イエス・キリストをより良く知るために

母の胎にあるときから私を選び出し!

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
ガラテヤ人への手紙 1:13~17節

ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。
しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、
異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、
私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

聖書の中ではパウロも本当に大きく変えられた人でありました。かつてのパウロの生き方について3章14節1から20節の告白しておりますけれども、彼はキリスト教会への大迫害者でありました。ここで彼は語っています。23節で「私は激しく神の教会を迫害し、それを殺そうとしました」と自分で告白しております。激しく迫害をし、そして彼が目指していたことは、いじめること、クリスチャンをいじめること、追い出すことではなくて、それを滅ぼすことだった。絶滅を目指していた。もう凄まじい過激な激しい迫害だったということを、自分で告白しておりますけども、このパウロがキリストと出会ったことによって、すっかり変えられた。180度変えられました。

なんと彼は、キリストを伝える人に大伝道者に変わっていったということ、そのような彼の人生を通して、本当にイエスキリストの出会いが人を大きくを変えるということを私たちは気づかされ教えられます。

それで私たちはこの結果に注目しやすい所があると思うんですね。結果も大事なんですけれども、その結果をもたらすその理由と言うか経過に至るまでの過程というのは、もっと大事だはないかなと思いますね。そこは目に見えない部分かもしれませんが、でも何が彼を変えたのか?

イエス様との出会いによって変わったわけですけれども、そして福音が与えられて、変わったわけですけれども、その福音の何が彼をそんなに変えていったのか?というその部分は見えないところだけれども、そこはもっと私たちにとって大事なところじゃないかなと思うんですね。

 

今日私たちはパウロを変えた箇所の中身について注目していきたいと思います。

1.神の選び

パウロがイエスキリストと出会って救いを経験したということは、つまり父なる神様との関係が回復したということを表しております。それまではパウロは神様に背を向けて、神に反逆して生きてきた、そういう人物だったわけですけれども、イエスキリストを信じたことによって神様と和解して、そして父なる神様のみ心に従って、神様と共に歩むものに変えられていったということですね。

そのことによって見えてきたものがある。それは神様がパウロの事を選び出してくださったこと、そしてパウロを召してくださったという事実、そのことにパウロは目が開かれていった、そのことに気づかされていたということが分かるんですね。

 

それは15節のみ言葉からわかります。1章15節のみ言葉に注目したいと思いますが、ここでパウロはこのように告白しております。

しかし母の胎にある時から私を選び出し、惠をもって召してくださった神が・・・

この後、続いていくんですが、ここでパウロは神様のことをどういう方だと認識しているでしょうか。

神様は自分のことを選び出してくださったし、自分を召してくださった、そういう方であるというそういう意識をいただいているということがわかります。神の選びと召しを確信するものになったということであります。

はじめに神様はパウロを選び出してくださいました。

「選び出してくださった」と、彼はこのように告白しております。

選び出すと訳されているこの言葉は、「何か特別な目的のために取り分けられる」というそういう意味の言葉です。パウロは神様によって神様の大切なお働き、お仕事のために、特別に取り分けられた、選ばれた、それは異邦人にキリストを伝えるという使命を与えられたということなんですが、そのために取り分けられたということを、ここで告白しております。神様を知るということを通して、その自覚が与えられたということであります。

私たちは、「神様を知る」という事をよく言うんですけれども、神様を知るというのはどういうことなんだろうか?

それは私たちが「神様によって選ばれてたということを知る」ということです。

イエス様もヨハネの福音書15章16節で、このように教えられております。

あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたを選び、あなたがたを任命しました。それはあなた方が行って実を結び、その実が残るようになるため、またあなた方がわたしの名によって父に求めるものを全て、父が与えてくださるようになるためです。

あなた方が私を選んではのではないんだ、私があなたがたを選んだんだ、そういう風に神様は教えているんですね。

私たちは、何か自分で努力して、自分で発見して、神を知ったわけではないわけですね。

「神様がもうすでに私たちのことを選んで下さっていた」ということに気付かされる、そのことによって私たちは、神様を知る者になっていく。

まず私たちが選ばれたということが、神を知る第一歩であるということを私たちは教えられると思います。

 

そしてパウロは、「選ばれた」と、ここで告白してるんですけれども、ここで特に強調しているのは、その「選ばれた時がいつだったか?」というその時です。

パウロはここでこういう風に言ってますね。

「母の胎にある時から」私を選び出してくださった。母の胎にいた時から選ばれていた。

つまり神の選びは、パウロが誕生する前に、もうすでに始まっていたと、パウロは告白しています。

 

先ほど旧約聖書のエレミヤ書を皆さんと朗読したんですが、エレミアも同じでした。エレミヤも1章5節の中で、「母の胎を出る前から、国々への預言者と定めていた」と、神様に教えられるんですよね。エレミヤも、もう預言者として母の胎を出る前、生まれる前から、預言者になるように定められていた、と、そういうことを教えられる。そういうみ言葉をさっき皆さんと見ました。

 

ですからパウロもそうです。エリミアもそうです。神の選びは、生まれる前から始まっていたっていうことが分かる。そしてこれは彼らだけのことではないんですね。パウロはエペソ書の1章4節で、

神は世界の基が据えられる前から、この方にあって、私たちを選び・・・

と、そういう風に教えているんです。神は世界の基が置かれる前つ、まり全地・万物が作られる創造、それの以前から、私たちを選んでいたという、これは私達にはとても想像できないような、信じられないような話なんですけれども、でも聖書はそういう風に教えているんですね。そういうふうに主張しているんです。

 

皆さんは、私たちは一人ひとりが神様に選ばれたという自覚を持っているでしょうか?

なんとなく神様に、ある時出会って、クリスチャンになった、そういう感じかもしれませんけれども、実はもう神様から、ずっと前に選ばれていた、それは私たちが生まれる前からその選びが始まっていたという、そういう自覚を私たちは持っているでしょうか?

もうお母さんのおなかの中にいたその時から、選びが始まっていた。いや天地創造のその時から選ばれていたということを、私たちは信じているでしょうか?

なかなか実感できないことかもしれません。でもご計画というのは、もうこの地上に存在する前から始まっていたということを、私たちは信仰を持って受け止めるものでありたいと思います。ダビデも詩篇22篇9節10節でこのように褒め称えております。

まことにあなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。生まれる前から私はあなたに委ねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です。

ダビデもこのように告白しております。自分がこの地上に誕生したのは、ただなんとなく生まれてきたんではなくて、神様が私を母の胎から取り出してくださった。生まれた時に神様のみ手がそこにあったと、そういう信仰をいただいている。そして生まれる前から私はあなたに委ねられていたし、母の胎内にいたときから、あなたは私の神でしたと、そういう告白に導かれている。そんな信仰がダビデに与えられていたということがわかります。

 

私たちは生まれた後にいろんな経験をしてゆき、そしてその経験の中で、この経験にとらわれたり、振り回されたり、支配されたりしやすいものだと思うんですね。私たちは本当に過去の奴隷であるということが言えると思います。過去に経験した事がしっかりと自分を縛っていて、そこから離れられないということがたくさんあると思うんです。

でもその過去のずっと前から、神様が御手の中に私達を置いて下さってるとことを知ることができていたらどうでしょうか?私たちの生まれる前から、もう私たちは神様の御手の中に置かれていたということを知ることができたらどうでしょうか?

それは本当に私たちにとって、大きな大きな励まし、人生の支えになっていくんじゃないだろうかと思います。その理解が私たちにとって、確かな人生の土台になっていくからです。

 

私たちは選ばれたということを、神様の選びがもうすでに始まっていたということを、信仰をもって感謝するものでありたいという風に思います。

2.神の召し

そして選ばれたというだけではなくて、パウロは次に「神様は私のことを召してくださった」そういう風に告白をしております。15節の続きのところで、「めぐみをもって召してくださった神が」そういうふうに神様のことを告白しております。

 

ここで「召す」という言葉が使われておりますが、これは「呼び出す」という意味の言葉です。英語で言うと 「Calling 」と言うんですね。電話をすることをコールと言いますが、呼び出してくださった。

ですから先ほどの神の選びが神の御手の技であるとするならば、この「神の召し」は、神の声の技であると言っていいと思いますね。パウロはもうすでに生まれる前から、ずっと前から選ばれていたんですけれども、時かなって、イエスキリストと出会って、神に呼び出された、そういう経験をしました。

パウロが最初に聞いたキリストの言葉は、

サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?

というそういう言葉だったということが使徒の働きの9章4節に書いてあります。その時のサウロは後にパウロとよばれるのですが、初めて神のみ声を聞いたのです。そしてそのキリストのみ声を直接聞いて、彼の人生はそこから180度変えられていくのです。

この時にパウロは、「神様に召し出された」、「呼び出された」、そういう経験をしました。そして先ほどは、「選ばれた時」のが強調されていたんですけれども、こちらの方では「召された時」のその方法が強調されているということが分かるんですね。

こういう風にパウロは言っているんです。同じくガラテヤ1章15節後半、

惠みをもって召してくださった神が、

パウロを、恵みをもって召してくださった、そこに恵みがあったということを、パウロはここで告白をしております。

恵をもって召し出されるということはどういうことでしょうか?

 

召しだされる価値が全くないような者が、ただ神の恵みにのゆえに、無条件に一方的に、召し出されたという事です。

 

パウロはキリスト教会にとっては大迫害者でした。使徒として選ばれるには全く相応しくないそういう存在だったんではないでしょうか。徹底して教会を迫害し撲滅を目指していた。クリスチャンにとってはもう本当に恐れられるようなそういう人物、選ばれるには全然ふさわしくない、そして自分でも告白していますね、自分は罪人の頭であると告白している。このパウロが、神様に呼び出される。全くふさわしくない、でもそのふさわしくないパウロが、ただ神の恵みによって一方的に召し出された。それはまさに恵みであったということを私たちは聖書を通して教えられます。

 

私たちも人生のある時に、イエスキリストと出会って、御言葉からみ声を聞いて、呼び出された一人一人だと思いますね。ずっと前から選びは始まっていたんですけれども、選ばれていたんですけれども、そのことに気づかないでずっと歩んできました。

でもある時にいろんなことがきっかけで、それで求道が始まって、そしてイエス・キリストを信じる決心に導かれた。その時に私たちは「召し出されたんだ」と思うんですよね。その時に私達もやはり、「恵みをもって召し出された」ということではなかったでしょうか。

選ばれて召される、そういう価値の全くない者が、ただ神の恵みによって一方的に許されてそして召し出された。そんな体験を頂いて、今の私たちがあるんだということを思います。パウロは第1コリントの1章の中で、「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい」と、そういうメッセージを語っている場面があるんです。

自分達は召し出されました。「その召しのことを考えてみなさい」ってそういうメッセージをしているところがあるんですね。それが第一コリントの1章の26節からなんですけれども、私たちも自分たちが召されたことを考えてみなくちゃいけませんね。皆さん考えたことありますか?そこでこういう風に教えております。ちょっと読んでみたいと思います。

第一コリント1章の26節から読んでみたいと思います。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は知恵あるものを恥じ入らせるために、この世の愚かなものを選び、強いものを恥じ入らせるために、この世の弱いものを選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足らないものや、見下されているもの、即ち無に等しいものを神は選ばれたのです。肉なる者が誰も神の前に誇ることがないようにするためです。

と、そういうふうにパウロは教えております。

神様はどのような人を選ぶと、ここで教えられているでしょうか。この世の愚かなもの、弱いもの、取るに足りないもの、見下されているもの、無に等しいものを神様は選ばれた。それは知恵あるもの、強いものを恥じ入らせるためであったということも教えられています。

いずれにせよ、神様はそういう人を選んだ。私たちが神様から選ばれて、召し出されたのは、何か私達が優秀だったから選ばれたわけではないんですね。私たちが人間的に優れていたから、他の人と比べて優れた人間だったから選ばれたわけでもないんです。

もちろん私たちそれぞれ賜物が与えられている。そしてその賜物が用いられていくということはあるんです。が、しかし、その賜物が、「選ばれた基準」であるわけでもない。

むしろ私たちが愚かで、弱く、臆病で、この世では取るに足らないものであったからこそ、神様が選ばれた。

 

3.なぜそのような人たちを神様は選ばれたんでしょうか?

それは私たちが、そんな弱さや、愚かさや、未熟さを通して、神様の偉大さが現れるため、神様の力があらわされるためです。

ですから私たちは、弱くていいんですね。愚かでいいんです。無力なものでいいんです。

エレミヤも呼び出されたときは、若かった、経験がない、自信がない、だから「嫌です神様」と最初は言っていた。まだ駄目ですと言っていたんです。

けれど、「まだ若いと言うな」と言われて、そして「お前と私は一緒にいるよ」と約束して、そんなみ言葉に支えられながらエレミヤは用いられていった。

 

そのみ言葉をさっきみんなで読んだんですけれども、まさに神様はそういう方を選ばれるんではないでしょうか。そして何もできないかもしれない。でも主に信頼する者を通して、神様はみ力を表されていくし、神様の偉大さが表されていくし、そのために私たちが召し出されているんだっていうことを、ぜひ心に留めるものでありたいという風に思います。

 

そしてさらに神様が一人一人を呼び出して下さり、個人的に直接的に語りかけてくださるということは、本当にそれは私たちにとって素晴らしい経験ではないかなと思うんですよね。

今、アメリカの大統領選挙の時期で、候補の人がみんなの前で演説をしたりして、みんなに語りかけるということはあるかもしれませんけれど、でも神様は私たち一人ひとりと向き合って、一人一人に声をかけて呼び出してくださるというこの経験は、本当に私たちにとっては信じられないような本当に素晴らしい経験じゃないかなと思うんです。

 

天地万物を作られた、そして天地全能の偉大な神様が、こんな私に目を止めて、そして私のところまで来て、声を個人的に語りかけてくださるというその経験は、私たちにとって大きな大きな経験ではないでしょうか。もし私たちがその声を聞いたら、間違いなく私たちは応答するんではないでしょうか。神様のみ声っていうのは、私たちの中に必ず応答を引き起こす、そういう声、恵の声だというふうに思うんですね。

 

少年サムエルも神様の声を聞いたっていうそういう記事が第一サムエル記の中に出てきますけれども、神様は少年サムエルに呼びかけて、サムエル、サムエルと呼びかけたんですけれども、サムエルはそれに気づかなくて、それは一緒に生活していて自分が仕えているところの、祭祀のエリ先生の声だと勘違いをして、エリ先生の所に何度か駆けつけるという、そういう記事が第一サムエル記の中に出てきます。

でもだんだん分かってくるんですね。それはエリ先生ではなくて、神様が自分に語りかけてくださっているんだ、そのことを自覚した時に、サムエルは神様の声を聞いた時に、「主よお話ください。しもべは聞いております」、そのように答えたと聖書に書いてあります。

主の声を聞いてその時に本当に心を開いて、「しもべは聞いております」、そのように応え、サムエルも神様の声聞いて応答するものに変えられて行った、そういうことを私たちは聖書を通して教えられます。

 

神様の声は、私たちの内に神様に対する応答を引き起こしていく。神様が私たちの一人ひとりにみ声を語りかけてくださっているということは何と素晴らしいことではないでしょうか。

 

旧約聖書を読んでいると実際に神様の声が聞こえてきたみたいで、羨ましいなとおもいますけれども、今の時代は聞こえてくるわけではないと思いますね。

でも今は神の言葉である「聖書」が私たちに与えられております。私たちは聖書を読みながら聖書のみ言葉を読む時に、あるいはそのみ言葉のメッセージを聞く時に、今、神様がこの自分に語りかけてくださっていると感じる時があるんじゃないでしょうか。今、主がこのみ言葉を通して、私に語りかけていると、そのように感じられる時があるんじゃないでしょうか。その時に私たちは無視できない、私たちはかならず応答する者になっていくんではないでしょうか。「主よ私は聞いております」そのように応答するものに私たちは変えていくんじゃないでしょうか。

 

ですから大切なことは、神様のみ言葉を聞いていることかなあと思います。

どれだけ私たちは神のみ声が聞こえているのだろうか?

人生の中で、一度神様のみ声を聞いて、み言葉に励まされて、イエス様を信じる決心をしたんだと思うんですけども、その後はどうでしょうか?

神様のみ声はいつでも語られていると思います。そのみ声を、絶えず聞き続けるものでありたいなという風に思います。

エレミヤもそうでした。イザヤもそうでした。ペテロもそうでした。パウロもそうでした。聖書の中に出てくる登場人物の多くは、神のみ声を聞いて、その召しに応えて、そして神に従うものに変えられていった。それ以前に選ばれていました。ずっと前に選ばれていたけれども、人生のある時に神の言葉を聞いて、そして神様に従う決心をした。

その神様が今、私たちに対しても、み言葉を語りかけておられるのではないでしょうか。

そのみ言葉をよく聞いて、そのみ言葉、そしてその召しに応答する者でありたいと思います。

4.まとめ

この選びと召しの確信がはっきりしてくると、それは私たちの人生の土台になっていきますね。そして私たちの人生は、すごく安定してくると思います。

私たちの多くの問題はですね、人生の確かな土台というものが、十分に築かれていないというところにあるんじゃないかなと思いますね。

信仰者であっても、神を信じている人であっても、時々自分の土台いが不十分だなと感じることはあるんじゃないかなと思います。

ですからこの世の中に起こってくる色の出来事であったり、世の中の変化だったり、人から聞いた言葉であったり、様々な態度に振り回されて、揺さぶられたり、そういうことはたくさんあるんじゃないかと思うんですね。そしてすぐに自信を失ってしまう私達ではないかと思います。

 

でも神様は、私たちが生まれる前からずっと私たちのことを愛してくださっていたし、生まれる前から目を留めていてくださったし、もう生まれる前から神様のご計画が始まっていたと信じることができたら、それはどんなに私たちの人生の土台になっていくだろうかと思いますよね。そして生まれた時にそこに既に神様がおられ、人生ずっとここまで導いてくださり、そのことに気付かないで歩んできたけれども、人生のある時に、神様の声を聞いて、召し出されたという、そういう経験が与えられたならば、それは何と私たちを根底から支えるような、確かな土台となるのではないかと思います。そして神様の召しをいただいて、そして神様のみ声を聞いて、それに応答していくという、神様との豊かな交わり、神様との人格的な交わりの中に生かされていくならば、それはどんなに私たちの人生の養いになっていくであろうかと思うんですね。

 

ですから私たちはこの「選ばれた」という事実と、「召し出された」というその事実が、本当に私たちの中ではっきりされていくということを大事にしていきたいなという風に思います。

この私たちの人生の安定と安心は、自分を中心として神様を覚えるのではなくて、神様を中心として自分を覚える時に、与えられる恵みだということがわかります。

そしてこの祝福は、神様と私たちの間の仲介者として来てくださった、イエスキリストを信じる信仰によって与えられていくものであります。イエスキリストを信じるときに私たちは神様との関係が本当に回復に導かれて、神様と親しい関係の中に生かされて行く。

ぜひ私たちは、救い主イエス・キリストを、自分の救い主として信じて、この方に信頼して歩んでいくものとなろうではありませんか。そして本当に神様に選ばれたというその選びと、召し出されたという召しを本当に確かなものとして、その人生の土台として、日々これからも主と共に歩んでいく毎日にしていきたいと思います。

 

お祈りをいたします。

恵み深き私たちの父なる神様。私たちの生まれる前から愛し、選び出してくださっていたことを覚えて、心から感謝いたします。そのことに長い間、気づかずに歩んできましたけれども、しかし主がみ言葉を通して私達を召し出してくださって、今、神の子供として、下僕としてあなたと親しい交わりの中に生きる者にされました。本当にありがとうございます。主は今も私たちに語りかけて下さっています。どうぞそのみ声をよく聞いて、そのみ声に従って歩む日々となしてくださいますように。そしてこの神様の選びと召しを確かな者としていない方がおりましたならば、イエス様が続けて語ってくださって、導いてください。そしてこの恵みを知ることができるように励ましてくださいますようにお願いいたします。み言葉を心から感謝しイエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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