イエス・キリストをより良く知るために

ペンテコステのあの「聖霊なる神」は、今の私たち日本人にも降リ注いでいるか?・・・エペソ書1章13~14節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

エペソ人への手紙1章13~14節

1.私達に聖霊が与えられる約束

でもいかがでしょうか?私たちはこのような偉大な、壮大なメッセージが語られているにもかかわらず、なかなかピンとこないという面があるんではないかなと思います。実感がなかなか湧いてこないということがあるんではないでしょうか?そして、そうなのかと一応頭では理解して、納得はするんですけれども、その祝福の素晴らしさが深く感じられないという、そういう課題を抱えているじゃないかなという風に思います。
しかし、私たちの神様はその面においてもちゃんと配慮してくださっているということに気づかされます。新しい素晴らしい祝福、み国を受け継ぐものとされたその特権が、私たちの中で本当に喜びとなるように、確信をもってそのことを受け止めることができるように、ある方を私たちのためにくださったということが分かる。
それが 聖霊せいれいであります。それが今日の与えられている 御言葉みことばにおいて語られているメッセージであります。私たちはこの聖書の箇所から私たちに聖霊が与えられている恵みを感謝したいと思います。

13節の御言葉をお読みいたします。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理の言葉、あなた方の救いの福音を聞いて、それを信じたことにより、約束の 聖霊せいれいによって証印を押されました」。ここに証印を押されたということが記されてあります。そしてここに聖霊という言葉が出てきますけれども、約束の聖霊という風に出て参りますので、聖霊が与えられるということが約束されていたということが、ここで教えられていることであります。

聖霊」は実は約束されておりました。イエス様によって約束されておりました。イエス様が十字架にかけられる前に、弟子たちにこういうことをイエス様は話しておられました。

そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでもあなたがたとともにいるようにしてくださいます」。これはヨハネの福音書の14章16節でありますけども、そこでイエス様が、そのように教えてくださった箇所があるのです。

もう一人の助け主。イエス様はもうまもなく、この地上からいなくなりますね。天に帰られるんですけれども、イエス様はおられないけれども、その代わりにもう一人の助け主と呼ばれる方が来るよ、その方がいつまでもあなたがたと共にいてくださるということを、弟子たちに約束してくださったということがわかります。

しかもイエス様は十字架にかけられて復活をされ、そしてその後しばらく弟子たちとの時間を過ごされましたけど、天に帰ってかれるその時、最後にこういう言葉を残して天に帰って行かれました 。「エルサレムから離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい」。「ヨハネは、水でバプテスマを授けましたが、あなたがたはまもなく、 聖霊せいれいによるバプテスマを授けられるからです」。これは使徒の働きの1章4節と5節の言葉ですけども、最後の別れの時ですね。弟子たちと最後のお別れをする時に、イエス様はエルサレムから離れないで父なる神様が約束してくださったの約束を待っていなさい。聖霊によるバプテスマを受けなさいという言葉を残し天に帰っいきましたね。

それから間もなくして本当にその通りになりました。天から聖霊が降ってきて、エルサレムで待っていた弟子たちの上に、聖霊が降った。これが使徒の働き2章に出てくるペンテコステの日の出来事であります。このようにイエス様は約束してくださっていましたね。そしてそれは父になる神の約束でもありました。ですから約束の聖霊であったということがよくわかると思います。

そしてそれだけではなくて、実は旧約聖書を読んでいると旧約聖書においてもこれは約束されていたということがわかりま。すいろんな例を挙げることができますけれども、一つの例だけ紹介するならば、預言者ヨエルの言葉であります。予言者ヨエルが、やがてやってくる 聖霊降臨せいれいこうりんの日についての予言をしておりますけれども、こういう言葉で予言をしております。「その日、私はすべての人に、私の れいを注ぐ。あなた方の息子や娘は預言し、老人は夢をみ、青年は幻を見る」。これは預言者ヨエルの言葉でありますね。そして彼の言葉がのペンテコステの日に実現いたしました。聖霊が降ってきて、そしてまさに老人は夢を見、青年は幻を見る、という事が実現した。そしてあの使徒の働き2章を読むと、ペテロが聖霊に満たされて説教していますが、その説教の最初の場面で。「これはまさに預言者ヨエルのみ言葉の実現です」と告白している場面があります。聖霊は約束の聖霊であります。そしてその約束は今も有効であるということを是非覚えたいと思います。今の私たちに対しても有効な約束であります。

パウロはこの13節の一章13節のところで、「あなたがたもまた」と、そういう呼びかけをしておりますね。「あなたがたもまた真理の言葉の福音を聞いてそれを信じたことによる」とエペソ書の最初の部分をずっと読んでいくとですね、主語は全部「私たち」になってるんですね。私たち、私達、とずーと来てるんですけれども、13節になって初めて「あなたがたもまた」と呼びかけていることに気づかされます。それは何を意味してるんでしょうか?これは「異邦人であるあなたがたもまた」というそういう意味です。それまでのパウロは主にユダヤ人信者たちのことを意識しながら、「私たち、私たち」と語ってきましたけれども、ユダヤ人に与えられた神様の祝福と特権について語ってきたわけですけれども、しかしここに来てパウロは、「あなた方もまた」と切り出すことによって、このめぐみがユダヤ人だけではなくて異邦人であるあなたがたににも及んだんですよって言うことを伝えているわけでありますね。

約束の聖霊というのは、ユダヤ人だけに限定されるものではなくて、全ての人を含むものですよ。異邦人も含まれていますよ」。そういうことがここに示されている。この「あなた方もまた」というその言葉の中に、皆さん一人一人が含まれています。私たちも含まれています。異邦人である私たち、日本人である私たちも含まれている。そのことを私たちは覚えたい。そしてそのことによってもう一人の助け主と呼ばれる聖霊なる神様が、私達のものになった。いつまでもともにいてくださるその神様、聖霊なる神様が、私たちに与えられてる恵を覚えたいと思います。皆さんはこの聖霊を受けたでしょうか?この約束の精霊、この約束の中に皆さんも含まれてますけれども、その約束されているところの聖霊を皆さん受けたでしょうか。 どうすればこの聖霊を受けることができますか?そこにここに書いてありますね。

あなたがたもまた、真理の言葉、あなた方の救いの福音を聞いて、それを信じたことにより、」約束の 聖霊せいれい が私たちのものになる、実現する、そのこと是非覚えたい。是非み言葉を信じましょう。神の言葉であるみことば、救いを得させる神の力であるこのみことばを信じましょう。そのみことばにより頼みましょう。その時に私たちに与えられる聖霊の恵みを味わうものでありたいと思います。

2.聖霊が降ることの意義

さて次にですね。パウロはここで約束の聖霊によって証印を押されたという風に語ってますね。証印という言葉がここに出てまいりました。この証印とは、何を証明しているんでしょうか?そしてそれはどういう印なんでしょうか?どんな形をしている印なんでしょうか?

そのことについて皆さんでともに考えていきたいと思います。

旧約聖書の時代には 割礼かつれいという印がありました。これは男性の生殖器の皮を切るという儀式でありますけれども、これは神様がアブラハムと契約を結ばれて、ユダヤの民を特別に祝福してくださると約束してくださった契約の印であります。つまりそれは印なんですけれども、どういう印かと言うと、神様がユダヤの民を特別に祝福してくださるという印です。そして特にユダヤの民が神所有の民であるということを表しているしるしでありました。これが旧約時代に与えられた印だったわけであります。

ところがイエス様が来られて新しい時代がやってまいりました。イエス様を信じる全ての人に「聖霊」が与えられる時代がやってまいりました。ユダヤ人だけではなくて、ユダヤ人でもギリシャ人でも、信じる全ての人に聖霊が与えられる時代がやってまいりました。その全ての人に聖霊による証印が押されているとのことです。私たちはここから教えられます。

①いったいこの証印というのはどこに押されてるんでしょうか?

肉体の証印、つまり割礼にこだわる人たちが新約の時代にもたくさんいました。そういう人たちに対してパウロは、ローマ書の中でこういう風なことを語っています。

外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また外見上の体の割礼が、割礼ではないからです。かえって、人目に隠れたユダヤ人が、ユダヤ人であり、文字ではなく「 御霊みたま」(=聖霊)による心の割礼こそ割礼だからです」とローマ書2章28-29節で教えているんですね。

肉体の割礼にこだわる人たちがたくさんいた。新しい時代がやってきてイエス様による新しい時代が始まって、聖霊が与えられているにも関わらず、肉体の割礼にこだわる人たちがたくさんいた。

そういう中にあって外見上のユダヤ人が大事なんではない、外見上の割礼が大事なのではなく、大切なのは御霊みたま」(=聖霊)による心の割礼だよ。そういう風にパウロはローマ書において教えているわけであります。そして同じようなことですけども、第二コリントの手紙1章22節においても、こういう風に記しています。「神はまた私たちに証印を押し、保証として私たちの心に御霊を与えてくださいました」。神様は御霊を私たちの心に与えてくださったと、そこにおいても教えられております。神様は御霊を私たちの心に与えてくださいました。そしてそこに御霊による証印を押してくださいました。ですから私たちの目には見えない証印ですね。どこを探しても見えません。そういう印がどこかについてるわけでもない。でも確かに私たちの心の中にその証印が押された。その恵みを私たちは覚えたいという風に思います。

②この証印というのは何を表しているか

そしてこの証印というのは何を表しているかと言うと、それは私たちが特別に神様の祝福を受けるために選ばれた、そのことを証明する印そして、同時に私たちが神様のものにされたんだ、私たちはもはや神のものである、神様の所有物であるということを、証明する印が、信じるすべての人の心の中に押されているということを、私たちは是非覚えたいという風に思います。

皆さんいかがでしょうか?私たちは多くの場合、印のついていないおはじきのような存在になっていることが多いんではないかと思わされます。たくさんの人々の中に、私たちはまみれながら、いったい自分は何者であるのか?誰が私のことを所有しているのか?私は一体誰のものなのか?自分の帰るべき場所はどこなのか?そういうことが全然わかんない。そういう状態になってしまってることがたくさんあるんではないかと思うんですよね。

多くの人々がそういう問題抱えているんじゃないかと思うんですね。自分が一体何者なのかわからない、どこに帰るべきか分からない、誰のものなのか分からない、しかし私達にこの印がついているということは、本当に幸いなことではないでしょうか。私たちが誰のものなのか?私たちを所有しているのは誰なのか?私たちが帰るべき所はどこなのか?それが全部わかるというのは本当にありがたいことではないでしょうか。そのような印が、ちゃんと私たち一人一人についている、それは本当に大きな恵みではないかなと思うんですね。

皆さん本当に証印が押されてるでしょうか?皆さん心の中を見ることできませんけれども、皆さんの心の中に間違いなくそれを押されてるでしょうか?もし信じれば、押をされてるんですね。押をされているということを是非覚えていただきたい。でないと押されてるのに気づいてないということがあるかもしれませんね。全然自分は、そういう存在であることに気づいていない、それでこの世の中に漂ってしまってるって言うようなことも起こりうることかなと思うんですが、私たち イエス様を信じるものには、間違いなくその印が押されているということを是非覚えたい。

押されているのならば、本当にその押されたものとして、みたまの印を頂いたものとして、み霊に導かれて歩もうではありませんか。み霊の導きの中で、証印を押されたものとして、ふさわしく歩むものでありたいと思います。

3.聖霊は、「み国を受け継ぐこと」の保証

さて私たちはそのような証印が押されたということがここで述べられているんですが、さらに大きな祝福を与えられているということを覚えていきたいと思います。14節の言葉をお読みいたします。「聖霊は私たちが、み国を受け継ぐことの保証です。このことは私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光が褒め称えられるためです」。このように続けて記されてあります。

パウロはここで、聖霊は私たちが、「み国を受け継ぐことの保証である」と、今度は「保証」という言葉が出てまいりました。この保証という言葉には、聖書の脚注がついていて、そこには「手付金」と書いてありますけれど、もこの言葉の元々の意味は、何かを購入する時の手付金を表す言葉であるということであります。何か物を購入する時に、全額支払うことができなくても、そのうちの一部を手付金として支払うという習慣が、当時からあったようであります。手付金なので支払いは全然完了してないですよね。でもその手付金は、一部かもしれませんし、ごくわずかかもしれませんが、その手付金が支払われたことによって、その物は間違いなくその人のものになりますね。それを証明するものです。そのものが他の人に売買されることはもはやない。手を付けているわけですからね。ですからも安心なわけであります。ここで使われている保証という言葉は、そういう意味の言葉であります。

そしてこの保証と訳されているギリシャ語の現代の言葉は、「婚約指環」という意味の言葉なんだそうです。この婚約指環を交わすということは、夫婦はまだ結婚してないですね。まだ結婚関係は成立しておりません。夫婦二人はまだ夫婦ではないないんだけれども、でもこの婚約指環を交換することによって、二人は結婚するということを証明しております。そしてその指輪を交換することによって、まだ結婚はしてないけれども、結婚生活の素晴らしさを一部味わい始めているということが言えるんではないでしょうか。まだ夫婦ではないんだけれども、でもやがて夫婦になるって言うことを互いに期待させるそういうものではないかと思いますね。それが婚約指環というものではないでしょうか。聖霊も私たちに同じような働きをするということを是非覚えたいと思います。聖霊は私たちが、み国を受け継ぐことの保証であります。私たちはまだ完全な形としては御国を与えられていません。完全な意味では、み国はまだ私達のものになっていないです。ですから私たちは、まだこのみくにの素晴らしさを、完全な意味では知らないんです。知らないけれど、でも、もうそれは確実に私たちのものです。間違いない。保証してるんです。

4.聖霊が私たちに与えられる時に味わう「恵」

そしてそれだけではなくて、全てを知り尽くしてはいないけれども、もうすでにその一部を味わい始めている。み国がどんなに素晴らしいものであるか、全ては知らないけれども、でもほんの一部は、今、この地上にあって味わい始めている。 そういうことが言えるんではないでしょうか。

私たちが、主のみ前で集まって礼拝を捧げている時に、私たち御霊に満たされる時がありますよね。賛美しているときに、本当に心が燃やされる時ありますよね。本当に国は素晴らしいんだっていうことを、全部は知らないけども、その一部がわかる。そういう感動を味わうことがあるんじゃないでしょうか。それがまさに聖霊の働きなんですよね。それがまさに聖霊が私たちに与えられる時に味わう、恵であります。

実は 御国みくにっていうのは、もっと素晴らしい所です。もう比較にならない、私たちには信じられないくらい素晴らしい世界なんですけれども、でも聖霊に満たされることによって、私たちはその一部を味あわせていただくことができる。

その「前味」を味あわせていただくことができる。そのようにして聖霊が与えられることによって、私たちは御国を期待することができる。心が燃えてくるということを経験するんではないでしょうか。

黙示録を読んでいると、天の御国の礼拝の姿がそこに記されてありますね。そして7章を読んでいると、そこに印を押された人達が、神様、イエス様を礼拝しているその姿、光景が記されている。引用された人たちの数はなんと144,000人であったとその具体的な数まで書いてあります。その144,000人の人たちが天のみ国で、キリストを褒め称えている、その賛美の光景が、そこに記されてある。こういう風に賛美するそうです。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉と力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン」と、そういうふうに144000人の印を押された人々が、キリストの御前に集められて、神様を賛美する素晴らしい礼拝が天上で味わわれるということが、そこに記されてあります。私たちのこの地上における、小さな小さな礼拝かもしれません、でもこの礼拝は、あの天上の礼拝へ繋がっていることを私たちは覚えたい。そして私たちは、毎回、毎回ここで集まって礼拝を捧げる度に、御国を味わっている、御国をやがて私たちは引き継ぐんだ、受け継ぐんだ、その恵みの中に生かされているということを味わいつつ、主をほめたたえたい、そのように思われます。私たち確実にみ国を受け継ぐんだ、そのことが保障されている、その恵を覚えて主の御名を心から賛美するものになりたいと思います。

5.何のための祝福なのか

エペソ書の一章1節から14節までをずっと学んできましたけれども、そこ全体を振り返りながら一つ気づかされることがあったと思います。

それは、第一神様」がまず私たちを祝福してくださったということ。神様が私たちを選んでくださったということ、そして私たちをご自身の子供にしてくださった、そして御国を受け継ぐ者としてくださった、神様の天上にある霊的な祝福というものを私たちを教えられました。

そして第二にそれはすべてキリスト」にあって、キリストによって、キリストを通して与えられる祝福であるということも学びました。

そして第三のこととして、そのことを私たちにいよいよ確信させてくださるのは聖霊」であるということを今回また学びました。

ここまでの学びを振り返って、私たちの祝福というのは、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神様、三位一体の神様による祝福であるということを私たちは教えられます。

そしてそのような祝福が、私たちに降ってくる、注がれてくるのは、一体何のためだったのか?そのことも実は繰り返し教えられておりました。そのことを確認して終わりたいと思いますけれども、6節、12節、14節で繰り返されていることでありました。

神様は私たちたちのことを選んでくださった。私たちをご自身の子供にしてくださった、それは一体なんのためだったかということについて、6節の最後の所にこう書いてありますね。

それは神がその愛する方にあって、私たちに与えてくださっためぐみの栄光が、褒め称えられるためです」と書いてあります。

そしてなぜ神様は私たちをみ国を受け継ぐ者としてあらかじめ定めて下さったんでしょうか?それは12節に記されてあります。

私たちが神の栄光を褒め称えるためです」と書いてあります。

そしてなぜ神様私たちは約束の聖霊によって証印をされたのか、その目的は何でしょうか?14節にこう書いてありますね。

私たちが贖われて神のものとされて、神の栄光が褒め称えられるためです」。

このようにすべては、神の栄光が褒め称えられるためであったここに記されてあった全ての霊的な祝福、神様から与えられ、キリストによって与えられ、聖霊によって確信に導かれるそういう全ての祝福が、私たちに注がれてくる。それは一体何のためか?それは私たちが神の栄光を褒め称えるためだった。このことを私たちは是非覚えたいと思います。私たち日々たくさんの祝福を神様からいただいております。考えられないくらいの祝福をいただいている。それは何のため何でしょうか?それは私たちが神の栄光を褒め称えるためなのです。 神様から祝福された、素晴らしい、感謝ですって、ここで受け止めて終わりではない。ここで受け止めたならば、それを全部、感謝ですと言い、賛美で返す、神様の栄光を褒めたたえる、そのことが求められているということを是非覚えたいと思います。

6.まとめ

そこで祝福を受けたならば、私たちは神様を賛美しましょう。もしたくさん祝福を頂いたんでしたら、たくさん神様を賛美しましょう。そのようにして、ここで頂いためぐみは、天上に返していく、そのことを神様は願っておられるということを、是非覚えるものでありたいと思います。あなたはそのような生き方をしているでしょうか?私たちが神の子供とされたのは何の為だったんでしょうか?それはみんな、神様の栄光のためなんです。私たちが神様の栄光を褒め称えるためなんです。そのような生き方が、果たして私たちの中でなされているでしょうか?私達は、食べるにも、飲むに飲むにも、何をするにも、主の栄光のためにしなさいとイエス様は教えて下さっています。けれども、私たちの人生の全てを通して、本当に私たちは神様の栄光を褒め称えているでしょうか?食べるにも、飲むにも、何をするに神様の栄光を顕すためにしているでしょうか?勉強は何のためにするでしょうか?何のために働いているでしょうか?果たしてそれは本当に主の栄光のためでしょうか?結婚は何のためでしょうか?転職は何のためでしょうか?それは本当に主の栄光のためのものになってるんでしょうか?私たちが本当に神の子供とされためぐみを覚えて、そして私たちにみたまの証印が押されているということを確かに受け止めて、そしてみたまに導かれる生活をしようではありませんか。神様の栄光のために生かしてくださいと祈る者になりたいと思います。

 

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