イエス・キリストをより良く知るために

あなたがたの収穫を増すための法則

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

【1】序

レビ記の19章の箇所から「あなた方の収穫を増すため」という題で説教をお語りしたいと思います。19章の御言葉を順番に学んでいるところですが、19章の御言葉は1節2節の言葉から始まっております。2節で、「あなた方は聖なるものでなければならない。あなた方の神、主である私が聖だからである」、この言葉から出発をしておりました。私たちは神様の前で聖なるものとなることが求められている。その理由は神様が聖なる方であるからなんだということがここで教えられております。

 

「神様が聖だから私たちも聖にならなければならない」というのは、ずいぶん神様の勝手ではないか、神様の都合を私たちに押し付けているんではないかと、もしかすると感じる方もおられるかなと思います。たとえ神が聖であったとしても、私は俗でありたいという、何かそういう気持ちというのがもしかしたら私たちの中にあるのかもしれないし、あるいはとてもとても聖なるものにはなれませんという諦めに似た感情が私たちの中に潜んでいることもあるのかなという風に思います。

 

ですからこの言葉をなんとなく積極的に受け止めきれない、何かそういう傾向が私たちの中にもしかしたらあるのかなということ思うんです。

でもこれは神様が私たちを聖なるものにしてくださるという、恵みの宣言であるということをぜひ覚えたいという風に思います。そして何よりも神様が私達と親しく、お交わりがしたいと願っているという神のみこころの表明であるということも覚えたいというに思うんですね。

そのために私たちは神様から選ばれ、召し出され、福音の恵みが与えられ、神の子供とされたということであります。これは本当に驚くべきことではないでしょうか。どうか私たちが決して自分の力で、強いものになろうと頑張ったりしないで、そして神様の恵みを拒んで諦めてしまうことがないように、主の御手の中で御言葉によって、是非聖なるものに成らせていただきたいというふうに思います。

 

さて「聖なる者の聖い歩み」っていったいどんな意味なんだろうっていうことで、ずっと学んできてるんですけれども、今まで学んできた中で、大きく三つの事を今まで学んできたかなという風に思います。

 

1番目に「聖なるあゆみ」とは、私たちの具体的な人間関係の中に表される生き方であるということですね。それは決して観念的精神的なことではなくて、具体的な私たちの日常の人間関係の歩みの中で表されていくものであるということが一番。

 

そして2番目にそれは、聖なる神様の前で、整えられて初めて私たちの人間関係が整えられていくっていうこと、神様との関係の祝福が人間関係の祝福に及んでいくっていうことが2番目。

 そして3番目にそこには、正しさだけではなくて、愛があるって言うことを、特に前回教えられたと思います。前回は18節の「あなたの隣人を、自分自身のように愛しなさい」っていうこの御言葉に注目しました。聖さの中に、正しさだけではなくて愛があるって言うことを私たち教えられました。そして主に信頼することによって私たちは神を愛する者に変えられ、人を愛する者に変えられていく、そのようにして神の聖さを表していくものに変えられていくんだ、そういうこと今まで学んできたことだったと思います。

【2】異質な2つのものを交わらせてはいけない

今日はその続きの内容ということになりますが、今日の箇所においても非常に興味深い掟がいくつか教えられております。

今日の箇所を読み進めていきたいと思いますが、19節の言葉に注目したいと思います。 19節、

 

あなたがたは、わたしの掟を守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に2種類の種をまいてはならない。またあなたは2種類の糸で織った布地の衣服を身につけてはならない。

 

ここで最初に「私の掟を守らなければならない」とあらかじめ強調しておいた上で、三つのことを、神様は私たちに命じてくださった、イスラエルの民に命じてくださった。

 

第一番目に、イスラエルの民の所有する家畜を、種類の異なった別の家畜と交わらせてはいけないということ、二番目に、二種類の種を畑に撒いてはいけないということ、三番目に、二種類の糸で織った布地の衣服を身につけてはならないということ。

 

以上三つのことがここで教えられております。家畜、種、糸と、それぞれ違いますけれども、全体として見る時に、異なった二つのものを交わらせてはいけない、一つにしてはいけないということが、ここで教えられているということが分かると思います。

 

現代は技術が進歩しておりますので、種類の違う家畜を交配させて、より強い家畜を作り出すっていうそういう試みがなされることがあるようです。あるいは同じ畑に、種を二つまいても特に問題になることないかもしれません。2種類の糸で布地を折っても、さほど大きな問題になることは、あんまりないかもしれない。

 

ただ当時のイスラエルにとって、異なった二つのもので一つのものを作り出そうとする時に、家畜であれ畑であれ、衣類であれ、素材を傷めてしまう危険がありました。

ですからこの命令はとても実際的なアドバイスであったというふうに、まず考えられます。

 

これはただ単に、生活上のアドバイスということだけではなくて、霊的な意味、宗教的な意味が込められていました。このレビ記の掟と、似たような掟が、申命記の中にも出てきます。

申命記22章9節に同じような御言葉があるんですけれども、申命記の22章の9節の御言葉をお読みしたいと思います。

 

葡萄畑に2種類の種をまいてはならない。あなたが蒔いた種と、ブドウ畑の収穫全体とが、聖なるものとして取り分けられてしまうことのないように。

 

ぶどう畑に2種類の種をまいてはならない。その理由は何でしょうか?それは彼らが蒔いた種と、ブドウ畑の収穫全体とが、聖なるものとして取り分けられてしまうことのないためであると、その理由と解説がここに記されてあります。

 

ここで「聖なるものとして取り分けられてしまうことのないために」と訳されている言葉は、その前の訳の聖書では、「汚れたものとならないために」という訳だったんですね。

 

ですから、その訳がちょっと変わったんですけども、いずれにせよこのブドウ畑に、2種類の種を撒くという、私たちの目には農作業の話なのかなと見えることが、神様の目から見るならば、それは聖と俗に関することであるということが分かるんですね。

 

つまり異なった種をブドウ畑に撒く事によって、聖なるものに俗なるものが混じってしまう、そしてそれが汚されてしまう。しかもそれがあたかも聖なるものとして取り上げられることがないようにと、ここで警告されているということが分かるわけであります。

 

レビ記に戻りますけれども、二つの種であったり、2種類の家畜の交配であったり、2種類の糸であったり、 二つの異質なものを交わらせてはいけないという、この掟を通して、

神様は「聖なるものと、俗なるものの混合を禁止している」ということに、気づかされるわけであります。そういう大切なこと、霊的なことを、極めて日常的な事を通して表し、イスラエルのために教えてくださったということがわかります。

 

新約聖書ではイエスキリストも、マタイの福音書6章24節で、

誰でもふたりの主人に仕えることはできません。

という風に教えてます。誰でもふたりの主人に仕えることはできません。

その理由は、一方を憎んで、他方を愛することになるか、一方を重んじて、他方を軽んじることになるか、そのどちらかになってしまうからです。そう教えられている。

 

神と富の両方に同時に仕えることはできない、それがイエス様の教えであります。

またパウロも、第2コリントの6章14節で、

不信者と釣り合わないくびきを共にしてはいけません。

ということを教えています。

正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の関わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。

と、その箇所で続けていますけれども、聖書全体を通して私たちが繰り返し教えられることは、神様が私たちに求めておられる信仰は、あれもこれもという信仰ではないということですね。

あれもいい、これもいい、どれも良い、そういう信仰ではないですね。あれかこれか、どちらかという、そういう信仰を神様は私たちに求めておられるということを、聖書全体を通して私たちは教えられるんではないでしょうか。神も富も両方求めることはできないんですね。

この世ではなく、神を選択しなさい。神を第一としなさい。そのことが私たちに求められている。どっちつかずの曖昧な中途半端な、そういうどっちに仕えているのかわからないような、そういう曖昧な信仰ではなくて、神のみを主として仕えていく、そのような信仰を主が私たちに期待しているということを忘れるべきではありません。

常識的に考えてみてですね、二人の主人に仕える事って出来ないと思うんですね。やっぱり主人は一人だけではないでしょうか。二人の主人がもしいたとしたら、その忠誠が分かれてしまいますし、自分が分裂してしまうかもしれませんし、どちらにも忠実に支えようと思うと、結果的にどちらにも忠実に仕えることができない、曖昧になってしまうんではないでしょうか。ですから主人は二人はいらないですね。主人は一人だけです。

 

そしてこの聖書の箇所、今までずっと読み進めてきた聖書の箇所の中で、神様が繰り返し繰り返しイスラエルの民に教えてこられたことは、「私は主である」って言葉でしたね。

何度も何度も繰り返されるんです。私は主だよ、あなたの主だよ、私が主だよ、私に仕えなさい、そのことをずーと繰り返し、イスラエルの民を教えられてきた。そして私たちにも、そのように教えて下さっているんではないでしょうか。

私たちの主人は誰なんでしょうか。この方を第一として仕えていく信仰でありたいと思います。

【3】あなた方の収穫を増すために

23節からの箇所も非常に興味深い掟が教えられているなという風に思いました。23節24節25節を読んでみたいと思います。

 

あなた方が、かの地に入り、どんな果樹を植えても、その実はまだ禁断のものと見做さなければならない。3年の間、それはあなた方にとって禁断のものであり、食べてはならない。4年目に、その実は全て聖なるものとなり、主への賛美の捧げものとなる。5年目にあなたがたはその実を食べることができる。あなたがたの収穫を増すためである。私はあなた方の神、主である

 

という風に教えられております。非常に興味深い掟たなと思いますね。「あなたがたがかの地に入り」と、やがてイスラエルの民は約束の地に入ります。今は 旅を続けている途中ですね。エジプトから脱出をして、そして約束の地を目指して旅をしている途中ですが、やがて彼らは約束の地、カナンの地に入りますね。入植をします。その時のことが想定されています。その上で、あらかじめこのことが教えられていたということが分かるんです。やがてその地に入った時に、彼らはきっと農業を営むでしょう。そしてそこに果樹園を作るでしょう。果樹を植えるでしょう。そうすると1年経つと実がなるでしょう。

でもたとえ実がなったとしても、最初の3年間はその実は禁断のものである。禁断のものとみなさなければならない、そしてそれは食べてはならない。そういう風に命じられているんですよね。

そしてその「禁断のもの」って訳されている言葉は、これは割礼を受けていない者、無割礼の者っていう、そういう意味があります。

割礼というのは、神に選ばれて神の民とされたイスラエルに特別に与えられた祝福の印です。それが割礼です。それは聖なる者なんだっていうことを表しています。

その一方で、割礼を受けてない無割礼な者は、聖なる者ではなくて俗なるもののしるしでありました。

つまりここで教えていることは、果樹園の作り方について教えているわけではなくて、その農業のやり方について教えているわけではなくて、そういうことを通して実に霊的、宗教的な事柄がここで教えられているということに私たちが気づかされるわけであります。

 

そしてこの箇所を読んでいると、イスラエルの民は、この収穫の恵みにあずかるのに、随分長い時間待たされたんだなって事に気づかされます。苗木を植えて1年経って実がなったでしょうか、仮になったとしても、その時にはその実を食べることができないんですね。2年3年経っても同じなんです。そして四年目にやっと素敵なブドウでしょうか、イチジクでしょうか、何かわかりませんけれどもその素敵な実がなった時に、それは聖なるものになりました。やっとそれは禁断のものではなくて聖なるものになりました。でもそれは神様のものなんです。全部神様に捧げるものなんです。ですからその四年目もまだ食べられないんです。彼らがその実を食べることができたのは、実に5年目の収穫の時からだったということですよね。

けれどもこれは一体何のための掟なんでしょうか?なんでこんなを規定が定められたんでしょうか?

これはつまり、私たちの生活の中に、「神様を中心としなさい」というそういう教えです。全ての恵みは神様から来ていますね。その収穫の恵みも、与えられた恵も、全部それは神様がくださったものです。そしてそもそもそこに住んでいる土地も、イスラエルのものではない。その地も神様の土地です。そして神様によって生かされているんです。

その恵みを絶対に忘れないようにと、このようにあらかじめ定められていたのが、この掟だったということを私たちは覚えたいという風に思います。

 

もしこの掟がなければ、そしてもし私達であればですね、苗木を植えて、育てて、1年目にもし実がなったら、もうその時食べますよね。私たちは間違いなく、あまり美味しくないかもしれませんけど、でも食べるんじゃないでしょうか。2年目、3年目、だんだん育っていて、立派になったなーって嬉しいですよね。そしてやっぱり食べるんじゃないでしょうか。そして四年目に最高の実がなりました。本当に神様に捧げるのにふさわしい実がなった。

もちろん間違いなく食べたいと思うんじゃないでしょうか。でもその時にもまだ食べられないんです。長いこと待たされる。彼らが食べられるのがやっと5年目になってから、5年も待たなければいけない。私達だったら、もう4年目には全部食べつくしてですね、そして食べるだけではなくて、これで商売しようとかですね、これで儲けたいなとか、そういうこと考えるんじゃないでしょうか。そしてだんだん、そのめぐみがどっから来たのかは忘れてしまう。

神様が私たちを養ってくださっているっていうこと、一番大事なことを忘れてしまう。

神様によって生かされてるっていうことをすっかり忘れてしまう。

そしてなんか自分の力で、自分の努力で生きているかのように勘違いするようになっていくんじゃないでしょうか。

そういうことにならないために、神様がちゃんと配慮して、前もってこのような掟を用意してくださっていたとするならば、それはなんと神様の配慮に富んだ惠だったことかという風に思います。

つまり私たちが、本当に神様の恵みを忘れてしまうことがないように、自分の力で生きているということを勘違いしてしまうことがないように、神様がそのように御言葉を通して導いてくださっているということをぜひ覚えるものでありたいという風に思います。

 

この掟は何のために定められたか、ちゃんとここに書いてあるんです。25雪の中に書いてあります。それは、「あなた方の収穫を増すためである」と書いてありますね。ちゃんと目的が書いてあります。何のためのおきてなんでしょうか。

それはあなた方の収穫を増すためなんだよ、もう4年目に5年目にすごい立派な豊作で、本当に実がなって、喜んでいた。でも神様はもっともっと祝福したいんです。もっとその祝福を増し加えたいんです。そこまで導きたいと願ってるんです。

 

でも私たちは時々、そこまで行かないで、全部食い漁って、これで十分っていう、そういう選択をしてしまいやすい、愚かな傾向を私たちは持ってるんじゃないかなと思うんですよね。

つまりこれは、神様がイスラエルを祝福するための掟なんです。神様はイスラエルの民に、ひたすら忍耐を強いて、彼らを苦しめるためにこの掟を定められたのではない。

最初の5年ぐらい、ちょっとつらかったかもしれないけどでも、その先にもっと素晴らしい祝福を用意してくださっている。そこに導きたいという神様のご配慮がここに表されていますよね。つまり彼らが霊的・精神的な面だけではなくて、生活の面においても、経済的な面においても、あらゆる面において、本当に神様によって生かされているんだってことを実感できるように、そして神様との親しい交わりと信頼関係の中に生かされていく。

そのような恵みがあるんだということを、本当に体験しながら生きいくことができるように、そのように主は導いてくださる。そのことを主が願っておられるということ、そのことがここで表されていることではないでしょうか。

 

神様を第一とする者を、神様は必ず祝福してくださる。これはイエス様も教えてくださっていることであります。マタイの福音書の6章33節、

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべて、それに加えて与えられます。

神の国と神の義を求めるならば、これらのものは全て、それに加えて、もう既にあるんです。神様の祝福が既にあるんです。「それに加えて」、さらに、さらに、神様の祝福が用意されている。だから神の国と神の義を第一に求めなさい。そういうところに神様は私達を導いてくださろうとしているんではないでしょうか。

 

【4】まとめ

そして神様は最後に、今日の箇所の最後に、もう一度宣言をされました。

わたしはあなた方の神、主である

いつでも神様は私たちにこのように宣言されているんだと思うんですよね。すぐに、私たち、忘れやすいことかもしれません。でも忘れないように、何度も何度も、繰り返し、

「私はあなた方の主だよ、誰があなたがたの主なの、私だよ、忘れないでね、」

何度も何度もそのように私たちに繰り返し教えてくださっているんではないでしょうか。

 

それは私たちを祝福したいためなんです。その恵みを是非覚えるものでありたいなという風に思います。

コロナの影響が、本当に隅々にまで及んでいる今、私たちはどうしても先のことが心配になると思います。 そうなっていくとどうしても、目先の利益に捕らわれやすくなる傾向が出てくるんじゃないかなと思うんですね。本来であれば5年先の事もよく考えながら、10年先のことも考えながら歩んでいるべきなんだと思うんですけど、5年先の事も考えられない、とりあえず今、目の前のことで必死、もう明日どうやって生きていくかが心配、そういう心境になってしまうことってあると思うんです。

それで私たちは皆、ある意味で生きていくことに必死ですから、悠長なことも言ってられません。特に今はそういう時代になってきてるかなと思います。その過程でだんだん大事なことを見失ってしまうことがあるんではないかと思うんですよね。

 

神の国とその義を第一とすることを忘れてしまって、この世の繁栄とか、この世の利益にしがみついてしまいたくなるような、そういう「私たちの栄光」っていうのがあるんではないでしょうか。その結果、神様の祝福の中に生かされるという恵みを、どんどん見失って、なんとか自分の力で、なんとか自分の努力でと、必死になって苦しんでしまうっていうような、そういうことが起こりうるんじゃないかなと思います。これからの時代は、特に私達は気をつけて行かなければいけないんじゃないかなという風に思います。

 

でも神様はそれとは全く違う人生へと、私たちを導こうとしておられるんではないでしょうか。それは神様が用意されている祝福の中を歩むという人生です。私達が生かされてるのは、全部神様の許しの中にあることです。私たちの人生も、みんな自分のものじゃないんです。それは全部神様から与えられたものなんです。そして全部神様が養ってくださるんです。神様の御手の中で全てが守られている、そして必要なものは全部神様から養われるんです。そのような神様との親しい信頼関係の中で歩んでいく、神様に感謝しながら本当に神様ありがとう、生かされて本当にありがとう、そう呼べる人生へと神様は私達を導こうとしておられるっていうことを是非忘れないようにしたいと思うんですよね。

どうか私たちが、この世のものと一つになってしまって、中途半端な信仰になってしまうことがないように、本当に主である神様だけに、本当に私たちの忠誠を尽くしていくことができるように、この方に心からお従いできますように、神の国と神の義をまず第一にしていく、そのような歩みを志していくものでありたいと思います。

 

【5 】祈り

 

お祈りをいたします。恵み深き私達の父なる神様、この世の様々の誘惑と戦いの中にあって、私たちは挫折をしたり失敗をしたり悩んだり苦しんだりしてしまいやすい者であります。しかしあなたは私たちに、さらに素晴らしい祝福をもって導いてくださる方であることを覚えてありがとうございます。どうか私たちがどんな状況の中にあっても、厳しい世の中にあっても、生活環境の中にあっても、その中にあって神様を仰いで、あなたを主としてあがめ、あなたにお仕えしていくことができるように、そしてその時に主が開いてくださる素晴らしい祝福の人生へと導いてくださいますように心からお願いをいたします。

これから始まっていく一週間の歩み、どうぞ主が、それぞれに伴って、それぞれの信仰による勝利をお与え下さいますようにお願い致します。み言葉を心から感謝し、イエスキリストの名によってお祈りをいたします。

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