イエス・キリストをより良く知るために

神は私に 笑いをくださいました。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

創世記21章1~7節

 

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。
サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
そしてアブラハムは、神が命じられたとおり、生後八日になった自分の子イサクに割礼を施した。
アブラハムは、その子イサクが彼に生まれたとき、百歳であった。
サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」
また、彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子に乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、主人が年老いてから子を産んだのです。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

「神は私に 笑いをくださいました」と今日の聖書の箇所の中ででサラは語っております。とても素晴らしい言葉ではないかと思います。この言葉を通して、自分の中で作り出すのではない、神様が私たちにくださる笑いがあるということを教えられるからです。昨日のバプテスマ式の時もたくさんの笑いがありましたけど、これも神様が私達にくださった笑いだなと思います。私達は果たして笑っているだろうか?神様が私たちにくださる笑いによって、笑っているでしょうか?そして一体それはどんな笑いなんでしょうか?そんなことを考えながら、今日の御言葉に注目をしていきたいと思います。

今日の聖書の箇所でサラが笑ってますね。どうしてサラは笑っているんでしょうか。

二つの理由を指摘したいと思います。

【1】 サラの笑い①:子どもが与えられたことゆえの笑い

一番目に、それはもちろんサラに子供が与えられたからです。1節の御言葉を朗読いたします。

主は約束した通りにサラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。

と記してあります。神様がサラに約束をしてくださったということですが、どんな約束だったでしょうか。あるいはどんなメッセージを告げられていたんでしょうか。

それはもちろん男の子が与えられるという約束です。サラの妊娠が、主の御業としてなされたということがわかります。

この時から約1年前でした。神様と二人の御使いが、アブラハムの家を訪ねてくるということがありました。三人は大切なメッセージを伝えにやって参りました。それは「私は来年の今頃、必ずあなたのところに戻ってきます。その時、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」というメッセージでした。18章10節です。本当にその約束のとおりになりました。神様が約束してくださったとおり、その1年後サラに男の子が与えられたのです。その体験はサラにとって今までの苦しみが全部忘れられてしまうくらいの喜びだったのではないでしょうか。サラは今まで本当に苦しんできました。

サラはアブラハムという族長の妻であります。族長の妻なのに、長い間サラは子供を産むことができない。子孫を残すことができなかった。それは族長の妻としての責任が果たせていないということでもあります。それはサラにとって大変大きな精神的な苦痛であったと考えられます。そこでサラは自らの女奴隷だったハガルという女性を夫に与えて、ハガルを通してなんとか子を授かろうとしました。先週のメッセージの内容だったと思います。

その結果ハガルは子供を身ごもり、サラの望んだ通りになりましたが、そのハガルが、今度は逆にサラのことを軽く見るという結果になってしまって、サラは大変な屈辱を味わうということになりました。ですから、サラは本当に苦しんだんですね。子がないまま、年老いてしまった自分について、サラは以前こんなことを口にしていました。18章の12節で、

年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。

年老いてしまった自分には、もう何の楽しみもない。当然笑うこともない。そういう人生だったということがわかります。笑いがあるとすれば、諦めの笑、自分はあざける自嘲的な笑いだけでありました。

ところがそんなサラが、ついに身ごもりました。そして男の子を出産しました。2節を読んでみたいと思います。

サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を生んだ。

「年老いたアブラハムに男の子を産んだ」というこの一節は、族長の妻としての責任が果たされたという意味がここに含まれております。そして生まれてきた男の子にイサクという名前をつけました。これはもうすでに定められていた名前でしたけれども、意味は「彼は笑う」という、そういう意味の名前です。赤ちゃんであるイサクが笑っているその笑顔を見て、サラの顔にも笑顔が生まれたのではなかったでしょうか。それは神様がサラにくださった笑いでありました。

この聖書の箇所から私たちも学びたいと思います。神様は必ず約束を守られる方で、約束された通りに必ず実現してくださる方で、聖書の中にたくさんので言葉が記されています。たくさんの約束がそこに記されています。それらは全部、間違いなくその通りになります。

旧約聖書の中に出てくるたくさんの約束は、ことごとくイエスキリストによって実現いたしました。よって私たちはこの聖書の言葉を信頼することができるんですね。神様の言葉、神のみ言葉に信頼することができます。そしてこの御言葉が単なる言葉ではなくて、生きて働いている神の力であるということを、私たちは体験することができます。その時に私たちの顔にも笑顔が生まれるんじゃないでしょうか。私達の顔にも笑いが与えられていくんではないでしょうか。それはまさに神様が私たちに与えてくださる笑いであります。そんな笑いをたくさん体験していくものでありたいと思います。

サラが笑ったり理由は、まず第一に子供が与えられたから、そしてそれは神様の約束の実現だったからということになります。

【2】 サラの笑い②:主に顧みられていることゆえの笑い

もう一つサラが笑った理由があると思います。

それは子供が与えられるということの以前に、神様がサラのことをいつも顧みられていたから、、、そのことをサラはイサクが与えられた時に知らされたと思います。

今までサラはずっと孤独だったと思いますね。いつも自分は孤独だと思って歩んできたと思います。誰にも理解されない苦しみを味わい続けてきたのではなかったかと思います。

夫のアブラハムにも理解してもらえず、神様からも自分は冷たくあしらわれているのではないかと感じるような日々だったと思います。

ハガルの件でトラブルに巻き込まれた時に、サラはアブラハムにこのように語って怒りを爆発させた。その先週の箇所で学んだかと思いますけれども、こんなことをサラは夫に向かっていったんですね。15章の5節。

私に対するこの横暴な振る舞いは、あなたの上に降りかれば良いのです。

そういう言い方をしました。激しい言葉だなと思いますけれど、この言葉の中にサラのいろんな感情が、複雑な思いが、ぎっしり込められているように感じますね。

そしてその中で、特にこの辛い自分の気持ちを、夫にも理解してもらえないというサラの悲しみ、寂しさが、込められているではないかと思います。また神様についても当時のサラは、「主は私が子を産めないようにしておられます」という言い方をしております。

自分が子供を産めないのは、神様が自分のことをそのようにしているからなんだという風に解釈していたというこということから、その時のサラが神様に対しても複雑な思いを抱いていたということが分かる言葉だと思います。このようにサラは、長い間夫にも理解されないし、神様からも見放されたような気持ちになって、誰も自分の事を理解してくれないという孤独に、ずっと一人で耐え続けてきた、そんな人生だったということが言えるんではないでしょうか。

ところがイサクが与えられた時に、サラは初めて気づきました。

神様は、実はいつも自分とともにいてくださった。」一人ぼっちだと思っていたけれども、でも神様はいつもサラのことを顧みてくださっていた。そして時かなって主は、約束を果たして下さった。全ては、この日、この時のためだったんだと。全ては、神様のご計画の中にあることだったのだと、この時サラは気づかされたのではなかったかなと。

それはイサクが与えられたことは非常に大きな喜びだったんだと思いますが、それ以上にもっと大きな喜びだったんではないでしょうか。サラにとって、もっと嬉しいことだったのではないでしょうか。それは、自らをいつも省みておられる、神様の愛を知ったことの喜びだったということが言えるんだと思いま。

サラは6節で言いました。

神は私に笑いを下さいました。これを聞く人も皆私のことで笑うでしょう。

7節でも言いました。

誰がアブラハムに、サラが子に乳を飲ませると告げたでしょう。ところが私は主人が年老いてから子を生んだのです。

この最後の1節に、なんとも言えない性の喜びの感情がほとばしっているのが感じられるのではないかと思います。また6節では、「これを聞く人も皆私のことを笑うでしょう。」

と言っていますけれども、今までのサラは人から笑われるのが嫌で、人に心を閉ざして生きてきたじゃないのかなと思います。でもここを見ると、もう人から笑われることも何か喜びの一部であるかのような、サラの気持ちが伝わってくる1節だなと思います。

空は喜びのおお元が与えられたんだなとということを教えられます。まさにそれは、神様がサラにくださった笑いでありました。神様がおられるから、神様がサラにとっての主であるから、この方に愛されて顧みられているから、そのことのゆえの笑いだったということを、私たちはこの箇所から覚えたいと思います。そして神様はそのような笑いを、私たちに与えてくださる方であるということを今日心に留めたいと思います。

今まで私達の教会は、コロナの感染から守られてきたと言えると思いますけれども、しかしここにきて、私たちの知り合いの中にも、関係者の中にも、コロナに感染する方が少し起こされてきているかなと感じております。そしてこの問題がいよいよ身近な問題になってきているのかなと感じております。もう1年半以上も私たちは、このような生活を続けていますけれども、本当に一日も早くこのコロナパンデミックが過ぎ去って欲しいなと思います。そして1日も早く以前のような生活に戻りたいなと思います。私たちはその日が来るのを心待ちにしながら、ひたすら耐えている、我慢しているという状態なのかもしれません。

ただこのパンデミックが、今なぜ起きているのかとか、このような状況の中にどんな神様の御心が示されているのかとか、そしてこの非常に厳しい状況の中に、神様からどんなメッセージが語られているのかということについては、あまり考えない、あまり意識しない傾向が、私たちにあるのではないかなという風に思います。

私たちは、感染対策はよく考えていると思います。三密に気をつけるとか、マスクの着用、手洗い、うがいを徹底させるとか、あるいは外出を控えるとか、色々感染対策はよく考えているかと思いますけれども、でもよく考えると、パンデミックそのものに対して向き合うということはあまりないのかなというふうに感じますね。このパンデミックが過ぎ去って、私たちの生活は元に戻ると思います。その日を、私たちは心待ちにしてるんですけれども、でも、もしかすると、わたし達は、今のこの時だからこそ、神様が語られている御言葉を聞く必要があるのかなという風にも感じるんですね。先が見えなくて、不安で恐れおののいているこの時だからこそ、そんな私達に主が語られているメッセージがあるんじゃないだろうかというふうに感じます。

やがてパンデミックが終わってしまって、平穏な生活に戻ってしまった時にはもう遅い。いまだからこそ、真に聞こえてくる、真に受け止めることのできる神様の御心っていうのがあるんではないかなという風に感じております。

【3】 苦しみからの救いではなく、苦しみの中にある救い

私たちに、神様から与えられている「笑い」って、一体どんな笑なんだろうか?私たちはどんな時に笑っているんだろうか?

状況が良くなった時に、私達は笑うと思いますけれども、あるいは問題が解決すれば、私たちは笑うと思います。願いが叶えられれば、きっと笑うと思いますね。つまり苦しみから解放されて、苦しみがなくなったら、私たちは笑うんじゃないかなという風に思うんですね。でもどんな状況の中にあっても、主を知っていることのゆえの笑い、主に顧みられていることのゆえの笑い、主から愛されていることのゆえの笑いというものを、私たちはどれだけ与えられているだろうか、どれだけ日々の生活の中で経験しているだろうか、そういうことも今日の聖書の箇所を通して考えさせられることではないかなという風に思います。

神様との個人的な交わりの中に生かされているから、そのそれゆえの笑いというものを、私たちはもっと体験できたら素晴らしいんじゃないだろうかというふうに思うんですね。私たちはどんな笑いを主から与えられているでしょうか?それは本当に主から与えられている笑でしょうかそんなことをきょう吟味してみたいなという風に思います。

聖書が私たちに約束している「救い」というのは、苦しみからの救いだけではなくて、その苦しみの中にある「救い」であるということを、私は心に留めるものでありたいと思います。

状況が変化したから「嬉しい」ということだけではなくて、あらゆる境遇の中に、必ず変わらず存在し続ける歓びであるということを私たちは覚えたいと思うんですね。

孤独の時もありますね。苦しみの時もありますね。戦いの時もあります。試練の時もあります。その時は、とても笑いたくても笑え笑えないというような状況なのかもしれません。でも実はそこにも主は共におられるということ、そこでも主は私たちのことを顧みてくださっているということ、そこにも主の愛が注がれているということを、私たちは覚えるものでありたいと思います。そのために主は、人となってこの地上に来られたのではなかったでしょうか。私たちのすぐそばまで来てくださって、私たちが体験するすべての苦しみを味わい尽くし、本来私たちが受けなければならなかった罪の刑罰を、十字架にかかって身代わりになって、体験してくださったのではなかったでしょうか。そのイエス様が私たちの傍にいることの恵みというものを、私たちは日々味わっていくものでありたいという風に思います。

教会は、神様がくださる笑いで溢れているような場所であったらいいなと願います。初めて教会に来た方が、ここにはこの世にはない、何か大きな笑いの源のようなものがあると感じてもらえる場所であったら幸いだなという風に思いますね。

サラは言いました。「神は私に笑いを下さいました。」このような告白に、私たちが導かれるならば、なんと幸いなことではないでしょうか。神様がくださる笑いを、私たち日々味わうことができますように。神様の深い顧みを、私たちが共に覚えあうことができますように、互いに励ましあい、祈りあってきたいと思いいます。

 

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。あなたの御言葉によって、今日も私たちを励まし、支え導いてくださることを感謝いたします。私たちが自分では作り出すことのできない、神様から与えられる笑いがあること教えてくださり感謝いたします。どうぞ私たちの歩みの中で、そのような笑いを体験させてください。御言葉が生きているということ、み言葉が真実であるということ、そのような御言葉を体験できる「笑い」を味あわせてください。また主は、いつもどんな状況の中にも共にいて、私達を顧みてくださっていること、そして愛してくださっているその恵みに、私たちが喜び、感謝し、笑うことができるように助けてください。どうぞこれから始まる一週間の歩の中に主が伴って恵みと平安を与えくださるようにお願い致します。御言葉を感謝し、キリストの貴いみ名によってお祈りをいたします。

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