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とらわれない心・・・サムエル記第一24章1節~22節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

サムエル記第一、24章1節~22節      


今日の聖書の箇所を通して、ダビデには、「とらわれない心」が与えられていたということを学んでゆきたいと思います。私たちの心は色々なことが起こるたびに、あるいはいろんなことを言われるたびに、その起こったこと、言われた言葉にとらわれるんですね。とらわれやすい心を持っていると思います。

1.サウルの執念

ではダビデはなぜ「とらわれない心」を持つことができたのか。そしてなぜ自分の心を守ることができたのかということを共に聖書の箇所を通して学んでいきたいと思います。
前回サムエル記を学んだ時は、直前の23章を学びました。そしてその時のことを少し思い出して頂きたいんですけれども、その時にダビデは、絶対絶命の状況でありました。ダビデの居場所が密告され、その知らせを受けて、サウロが、兵士達を引き連れてダビデに迫ってきたからであります。そしてダビデにはもはや逃げ場がありませんでした。一つの岩山が両者を仕切っているだけで、あとはダビデには逃げ場がない状態です。完全に追い詰められた状態の中で、ダビデも、もうこれまでかと思ったんじゃないかなと思います。が、しかし、その時に信じられないことが起きましたペリシテ人たちが、イスラエルに襲いかかってきたという知らせが、なんとその時にサウルの元に届いた。それでサウルはもはや、ダビデを追いかけることを中断して、慌てて引き返してきました。ですからダビデは、ぎりぎりのところで守られた。それが前回学んだことの内容だったんですね。

それで今日の話はその話の続きです。サウルは結局は再びダビデを追いかけ始めるということが一節二節とに書いてあることです。
1節:「サウロがペリシテ人を追うのをやめて帰ってきた時、ダビデが今、エンゲディの荒野にいます、と言って彼に告げる者がいた。
2節:「サウルはイスラエル全体から3000人の精鋭を寄り抜いて、エイリムの岩の東にダビデとその部下を探しに出かけた。」
またもやダビデの居場所をサウロの元に密告した人がいたということがわかります。その知らせを受けて、サウルは再びダビデを追いかけ始めます。しかも今回はイスラエル全体から3000人の精鋭をより抜いてきた。ここにですね、サウロの並々ならぬ気迫と執念を感じさせられますね。ダビデにとって同じことの繰り返しです。一度は助けられた。一度は守られた。でも苦しみの長いトンネルから抜け出したわけではないんですね。このような展開にどんなに精神力のたくましい人でも、さすがに疲れ果ててしまうんではないかと思いますね。助かったと喜んだのに、結局同じことの繰り返しです。ですから、サウルがまた迫ってきたっていうことを知った時にダビデは本当にがっかりしたんじゃないかなと思うんですね。それはダビデにとって非常に辛い経験だったと思います。

2.ダビデ、絶好のチャンス

ところがその後の展開は信じられない展開を見せるんですね。3節です。
道の傍らにある羊の群れの囲い場に来ると、そこに洞穴があった。サウルは用を足すために中に入った。その時ダビデとその部下はその洞穴の奥のほうに座っていた。
道の傍らにある羊の群れの囲い場の近くに洞穴があった。サウロは用を足すためにその洞穴の中に入ってきました。用を足すために入ってきたわけですから、一人で入ってきたと思います。その洞穴のさらに奥深くに、何とダビデとダビデの部下が隠れていた。なんという劇的な展開でしょうか。特にダビデにとっては信じられない話ですよね。隠れてるわけですよ。ダビデが隠れてるところに、なんとサウルが一人で入ってきたんです。。。このような事態の劇的な展開に普通であれば「これは神様が下さった最大のチャンスに違いない」、「神様の導きに違いない」と考えるんじゃあないかなと思います。実際に 彼と一緒にいた部下は、そう考えたんです。4節、
ダビデの部下はダビデに言った。今日こそ主があなた様に『見よ、私はあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われたその日です。」ダビデは立ち上がり、サウルの上着の裾をこっそり切り取った。
このようにダビデの部下は、これはもう神様がくださったチャンスですと確信しています。そのチャンスを、主が今日あなたにくださったと確信して迫っております。私達でもそう言いそうなところじゃないかなと思いますね。そしてこの部下の提案は、この時のダビデにとっては非常に魅力的な提案でした。ダビデはなぜ苦しんでいるんでしょうか。その原因は何なんでしょうか。それはサウルなんです。サウルが、ダビデの抱えている苦しみの全ての原因なんです。このサウルさえ、いなければダビデは、全ての苦しみから解放されるんです。今までも、このサウルの為に、どれくらい苦しんできたでしょうか。ずっと逃げ回っています。どこに逃げても隠れても安心できる場所はありません。そのために悲しいこともいっぱいあったんです。気が触れた人のようなふりをして、涎をダラダラ流したりしたこともあるし、あるいはノブの町の祭司たちがダビデのために、みんな虐殺されてしまうという大変な悲劇も怒ったんです。それら全部を経験しなければならなかったんです。こんな苦しみの原因は全部このサウルにあるんです。
サウルが、一人で、それも無防備の状態で、ダビデの前に現れた。これは本当に大きな大きな誘惑だったと思うんですね。この時の心境はどうだったんでしょうか。

3.状況に依存しないダビデの信仰

でもダビデは結果的にはその部下の提案に乗りませんでした。ダビデは立ち上がり、サウルの上着の裾の一部をこっそりと切り取るだけにとどめました。神様の前にそれは絶対に許されないことである、という意識を彼が持っていたからであります。ここに、ダビデと神様の関係が非常にしっかりしているということが表されている。そしてそれは、どういうことかと言うと、状況に左右されないものが彼の中にあるということですね。状況に依存しない信仰を、ダビデが持っていたということであります。・・・・私たちはもしかすると似たようなことがあるかもしれませんね。状況が大きく変わったり、あるいは本当に自体が自分の狙った方向に傾いたり、向いて行ったりっていうことがあるかもしれません。そういう状況の変化の中に、これは神様の御心じゃないか、神様が、道を開いてくれたんじゃないか、ということで、実はもっと違うところに御心があるのに、そのまま突っ走ってしまうという、そういう、危うさを、私たち抱え込んでしまうことがあるのではないかなと思うんです。でもよく考えてみると、それは状況に依存した信仰ということになってしまいます。そして神様との関係が、希薄であるということが、逆にはっきりしてしまうんじゃないかなと思います。確かに神様が御心を示す時に、状況を開いてくださったり、変化させてくださるということがあると思います。しかし、それが全てではないということを、私たちは覚えていなければいけないと思います。
どうしても主の導きが欲しい、神様からの答えが欲しいという時には、私たちは状況の変化に敏感になるという傾向があると思います。でも、そこでも忘れてはいけないことは、私たちが最も信頼しなければならないことは、状況の変化に対する自分の気持ちではなくて、御言葉であるということです。私たちはどんな状況の中にあっても、みことばに根ざして物事を判断し行動しているか、ということが問われるということを、ここから学びたいと思います 。

4. ダビデはなぜ、サウルの上着の裾を切り取った事について心を痛めたのか?

ダビデはなぜ、このような状況の大きな変化の中で、主の御心を優先させることができたのか、もう少し詳しくみていきたいと思います。
注目したいのは5節の言葉であります。
5節にこう書いてあります。
後になって、ダビデは、サウルの上着の裾を切り取った事について心を痛めた。」
この事が非常に注目すべきところだなと思います。
サウロの上着の裾をちょこっと切り取ったんです。ダビデはそのことで「心を痛め」と、ここに書いてあるんですね。あなたは、この感覚が分かるでしょうか。なぜ心を痛める必要があるんでしょうか。ダビデはサウルを殺しませんでした。誰にも気づかれずに殺すチャンスはあったのに、サウルを殺しませんでした。それは本当に素晴らしいことだと思います。それに比べたら、サウルの上着の裾の一部を、ちょこっと切り取るぐらい、とるに足らない実に些細なことと言えるんじゃないでしょうか。
そしてその後、チャンスがあったのに殺さなかったんだよということを、サウルに伝えていますけれども、それを効果的に伝えるためにも、すごく良かったんじゃないでしょうか。
ですから全然心を痛める必要もなくて、非常に賢いことをしたと、私たちには見えるようなそんな場面じゃないかと思うんですよね。ところがダビデは心を痛めたと書いてあるんですね。どうして心を痛めたんでしょうか。そこにダビデの信仰が、形式的な信仰ではなくて、本当にダビデの心や体に染み込んでいるそういう姿を、私たちは見ることができるんじゃないかなと思います。
なぜダビデは心を痛めたのか。その手がかりはやはり6節の言葉だと思います。
6節のダビデの告白の言葉ですが、こう言っています。
彼は部下に言った。私が主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対してそのようなことをして手を下すなど、絶対にありえないことだ。
ダビデはここで主に逆らうという言葉を使ってるんです。サウルを殺すことはダビデにとってはサウルを殺すことだけじゃないんです。それは主に逆らうことなんです。
どうしてですか?それはサウロは主に油注がれた方だからです。主によって王として選ばれた方です。神様がサウルを王として選んだんです。神様の任命なんです。それはダビデにとって重大なことなんです。その王に歯向かう事はつまり、サウルを王とした神様に歯向かう事なんです。その方に反逆すること、その王に手を下すことは、つまり神様に手を下すことと同じなんです。少なくてもダビデにはそう感じられていたんです。
これがサウロの上着の裾を切り取ったことについて、ダビデが心を痛めたわけであります。
つまりダビデは、神様に対して非常に不遜な態度を取ってしまったということで、そこを責められているわけです。ほんのちょっと上着のすそを切り取っただけです。私達にとってみればもう本当に実に些細なことで、殺さなかったんだから、それだけで素晴らしいと思うところですけれども、でもそれでも、それだけのことでも神様に失礼なことをしてしまった、不遜なことをしてしまったと心を痛めているダビデの姿を知ることができるんですね。

5.主への恐れ

私たちは果たして、このような感覚を持つことがあるだろうか、と考えさせられます。特に現代という時代に生かされる信仰者たちはこのような感覚を持つことがあるだろうか、あるいは、このような感覚を育てていくということがあるだろうか、ということを思います。
現代はちょっと人間が偉くなりすぎてしまった時代じゃないかなと思うんですね。人間の権利や願望が、そのまま承認されたり肯定されることが期待される、そういう世の中になっていると思います。その中にあって私たちが、神様に対する恐れの意識を持つということ、神様に対する恐れの意識を育てるということは、いまの私たちにとっての非常に大切な課題ではないだろうかというふうに思います。
ダビデに見られる特徴を一言で言うならば、それはやはり神を恐れるということであります。ダビデは目に見えない神様、絶対的な神様がおられるとして、自分はその神様の前に生かされているという意識をはっきりと持っている人でありました。これがダビデが状況に振り回されずに、あるいは自分の気持ちに左右されずに的確な判断ができたわけであります。もしこの時にダビデが神様のことを意識しないで、サウルのことだけを見て物事を考えていたらどう判断したでしょうか。どんな気持ちになっていたでしょうか。どんな行動を起こしたでしょうか。
サウルはリーダーとしてはとても問題の多いリーダーです。とても従いづらいリーダーです。しかも感情的で独善的でプライドが高くて、リーダーとしての品格に乏しいという、そのような人物です。そのような面ばっかり見ていたら、普通私たちは心が不安でいっぱいになります。そのようなリーダーのもとに従ってるわけですけれども、リーダーに振り回されて部下としてはもう心が不安でいっぱいになりますね。憤りと怒りがこみ上げてきますね。恨みがこみ上げてくるんじゃないでしょうか。そしてそのまま殺してしまうかもしれない。ダビデもそうなる危険はあったと思うんですね。ですからサウルだけを見ていたら、おそらくそういう気持ちになったと思うんですけれども、でもダビデはそのようになりませんでした。このような状況の中でサウルに何も害を加えないで返したというのは、ほとんど奇跡じゃないかなと思います。それができたのはやはり、ダビデの中に、主への恐れがあるからであります。私たちもこのダビデから、学びたいと思います。
どうすれば私たちは主を恐れることを知ることができるでしょうか。それはやはり私たちが聖書を通して、神様がどのような方であるかということを知り続けること、そして私たちがこの方の前で生かされているという自覚を、日々持ち続けること、そのことを通してだと思います。神様は目に見えない方です。でも目に見えないけれども確かにおられるんです。そして私たちはその方の前で生かされているんです。その事を私たちは忘れないようにしたいと思うんですね。私たちの信仰はどうしても状況次第、私たちの気持ち次第、という面があります。その中にあって、私たちは判断がぶれるんですね。御心が分からないんです。的確な判断ができなくなってしまう。私たちのうちに、主に対する恐れ、というものを育てていくものでありたいと思います。

6.ダビデは全ての裁きを、神様にお委ねした

このようにダビデはこの状況の中で、的確な判断をすることができて本当に良かったなと思うんですけれども、もうひとつのことも考えてみたいと思います。本当にダビデはそれで満足したんでしょうか。その後の展開も少し追ってみたいと思います。
8節から読んでみたいと思います。「ダビデも洞穴から出ていき、サウルの後ろから呼びかけ、『王よ』と言った。サウルが後ろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して礼をした。そしてダビデはサウルに言った。なぜダビデがあなたに害を加えようとしていると言う人の言葉に耳を傾けられるのですか。今日、主が洞穴で、私の手にあなたをお渡しなったのをあなたの目はご覧になったのです。あるものはあなたを殺すようにと言ったのですが、私はあなたのことを思って、『私の主君に手を下すことはしない。あの方は主に油そそがれた方だから』と言いました。我が父よ。どうか私の手にある、あなたの上着の裾をよくご覧ください。あなたの上着の裾を切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私の手に、悪も背きもないことをおわかりください。あなたに罪を犯していないのに、あなたは私の命を取ろうと狙っておられるのです。 どうか主が私とあなたの間を裁き、主が私のために、あなたに報いられますように。しかし私はあなたに手をかけることはいたしません。昔のことわざに『悪は悪者から出る』といいます。私はあなたを手にかけることはいたしません。イスラエルの王は誰を追って出てこられたのですか。誰を追いかけておられるのですか。死んだ犬の後でしょうか。一匹のノミの後でしょうか。どうか主が裁き人となって、私とあなたの間を裁き、私の訴えを取り上げて擁護し、正しい裁きであなたの手から私を救ってくださいますように。」
このようにサウロが洞穴から出て行った後、ダビデはサウルに呼びかけています。そしてサウルに対して切々と訴えるように話しかけております。今9節から15節までずっと読みました。長い長いカ所でしたが、そのほとんどがダビデの言葉です。ダビデがサウルに向かって語りかけている言葉であり、そしてこの言葉を通してダビデがとても真剣に、何とかしてサウルを説得しようとしていることが分かるわけです。サウルを殺したいなどという考えは自分には全くないんだということ、今まさに殺せるチャンスがあったのに殺さなかったということ、そして今サウルがしていることは、死んだ犬が一匹のノミの後を追いかけているような実に意味のないことなんだということを、切々と訴えている言葉であります。
この言葉を語る時のダビデの表情は、もう真剣そのものだったと思います。この言葉を読んでいて気づくことは、この言葉の中に、祈りが入っている、という事なんです。12節・15節なんですが、12節でこういう風に祈っています。「どうか主が私とあなたの間を裁き、主が私のためにあなたに報いられますように。」そして15節「どうか主が裁きぬしとなって、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて擁護し、正しい裁きであなたの手から私を救ってくださいますように。」サウルに向かって話しかけてるんですよ?サウルに向かって話しかけてるんですけど、この喋ってるその途中に、神様に祈っているんですね。そしてその祈りの内容は、「どうか神様、あなたが私とサウルの間をさばいてくださいますように、そして正しい報いを行ってくださいますように。」と、祈りながら語ってるんですね。語りながら祈り、祈りながら語っているという、そういうダビデの言葉であるということに注目をしたいというふうに思います。つまりダビデは全ての裁きを、神様にお委ねしたということであります。ここから気づかされることはダビデの心の中は整理がついてないんですね。なぜ自分は苦しまなければならないのか、イスラエルの王であるサウルに自分は忠実に仕えてきました。神様が立てた器であると思うからこそ、この人に心から支えてきました。サウルのために何度も戦いに出て行って勝利を収めました。サウルが機嫌が悪い時は、竪琴を弾いて心を慰めたりもしました。本当にダビデは、サウルに忠実に仕えてきたんですよね。サウルにとってこれほどありがたい家来はいないんです。それなのになぜ自分は命を狙われているのか、なぜサウルに殺されなければならないのか、わかんないんです。そしてこの苦しみがいつまで続くんでしょうか。そしてこの状況をなぜ神様は黙って見ているんですか。なにもしてくださらないのですか。もう彼の心の中はわからないことだらけなんです。理解できないことがたくさんあるんです。当然サウルに対するいろんな思いがあったと思います。複雑な感情があったと思います。復讐したいという気持ちも、もしかしたらあったかもしれない。サウルに対する不満とか不平とか怒りの感情も、きっとあったんじゃないかと思うんですね。でもその全てをダビデは神様におゆだねしました。復讐は ダビデのすることではないんです。主がなさることです。人間にはとても理解できないようなことでも、神様は必ず最善をなしてくださるという、ダビデの深い信仰がここにあるということに私たちは注目しなければいけないと思います。そして本当にそのようになっていくんですね。その時のダビデにはまだ分からないんですけれども、この後の展開で神様は本当に裁くのです。両者を裁きます。ダビデを救って下さいます。そしてダビデをイスラエルの王としてくださいました。一方のサウルに対しては、厳しい裁きが待ってるんです。神様の裁きが下る時は必ず来る。その時をダビデは待ったんですね。その全てのことを神様にお祈りしたところに、ダビデの信仰が現されております。私たちが神様に従うとき、それは自分の感情を押し殺して、ただ機械的にロボットのように従えばいいかと言うとそうではないんですね。私たちも時に胸に痛みを覚える時があります。愛したくても愛せないそういう葛藤を味わう時があります。自分自身の弱さのゆえに、人に対する憤り、怒り、不平不満を抱えてしまうこともあります。自分でもどうすることもできないような、苦しい感情を抱えてしまうことがあります。いつも、きれいさっぱりした心で、神様に従っていきたいと思いながらも、なかなかそれができないことがあります。自分の罪深さ、弱さが、全部見えてしまって本当に神に従うことが苦しいということもあります。しかしそんな私たちを、ただ私たちに対する愛のゆえに、そのまま受け入れてくださる神様がいるとすれば、私たちのその方に対する感謝は尽きでことがないんではないでしょうか。その主の憐れみの御手に私たちはすがりたいと思うんですね。そしてその神様の御手に私たちは全てを、お委ねしたいと思います。私たちには理解できないこともたくさんあります。すぐに答えが出ないこともあります。でも神様はすべてのことを最善に握っておられるんです。全ての事をご計画の中に納めておられるんです。そして主は必ず正しい裁きを行われるんです。私たちの信仰に必ず報いてくださいます。その主の御手に私たちは全てをお委ねし、信頼するものでありたいと思います。

7.まとめ

最後にサウルの反応にも注目して終わりたいと思いますけども、16節から読んでみます。
ダビデがこれらの言葉をサウルに語り終えた時、サウルは、『これはお前の声なのか?我が子ダビデよ。』といった。サウルは声を上げて泣いた。そしてサウルは言った『お前は私より正しい。私に良くしてくれたのに、私はお前に悪い仕打ちをした。私に良いことをしてくれたことを、今日お前は知らせてくれた。主が私を、お前の手に渡されたのに私を殺さなかったのだから。人が自分の敵を見つけた時、その敵を無傷で去らせるだろうか。お前が今日私にしてくれたことの報いとして、主がお前に幸いを与えられるように。お前は必ず王になり、お前の手によってイスラエル王国が確立することを、私は今確かに知った。今主にかけて私に誓ってくれ。私の後の子孫を断たず、私の名を父の家から消し去らないことを。』ダビデはサウル王に誓った。サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上っていった。
ダビデの、一生懸命な訴えの言葉を聞いて、サウルは非常に心を揺さぶられて、感動したということがわかります。サウルは、「これはお前の声なのか?我が子ダビデよ。」と言った。「サウロは声を上げて泣いた。」サウルは泣いたんですね。非常に涙もろい面があった、ということが分かるんですけれども、ダビデの言葉に感動して、そしてダビデが自分に対して、してくれたことを本当に感謝してそして、仲直りしたように見えるんですね。ここだけ見たら、本当に実に良い話なんです。感動的なんですね。小学校の道徳の教科書に出てくるようないい話だなって思います。
でも私たちはこの後の話が分かるんですね。どうなって行ったか、わかるんです。それを思う時に、これはサウロンの一時的な現象であったということが分かるんです。そして結局はこの後すぐにサウルは元に戻ってしまうんです。そしてまた、ダビデを追いかけ始める、そういう展開を見ていく時に、結局はサウルの心は何も変わっていなかった、表面的にはちょっと変わった時もあったけれども、心の本質は何も変わっていなかったということに気づかされていきます。
ダビデとサウルは何が違うんでしょうか。ダビデとサウルの心はどうしてこんなにも違うんでしょうか。その違いはどこから来るんでしょうか。それは今日の聖書の箇所を通して明らかだと思いますが、ダビデは神様を恐れたからです。その一方でサウルは人を恐れていたからであります。それが違いです。ダビデは今日の箇所で明らかなように、神様をどんな状況の中にあっても恐れる人でした。ところがサウルは神様のことを意識しながらも、心のどこかで意識しながらも、結局は人を恐れるという人物でありました。ですからダビデに人気が奪われていくということが分かった時に、急に怖くなって、ダビデオ穏やかな目で見ることが出来なくなってしまった。サウルにとっては人からの評価というものは、非常に大事なものでした。人からどう見られ、どう評価されるか、そういう体裁とか面目というものが非常に大事なものだった。神様との関係を意識しながらも、どうしても人との関係を優先してしまうようなところがあったということが言えると思います。それがサウルの心は状況にとらわれやすく、その時の自分の気持ちに左右されやすい、ひとつの要因であったということを私たちは覚えたいと思います。そしてサウルには神に対する恐れが欠けていたということであります。御言葉に対する信頼が不十分であったということであります。私たちの心は果たしてどちらの心模様でしょうか。ダビデの心模様でしょうか。それともサウルの心模様でしょうか。両者の比較を通して私たちは問われることだと思います。
ダビデのような心でありたいと願いながらも、実際にはサウルの心のようであることが多い私たちであるかもしれません。でも神様はこのようにして、私たちを御言葉を通して励まして下さる方であります。主に従うものとして私たちを成長させてくださる方であります。そしてそれは御言葉以外には決してとらわれない、自由な心を私たちに与えてくださるということであります。私たちもダビデのように主を恐れ、主にお委ねするものとなろうではありませんか。全能なる主なる神が、私たちと共におられる。そしてその方の前に私達は生かされているということを、日々自覚しながら、この方に従っていくものでありたいというふうに思います。

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。私たちにふさわしい御言葉を与えてくださったことありがとうございます。この一年、主が共にいてくださったことを覚えてありがとうございます。共にいてくださる恵みを覚えながら、また同時にあなたの前に生かされているという自覚をしっかりと持ちながら、あなたに従い、そしてすべてのことを、お委ねしていくことができますようにどうぞ導いてください。御言葉を感謝し、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします 。

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