イエス・キリストをより良く知るために

キリストの賜物の量り エペソ書4章7~10節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。


この2週間ぐらいでしょうか、サッカーのアジアカップが大変盛り上がっていたようで、日本のチームは決勝戦で敗れて準優勝だったようですけれども、私も何試合か、観戦を致しました。そして新しくメンバーも変わりましたけども、変わった新しいチームが非常に良い、ハツラツとしたプレーをして活躍していたなあということを思いました。そんなサッカーの試合を見ながら教会の姿は、野球よりもサッカーのほうに近いかなということをちょっと思いました。野球というのは、選手たちが基本的に監督の指示通りに動くものだと思います。ランナーが出て盗塁するか、送りバントにするか、ヒットエンドランにするのか、決めるのは監督だと思いますね。ですから選手たちは監督の指示通りに動くということになるんだと思います。が、サッカーは一度試合が始まってしまったら、もうそのグランド上では選手たちが自分で考えて、自分で動いて、自分で試合を組み立てていきます。一応試合前に基本的な戦略とか方向性は、監督から指示があるんだと思いますが、でもそれに従って自由に選手たちが活躍する。自分に与えられた役割というものをよく自覚しながら、それを発揮しながら、全体でひとつになっていくというのがサッカーの姿じゃないかなというふうに思いました。それは非常に教会の姿と似てるんじゃないかなということ思ったんですね。今日の聖書の箇所を準備しながら、まさに今日の内容はそういう内容だなということを思いました。

1.私達一人ひとりの賜物.

エペソ書の著者であるパウロは、4章に入ってからずっと教会は一つであるということを教えてきました。一つである教会の全体像というものが、そこまでのテーマだったんですけれども、今日の箇所においてパウロは、「しかし」という逆説の接続詞から始めております。これはここから話題が変わるよというサインですね。そしてその後こういう風に語っております。
7節です。「しかし私たちは、一人一人キリストの賜物のはかりに従って、恵みを与えられました。」
このようにパウロは言っております。それまでは教会は全体で一つであるということが、パウロの関心の中心だったのが、ここで「私たち一人ひとり」という風に話題を切り替えているという事が分かりますね。全体としての教会から、私たち一人ひとり、教会を構成している、私たち一人一人に、焦点が移されているということが分かるわけであります。
結局、大事なのは私たち一人一人であるということです。
教会はどうすれば一つになって歩んでゆくことができるでしょうか?
それは私たち一人ひとりが、それぞれに与えられた役割を果たしながら、喜んで主に仕えて行く時に、全体でひとつになるということであります。ちょうどそれは、サッカーの選手たちが自分に与えられた役割を十分に果たすことによって、全体でひとつのチームとなっていくように、教会も一人一人が大事です。そのように、与えられた役割を果たすことによって、私たちは一つになりますし、そのことによって主の栄光が現されていくということを、今日の箇所をとおして私たちは覚えあいたいというふうに思います。

2.私達は喜んで主に仕えていくために「恵み」を知らなければならない。

でも私たちは考えますね。どうすれば私たちは喜んで主に仕えていくことができるでしょうか。特に教会の中でどうすれば私たちは喜んで一緒に奉仕をしていくことができるでしょうか。
そのためには恵みが必要です。与えられる恵みを知らなければいけません。
7節でパウロは、「私たちは一人ひとり恵みを与えられました」という風に教えていますね。私たち一人一人に恵みが与えられている。この恵みをわたしたちが理解してるかどうかが、心から主にお仕えしていけるかどうかの、大切なことであるということは是非覚えたいと思うんですね。
今日の聖書の箇所から、私たちが、一緒に仕えていくための三つのことを覚えあいたいと思います。

①私たち一人一人に「賜物を与えてくださっている恵み」。

「しかし私たちは一人一人キリストの賜物の量りに従って、めぐみを与えられました 」という言葉がここに記されています。私たち一人一人に賜物が与えられているということであります。私たちはみんな違います。同じ人は一人もいません。性格も趣味も立場もみんなそれぞれですけれども、それに加えて賜物が違う。私たち一人一人に与えられている賜物があります。そしてそれは「賜物」であるということをぜひ私たちは覚えたいと思います。
神様が、一人一人に備えてくださった賜物であります。しかも私たち一人ひとりにぴったりの賜物が、必要な分だけ与えられております。パウロはここで、「キリストの賜物の量りに従って」と語っていて、「量り」という言葉がここに出てまいります。とても興味深い一つの言葉だなというふうに思います。私たちに与えられている賜物が、神様によって量られている賜物であるということが、この箇所から分かることであります。
私たちは、偶然こういう人間になったわけではないんですね。皆さんそれぞれ違いますけれども、偶然こういう人間になったわけではありません。神様は、私達の事を、適当に作ったわけではないんですね。天国にある製造工場で大量生産された製品ではないんです。私たちは、私たち一人ひとりは、神様の御手の中で作られた、手作りの作品ですね。ですから皆違います。そして神様は、私たちの人生のことをよく考えた上で、私たち一人一人に心を込めて念入りに作って下さったんです。

きっとこういう風に作ったんじゃないかなと想像しました。この人には音楽の賜物を与えよう、音楽の賜物を用いて神様に支えていくことができるように、この人には特別に音楽の賜物与えよう。音楽の賜物が特別に与えられている人がいると思います。この人には教える賜物を与えよう。教えることを通して神様の栄光をあらわすことができるように、特別にこの人には教える恵みを与えよう。この人には穏やかな性格を与えよう。この人にはお話が好きな性格を与えよう。この人には話を聞くことができる賜物を与えよう。他の人には祈る賜物を与えよう。みんな違いますけれども、でもそれぞれに神様が特別に心を込めて与えられた賜物があります。しかもふさわしい分だけ、ぴったりの量だけ、与えられているということであります。
多分こんなことも考えたんじゃないかなと想像しました。この人にあまりあげすぎると、すぐ高慢になるから、このくらいにしておこう。ちょうどいい量が与えられているんじゃないかなあと思うんですね。お母さんが赤ちゃんに、粉ミルクをといてミルクを与える時はよく量ると思いますね。何グラムの粉ミルクに、お湯を何グラム注いで、といて赤ちゃんにミルクをあげると思います。しかもお湯の温度もあまり熱いと火傷しちゃいますし、あんまり冷たいとお腹を壊してしまいますので、ちょうどいい温度のお湯を冷まして、適温のお湯で溶かして、それを赤ちゃんに飲ませると思いますね。それは赤ちゃんに対するお母さんの愛情です。赤ちゃんを愛するからこそ、お母さんはちゃんと測って、ミルクを作りますね。私達にも同じ愛情が神様から注がれているということを覚えたいと思います。

私たちにぴったりの賜物が、ちょうど良い分量だけ与えられているということ、皆さん一人一人に特別な賜物が与えられているということ、それはその賜物を用いて、神様にお仕えしてゆくためであります。そのことが分かれば、私たちは本当に与えられた人生を、喜んで生きてゆくことができるんではないでしょうか。信仰者としても本当に喜んで、主に与えられた賜物を用いて、主にお仕えしていくことができるんではないでしょうか。ですから私たちが賜物を、主から与えられているということを知っているということは、私たちの信仰者としての歩みにとって非常に大きなことであるということであります。
その辺を忘れてしまうところから、私たちはだんだん、人と比べ始めるのではないかなと思うんです。人と比べてみて、あの人にはあんなことができる、こんなこともできる、私は何もできない、と段々そんな惨めな気持ちになってしまったり、ひがんだり、妬んだり、そんな 気持ちが出てきてしまうのじゃないかなと思いますね。あるいは自分は何でもできるなどと、なんだか非常に傲慢になってしまったりするんじゃないかなというふうに思います。それは賜物が与えられているということを忘れてしまうところから来ているんじゃないでしょうか。
神様は私達の事を本当に愛して、一人一人念入りに、1番ちょうどいいだけ賜物をくださっているということが分かれば、もう私達それだけで感謝ですね。その賜物を用いて、神様に積極的にお仕えしてゆくことができるんではないでしょうか。一人一人にふさわしい賜物を主が備えてくださっているということをぜひ覚えたいと思います。今年も私たちは本当に喜んで 主にお仕えして行きたいと思います。2019年、どのような形で、主にお仕えしていくことができるでしょうか。それぞれに与えられている分があります。それは是非皆さん、神様との関係の中でよくわきまえて頂いて、考えていただいて、私にはこれが与えられて、今年はこれをもって、主にお仕えして行きたい、そういう風にして主に捧げて行って欲しいなと思います。第一番目の恵みは賜物が与えられている恵みを、感謝したいと思います。

②キリストがすでに「勝利してくださっているという恵み」。

私たちが主に喜んで仕えるために、主が与えてくださった2番目の恵みは何でしょうか。
それはキリストがすでに勝利してくださったという恵みであります。8節の言葉に注目したいと思います。「そのためこう言われております彼はいと高きところに登った時、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」
ここでパウロは突然旧約聖書の言葉を引用しております。詩篇68篇18節の言葉ですが、この言葉を引用してきました。なぜ突然、旧約聖書の言葉を引用したんでしょうか。
この68篇の詩篇を読むと分かるんですけれども、それは「勝利する王様の姿」が描かれている詩篇であります。「神は立ち上がり、その敵は散り去る」という、そういう言葉からあの詩篇が始まっていきますけれども、ここに記されているのは、敵を打ち破り、戦いに勝利する王様の勇ましい姿が、そこに記されております。そしてその詩篇の途中の18節に出てくる言葉をパウロはここで引用しております。
「彼はいと高きところに登った時、捕虜を連れてゆき、人々に贈り物を与えられた。」ここに戦いに勝利された方が、たくさんの捕虜を引き連れて、栄光の王座に凱旋してくる、そういう姿が描かれております。そしてその後、その贈り物を人々に与えたという、そういう場面がここに出てくるわけであります。ここにイエス様の姿が記されております。
パウロはこの詩篇の言葉を引用することによって、詩篇にある、あの予言は、イエスキリストによって成就されたということを、ここで伝えているわけであります。
この詩篇の言葉から、私達は三つの事を教えられます。三つのことがわかるんですが、
A.一つはこの王は勝利されたということです。
B.2番目にこの王は高いところに登られたということです。
C.そして最後に、この王は高いところから人々に贈り物を与えたということです。
そのことが、ここに記されていることであります。私たちはここから、キリストが勝利の主である、勝利の王であるということを、互いに覚えあいたいというふうに思います。

どのようにして勝利されたんでしょうか。イエス様はどのようにして勝利してくださったんでしょうか。その次の9節に8節の解説がなされております。9節の言葉です。
「上ったということは、彼が低いところ、つまり地上にくだられたということでなくて何でしょうか。」このように書いていますね。
ここに、上ったとか、くだられたとか、上に行ったのか下に行ったのか、なにかイエス様の上下運動について書かれてあるんですけれども、でも最終的には上られたということがわかりますね。そしてその前に、地上にくだられたということ、地上に「下った」ということが「上った」ということ、そういうことが書いてある。まるでなぞかけのような文章でありますけども、一体これは何を意味しているんでしょうか。
まずキリストは地上にくだられました。キリストは神である方なのに、人となってこの地上に来てくださいました。人となって私たちの側に来てくださいました。これは、クリスマスのメッセージであります。そして人となってくださっただけではないですね。この地上で苦しまれました。辱められました。十字架にかけられました。死んでくださいました。全て私たちのためです。そんなキリストの姿は、多くの人々にとって敗北に見えたんじゃないかなと思うんですよね。ナザレのイエスによって、せっかく始まった、良き働きも、十字架によって潰えてしまったと、当時の人々には、そういう風に見えたんじゃないかなと思うんですね。弟子たちも、そういう風に考えたと言われております。せっかくイエス様によって、素晴らしい働きが始められた。人々が期待したのに、イエス様が十字架にかかってしまったために、もうそれで終わってしまった。がっかりした人が、当時、たくさんいたんじゃないかなと思うんです。
でも私たちは知っていますね。このイエス・キリストの十字架は、敗北ではないですね。
勝利です。十字架によって、イエス様は罪に勝利されました。死に勝利にされました。サタンに勝利されました。そしてそのイエス様を神は復活させて、そして天の上に引き上げられて、神の右の座に着座させました。今キリストは神の右の座、つまり権力を行使するその場にいて、そしてすべての支配権、主権、権力の上におられる。すべてのものを自らの足の下に従わせている、と聖書に書いてあります。つまり地上に下られたキリストが、天に引き上げられたということであります。地上に下られたからこそ、天に引き上げられたということが言えると思います。人の目には敗北と見えるキリストの姿が、実は勝利であったということが分かる。下られたということが、結局は登ったということである、という逆説が、イエス様の人生に見られるし、まさにそれが私たちの希望であるということが、この9節に提示されていることであります。イエス様の十字架は、私たちにとっての勝利の十字架であるということを、ぜひ私たちは覚えたいと思います。
この間の祈祷会で私たちはヘブル書の12章を学びました。その中でともに味わった言葉があります。それは「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」この言葉を共に皆さんと味わいました。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、私たちは目を離してはいけない、そういうことが、そこに語られているメッセージでした。なぜ、目を離してはいけないんですか?それは私たちの背負っている重荷が、あまりにも重く、罪が私たちにまとわりついているからです。この罪の重さ、罪を捨てるために、イエス様に目を注ぐ必要がある。イエス様から目を離してはいけないのだということが、そこで教えられていたということを私たちは共に覚え会うことができました。罪は私たちにまとわりついているということを、本当に覚えたいなというふうに思います。今年のインフルエンザは非常にしつこいというふうに思いますね。なかなかしぶとい。一度感染したらなかなか抜けない。そういうしぶとさを持っているインフルエンザだなというふうに思います。この中でも苦しんだ方がいらっしゃるんじゃないかなと思うんですけれども、なかなか流行も、おさまって行かない。今までの最高の流行であると報道されておりましたけれども、非常に厄介だなというふうに思います。
でもそれでも、タミフルを使えば、特効薬を使えば、少しずつ良くなっていくと思いますよね。少しずつ解放されていくと思います。しかし私たちにまとわりつく罪は、そんなレベルではないですね。一度取り付かれたら、断ち切ることができないくらいの現実です。自分の力では絶対断ち切ることができないくらい、私たちにまとわりついてくる罪の現実であります。ヘブル書のこの続きのところには、こんな言葉も出てきます。「あなたがたは罪と戦って、まだ血を流すまで、抵抗したことがありません。」血を流すぐらい戦って、抵抗しなければ、解放されることがないというくらい、それはしぶとい敵であるということを、聖書は私たちに教えているのです。実際血が流れると言うのではありませんが、でもそれくらい罪の戦いというのは、激しいんだよということを、聖書は教えております。あなたは、あなたの罪が、どれだけあなたにまとわりついているかということを、意識しているでしょうか。イエス様を信じて、救われて罪が許されて、安心して、それで終わってしまっているっていう事はないだろうかと思うんですね。それゆえに、実は、まとわりついている罪が、今でも続いている、その戦いが今でも継続されているのに、そのことに気づかないままに、敗北を続けているということがあるとしたら、それはなんと残念なことではないだろうかというふうに思います。そして私たちはそんなことに気づかないで、当然のように自分にこだわり、自分のやり方を押し通して、当然のように怒り、それがあたかも正当な怒りであるかのように主張し、そして当然のように人を裁いて、自分の正しさを誇るということになりがちではないかなというふうに思うんですね。でも実際に私たちは罪に敗北し続けている。まとわりついてくる罪の現実に、気づいていないということが ないでしょうか。そんなことにならないように、私たちは本当に自分自身に対する吟味が必要だというふうに思います。救われた後も、キリスト者とされた後も、この戦いは続いていくということを覚えたいと思います。いや、救われた後であるからこそ、この激しい戦いが続いていくということがあるということを、私たちは忘れないでいたいなというふうに思います。
私たちには何が必要なんでしょうか。十字架が必要です。イエスキリストの十字架が必要です。そして私たちは信仰の創始者であり、完成者である、イエスから目を離してはいけないんです。せっかく始まった信仰が、完成することがなかったということが、ないように、絶えず私たちはイエス様を見続けなければいけないんです 。イエス様の十字架は勝利の十字架であるということをぜひ覚えたいと思います。イエス様の十字架、私たちの罪を赦し、救いをもたらす救いの十字架ですけれども、それだけではないですね。私たちに勝利をもたらす十字架、救われた私たちに勝利をもたらす十字架です。この十字架を仰ぎ見る時に、私たちは砕かれるんではないでしょうか。イエス様が私たちの罪のために身代わりの死を遂げてくださった、その十字架を見るときに、私たちは自分の罪深さを示されるんではないでしょうか。砕かれるんではないでしょうか。こんな自分のために、イエス様が十字架にかかってくださったということを知る時に、私たちも自分の罪に、こだわることは、できないんではないでしょうか。そこで砕かれて、本当に悔い改めに導かれるんではないでしょうか。そこに勝利があるということを、私たちは覚えたいというふうに思います。主に喜んで仕えたいんだけども、仕えてゆくことができないという、もしそういう課題を抱えている人がいるならば、それはもしかしたら、罪に敗北しているからかもしれません。気持ちはあるんだけども、なかなか主に喜んで仕えることができない。どうしてだろう。もしかしたら皆さんの中に課題があるかもしれない。是非吟味していただきたいなと思うんですね。そして是非この点で勝利して、解放されて、勝利のイエス様を味わって、そして喜んで主に仕えていこうではありませんか。イエス様が勝利してくださった、その恵みが、私たちに与えられているということを是非覚えるものでありたいと思います。

③キリストが私達を「聖霊で満たしてくださる恵み」

私たちが主に喜んで仕えていくために私たちに与えられている3番目の恵みは何でしょうか。それはキリストが私たちを満たしてくださるということであります。地上にくだられて、そこで勝利されたキリストが、天に昇られて、神の栄光の座に着座されました。そこでキリストは何をしているんでしょうか。何をしてくださると聖書に記されてあるでしょうか。8節の詩篇の言葉によると、「この王は、高いところに登られて、人々に贈り物を与えられた」という風に書いてあります。キリストは天に帰られました。神の右の座に着座されました。そこで何をしてくださるんでしょうか。私たちに贈り物を下さる、その贈り物とは何でしょうか。それは聖霊であると、そのことが聖書で教えられていることであります。
10節の言葉を読みいたします。「この下られた方ご自身は、全てのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。」
この下られた方ご自身は、全てのものを満たすために、諸々の天よりも高く上られた、高く上られた方が私たちに贈り物をくださった。そしてその目的は何でしょうか。それはすべてのものを満たすためであるということが、ここで教えられておりますね。全てのものを満たすことが目的だった。そしてそのために、主が与えてくださったのが聖霊であるということを、私たちは覚えることができます。あのペンテコステの日に、聖霊が降った。ペテロが説教しました。使徒の働き2章にそのペテロの説教が出てきますが、その説教の中で、ペテロはこういう風に語ってますね。
「ですから、神の右にあげられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなた方が目にし、耳にしている、聖霊を注いで下さったのです。」

使徒の働き2章33節に、そういうメッセージが出てまいります。聖霊を与えるということは、イエス様と弟子たちの間の約束でした。イエス様が天に帰られる前、十字架に付けられる前から、イエス様は約束していたんですね、弟子たちに。
私はそのうちいなくなるから、その代わりに、もう一人の助けぬしがやってくるよ、聖霊がやってくるよって言うことを、約束していたんですね。その約束の聖霊を、ちゃんとイエス様が天に帰られた後、そこから送ってくださった。そしてその聖霊に、今、私たちは満たされているということをペテロは経験し、その事を説教して語っているということがわかります。
そしてその聖霊が与えられた結果として、私たちにどんな確信が与えられたでしょうか。それは、私たちの内にキリストが住んでいるという確信が与えられました。
どうしてそんなことが起こり得るのでしょうか。イエス様はもう天の上に帰られて、神の右の座に着座して、天におられるはずの方が、どうして私たちの心の中にいると告白できるんでしょうか。これは理屈では説明できませんけれども、私たちの頭では到底理解できないことですけれども、でも私たちは、それを経験していますね。本当にその通りになっている。そしてパウロもそのことをちゃんと伝えておりました 。エペソ書の1章の22節と23節で、すでにその事を伝えておりました。もうすでに学んだところでしたけれども、そこを読んでみます。
「また神は、全てのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを全てのものの上に立つかしらとして、教会に与えられました。教会はキリストの体であり、全てのものを、全てのもので満たす方が、満ちておられるところです。」と書いてあります。これは教会ということを理解するために、とても大事な聖書の言葉だと思います。
教会とはどんな場所なんでしょうか。教会は、すべてのものの上に立つ、かしらであるキリストが、与えられたところであります。そしてすべてのものを満たす方、すべてのものを全てのもので満たす方が、満ちておられるのが 教会であり、教会はキリストの体であるということがここで教えられている。ここに来て私たちはキリストと出会います。ここでキリストと繋がります。キリストと深く交わります。そしてその結果、私たちは満たされるんですね。私たち内にキリストが共におられるということを経験します。そしてこの満たしを以て、私たちはそれぞれのところに帰っていきます。この世に遣わされていきます。全てのものを全てのもので満たすキリストの満たしを経験し、ここから遣わされていくんです。
それはちょうど砂漠に泉が湧いて、その泉の水がその乾いた砂漠を少しずつ少しずつ潤していくように、ここに泉が湧いて、ここで私たちは満たされて、キリストと出会って、そしてそこから遣わされていくんです。この乾いた砂漠に、この泉の水を伝えるために、広げるために、遣わされていく、そこまで神様は計画してくださっているんですよね。そのために教会にキリストが与えられているという恵を、私たちは覚えたいと思うんです。
私たちは満たされているでしょうか。本当に心の深いところから、キリストと出会って満たされているでしょうか。私たちの魂の渇きは、この方と出会って、本当に癒されているんでしょうか。うるおされているんでしょうか。それとも表面的な信仰で満足してしまっていることはないでしょうか。形だけの礼拝出席、形だけの奉仕、外面的なクリスチャン的な振る舞いだけで、なんとなく自分の信仰を保ってしまっているとようなことはないだろうか。私たちは是非ここで主と出会いたいと思います。
教会はキリストの体です。キリストの住んでおられるところです。このキリストとしっかりと出会わせていただこうではありませんか。そしてそれによって、私たちが本当に心から満たされて、ここで満たしを経験して、ここから出発していく、そんな一週間にしていきたいというふうに思います。

3.まとめ

このように神様は、なんと豊かな恵みを私たちにくださっているでしょうか。私たちが心から主にお仕えすることができるような恵みをたくさん、たくさん用意してくださってるんです。私たちに賜をくださっております。それぞれにぴったりな、ぴったりな分だけ、賜物が与えられております。そしてイエス様も勝利してくださいました。私たちが離れられない、私たちにまとわりついてくる罪の、その戦いに、イエス様は勝利して下さったんです。イエス様を仰ぐ時、そこに解放があるんです。そして私たちは満たされるんです。もうこれは、全部、恵みなんです。その恵みによって、私たちは心から信じ、仕えていくものに変えられていくということを、ぜひ覚えたいと思いますね。主に仕えていくために頑張るぞーと、自分に力を込める前に、与えられている恵みを味わいましょう。この与えられてる恵みに感謝しましょう。本当にその所から、主に喜んで仕えていく信仰が生まれてくるということを、是非今日の聖書箇所から覚えたいと思います。主の恵みに感謝し、主を褒め称えたいと思います。

お祈りをいたします。神様、本当に私たちが救われただけではなくて、救われた後に、一緒に喜んで仕えていくことができるように、生き生きと私たちの人生を、主にお捧げすることができるための恵みを、豊かに用意して下さってることを覚えてありがとうございます。私たちに賜が与えられていることを感謝いたします。また私たちに十字架の勝利が与えられていることを感謝します。また私たちに聖霊によるキリストにより、満たしが与えられていることを感謝します。どうぞこの恵を豊かに味あわせてくださるようにお願い致します。この恵みをいただいて今年も主に豊かにお仕えしていくことができるように、一人ひとりのあゆみに伴ってくださいますように、お願いいたします。御言葉を心から感謝し、イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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