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大正期のキリスト教~教会の世代交代

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

飯能キリスト聖園教会 日本キリスト教史の学び9 若井 和生師

大正期のキリスト教~教会の世代交代

・ 教会の世代交代期と重なった大正年間。当時の教会は明治期に培つた信仰をどのように引継ぎ、どのように深め、どのように次の時代に継承していったか。

1. 大正期(1912~26)の特徴

・第一次世界大戦(1914~18):日本は連合国側に参加。資本主義、富国強兵が進歩。

・大正デモクラシー:民主主義・自由主義が意識される。個人の存在が大切にされる。

・吉野作造の民本主義:天皇主権を認めつつ、人民の利益を重視。政党政治の実現。

・米騒動(1918):貧富の差の拡大、社会不安 → 労働運動の高まり

・ロシア革命(1917):社会主義、共産主義運動の活発化

・人格なき天皇制:制度としての天皇制が強化された。

2.大正期の教会

(1)世代交代

・明治から大正にかけて世代交代が進む。教会の転換期となる。
・日曜学校教育の充実(1907「日本日曜学校協会」設立)
・ 宗教の個人化、私事化、内面化。教会の自己目的化。
(背景:個人主義、中産階級・市民階級の成長)
→ 社会性の喪失? エネルギーの枯渇?
・ 神学の形成、キリスト教理解の深化につながる。

・高倉徳太郎:『福音的基督教』
植村正久の死後、東京神学社の校長となり、神学研究に打ち込む。戸山教会(現在の信濃町教会)を創立し、牧師となる。自我の解決を追求し、キリストの贖罪による神の恩寵の絶対性を主張した。

(2)教派教会の固定化と全国共同伝道

・ 迫害期、伝道不振の時期を経て、教会は概ね安定期を迎える。
・ 欧米からのキリスト教の移入が一段落ついて、諸教派が出揃い、固定化していく。
・1914年から17年にかけて超教派の全国共同伝道が実施される。大きな成果をもたらし、信徒数、教会数ともに驚異的に増えた。(主催は従来の「福音同盟会Jを改組した「日本基督教会同盟」。きつかけは1910年のエジンバラ世界宣教会議。J・モットの来日が大きな励ましとなった。)
・純福音派の台頭:日本伝道隊、ホーリネス教会、自由メソジスト教会、ナザレン教会、日本アライアンス教団、日本同盟基督協会(現在の日本同盟基督教団)などが日本各地で活発に伝道を展開した。

(3)社会問題とキリスト教

・ 資本主義の発展が中間層を生み出す。教会は新しい教育を受けた知識人、学生が中心となる。
・ その一方で貧富の差や社会不安が増大し、社会運動、労働運動が活発になる
・ 初期労働運動・社会運動の担い手はキリスト者だった。キリスト教の愛の精神に基づいてキリスト教社会主義が発達する。しかし、その後、キリスト教社会主義の担い手は新神学の影響を受けたユニテリアンが中心となり、教会とのつながりは希薄となり、結果的に信仰を失つていく者が多く起こった。
・ 賀川豊彦、山室軍平、留岡幸助などが、キリスト者として社会問題と積極的に関わつた。
・ 社会問題に対する対応をめぐり、社会に積極的に参与する側と、社会から撤退する側に、教会の中に分裂が起きる。(福音理解の二極化)
社会への参与を強調するも、キリスト教と ヒューマニズム、社会主義を混同してしまう。(海老名弾正、吉野作造など)

教会と社会主義を分離させ、伝道と教会 形成を強調するも、社会との関わりから撤退。 (植村正久、高倉徳太郎など)

・ 福音がこの世界といかに出会い、関わつていくのか、キリスト教会の内部で十分な検討ができなかつた。(=福音信仰と社会的実践の結合が十分に成熟しなかつた)
・ 両者とも、その後の戦時体制に呑み込まれていく脆さを抱えていた。

(4)再臨運動

・1918~19年にかけて内村鑑三(無教会)、中田重治(ホーリネス)、木村清松(組合教会)らによつて再臨運動が起こされた。東京、関西で講演がもたれたが、

その後、超教派的運動として全国に波及した。
・再臨運動誕生の原因:
(ア)第一次世界大戦の勃発 → 西洋キリスト教的文明の破綻が明らかになる。
(イ)娘ルツ子の死
(ウ)米国の友人ベルから送られてくる『サンデー・スクール・タイムズ』
・再臨運動の展開と結果:
①主にホーリネス教会が協力し、ホーリネス全体のリバイバルにつながった。
② その一方、日本のキリスト教会の多数は静観した。(信仰を明白にするかどうかで教会が二分)
③柏本義円が『上毛教界月報』にて、内村の再臨信仰を批判し、終末理解のあるべき姿を提示した。(内的・霊的な面における救いと、外的な新天新地の完成の両方を均衡をもつて主張した。)
④歴史観・社会観を包括する総合的な視野をもつ聖書的終末論は、大正期の教会では十分に形成できなかつた。
⑤再臨の教義を掲げるホーリネス教会は、戦時下にあつて弾圧を経験し、聖書的終末理解の真価を、国家当局より厳しく試された。

補:第一次大戦後の欧州のキリスト教

第一次世界大戦後に、頭角を表した神学者にバルトがいます。それまでは人間の力に信頼する楽観的な自由主義神学が、ヨーロッパの教会でも主流でしたが、その理解は大戦で完全に砕かれ、神学界も力を失いました。その中で出てきたのがバルトで、バルトは神の絶対性を主張しました。
バルトは必ずしも福音的な神学者とは呼べませんが、当時の自信を失っていた教会にあって、目指すべき目標を指し示す大きな貢献があった。

(5)三教会同

・1912年(明治45=明治末年)、内務次官・床次竹次郎の企画。当時の内務大臣・原敬が神道・仏教、キリスト教の代表者を招き、国民道徳の振興について宗教界の協力を要請した。
・キリスト教界からは本多庸一、宮川経輝、千葉勇五郎、井深梶之助ら7名が出席。
・キリスト教側は、神仏二教と同等の待遇を受けたことを喜び、会同に積極的に協力した。(神・仏の代表らは、キリスト教と同等視されたことに不満を覚えた。)
・この三教会同に批判的だつたのは内村鑑三と柏木義円。
内村:三教会同は孔雀と鶴と男鵡の羽根をつづり合わせて別の鳥をつくろうというもの。「政治家の手腕に由て日本人に提供せられし新宗教」と批判した。柏木:宗教は自らの真理性に立って伝道すべきであり、政府の保護によって生きるべきではないと主張した。(『政府の所謂宗教利用』)
・キリスト教が天皇制国家主義に順応し、国家体制に組み込まれていく一歩となつた。

3. まとめ

・明治から大正期にかけて教会は世代交代を経験。時代の変化の中で、教会の信仰も個人化、内面化の傾向が見られた。
・第二世代と呼ばれる人々が活躍する中、神学理解・哲学思想が深められていった。
・一時の試練の時を経て教会は安定期を迎え、それぞれの教勢は安定し、全国協同伝道によつて伝道も大きな成果を見る。
・社会問題との関わりをめぐつて教会内に福音理解をめぐる分裂が生じた。
・さらに再臨運動の展開をめぐっても教会内に分裂が生じた。
・教会は日本社会の表層における変化に懸命に対応しながら、深層で展開しているこの国の動きを十分に見極めることができなかった。次の時代に対する十分な備えができなかった。
・昭和期に入り、教会の福音理解の真価が問われることとなつた。

(考えよう)
・私たちは先人たちの培つてきた信仰をどのように受け止めて、自分のものとしているでしょう力、
・私たちは次の世代の人々に対して、どのような備えを今、するべきでしょう力、

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