまり信仰というのは、目に見えないものを確信して生きること、今、眼の前で起こっていることについては表面的には意味がわからなくとも、そこには必ず神様の意図が働いていることを、信仰をもって捉えることだというわけです。
このように信仰を持って神の言葉を信じ、神様に従って生きた旧約時代の人々の例が、このヘブル人への手紙の11章に大勢あげられているわけです。そして彼らは今生きている私たちクリスチャンに対して、信仰によって生きることは何よりも大切で、確かなことであるということを「あかし」しているわけです。

4.「信仰によって生きるのが一番確かなこと」のあかし

12章の1節の「こういうわけで」というのはそういうことなんですね。これをまとめて「こういうわけで」と言っているのですね。
11章には、多くの旧約時代のクリスチャン達の具体的な信仰のあかしが挙げられています。その証人たちが、現代に生きている者たち、また迫害の中に苦しんで生きているクリスチャンたちを、雲のように取り囲んでいるというのですね。

「雲のように」っていうのは登山をやる人は分かると思うのですが、高い山を歩いてるとガスの中に入ってしまい辺りが何も見えなくなる。この何も見えない状態になること、これが雲に取り囲まれているということですね。前を見ても何も見えない、もちろん後ろを見ても、上を見ても、下を見ても、何も見えない。

旧約聖書のクリスチャンの「あかし」に私たちは囲まれているんです。そして彼らはどんなことを「あかし」しているかと言うと、私たちは信仰によって生きるのが一番確かなことであるということです。
多くの人がいろんなことを言います。この日本の社会ではこういう風に生きた方がいい、ああいう風に生きた方がいいと言うけれども、「信仰によって生きるのが一番確かである」というのがここに書いてあることです。

5.神様は、私たち一人一人に違ったご計画をお持ちになり、用意しておられる。

では私たちは信仰によって生きていくにはどうしたらいいでしょうか。それがこの12章に書かれていることです。神様は、私たち一人一人に違ったご計画をお持ちになり、用意しておられる。そして私たちは進むべき信仰生活、人生をですね、私たちの前に置かれている競争に例えているわけです。ですから12章の1節の終わりに「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と書いているわけであります。
私たちの人生を、競争に例えるというのはこのヘブル人の手紙だけではなく、第一コリントの9章24節にも出ているのですね。第1コリントの9章24節のところではどういう風に書かれているかと言うと、「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただ一人だということを知っているでしょう。ですから、あなた方も、賞を受けられるように走りなさい」とされ、さらに26節では、「ですから私は、決勝点がどこかわからないような走り方をしてはいません。空を打つような拳闘もしてはいません」とパウロは言っています。

クリスチャン人生はそういうものだと、比喩をもって述べているわけです。ガラテヤ書2章2節でも、同じように書いてあります。「私が力を尽くして今、走っていること、またすでに走ったことが無駄にならない為でした」と書いてあります。つまり、走るという競争に人生を例えているわけであります。
さらにパウロはピリピリ人への手紙3章14節というところにも、「キリストイエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして、一心に走っているのです」と言っています。

こういうふうに、私たちのクリスチャン人生を競争に例えるということは聖書の中に何回も出てくるわけですね。これらの箇所から分かりますように、クリスチャン人生における「競走」は、他の人と競い合う競争ではないんですね。競い争うではなくて、競い走るということなのですね。私たちは決勝点を目指して走る、目標を目指して一心に走る、そういう競走をこの人生でしているわけです。

神様は、私たち一人一人に違う競走を与えて下さっています。お互いに競い合うわけではなくて私たちは目標を目指して、それぞれの与えられた、そのレースを走るということですね。
そして私たちは決勝点を目指して走るその決勝点とは、ヘブル人への手紙11章16節にありますように、私たちは、天の故郷を目指して走っているわけです。つまり天国を目指して走っています。天の故郷に憧れ、天の故郷を目指して走っているわけですね。

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