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あんまり熱心なクリスチャンになりたくない?エペソ書3章1~6節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

エペソ人への手紙の3章1節でパウロは、「こういうわけであなた方、異邦人のために、私パウロは、キリストイエスの囚人となっています」という言葉から語り始めております。
こういうわけで」とは、どういうわけでしょうか?その内容がその前の2章の内容ということになります。

2章においてパウロは、キリストの恵みが異邦人であるあなたがた、つまりエペソの信徒たちにも及んだということ、かつてキリストからは、遠く離れていた、そしてイスラエルからは除外されていたあなたがたにも、キリストの恵みが及んだということ、そしてキリストがユダヤ人と異邦人の間の壁を打ち壊し、新しい、一人の人に作り上げたんだということを語ってまいりました。それ故にあなた方は、もはやと他国人ではなく、寄留者でもなく、同じ神の国の民であるということ、神の家族であるということ、さらに神の御霊が住む神のみ住まいであるということを教えてきたわけであります。

このように神の恵みが異邦人に及んで、同じ神の国の民、神の家族、すなわち同じ教会のメンバーにされたという恵を、ここまでは語ってきておりました。

1.キリスト・イエスの「囚人」とは?

そのような恵みを受けてパウロはここで、3章一節で、突然自分のことを語り始めております。「私パウロは」と、それまではエペソの教会の信徒たちに与えられてきた神様の恵みについて豊かに語ってきたパウロが、ここで急に自分のことを話し始めている・・・話したくなったんだと思いますけれども・・・ここでパウロは、自分のことを何と話しているでしょうか?
こういうふうに語ってますね。


私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」と。しかもあなたが異邦人のために、「私パウロはキリストイエスの囚人となっています」という風に言っております。ここで囚人という言葉が出てまいりました。ここでパウロは自分のことを囚人という風に言ってますけれども、ここにはパウロのユーモアが感じられます。
どうしてかと言うと、パウロは本当にこの時、囚人だったからであります。パウロはこの時、ローマに行って囚われの身でありました。

エペソ人への手紙は、パウロが獄中で記した獄中書簡であるという風に言われております。ですからパウロは文字通り「囚人」だったわけであります。
パウロはローマ帝国によって捕らえられた囚人でした。なぜパウロは捕らえられてしまったんでしょうか?それは使徒の働きを読むと、詳しく書いてありますけれども、それは彼がまさに異邦人に伝道したからですね。異邦人に福音を語ったからでした。異邦人にも神様の祝福が及んだということを、大胆に告げたために、ユダヤ人による暴動が起こってしまいました。そしてその暴動に、パウロは巻き込まれて、危うく殺されかけたんですけれども、幸いパウロはローマの市民権を持っていましたので守られて、そしてその後、カエサル、つまりローマ皇帝に上訴することができたんですね。そのこともあってパウロは護衛付きでローマまで搬送されたということが使徒の働きに記されてあることであります。ですから本当にパウロは囚人だったんですね。囚われの身だったんです。

でもパウロはここで、自分の事をローマの囚人とは呼ばなかったですね。何と呼んだんでしょうか?
キリスト・イエスの囚人です」という風に語っております。この言葉からパウロのユーモアのようなもの感じますけれども、要するにパウロは囚人とされたことをちっとも悲しんでいないということが感じられます。むしろそれを嬉しく、誇りにさえ思っている ことが感じられます。囚われたら普通、人は悲しいと思いますね。囚われの身になったら悲しいと思いますね。誰も囚われたいと思う人はいないです。エペソ教会の人たちもパウロのことを本当に心配していたと思います。
でもパウロ自身は、そのことをむしろ喜んでいた。どうしてでしょうか?
なぜならば「キリスト・イエスの囚人」として与えられた務めをいよいよ力強く果たすことができると彼は考えたからであります。パウロは何と当時の世界の中心だったローマまで、護衛付きで運んでいただいた、そしてそこでで福音を語るチャンスが与えられた。その一連の展開がすべて神様のご計画の中にあるということをパウロは理解しておりました。ですからローマで囚人になったということは、パウロにとっては、ちっとも悲しいことではないですね。むしろキリストの囚人とされていることに、喜びと誇りを感じている、そんなパウロの気持ちがこの一節の言葉から伝わってまいります。
「私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」。何と喜ばしく誇らしくこの言葉をパウロは語っていることでしょうか。このパウロの言葉からキリストの囚人とされたパウロのたくましさのようなものを、私たちは感じるのではないでしょうか。
そしてパウロの心は本当に自由であるということを、教えられるんではないでしょうか。彼の肉体は捕らえられてるんです。絶えず見張りがついていて自由がないですね。彼はそのような意味では、全く不自由な人間であります。自由に行き来したり、行動したりすることできません。でもパウロの心と思いは、そのような状況や境遇に全く捕らわれていないんです。むしろ喜んでいます。むしろ誇りにさえ感じています。なぜなら、そのことによって福音を証することができる、そしてそのことによって、神の栄光を表すことができる。私たちが驚かされるのは、パウロが、もう100%神様のために生きているということ、そして100%エペソの異邦人の信徒たちのために生きているということ、そのような勤めが与えられて喜んでいるということ、そのことに私たちはここで驚かされるんではないかと思います。

パウロは本当に心から神を愛し、人を愛していた。その姿を感じることができます。
私たちはどうでしょうか?皆さんはキリストの囚人となってるでしょうか?キリストの囚人とされているでしょうか?どれくらいキリストの囚人になっているでしょうか?
囚人という言葉はあんまり良いイメージがない言葉かなと思いますね。ですからキストの囚人にはなりたくないという感覚があるかもしれませんね。イエス様によって罪を許していただいて、救われて、その救われたことは喜びたいけれども、キリストの囚人にはなりたくないというような感覚がどっかにあるかもしれないと思います。

2.あなたは、「あんまり熱心なクリスチャンにはなりたくない」?

私も若い頃救われましたけれども、しばらく経った後ですね、クリスチャンになったということを感謝しながら、「あんまり熱心なクリスチャンにはなりたくないな」と思っていた時がありました。
と、言いますのは、あんまり信仰がだんだん深まるとですね、やることが多くなるんじゃないか?とかですね、クリスチャンとしてやらなければならないことが増えていくんじゃないか?とか、そしてなんとなく自分の好きなことができなくなっていくんじゃないだろうかという、そんな不安があってですね、あまり深入りしないようにしようと、自分で抑えているような時があったなという風に思います。

でもある時そのような状態では、結局は喜びも感謝も乏しくなっていくんだなということを意識するようになりました。いつまでたっても自分の信仰が、自分中心な信仰なんだなということを意識するようになりまし た。私にとって、その当時の私にとって、一番大事なったのは、教会生活を通して、信仰者として、自分の心がどれくらい満足するかということが、一番大事な事だったような気が致します。私は自由でいたい。自分の中で自由でいられる領域を確保していたいという思いがどっかにあってですね・・・・でも、ただそれは、自分自身の奴隷になってるだけなんだなということをだんだん意識するようになりました。

そして本当の自由とは、キリストに完全にとらわれることなんだなということを、少しずつ教えられていったように思います。キリストと共に生きる、キリストと共に死ぬ、そして生きるということ、そのことが本当に必要なことであると、その時に初めて自分は神様のために生きることができる、初めてその時に私は人のために生きることができる、そういうことを、み言葉を通して、また経験を通して、教えられてきたという風に感じております。

皆さんはどれだけキリストの囚人となっているでしょうか?ぜひキリストの囚人にしていただきたいなと思いますね。本当にイエスキリストに捕われて、その時に初めて自由であるということを経験したいなという風に思いますね。その時に私たちは初めて神様のために生きることができる、そして人のために心から生きることができる、そのような、自由な者にされていくということを、今日のパウロの姿から、そしてこの告白の言葉からも、学びたいという風に思います。どのように主のために、主の栄光のために、人のために心から愛して生きる、そのような自由な者と、神様の恵みの中でされていく者でありたいという風に思います。

3.「隠されてきた神様の特別なメッセージ」を託されたパウロ

このようにパウロは囚われの身なんですけれども、この1節の言葉からもそうですけれども、本当に生き生きとしている。囚人とは思えないような、そういう喜びの中でこの手紙を書いている、ということがわかりますけれども、なぜ、こんなに生き生きしていられるんでしょうか?
それはパウロが、自分には神様から特別な務めが与えられているという認識がはっきりしていたからであります。そしてその務めを、このような境遇の中になっても、果たすことができるということを喜んでいたからでありますね。
その務めについて、2節ではこういう風に語っております。「あなたがたのために、私に与えられた神の恵みの務めについては、あなた方は 既 に聞いたことでしょう」。
このようにパウロは、「私には、あなたがたのために与えられた務めがある」と、それは神の恵みの務めであるということを、ここで話しております。その務めの内容についてパウロは、7節・8節で詳しく記しておりますね。これはキリストの計り知れない富を、福音として、異邦人に述べ伝えるという、異邦人の使徒としての務めがパウロに与えられているということを、7節8節のところで記しております。
このことについては次回に学びたいと思いますけれども、今回は、その務めがどうしてパウロに与えられたのか?ということです。そのことをまずパウロはこの箇所において話しております。そのことに注目してみたいと思います。

3節・4節・5節と読んでみたいと思います。
先に短く書いた通り、奥義が啓示によって私に知らされました。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる人たちと預言者たちに啓示されています。


ここでパウロに一つの事が起きたということは書いてありますね。なにが起きたんでしょうか?3節でパウロは、「奥義が啓示によって私に知らされました」という風に記しております。
「私に」と、まずここで語っておりますので、私個人 に、神様から知らされたという意味であります。奥義という神様の何か大切なメッセージが、パウロ個人に知らされたんだということをここで告白しております。何か神様の大切なメッセージを、パウロが託されたということがここからわかると思います。

そしてそのことについては、5節ではさらに、こういう風に言ってますね。「この奥義は前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によってキリストの聖なる人たちと預言者たちに啓示されています」。

奥義、奥義と何度も出てきますけれども、この奥義は、前の時代には知らされていなかったんです。今までの長い時間の中においては、全く人に知らされることのなかった、その隠されている神様の特別なメッセージが、どういうわけかパウロには知らされた。そのことを、ここに書いてるわけですね。そして今は多くの使徒たち、預言者たちを通して、それが啓示されていますということも書いてありますけれども、つまりパウロは神様のご計画の中で、非常に大事な瞬間に立ち会ったんだということを説明しているということがわかります。非常に長い間、人には隠されていた、神様が隠しておられた、その大切なメッセージを、パウロに伝えられたその瞬間に彼が立ち会ったということであります。
その内容も大事ですけれども、その内容もさることながら、そのようにして「知らされた」という、この知らされ方が、パウロにとって非常に大きなことでありました。それはパウロにとって決して無駄にできない、託されたメッセージでありました。そこに神様の大きな期待が込められているということをパウロが感じたからであります。皆さんも、誰かから大切大切なメッセージを託されたという経験が、もしかしたらあるかもしれないと思いますね。それまでずっとその人が隠してきたと言うか、誰にも言わないで来たような内容のメッセージは、もし皆さんにだけ、その人がお知らせをして、託したとしたら、皆さんどんな気持ちになるでしょうか。それは非常に大事なメッセージであるという風にきっと受け止めるんじゃないかなと思うんですね。皆さんを信頼してくれたからこそ、その人はその大切なメッセージを皆さんに告げられたということになるんではないでしょうか。それがわかればですねそのメッセージを、とても無駄にはできない、そんな気持ちになるんじゃないかなという風に思いますね。

もし神様から私たちに託されたメッセージがあるとするならば、それは本当に大事な大事なメッセージになるんではないでしょうか。天地万物の創造主なる神様が、私たちにだけ特別に示してくださった大切な知らせがあるとするならば、それ私達はとても無駄にはできない、本当にそのメッセージを大切にする 、そういう風になるんじゃないかなという風に思うんですよね。
パウロは「神の奥義が啓示によって、私に知らされました」とここで書いています。神様より直接知らされたということを、ここで語っていますけれども、これは本当に起きたことです。
パウロにとっては大変なことですね。そしてこれはもう、どうしても伝えなければならない大切なメッセージです。生涯大切にしなければならない、このために一生を賭けなければならないというくらい、大事な大事なメッセージです。そのようなはっきりとした自覚をパウロは持っていたということを、私たちはこの箇所から覚えたいという風に思います。私たちは果たしてそのような感覚を持っているでしょうか。そのような自覚を持っているだろうか?

私たちも神様から大切なメッセージを託されたんではなかったでしょうか。神様から皆さん一人一人に、他の人には知られていないような、大切な大切な福音が届けられたんじゃなかったでしょうか?素晴らしい神様からのメッセージが、皆さん一人一人に直接届けられたんではなかったんでしょうか?それは皆さんどんな気持ちで受け止めたでしょか?あるいは、そのような主からの特別なめぐみを頂いて、どのように反応したでしょうか?反応しているでしょうか?応答しているでしょか?何か当たり前の様に、ごく普通のお知らせが届いたかのようにそんな気持ちで受け止めてしまっていることはないだろうか?という風に思いますね。

あるいは救われて当然であるかのように振る舞ってしまっているということも、私たちにあるんではないかという風に思います。私たちに福音が届けられたっていうのも大変なことですね。天地万物の造り主なる神様から、直接私たち一人ひとりに知らせが届いたというのは、本当に素晴らしい、ものすごいことではないでしょうか。それ私たちはどれだけ感謝と畏れを持って受け止めているだろうか?そしてそのメッセージに私たちはどれだけ応えようとしているだろうか?そのことが私達に問われているということを、是非覚えたいという風に思います。
本当にありがたい恵だと思いますね。なんで私に教えて下さったんでしょうか?神様こんなに素晴らしいめぐみ、こんなに素晴らしい福音の知らせを、どうして私に教えてくださったんでしょうか?なんであの人じゃなくて、私だったんでしょうか?考えれば考えるほど不思議ですけれども、それは本当に素晴らしい大変なめぐみであります。この恵みを決して無駄にすることがありませんように、それは本当に感謝して受け止めて、そしてそにふさわしく応答していくものとさせていただこうではありませんか。そのようなめぐみが私たちに与えられているということを感謝して覚えるものでありたいと思います。

4.「奥義」の内容

さてそれでは最後に、皆さんと「奥義」の内容について確認をしていきたいと思います。
「奥義」という言葉が何度も繰り返されていて、なんのことだと皆さん思われると思いますけれども、パウロも、奥義・奥義という言葉を、繰り返して、そしてついに6節のみ言葉の中でその「奥義」の内容を明らかにしているということがわかります。
3節では「先に短く書いた通り」と断っておりますので、今までの中にも「奥義」について記してきていたということが分かりますけれども、いよいよ6節においてプレゼントの中身が明らかにされるかのように、奥義の中身が明らかにされております。
6節のみ言葉をに注目したいと思います。
それは福音によりキリスト・イエスにあって異邦人も共同の相続人になり、共に同じ体に連なって、共に約束に預かるものになるということです。」このように記されてあります。
奥義とは何でしょうか?福音によりキリストイエスにあって異邦人も共同の相続人になり、ともに同じ体に連なって、共に約束に預かるものになるということということがわかります。

三つのことがここに記されております。

一番目に、異邦人も共同の相続人になるということが記されております。

異邦人である彼らエペソの信徒たちも、 神の恵みがを及んだ結果、彼らも神の子供になりました。神の子供になったということは、父なる神様の財産を相続する権利を頂いたということであります。子供であれば当然お父さんの財産を相続する権利が与えられております。つまり天の御国は彼らのものであるということであります。その祝福が彼らに約束されているということが、一番目に出てきております。

二番目に、異邦人である彼らも同じ体に連なるものとなったということが記されてあります。

同じ体に連なる、同じ神の国の民、神の家族、神の御住まいを構成する大切なメンバーに、あなた達、異邦人もなったんだよって言うことがに告げられていることであります。
つまり教会のメンバーにされたということがここで語られていることであります。

そして三番目に、異邦人も、共に約束に預かるものになるということが、ここに記されております。

約束にあずかるという言葉が出てまいりますけれども、ここでは聖霊のことが意識されているというふうに考えられますエペソ1章13節のところで聖霊のことを「約束の聖霊」という風に呼んでおりました。そして約束の聖霊が与えられた結果として、み国を受け継ぐ保証が与えられたというメッセージを、一章で語っておりました。よってこの箇所において約束に預かるものになるということは、約束の聖霊に預かり、御国を受け継ぐ保証が与えられたという風に理解することができると思います。

つまり奥義とは、異邦人に、神様の大いなる祝福が及んだということを知らせる内容であるということであります。しかもここで強調されているのは、共に、共に、共に、ということであります。異邦人も共に相続人になり、ともに同じ体に連なり、ともに約束に預かるものになりました。「共に」という風に強調されているということがわかる。これはユダヤ人と「共に」という意味であります。
今まで長い間、神様の祝福を受け継ぐのはユダヤ人であると考えられておりました。神様に特別に選ばれたユダヤ人こそは、神様の祝福を受け継ぐ人達であると当時はそのように思われてきた。そして異邦人というのは神様の祝福から遠く離された人達で、祝福からは除外された人々であるという風に、みんな考えていて、それが当時の常識でありました。
そして確かにイエス様も、ユダヤ人としてこられて、そしてユダヤ人として歩まれた。弟子たちをはじめ多くの人々は、イエス様に期待をして、イエス様が、ダビデ王朝のようなユダヤの国を作ってくれるんじゃないかと期待していたわけであります。ところが神様のご計画というのは、そんなに狭いものではありませんでした。神様の救いの恵みというのは、一つの民族や文化に限定されるようなものではなかった。確かに神様は、最初にユダヤの民を選ばれて、ユダヤ民族を祝福されましたけれども、しかしそのユダヤ民族を通して、全世界のために神様の祝福を届けるということこそが、神様のご計画であったそして時が叶って、ついにその時がやってきた。それまで隠されていた大切なメッセージが、この時パウロに託されて、そしてパウロを通して、この福音がユダヤの壁を乗り越えて、そして全世界に広がっていく。そのためにパウロが用いられていたということが、聖書を通してわかるわけであります。その大切な勤めのために、パウロが選ばれていたということが、彼の使命であり、そしてそれを彼は本当によく自覚していて、そして神と人としての働きを進めていたということが分かるということであります。

5.まとめ

さてこの時から2000年もの時間が経過しました。そしてその間に、確かに神様の福音はユダヤの文化を超えて、全世界に広がっ た。そしてこの日本にも届けられました。そしてその結果、この6節に記されている神様の恵みが、私たち一人一人にも届けられたということを、私たちは感謝と共に覚えたいと思います。私たちも共同の相続人となりました。天の御国はもう私たちのものです。そして私たちも同じように神の体に連なるものとされました。私たちも神の国の民、神の家族のメンバーとなりました。教会のメンバーとなりました。そして私たちも共に約束に預かるものになりました。みたまの約束をいただいて御国を確実に受け継ぐことのできる保証というものを私たちはいただいている。
かつて私たちも、遠く神から離れていた一人一人であったのに、今、このようなめぐみが届けられたのはどうしてだったんでしょうか?6節に書いてあるように、「福音により、キリスト・イエスにあって」ということであります。私たちに福音が届けられた結果として、そしてその福音に示されているイエスキリストを私たちが信じた結果として、このような祝福が私たちに与えられたということを感謝と共に覚えたいという風に思います。

時々日本には日本の宗教があるのに、どうしてキリスト教を信じなければいけないのだろうかというような反応に出会うことがあります。キリスト教が西洋の宗教であると思っている人が結構日本にはまだいらっしゃるかなという感じがいたしますね。100年ぐらい前まではそのような言い方が可能かなと思います。でも今クリスチャンが世界で一番多いのはどこかと言うとですね、アジアですねですから、少し考え方を変えなければいけないかなと思います。そしてヨーロッパではむしろクリスチャンの数はどんどん減っているという風に言われております。ですから今はもはやですね、キリスト教はアジアの宗教って言った方が正確かもしれません。
でもそんなことよりももっと大事なことがあります。福音は世界中の人々が必要としている、神のメッセージであるということであります。天地万物の創造主なる神様は、世界中の全ての人を祝福したいと願っておられる。全地を主の祝福で満たしたいと願っておられる。その祝福が私たち一人一人に及んだめぐみを、私たちは今日を覚えるものでありたいという風に思います。なぜ私だったのか分かりません。どうして私にこのめぐみが届いたのかわからない。なぜ神様は私を選んでくださったのか分かりません。でもこの私に、この福音の真理を届けてくださった、そのことによってこのような素晴らしい祝福とめぐみが私たちに与えられているということであります。私達がその与えられた恵を決して無駄にすることがありませんように、知らされた恵みに感謝しようではありませんか。そしてその知らせてくださった主に心から応答するものになりたいという風に思います。そのようにして心からお仕えして行くあゆみとしていきたいと思います。

お祈りをしましょう。恵み深き私たちの父なる神様、御言葉を感謝します。あなたの素晴らしい福音の知らせが、私たちにも届けられ、私たちにも知らされたこと覚えて感謝いたします。知らされた恵みを、かみしめながら、知らせてくださった主に心からお仕えして行くことができるように、私たちを励まし導いていてください。イエスキリストの貴いみ名によってお祈りをいたします 。

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