イエス・キリストをより良く知るために

だから私は、膝をかがめて祈ります・・エペソ書3章14~15節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

1.獄中に捕らわれていたパウロの祈り

エペソ人への手紙3章の14節15節、ここから「祈り」について学んでいきたいと思っております。
14節15節は一つの文章ですけども、主語と述語だけを取り出してみますと、「私は、祈ります」という言葉になります。これがこの言葉の中心部分です。つまりパウロは、ここでひとつの決心をしていることが分ります。それはエペソの教会の人のために「 私は祈ります」という決心であります。
その祈りの具体的な内容が、16節17節18節と続いていきますけれども、その前にはパウロは、一言私はあなた方のために祈りますと、前もって宣言しているのが今日の言葉ということになります。
このように言ってもらえるエペソの教会の信徒たちは本当に幸せだと思いますね。パウロ先生が祈ってくれる。私は祈りますとそう言って下さる。そのことはエペソの教会の信徒たちにとっては大変嬉しいこと、励ましだったんじゃないかなと思います。同時にそれはパウロにとっても幸せなことでありました。

パウロは今、囚われの身であります。エペソ書は、パウロが獄中で記した獄中書簡であると言われております。よってパウロの行動は監視され、その自由は著しく制限されているという状態でありました。ですからとてもパウロはエペソまで行くことはできません。それでできることと言ったら、手紙を書くことぐらい。
それで今、パウロは手紙を書いているわけでありますけれども、しかしそんなパウロでも、祈ることはできる、神様にお願いすることができる、それはパウロにとっても大変幸せなことだったと思います。

キリスト者となって本当によかったなあと思うことはたくさんあると思いますけれども、その中の一つは、互いに祈り会えるということではないでしょうか。私のために誰かが祈ってくれている、それは幸いなことだと思います。同時に私も誰かのために祈ることができる。これも本当に幸いなことではないでしょうか。つまり互いに祈り会えるということは、私たちキリスト者に与えられた特権であり、大変幸せなことだと思うわけであります。
多くの教会では、水曜日に祈り会を開いていて、この幸せを味わっているのではないでしょうか。互いに祈ったり、祈られたりする幸せを味わっているんですね。またいろんな機会に「祈りの時」があります。是非皆さん、この祈りの交わりの中に加わっていただいて、この幸せを味わっていただきたいと思いますね。
祈ってもらえる、祈ることができる、互いに祈りあえる、本当に幸いなことだと思います。

2.パウロの祈りの意味するところ

さてパウロは、ここで「私は祈ります」と、ひとこと語っておりますが、この言葉にいろんな文章がくっついているというのが、今日の御言葉の注目点です。三つぐらいに分けて考えることができると思います。

第1にパウロは、「こういうわけで」私は祈りますと語っております。こういうわけで私は祈ります、これは、パウロが祈る理由について語っている言葉です。
2番目に「私は膝をかがめて祈ります」と語っております。これはパウロの祈りの姿勢について教えている言葉であります。
そして3番目に「私は天と地にある全ての家族の、家族という呼び名の元である御父の前に祈ります」と語っております。これはパウロの祈りの対象について教えている言葉であります。

以下に、この順番に、与えられている御言葉を丁寧に味わっていきたいと思います。

(1)祈りの理由

第一にパウロはここで、「こういうわけで私は祈ります」と語っております。こういうわけでとは、どういう理由ででしょうか?
ここになぜパウロが、エペソの教会の信徒たちのために祈ろうと思ったのか、その理由が示されています。なぜパウロは「私は祈ります」という心境になったのか?なぜエペソの教会の信徒たちのために祈ろうと思ったのか?その理由がここに示されている。そしてそれは、パウロが今まで1章、2章、3章のここに至るまで、語ってきたことの内容がその理由になっています。

 

a.神のみ言葉に促されて祈った

 

パウロはここに至るまで、エペソ教会の信徒たちに与えられた、神様の素晴らしいめぐみについて語ってきております。特に歴史を貫く神様の壮大なご計画というものを示してまいりました。それまでずっと隠されてきた奥義であるところの教会が、今この地上に建てられたという事、その教会を通して神様のお働きが前進していくんだということ、そしてあなたがた一人ひとりが神の国民であり、神の家族であり、神の「み住まい」とされた、つまりあなた方一人ひとりが教会なんだと、そういう恵をここに至るまでパウロは語ってきたわけであります。そんな神のご計画の全体像が明らかにされ、みこころが示された上で、エペソの信徒たちの歩みを通して、この御心がなりますように、神様の働きが彼らを通して前進しますようにと、パウロが願ったのは当然のことだったと思います。

つまりパウロの祈りは、御言葉に促されて始まった祈りであるということに、私たちは気付かされるわけであります。

ここに私たちが教えられる一つの事実があります。
私たちの祈りはまず神の側から始まるということであります。祈りの出発点は神様にあるということ、私たちにではなくて、神様にあるということを教えられるんではないでしょうか。
まず御言葉が語られます。そして御心が示されます。そのような神様の促しと導きの中で、私たちに祈る思いが与えられ、そして私たちは祈る。パウロの祈りは、そのようにして導かれているということを私たちは教えられるわけであります。

私たちは祈りが自分から始まると考えやすい傾向があるんじゃないかなと思います。何かいろんな問題に直面して、いろんな悩み事を抱えながら神様に祈って、そしてその祈りに神様が答えてくださることを期待するという、そういう風に祈りを考えていることが多いかなと思います。つまり祈りの出発点が、自分にあるという風に感じていることが多いんじゃないだろうかという風に思います。
でもそんな祈りはおそらく、一時的な祈りで終わってしまうんじゃないでしょうか。結果が出たらそれでおしまい、そして神様との関係も小間切れの関係になってしまうと思いますね。
何かあった時だけの関係、何かあった時は祈ります、何かあったときは神様にお願いします。でも、何か終わってしまえばそれで終わりという、非常に小間切れの神様との関係になってしまうんじゃないでしょうか。継続的な関係になっていかないんではないでしょうか。
それでは私達と神様の関係が、なかなか深まって行かないですし、私たちの信仰も養われていかないんではないだろうかと思います。

祈りは神様の側から始まるということを私たちは心に留めたいと思います。ハレスビーという人の書いた「祈りの世界」という本が ありますが、その中にこういう一節があります。
「祈るとは心を開いてイエス様をお迎えすること」だというのですね。つまり「私たちの祈りがイエスを動かす」のではなくて、「イエスが私たちを動かして祈らせてくださる」のですと、こういう言葉が紹介されていました。今日皆さんに紹介いたしますけども、祈るとは心を開いてイエス様をお迎えすることです。私たちの祈りがイエス様を動かすのではなく、イエス様が私たちを動かして祈らせてくださるのですと教えられております。

b.私たちがするべきことは御言葉に耳を傾けるということ

そして心を開いてイエス様をお迎えすることです。その時にイエス様が私たちを動かして、祈らせてくださる。祈りとは、そういうものであるということが教えられております。祈りの主導権がイエス様にあるということを、私たちは教えられるんではないでしょうか。このことを私達はしっかりと覚えたいと思いますね。自分の手の中に主導権を握って、それで離さないということが多いかなと思いますけれども、その手を開いて、本当に神様の御言葉、そして神様の導きの中で、私たちが祈るものに変えられていく、そういう祈りを、私たちは経験していきたいなと思います。そのような祈るものとして成長していきたいと思うのです。御言葉に励まされて私たちも互いに祈りあっていきたいと思います。

(2)祈りの姿勢

二番目にパウロはここで、「私は膝を屈めて祈ります」と語っております。ここにパウロの祈りの姿勢が表されていることがわかります。これは祈るときは必ず膝を屈めて祈らなければいけないという意味ではありません。私達が祈るときは、だいたい椅子に座って祈ると思います。あるいは、時には立った状態で祈ることもあると思います。夜、寝る前は、床について横になった状態で祈るということもあると思います。私たちは、いろんな姿勢で祈ることができますね。イエス様の時代のユダヤの地方でも立って祈ることが普通だったようです。
ところがパウロはこの時に「膝をかがめて祈ります」と語りました。膝を屈めて祈りたい、そんな心境になっているということが分かる。そしてここにパウロの、心の姿勢が現れているということがわかります。膝を屈めて祈りたくなるほど、それは真剣な祈りでありました。そしてこのパウロの祈りの姿勢から、私たちは二つの事に気づかされます。

a.偉大な神様の前にひれ伏して

第1に、パウロは、本当に神様を神として崇めてるということです。神の偉大さを意識しながら、その偉大な素晴らしい神様の前にひれ伏しているということが分かる。そしてもう一つのことも気づかされる。

b.自分の無力さを意識して

二番目にパウロは、自分の無力さを意識しているということであります。自分の無力さ、力のなさを知っているからこそ、パウロはひざをかがめて祈ろうとしているわけであります。
それは、何とかして神の力にすがりたいという、真剣な祈りの姿勢であるということであります。イエス様のもとにやってきた人で、会堂管理者のヤイロという人がおります。 このヤイロという人が、あるとき イエス 様の元にやってきて、「ひれ伏して祈った」と聖書の中に記されてあります。どうしてヤイロはひれ伏して祈ったんでしょうか?それはヤイロの小さな娘が死にかけていたからです。ヤイロはイエス様の元にやってきて、ひれ伏してお願いしたんですね。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって娘の上に手を置いてください」という風に、イエス様の前にひれ伏してお願いしたと福音書の記事の中に記述されてあります。もうそれは必死なお願いだったということがわかります。どうしてヤイロはひれ伏したんでしょうか?それは第一にヤイロが、イエス様を信じてるからですよね。この方は私の娘の病を癒すことができると信じているから、そのことを信じているから、ひれ伏してるわけですよね。でもう一つは、自分があまりにも無力だからです。父親なのに、娘に対し何一つしてあげられない、してあげられることがひとつもない。完全に無力だから、イエス様の元に行ってきました。そして膝をかがめてひれ伏して祈りました。実に真剣な祈りだったということが分かる。もし私たちがヤイロの立場だったら同じことするんじゃないでしょうかね?やっぱりイエス様の所に行って、ひれ伏して、いのるんじゃないでしょうか?自分の子供が死にかけているとしたら、そして自分にはもう何もできないとしたら、イエス様の所に行って、助けてください、助けてくださいと、私たちもひれ伏して祈るんじゃないかなという風に思いますね。そして聖書を読むと、家様はこのヤイロの祈りに答えてくださった。ヤイロの娘の命を救ってくださった、ということを聖書を通して私たちは教えられます。今日の聖書の箇所でパウロは膝を屈めて祈っておりますね。ひれ伏して祈っている。実に真剣な祈りであるということがわかります。そのようにして祈ってもらえるエペソの教会の信徒達はなんて幸せな人たちだろうかと思いますね。パウロ先生がただ祈るだけじゃない。膝を屈めて祈ってくれる。本当に真剣に祈ってくれる。そんな祈りに支えられている。なんと幸いなことではないでしょうか。私たちは、パウロの祈りの姿勢から教えられるんではないでしょうか。
私たちは、いったいどれだけ膝を屈めて神様の前に祈っているでしょうか?そんな祈りの姿勢をどれだけ私たちは身につけているでしょうか?本当に私たちは膝をかがめて祈っているでしょうか?もしかすると自分が跪いてるんではなくて、神様を跪かせてしまっている、そんな祈りになっていないだろうかと、そんなことも考えさせられることであります。
何か自分のお願いをして、自分のお願いを神様にぶつけて、その願いに神様が従ってくれることを期待しているような、そんな祈りをしていることがあるんじゃないかなと思いますね。自分の力によって、自分の祈りによって、何とかして神様をコントロールしようとしているような、そんな祈りをしていることがあるんじゃないかなと思いますね。それはちょっと考えてみると、自分はひざまずいていない、自分が立っていて、神様を跪かせてしまっている、そんな祈りになっていることがないだろうか?と考えさせられるわけであります。

そんな祈りをするべきではありません。私達は自らの立場をちゃんとわきまえなければいけないんです。神様は偉大な神様ですね。そして私たちは、その神の下僕であります。無力であります。私たちに何もできないんです。ただ私たちは、ひれ伏すことしかできない。そのような立場を私たちは、ちゃんとわきまえているだろうか?そしてそのことがわかる時に、おのずと生まれてくるのが、このひれ伏すという姿勢ではないでしょうか。膝をかがめるという姿勢ではないかという風に思います。
私たちは、どんな姿勢で祈るときも、立って祈るときも、あるいは椅子に座って祈るときも、いろんな姿勢で祈ることができます。でも心においては、本当に跪いて、主の前に祈るものでありたいと思います。自分の無力さの中で神にすがるものでありたいと思います。私たちの祈りに一番必要なのは、この「無力さ」ではないでしょうか。無力なものだけが、心を注ぎ出して神様に祈ることができる。私たちの祈りが、なかなか深まっていかないひとつの理由は、おそらく、自分の力にしがみついているからではないかなと思いますね。どっか自分に頼っているから、本当に心から祈ることができない。そういう問題を抱えているんではないかと思います。しかし私たちは、本当に主を仰ぎたいと思います。偉大な神様を仰ぎたいと思います。そして本当に無力な自分たちを覚えたいという風に思う。そして主の前に膝をかがめて、そのような姿勢で心を注ぎ出して祈る者となろうではありませんか。その時に主が祈りに応えてくださるその恵みを味わうものでありたいと思います。

(3)祈りの対象

三番目にパウロは、「私は天と地にある全ての家族の「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります」と、ここで語っております。これはパウロの祈りが、誰に対する祈りであるか、誰に向けられての祈りであるか、祈りの対象について教えている言葉であります。そしてこの祈りの対象は、御父であるということがわかります。パウロがここで私は御父の前に祈りますという風に語っております。

 

a.神様と向き合って祈る

別にこのような断りがなくても、祈りとは本来御父の前の祈りであります。私たちが祈るとき、 あえて父なる前で祈りますと言わなくても、その祈りは必ず御父の前の祈りでなければならないはずです。ところが私たちが祈る時、どうでしょう?どこに向かって祈っているのか分からない、祈りの対象が定まっていない、方向が定まっていないけどとりあえず言葉だけは出ている、そして自分が今、誰に向かって話しかけているのか、誰に向かって祈っているのか、そのことを意識することもないままに、言葉だけが出てくる、そんな祈りをしていることが多いんじゃないかなという風に思いますね。それは必ずしも御父の前での祈りになっていない、そういうことがあるんじゃないかなと思います。
そのためになかなか祈りが届いていかないようなことがあるかもしれません。
祈りとは神様との対話です。対話であるならば、ちゃんと向き合って喋らなければいけないと思いますね。私はかつて、新聞を読みながら妻と話をしていたとき、妻からこっちを向いて喋って下さいよと言われたことがあります。たしかに人と話し合っているときは、ちゃんとその人の方を向いて喋らないと失礼だと思いますね。人間関係でもそうだと思いますが、そんなことを私達は、神様との関係においても、よくしていることがあるんじゃないかと思うんですね。私たちがどこに祈っているのかを意識しないままに、御父に向かって祈っているという意識がないままに、祈ってしまうということがあるんではないでしょうか?それは随分失礼なことしてるということになるんじゃないでしょうか?人間関係のレベルで考えても、ずいぶん失礼なことをしてると思いますけれども、平気でそういうことを、神様との関係の中でしてしまいやすい、そんな私たちじゃないかと思います。

祈る時、私たちは必ず父なる神のみ前で祈ります。父なる神様が聞いてくださっているということを覚えながら祈ります。父なる神様の方を向いて、その方に向かって語りかけます。私たちの祈りはいつでも、御父の前で祈りであるということを忘れないようにしたいと思います。

b.天と地の両方に拡がる家族の父である神

そしてパウロはここで、私達の祈りがなかなか方向が定まりにくいと言うか、そういう弱さを抱えているということを意識しながら、本当にそれが、御父の前の祈りとなるように励ましの言葉をここに加えてくださっているということに気づかされます。
二つのことをここで確認したいと思います。
第一に私たちの神様は、天と地の両方に広がる家族の父親であるということであります。
15節のところに「天と地にある全ての家族の父」という言葉が記されてあります。
ここに家族という言葉が出てまいりました。家族という言葉は、もうすでにパウロが2章19節で語っている言葉であります。2章19節でパウロはこういうふうに語っておりました。
「こういうわけで、あなた方はもはや、他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」この言葉をとおして私達は、教会は神の家族であるということを教えられます。
そして今日のこの箇所においてもう一つ教えられることは、この家族は地上に限定された家族ではないということであります。天にまで広がっていく家族であるということであります。私たちの教会では9月に帰天記念礼拝を行いました。地上と天上の両方に広がっていく家族のつながりを覚えながら、神様を礼拝することができました。特に天上に移された私たちの家族のこと覚えながら、他の方々のことを懐かしみながら、ひとときを過ごすことができました。
あの時私たちは、二つのことを確認したと思います。一つは私たちの家族としての絆は、死によって断ち切られることがないということであります。死を超えて継続されていく絆であるということを、あの時覚えあったと思います。そしてもう一つ確認したことは、私たちの神様が地上と天上の両方に広がる家族の父親であるということであります。
ですから私たちは、天における礼拝を意識しながら、地上での礼拝を、お捧げいたしました。天上と地上と、場所は異なるけれども、でも同じ父なる神様を礼拝しているんだって、そんな意識を持ちながら、あの時、主に礼拝を、お捧げしたと思います。
その事を覚える時に、私たちは本当に感謝と共に、御父の前に祈ることができるんではないでしょうか。私たちの父なる神様は、天上と地上に広がる家族の父親であるということを、この箇所から覚えたいと思います。
さらにパウロはもう一つの事もここに記しています。
15節の後半部分ですけどもここに、「家族という呼び名の元である御父」という風に記しております。神様という方について、「家族という呼び名の元である御父」という言葉がここに出て参ります。ここに家族という言葉がもう一度出てきますが、こちらは、かぎかっこつきの「家族」になっているということに、皆さんお気づきでしょうか?新しい聖書の訳ですと、ここにかぎかっこがついています。そしてこちらの方の言葉の意味は、社会を構成する単位としての家族、あるいは組織としての家族を表している言葉です。時には「部族」と訳されたり「血族」と訳されたりする、そういう言葉でありますけれども、そういう言葉が使われております。そしてここでパウロは、じつは、ひとつの言葉遊びをしているということが分かるんですね。これは日本語の聖書読んでもあんまりわからないことですけれども、ギリシャ語本文の聖書を見ますと、パウロがここで洒落を利かせているって言うことがわかる。そういう内容なってるんですね。「家族」と訳されているのは、ギリシャ語の「パトリア」という言葉です。そしてその次の行に出てくる「御父」という言葉は、「パテラ」という言葉であります。
つまりパウロはここで、「パトリア」という呼び名の元である「パテラ」の前に祈りますと語っているんですね。言葉遊びしていると皆さん気づかれるでしょうか?ちょっと洒落が利いているかなという感じがする箇所なんですけれども、そんな言葉遊びを通してパウロは何をここで伝えようとしているのか?

c.すべての「家族」は、神様によって与えられたもの

それは地上で「家族」と呼ばれる組織のすべてが実は神様からきているということであります。私達は教会に来ている時は、神の家族、信仰の家族の一員とされていることを強く意識すると思います。でも礼拝が終わってそれぞれの家庭に戻ると肉親としての家族関係を強く意識すると思います。そういう意味で私たちは二つの家族に属しているということが言えると思います。神の家族、信仰の家族の中にいるとき、私たちは神様を父なる神と意識することができます。どうしてかと言うと、私たちは、神の家族だから。まさに神の家族だから、私たちは、神様を父と意識することができます。でも同時に私たちは、肉親の家族に戻った時も、そこで神様を父なる神と覚えることができる。どうしてかと言うと神様は全ての家族の家族という呼び名の元である御父であるから。そのように聖書で教えられているからであります。全ての家族はこの父なる神から来ているということであります。創造主なる神様は、天地万物を作られて、人を作られて、そして家族を作られました。人々を家族に分けられ、家族を単位として社会を構成することを許されました。つまり全ての家族の元に、天におられる父なる神様がおられるということであります。私たちはそのことを覚える時に、今の家族の一員とされたということを感謝して受け止めることができるんではないだろうかと思いますね。
なんで自分はこの家に生まれたんだろう、あの家に生まれればよかったなんて、もしかしたらあるかもしれません。でもそう思うことがないようにしたいと思いますね。その家族の中に、今、私たちが置かれているというその恵みを、味わいたいと思うんですね。そしてそれは私たちがどこにいても、神様を父なる神様として 覚えることができるということであります。

3.まとめ

教会の中にいるときは、もちろん父なる神様を覚えることができます。でも教会の外にいる時も、自分の家に戻った時も、やっぱり神様を父なる神として覚えることができる。
私たちの神様は、この地上に存在する全ての家族の祝福の源であるということを覚えたいと思います。そのことを意識する時、私たちは安心して御父のみ前で祈ることができるんではないでしょうか。
この御父なる神様の前に心を寄せて、この方を覚えて、この方の前で、祈ることができるんではないでしょうか。私たちの神様が天におられる父なる神様であることを感謝したいという風に思います。このような励ましを頂いた私たちは、神の家族と、肉の家族の、両方の祝福を覚えて、祈りあっていく者でありたいと思います。私たちはどれだけ教会のために祈っているでしょうか。神の家族の祝福のために祈っているでしょうか?そして私たちはどれだけ互いのために祈りあっているでしょうか。肉の家族の祝福のために祈っているでしょうか。ぜひ祈りあっていくものでありたいと思います。

願わくは、私たちがみことばに導かれて祈ることができるように、そして膝をかがめて祈ることができるように、そして天と地にある全ての 家族の、家族という呼び名の元である御父の前で祈ることができるように、一人ひとりの歩みの中で、神様の御心が豊かに表されていることができるように、互いに祈りあっていくものとなろうではありませんか。

お祈りをしたいと思います。天におられる私たちの父なる神様、あなたの御前であなたを父として覚えながら祈ることができますから感謝いたします。どうか御言葉に導かれて、そして本当に膝をかがめて父なる神様の御前で祈ることができるように、互いに祈り会うことができるようにその祈りの祝福を日々味あわせてください言葉を心から感謝し尊き主イエスキリストのみなによってお祈りをいたします 。

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