イエス・キリストをより良く知るために

布にくるまれたイエス・・・ルカの福音書2章1~7節

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

世界中でクリスマスがお祝いされていますけれども、私たちは教会に行って本当のクリスマスの意味を味わいながら、イエス様のご降誕をお祝いできることを、感謝したいと思います。イエス様はなぜ、ご降誕されたんでしょうか。教会ではキリストの誕生のことを、誕生ではなくて、降誕と呼びます。降りるという字と、誕生日の誕という字を合わせて「降誕」と呼びます。イエス様の誕生日は、まさに天から地に降りて来てくださったという意味で、それは降誕と呼ぶのにふさわしい出来事でありますけれども、なぜ天におられた方が地におりてくる必要があったんでしょうか。
そのことをともに覚えたいと思います。

1.劣悪の環境下にお生まれになったイエス様

イエス様はベツレヘムの馬小屋でお生まれになったと、一般的に言われておりますけれども、でも小屋だったかどうかというのは、実はわからないんですね。聖書のどこにも小屋という字は出てきません。ある人は小屋ではなくて洞窟だったんではないかという風に言う人もいますね。詳しいことはわかりませんけれども、ただ「飼い葉桶」という言葉がありますので、そこは牛か馬か、家畜のいるその場所であったということがわかります。そこでイエス様がお生まれになりましたけれども、イエス様がお生まれになった後、この地上でイエス様が最初に経験されたことは何だったでしょうか。それは聖書によると、「布に包まれる」という経験であったということがわかります。
ルカの福音書2章6節から読んでみます。「ところが彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を生んだ。そしてその子を布に包んで飼い葉桶に寝かせた。」と、ここに書いてありますね。イエス様がお生まれになったその直後に経験されたことは、布に包まれるという経験だったということがわかります。この「布に包まれた」というこの部分は、ルカの福音書2章1節から7節の中で、唯一、ほっとできる文章だなと思います。1節から7節までのお話というのは、実は全部悲しいことの連続ですね。
イエス様がいかに悪い境遇の中に、お生まれになったかということがここに示されているんですね。

(1)悪い時代

イエス様がお生まれになった状況は、本当に酷いものでした。1節、2節に当時の時代の状況が示されていますが、それは皇帝アウグストがローマ帝国の皇帝として君臨している時代だったということが示されております。つまりローマ帝国の覇権が絶頂に達した時であります。ローマ皇帝アウグストというのは、名前ではないんですね。これは「尊厳者」という意味の称号なんですけれど、自分で自分のことを、アウグスト、尊厳者と呼んで、この最高権力者として世界中に君臨して、その名を轟かせたそういう皇帝であります。そして2節を見ますと、シリアには、キリニウスという総督がいたことが書いてありますし、ここには出てきませんけれども、皆さんよくご存知ですが、ユダヤにはヘロデという王様までおりました。
要するに、このユダヤ、パレスチナの地域は、ローマ帝国の支配の中にあって二重にも三重にも支配されていたという状況であります。この地域というのは、紛争や動乱が絶え間なく起こる地域でして、ローマ帝国が絶えず目を光らせていなければいけないという不安に満ちた場所でした。ですからそこにもう何十にもわたって支配を強固なものにしたということが歴史にも示されていることであります。 こういう時代の中にイエス様はお生まれになったんですね。非常に悪い時代にお生まれになったということが言えると思います。

(2)悪い状況

そしてその中にあって、イエスさまがお生まれになったその具体的な状況も非常に悪い。4節にナザレからベツレヘムまでの道を旅をして歩いているヨセフとマリアの姿が描かれております。
「ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町、ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に上って行った。」
ナザレからベツレヘムまで移動していったという、その姿がここに書かれてあります。ナザレからベツレヘムまで、約120 km の行程をふたりは歩いて行ったわけですけれども、ロバに乗っていたと思いますが、でもマリヤは身重でしたから非常にそれは大変な旅であったことは間違いないですね。どうして移動してるかと言いますと、皇帝アウグストが住民登録をせよという命令を出したからですね。ですからこれは住民登録をしなければならないという、強いられた旅であります。
もちろん二人には信仰がありました。神様を信じていましたけれども、でも実際には大変な旅だっただろうと思います。この旅は2人にとって、今、この世はローマに完全に支配されているということを、まざまざと見せつけられるような、そんな旅であったということであります。

(3)悪い展開

そしてその後の展開もさらに悪いんですね。本当に苦労して、努力して、でもその先にちょっといい展開が見られたら、少しはほっとしますけれども、展開が悪いんです。本当に苦労して長旅をして、ベツレヘムに着いたのですが、ところが二人を留めてくれる宿屋はひとつもなかったんです。7節に書いていますね。「やど屋には彼らのいる場所がなかった」おそらく、ヨセフはこの宿屋を確保するために、本当に努力したと思います。マリアは身重ですし、もう産まれそうになっていますね。何とかして部屋を確保したいと、ヨセフは必死だったんじゃないかと思います。そんな二人のために部屋を開けてくれる人が、普通だったら一人ぐらいは、いても良さそうな、そんな感じですね。でも一人もいなかったんですね。この若い夫婦の二人は、この時、世間は冷たいっていうことをしみじみと骨身にしみて感じただろうと思います。
結局二人は追い詰められていったわけですけれども、最終的に赤ちゃんを出産した場所は、出産の場所としては考えられないような場所です。最悪の場所と言っていいと思います。小屋だったか、洞窟だったかわかりませんけれども、いずれにせよ、そこは家畜のいるところですね。とても酷い環境だったと思います。クリスマスの絵本とか、カードとか、あるいは飾り物なんかに、この場面を描いているとても可愛らしい、愛らしい絵がありますけれども、おそらくそんな可愛らしい愛らしい場所ではなかったと思いますね。非常に惨めな場所だったと思います。汚くて、暗くて、寒くて、家畜の糞尿の臭いが充満していて、そんなところで子供を産みたいと思う人は、誰一人いないという、そういう場所ですね。

(4)追い詰められてゆくヨセフとマリア

このように私たちは、この聖書の箇所を1節から7節まで読んでいくときに神様を本当に素直に信じてきた、信じている2人が、どんどんどんどん追い詰められていくその過程というのを確認することができるんです。
時代も悪いですね。その中の状況も悪い。そしてその展開も悪いんです。ですから、もうこの話は、最初から最後まで全部悲しい話なんです。
どうして?と、私たちは思いたくなりますね。ヨセフとマリアは信仰者ですね。神様を本当に信じる信仰者です。忠実に神様に従って生きているんですね。それなのに、状況がどんどんどんどん悪いほうに向かって行くのを見る時に、私たちの心の中に、何か疑問といいますか、不満が湧き出てきそうな場面じゃないかなと思います。皆さんがヨセフだったらどう思うでしょうか。皆さんがマリアだったらどう思うでしょうか。あるいは、一生懸命神様に従って信じてついてきたその結果として、状況がどんどん悪くなっていくとしたらどうでしょうか。

私たちは、神様に従っていれば何か良い方向に行くんじゃないかと期待しますね。神様に従って、御言葉に従って行けばきっと神様が道を開いてくれる、良い方向に行くんじゃないかと、そういうことを期待しますよね。でもそうならないとしたらどうでしょうか。抱えている問題が、どんどんどんどん大きくなっていったらどうでしょうか。
そんな時に、私たちの中には、もしかしたら神様に対するいろんな不満や疑問が生まれてくるかもしれない。そしてその中にあって、なぜ神を信じる必要があるんだろうかという、そんなことまで考えてしまうことがあるかもしれませんね。信仰が、だんだん元気を失ってゆくこともあるかもしれない。私たちの信仰心というのは多くの場合、私たちがそれによって益を受けるか、得をするかということに常に左右されやすい、そういう傾向があると思うんですね。信じた結果として、そこに益があるからこそ、私たちは信じるんだけれども、でも信じた結果として、その先に苦労があるとしたらどうでしょうか。神を信じる意味はどこにあるのか?そんなことを考えてしまうかもしれないと思います。ヨセフとマリアが経験したことはまさにそういうことだったんですね。
せめてベツレヘムに着いたときに、宿屋ぐらいあったらいいのになと思いますね。散々苦労してきてるわけですよ。身重なんです。大変なんですね。どうして神様は、宿屋の一つぐらい用意してくださらないんですかと、怒りたくなるような、そういう展開じゃないかなというふうに思います。

2.神のご計画—クリスマスの祝福

でもそれも、全部、神様のご計画の中にあったということを覚えたいと思います。そして今日の箇所を通して教えられることは、救い主は人間の経験する、最も深い悲しみの中に来られた、ということであります。人間の局面する最も厳しい現実の中に、共にいるために、イエス様は来てくださったということです。それは自らの経験としても豊かに味わうために、そしてその事実を多くの人に知らしめるために、ヨセフとマリアは神様から特別に選ばれた二人であったということを、私たちはここから覚えなければいけないと思います。
私たちも忘れないようにしたいと思いますね。何でも自分の思う通りにいったら素晴らしいかもしれません。でもそうではないですね。信仰者であっても、そうでない時もあります。信仰者の故に、大きな問題に直面して悩んだり、思うようにいかない、前に進めない、結果がでない、落ち込んだり、先が見えない、絶望したりという、そういうことがあるかもしれません。私はあなたに従っているのに、信じてるのに、なぜ神様は?そういう気持ちになることがあるかもしれません。

でも私たちは、聖書のこの箇所から覚えたいと思います。まさにその現実の中に、イエス様が共にいてくださるために、イエス様はお生まれになった、そのことを私たちを覚えようではありませんか。
どんなに深い暗闇の中にも必ず光はあります。どんなに厳しい現実の中にも必ず希望があります。まさにそこに来てくださるために、イエス様はお生まれになった。それがクリスマスの祝福であり、恵みである、ということを私たち忘れないようにしたいと思うんですね。
あなたが抱えている、いろんな状況があると思いますけれども、その中に主が共におられる。共におられるために、イエス様は来てくださった。そんなふうに、クリスマスの恵みを感謝し、味わおうではありませんか。

3.「布に包まれた」赤子のイエス

そんなわけで今日の話はもう最初から最後までずっと悲しい話なんですが、でもまた始めに戻りますが、その中で唯一ほっとできるのがここの7節なんですね。「その子を布に包んで」ということです。この言葉に私たちはとても慰められるんではないかなと思います。生まれたばかりのイエス様を布に包んだのは、おそらくマリアではなくてヨセフだっただろうと思います。ここは病院ではないですね。看護師さんや、助産師さんもいません。あとはもう馬しかいないわけですから、赤ちゃんのイエス様を取り上げて、布に包んだのは、やっぱりヨセフだっただろうと思いますね。
そして布に包んだのは、もちろんイエス様を守るためです。寒かったと思いますね。寒さから守るため、あるいは、すごい臭いがしていたと思いますが、臭さから守るため、あるいは色々と汚いばい菌がいっぱいいる場所だったと思いますが、汚さから守るため、そしてこの後、「飼い葉桶に寝かせた」という記事が出てきますから、そのまま赤ちゃんを飼い葉桶に置いたら大変なことになりますね。もうその飼い葉桶の硬さとか、そのに汚さから守るために、しっかりと包んだ。これは父親の愛と言ったらいいかもしれませんね。母親の愛じゃなくて父親の愛だったかなと思います。イエス様を最初に布に包んだヨセフの愛がそこにあるということを、私たちは覚えたいと思いますが、ただここで強調されていることは、布に包んだヨセフが強調されているわけではないんですね。ヨセフの名前は出てこないんです。だれが布に包んだかではなくて、イエス様が布に包まれたということがここで強調されていることです。そしてその事を実は、御使いたちも12節で告げております。
12節を見ていただきたいと思いますが、御使いたちが羊飼いたちの前に現れて、賛美をしますが、その時に言った言葉、「あなたがたは布にくるまって飼い葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それがあなた方のための印です。
こう告げたと聖書に書いてますね。ですから御使いたちが、ちゃんとイエス様が飼い葉桶に寝かせられて、布に包まっていること、それがあなたがたのための印であるという風に告げられているわけです。印なんですです。ですから羊飼いたちは、赤ちゃんが布に包まれている、そのことに注目して探したわけですね。そういう風に御使いたち、そして神様が導いておられるということが分かるわけです。
同じように私たちも、このイエス様の姿に注目したいと思うんです。

なぜイエス様は布に包まれる必要があったんでしょうか。そしてイエス様が布に包まれたということに、一体どんな意味があったんでしょうか。赤ちゃんは普通、生まれれば布に包まれますね。ですから当然のように布に包まれるわけですから、あえてなぜ包まれたかと考えるのも、なんだか変な感じがいたしますが、でもキリストという方がどういう方であるかということを考えるときに、この「布に包まれた」ということにも、非常に大切な意味があるということに気付かされるんではないかと思います。
キリストは神である方でしたね。その神である方が、人になられた。赤ちゃんになられた。そして布に包まれた、ということを思う時に、そこにも私たちが注目しなければならない大切なメッセージが込められているということに私たちは気付かされます。
もし布に包まれなかったらどうなったんでしょうか。おそらくイエス様も病気になって死んでしまったかもしれません。イエス様は、風邪をひいたかもしれない。あるいは感染症になってたかもしれない。ものすごく不潔な場所です。そのままの状態で、飼い葉桶に寝かせられたら、もう間違いなく感染症にかかってしまったと思いますね。つまりイエス様は布に包まれなければ、すぐに死んでしまうような非常に弱い存在になってくださったということであります。
パウロはイエス様の誕生について、ピリピ2章6節7節の中でこういう風に言っております。
キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を虚しくして、下僕の姿をとり、人間と同じようになられました。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神としての権利とか、立場とか、属性とか、すべてのものを持っていた方であるのに、それを捨てられないとは考えないで、全て捨ててくださって、そして人としての姿をとって、私たちに仕えてくださった。人間と同じようになられたと、これがクリスマスですね。これがイエス様が来てくださったということの、的確な説明です。
ここでパウロは「人間と同じようになられました」ということを言っていますけれども、これは強くて立派で優秀な人間と同じようになられたという意味ではないんですね。生まれたばかりの赤ちゃんと同じになられたという意味であります。人間の赤ちゃんくらい弱いものはないんじゃないかなと思いますね。ヤギの赤ちゃんのほうがもっとしっかりしてると思います。ヤギの赤ちゃんは、産まれても、しばらくすると立ち上がりますね。家畜の赤ちゃんのほうがよっぽどしっかりしてますね。
でも人間の赤ちゃんは、そうじゃないです。あかちゃんは立てるまでも最低1年ぐらいかかると思いますね。そして本当に守られなければならない存在ですね。本当に親が、大人がちゃんと見守っていなければ、すぐ病気になってしまう。本当に大切にされなければいけない、ちょっと目を離しただけでも、どんなことになるかわからない。すぐ病気になってしまう。そして、すぐに死んでしまうという、本当にか弱いのが、人間の赤ちゃんだと思うんですが、その赤ちゃんにイエス様がなってくださった。神であられる方が、人間の赤ちゃんになってくださった。これはもう考えられないくらい、信じられないくらい、すごいへりくだりがそこに示されているということを私たちは教えられるわけであります。
そしてそれは、なんと貧しい身なりであったことでしょうか。生まれてきた場所も、その境遇も、その姿も、本当に貧しい、貧しい姿で、イエス様はこの世に来られた。これがイエス様の誕生の場面です。誕生の光景ですね。イエス様はユダヤ人の王としてこられたわけですから、もっと立派な王宮で生まれても良かったですね。もっとたくさんの人に囲まれて、本当に暖かい部屋の、ふわふわのベッドで生まれても良かったと思うんですけれども、そうではない。本当に惨めな、本当に貧しい汚い汚い姿で赤ちゃんになってきてくださった。そのイエス様の姿に、私たちは心を留めたいというふうに思います。

4.まとめ

なぜこんな形で、何でこんな姿で、お生まれになったんでしょうか。
第2コリントの8章9節にこんな言葉があります。
「主は富んでおられたのに、あなた方のために、貧しく、なられました。それはあなた方が、キリストの貧しさによって、富むものとなるためです」
主は富んでおられました。全てのものを持っておられた主が貧しくなってくださった。それは何のためなんでしょうか。
ここに「あなたがたのために貧しくなられた」と書いてあります。あなたがたのため、すなわち私たちのためですね。私たちのために、貧しくなられました。なぜイエス様はこんな貧しい生まれかたをされたんでしょうか。
それは全部、私たちのためであったんだよと、聖書は教えています。そして続けてこう書いてあります。「それはあなた方が、キリストの貧しさによって富むものとなるためです。」イエス様がこのような姿で来てくださったのは、私たちを富むものにしてくださるためであった。こう聖書に書かれてありますよね。私たちは本来貧しかったんですね。どれくらい貧しかったかと言うと、もう返せない借金を抱えているくらい貧しかったんですね。もう返せない借金、罪の借金です。生まれてから今までも、たくさんの罪を犯してきて、そして返すことのできない、その借金を、この世の中では適当にごまかすこともできるかもしれません。いろんな罪を犯してきても、隠したり曖昧にしたり、ごまかすことはできるかもしれません。でも神様には、とても隠すことはできないんですね。神様は全部お見通しです。私たちが今まで何をしてきたか、何を心の中で思ってきたのか、全部見ていますね 。もう返すことのできない借金だらけです。そしてそれに対して神様は裁きをなさる。そういう贖いきれない罪の刑罰を、代わりに受けてくださった方がいるんです。それがイエス様ですね。それがイエスキリストです。それがイエスキリストの十字架ですね。イエス様はそのためにこの世に来てくださった。本来、私たちが受けなければならない罪の刑罰を代わりに受けてくださったのがイエス様の十字架です。それによって私たちの抱えてきた借金を全部帳消しにしてくださった。全部許されました。私たちの罪ですから、もうそれだけでも、私たちは十分感謝ですね。

でもそれだけじゃないんです。借金を解消してくださっただけではない。さらに私たちを富むものにしてくださいました。豊かなものにして下さいました。借金を全部許されただけでも十分感謝ですね。もう本当にありがたい。でもそれだけじゃないんです。富むものにされた。特に私達はイエス様において富むものにされたということが言えると思います。
私たちは愛において実に貧しい者です。私たちの愛は本当に貧しい貧しい愛です。私たちの愛はとても狭いです。自分に関わる領域のこと、ここの部分でしか、顕すことができない愛。愛が広がっていかない。もう本当に本当に狭いです。私たちの愛は本当に短い愛ですね。すぐ変わってしまいます。相手の状況とか、自分の気持ち次第で、どんどんどんどん変わってしまう。本当に長続きしない短い愛ですね。長続きしない愛です。私たちの愛は低い愛ですね。人が高められるの喜ぶことができません。人が成功してるのを見て、安心していられません。むしろ人を踏み台にして、自分がのし上がって行きたいって思うような、そういう愛ですよね。非常に低いです。そして私たちの愛はとても浅いです。苦しんでいる人、悩んでいる人のところまで下っていくことができないですね。本当にその人を理解することができない。本当に浅い愛です。ですから私たちの愛は本当に本当に実に実に貧しい愛なんですね。でもその貧しい私たちが、イエスキリストによって豊かなものにされる。そのためにイエス様が来てくださった。その恵みが聖書で教えられていること、約束されていることを、私たちは覚えたいと思うんですね。
貧しい私たちを富むものにしてくださるために、イエス様があえて豊だったのに貧しくなられた、へりくだってくださった、その恵みを、私たち、このクリスマスの季節によく味わおうではありませんか。そのために来てくださったイエス様ですから、私たちは本当にこのイエス様を、しっかりと心の中に受け入れて、そしてこの心の中に来ていただくものになりたいなというふうに思います。その時に私たちが富むものにされていくということ、その恵みを味わおうではありませんか。がせっかくイエス様が来てくださったのに、せっかく私たちのために来てくださったのに、そのイエス様を私たちが拒否してしまうことがありませんように、心を閉ざしてしまうことがありませんように、是非、心を開いて、このイエス様をお迎えしたいと思います。受け入れたいと思います。素晴らしいイエス様の恵みに感謝しようではありませんか。

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。今日このようにしてクリスマスの本当の意味を聖書を通して共に覚え会うことができて感謝いたします。クリスマスが何の日で、何のためにイエス様が来られたのかを、教えてくださったことを感謝します。それが私のためであること、私たち一人一人のためであったこと、貧しい私たちを本当に豊かなものにするために、イエス様があえて貧しくなってくださったその恵み覚えて、感謝します。この恵みをしっかりと私たちが受け止めて、自分のものとして味わって、喜んで、これからも歩んでいくことできるように導いて下さい。御言葉を心から感謝し、イエス様の御名によってお祈りをいたします。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2018 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page