イエス・キリストをより良く知るために

「恵みによって一つとなる」エペソ書1章7~12節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

1.私たちが神様の前に安心して近づけるのは何故か?

パウロは1章7節で次のように言っています。
「このキリストにあって私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」。
私たちが神様の前に安心して近づけるのは何故か?それは私たちが贖われているから、そして私たちの罪が許されているから。だから私たちは安心してみ前に近づけるということが、ここで示されていることであります。罪が許されていなければ私たちはとても神の前に近づくことは出来ない。

①私たちの信じている神様は、義なる神様である。

私たちの信じている神様は聖なる方です。義なる神様です。よって罪を激しく憎まれる方であり、罪人に対して激しい怒りを下される方であります。神の怒りがどれくらい激しいか、そして神の裁きがいかに恐ろしいかが、聖書の中に示されていますけれども、特に思い出すのは出エジプト記、あるいは民数記、モーセに率いられるイスラエルの民が、荒野で滅ぼされてしまったという、その記事を思い出すんではないかなと思います。神様に対し不平を爆発させたそのイスラエルの民、あるいは指導者のモーセに対して不満をぶつけたイスラエルの民に対して、神は、ある時は火を降らせ、またある時は疫病によって民を打たれた、ということがそこに出てくることであります。またイスラエルの民がひとつになって、モーセに反逆するというそういう時がありました。その時には何と地が裂けて、人々を飲み尽くしてしまった、ということが民数記の中に記されてあります。
その記事を見る時に、私たちが感じるのは、神の裁きがいかに激しいか、いかに恐ろしいかということであります。私たちは皆、罪人です。この聖なる神の前に、本来は決して近づくことできない者です。神の裁きが恐ろしくて主の前でとても安心なんかできないはずです。

②キリストの血によるあがない。

ところが今、私たちは神のみ前で安らいでいる。今、このようにして神の前で礼拝をお捧げしている。安心して神様の前で過ごすことができるのはどうしてなのか?それは私たちが贖われたから、そして私たちの罪が許されたから、その神の恵みがあるからこそ、今、私たちはこのように神の前で安らかでいられる。その恵みを私たちは忘れてはいけないと思います。
ここにこのキリストにあって、私たちはその血による贖いを受けたということが出てまいります。あがないということはちょっと難しい言葉ですけれども、これはどういう意味かと言いますと、元々の意味は金銭を持って払い戻す、買い戻す、金銭を支払って買い戻す、というそうゆう意味の言葉であります。この時代、奴隷を自分のものにするためには、金銭を払って、そしてその奴隷を買い戻す、自分のものにするという、そういう習慣でした。それが必要でした。これが贖いという言葉の元々の意味であります。神様は、サタンと罪の支配によって、奴隷状態であった私達を、自分の子供としてあがなってくださった。ご自分の所有としてくださいました。でもその時には支払いが必要だった。どのような支払いを神様はして下さったんでしょうか?

神の独り子、キリストによって私たちをあがなってくださった。これがここに書いてあることの意味です。このキリストにあって、私たちはその血による贖いを受けた。このキリストにあって私たちはその血による贖いの恵みを受けたということが示されています。私たちを救い出すために神様は大変な犠牲を支払われたということを、自分の最も大切なひとり子を私たちにくださったということ、そのような犠牲によって初めて私たちが神のものにされたというその恵みを、決して忘れてはいけないわけであります。そしてそこで流されたキリストの血によって私たちのそむきの罪の赦しを受けたと、次に出てまいります。今までの聖書ですとここの訳は「罪の赦しを受けています」という訳だったと思います。新しい聖書では「そむきの罪の赦しを受けています」という訳になって、この罪が、神様に「背く」、そういう罪であるということがわかります。(新改訳聖書2017による)
私たちは神にひたすら背いてきた一人一人だったんではないでしょうか?創造主なる神に背を向けて、ひたすら自分勝手な道に向かって行った一人一人だったんではないでしょうか?
私たちはみんな背きの子供達でしたけれども、それに故に全く愛されるにふさわしくない、全く愛される資格のないそういうものだったんじゃないでしょうか?反逆の子だったんじゃないでしょうか?しかし神様は私たちを愛する、その大きな愛の故に、私たちを選んでくださった。そして私達を贖ってくださって、自分の子供としてくださった。そのためにご自分の一人子イエスキリストを、私たちのためにくださった。大変大きな代償がそこで支払われたわけであります。「これは神の豊かな恵みによることです」とここでパウロは言ってますけど、本当にこれはめぐみです。私たちは何の価値もない、ただ一方的に与えられた恵みであります。そのようにして、 神の子供にされたということを覚えるものでありたい。そしてこの恵みに感謝したいと思います。

③神の子供としてふさわしい責任

同時にそれは責任が伴うということでもあります。恵みによって神の子どもとされた私たちは、神の子供としての新しい生き方と、新しい責任が与えられたということであります。それまでは自分のために生きてきた私たちが、これからは神のために生きるものにされたということ、神の御心に沿って歩むものにされたという、そのような正しい生き方と、責任が与えられたということも覚えようではありませんか。
そしてその神の御心とは、私たちが聖なるものになるというこ、傷のないものになるということであるということを4節で私たちは学びました。私たちが選ばれたその目的は私たちがみ前に聖なるもの、傷のないものにされるためであるということが、そこには書かれてあった。その恵みの御業が、今も、私たちの中でなされているということ覚えて、私たちはさらに、私たちの心を知る神のみ前に差し出していきたいと思います。そのようにしてしっかりと許して頂いて、清めて頂いて、そして傷も癒していただいて、実の子供としてふさわしい者へとしていただこうではありませんか。

2.み心の「奥義」とは何か?

このように私たちは神様の恵みのゆえに選ばれて、神の子供になったんですけれども、でもこのめぐみは、この祝福は、ここで終わりではないということが続きを読んでいくとわかることであります。
8節から10節までを読んでみたいと思います。「この恵みを神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上に溢れさせ、御心の奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とはキリストにあって神があらかじめお立てになったみ旨に従い、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも、地にある物も、一切のものがキリストにあってひとつに集められることです」。

8節の言葉、この恵みを神は私たちの上に溢れさせてくださった。とても素晴らしい言葉だと思いますね。神様が私たちの上に恵みを溢れさせてくださった、溢れるぐらい、もったいないくらい注いでくださったことがここに出てきます。あなたの上に恵が注がれているということをぜひ覚えていただきたいと思います。その事が分かれば分かるほど私たちは本当に感謝です。
本当に神様に感謝したくなります。
けれども、この箇所を丁寧に選んでいきますとそのような恵みが知恵と思慮という言葉に繋がっていくということがわかります。恵みにあふれて、ただ喜ぶというだけではなく、気持ちが高ぶって高揚して感謝するというだけではなく、それがある知識や理解へとつながっていくということが分かる。そしてその知識や理解は神様が私たちに知らせてくださるみ心の奥義についての知識であり、理解であることが、わかります。
9節に「み心の奥義」という言葉が出てきます。奥義と訳されている言葉は、ギリシャ語のミステリオンっていう言葉なんですが、これはミステリーという英語の言葉の元々の言葉ですけれども、これは神様の隠されたを計画、秘められた計画を表している言葉であります。この8節9節10節を読んでいると、このみ心の奥義というものに対する神様の大きな期待というものがここに込められているということを感じます。それは「キリストにあって神が予めお立てになった御旨に従い」という節に出てくるんですけれども、キリストにあって神が予め立てておられたご計画も、ずっとずっと前からもそれは計画されていたことであり、でもその時が来るまではずっと隠されていた、秘められていたものであり、しかし時が満ちて実行に移されていくという、そういう決定的な瞬間がやってきたということが、ここに書かれてあることであります。
神様がこの時が来るのを、前からずっとずっと楽しみにしていた。そしてその時が来るまでそのことをずっと隠してこられた。でもその秘められた計画をここで、なんと私たちに知らせてくださる、救われて神の子どもとされた私たちに知らせてくださる、ということがここに書いてあることであります。
この奥義、「み心の奥義」とはいったい何のことを表しているんでしょうか?それは文脈の流れから「教会」であるということがわかります。つまり1章の最後のところでこの「み心の奥義」が明らかにされるのですが、それは「教会」であることが分ります。神様の歴史を貫くご計画というものを、パウロはまず語ったうえで、そしてその中にあって、「み心の奥義」が時満ちて実行に移されたと指摘しながら(9節,10節)、そのご計画を、今、まさに実行するのが「教会」であると、パウロは1章の最後(22節,23節)で語っています。

教会とは神様の全世界に広がっていく、あるいは宇宙にさえも広がっていく、壮大なみ業の中核をなしているそういう存在であるということを、私たちはこの箇所から覚えたいと思います。イエス様は十字架にかかられました。そして死なれて、復活をされ、その後、天に帰って行かれました。そしてその後、神様の救いの計画は新しい段階に入りました。
キリストはもはや今、目に見えるような形でこの地上には存在していません。それではどのようにして神様の救いの計画は進展していくんでしょうか?
教会を通して主の御業は進んでいきます。教会を通して救いの御業がなされてゆきます。キリストは今や、目に見える姿ではこの地上には存在しないけれども、しかし、あたかもそこにキリストがおられるかのように、そのような働きが教会を通してなされていく、そのような神様のご計画が、時が満ちて実行に移されたということが、ここに書いてある。そこに神様の教会に対する大きな期待があるということを、私たちは感じさせられるんではないでしょうか。

3.教会が今ここに立てられている意義

私達は是非この御言葉より覚えたいと思います。教会はただ救われた人たちが集まっているだけのそういう集団ではないですよね。クリスチャンたちの居場所が教会なのではなくて、もっと主体的、もっと積極的なものであります。主の期待を担って、主の御心を行うためにここに存在している。それが教会であります。
そしてこの教会を通して主の働きがなされていく、そしてその中に実は、私たち一人ひとりが加えられているんだということを、 私たちはこの御言葉から覚えようではありませんか。
そしてパウロはこの箇所で、やがて教会を通して実現されるみわざを書きとめております。それが10節の言葉の内容ということになります。
10節、「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にある物も一切のものが、キリストにあってひとつに集められる」ことです。
時が満ちて計画が実行に移されて天にあるものも、天にあるみつかいたち、そして先に召されていった私達の先輩達も、そして地にある私たちも、皆キリストにあってひとつに集められると描かれている。そして一つになって神様をほめたたえる。
ここに描かれているのは御国が完成する姿であります。その時の様子がここに描かれています。そこにあるのは完全な調和であります。たくさんの声が一つに束ねられて、一つにされたメロディー。そこに不協和音はない。そしてそこに主のみわざが完成する。そのような時がやってくるということが、ここに示されています。私たちの救いは、実は、やがてやってくるその日へ続いていく。そういう祝福であるということを、ぜひこの箇所から覚えたいと思います。
今はそういう状態ではないです。今の世の中はそういう状態ではないです。かつて神様がこの世界を作られた時は、完全な調和がそこに存在し、神様を中心とした一つの麗しい世界があった。でもその後、人間に罪が入ったことによって、この世界のあちこちに破れが生じ、人間関係が壊れ、神様との信頼関係も崩れ、被造物との関係も崩れ、壊れ、あらゆるところに崩壊現象が起こっている。そこから生じる痛み、傷、苦しみに、多くの人々が呻いている。それが今の世の中であると思います。その崩壊現象が未だに進行している、バラバラのようなそういう世の中になりつつあるんではないでしょうか。
しかし神様のお働きというのはそのような崩れかかった世界の中に、それと全く逆の世界を作り出すという、そういう働きであります。破れた穴をつくろい、壊れた関係を結び、そこに平和を作り出しているという、そういう働きです。そして最終的に神様は、この世界を一つにする。キリストにあって一つにされる。天にあるものも、地にあるものも、ともに集められてひとつになる。み国が完成する。その日がやってくるまで、教会の働きが続けられていくという導きの中に、私たちが置かれているわけであります。
その主のみわざが今この地上でなされています。すでに始まっている。どこでなされているんでしょうか?教会でなされている。教会こそはまさに、神様の歴史を貫く計画の中心であるということ、神様の働きの中核を担っているということを、私たちぜひ覚えたい。そしてその中に私たち一人ひとりが加えられているということを、ぜひ自覚するものでありたいと思います。

4.まとめ

教会は実は、み国がこの地上にあるということを表す、そういう場所だと思います。天にあるものも地にあるものも、一つに集められる、そのようなみ国がここにあるということを、人々に示す場所、それが教会であります。そこには、この世とは全く違う原理と価値観が生きています。この世の価値観というのは、争ったり、壊れたり、バラバラになっていく、そういう価値観だと思います。それがこのような現実だと思います。
しかし 、そこにはそれとは全く逆の、和解したり、結びあったり、一つになっていく、そういう生き方、原理、価値観がある。そのようなみ国が、もうすでにこの世の中にあるということを、この世の人々はどうやって知ることができるんでしょうか?そのようなみ国は雲のむこうに広がっているそういう遠い国ではなくて、今もうすでにこの地上に実存している、実際にそういうものをこの世の人たちはどうやって知ることができるんでしょうか?
教会を通して知ることができます。ですから教会が教会であるというところに、もうすでに存在している意義と価値があるということを、私たちには分かるんではないでしょうか。
ただ実際には教会の中も色々あります。まだまだ一つになりきれていないということが、現実かもしれません。時々教会の中でも不協和音が生じてしまうということが起こるんではないかと思います。一つになりたい、ひとつでありたいと願いながらも、なかなか一つになれない。そういう現実が私たちの中にあるんではないだろうかと思います。
それはどうして?
それは私達がまだ完全には清められていないからです。私たちが完全にされてないからです。そしてまだ私たちの傷が癒されていないから。だから私たちはなかなか一つになることができない。ですからそのために時々教会の中にも対立が生じてしまったり、不平不満が出てきてしまったり、残念ですが、そのことの故にに分裂したりということも起こることかと思います。それも私たちが知らなければならない事実かと思いますが、私たちはやはり4節の御言葉を思い出さなければいけません。
私たちが神に選ばれたのは、私たちが御前に聖なるものとされるため、傷のないものにされるためであった、ということを、パウロは4節で教えています。主のめぐみの技が、今も私たちの中でなされ続けているということ、私たちの罪を赦し、清め、傷を癒してくださるということ、そのようにして私たちは、個人としても清められてきますし全体としても、教会としても整えられて、神の前にやがて立つということを、ぜひ覚えたい。そのような恵みの技が、今も進展しているということをぜひ信じ、そのような主の御業に預かる者になりたいと思います。

ONE VOICE って歌があります。ひとつの声という意味の歌だと思いますけれども、一人で歌ってひとつの声なのではないですね。それは当たり前のことですけれども、これはみんなで歌ってたくさんの人で歌って、 ONE VOICE というそういう意味の歌であります。
そして確かに、私たちは時々礼拝の中でこのこと経験することがあるんじゃないかなと思います。みんなで歌ってます。バラバラの声なんです。ふぞろいの声なんですけれども、なぜか歌ってると、声があたかも一人の人の声であるかのように、一つの声であるかのように、聞こえる瞬間があるんじゃないかなと思うんですね。その時って私たち本当に感動します。それはきっと天国の感動なのかなと思いますね。この地上ではなかなか味わうことのできないような、天国で味わうことのできるような、そういう感情を私たちは地上でも時々味合わせていただけるんじゃないかなというふうに思います。決してひとつになれない私たちが、もし一つになれるとするならば、それはまさに恵みの御業です。キリストによって与えられる恵みによって、私たちは初めて一つになる、そんなめぐみの中に、私達が招かれているということをぜひ覚えたい。そして是非この教会が、み国を表す場所となりますように。人々がここに来た時に、この世にはないものがここにはあると感じて頂けるそのような場所となりますように。
私たちはキリストの恵みによって一つとなって、一つの声となることができるように、み国を表す、そのような教会としての成長を目指していきたいと思います。

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