イエス・キリストをより良く知るために

「辛い」のあとの「幸い」、この似て非なるもの?・・・マタイの福音書5章4節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(マタイの福音書5章4節)

神の国の新しい価値観と、新しい生き方をイエス様が、弟子たちに教えてくださったのが「山上の説教」です。

そしてこの山上の説教の冒頭は、私たち人間にとっての「幸い」とは何か?つまり幸福論から始まっています。

イエス様は「何~は幸いです」という言い方を、この箇所で8回繰り返して、「幸いな人」はどういう人なのかということについて教えています。今日はその2番目ということになりますけれども、この箇所でイエス様がはっきりと提示されたことがあります。それは神の国の「幸い」は、この地上で味わわれる幸いとは全く違うということであります。神様によって与えられる幸は、この世がもたらす幸いとは全く違います。全く異質のものです。似ているところがひとつもありません。

その事実をまず最初に私たちは確認するところから始めたいと思います。

1.神の国の幸と、この世における幸

前回学んだマタイの福音書5章3節では、「心の貧しい者は幸いです」とイエス様は語られましたけれども、「心の貧しい者」つまり、自分自身が空っぽである人、自分が取るに足りない存在であるとわかっている人、自分に自信のない人、そのような人が「幸い」であると、イエス様はおっしゃられました。このような幸福論は、この世にはありませんね。


この世では、自分自身に能力のある人、実力のある人、自信のある人が、幸いですと教えるでしょう。ですからイエス様が教える幸はこの世がもたらす幸いとは、かなり違っているということが分かると思います。

今日の箇所にある2番目の幸いも、その違いというものを、私たちにはっきりと意識させてくれる、そのような幸いだと思います。

この世のどこに、悲しむ者は幸いですと言う人がいるでしょうか?この世にとってそれは極めて愚かな教えではないでしょうか。また多くの人々が嫌悪し、そこから目を背けてしまうそのような教えてはないでしょうか。実際に多くの人々は幸いを得るために悲しみと向き合うのではなく、 悲しみを受け入れるのではなく、娯楽とか楽しみを求めるんではないかと思います。仮に悲しみがあったとしても、それを否定してしまったり、無視してしまったり、その気持ちに蓋をしてしまったりして、より楽しいもの、私たちをより笑顔にしてくれるものを求めるんではないでしょうか。

でもそれは聖書では哀れなものであると教えられています。

マタイの福音書の平行箇所と言われていますが、ルカの福音書でもイエス様は幸福論について教えています。ルカの福音書の6章の20節から26節まで読んでみたいと思います。

イエス様は目を上げて弟子たちを見つめながら話し出された。

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。今、飢えているものは幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。今、泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。人の子のため人々があなたがたを憎むとき、あなた方を除名し、辱め、あなた方をなお悪しざまにけなす時、あなたがたは幸いです。その日には喜びなさい。踊り上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも予言者たちに同じことをしたのです。

しかしあなた方、富むものは哀れです。慰めをすでに受けているから。今、食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。今、笑うあなた方は哀れです。やがて悲しみ悲しみ泣くようになるから。皆の人が褒める時あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも予言者たちに同じことをしたのです

このようにイエス様はルカの福音書では教えておられます。

この箇所においても、イエス様は神の国の幸と、この世における幸がいかに違うのか、それらがいかに全く逆のものであるのかということをはっきりと教えておられます。

イエス様は言われました。「あなたがた富む者は哀れです。今食べ飽きているあなたがたは哀れです。今笑うあなたがたは哀れです。皆の人が褒める時、あなたがたは哀れです」。つまり今幸いを味わっている人は、幸いな人なのではなくて、実に哀れな人なんですよと、教えていることがわかる。どうしてでしょう?

の幸いは、間に合わせの「幸い」であり、一時的な幸いであり、永続しない幸だからです。そして結局、その人はその先不幸になるだけです。しかも間に合わせの満足を、今、味わっているために、その深刻な結末に気づくことがありません本人の全く意識しないうちに不幸にたどり着こうとしているとするならば、それは確かに哀れなことではないでしょうか。

このように私たちは山上の説教の学びを始める前に、この事実をよく抑えておかなければいけないと思います。神様が私たちに与えたいと願っておられる幸は、この地上が私たちにもたらす幸いとは全く別のものです。180度、違います。正反対です。それくらい違うっていうことを、私たちは覚えたいんですね。その上で、イエス家様の教えてくださった御言葉を、共に味わっていきたいと思います。

2・「悲しむ者」とはどのような人?

さて、イエス様はここで、「悲しむ者は幸いです」と教えておられます。 それはどういう意味で言っているでしょうか?

悲しむ者とはどのような人でしょうか?なぜ悲しむんでしょうか?何を悲しんでいるんでしょうか?そのことを明確にしなければいけないと思います。

そしてひとつ言えることは、これは霊的な意味における「悲しみ」であるということです。

ここで表されている「悲しみ」は、親しい人との別れとか、あるいは誰かの死に際して、私たちが味わうような悲しみではありません。

そのような悲しみではなくてこれは「霊的な意味での悲しみ」であるということを覚えたい。

そしてもう一つ言えることは、ここで語られている悲しみとは、「心の貧しい者」が感じる悲しみであるということです。

つまり第一の幸いと、第二の幸いは繋がっているということ、連動しているということがわかります。イエス様はここで、8回「何々は幸いです」「何々は幸いです」と1繰り返してるんですけれども、これはイエス様が、適当に言ったことではありません。全部繋がっているんですね。一つ一つが皆、連動しています。ですから3節があって、4節があり、4節があって5節があるんです。この逆はありません。そのことをよく意識しながら、この記事を読む必要があります。

つまり「心の貧しい者」だからこそ、私たちは悲しみます。心の貧しい者だからこそ、私たちは悲しむ者になるということをここで覚えておきたいと思うんですね。

①.悲しみから見えてくるもの

そして私たちが心の貧しい者になった時に、私たちが気づかされるひとつの事実があります。それは私たちの自分勝手な姿、私たちの内に潜む罪の現実、罪人である私たちの姿、そういうものが、「心の貧しい者」になる時に、はっきりと見えてくるわけであります。

前回心の貧しい者の例としてルカの福音書18章に出てきた取税人の姿を皆さんで確認しました。もう一度その場面を見てみたいと思いますのでもう1回その箇所を開いていただきますが、今度は、18章の9節から14節までをお読みいたします。

自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者に対しては、イエスはこのような例えを話された。二人の人が祈るために宮に登った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。

パリサイ人は立って心の中でこんな祈りをした。『神よ、私は他の人々のように、ゆする者、不正なもの、姦淫するものではなく、ことにこの取税人のようではないことを感謝します。私は週に2度断食し、自分の受ける者は皆その1/10を捧げております』。


ところが取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った『神様こんな罪人の私を憐れんでください』。
あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら誰でも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるからです

たとえ話ですけれども、イエス様は,
このようにお話になられました。

でここに登場してくる取税人は「心の貧しい者」の姿を現しているということを前回学んだんですが、彼は確かに心の貧しい人でありました。取税人は、ここに出てくるパリサイ人に比べて、対照的に自分に対しての自信がないですね。自分がいかにみじめで、欠けだらけで、取るに足りない存在であるのか、よく知っている人です。彼はとても心の貧しい人だと思います。その取税人は同時に、悲しみの人でもあったということがわかります。

彼は何を悲しんでいますか?彼は神様に向かって言いましたけれども、彼はもう「神様に目を向けることさえできなかった」と書いていますが、神様に向かってこのように叫んだんです。「神様こんな罪人の私を憐れんでください」。彼は自分の胸を叩きながら、このように告白したと、ここに記されています。つまりこの取税人は、罪を知らされて、その罪を悲しんでいるということが分かる。そして自分の胸を叩きながら、ひたすら神の憐れみにすがりました。

これが聖書の言うところの「悲しむ者」の姿であります。

「悲しむ者」とは、自らの内に潜む罪を知って、悲しむ人です。罪が自分の心の内にいかに根深く根を下ろし、自分の心を支配しているのか、それを知らされて悲しむ人です。

しかもその罪の前に、自分がいかに無力であるのか、自分の力ではそれを全く克服できないと自覚して嘆く、これが聖書でいうところの悲しむ者の姿であるということを覚えたいんですね。

私たちは果たしてこの「罪の自覚」というものをどれだけ持っているでしょうか。あなたは、この一週間の歩みはいかがだったでしょうか?

一日を終える時に、その一日の歩みを振り返ってみた時、特に神様の前に、自分のあゆみはどうであったのか?自分は本当にふさわしいものであったのかどうか?を吟味する時を持ちたいものです。そんな時にいろんな自分の姿が意識されていくんではないでしょうか。もしかしたら、行いにおいてはそれほど問題なく、無難に一日過ごすことができたかもしれない。でも私たちの心の内側はどうでしょうか?私たちは目に見える実際の行いの部分だけで判断してしまいやすい傾向をもっていますが、神様は私たちの心の内側に何があるのかというのよくご存知です。

神様を意識しながら、私たちが自分のことを考える時に、いろんなこと気づかされていくんではないでしょうか。なぜ私はあの人を憎んでいるんだろう?なぜ私はあの人を愛することができないんだろうか?なぜ私はこんなに頑くなで短気なんだろうか?なぜこんなに怒りやすいんだろうか?なぜこんなに嫉妬深く人に冷たくあたってしまうんだろうか?自分の中に何があるんだろうか?何が自分をこのようにしてるんだろうか?このような行動に駆り立てているんだろうか?と、そういう自分の内側にある何か、その罪の現実に気づかされていくんではないでしょうか。

そんな自らの心の姿に気づかされる時に、私たちもやはり、祈らざるを得なくなるんではないでしょうか。あの取税人のように、自らの胸を叩きながら、主よどうかこんな私を憐れんでくださいという祈りが生まれてくるんではないでしょうか。罪が私たちを悲しみに追いやるということを覚えたいと思います。

②.悲しむ者は「幸いです」

でもイエス様は言われました。「悲しむ者は幸いです」。この悲しみを知らされた者だけが味わうことのできる「幸い」があると教えてくださっています。

それは神様だけが与えることのできる「幸い」、そしてこの地上では決して得ることのできない「幸い」なんですね。この幸いを知りなさい、この幸を豊かに味わいなさい、この幸いに生かされる者になりなさい、とイエス様は私たちに命じておられます。そのことを、私たちは是非覚えたいと思うんですね。

こんにちの教会が、もし力を失っているとするなら、その一番の原因は教会が十分に悲しんでいないというところにあると思います。私たちがもし十分に喜んでいないとするならば、その一番の原因は、私たちが罪の意識に乏しく、罪を十分に悲しんでいないというところに原因があります。

そしてもしかしたら、私たちはその代わりに間に合わせの、一時的な満足や一時的な楽しみによって心を満たそうとしているようなことが多いんではないでしょうか?深く吟味してみなければいけないところではないかと思います。私たちは知らなければいけません。

神が与えてくださる「幸い」の前には、必ず私たちの罪に対する自覚があります。もし私たちが少しでも神の与えてくださる「幸い」で満たされたいと願うのならば、その前に罪を自覚しなければいけません。罪を悲しむ者だけが、幸いな人であるということを是非覚えたいと思います。

3.模範としてのイエス様の姿

そして私たちは、もうひとつイエス様の姿からも学ぶ必要があります。なぜならばイエス様という方は、私たちにとっての最高で安全な模範だからです。私たちがどのようにしてこの地上で生きていくべきかということを、イエス様は模範として示して下さいました。ですか私たちは、イエス様の姿から学ぶ必要がありますね。

聖書を読んでいて、ふと気付かされることがあるんです。それは聖書のどこを読んでも、イエス様が笑われたとか、イエス様が微笑まれたとか、イエス様が大笑いしているとか、そういう記事はひとつもないですね。どこを探してもないと思います。

おそらくイエス様も和やかな気持ちや、和やかな表情になられた時もあったことと思います。例えばラザロ・マルタ・マリアの3人の姉弟の家に招かれて、一緒に食事をしている時、あるいは子供たちが集まってきて、イエス様の周りに集まってきたとき、きっとイエス様は和やかな顔をされていたんではなかったかなと想像します。想像することはできますが、でもそのことについての記述は聖書の中には一切ありません。

そしてその代わりに私たちが思い出すのは、イエス様が涙を流している場面、嘆いている場面、怒っている場面、ゲッセマネの園で血の汗を滴らせながら、もがきながら祈っている場面、そして十字架上で苦しんでいる場面、そういう場面、そういう姿ではないかと思うんですね。預言者イザヤは、やがて来るメシヤ、救い主について、「彼は悲しみの人で、病を知っていた」と予言をいたしました。これは、救い主イエス様のことですが、イエス様は「悲しみの人で病を知っていた」、そしてその予言の成就として、イエス様は来てくださったわけですが、イエス様のこの地上での生涯はまさに、悲しみの人としての生涯であったと思います。

イエス様は何を悲しまれましたか?何を悲しんでおられたんでしょうか?

ラザロが死んだ時に、涙を流されたと、ヨハネの福音書に書いてますけれども、なぜ涙を流されたでしょうか?

ラザロが死んだから涙を流したんではない。なぜならばその後すぐに、ラザロは蘇るんですね。イエス様はそのことをご存知でした。だからラザロの死に対して涙を流したんではないんです。

それではどうしてイエス様は涙を流されたのか?


罪の恐ろしい現実、罪がいかに大きな悲しみを人々にもたらすのか、人々から愛するものを奪ってしまうというその悲しみは、どうして起きるのか、その罪の恐ろしさ、悲惨さを思って、涙を流したわけですよね。

そして私たち、もう一つ思い出すのは、イエス様がエルサレムを見て嘆かれる場面がありますが、その時イエスも言われました。

それは、「ああエルサレム、エルサレム。予言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で討つ者、私は雌鳥が雛を翼の下にかばうように、あなたの子らを幾度集めようとしたことか。それなのにあなたがたは、それを好まなかった」。ルカの福音書の13章の34節の言葉です。

あの時も、イエス様は、「ああエルサレム,エルサレム」と嘆きの声をあげました。めんどりが雛を翼の下にかばうように、何度も何度もエルサレムを守り、救い出そうとしたのに、エルサレムはそれを好まなかった。それを拒んだ、拒み続けた。しかも神様はそのために予言者を何度も送ってですね、その事実に気づかせようとして、なんとかその愛に気づいて欲しい、救いの道は開かれていることを、繰り返し繰り返し予言者を送ってみことばを伝えようとしたのに、彼らはその予言者を殺して、そこまでして拒否されたその事実に対する悲しみですよね。

エルサレムの頑なな姿、神様を拒み続けている姿、その罪の深さを知って、イエス様は悲しまれた、嘆かれた。そういうことを聖書を通して教えられるわけであります。

イエス様はまさに悲しみの人でありました。そして罪を悲しむ人でありました。

いかに私たちがかたくなで、反抗的で、神様に背いて、反逆して、その結果、なんと恐ろしい結末を迎えようとしているのか、その全貌をイエス様は知っているんですね。ですからその事実を知って、悲しまれた、涙を流された、まさにイエス様は悲しみの人としての生涯を歩まれたことであります。私たちも自らの罪を悲しむようになる時に、私たちの内側にある罪だけではなくて、私たちの外側にある罪、罪そのものに対する悲しみというものを、深められていくことでしょう。

4.全ての問題の原因である、私たち人間の罪

今この地上は、何と荒れ果てていることでしょうか。何と混乱していることでしょうか。なんと深い悲しみがこの地を支配していることでしょうか。

今、私たちは神様の御前にあって、本当に平安な気持ちで、感謝して、神様ともに賛美して、神様は素晴らしいと、みんなで告白して、いま幸せな気持ちでいるわけです。

でもこれが終わって、この教会を一歩出て、皆さんの生活をしている場所に帰っていくときに、また家庭や、職場に戻っていくときに、そこに何があるのか?ということを皆さんもご存知だと思うんですよね。そこにどんな現実があるのか?、そしてどれくらい多くの人が悩み、行き詰まり、希望を失い、深い悲しみに支配されながら歩んでんいることでしょうか?

そして私たちも、その中にいて悩んだり、呻いたりするわけですよね。

何が原因でしょうか?

その全ての問題の原因に、私たち人間の罪があります。私たちが神に反逆するその頑なさ、愚かさ、罪深さ、がその問題の根底にはあるということですよね。

その事実を知れば知るほど、私たちは心に痛みを覚えざるを得ないんではないんでしょうか。そして、イエス様が嘆いたように、私たちもそのイエス様の嘆きの声を、私たちの声にしていくことができるんではないかと思うんですね。

イエス様は悲しみの人として、この地上を歩まれました。私たちもこのイエス様の姿を模範としなければいけません。自らの罪を悲しみ、またイエス様と共に罪を悲しむ者になりたいと思います。

5.イエス様の言われる「幸い」の意味

さて、イエス様は言われました。「悲しむ者は幸いです」。

この世の人は信じられないような言葉だと思いますけれども、イエス様は、確かにそう言われました。どうしてそんなことが言えるんでしょう?

①「その人たちは慰められるから


その人たちは慰められます。悲しみますが、しかし悲しみで終わることはありません。必ずその先には慰めがあります。だから悲しむ者は幸いなんです。そうイエス様は教えておられます。

悲しみが悲しみで終わることは決してないんです。悲しみの先には、必ず慰めがあります。そして私たちを慰めてくださる方がいます。慰め主なる神様が、私たちのすべての罪を赦し、すべての悲しみを慰め癒してくださいます。この慰めを知るに及んで、またこの慰め主なる神様と出会うことを通して、私たちは大きな幸が与えられていく。そして悲しんでいるものは何と幸いなことでしょうという、そういう告白に、心からの告白に、導かれていくわけであります。つまりこれは神様との関係の中において、味わうことのできる幸いであるということがわかります。

永遠に続く「慰め」

しかも、「その人たちは慰められるから」という言葉は、未来形で書かれてますね。

これはどういう意味でしょうか?

それはこの慰めが、これからもずっと永遠に続いていくという恵を表しています。この慰めは、一度与えられてそれで終わりという、そういうものではない。

これが、この地上がもたらす幸いと決定的に違ってる部分ですね。もし私たちが自分の罪人としての姿に愕然として落ち込んだとしても、そのままの状態でイエス様のもとへ行ったら、必ずそこに慰めがあります。もし私たちが自らの罪深さの故に問題を引き起こしたり、失敗したりすることが時々あると思いますね。クリスチャンになってもあると思います。

私達の弱さのゆえに、欠けの故に、いろんな失敗をして、言ってはいけないことを言ってしまって人を傷つけたりとか、いろんなことあると思うんですが、その時に私たちは本当に落ち込みます。でもイエス様のもとに行ったら、そこに必ず慰めがあります。

慰め主なる神様が、私たちを慰めてくださる。その恵みが用意されているということを知るに及んで、私たちは本当にこの「幸い」を味わうものになるんではないでしょうか。

つまり、私たちが、自らの罪の問題に対する解決を得ているということになります。これほど大きな慰めはこの世に無いんではないでしょうか。

私たちはたえず失敗を犯します。罪を犯します。間違いを犯します。クリスチャンになってもそうです。そして人はいろんなことを言うでしょう。世間はいろんなことを言うでしょう。私たちは責められるかもしれません。ひどいことを言われてしまうかもしれません。自分でも自分を責めるでしょう。なんと惨めなんだろうと思うかもしれません。そうなると、この世にはどこにも救いがなくなってしまう。

しかしそんな時でも、私たちがそのままの状態で、イエス様のもとに行って、そしてその罪を悔い改めたならば、必ずイエス様は私たちの罪を許してくださいます。イエス様はそのために来てくださいました。そのために私たちの罪のすべてを担って十字架にかかって、私たちの身代わりとなって、刑罰を受けてくださったんじゃなかったでしょうか。

ですから必ずそこには慰めがあるんですね。罪の解決があるんです。人生をやり直すことが必ずできる。そのような大きな幸いが私たちに用意されているということを、私たち決して忘れてはいけない。

6.さらなる慰め

そして最後になるんですけれども、私たちはさらに大きなに慰めが、やがて与えられる。

この地上でも与えられています。これからもずっと与えられ続けていくんです。けれどもイエス様の元に帰るたびに与えられて続けていくんですが、やがってさらに大きな慰めが与えられるということも覚えたいと思うんです。

それはイエス様がもう一度この地上に戻ってこられる再臨の時。

その時には、私たちは全ての苦しみから解放されます。それは御国の完成の時、私たちの救いの完成する時ですけれども、その時にはさらに大きな慰めが用意されています。私たちのこの地上では、本当に救われたものとして慰めがあるんですけれども、イエス様のもとに絶えずあるんですけれども、でも私たちは罪の現実の中を歩んでいかなければいけないと面がある。そして時に私たちの犯した罪の故にその結果を引き受けていかなければいけないという面もある。

ですから私たちは苦しまなければいけないこともありますね。罪のゆえにいろんな病を負ってしまったり、苦しみをになってしまったり、ということがある。

それは死ぬまで続いていきますね。そこから解放されることはないですね。

確かにイエス様の下には慰めがあるんですけれどもそ、ずっとそのような歩みが続いていきます。でもその時が来ればイエス様がもう一度戻ってこられる。その再臨の時が来れば、もうそのような苦しみ全てから解放されて、本当に大きな慰めの中に、私たちが招かれるということを覚えたいと思うんですね。

黙示録21章で語られています。「みよ、神の幕屋が人と共にある。神は彼らと共に棲み、彼らはその民となる。また神ご自身が彼らと共におられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐいとってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら以前のものがもはや過ぎ去ったからである」そのように約束されていて、私たちは本当に大きな慰めの中に招かれるということが保証されています。

そのことも覚えながら、私たちこれを希望として歩んでいくものでありたいと思います。

7.まとめ

さて、最後に私達は自らに問いかけたいと思いますね。私たちは一体どちらの「幸い」を求めているでしょうか?神様が私たちに与えたいと心から願っておられる幸があるんです。その幸を私たちは求めているでしょうか?それともこの地上がもたらそうとしている「幸い」を求めているんでしょうか?一体私たちはどちらなのでしょうか?どちらの「幸い」を求めているでしょうか?

是非、私たちは神様が与えてくださる幸を味わうものになりたいと思いますね。そのためには悲しむ者になりましょう。自分の罪に悲しむ者になりましょう。そしてその先に用意されている豊かな慰めを味わうものとして歩んでいこうではありませんか。

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