イエス・キリストをより良く知るために

キリストの花嫁・・・エペソ書5章25節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

本日の聖書箇所は 先週の礼拝で朗読した御言葉と同じ言葉です。前回は夫達に対する教えという題で夫たちの妻に対する勤めについて学びました。そしてその務めとは何かというと愛するという務めであるということを、前回私たちは教えられたことでありました。今日は同じ聖書の箇所ですけども「キリストの花嫁」という題でお話をしたいと思います。

1.キリストの教会に対する愛:どんな愛で教会を愛したか?

今日私たちが注目したいのは、 夫の妻に対する愛というよりは、「キリストの教会に対する愛」に注目していきたいと思います。

この聖書の箇所を通して繰り返し教えられていることは、夫と妻の関係の根拠となっているのは、キリストと教会の関係であるということです。

夫たちはキリストが教会を愛したように、自分の妻を愛さなければならない。妻たちは教会がキリストに従うように、自分の夫に従わなければならない。

つまり夫が妻を愛する根拠も、妻が夫に従う根拠も、キリストと教会の関係にあるということが、ここで教えられていることであります。

よって私たちの結婚が本当に祝福されたものとなるためには、このキリストと教会の関係がよく理解されていることが大事だということになります。この聖書の土台に立ち続ける時、その結婚は祝福されていきます。この土台を、夫婦が、夫と妻が、共有する時に、その結婚は本当に祝福に満たされたものとなってゆきます。

そこで今日はキリストと教会の関係について学んでいきたいと思います。

特にキリストがどんな愛で教会を愛したか?です。それが結局は夫が妻を愛するということの学びにつながっていきます。キリストは教会をどんな愛で愛したんでしょうか?

2.キリストの教会に対する愛は永遠に変わらない

結論から今日はお話をしたいと思いますけれども、それはキリストが教会を変わらない愛で愛したということ、継続的に愛してくださったということであります。そのことが今日の聖書の箇所で教えられております 。キリストはかつて教会を愛いしてくださいました。キリストは今も教会を愛してくださっています。そしてキリストはこれからもずっと教会を愛してくださいます。つまりキリストの教会に対する愛は永遠に変わらないっていうことですね。今日そのことを御言葉を通して覚えていきたいと思います。

25節に「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を捧げられた」と書いてあります。キリストは教会のためにご自分を捧げられました。そのようにして大きな愛を教会に表してくださった。かつてイエス様は一度、教会のためにご自分を捧げてくださった。教会は過去にキリストの大きな愛を受けているということがわかります。

そのキリストが実は今も、教会のことを愛してくださっている。それが26節に記されてあることです。そこには「キリストが、この教会を、清めて聖なるものにしてくださっている」事実が記されています。これは今、教会が今経験してるめぐみです。今受けている愛です。ですからキリストは、今も教会のこと愛してくださっているということがわかります。

そしてさらにキリストは、教会をこれからもずっと愛してくださいます。そのことが27節に記されてあります。ここには「キリストが栄光の教会を、ご自分の前に立たせる」ということが書いてあります。このことを未だ教会は経験してません。まだ私たちは、このことを経験していません。これから先に経験することです。未来に私たちに与えられている神様の恵みです。

つまりキリストは教会のことを、昨日も今日もこれからもずっと愛してくださってるって事ですね。ずっと愛し続けてくださるということ、永久に変わらない愛で私たちのことを愛してくださっているということが、ここで教えられていることです。

皆さんの中には第一コリント13章の中に出てくる御言葉を思い出す方がおられるかもしれません。そこにはこう書いてあります。

愛は決して絶えることがありません。

愛は決して絶えることがない、もしこの世に愛というものが存在するならば、それは決して変わることのない愛です。「継続的・永続的な愛です」、ということが聖書で教えられていることです。キリストが教会に注いでくださってる愛は、まさにそのような愛であるということを教えられます。そして夫は妻を、そのような愛で愛さなければいけないということです。夫も妻を同じような愛で愛しなさい、キリストが教会を愛したように愛しなさいと、教えられておりますから、ここでパウロが主張していることは、そういうことなんですね。これは先週のメッセージの続きになりますけれども、夫はそのような思いで妻を愛し続ける ということが求められていることを覚えたいと思います。

結婚してすぐの時もちろんですけども、結婚して10年経っても、20年経っても、30年40年50年経っても、そのように愛さなければいけないということですね。そういうことが教えられているということです。

それは大変です、とても無理ですという声も、聞こえてきそうですけれども、私たちの愛は本当に長続きしない愛で、一時的な愛で、状況が変わってしまえばすぐ変わってしまうような愛いかもしれませんけれども、でも、だからこそここにキリストの姿が示されていますね。だからこそここにキリストの教会に対する愛が表されています。これが私たちの土台です。この土台をもとに、私たちは結婚関係を築いていかなければいけない。この土台がちゃんと示されているということを、私達は本当に感謝したいと思いますね。そしてこのキリストの姿から、いつもいつも学んでいく、学び続けていくものでありたいと思います。

3.過去・現在・未来、それぞれの教会に対するキリストの愛

さてもう少し丁寧に見ていきたいと思います。過去・現在・未来と、キリストの教会に対する愛は変わらないということです。

A.過去

過去に表された愛についてもう一度確認をしたいと思います。25節にこう書いてあります。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を捧げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」と、

キリストが教会のためにご自分を捧げられたと、過去において、教会に表してくださったキリストの大きな愛が、ここに表されております。先週の説教でもこれは覚えあったことですけれども、キリストは、私たちのために命を捧げてくださいました。私たちのすべての罪をその身に背負って十字架にかかってくださって、ご自分を私たちのために捧げてくださった、そのような大きな愛を教会は頂いたんですね。私たちの過去において頂きました。

使徒の働き20章の28節には教会についてこういう表現があります。

神がご自分の血をもって買い取られた神の教会。

教会についてそのように表されてますね。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会。教会とはどんな存在ですか?それは神がキリストの血を持って買い取ってくださったくらい大事な大事な、尊い尊い、そういう存在であるということです。キリストの血という代価をもって買取り、ご自分のものにしてくださった、それくらい大事な尊い存在であると聖書で教えられております。ですから私たちは皆、イエス様の血によって買い取られた一人一人ですね。私たちは皆、イエスキリストの十字架を信じて、救い主として信じて、そしてイエス様の十字架の血によって罪許されて、神の子供とされた、そういう人たちの集まりが教会です。私達は本当に愛された、教会は本当に大きな愛で愛された、そのことがここで教えられております。

B.現在

さてキリストの愛は過去で終わってしまったわけではないですね。かつては本当に大きな愛を頂きました、感謝です。でもそれで終わってしまったわけではありません。キリストの愛は今でも続いています。今でもキリストは、私たちのことを愛してくださっています。そのことが26節に教えられていることであります。もう一度読んでみたいと思います。

キリストがそうされたのは、御言葉により、水の洗いをもって、教会を清めて聖なるものとするためであり」と、ここに書いてあります。

キリストは教会を清めて、聖なるものとしてくださっている。これは今まさに、私たちが経験しているめぐみですね。今まさに私たちに与えられているキリストの愛です。そのような愛をもって、キリストは私たちのことを愛してくださっているということを、この御言葉を通して覚えたいという風に思います。

私たちは日々清められていくんですね。日々新しくされていきます。その恵みが今も続いているということであります。

この26節の御言葉をよく理解するために、注目したいひとつの言葉がありますけども、それは「御言葉により、水の洗いをもって」というところです。ここに「水の洗いをもって、私たち教会を清めて聖なるものとしてくださる」、水の洗いという言葉が出てきますけども、これは 、そこでパウロが使っているイメージはバプテスマのイメージです。

今日この後、バプテスマ式がもたれますが、バプテスマを受けるときに、大事な事が一つあるんですが、それは全身が水の中に浸る事が大事です。全身、全存在が、神の清めの恵みの中に預かるようにということで、残る部分が何一つないように、全部水の中に沈めるということがとても大事なことですね。

ただ私達、一つ注意したいことがあります。それは水が、バブテスマを受ける人を清めるわけではないということなんですね。あるいは人を水の中に沈めるという行為であったり、その儀式がその人を清めるわけではないということであります。これは一つのシンボルですね。それは信仰の告白です。その人がイエスキリストの恵みに預かってということを、目に見える形で表すため、そしてそのことを通して、信仰を告白するための一つの形です。

ですから大事なのはその人が本当イエス様を信じていること、そして与えられたその信仰告白をしているって言うこと、それが大事ですね。

中世の時代のカトリック教会は、神の恵みを受ける手段としての儀式というものをとても重んじるようになりました。カトリック教会において儀式の事を秘跡という風に呼びますけれども、ですからカトリック教会においては聖餐式に与かるということは、すごく大事なことですね。あるいは洗礼を授かることもとっても大事なことです。他にも色々あるんですけれども、とにかく儀式に参加するっていうことは、とっても大切にします。儀式そのものが神の恵みにあずかる手段であるというふうに考えるからであります。

私たちの教会はプロテスタントの流れに属する教会ですけれども、ちょっと考え方が違いますね。私たちも儀式を軽んじてるわけではありません。大切にしますけれども、でも儀式そのものに力があるとは考えないですね。何か儀式そのものに特別な力が働いているわけではない。水に浸るというその行為によって、その人が清められるわけではない。

では、私たちは一体何によって清められていくんでしょうか?何によって清められていくと聖書では教えられているでしょうか?そのことが大事になってきますね。

ここに書いてますね。

「御言葉により、水の洗いをもって、教会を清めて聖なるものとする」と、ここに書いてあります。

教会を清めて聖なるものにするのは、「御言葉」であるということを、私たちは今日のこの御言葉を通して覚えたいという風に思います。

そしてさらに正確に言うならば、みことばを通して働かれる聖霊によって私たちは清められていくということであります。テトスへの手紙の3章5節にこんな言葉があります。

神は私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分の憐れみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって私たちを救ってくださいました。」そんな、み言葉があります。

私たちを洗い清めるのは、私たちの義の行いではないんです。わたしたちの行う良い行いによって何か清められていくのではないんです。私たちに語られた御言葉 と御言葉を通して働かれる御霊の働きによって、私たちは清められていく。御言葉の語られるところに、聖霊もまた働かれるということを、私たちはみことばから覚えたいなという風に思います。

「御言葉」ということを改めて覚えたいと思いますけれども、神の言葉です。神が語っておられる言葉です。聖なる神様が、私たちに言葉を発しておられるということの意味、罪深い私たちに対して、聖なる神様が言葉を語っておられるということの その重みというものを、私達はもっともっと心に留めることが必要なんじゃないかなと思いますね。これは本当にすごいことだと思いますね。神が私たちに語りかけてくださっている、これは単なる人間の会話ではないですよね。私たちのおしゃべりではないと思いますね。主が私たちに語りかけてくださっている。サムエルはその言葉を聞きましたね。少年サムエルはその言葉を聞きましたけれども、最初は分からなかったんですが、でもわかった。エリの指導によって分って、「主よお話しください私は聞いております。」と、それに応答することができました。それは人間にとって本当に大事なことですね。神が自分に語ってくださっていること、それは本当に私たちにとって大切なことであります。

神の言葉が語られるときに、必ずそこには罪が示されてきます。神様の聖なる御言葉に照らされて、私たちの隠された罪というものが、より強く意識されるようになっていきますね。ですから私たちはおそらく、クリスチャンになる前より、クリスチャンになった後の方が、自分の罪に敏感になってゆくんじゃないかなと思いますね。

御言葉によって本当に探られて、本当にその通りであると、そのように神様に示されることがあるんじゃないでしょうか。そのことによって私達は 清められて行きますね。本当に清められなければならない自分であるということ が、だんだんわかってくる。 その度にイエス様の十字架のもとに帰ります。その度にイエス様の十字架を仰ぎます。そして「あーこんな自分でもイエス様は愛してくださっている」、「このような罪をイエス様は許してくださった」という、その恵みに授かりながら、私たちは少しずつ清められていくし、新しくされていく、そんなめぐみに生かされていく、それがクリスチャンの成長ではないかなと思うんですよね。

ところが私たちはいくら聖書を学んでも一生懸命熱心に勉強している割にはなかなか変わっていかない、なかなか成長できない、なかなか清められていかない 、 何かそういう矛盾を抱え込むことが時々あるんじゃないかなと思います。一生懸命 聖書の学びは大好きなのに全然日々の歩みが清められて行かないという、そういう問題を抱えることがあるんじゃないかなと思いますね。私たちの御言葉に対するアプローチを吟味してみる必要があるのかなと思います 。

もしかしたら私たちの御言葉を聞く「聞き方」に問題があるのかなと思ったりもします。もしかしたらそれは私たち自身が出発点になって、みことばを聞いていることがあるんじゃないでしょうか。私たちの問題であったり、私たちの状態であったり、私たちの課題であったり、自分の課題に御言葉を引きつけて、それを聞こうとするあまりに、自分の都合のよい解釈をしてしまって、知らず知らずのうちにそんな読み方をしてしまうことがあるかもしれない。もしそうなってしまったらそれは、神の言葉を、神の言葉として聞いているのではない。そうなるとそこに働いておられる神様の御言葉の力というものを、私達は経験することができません。そこに働いている御霊の力というものを味わうことができない。そういうことが起こり得るということを私たちは覚えたいと思います。

みことばを聞く時にその言葉の出発点は私たちの側にあるのではなくて、神様に出発点があるということ、神が語っておられていること、神様がこの自分に御言葉を語っ くださっているということ、その事実を私たちは本当に覚える時に、そこにはっきりとそれに合わない自分の姿というものを示されていくんではないでしょうか。そこで私たちは砕かれて、 悔い改めて、本当に神様の恵みのもとに浸って、そして許されてゆく、そういう恵みを日々味わっていくんじゃないでしょうか。そういう風に神様は私たちのことを導いてくださっているということを是非覚えるものでありたいという風に思います 。イエス様は私たちを救うために十字架にかかってくださった、そしてその愛は今でも継続中です。今まさに私たちはその愛を経験している 。この愛を私たち日々味わっていくものでありたいと思います。

C.未来

さて最後に私達のキリストの愛は、これからもずっと注がれていくということことを覚えて終わりにしたいと思います。27節の言葉を注目したいと思います。読んでみます。

ご自分でシミやシワや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

ここにキリストが、聖なるもの、傷のないものとなった、栄光の教会をご自分の前に立たせるということが記されてあります。教会は少しずつ清められて、聖なるものとされて行きます。そしてやがて傷のない栄光の教会となって、キリストの前に立たせられる。

これはまだ私達は経験していません。これはやがて起きることです。未来に約束されている祝福です。でもその日まで、キリストの愛は続いていくっていうことですよね。

この27節で書かれているのは、結婚式の光景であります。ここで教会は花嫁を表しております。キリストは花婿を表しております。

結婚式の状況を皆さんちょっと思い出していただきたいと思いますけれども、真っ白なウェディングドレスに身を包んだ花嫁が、バージンロードを一歩一歩と行進していきます。多くの場合は、お父さんに手を引かれて歩いていくということが多いかなと思いますけれども、前の方には花婿が待っております。花嫁はゆっくりゆっくり行進していって、ある地点が来ると、父親から手が離れる。そしてこれから自分の夫となる花婿の前に立たせられる瞬間が来る。そして二人で神様の前で誓って、そして結婚した二人は一緒になっていくという、そういう展開ですよね。その情景が27節に描かれております。

花嫁は、花嫁なる教会は、いつの日か花婿なるキリストの前に立たせられます。そして2人は一つになります。一体となります。つまり教会はキリストの花嫁であるということです。その日が来るまで花嫁は、ずっと花婿に愛され続けてきたし、その後もずっと愛され続けていくということがわかります。キリストの教会に対する愛というのは、このように継続敵、永続的、そして決して変わらない愛であるということが分かると思います 。

この中で私達一つ注目したい言葉は、「シミやしわやそのようなものが何一つない」というそのこの言葉です。もうこの言葉はこの言葉は聞きたくないっていう人がたくさんいるんじゃないかなと思いますね。もうそんな言葉は聞くのも嫌だと、そういう思いになる方もいらっしゃると思いますけどでも、これは現実ですよね。これは避けられないことです。

私たちは少しずつ年老いていきます。それに合わせてだんだんシミやシワが出てきてしまいます。シミとは何でしょうか?シワとは何でしょうか?それはやっぱり私達人間が、不完全であるということの表れではないかというふうに思います。それは人間の不完全さの象徴であるということが言えるでしょう。

でもその日には、そのようなものが何一つない姿に変えられると、ここに約束されている。そして聖なるもの、傷のないものとなった栄光の姿で、花婿であるキリストの前に立たせられる。最高の状態、素晴らしい状態で、花婿の前に立たせていただける。花嫁は花婿とそこに立つまでに、本当によく整えられていくということが分かります。

この地上とちょっと違うのは、この地上の結婚と違うのは、花嫁をそのような状態に整えてくださるのは、花婿であるということです。この地上では、花嫁になる人が自分で一生懸命花嫁修行をして、そして整えていくんだと思いますね。花婿になる方に、ちゃんと見合うように、自分で修行をして、整えてゆくやり方がこの地上であることだと思いますけれども、でも聖書が教えてる結婚はそうではないですね。キリスト教会の結婚は、そういう結婚ではないですね。27節の冒頭に、「ご自分で」と書いてあります。花婿なるキリストはご自分で花嫁なる教会を清めてくださる。そしてシミやシワや、そのようなものが何一つない美しい姿、栄光の教会へと、花嫁を整え続けてくださる。ずっとそれまで愛し続けてくださっている。そしてその時を迎えることができる。そういう祝福が、ここに表わされているわけであります。ずっとずっと花婿が花嫁を愛してくださいました。選ぶところから始まってますね。花嫁を選ぶところから、もう本当に罪に汚れてどうしようもない状態だった私たちを選んでくださった。なんでこんな私たちが選ばれたのか、分からないけれども、選ばれたというところから始まってそこから始まって、永遠の命が与えられる、神の子供とされる、でもその後もずっと愛してくださって清め続けて下さる。聖なるものにしてくださる。そうして栄光の教会として、傷の何もない教会として、シミやシワやそのようなものが何一無い、最高の教会として整えてくださる。ずっとその愛が注がれているって言う事ですよね。キリストの教会に対する愛は、このように、昔も今もこれからもずっと変わりません。私達はそのような愛をもって、昔も今もこれからもずっと愛され続けていきます。その恵みを覚えたいという風に思います。夫が妻をこのような愛で愛さなければいけないということですね。これは先週のメッセージの続きですけれども、それ大変なことです。けれどもそれは本当に神様の前に求められていることであるということを、夫はもう一度、心新たに覚えたいという風に思います。同時に今日、私たちは、教会に対する愛ということについてもここから学びたいというふうに思います。

私たちはいつかシワやシミがなくなります。いつかそういうものが何一つなくなります。栄光の教会、傷が何もない教会として、その日を迎える。花婿なるキリストの前に立たせられる。それは約束ですね。ですから希望です。でも今は違います。今はシミやシワがあるんです。残念だけどあるんです。そしてそれは私たちがまだまだ不完全であるということです。今この地上にある教会の全ては、不完全な教会です。必ずシミやシワがあります。飯能キリスト聖園教会はとても素晴らしい教会です。とても素晴らしい教会ですけど、よく見ると、きっとシミやシワがどっかにあるんじゃないかなと思うんですね。いくら一生懸命隠そうと思っても、隠し切れないものが必ずあるんじゃないかなという風に思いますね。そのようないろんな課題や問題が見えてくるということがあるかもしれない。そして私たちは、時々そんな教会の不完全さにつまずいてしまったり、落ち込んで、 がっかりしてしまったり、そして時には、教会の愛のなさに、本当に傷ついて教会を離れてしまうということもあるかもしれない。教会はその時、本当に反省して悔い改めなければならない時だと思いますけれども、でも私たちは、そんな時にも教会に対する愛というものを忘れないようにしたいなという風に思います。なぜならキリストが教会を愛してくださったからなんです。シミやシワがあるのにも関わらず、不完全な私達であるにもかかわらず、それで神の愛が、キリストの愛が変わるということは、全くなかった。何も変わらず、私達の事を信じて、愛し続けてくださった、そのような愛から私たちは、もっともっと学ぶ必要があるんじゃないかなというふうに思うんですね。昔も今もこれから、もずっと愛してくださってる、そのキリストの愛を豊かに吸収して、愛において成長していくものになりたいという風に思います。今日のメッセージを頂いて、夫は妻を愛しましょう。そして妻は夫に従いましょう。そして私たちは教会を愛していきたいと思います。シミやシワやそのようなものがない、完全な姿になるその日まで、キリストが愛し続けてくださっているその愛を、豊かにいただいて、私たちも愛において成長していくものでありたいという風に思います。

 

お祈りをします。恵み深き私たちの父なる神様。あなたの愛がなんと素晴らしい愛であるかイエス様が私たちのために死んでくださって、罪を赦してくださって、神の子どもとしてくださった。それだけでも本当に感謝なのに、今も主は御言葉を通して、御霊を通して、私たちを清めてくださっているその愛を、無駄にすることがないように、そしてこれからもずっと、あなたは、わたしたちを愛してくださる、あなたの前に立つその日まで、あなたの愛は変わらないことを覚えてありがとうございます。このキリストの愛を、さらに豊かにす知るものとなりますように。その愛に生かされるものとなりますように。どうぞ夫と妻の関係、私たちの家庭を、そのような愛に満ちたものとしてください。またこの教会が、そのキリストの愛に基づいて建てられ、愛において私たちが成長していくことができるように、どうぞ助けてくださるようにお願い致します。御言葉を心から感謝して尊き主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

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