イエス・キリストをより良く知るために

気落ちした時、まず祈ろう!主に向かって声をあげよう。・・・第一サムエル22章

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 あなたは、この一週間振り返ってみて気落ちされたことはあったでしょうか?どんな時に気落ちされたでしょうか?物事がうまく進んでいかないとき、人が自分の期待に応えてくれない時、信頼していた人に冷たくされた時、失敗した時、自分の弱さに向き合わされた時、いろんな時に私たちは気落ちするものだと思います。

 今日の箇所でダビデも気落ちをしておりました。すごく気落ちしていたと思います。21章13節の言葉で、ここにこう書いてあります。「ダビデは彼らの前で、おかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、髭によだれを垂らしたりした

 このように、ダビデはガテの王様のアキシュという人と、その家来達の前で気が変になった人の振りをしたいうことです。門の扉に傷をつけたり、髭によだれを垂らしたりしたと記されてあります。生き延びるためにそうせざるを得なかったわけですけれども、ダビデは実に惨めな気持ちであったという風に思います。ゴリアテに勝利した時のあの輝きは、もうどこにもありません。あの時のダビデはイスラエル中の人々のヒーローでした。誰からも慕われ、誰からも誇りにされる、有名人でした。でも今は、一匹の負け犬のようです。サウルが恐ろしくて逃げ回って、たった一人で逃げ回っている。しかも孤独です。家族から切り離され、奥様からも切り離され、親友のヨナタンからも切り離されて、ダビデは本当に孤独でありました。

(1)ダビデは、まず「祈る人」でした

 ですからダビデでは深く気落ちしていたと思います。そのダビデがアドラムの洞穴の中に避難したというところから今日のお話が始まっていきます。22章の1節に「ダビデは、そこを去ってアドラムの洞穴に避難した」と、こに書いてあります。

 洞穴に避難したというのはもちろん、サウル王から、身を避けるため、隠れるためであったということは、言うまでもありません。自分の身をそこで隠したということなんですけれども、でもおそらく、それだけではなかったと思います。おそらくダビデは洞穴の中で祈ったのではないだろうかと思います。

 ダビデはいつも祈る人でした。ですから、この洞穴の中でもきっと祈ったという風に思います。

 今日はこの箇所と合わせて、詩篇142篇の御言葉も味わっていたいなと思っております。ここにすぐ戻りますけれども、詩篇142篇を開いていただけたらと思います。第3版の新しい聖書だと1083ページ、旧約聖書の1083ページになりますが、142編を開いてみたいと思います。ここにこの表題のところにですね、この詩篇が、ダビデが洞窟の中で祈った祈りであるということが分かるんですね。洞穴の中で祈った祈りであります。これはちょっと味わってみたいと思います。


1節「声を上げて私は主に叫びます。声を上げて私は主に憐れみを請います。私は御前に自分の嘆きを注ぎだし、私の苦しみを御前に言い表します。私の霊がわたしの家で衰え果てた時にも、あなたは私の道をよく知っておられます。私が歩くその道に、彼らは罠を仕掛けています。ご覧下さい、私の右に目を注いでください。私にはて顧てくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って。私の命を気にかける人もいないのです。主よ、私はあなたに叫びます。あなたこそ私の避どころ。生ける者の地での私の受ける分。どうか私の叫びに耳を傾けて下さい。私はひどく貶められていますから。私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです。私の魂を牢獄から助け出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください。正しい人達は私の周りに集まるでしょう。あなたが私によくしてくださるからです。

 と、このように祈っております。1節でダビデは声を上げて「私は主に叫びます。声を上げて私は主に憐れみを請います」と語っております。ダビデが主に向かって、声を上げたということ、叫んだこと、主に憐れみを請うたということがわかります。2節を読むと「私は御前に自分の嘆きを注ぎだし、私の苦しみを御前に言い表します」と語っています。ダビデでの心の中にあった嘆きや苦しみを、神様の前に注ぎだしているということがわかります。そして4節を見ると「ご覧下さい私の右に目を注いでください」と訴えています。そして「私には顧みてくれる人がいません。私の命を気にかける人もいないのです」と、自らの追い詰められている状況を神様にお伝えして、つまり私は孤独ですってことですね。誰も気にかけてくれる人いません、そんな私に目を止めてくださいと訴えている、そういう祈りであるということがわかります。こんな感じで続いていきますけれども、要するにダビデは気落ちした時に祈ったということであります。

 まず主に向かって声をあげました。この詩篇がサムエル記22章ノアドラムの洞穴の中で祈っていた祈りかどうかはわかりませんけれども、でもおそらくダビデはこの時も、このように神様に祈ったに違いないと思うわけですね。まず主に向かって声をあげました。自分の嘆きや苦しみを、神様の前に注ぎだしました。どうか助けてくださいと、洞穴の中で、暗闇の中で、ダビデは必死に祈ったと思うわけであります。

 ダビデは気落ちした時に祈る人だったということに、私たちは心を止めたいという風に思います。私たちは気落ちした時に、何をするでしょうか?

 この一週間振り返って気落ちした時があったと思いますけれども、そんな時にあなたは何をされたでしょうか?もしかすると美味しいものを食べに行ったかもしれません。映画を見に行ったかもしれません。お友達とおしゃべりをして、気持ちを紛らわせると言うか、気晴らしをしたということかもしれません。ある時は落ち込んでいるその気持ちの中に、浸ってしまうということもありますね。さらに怒ったり、不満をぶつけたり、人に当たったりというそういうことで気持ちのそういうものを解消しようとしたりすることもあるかもしれません。

 いろんな解決方法があると思うんですけれども、それでは私達は、果たして祈ったでしょうか?祈るでしょうか。主に向かって私たちの心を注ぎだしているでしょうか?意外と祈っていないということが多いんではないだろうかという風に思わされます。また祈ってはいるけれども、その優先順序が低いということもあるんじゃないかなと思うんですね。とりあえず色んなことやってみます。自分でいろいろやってみてですね、あれもやってみてこれもやってみて、効果がないと最後の手段として「祈る」という選択をしてしまうこともあるかなという気がいたしますね。

 でもそれはどうなんでしょうか?どこか自分の力にすがった信仰になっていないだろうかと思わさせられます。優先順序がずいぶん低いんじゃないかなと思うんですね。私たちにとって祈りとはその程度のものなんでしょうか?私たちにとって、祈りとは、最後の手段なんでしょうか?

 ダビデは気落ちしたときに、まず祈った人でした。祈りを大事にしました。つまり神様との関係が最優先だったということであります。そんなダビデの姿から、わたしたちも学びたいと思います。是非私たちも、まず主に向かって声をあげようではありませんか。主に向かって祈ろうではありませんか。そのようにして、ダビデの信仰を私たち自身の信仰としていきたいという風に思います。

(2)祈りに応えてくださる神

 ただその後の展開も見ていきたいと思います。22章に戻りますけれども、その後どうなったかです。その後、ダビデに何が起こったんでしょうか。その様子を読み進めていくと、神様やっぱりダビデのことを守ってくれているなということがわかります。ダビデの祈りを聞いてくださってるなということを感じます。ダビデは「私を顧みてくれる人がいません。私の命を気にかける人もいないのです」と、切々と訴えたわけですけれども、つまり私は孤独ですと訴えたわけですけれども、そのような祈りに対して神様はどう応えて下さったんでしょうか。

 ダビデの元にたくさんの人がやってまいりました。こんなにすぐ祈りが聞かれるなんて羨ましい限りだなと思いますね。こんなに鮮やかに祈りが聞かれるなんて、本当に素晴らしいなと思いますけれども、たくさんの人がやってきたんですが、一番最初にやってきたのは誰だったでしょうか。

 1節の後半にこう書いてありますね。「彼の兄弟たちや父の家の者は皆これを聞いてダビデのところに下ってきた」。まず最初にやってきたのはダビデの家族だったということがわかるんですね。ダビデのもとに最初にやってきたのは家族、ダビデの兄弟たち、父の家の者たち、そしてその中にはダビデのお父さんとお母さんも含まれていたということが、3節を見ると分かりますね。ダビデにとっては、なんと嬉しいことだったんではないでしょうか。ダビデにとっては一番心を許せる、一番安心できる家族が、どこで、どう聞いてやってきたのかわかりません。詳しい経緯は分かりませんけれども、来てくれたというのは本当にダビデにとっては嬉しかったと思いますね。

 さらに2節を読んでいくと、困窮しているもの、負債があるもの、不満のある者たち、つまり困っている人達が、次から次にダビデのもとに集まり、その数が約400人にもなったということが2節に記されてあります。それをダビデが見てるわけですけどね、もう次から次にいろんな人がやってくるその光景を見ながら、ダビデはどんな気持ちになったでしょうか。もう本当に嬉しかったんじゃないでしょうか。心強かったんではないでしょうか。そして何よりも、神様が自分のことを覚えてくれている、神様が自分のことを守ってくれているということが、一番嬉しかったんじゃないかなと思うんですね。

(3)ダビデが学んだこと

 このような導き、このような体験が与えられて、ダビデは本当に幸せな人だなという風に思います。このような経験を通してダビデは、いくつかのことを 学んだと思います。

 三つのことを学んだと思います。

①自分自身の人間としての必要について教えられたと思います。

 自分はやっぱり、誰かの助けが必要な存在であるということ、いつも誰かの助けを必要としている存在であるということに、本当に気づかされる、そういう時であったという風に思いますね。

 ダビデのそれまでの人生を振り返って見るときに、おそらくダビデという人は、自立していた人だったんじゃないかなという気がいたします。少年の時から、野原で羊の世話をする羊飼いでした。羊を守るために、狼あるいは時にはライオンや熊とも戦ったという風に、彼は自分で告白している箇所がありますけれども、そのようにして羊たちの番をする責任を、小さい時から子供の時から与えられてきました。またダビデは竪琴の名手でして、サウル王から呼び出されて、王様の前で演奏したりしたこともありました。そしてあのゴリアテの前に一人で立ち向かって、見事に勝利を収めました。ですからダビデという人は、若い時から本当に自立した人だったと思うんですね。そしておそらくあまり人の力を借りなくても、自分でなんでもできる、そういう体験を繰り返してきた人だったんじゃないかなという風に思いますね。

 しかし、今回の経験を通してダビデは学んだんです。自分は一人だけでは生きていけない。自分は一人だけでは完結しないということを、本当によくわかった。必ず誰かの助けが必要なんだ、ということを孤独の中で味わった。そんな自分自身の姿を、ダビデは知らされました。その理解が、ダビデをより謙遜な人に変えて行ったということが言えると思います。

 これは私たちにとっても、とっても大切なことだという風に思いますね。自分は一人で生きているのではないということ、いろんな人の助けが必要だということを、私たちも体験で学んでいく必要があるんではないだろうかという風に思います。

 ところが時々私たちはそのような人の助けを拒んでしまいたくなる、拒んでしまいやすい傾向というものも持っているんじゃないかなということも感じます。

 私も東日本大震災の時に経験したことでしたけれども、なかなか「助けて」という一言が言えないですね。一言「助けて」と声をあげれば、みんな助けてくれるはずなんですけれども、それをしないんですね。そしてどんどん苦しくなります。顔では大丈夫だというフリをしますけれどもね。でも実は大丈夫じゃないですね。どんどん苦しくなっていって、だんだん具合が悪くなって倒れてしまうということがありました。倒れてから、「なんでもっと早く言ってくださらなかったんですか?」と教会の人に怒られたことがありますけれども、私としてはね、あんまり人に迷惑かけたくないという気持ちもあるんですけれども、でも深いところにあまり人に信頼したくない、なんか自分でやりたい、自分の力を見せたい、なんかそういうですね、こだわりと言うか、プライドのようなものが、深いところにあるような気がしたんですね。そういう自分の中身を、深く探られるような、そんな経験だったなという風に思います。それで悔い改めてですね、今なるべく「助けて」と言うようにしてるんですけれども。

 自立してるって素晴らしいことですね。しかし人の助けを寄せ付けない自立というのは、すぐに傲慢さに繋がっていくということも、私達は覚えてないといけないかなという風に思います。

 神様は天地万物を作られて、最初の人アダムを作られた後で、アダム向かってですね、こういうことを言われましたね。「人が一人でいるのは良くない」って。人が一人でいるのはよくないという風におっしゃられたんですね。それでその次に神様は何をされたかと言うと、アダムの為にふさわしい助け手を造ってくださった。それが創世記の中に出てくる話ですけれども、アダムは一人では完結しないんだっていう事を、その時学んだと思いますね。本当に助け手が必要なんだ、自分はそういう存在なんだということを、本当に教えられた。そしてこの場面で、ダビデも同じような経験をしたと思いますね。自分一人ではとても生きていくことができない 。人々によって助けられる、その関係の中で初めて自分は生かされているということを、ダビデは学んだ。これはダビデにとって、本当に大きな経験だったということが言えるわけであります。私たちもそのような互いの関係の中に生かされているということを覚えたいという風に思いますね。そしてそのような成長を与えられていくものでありたいという風に思います。

②この経験を通してダビデは人々の状態について教えられた。

 人々がいかに困っているか、いかに困窮しているか、いかに苦しんでいるか、いかに負債に苦しんでいるか、という、その民の姿に目が開かれる、そういう経験だったということが言える。

 そしてこれはダビデにとって、おそらく新鮮な経験だったという風に思います。なぜならば、ダビデという人は、基本的には王の側近として、王の近くにいる人だったからであります。

 しかし、ダビデはそんな人々の苦しんでいる姿を見て、それを受け止めることが出来ました。どうしてかっていうと、ダビデも苦しんでたからであります。その苦しみというのは、とても理解できない苦しみですね。なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだと、自分は何も悪いことしてませんね。ただサウル王の妬みによってですね、自分はもう追い詰められている。こんな理不尽なことないですね。こんな苦しみを経験することは、本当に考えられないことなんですが、ところがこの時にダビデは気づいたと思いますね。苦しんでるのは自分だけじゃない、同じように苦しんでる人が実はたくさんいて、そういう人たちが、ダビデのもとに集まってきたんですね。その姿を見て、ダビデはそのことに気づかされたという風に思います。そしてその時にダビデは人々と共感したり、連帯したりすることを学んでいったということであります。ダビデはそんな彼らの長になったと2節に書いてありますね。ダビデは彼等の長となった。彼らのリーダーとなったということが分かる。

 この姿に、私たちはダビデが次のイスラエルの王になるための準備が、少しずつ進んでいるということに気づかされるんですね。何気ない出会いだったかもしれませんけれども、神様ちゃんとそんなふうに導いてるわけですね。そしてこのような経験を通して、ダビデがちゃんと次の王様になるための準備をしてるということがわかるわけであります。

 この世には無駄なことは何一つない、ということを私たちは教えられるんではないでしょうか。私たちも困ったり、苦しんだりすることが、よくあると思いますね。時には何でこんなことが起こるんだと、理不尽な苦しみを味わうようなこともあるかもしれませんね。でもその経験も用いられていきますね。同じように苦しみを味わってる人が、この世の中にたくさんいるんです。そのような人たちと、共感したり連体したりすることができるんですね。そのような成長に、私たちは導かれていくんです。全ては神様の導きの中にあるということを私たちは信じたいと思います。

③この経験を通してダビデは神様の素晴らしさをさらに深く知った。

 神様は確かに生きておられる。そしてダビデを守ってくださる。祈りに答えてくださるということを鮮やかに経験することができた。神様が本当に生きておられるということを学んだ、そういう時であったということが言えます。その結果、ダビデの神様に対する信頼はますます強められていきました。家族やたくさんの人々が集まってくれたことは、とても嬉しいことでした。心強かったと思います。

 ただそれでもその時のダビデには、まだ先が見えているわけではないんですね。

危険が去って行ったわけではないんです。これからどうしたらいいのかその得策があるわけでもないんですね。でもそれでも、ダビデの内には平安がありました。神様が共にいてくださるということが確信としてあったからであります。

 その後の展開ですが、3節でダビデは、モアブのミツパに行き、 モアブ の王の所に行って、ダビデの父と母の保護をお願いしているということがわかります。その際ダビデは モアブの王に対してこのように言っております。「神が私にどのようなことをされるかわかるまで、どうか父と母をあなた方と一緒に住まわせてください」と、自分のお父さんとお母さんの保護を求めてお願いしてるわけですよね。自分が狙われているって言うことは、自分の家族も狙われるって事ですね。ですからお父さんとお母さんを守らなければいけないということで、お願いしている場面になるわけですけれども、ここでダビデは「神が私にどのようなことをされるかわかるまで」という風に言っております。

 このひとつの言葉に、私たちはダビデの信仰を感じさせられます。

 なかなかこういう風に言えないと思いますね。私たちは。「神が私にどのようなことをされるかわかるまで」この言葉から三つの事を気付かされます。

①この時にダビデはまだ分かんないんです.神様の導きが分かんないんですね.神様が何をされるか分かんないんです。見えてないということがひとつわかりますね。

②2番目にわからないけれどもいつか必ず神様が導きをくださると信じているということが分かるんですね。

③そして最後にその時が来るまでは、自分はじっと待つという、そのつもりでいるということが分かるんですね。

 

 このダビデの人との言葉に、非常にダビデの信仰を感じさせられる。

 私たちなかなかこう言えないじゃないかなと思うんですね。

先が見えないってのは非常に不安なことです。神様の導きが今、感じられないというのは、心細いことですよね、ある意味で。

 そうすると私たちはどういうことをしてしまうでしょうか?非常に焦るんですね。そして焦って、しなくてもいいことしてしまったり、言わなくていいことを言ってしまったり、そんなことをしてしまってですね、ますます失敗して、ますます苦しい目にあってしまうということがあるんじゃないかなという風に思いますね。

  なぜそうなってしまうんでしょうか?おそらく私たちの神様に対する信頼がどこかで不足しているということになるんではないだろうかという風に思います。神様は全てのことをご存知です。私たちのこと、全部わかってるんですね。そして神様には、計画があるんです。神様の御手の中でちゃんとそのご計画が成っていくということを私達は知ってるはずなんですけれども、なかなかその事を信じきれないという、そういう課題を抱えてるんじゃないかなと思うんですよね。もっともっと神様のことがわかれば、私たちもっと神様に信頼できるのに、なかなかそこまで信仰がいかないということがあるんじゃないかなと思うんです。

 「神のなさることは時にかなって美しい」ってことを、みんな知ってると思いますね。そういうことをちゃんと聖書をとおして私たちは教えられていて、神様のなさる事って、本当に素晴らしいんだなと頭では理解してるんですけれども、でもなかなかそのみことばのとおりに生きることができないという、そういう弱さ、課題を抱えていることが私たちには多いんではないでしょうか。み言葉はよく知っているのに、またみことばをよく理解しているのに、なかなかみことばのとおりに生きることができないというのは、いったいどういうことなんでしょうか?

 それは、その信仰が頭での、知識での信仰に留まっていて、その先に神様に対する信頼になっていないということではないだろうかと思わされます。

 主に信頼する人格的なかかわりになっていないということが、私たちにあるんではないだろうか。ダビデはその後しばらく モアブの王のもとに住んだようですが、5節を見ると予言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい」と予言者ガドの言葉が与えられました。神様の言葉が与えられたんです。この要害にとどまっていないで、ユダの地に帰りなさい。その言葉を受けて何をしたでしょうか。それでダビデはそこを出てハレテの森へやってきたという風にここに書かれてあります。御言葉が与えられるまではじっと待ってるんです。神様の時を待ってるんです。神様が最善をなしてくださると信じて待ってるんです。そして御言葉が与えられたときに動き始めるということに、ダビデの信仰が表されているということに、私たちは気づかされるんではないでしょうか。主を信じて待って、みことばが与えられて行動するダビデ、その姿、是非私たちはこのダビデの姿から、学ぶ 者でありたいという風に思います。.

(3)まとめ

 今日の全体を振り返ってみたいと思いますけれども、気落ちした時にダビデは何をしたでしょうか?祈ったんですね。祈りました。そしたら、その祈りに神様は応えてくださいました。もう豊かに応えてくださいました。もう本当に有り余るくらいの恵みをもって応えて下さいました。その後、ダビデは神様に信頼して、神様の時を待ちました。そしたら神様の御言葉が与えられました。そしたらダビデは動き始めました。


あなたは、お気づきだと思うんですけどもね、ダビデと神様の間に実に豊かな交わりがあるって事なんですね。神様に向かってたダビデが語りかける、神様が応えて下さる。そしてその神様に信頼するその時をじっと待つ。そして神様がみことばをくださる。そして動き出す。

 なんと言うダビデと神様の生きた交わりが、そこに経験されていることでしょうか。本当にダビデは神様を信頼している。ただ頭で理解してるだけじゃないですよね。本当にそのみことばに委ねて、信頼して、神様にお任せしている姿がある。そのようなダビデの信仰がここに豊かに表されているということを、私達は是非この箇所から覚えたいという風に思います。

 この生きた神様との関係こそはダビデの宝でありました。そしてこれがあったからこそ、ダビデは厳しい状況の中に支えられて行ったということであります。

 この後、まだ続きますね。これで終わりではないです。これからもまた厳しい旅が続いていきます。王様になることが決まってるんですけど、王様になるまでが大変です。そういう厳しい旅の連続ですけども、でもダビデはこの信仰に支えられていたということを、私たちは今日覚えるものでありたいという風に思います。

 私たちと神様との関係はどのようになってるでしょうか?この日々神様に声を上げて、主が応えてくださるという、この神様との生きた交わりが、私たちの歩みの中にあるでしょうか?そのようなことが経験されているでしょうか?そして主に信頼してるでしょうか?それともただ単に知的に神様のこと知ってるだけでしょうか?その両者の違いというのは非常に大きいという風に思います。

 是非、私たちは神様に向かって声を上げるところから始めたいという風に思います。これから一週間また始まって行きます。多分この一週間も、皆さんきっと、きっとなん言ったら変ですけれども、気落ちすることがあるんじゃないでしょうか。がっかりすることがあるんではないでしょうか。

 その時には是非、ダビデのように声を上げるところから始めようではありませんか。その心を注ぎ出すところから始めようではありませんか。それはおそらく神様の招きの時ではないんじゃないかなと思うんですね。

 もっと私たちが、顔を神様に向けるように、もっと私たちが声を、神様に向かって発するように、そして私達の心をもっと神様に注ぎ出すように、神様が招いている時じゃないかなと思うんです。是非私たちは顔をあげて、声を神様に向けて、そして心を注ぎだしていこうではありませんか。その時に与えられる神様との生きた交わり、関係、この中にぜひ加えていただきたい。そのような日々の信仰の歩みとしていこうではありませんか。

 お祈りをしたいと思います。恵み深き私たちの父なる神様、み言葉ありがとうございます。どうかダビデのように、あなたに心を注ぎ出して祈ることができるように。そしてあなたとの親しい交わりを、日々の歩みの中で豊かに経験することができるように。今週また一週間始まっていきます。1日1日主と共に歩む日々としてください。み言葉感謝し主イエス・キリストのみ名によってお祈りをいたします。

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