イエス・キリストをより良く知るために

この絶大なる恵み、だから「応答の時間」ですよ!・・・エペソ章3章8~10節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

1.明確な自己認識

昨日は、子育てに取り組んでいるお父さんお母さんたちと、子育ての学びをしました。子供を育てる時に、子供達にアイデンティティが大事だよという、そういう学びだったんですね。アイデンティティっていうのは、自分は何者か?何のために自分は存在しているのか?何をするべきなのか?についての自己理解のことですね。それをアイデンティティーと言いますけれども、この自己認識が、神様との関係の中で築かれていくことの大切さということについて、共に確認しあいました。それがなぜ、大切かというと、それは絶対評価になるからですね。子供達が自分は神様によって作られている、神様によって生かされている、神様に愛されているということを、しっかり小さい時から、そういう理解を養いながら育ってゆく時に、それは絶対評価ですね、もう、それがあれば本当に何があっても乗り越えていけるという安定した人格の基盤というものを築き上げていくことができます。ですから、ぜひそういうものを子供たちの中に育てていこうということで、お祈りしあったわけですけれども、それがないとですね、非常に不安定になりますね。自分の評価が絶対的ではないので、多分、人からどう言われるか?どういう風に見られているか?人の言葉に振り回されたり、非常に不安定な状態で成長していくようになりますね。
ですから子供達が、神様との関係の中で、絶対的な評価を、しっかりといただいて、そういう確かな基盤の中に、「自分はこういう自分である」ということを思いながら成長してほしいということを、ともに覚え会うことができました。でもこれは子供だけじゃなくて、私たち一人ひとりにとって、大事な理解であります。自分は何者であるかということについて、私たちも聖書を通して神様との関係の中で豊かに養われていかなければいけないと思います。

その点に関してパウロは非常にしっかりとした明確な自己理解を持っていたということがわかります。先週学んだところでしたけれども、3章1節でパウロは、こういう風に自分の事を言ってますね。
私パウロは、キリスト・イエスの囚人となっています」。「私パウロは」と、ここに非常に気持ちがこもってますね。自己主張してるわけですけれども、でも「私パウロは完全にキリストに捕らえられた」というのは、実はイエス様のことを誇ってるわけですが、自分はそういうものなんだというように明確な、はっきりとした自己認識を持ってるんですね。これがパウロの強さであります。さらに2節を見ますと、
あなた方のために私に与えられた神のめぐみの務め」という言葉が出てきていて、パウロは神様からとても大切な勤めが与えられているというそういう理解を持っていますね。「神の恵みの勤めが与えられている」、これはもう神様から与えられた務めだとはっきりとした認識があるから、彼は迷いがないわけですね。自分が何をするべきか分かっている、これがパウロの強さであります。そして今日読んでいただいた、7節のところでもこういう風に語っております。
私は神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました」。
このようにパウロは神の力の働きによって、私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕えるものになったと、神様の力が働いた結果として、神の恵みの賜物が私に与えられた結果として、私はこの福音に仕える者になったと思う、本当にはっきりしてますね。神様との関係の中で自分自身のことがよくわかっている。そして自分が今、何をするべきかということをよく理解している、そういうパウロの姿を私たちはここで覚えることができます。かってのパウロが、サウロと呼ばれていたときは、彼は熱烈なユダヤ教徒として、キリスト教徒を迫害する者でした。 キリスト教徒と呼ばれる人たちが大嫌いで、ステパノの処刑にもその一端を担っていたし、キリストの弟子たちを捕らえて殺害してしまいたいと、息巻いているようなそういう人物でありました。ですから救われる価値がないと言うか、全くその救いに値しないような、そんな人物だったのに、しかしそんなパウロにも、神様の恵みが及びました。キリストと出会いました。そして目が開かれて、彼は全く変えられて、神様の愛に捉えられて、そして特別な使命が与えられた、そのような主のご計画の中で、パウロが用いられ、その計画の中に加えられたということを私たちは理解することができるわけであります。そんなパウロの姿を覚えるたびに、私たちも思いますね。果たして私たちはこのようなパウロのようなしっかりとした自己認識というものを持っているでしょうか?
私たちは、自分のことをよく知っているでしょうか?神様との関係の中で、自分自身がよく捉えられているでしょうか?自分は何者であるのかということが、神様との関係の中でよく理解されているでしょうか?そして自分は、今キリスト者として何をするべきなのか?そういうことが神様との関係の中で自覚されているでしょうか?
そういうことを、私たちはパウロの姿を通して考えさせられるんではないかと思います。私たちにも神の恵みが及んだ結果として、神様は、わたしたちに、何か特別な務めを与えて下さったんではないでしょうか。今日はパウロの姿、パウロに与えられためぐみの務めを覚えることとして、その務めが、私たちにも与えられているということを、みことばから、共に覚えあっていきたいという風に思います。今日の箇所を通して、パウロには三つの務めが与えられていたということがわかります。その事を確認していきたいと思います。

2.応答としての使命

 

一番目の務めは、「福音を異邦人に伝える」ということであります。

8節の、み言葉をお読みいたします。
全ての聖徒達のうちで最も小さな私に、この、恵みが与えられたのは、キリストの計り知れない富を福音として、異邦人に伝えるためであり・・・」。
ここまでにしておきますけれども、全ての聖徒達のうちで、最も小さな私、かつてキリストを迫害していたような、こんな私に、神の恵みが与えられたのは何のためだったのか?それはキリストは、計り知れない富を福音として異邦人に述べ伝える為だったと、そういうふうに告白している言葉であります。つまり異邦人に伝えるという大切な務めが、パウロに委ねられたということであります。でもここの箇所を丁寧に読むとですね、パウロはキリストの計り知れない富を福音として異邦人に述べ伝えるという言い方をしています。福音というものがキリストの計り知れない富なんだということを、ここで述べていることがわかります。つまり福音の正当性、正しさということよりも、その中身の豊かさ、「富」のような豊かさが、ここで強調されているということが分かると思います。この「計り知れない富」という風に書いてありますけれども、本当に計り知れない、これは人間の理解をはるかに超えてるって言う意味ですね。とても人間の頭では理解することができないくらいの豊かな富なんだよと、福音というのは、そういう中身を伴っているものなんだよということが、ここで伝えられている。
実はパウロはこの豊かさ福音の持つ豊かさについて、一章、二章で、ずうっと語ってきました。私たちも、今まで礼拝の中でそれを、ひとつひとつ学んできたんですね。例えばパウロはこんなメッセージをしていました。
神が世界の基をすえられる前から、私たちをキリストにあって選ばれた・・・」この辺からもう、私たちの理解をはるかに超えてるわけですけれども、この世界が作られる、創造される、その以前から神様はもう、私達を選んでくれていたということが語られていました。あるいは私たちが、キリストによって、神の子供とされたということ、キリストの血の贖いによって私たちの罪が赦されたということ、その結果として、み国を受け継ぐ者にされたということ、あるいは聖霊が与えられて、そのみ国を受け継ぐ保証としての聖霊が、与えられたということ、さらに私たちは、恵みのうちに信仰によって救われたというようなこともありました。そして私たちが良い行いをするための作品であるというようなメッセージもありました。さらに異邦人にも多くの恵みが及んで、そしてユダヤ人と異邦人の間の隔ての壁が、打ち壊されて、もはや、あなたがたも、他国人ではない、寄留者ではない、同じ神の国の民である、神の家族であるという、そういうメッセージも語られてきた。もう、そのひとつひとつが本当にありがたいメッセージですね。
でもこれ全部振り返って総合的に見る時に、福音は何て豊なんだろう、何と豊かな富が私たち与えられたんだろうということが、分かるんじゃないでしょうか。もう、圧倒されるくらいの豊かさが、その福音の中にあるということが分かると思います。

こんな素晴らしい富を頂いて、こんな素晴らしい恵みを自分のものとされて、私たちは、じっとしていることはできないんじゃないでしょうか?それを自分のものだけにしておくことなんてもったいない、そうじゃないでしょうか。もう、本当に素晴らしい恵みをたくさん与えられたら、私たちはもう、いろんな人に分けて歩きたい、そういう気持ちになるんじゃないかなという風に思うんですね。特にこれが、異邦人のための非常に大事なメッセージである、ということを知らされて、どうしてこれを、異邦人に知らせないわけにいかない、どうしても伝えたいという風に思うのは、当然のことだったんじゃないかと思いますね。
皆さん考えてみてください。私たちの元にも、この福音が届けられました。そしてその福音は実に豊かな内容なんです。本当にこれ、計り知れないくらいの富なんですね。豊かな富なんです。そんな素晴らしい富のような福音が、与えられているという事を、皆さんどれだけ自覚しているでしょうか?本当にすごい富が与えられたということを、皆さんどれだけ覚えているでしょうか?それがわかればわかるほど、私たちは、この富を誰かに伝えたい、そういう気持ちにさせられていくんではないでしょうか?この素晴らしさを知ってほしい、自分だけで知ってるのはもったいない、このすばらしさを、みんなに知ってもらいたい、そう思うんじゃないでしょうか?そのような感動を頂いて、パウロも異邦人の使徒にされていたということを、私たちは覚えたいと思います。
福音というのは実は、伝えられるためにあるんです。そして伝えられるために、皆さんの所に届けられました。その福音を皆さんのところで止めてしまってはいけないんです。皆さんに伝えられた福音を、どうしてるでしょうか?自分のところでストップさせてしまってるということはないでしょうか。ダムのように、水を自分の所で押さえて、貯めてしまってるって事はないでしょうか。是非、私たちは放流したいと思います。ダムの扉を開いて、豊かなこの水の流れを、人々に流していきたいという風に思います。私たちがめぐみを、自分で独り占めしてしまうことがないように、まだ、この救いの恵みに与かっていない一人ひとりにに、キリストの計り知れない富が伝わっていくように、是非述べ伝える者になろうではありませんか。
私たちも、パウロも同じような勤めが与えられているということを自覚して、まだ神様の恵みを知らない人々に、この豊かな、計り知れない富を伝えるものにさせていただきたいという風に思います。これが第一の務めであります。

二番目の務めは、奥義の実現について全ての人に明らかにするという勤めであります。

今度は9節のみ言葉に注目をしたいと思います。
「また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、全ての人に明らかにするためです。」
パウロは語っております。自分のところに、聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、2番目としては万物を創造した神のうちに、世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、全ての人に明らかにするためであったと、このようにパウロは告白しているという言葉であります。万物を創造した神様のうちに、世よ隠されていた奥義の実現が、どのようなものであるか、それを全ての人に明らかにするということが、自分の務めであるという風に告白していますけれども、この「奥義の実現」とは、ちょっと難しい言葉かもしれませんが、そのことについても実は、パウロは語ってきております。特に2章の中で語ってきました。
それは遠くにいた異邦人たちにも、神様の恵みが及んで、かつて離れていたその、異邦人達にも救いの恵みが及んで、神様に近いものにされた、そしてユダヤ人と異邦人の隔ての壁が壊されて、そして今は新しい一人の人に作り変えられた。かつては他国人であったけれども、今は同じ神の国の民であり、神の家族になったんだよということを、2章で話してきました。つまり教会が誕生したということを、2章で、パウロは、メッセージとして語ってきたわけであります。この教会の誕生こそは、神様のうちに、長い間隠されていた奥義の実現であります。その奥義の実現が、どのようなものであるのかを、全ての人、つまりユダヤ人、異邦人に関係なく、全ての人、あるいは救われた人、救われていない人、その全ての人に明らかにするのが自分の務めであると、そのようにパウロはここで語っているわけであります。
注目したいのは、この万物を創造した神という言葉ですけれども、パウロはここで、神様が創造主なる神様であるということ、天地万物を作られたつくりぬしなる神様であるということを、意識しているということが分かる。そしてその神様が、今この時より、新しい創造のみわざを始められたということが、この言葉を通してわかる言葉であります。それは1章の10節で、パウロが既に語っていたことでした。1章10節で、このような言葉を語っていたんですね。
「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも、地にあるものも、一切のものが、キリストにあって一つに集められることです」。
そういう風に語っていました。時がついに満ちた神様のご計画の中にあって、来るべき時がついにやって来た、そしてこの時から神様の新しい創造のみわざが始まった。かつて天地万物を作られた、創造主なる神様が、今、新しい創造を始められた。その決定的瞬間のことを、ここに書いてあるんです。そしてその創造というのは、神によって作られた、バラバラのこの世界が、キリストにあって一つに集められる。そのような新しい創造のみわざであるということを、私たちは、この聖書の箇所から理解することができます。かつては、見事に統一されていた素晴らしい世界が神様によって作られた。その世界が、その後、人間の罪のゆえに、この世界はバラバラになってしまいました。いたるところに、やぶれが生じました。人間も傷つけあったり、取っ組みあったり、いがみ合ったりして、いたるところで崩壊現象が起こっている、そういう世の中ではないでしょうか。そういう中に、私たちも生かされていて、いろんな悩み、うめきを味わうことがあります。本当にバラバラになってしまったこの世の中、人々でありますけれども、しかしそのような世の中にあって神様は、新しい創造のみ技を始められた。バラバラになったひとつひとつのものを、もう一度キリストにあって 集めてくださる、そういうみ技が、ついに時満ちて始まったということを、パウロはここで述べている。そのようにして誕生したのが教会であるということを、私たちはこの聖書の箇所から覚えたいという風に思います。
教会こそはまさに、神様のみこころの実現であります。長い間、神様のうちに隠されていた奥義の実現であります。それがどのようにして実現していくのかを、明らかにする、それがパウロの使命であると、ここで語っていることを私たち心にとめたいと思います。そのみこころの実現が、すべての人に示されなければいけない。「全ての人」と書いてありますから、未信者の人はもちろんですけれども、私たちにも示されなければいけない。私たちにも明らかにされなければいけないということであります。
教会がそこにあるということが、どれだけ大きな祝福であるかということを、私たちが、まず知っているでしょうか?本当に私たち、そのことを知ってるでしょうか?教会は単なるクリスチャンの集まりなのではなくて、神様の御心が今、地上で実現しているということを証しする、そういう存在であります。バラバラになったこの世界を、神様は、もう一度キリストにあって集めておられる、もう一度、ひとつにしようとしておられる、そういう働きが、今この地上でなされているということを証しするのが、教会の務めです。その働きが、今、進展中です。そのことをこの世に向かって発信するという、そういう大切な役割を教会が担っているということを、私たちは今日自覚したいと思います。そしてこのニュースは、全ての人が知らなければいけないニュースであります。私たちのこの教会が立っているということは、少なくてもこの地域の人々にとって、非常に大きな祝福であるはずだと思いますね。そして私たちはこの地域の人々、少なくてもこの辺の人々の魂に対する責任を負ってるんじゃないかなという風に思います。この地域に住んでいる人たちみんなに、ここに教会があることを知ってもらう必要があると思います。ここに教会があるということを、みんなが本当に知らなければいけないですね。そして私たちは、それを伝えなければいけない。それだけではなくて、神様の素晴らしい計画が、この地上において今、進展中なんですよということを、私たちは宣べ伝えていかなければいけない。このバラバラになって、本当に崩壊現象が進んで、傷ついている、希望がないように見えるこの世の中にあって、神様は生きている、そして神様は間違いなくこの地上でみわざをなしている、新しい創造のみ業が、今、始まっている、進展中なんだということを、教会は伝えていかなければいけないと思いますね。その中に、私たち一人ひとりが加えられているということを、私たちは喜びをもって、この地域の人々にお伝えしていく務めが与えられているんではないでしょうか。こんな大切な、こんな素晴らしいめぐみを頂いて、私たちはそれを自分だけにとどめおくべきではないんですね。
これは本当に広くこの地域の人々にお伝えできるように、教会として、そのような役割を担っていくことができるように、私たちが心を合わせて祈っていく必要があるんではないでしょうか。そのような務めに励んで いく者でありたいという風に思います。

3番目、天上にある支配と権威に対して教会を通して、神の極めて豊かな知恵が知らされるという務め。

それが10節に記されてあることですね。10節と11節のみ言葉を味わいたいと思います。
「これは今、天上にある支配と権威に教会を通して、神の極めて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。」
と、このようにパウロは語っています。パウロが福音に仕える者にされたもう一つの理由は、天上にある支配と権威に、教会を通して神の極めて豊かな知恵が知らされるためであったという風にパウロはここで告白をしております。神の極めて豊かな知恵、それは一体どのような知恵なんでしょうか?神の極めて豊かな知恵ですから、それは本当にすごい内容の知恵なんだという風に思います。ここで使われているギリシャ語の本文の聖書を読みますと、ギリシャ語の一つの言葉だけです。そしてここに使われているギリシャ語の言葉は、聖書の他のどこにも出てこない特別な言葉が使われております。この言葉をどう訳したらいいのか、実はこれは非常に訳者泣かせの言葉でもあります。あえて訳すならば、多種多様という、そういう訳が可能かなという風に思います。とにかくいろんな要素が含まれているという意味の、そういう言葉が使われているということがわかります。ですから共同訳聖書という別の訳の聖書がありますけれども、その聖書を読みますと、ここでは、「いろいろの働きをする神の知恵」という風に訳されてますね。「色々」という言葉が使われております。では新改訳聖書の前の版の第3版の聖書を読むと、ここは、「神の豊かな知恵」となっていて極めてって言葉がないんですね。「豊かな知恵」という訳では、ちょっと弱い、ここで示されている意味を十分に伝えきれていないということで、新しい訳では、ここが、「神極めて豊かな知恵」という風に訳が変わりました。「極めて」という言葉が追加されているということがわかります。いずれにせよ、とにかくですね素晴らしい神様の豊かな知恵が込められているという、そういう言葉です。そしてそれは本当にいろんなものが、多種多様なものが、含まれているそういう豊かさであるという意味の言葉がここで使われております。皆さんはパッチワークの作品を見たことがあると思います。あのパッチワークの作品を見るとですね、本当にいろんな綺麗なバラバラの端切れ、みんな違いますしね、模様も全然違うんですけれども、そういう別々の端切れが、ひとつにつなげ合わされていくことによって、全体としてとても綺麗な、何とも言えない味わいの作品になっているということが分かると思いますね。アメリカの建国の時代に、貧しい移民たちが、この布の切れ端を捨てないで取っておいて、それを繋いで、そしてブランケットを作ったり、あるいはテーブルクロスを作ったりしながら、そういう風にしてアメリカの歴史の中でパッチワークが発展していったということを聞いております。もう、一つ一つはみんな違います。でもそれが全部繋ぎ合わされていると本当に素晴らしい綺麗な作品に仕上がっていくということですね 。
ここで用いられている言葉も、そういう意味の言葉であります。神の極めて豊かな知恵、つまりパッチワークのような知恵と言ったらわかりやすいでしょうか。そしてこの姿は、そのまま教会の姿であるということが言えます。教会は実に多種多様な人々の集まりであります。性格もみんな違いますし、社会的立場も違います。教会によっては、いろんな国籍の人が集まっている教会もありますし、とにかくいろんな人がいるんですね。いろんな人たちが集まっているのが教会です。それらの人々が、キリストによって一つにされている、それが教会の姿であります。そしてその姿を通して、実は神様の極めて豊かな知恵が表されているということを私たちは覚えたいという風に思います。ときどき教会の中にも性格が合わない人がいるという場合があると思います。気が合わないとかですね、苦手だなと思う人も時々いるかもしれません。そのほうがかえっていいと思いますね。そのほうが神様の極めて豊かな知恵が現わされるからであります。壊れた人間関係の修復ほど大変なことはないです。難しくなってしまった人間関係もなかなか元には戻らない。そして人間の力には限界がある。でもその中にあって私たちが、もしキリストを仰ぎ、キリストを信じるなら、変わっていきます。キリストによってのみ、私たちはひとつにされていくんではないでしょうか。そのような姿を通して、神様の極めて豊かな知恵が表されていくということを、私たちは覚えたいという風に思います。
みなさん、神様の知恵は極めて豊かであるということを覚えようではありませんか。それは人間の力や知恵では到底到達することはできないような、そういう知恵であります。バラバラであったはずの私たちが、ひとつになるなどということは、本来ありえないことです。あり得るとすればそれは、まさに神業です。神様の力が及んだ結果であります。そんな神の極めて豊かな知恵が、私たち一人ひとり、そして教会に豊かに与えられているということを、私たちは覚えたいと思います。

しかもその豊かな知恵は、教会を通して知らされると、ここで記されています。そして「天上にある支配と権威に知らされる」と、パウロはここに語っております。
これはどういう意味でしょうか?このように考えれば、わかりやすいかなと思います。
今この地上で、神様の作られた壮大なドラマが上演中であります。ドラマを演じているのは私たち一人ひとりです。私たちの人生という舞台の上で、あるいは人類の歴史というもっと大きな舞台の上で、今、私たち一人ひとりがドラマを演じている。お芝居を演じている。このお芝居のシナリオを書いておられるのは神様ご自身です。そして神様が、総監督です。
今私たちは、神様のご計画の中に加えられて、神様が与えられているその導きの中に従って、ドラマを演じている。いったいこのドラマを、誰が見ているんでしょうか?
天が見ている、天上にある支配と権威が見ている、私たちにとって天使と言ったら分かりやすいかもしれません。天使たちがもしかしたら見ているかもしれない。あるいは先に天に召されていた、私たちの信仰の先輩たちが今見てるかもしれない。
この地上にあって今、私たちがどんなドラマを演じているのか?それはもう壮大なドラマですね。パウロの頭の中はどうなっちゃってるんだろうかと思うくらい、パウロの頭の中で、すごい想像力が展開してるということが分かる。そして、このようなみ言葉を味わう時に、圧倒されるような気持ちになります。
神様の大切な計画の中に、私達が 加えられたということを感謝したい。そして今この地上において、私に与えられた人生の中で、神様が素晴らしいドラマを築き上げてくださっていること、その一つ一つの部分に私たちが組み込まれて、天に向かってこの神様の素晴らしさが表されているということを、是非、覚えるものでありたいと思います。

3.まとめ

私達は今日、教会についての認識を、少し改める必要があるかなと思います。なぜ私たちの元に福音が届けられたんでしょうか?そしてなぜ私たちは恵みを頂いて神の子供とされたんでしょうか?そしてなぜ、このように教会いに加わる者にされたんでしょうか?
それは私たちに、神様から大切な務めが与えられるためであったということです。
一つは、異邦人にこの福音を伝えるため、神様をまだ知らない人達に、この豊かな計り知れない富を伝えるため、そういう務めが私たちに与えられています。
二番目に、神の偉大な計画が、今ここで展開しているということを、全ての人に明らかにするという務めです。そのような務めがこの教会に与えられています。
そして最後に神の極めて豊かな知恵を、教会を通して、天上に知らしめるという、そういう務めが与えられているということを、私たちは覚えたいと思います。

まず私たちは福音を伝えましょう。また神様のことを知らない人々に、私たちの所に届けられた豊かな福音を伝えるものでありたいと思います。
そして次に私たちは教会のメンバーにしていただきたいと思います。この教会を通して神様の素晴らしい、み心が実現しているということを、私たちが教会のメンバーになることを通して証ししていきたいと思います。
そして3番目に、私たちは教会として成長していきたいと思います。それぞれ、バラバラな人たち一人ひとりかもしれません。それぞれ違う一人ひとりかもしれません。でもここで、互いに結びあわされたり、組み合わされたりして、一つにされていくことを通して、神様の豊かな知恵が表されていく、そのような姿を天に示していこうではありませんか。そんな大切な勤めに、私たちは励むものでありたいと思います。
・・・・・・・
お祈りをしたいと思います。愛する神様。私たちの元にもキリストの計り知れない富が、福音として届けられたことを覚えて感謝します。その福音が、さらに私たちを通して豊かになりますように。さらに次の人々へ、家族へ、友人へ、同僚へ、地域の人々へと、この豊かな福音が届けられていきますように。そのために私たちを強め、励まし、教えてくださいますように、お願いいたします。また教会としても成長していくことができるように力を与えてください。み言葉を心から感謝し、尊き主・イエス・キリストのみ名によってお祈りをいたします。

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