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子供を叱ることを、躊躇してはならない!エペソ書6章4節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

前回は「子供たちに対する教え」という題で、子どもたちの自分の親に対する勤めについて聖書を通して教えられました。今日は「親たちに対する勤め」「親たちに対する教え」と題しまして、親たちの自分の子供達に対する勤めについて聖書から学んでいきたいというふうに思います。

1.最近の子育ての難しさ

 最近の子育てはどうでしょうか?一時と比べても非常に難しくなってきているということが言えるんじゃないかなというふうに思います。

環境の変化

私たちが子どもだった時には無かったようなもの、例えばスマホとか、 SNS とか、ゲームとかに、今の子供達は日々取り囲まれているという現実があると思います。そして家庭における虐待とか、学校におけるいじめとか、色々な悲しいことを聞く機会も増えているかなというふうに思います。

規範の崩れ

そして社会全体において、あるべき社会の規範というものがどんどん崩れていたり、あるいは失われてしまっていて、何を基盤に、何を基準に、子育てをしたらいいのかという、そういう悩みが多くの家庭の中にあるんじゃないかということも感じさせられることであります。

 そんな時代の中にありまして、しかし聖書は子育てについて教えているということはとても大きな恵みではないだろうかというふうに思います。

聖書は親たちに向かって子育てについて教えております。どのような子育てを親たちが心がけるべきかということについて、その指針をきちんと指し示してくださっております。今日がその箇所ということになります。そのことを感謝しながら主は何を願っておられるでしょうか?どんな子育てを私たちに期待しておられるでしょうか?その事をみことばから聞き取ってゆく時としたいと思います。

 

2.「父たちよ」との呼びかけ

 今日の御言葉は6章の4節ですけども、この4節で、「父たちよ」と呼びかけております。

父たちよという呼びかけなので、母達はここに入っていないのかと考える必要はないと思います。父たちよとの呼びかけの中に、母達も含まれていると考えるべきだと思います。パウロは時々手紙の中で、兄弟たちよと呼びかけているところがありますけれども、それは姉妹たちが外されているという意味ではないですね。兄弟たちよと呼びかける時に、それは兄妹姉妹たちよというそういう意味で呼びかけております。ですから同じように、この箇所においても、父親に対しても母親に対してもこの呼びかけがなされているということを覚えたいというふうに思います。

 家族の権威は誰か

ただその上で、パウロがあえて「父たちよ」と呼びかけているその意味についても私たちは考えてみなければいけないと思います。

 これは「家庭を治める権威と責任」というのは、まずは父親に与えられているということがここで示されております。特に「子育てに対する権威と責任」も父親が担っているということを、この御言葉を通して教えられることであります。

夫は妻の、かしらであり、父親は家庭の、かしらです。家庭を治める権威と責任リーダーシップは、第一に夫に与えられております。よって夫は子育てに関しても、良きリーダーシップを発揮しなければいけないということを、このところから覚えるものでありたいというふうに思います。

 子育ての責任意識と仕事の忙しさ

私たちの国の、多くの家庭では、子育てにおける権威を夫ではなくて、妻が握っているという例が多いんではないかなという風に思います。妻が自らそれを握っているのか、握らざるを得なくなっているのか、握らされているのか、それぞれ家庭の事情は色々だと思いますけれども、夫ではなくて、妻が子育ての労を中心的に担っているという例が多いんではないかというふうに考えられます。

一つの原因としてはおそらく、夫の仕事に取られる時間が異常に長いということがあるというふうに思います。仕事があまりにも忙しくて、子育てに夫が関わることがとても難しいという課題があるように思います。私たちの国では、家庭よりも仕事の方が非常に大切にされるような、そういう傾向があると思いますので、そこにひとつ戦いがあるということが言えるかなと思います。

ただそれとは別に、子育てに対する十分な意識が夫に不足しているという場合もあるんではないだろうかというふうに考えられます。

「子育てというのは母親がするものであって・・・」という感覚が、どこかに残っているということがあるかもしれない。そして子育てのほぼ全ての責任を母親に任せてしまうということは、父親がそこから手を引いてしまうという例が多く見られるんじゃないかなというふうに考えられます。

 でも私たちは今日の聖書の箇所から、クリスチャンの家庭はそうであってはいけないということをぜひ覚えたいと思います。聖書は「父たちよ」とここで呼びかけております。

神様は「父たち」が家庭において、子育てにおいてふさわしい責任とリーダーシップを発揮することを命じております。期待しております。夫は妻の、かしらであり父は家庭の、かしらであるからであります。子育てにおいて実際的な働き、多くの働きを担っているのが、母親であったとしても、それでも子供の成長に対しての責任というのは父親が第一に負っているということを、全ての父親は自覚する必要があるというふうに思います。父親が子育てから手を引くということがあってはいけないことであります。

その上で父と母がよく話し合って、協力して、そして祈りあって、子育てに関わっていくということが、とても大事なことではないでしょうか。そのようなクリスチャンホームの形成を私達はぜひ目指し、また祈っていくものでありたいと思います。

さてその上で、神様は父たちと母たちに何を命じているでしょう。どんな子育てを神様は期待しているでしょうか。二つのことが今日の聖書の箇所で命じられているということがわかります。

3.子供を怒らせてはいけない

怒った状態では指導を聞き入れない

 第一に子供達を怒らせてはいけないということが命じられております。6章4節の最初のところに、

父たちよ、自分の子供達を怒らせてはいけません」とこのように命じられています。

そしてこの命令が、その後の、「むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい」という命令よりも、先に来ているという点に私たちは注目したいというふうに思います。

これはとても理にかなっている順番です。どうしてかと言いますと、子供を怒らせた状態では、親が何を言っても効果がないからになります。

親が子供を怒らせてしまった後で、その後でどんなに素晴らしい話をしても、どんなに立派な教育をそこで授けたとしても、子供達には全く効果がありません。むしろ逆効果であるということの方が多いんじゃないかというふうに思います。

神様は子供の心がとてもデリケートであるということをよくご存知です。特に親との関係において、子供の心はとてもデリケートであるということをよくご存知です。親たちのちょっとした配慮のない言葉や振る舞いによって、子どもたちの心は著しくかき乱されたり、傷ついたりするということです。そして一度そうなってしまうと、子育てはとても難しくな る。どんなに立派な教育をしても、どんなに立派な指導を与えても、全然子供達は聞いてくれないという現象が起こります。そういうことを全部神様は分かってるわけですね。

 だからこそパウロはここでまず、「自分の子供達を怒らせてはいけません」と教えております。

こちらの方が先なんです。子供達にどんなに立派な指導を与えたり、教育を施したりしても、この先の事がちゃんとクリアされていないと、全く効果がないということを、パウロも良く分かっている。そこをまず注意しなければいけないということです。そのことを私たちは、しっかりと心に留めたいと思います。

 そして次に私たち考えたいと思います。

親はどんな時に子供を怒らせてしまうんでしょうか?子供達は自分の親のどんな振る舞いを見て怒るんでしょうか?子供に聞いてみるのが一番早いかもしれませんけれども、いろんな場合があると思いますが、親が感情的になって子供に当たってしまう時、子供は怒るんじゃないかなと思いますね。思わずカッとなってしまって、あるいは頭に血が上った状態で、思わず厳しい言葉を言い放ってしまうということが、どこの家庭にもあると思います。その時、子供達は非常に傷ついていることが多いんじゃないかなと思います。

また親の言葉や態度に、一貫性がない時、気分次第で言うことがコロコロ変わるような時というのも、子供は戸惑うし、また怒りを覚えるんじゃないでしょうか。

親が子供の気持ちを受け止めてあげることができない時、子供の話によく耳を傾けない時、そして一方的に親の考えや意見を押し付けようとするときも、やっぱり子供は非常に不満を覚えるんじゃないでしょうか。

また親が子供の成長を理解できない時、いつまでたっても、子供扱いしてしまうときも、子供達は親に対していろんな不満を抱くんじゃないでしょうか。

さらに親が子供を自分の目的のために利用してしまうというようなこともあると思います。親たちの中には、自分の果たせなかった夢を、子供を通して実現させたいというような願いを抱く場合があると言われております。あるいは、何か人からの良い評判を得るために、あるいは自分の満足の為に、子供に高い目標を設定して、それに励ませるということもあるかもしれません。いつも自分の期待に応えてくれることを子供に要求し、知らず知らずのうちに、子供たちを心理的にコントロールしてしまうということもあり得ることだというふうに思います。

子供は最初は必死になって親の期待に応えようと頑張るんですけれども、だんだん不平不満が溜まっていって、或るときに、爆発するっていうことも、もしかしたら子供の成長の中に起こるかもしれない。

4.子供は神様のもの

 私たち親たちは、やはりよく考えてみなければいけないことがあるように思います。それは子供たちが自分自身の所有物になっていないかどうかということであります。何でも自分の思い通りに動いてくれることを期待し、それを要求しているのであれば、それは子供をコントロールしているということであり、それは子供たちが自分の所有物になってしまっているということであります。

私たちは、子どもたちと自分とは、まったく違う存在であるということをよく覚えている必要があると思います。子供達は自分とは全く違う人格を持っていて、全く違う人生を与えられている、一人の独立した存在であるということを、よくよく覚えておかなければいけない。そして最終的に子供達というのは、神様のものですね。神様のものです。私たちの所有物ではないです。そのことを親たちは、聖書を通して自覚している必要があるんじゃないかというふうに思います。

 アブラハムは息子イサクを神に捧げた

アブラハムはあるとき、神様から大変な試練を与えられました。それは息子イサクを自分に捧げなさいという、そういう試練だったんですね。これはアブラハムにとって、人生最大の試練であったと言っていいと思います。

それまでも、いろんな試練があったんですけれども、でもそれはアブラハムにとって最大の試練だったと言っていいと思います。どうしてかと言うと、イサクは、アブラハムにとっては待望の息子だったからであります。このイサクが与えられるまでアブラハムは、 祈りに祈ったんではないでしょうか。何年待ち続けたんでしょうか。もう何年も何年も待ち続けて、その間に自分も妻のサラも、どんどん年老いていく。人間的に考えれば、もう絶対子供など与えられない、無理だと、諦めてしまいかねないようなそんな状態の中で、でも諦めずに祈り続けてきたその結果として与えられた息子がイサクですよね。アブラハムが100歳の時に与えられた息子だったと聖書に書いてあります。その息子といったら、もう可愛くて可愛くてですね、もう絶対誰にも奪われたくないって思うくらいの、そんな可愛い息子だったに違いないと思いますね。ところがあるとき、神様はアブラハムに、そのイサクを私に捧げよと、命じられるんですね。それはアブラハムにとっては、「どうして?」と言いたくなるような、本当に辛い試練だったと思いますね。でも、聖書読んでいるとわかりますが、アブラハムは神様のみ心に従いました。朝早く息子を連れて行って、イサクは全然気づいてまいせんでしたけれども、モリヤの山に入って祭壇を築いて、そこにイサクを寝かせて、そして屠ろうとした。神様に捧げる生贄として屠ろうとした。ちょうどそのときに天から声が聞こえてきました。

「その子に、手を下してはならない。その子に、何もしてはならない。今、私はあなたが神を恐れていることがよくわかった。あなたは自分の子、自分のひとりごさえ惜しむことがなかった」と言われて守られましたね。そして神様はその後イサクをアブラハムの元に返してくださったということが、聖書を読んでいてわかることであります。

この経験を通してアブラハムは、本当に学んだというふうに思います。

息子イサクは自分のものではない。自分のものにしてはいけない。それは神様のものなんだ。神様に捧げなければならない子供なんだ。そういう事を、アブラハムは経験を通して、非常に辛い試練だったと思いますけれども、そのことを学ぶ、そういう機会だったんではないでしょうか。

私たちも、よくこころに留めたいというふうに思います。私たちの子供たちは、私たちの所有物ではないんですね。私たちの願い通りに動いてくれることを期待しているようだと、それは所有物になっているということです。

私達の子供達は、神様のものなんですね。神様はそれぞれの子供たちに計画があります。それぞのこどもたちに用意してくださってる人生があります。それを親が勝手に邪魔してはいけないんですね。親がそれはしっかり握ってしまってはいけない。それこそ子供を怒らせる事になってしまいます。神様のものである私達の子供達を、しっかりと私達は受け止めて、理解して、そして子供たちを愛していくものでありたいと思います。親が自分の子供たちに対して、まずしなければならないことは、まずは子供達を怒らせてはいけないということでした。

5. 主の教育と訓戒で育てなさい

 ではもう一つありますね。次に親が子供たちにしなければいけないこと、それは何でしょうか。それは子供たちを主の教育と訓戒によって育てることであるということがわかります。

4節の後半に「むしろ主の教育と訓戒によって育てなさい」と教えられています。

箴言22章15節子育てにはムチが必要

怒らせないためには、子供達をよく理解し受け入れるということが、とても大事です。それでは子供たちをよく理解して受け入れたら、後は何もしなくてもいいということではないですね。あとは子どもたちの自主性に任せて、勝手に子供達は育っていくからということで放任すればいいということではないですよね。そこで親は子どもたちを育てなければいけないです。教育したり訓戒したりして、子どもたちを育てなさいとここで命じられております。そのことがこの箇所だけではなくて聖書の中で繰り返し教えられていることであります。

特に箴言というところでは、親が子供を懲らしめることの大切さが繰り返し教えられております。例えばこんな言葉が箴言の中には出てきます。箴言22章15節ですけども、

愚かさは子供の心に絡みついている。懲らしめの鞭がこれを子供から遠ざける」と箴言22章の15節にそういう言葉は出てきます。子供はただ可愛いだけの存在ではないということなんですね。

愚かさが子供の心に絡みついているんだと、それに対しては鞭による懲らしめが必要であると、聖書に教えられております。あるいは聖書にこんな言葉も出てまいります。

「子供を懲らしめることを差し控えてはならない。鞭で打っても死ぬことはない。あなたが鞭でその子を打つなら、その子の命を黄泉から救い出すことができる」と、現代の人たちが聞いたらびっくりするような教えかなと思いますけれども、日本では今、親の子供に対する虐待が大変大きな問題になっております。そして子供達に対する体罰というのが禁止されるような動き、法律で禁止されるような動きが今、日本にはあるというふうに聞いております。

ただ聖書読んでいますと、体罰は禁止されていないということがわかります。必要であるならば鞭による懲らしめを、差し控えてはならない、鞭で打っても子供は死なないと、そんなことまで書いてありますね。

神の聖さと義に与からせるため

ただ大事なのは、何のための懲らしめであるかということですよね。何のための、それは懲らしめなのでしょうか。聖書を読むとそれは、その子の命を黄泉から救い出すための懲らしめであると教えられているわけですよね。子供達の命を救うため、子供達を危険から守るための厳しさというものが、時には親に必要とされているということを、聖書は教えているわけであります。子供達は、ほっといたら、それで立派な大人になるかというとそうではない。やっぱり子供達はいろんな危険に取り囲まれていて、それに影響されながら、もしそのままにしていたら本当に死んでしまうかもしれない。霊的な意味においても死んでしまうかもしれない。そういう危険が絶えずそこにある。そういう危険に親たちはもっともっと気づかなければいけないと思いますね。そしてその中にあって、そっちに行ったらダメなんだと、本当に厳しく懲らしめる、教えるという指導が、父親たちには求められているということを私達は聖書から学びたいというふうに思います。

 また子供たちには訓練も必要であることが聖書で教えられております。ヘブル人への手紙の12章の8節から11節まで読んでみたいと思います。

もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって本当の子ではありません。さらに私たちには肉の父がいて、私達を訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それならなおさらのこと、私たちの霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私達の益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。全ての訓練はその時は喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になるとこれによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」ということで、ここでお父さんは子供を訓練するんだよということが教えられております。もし親が子供を訓練しないのであれば、その子供は私生児であって、本当の子供ではないっていうことがここで教えられております。本当の子供であるならば親は必ずその子供を訓練するということなんですね。

 そしてさらに私たちの父なる神様は、子供である私たちを必ず訓練されるということがここに示されています。私たちを神の聖さにあずからせるための訓練であるということです。その訓練が課せられている時、その訓練は、子供達にとっても、私たちにとっても、決して 喜ばしいものではないかもしれません。かえって苦しく思われるものかもしれない。でもこれによって鍛えられた人々に、後になると義という平安の実を結ばせると、ここで教えられております。その訓練を通して私達との神様との関係が、非常にに強められる、祝福されていく、そしてそのことによって神様との麗しい関係という素晴らしい実を実らせていただけるんだよ、そういうことがここで教えられていることであります。

この父なる神様が私たちの子育てのモデルです。子育てに取り組んでいるお父さんお母さん達は、この父なる神様を、父親のモデルとして覚えて、子育てに励むということが求められております。

父なる神様は、どんなお父さんでしょうか?私たちのことを無条件に愛してくださるお父さん、そのように私たちも無条件に子供達を愛していくってことが求められている。そして時にはその愛のゆえに、厳しさも必要なんだということが教えられております。訓練を与えることも大事なんだということが教えられています。それはその子供たちの成長のためです。子供達が肉の親から、霊の親、父なる神様に、自覚的に向き合っていくことができるための、そのような訓練を、信仰者の親は子供たちに与えて行かなければいけない。そのようにして子供たちが主にあって成長していくということ、そのために教育し、訓練するということが求められているということを覚えたいと思います。

 6.教育は主の教育と訓戒であること

 そして今日私たちは最後にこの教育が主の教育と訓戒であるということを覚えたいと思います。もう一度エペソ書の6章に戻りますけれども、ここでパウロは「むしろ主の教育と訓戒によって育てなさい」と教えております。

そこで与える教育と訓戒が、主の教育と訓戒であるということが、ここで教えられている。

信仰者の親たちは「主の教育と訓戒によって」子どもたちを育てなければいけません。主が与えてくださる教育と訓戒をもって、子供たちを育てていかなければいけないということであります。

実際に子供たちを育てるのは父親であり母親です。その責任というのは父親と母親に与えられております。どんなに神様が与えてくださるからと言って、神様が全部してくださるだけではない。その責任はあくまでも親たちに与えられているものであります。でも主は必ず私たちの子育てに伴ってくださいます。よって私たちは、子どもたちを教育したり訓戒を与えたりする時に、主が共にいてくださるということを決して忘れるべきではない。そして主に相談したり、主に信頼したりしながら、ふさわしい教育と訓戒を子供達に与えていくということがとても大事なことですね。いつでも神様に相談して、今この状況でどのような指導を与えたらいいでしょうか、子供たちの成長に応じて、今何をしなければいけないでしょうか、主よどうか教えてくださいという祈りが、必ずそこに無ければならない。その祈りがなければ、これは決して主の訓戒になって行かない。主の教育になっていかない。自分の教育、自分の訓戒になってしまいますね。それは独りよがりな教育になってしまいます。神様を無視した、神様に信頼しない、独りよがりのそういう教育の中で、苦しんでしまうということも私たちには多くあるのかなと思います。主が伴ってくださっていること、主が寄り添ってくださるということを、決して私たちは忘れてはいけない。そして私たちの与える教育と訓戒が、本当に主の教育と訓戒になるように、私たちは主に信頼してくものでありたいという風に思います。

 永遠に至る幸せのために

そしてもう一つは、これは主が喜ばれる教育であり訓戒であるということを覚えたいと思います。私たちが子どもたちに与える教育と訓戒は、主が喜ばれる教育と訓戒でなければいけない。主は一体何を期待しているでしょうか?子供たちに何を期待してるでしょうか。それはやっぱり子供達が神様を知る者になることじゃないでしょうか。そして子供たちが本当に神様の祝福の道を歩んでいくことではないでしょうか。子供達が自覚的に神様を知り、そして神様のご計画に沿って与えられた人生を歩んでいくことではないでしょうか。その目標に向かって私たちの子育てがなされて行かなければいけないということをぜひ心に留めるものでありたいというふうに思います。

 改めて私たちの子育ての目的は何でしょう?私たちは何を目指して、何を願って、子育てをしているんでしょうか?それはもちろん子供たちが成長して社会に出て、社会に貢献して、そのような人生を歩んでくれることかと思います。そしてそれはやっぱり子供達が幸せになってくれることだと思いますよね。子供たちが本当に幸せになってほしい。これは全ての親の願いです。祈りです。子供の幸せを願わない親は一人もいません。

でもわたし達、改めて考えたいと思います。その幸せというのはどんな幸せでしょうか。この地上で終わってしまうような幸せでしょうか。それともそれは永遠に続いていく幸せでしょうか。どのような幸せを親は願っているんでしょうか。どのような幸せを子供たちが獲得することを祈っているんでしょうか。

神様に信頼し相談すること

是非、私たちは、この世で終わってしまうような、そんな幸せではなくて、本当に神様に繋がっていく永遠の幸せを、子供たちに手にして欲しい、そのように願うべきではないでしょうか。そのように祈るべきではないでしょうか。その事を主も願っておられるということ、それが主の教育と訓戒であるということをぜひ心に覚えたいというふうに思います。もちろん子育てというのは一筋縄ではいかない。私たちの願ったとおりになかなか進んで行かないという現実があります。そこに本当に奮闘があり、戦いがあるわけですけれども、でも主が伴ってくださっているという恵みを、私たちは忘れないようにしたい。いつでも相談できるんですね。なんでも神様に信頼できるんです。御言葉を通して、こうしたらいいよ、祈りを通して、こうすればいいよと教えてくださるんですね。その主の伴ってくださる子育ての恵みというのは、私たち本当に味わっていきたい。そして子供たちがそのような主の恵みの中に少しでも近づき、その中を歩んでいくことができるように、親たちばもちろんですけれども、教会で祈っていくものでありたいというふうに思います。そのようなクリスチャンホームの祝福を、たくさん見ることができますように共にお祈りをしたいと思います。

 お祈りをいたしましょう。恵み深き私たちの父なる神様。今まで、妻としての勤め、夫としての勤め、子供としての勤め、親としての勤め、順番に学んでまいりました。そのような学びを通して、神様は私たちの家庭を祝福してくださる方であることを覚えてありがとうございます。私たちの家庭の祝福を願っておられる方であることを覚えてありがとうございます。なかなか狙った通りにはいかないような様々な戦いもありますけれども、しかし主はそのことを願って下さっています。そして主は、私たちと伴って下さっています。どうぞ私たちが独りよがりな子育てに終始することがないように、また夫婦関係においても、親子関係においても、本当にあなたを中心とした祝福を味わうことができますように、どうぞ私たちの家庭をみことばによって、御霊によって導いてください。私たちの家庭を内側わから強めてください。そしてその祝福は、教会の祝福となりますようにどうぞ導いていてください。御言葉を心から感謝し、イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

 

 

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