イエス・キリストをより良く知るために

舟の右側に網を打ちなさい

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

ヨハネの福音書21章1~14節
その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。

夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。
こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。聖書 新改訳2017

先週でイースターが終わったということになるんだと思いますが、私たちはもう少しイースターの余韻に浸りたいなと思っております。イエス様が復活されたということは、私たちにとってどんな意味があるんでしょうか。イエス様が復活されて今も生きておられるという、その事実は私たちにどんな関わりがあるんでしょうか。今日から3回に分けて、ヨハネの福音書の21章の御言葉に注目していきたいと思います。この場面は復活されたイエス様が、弟子たちにご自分を現してくださったという場面です。もう3度目であると書いてありましすけれども、どのようにイエス様は弟子たちに関わって下さったんでしょうか。そのイエス様の姿に注目したいと思います。またイエス様は私たちにどのように関わってくださるんでしょうか。復活の主が私たちにどのように関わってくださるんでしょうか。そのことを学んでいきたいと思います。

1節にこのように記されてあります。

その後イエスはティベリア湖畔で再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。
こういう風に始まります。1節の言葉を通して、イエス様がティベリア湖畔で弟子たちにご自分を現されたということ。そしてここから始まる内容は、イエスさまがそこで弟子たちにどのようにご自分を現されたのか。その次第についてであるということがわかります。

ここでイエス様は弟子たちの前に「現れた」のではなくて、ご自分を「現された」と記されている点に私たちは注目したいと思うんですね。偶然現れたのではなくて、明らかにイエス様の方に理由がありますね。イエス様の中に隠された意図があって、その理由のゆえに弟子たちにご自分を現されたということであります。どうしてイエス様は弟子たちにご自分現されたんでしょうか。イエス様の側に理由があるんですね。そのことを私達、ともに考えていきたいなという風に思います。

1.弟子たちの状態。

この時の弟子たちの状態はどんな状態だったかと、その点から確認していきたいと思います。ティベリア湖と書いてありますけども、これガリラヤ湖のことです。このガリラヤ湖畔に何人かの弟子たちが集まっていたということがわかります。名前が記されてありますが、ペテロ、トマス、ナタナエル、そしてゼベダイの子達というのはヤコブとヨハネのことです。その他にも二人の弟子が同じ所にいたという風に書いてあります。もしかするとペテロの兄弟のアンデレもそこにいたかもしれないと思います。総勢7名の弟子たちがそこに集まっていました。彼らはエルサレムから、彼らの故郷であるガリラヤ地方に戻っていたということがわかります。その時にペテロは言いました。 「私は漁に行く。」 すると他の弟子たちも私たちも一緒に行く、と答えたということが3節に書いてあります。弟子たちの間に交わされた何気ない会話ですけれども、そんなことを語り合いながら、言い合いながら彼らが一緒になって漁に出ていく様子が3節に記されてあります。

彼らの多くは元漁師達でした。でも彼らはイエス様の弟子である立場を捨てて、漁師に戻るつもりはなかったと思います。とりあえず生きていくため、生活の必要のために、そしてもしかしたら朝ごはんのために漁に出たのかもしれないと思います。

かと言ってイエス様の弟子であり続けることにも、彼らはためらいを感じていたことと思います。彼らは皆、心に傷を負っておりました。イエス様が十字架刑にて処刑されるあの日の前夜、彼らは皆イエス様のことを見捨てて逃げてしまいました。それは彼らにとっては大変大きな挫折の経験でした。彼らの弟子としての自信は、すっかり失われていたと思います。復活のイエス様と出会いました。それはとても大きな喜びだったと思います。でも、それでも以前のようにイエス様の弟子としてイエス様についていけるとは、おそらく彼らは考えていなかったと思います。漁師に戻ることはできず、かといってイエス様の弟子であり続けることもできず、弟子たちはこれから先どうしていったらいいんだろうか。皆、彼らは将来に対する漠然とした不安を抱えていたというふうに考えられます。

漁に出て行きました。彼らは一晩中働いたんですけれども、魚は一匹も捕まりませんでした。疲れ果てて虚しくて、弟子たちのその時の心の状態を象徴的に表しているかのようだと思います。

しかしそんな時に、まさにそんな時にイエス様がご自分を現してくださった。イエス様がご自分を現してくださったそのタイミング、その時というのは弟子たちがまさに気落ちしていた時、自信を失っていた時、そして人生に行き詰まっていた時、まさにそのような時にイエス様がご自分を現してくださった、ということが今日の箇所からわかることであります。私たちも時々気落ちすることがあると思います。自信を失ってしまうことがあると思います。人生に行き詰まってしまうことがあると思います。将来に対する漠然とした不安を抱えているということもあると思います。学生であれば試験がうまくいかなくて、成績が悪くて落ち込むっていうことがあると思います。社会人であれば仕事がうまくこなせない、責任をうまく果たせなくてがっかりするっていうことがあると思います。子育てに取り組んでいる親であるならば、自分は父親として、母親として失格であると思うことがあるんではないかと思います。そしてクリスチャンであっても、全く証になっていない自分の姿を見て、本当に落ち込んでしまうということがあるんではないかと思うんですね。私たちはいろんな時に気落ちしてしまったり、挫折を経験したり、不安になったりすることがたくさんあると思います。

でも大丈夫なんですね。どうしてかと言うと、そんな時にイエス様はご自分を私たちに現してくださるからなんです。もう一度繰り返すんですけども、イエス様は私達に現れるんではなくて、ご自分を現してくださるんです。私達が本当に助けが必要なとき、私たちが欠乏している時、私たちが行き詰っているまさにその時に、イエス様はご自分を現してくださる。振り返ってみれば私たちは、そのようにして今まで支えられてきたんじゃないかなと思うんですね。今までもそういうことがたくさんあったと思いますけれども、どうでしょうか、その時にイエス様がご自分を現してくださったんではなかったでしょうか。そのようにして私たち導かれてきたんじゃなかったかなと思うんですね。イエス様という方は私たちのことをよくご存知ですね。私たちが今どういう状態で、どういう必要を覚えているのかよくご存知です。そして本当に助けが必要な時に、本当に求めている時に主がご自分を現してくださる。そういう方ではないでしょうか。そういうイエス様が私たちと共に歩んでくださるという恵みに、私達は本当に感謝するものでありたいという風に思います。

2.イエスが現れる

一晩中漁をして、一匹も取れない、魚が一匹も取れなかったその時、そして弟子たちがもう本当に疲労困憊していたと思いますね。その時にイエス様が湖の岸辺に立たれた。そして呼びかけました。

「子供達よ、食べる魚がありませんね。」
まるで弟子たちの欠乏状態を良く知っていて、確認するかのようなそんな言葉だなと思いますね。食べる魚がないんですね。本当にないんです。それで、弟子たちは言いました。 「ありません」 と答えるんですけれども、でも彼らはその時には、その人物がイエス様であるという事に全く気付きませんでした。

よく知っているはずのイエス様の声が聞こえてきたわけですから、気づいても良さそうな感じがしますけれども、でもそれだけ弟子たちは本当に疲労困憊していたんじゃないかなと思いますね。自分の不安の中で、もう気持ちがいっぱいになっていたんじゃないでしょうか。するとイエス様はそんな彼らに言いました。

「船の右側に網を打ちなさい、そうすれば取れます。」 
このイエス様の言葉を聞いて、私たちは弟子たちはこの時船の左側に網を打っていたんだなって気付かされますけれども、左に網を打っても、右に打ってもあんまり変わりないような気がしますね。基本的に同じところにいるわけですから、左でも右でもそんなに大きな違いはないような気がいたします。

でも弟子たちはその時どんなことを感じたでしょうか。イエス様の言葉の通りにしました。すると驚くべきことが起きた。おびただしい数の魚が網にかかった。あまりにもたくさんの魚が網にかかったために、彼らは網をもはや引き上げることができなかった。もう網を引き上げることができないくらいの大量の魚がそこにかかった、ということが6節に記されてあります。その時にイエスが愛されたあの弟子たちと書いてあります。これはヨハネの福音書を記したヨハネのことを表していますけれども、ヨハネがペテロに言ったんだそうです。

 「主だ。」
岸辺に立って私たちに呼びかけてくださっている人物は、イエス様であるということにその時に気付いた。その時に目が開かれました。彼らは思い出したんですね。かつて同じガリラヤ湖で同じような経験したことがありました。先ほどの聖書購読のところで読んだ箇所ですけれども、ルカの福音書5章でしたけれども、あの夜も夜通し働いたんですね。ガリラヤ湖で同じ場所です。同じ場所で夜通し働いて一匹も魚が取れませんでした。でもその時にイエス様は言われました。深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい。もう一晩中も仕事をして何も取れなかったんだから、もうおそらく無理だと半分諦めていたと思うんです。けれども、とりあえず言われた通りにしたらですね、驚くべきことが起きました。あの時もおびただしい数の魚が捕まった。弟子たちはあの時の経験を思い出したに違いないんですね。あの時イエス様は弟子たちを人間をとる漁師にしてくださいました。それは彼らにとって彼らがイエス様と出会った時であり、神の臨在に触れたときであり、弟子とされる時であったということ。そのかつての経験を弟子たちは思い出したに違いないわけであります。ヨハネが「主だ」、という一言を言った時に、ペテロはその時に裸だったそうですけれども、上着を着て、上着をまとって湖に飛び込んだんだそうです。もうすぐにでもイエス様にお会いしたかったのかなと思いますね。でも裸で、さすがに裸でイエス様にお会いすること出来ませんね。ですから上着を着て、上着を着た状態で飛び込んだって、でもよく考えてみると上着を着たまま海に飛び込んだら速く泳げないですね。もしかしたら、そのまま船にいた方が早くたどり着いたかもしれないなと思ったりもするんですけれども、でももう、ペテロもすぐ行動したかったんだと思いますね。そこにペテロの本当に性格がよく現れている記事だなという風に思います。

3.イエスの愛

岸にたどり着きました。すると何とイエス様は炭火を熾しパンと魚を焼いて、弟子たちのために朝食の準備をしておられた。その上で彼らに、今取った魚を何匹が持って来なさいと言われました。そのようにして、さらに魚を焼いてくださって、イエス様自らが弟子たちのために朝食の給仕をしてくださっているという、とても印象深い場面だなという風に思います。その光景を見て弟子たちは、懐かしい感動を味わったんじゃないかなという風に思いますね。そうです、かつてイエス様は五つのパンと二匹の魚でたくさんの群衆を満たしてくださったことがありました。あの時もイエス様は群衆たちにパンを分け与えられ、その後魚を分け与えられました。たくさんの人たちがパンを食べ、魚を食べて満たされました。その場面を弟子たちも見ていました。あれと同じ場面ですよね。

その場面を見て弟子たちは本当にイエス様は復活した。あの時と同じ、あの時と同じイエス様だと、その場面を見て本当に噛み締めたんじゃないでしょうか。もう3度目も会っているわけですから、もうその事実は知ってるわけですけれども、でもあの時と同じイエス様。そしてあのかつてのパンの奇跡の時に、イエス様その後こういう風に言われたんですよね。

私が命のパンです。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者はどんな時にも決して渇くことがありません。
ヨハネの6章35節ですけれども、そういう風にあのパンの奇跡の後でイエス様は言われたんですよね。私のもとに来るものは、決して飢えることがないし、イエス様を信じる者は決して渇くことがないって、これが弟子たちにあの時教えられていた教えだったんですね。あの時与えられていたメッセージだったんです。

ところが、この時の弟子たちは飢えていました。この時の弟子たちは渇いていました。肉体的にも心理的にも霊的な意味においても欠乏状態をかかえていました。

でもイエス様にお会いして、復活の主とお会いして、もう1度恵みによって満たされましたね。イエス様が復活されたというこの喜びを噛み締めて、またイエス様が自分たちに何とお食事の準備をしてくださって、給仕をしてくださっているという、その恵みを頂いて本当に弟子たちは満たされたと思うんですよね。

パンと魚でお腹も満たされたと思いますけれども、それ以上に彼らの心と魂がイエス様によって満たされる。そういう経験だったということを、私たちは覚えたいという風に思います。

皆さんの中に今飢えていますっていう方はいらっしゃらないでしょうか。今渇いています、そういう風に感じている方はいらっしゃらないでしょうか。かつてはイエス様との生きた交わりの中で満たされていたはずなのに、今その満たしがないっていうそういう状態になっていることはないでしょうか。その渇きを満たすために、自分でいろいろあれこれやって努力をしてやってみるんだけどうまくいかない。空回りしてしまっているっていう事はないでしょうか。クリスチャンでもそういうことがあるような気がするんですよね。せっかく頂いた恵みがあるのに、せっかく頂いた神様との交わりがあるのに、そしてかつては本当に満たされていたはずなのに、それを見失ってしまう。そして知らないうちに主との交わりの中で生きるのではなくて、自分の思いと努力と計画の中で生きてもがいて、そしてどんどん神様から離れてしまう、結果的に渇いていく。そういうことに私たちもなりがちではないかなと思うんですね。

もし今、渇いています、飢えていますという方がいたら、その方は是非皆さんに語りかけているイエス様の御声を聞いてほしいんですね。

「魚がありませんね。」もしかしたらそう言われているかもしれませんね。

私達もね。そして船の右側に網を打ちなさいって言われているかもしれない。その御言葉に耳を傾け、そして主との交わりの中で満たしていただく。そういう時が私たちにも必要ではないでしょうか。そんな導きの中に私達は置かれているということを、是非忘れないようにしたいと思います。

思えばイエス様は十字架にかかる前から自分は復活するってことは弟子たちに告げていました。そして復活された後に、先にガリラヤに行っているということを弟子たちに告げていたんですね。あの最後の晩餐の席上でも、私は蘇った後、あなたがたより先にガリラヤへ行きますってちゃんとメッセージを託しておりました。またこれは先週学んだところでしたが、復活の朝、復活の日の朝、女性達がお墓に駆けつけた時にそこに御使がいたんですけれども、女性達は御使いから一つのメッセージを託されました。それは、

イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われた通りそこでお会いできます。
というメッセージを託されて、それを弟子たちに伝えなさいってそういう役割を与えられていた。

明らかにイエス様はもうガリラヤで弟子たちとお会いするということを計画しておりましたね。もう十字架にかかる前から計画しておりました。ガリラヤで弟子たちの前にご自分を現されるということを、ちゃんともう準備をしておりました。その事が分かるんですね。どうしてガリラヤだったんでしょうか。なぜガリラヤに行くようにイエス様は弟子たちを指示したんでしょうか。

ガリラヤっていうのは弟子たちがイエス様と出会った場所なんです。そこでイエス様から「召し」を頂いて訓練していただいた場所なんです。イエス様と共に過ごした場所なんですね。イエス様と共にお食事をした場所なんです。それは彼らにとっては信仰者としての原点の場所ですね。その場所が彼らにとっての癒しの場所であり、彼らにとっての再出発の場所となりました。イエス様はこのガリラヤにおいて、もう一度弟子たちを慰め、満たし、力づけ、もう一度立たせてくださった。そういう導きの中に弟子たちが置かれていたということを、私たちは教えられることであります。

振り返ってみると、弟子たちはもう、どんどんどんどんこの原点から離れていっていたんじゃないかなと思いますね。あの時最初の時に、イエス様から与えられた召しを頂いて本当に喜んでいた、あの原点からだんだんズレていって、離れていって、そして恵によって始まったはずの彼らが、だんだん自分自身の肉の中で動いてしまうという、そういう展開になっていたんじゃないかなと思うんですね。

そんな彼らがもう一度原点に立ち返される。そういう経験でありました。私たちにも時々原点に帰る時が必要ではないかなという風に思います。

4.結び

今日の話を通して、イエス様の私たちに対する選びと召しは全く変わらないということを教えられます。私たちも信仰者として時々失敗をします。挫折を経験します。不信仰になったりする時があります。自分の力不足を経験して気落ちしてしまうことがあります。弟子としては全く相応しくないなと思って、なんとなくイエス様についていくことが億劫になってしまうこともあるかもしれません。でも、それでも主の私たちに対する選びは変わらないんですね。そしてイエス様は、主は私たちの質をよく知ってるいんですね。私たちの力の無さも良く分かっています。力不足、不信仰もよくわかっています。でもそんな私達に、イエス様はご自分を明らかにしてくださる。そして私たちを癒してくださいます。私たちを満たして下さいます。慰めて下さいます。もう一度立たせてくださる。そして主のお働きのために用いてくださる。

私達は本当に疲れている時、行き詰っている時、気落ちしている時に、本当にイエス様の声に耳を傾けるものでありたいなと思いますね。そしてその御言葉に応答するものでありたいと思います。船の左か右か、そんなに私たちから見ると大した違いはないかもしれませんね。同じことのように見えるかもしれません。でも自分の思いの中ですることと、神様の御言葉に従ってすることは全然違うんですね。同じような事に見えるけれども、自分の思いの中でする努力と、神様の御言葉に応答した結果することは全く違うんです。その先にはイエス様との親しい交わりが待ってるんです。イエス様が私たちに食事を用意してくださり、そのような素晴らしい恵みに私たちは招かれているんです。そのようにして私たちは満たされる、癒される、強められる、そのようにしてもう一度立たせられる。そのようにして弟子たちも整えられて、その後に大きく用いられる働きをしました。そのように私達も主の御手の中にあって、生かされているめぐみを覚えようではありませんか。その主の導きに感謝したいと思います。

お祈りをします

恵み深き私たちの父なる神様。主の御言葉を感謝します。復活の主が生きています。そして本当に私たちに親しく関わってくださることを覚えて感謝します。その主に気づかないでいることも多い私たちをお許しください。御言葉が聞こえてこない時もあります。でも、どうぞ立ち止まってあなたの声に耳を傾けることができますように、その御声に応答することができますように、その先に主が用意してくださっている素晴らしい祝福、恵みを味わうことができますように、そのようにあなたの御手の中で歩ませてくださいますようにお願い致します。一週間の歩みが始まります。ここから遣わされていきます。どうぞ主が伴って助けてください。主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

 

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