イエス・キリストをより良く知るために

慰めよ、慰めよ。イザヤ書40章1~8節

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

今年のクリスマスは聖書のどこの箇所かなメッセージを語ったらいいだろうかということを祈りながら考えておりました。そして今の私たちに必要なメッセージは、そして特にこの時代において求められている、そして主が語ってておられるメッセージは、慰めのメッセージではないかという風に思いました。励ましではなくて慰めのメッセージです。

1.慰め

自分でまだ頑張ることのできる余裕が残っているうちは励ましのメッセージが有効かなと思いますね。ただ自力ではとても立ち上がることができないくらい絶望していたり、立ち上がれないくらい落ち込んでしまっている時というのは、励ましよりも慰めが必要ではないかという風に思います。

ただ、人を慰めることくらい私たちにとって難しいこともないじゃないかなと思うんですね。苦しんでいる人と同じ立場に立つということは、私たちにとって本当に難しいことだと思います。慰めだと思って語った言葉が、必ずしもその人には慰めにならずかえって負担になってしまっているっていう事もあることかなと思います。逆に人を苦しめてしまうっていうこともあるかなと思いますね。私たちの力不足ということを感じることがあるわけですけれども、でも今日の聖書の箇所を読む時に、イザヤ書40章の一節に、

「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。ーあなた方の神は仰せられるー」

というふうに記されてあることに気づかされます。これは神様ご自身の言葉であるということがわかりますし、慰めよ、慰めよ、と2回繰り返されています。そのような御言葉を通して神様は私たちの慰めを本当に願っておられるし、私たちを慰めたいと願っておられるし、そしてこの世には必ず神慰めがあるということに私たちは気づかされるんではないでしょうか。慰めの言葉を人に語るときに、その言葉の中身も大事ですけれども、語り方も大事だと思います。次の2節に

「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。」

と書かれてありま。この御言葉を読む時に、神様は私たちに優しく語りかけてくださる方、そして呼びかけてくださる方なんだということに気づかされます。皆さんも今までの歩みの中で、「あー慰められたな」と思う体験を何度かして来られたと思うんですけれども、その時かけられた言葉はやっぱり優しい言葉だったんではないかと思うんですよね。乱暴な言葉ではなかったんじゃないかという風に思います。私たち人間は言葉を通して人とコミュニケーションするんですけれども、ことばの論理的な内容だけでコミュニケーションしてるわけではないと思うんですね。言葉の声の感じや、イントネーションや、声の響きや、あるいはそのトーンのようなものでも、お互いの気持ちを伝え合っているということが言えると思うんですね。神様も言葉の内容も素晴らしいですけれども、その内容だけではなくてその声の響きであったり、その語り方によっても私たちを慰めてくださる方であるということを覚えたいと思います。

「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。」2節

とあって、私たちに呼びかけてくださる方だということを教えられます。イエス様もヨハネの福音書10章3節でこんな言葉を語っておられます。「牧者は自分の羊たちをそれぞれ名を呼んで連れ出します」ってそういう言葉がある。良い牧者は、たくさんいる羊たちの一匹一匹の名前をよく知っていて、それぞれの羊の名前を呼んで連れ出す。羊飼いは本当に羊のことを一匹一匹よく知っているわかっているということに気づかされる。ですから 集団で引っ張っていくというのではなくて、番号で何番、何番と呼ぶのでなくて、本当に一匹、一匹の名前を呼んでいるということ。同じように神様も私たち一人一人の名前を呼んで、呼びかけてくださる方であるということを覚えたいと思います。ちょうど私たちが祈るときに天にいます私たちの父なる神様って呼びかけますね。祈りっていうのは呼びかけです。呼びかけから始まる。

それと同じように主も私達の事を名前を呼んで呼びかけてくださる。そういう関係がも私たちに与えられているってことがわかったら、もうそれだけでも私たちは慰められるんじゃないでしょうか。この方の優しい声が、呼びかけの声が聞こえたら、もうわたしたちはそれだけで慰められるんじゃないでしょうか。もちろんそのメッセージの中身も大事ですけどもね中身も大事ですけど、もう呼んでんでくださっているというその事実でも、私たちは慰めを受けるんじゃないかなと思います。

皆さんの中にはヘンデルのメサイアを聞かれる方がいらっしゃるかもしれませんけれども、メサイヤはメシア・キリストを褒め称える壮大な賛美なんですけれども、その初めはこのイザヤ書40章のこの言葉から始まるんですね。「慰めよ、慰めよ、私の民を」というこの歌詞からメサイアは始まります。英語の訳だと comfort  comfort  my peapleっていうそういう歌詞なんですけれども、私は今週一週間、この説教の準備をするために毎日メサイアを聞きました。私の耳の中では、今でもメサイアのメロディが流れているんですけれども、本当に素晴らしいメロディだなという風に思います。この最初の部分を歌っているのはテナーの歌い手さんがソロで歌うんですけれども、それはそれは優しい歌声ですね。そして本当に呼びかけるように歌うんです。その声と歌を聴いているだけで慰められるようなそういう旋律だなという風に思うんですね。そしてその歌を聞きながら私は思ったんですね。

神様もこのようにして私に語りかけてくださって、呼びかけてくださっている。それを思ったらすごく嬉しくなった。ぜひ私たち覚えたいと思います。この世には慰め主なる神様が、必ずおられます。その方が私たちの慰めを願っておられます。そして慰めて下さいます。慰め主の、慰めの声を私たちは本当に聞くものでありたいなと思うんですね。

2.赦し

さてその慰めの声、語り方も大事ですけども、そのメッセージもさらに大事であるということを常に心に留めていきたいと思います。そのメッセージにも慰めが満ちているということがわかります。

2節のその続きの部分で3行目から読んでみたいと思います。

「その苦役は終わり、その咎は償われている、と。その全ての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」

優しく語りかけてくださる。そして呼びかけてくださる。その言葉、メッセージの中に、三つのメッセージが語られているということがわかります。まず「その苦役は終わる」っていうことが語られている。「その苦役」と出てきます。これ漠然とした抽象的な苦役ということではなくて、ある特定の苦役ですね。その苦役ってどんな苦役なんでしょうか?

その具体的な内容は、その直前のイザヤ書39章の5節6節7節を読むと気づかされます。39章の5節6節7節を読んでみると、こういう風に書いてあります。

イザヤはヒゼキヤに言った。『万軍の主の言葉を聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの父祖達が今日まで蓄えてきた物が全て、バビロンへ運び去られる日々が来る。何一つ残されることはない。-主は言われるーまたあなたが生む、あなた自身の息子たちの中には、 捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となるものがいる』

預言者イザヤは当時南ユダ王国の王であったヒゼキヤに向かって主の言葉を語りました。それはエルサレムと南ユダ王国がバビロン帝国によって滅ぼされてしまうというそういう内容です。たくさんの王室に蓄えられてきたものが全てバビロンへ運びさられる時が来る。そして彼らの息子たちがバビロン捕囚になって連れられていくっていうことが、ここで語られている。そういう悲劇が起こる。特に彼らの息子たち、次の世代の子供たちの代に起こるっていうことが語られました。このヒゼキヤ王がエルサレム、南ユダ王国を統治していたまさにその時代に、北イスラエル王国の方は、アッシリア帝国によって滅ぼされるということがありました。それとまさに同じような悲劇が、今は南ユダは守られているけども、やがて同じ悲劇が起こるよということが警告されている。

それで私達日本人は国が滅ぼされるという経験を民族としてはまだしたことがないと思うんですね。ですからこれがどんなに大変な悲劇であるかってことを実感としては感じられないかもしれないですけど、今、本当に世界中見ると、国を失っている人たち、難民になっている人達、本当に自分の居場所がない人たちがたくさんいますけれどもね、本当にそういう人たちの悲しみを思う時に、少しその苦しみを感じることができるかなと思います。

それはそれは本当に大変な日なんだと思いますが、そういうことは必ず起こるんだけども、でもその悲劇は永遠に続くわけではない。その苦役は終わると、ここで約束されました。大変な苦役がこれから始まるんだけども、神様はその苦役が終わる時もちゃんと用意してくださっているということがここで約束されているわけであります。

それはユダヤの民が解放されて、エルサレムに戻ってくる時、そしてそこに神殿を再建する時、その時が必ず来るわけですけれども、その時には本当に彼らは慰められたわけであります。ただ政治的に解放されるとか、状況が変化するということだけで慰められるわけではなくて、二番目にここに語られていることは、その咎は償われているという風に語られております。その苦難、苦役の原因になっている彼らの咎がその時には償われるんだよ、ですからこの慰めというのは単なる状況が変わるとか、そういう事の慰めではなくて、その根源にある問題すらも神様が取り除いてくださるんだよっていう、そういう慰めであるということに私たち気づかされる。

私達は今日イザヤ書の40章からいきなり読み始めておりますので、そこに至るまでの39章まで、どんなメッセージが語られているかということをよく確認しないママに読んでおりますけれども、実はこの前半の39章までには、預言者イザヤによって語られたことの中心は「神の裁き」でした。

神に対して不従順であり反逆を繰り返しているイスラエルのために、神の裁きが下されるって言う事を、何度も何度もイザヤは警告してきました。その中には希望のメッセージもあったんですね。やがてメシアがやってくる、やがて救い主がやってくる、ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。一人の男の子が私たちに与えられる。そういう預言もあってですね、希望もあるんですね。希望のメッセージもちりばめられているんですけれども、でも基本的には神の裁きが下されるということがメッセージの中心でした。ですから、全然慰めではなくて、裁きのメッセージだったということが分かる。

その警告通りになりました。警告通りに、この後、南ユダ王国エルサレムも滅ぼされて、民はバビロン捕囚として連れて行かれる。彼らは自分の犯した罪の結果を見なければいけなかった。その中で苦しまなければいけなかった。そのような日々が長く続くんですけれども、でもやがて開放の日がやってきます。しかもその時には単なる政治的に解放される、自由になるというだけではなくて、彼らの咎が償われる。そういうめぐみがそこで約束されているということががわかります。

そしてさらに3番目に、その全ての罪に代えて2倍のものを主の手から受けている。そういうふうに語られました。その全ての罪に代えて、もう本当に蓄積された、もう本当にたまり溜まったたくさんの罪、その罪があるからこそ苦しんでるわけですけれども、その全ての罪が代えられていくっていう、そういう恵みがここに表されている。

そしてここに「2倍のものを主から受けている」とありますが、2倍のものと訳されている言葉は、重ね合わせるっていうそういう言葉が使われています。ある方はこれは2倍の祝福を受けるって言う風に理解しますけれども、でもおそらくここでは、民の罪を、神が用意してくださった生贄の犠牲によって帳消しにしてくださる恵みが表されてると考えられる。

人の罪が許されるために、その罪に見合った償いというのがなされなければならない。

犯された罪がそのまま無条件で許されるって事ないわけですよね。その罪に対しては償いがなされなければならない。そのためには尊い犠牲の生贄が捧げられる必要がありました。

ユダヤの社会においては、罪が許されるためには生贄が捧げられなければならない。これは彼ら自身がずっと学んできたことでありました。イスラエルの罪に対してご自分が用意してくださった生贄を重ね合わせるようにして神様は彼らの咎を贖いつつ、罪を許してくださったということであります。神様はイスラエルの民を決して見捨てなかったということ、決して見放さなかったということ、罪の中でもがいていました。苦しんでいました。でもその彼らを赦してくださった。解放してくださった。そこに本当に深い深い神様の慰めが表されているということを私たちは覚えたいという風に思います。

神様は私たちに約束してくださった慰め、そして私たちにくださる慰めというのは、私たちの悲しみの中にあり、また悲しみの先にある慰めであるということを聖書を通して私たちは教えられます。イエス様も言われました。

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

とマタイの福音書5章4節で教えてくださいました。私たちは自分の罪のゆえに悲しまなければいけない。自分の罪の結果の中で悲しまなければならない。

でもその悲しみを知っている人だけが、実は主の慰めを知ることができます。自分の罪を知らされて、その罪を悲しんでいる人だけが、その罪に神様が重ね合わせてくださった恵みを知ることができる。償いをして下さったんです。普通、償いていうものは、罪を犯した自分がするんです。罪を犯したら罪を犯した人が償いをしなければいけない。でも私たちはとてもとても償いきれないくらいの大変な罪を犯してきた。しかしその罪の償いをしてくださった。私たちのためにイエス様をくださいました。私達の元に来て、私たちの罪を背負って身代わりになって十字架にかかって死んでくださった。そのことによって私たちの罪を全部帳消しにしてくださった。そこに本当に主の慰めが満ちているということを、私たちは感謝したいと思うんですね。

神様が私たちに下さる慰めというのは、決して表面的な慰めではなくて、根源的な慰めであるということが分かると思います。あるいはそれは決して一時的な気休めのような慰めではなくて、永遠に続いていく慰めであるということがわかる。そのようにして私達を本当に慰めたいと願っているんですね。私たちの慰めを願っておられるんです。

慰めよ、慰めよ、私の民を。

と語っておられる主がおられる。その慰めをしっかりと味わう、経験するものでありたいという風に思います。

3.主の道を用意せよ

さてそんな慰めを私たちが経験するために何が必要でしょうか?どうしたらいいでしょうか?

それは「主の道を用意する」って言う ことが、私たちに求められていることだってこと覚えたいと思いますね。3節をお読みしたいと思います。

荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。荒地で私達の神のために、大路をまっすぐにせよ。』

「主の道を用意せよ。荒地で私達の神のために、大路をまっすぐにせよ。」この言葉を読む時に、この主が向こうから私たちのところに来てくださるということに気づかされるんですよね。私たちのこの抱えている醜い現実、荒野のようなこの醜い現実のただ中に、主が向こうから来てくださる。さあその道を作りましょう。道を整えましょう。大路をまっすぐに伸ばしましょう、という励ましの言葉ですけども、これは私たちが主が来られる準備をしましょう、主が来てくださる備えをしましょう、心を開いて主を受け入れましょう、そういう励ましのメッセージであります。 そしてこの方が来てくださったかどうなるんでしょうか?4節、

すべての他には引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる 

随分凸凹な道だったんだなって気づかされますよね。本当に私たちの道、この荒野のような私たちの状況というのは、山もある、谷にもある、曲がっている、凸凹である、ずいぶん荒れ果てた地だってことが分かるんですよね。この世は本当に険しい荒野だと思います。

その中にあって私たちの心も生活も荒れ果ててしまう面があるんじゃないでしょうか。そして私たちの心も本当にどんどんどんどん荒れ果てて行きますけれども、私たちの心の中にはきっと誰にも言えないような、誰にも見せられないような、暗い谷間があるんじゃないでしょうか。劣等感とか、他人に対する怒りとか、恨みとか、妬みとか、本当に人には見せられないような本当に暗い暗い谷間をみんな私たちは抱えているんではないでしょうか。あるいは私たちは、頑なで崩されなければならない山や丘のようなものもいっぱいあるんじゃないでしょうか。自分のプライドとか、自己中心とか、うぬぼれとか、傲慢とか、何かそういう高い高い山や丘があるんではないでしょうか。あるいは素直になりきれない曲がった部分、歪んでしまった自分の性質、なかなか素直に人の話を聞くことができないって言う何かそういう曲がってしまった、そういう部分があるんではないでしょうか。そして人に辛くあたって、人をつまずかせたり、自分でもつまずいてしまったりするような険しいでこぼこの地があるんではないでしょうか。

でもこの道が、この方がいらっしゃったらどうなるんでしょうか。

全部平らになるんです。全ての谷は引き上げられます。すべての山や丘は低くなります。曲がったところはまっすぐになります。険しい地も平らになります。

荒れ果てた私たちの心、私たちの生活、水のない乾ききった心、歪んでかたくなになってしまった私たちの現実が、平にされてしまう。平安に変えられていく。こんな経験ができたらもう私たちは本当に主を仰ぐんではないでしょうか。主の栄光を見るんではないでしょうか。そして本当に褒め称えるんではないでしょうか。

4.主の栄光を見る

5節に書いてあります。

このようにして主の栄光が現されると、全ての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。

このようにして主の栄光が現されたんです。もう人間では絶対にできないことです。でも主が来てくださったことによって、そのことがなされた時にそれは主の栄光が現されたっていうこと。それを見た時に私達は本当に目を主にあげて讃美するものに変えられていくんではないでしょうか。それまで不平不満ばっかり喋ってた私たちの唇が、本当に主を褒め称えるものに変えられていくんではないでしょうか。ヘンデルのメサイアをずーと聞いていくとですね、この箇所に至るまではずっとソロの人が、テノールのソロの歌手が歌うんですね。ところが5節に来ると合唱に変わるんですね。ずっと一人でソロで歌ってたのに、この5節、の場面に来るとみんなで合唱して「このようにして主の栄光が現されると全ての肉なる者が共にこれを見る」ってみんなで歌う。この場面はですね、その光景はまるで世界中の人々が主の栄光を見て神様を賛美しているかのような、そういうことを思い浮かべるという場面だなと思いました。本当に素晴らしい賛美だなという風に思います。そのようにして私達も主の栄光を見せていただきたいなという風に思います。

今年の私たちは、コロナ対策で本当に気を使ってます。今、私たちもこの礼拝堂に集まって換気をしているんですね。換気に気をつけています。密にならないように空気の入れ替えがなされるように、ドアや窓をちょっと開けてですね換気に気を使ってるんですけれども、今日のみことば、聖書の話を頂いた上で、私達のこの世の中にも換気が必要ではないだろうかということを考えさせられました。この世の中は本当にこの人間が吐き出した汚い空気で満ちてるんではないだろうかというふうに思うんですよね。自分の吐き出した息であったり人が吐き出した息であったり、何かそういう非常に汚くて醜いそういう空気で満ちてるんじゃないでしょうか。その中に私達は塗れながら生活をして、様々な影響を受けてしまったり、汚染されてしまったり、自分で自分のこと守ろうと思いながらも、なかなかそれができないっていうような、そういう現実があると思うんですね。

でもそんなこの世に、外から吹いてくる風が必要ではないでしょうか。天から吹いてくる風、神様から吹いてくる風、そのような風が必要ではないでしょうか。その風によってこの世に溜まってしまった汚い空気を追い出してもらうっていうことが、私たちに必要じゃないかなと思うんですよね。

また私たちの心にも、やはりこの換気が必要かなと思います。私たちも自分の思い、自分の考え、自分の計画、自分のこだわり、自分の自分のっていうものでどんどんどんどん自分の心の中が膨らんでいってですね、本当に汚い思いでいっぱいになってしまうことがあるわけですけれども、そんな私たちの心にも神様からの風を吹き込んでもらって、悪い空気を追い出してもらってそして、神様の聖なる空気によって満たされるっていう経験が、私たちにも必要じゃないでしょうか。

5.まとめ

今日の聖書の箇所を通して教えられます。

私たちの慰めの主は向こうから来てくださいました。私達のこの荒野のような現実、私達の抱えているこの醜い醜い現実、自分たちではどうすることもできない溜まってしまっているそのような現実の中に、主が向こうから来てくださった。この方にしっかりと入ってもらう時に、この世は劇的に変わるんではないでしょうか。殺伐とした凸凹だらけだったこの世の中が、平らに変わっていくんではないでしょうか。

さらに私たちの心の中にも入ってもらう必要があるんではないでしょうか。それまで本当に凸凹な私たちの心も、不平不満ばっかり、何かそういう思いで充満している所に、本当に神様に入ってもらう必要があるんではないでしょうか。その時に私たちは主の栄光を見るものに変えられて行きます。そして主を賛美するものに変えられて行きます。そのような恵みが私たちに約束されているということを、ぜひこのクリスマスの季節によく味わい体験するものでありたいなという風に思います。

慰め主になる主が、私達の元に来てくださいました。私たちの醜い醜い現実のただ中に来て下さいました。私たちは是非心を開いてしっかりと道を用意して、この方を受け入れるものとなろうではありませんか。そこでしっかり慰められようではありませんか。そしてともに主の栄光を見て、ともに主を賛美しようでありませんか。そのようなすばらしいクリスマスの時を、私たちは共に過ごしていきたいと思います。どうか主を共に褒め称えることができますように。

お祈りをいたします。

恵み深き私たちの父なる神様。私たちの荒野のようなこの世界に、そして私たちの現実の只中に、主が向こうから、父の元から、天から来てくださった、イエス様が来てくださったこと覚えてありがとうございます。そして私たちのでこぼこな場所や、山や谷や曲がった道や、すべてそれらが平らにされて平安に変えられていく恵を覚えてありがとうございます。その慰めを、私たちが十分にこのクリスマスの季節に味わって、またこの慰めがこの地に満ちるように、そのように祈ることができるように、そして共に主を仰ぐことが出来ますように助け導いてください。み言葉を心から感謝いたします。尊い主、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2020 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page