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信仰成長のメルクマール・・・サムエル記26章1~12節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 

前回は、エペソ書から、そして今回はサムエル記から、「霊的に成長する」というのはどういうことなのかと言うことについて具体的、現実的に考えてゆきたいと思います。
どうすれば私たちは霊的な意味で大人になれるんでしょうか?

今日の聖書の箇所、サムエル記26章1節から12節に、2人の登場人物が出てまいります。一人はサウル、もう一人はダビデであります。二人の関係は、追いかけるものと、追われるもの、という関係であります。サウルはあいかわらずダビデを追いかけております。ダビデはそのサウルに捕まらないように逃げ回っています。この両者の関係はもう、ずっと変わらないですね。ずっと続いています。
そしてサウルという人は、なかなか成熟してゆかない信仰者の代表であるということが言えると思います。その一方でダビデは、どんどん成熟していく信仰者の代表であると言えると思います。先週のメッセージの続きとして考えるのであれば、サウルはいつまでたっても子供のまんまの信仰者ということになるかなと思います。なかなか大人になりきれない。一方でダビデはすくすく成長し、大人の姿にどんどん近づいていく成長著しい信仰者の姿を現していると思います。
サウルはなぜ成熟してゆかないのか。そしてダビデはなぜ成熟していくのか。両者の違いは何か。きょうはこのことがテーマです。

1.人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。

26章の1節、2節をお読みしたいと思います。
“ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているのではないでしょうか。」
サウルは立って、三千人のイスラエルの精鋭とともに、ジフの荒野へ下って行った。ジフの荒野でダビデを捜すためであった。”

この1節2節の言葉を読んで驚かれた方が、もしかしたらおられるかなと思います。あの時のサウルの涙は何だったんだろうと皆さん思わないでしょうか?以前学んだ24章16節に「サウルはダビデの声を聞いて、声をあげて泣いた」と書いてあります。次のような話でした。ダビデを追いかけていたサウルは、途中で用を足すために、洞窟の中に入りました。
その洞窟の中に、何と、ダビデともう一人の部下が隠れていた。その状況が、サウルを殺してしまうチャンスを、神様が備えてくださったかのように見える、そういう展開でありました。実際、ダビデと共にいた部下は、そのように考えて、是非サウルを殺してしまいましょうと提案したわけですけれども、しかしダビデはそれを認めませんでした。「主に油そそがれてイスラエルの王とされた方に、手を下すことはできないことだ」と、そういう意識を持っていたために、ダビデはそのままサウルを去らせたということが24章にありました。その事実をサウルがダビデから直接知らされた時に、そしてそのことによって、自分の命が危機的状況の中にあったのに守られたということが分かった時に、サウルは感激して涙を流したと、24章に書いてありますね。そして本当に心を入れ替えて、反省して、もうそれ以上はダビデを追いかけないことにして、一旦は家に帰ったんです。それが24章で起こったことだったわけですよね。ところが今日の箇所、26章を見ると、あのサウルが、またダビデを追いかけ始めています。しかも、24章と比べるとよくわかるんですけれども、全く同じ展開になっているということがわかります。24章でもダビデの居場所をおサウルに密告する人たちが、やはりいまして、その密告を受けてサウルはダビデの追跡を始めるわけですけれども、今日の聖書の箇所もう1節にジフ人という人たちが、このダビデの居場所を教えたために、サウルにより追跡が始まっているということがわかります。しかも三千人の精鋭を引き連れてやってきたというところも、24章と同じなんですね。つまりは同じことを繰り返しているんです。
あの時の最後の涙は一体何だったのか。あの時は確かに心を入れ替えたように見えました。ダビデの温情を受けて感激しました。そしてそれまでの自分のあり方を反省して、一度は自分の心を入れ替えたかのように見えたんですよね。そしてもう一度家に帰って最初から出発しようと、自分の人生をやり直そうと、一度は思ったんじゃないでしょうか。サウルは別に、演技していたわけではないと思います。心から感激したんだと思います。ですから、あの時にサウルが流した涙は偽りの涙ではなかったと思います。心からの涙だったと思うんです。

ところがしばらく経った後、我に戻って行く時に、また元に戻ってしまう。普段の生活に戻ってしまうと、結局元の自分に戻ってしまう。結局はダビデの存在が、最後には相変わらず脅威に感じられたということなんでしょうか。あるいは人々の人気が自分ではなくて、ダビデのほうに向いてしまうということが妬ましいからだったのでしょうか。その理由は詳しくはわからないけれども、結局は元のサウルに戻ってしまう。そうして前と同じ事を繰り返してしまう。前と同じようにサウルは、ダビデを追いかけ始める、そんなサウルの姿に、なかなか変わってゆかない、成熟することに乏しい、信仰者の姿というものを見せられるんではないかと思います。
サウルは信仰者なんです。信仰を持っております。神様を意識しながら歩んでいるんです 。サウルは時々神様に祈ったりもしておりますね。そして何よりもサウルは神様によって選ばれた選びの器です。神様によって選ばれたからこそ、イスラエルの王になっている、まさに神の器なんです。もしサウルが神様を全く知らない人で、神様に対して叛逆をしている、そういう未信者であったならば、なかなか変わっていかない姿を見ても、私たちは比較的納得しやすいかもしれません。でもサウルは神様のことを意識しながら歩んでいる、信仰者でした。それなのに、主の前になかなか成熟していかないという姿の中に、私たちは人間のむずかしさっていうものを感じさせられるんではないかなと思います。人間は信仰があるなしに関係なく、なかなか変わっていかない。信仰者であればすぐ変われると思いがちですが、実はそうではない。信仰があっても、なくても、人間とは難しいものなんだということを私たちは覚えていなければいけないと思います。

エレミヤ書17章9節というところに、こういう言葉が、出てまいります。
「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。」
人間がなかなか変わっていかない難しさというのが、そこに表されております。そしてそれは癒しがたい病なんだということですね。そういうことが聖書で教えられていることであります。
私たちは、私たちの内側に、癒しがたい病を抱えているという認識を、どれだけ持っているでしょうか。そういう深刻な病を抱えているということを、どれだけ自覚しているでしょうか。その意識が、もしかすると私達の中に、非常に不足しているということがあるんではないでしょうか。そのために私たちはなかなか変わってゆかない、そういうことがあるんではないかと思います。

私たちは多くの場合、なぜサウルのようなのか。どうしてダビデのようになれないのか。なぜサウルのように、なかなか変わっていけないのか。信仰者であるにも関わらず、いつまでも子供のままなのか。なぜ成熟を経験することができないのか。

一番の原因は、この私たちの内側にある癒しがたい病があるということ、そしてその自覚が乏しいというところに、原因があるのではないでしょうか。
「それは癒しがたい」と聖書に教えられております。癒すことができないという、その認識がもしあれば、私たちはもっともっと真剣になるんじゃないかなと思うんですね。
あなたがお医者さんに行ったときにですね、「あなたは大変な病を抱えています。それは治りません」と言われたら、あなたはどんな気持ちになるでしょうか。もう真剣にならざるを得ないんじゃないでしょうか 。真剣に悩まれるんではないでしょうか。そして「それは、癒しがたい病かもしれないけれど、どうしたら、治るんでしょうか、先生。」と、その先生と、真剣になって相談するのではないでしょうか。また家族会議を開いたりしてこれからのことを考えるのではないでしょうか。
ところが聖書が同じことを宣言しているのに、私達は多くの場合、その事実に真剣に向き合おうとしません。まるで人ごとのようです。そして聞き流してしまいます。心の中に、癒しがたい病というものをを抱えているにも拘らず、気づかないで終わってしまうということが実に多いのではないかと思います。そしてどこか楽天的で、なんとか頑張れば治るのではないか、自分で努力すれば少しは良い人になるんではないだろうか、そんな風に考えて、その病と向き合おうとしないで、自分の努力で何とか解決をはかろうと、もがいている私達ではないだろうかとおもいます。
私達は、聖書が「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。」と教えてくれているその御言葉に心を留めるものでありたいと思います。それが自分の中にある現実です。人ごとではないですね。私達、一人一人が抱えている課題です。
そしてその部分をしっかりとイエス様の前に差し出す必要があるんではないでしょうか。イエス様の十字架の血によって、しっかりと許していただいて、しっかりと癒していただいて、清めていただく必要があるんではないでしょうか。
私たちは決して心をかたくなにすることなく、私たちの心を、主の前にお委ねしていこうではありませんか。そのためにイエス様は来て下さいましたね。そのためにイエス様は十字架にかかってくださいました。血を流してくださいました。それは私たちを救うため、私たちを癒すためです。このような十字架の恵みに与りながら、私たちは成長していくものに変えられていきたい、そのように願います。
私たちの成長を阻んでいる要因があるということですね。その要因となっているもの、原因となってるものを、しっかりと主の前に差し出して、処理していただくものでありたいと願います。

2.どうしてダビデは成長できたのか?

このようにサウルはなかなか変わっていかない信仰者の姿を現しておりましたけれども、それとは対照的にダビデはどんどん成熟していくんですね。
今度はそちらのほうを見ていきたいと思います。どうしてダビデは成長できたんでしょうか。3節、4節を読みます。
“サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道の傍らに陣を敷いた。一方、ダビデは荒野にとどまっていた。ダビデは、サウルが自分を追って荒野に来たのを見て、偵察を送り、サウルが確かに来たことを知った。”
サウルが自分を追いかけてきた、その事実を知らされた時に、ダビデはどんな気持ちになったでしょうか。きっとショックだったんじゃないかなと思いますね。そしてダビデは偵察をここで送っております。本当に来たのかどうか確かめさせている、本当にそれが事実であるかどうかを確認しているということが、ここを読むと分かります。そしてそれが本当に事実であったことがわかった時に、ダビデは本当にがっかりしたんじゃないかなと思いますね。

それはあの時に反省してくれたように見えました。心を入れ替えてくれたように見えました。そして一度はサウルは家に帰ったんですね。もうこれでサウルから、逃げ回る必要はないんじゃないか、自分は解放されたんじゃないかと、少しは安心したんじゃないかなと思うんですけども、でもそのサウルがまた追いかけてきた。信じられない。そういう気持ちがあったんじゃないかなと思うんですね。ダビデにとってはなおも厳しい状況が続いていたという現実を突きつけられた、そういう時であったと思います。でもこの時、ダビデが取った行動は早かったですね。5節から7節を読んでみます。
“ダビデは立って、サウルが陣を敷いている場所にやって来た。そしてダビデは、サウルと、その軍の長、ネルの子アブネルが寝ている場所を見つけた。サウルは幕営の中で寝ていて、兵たちは彼の周りに宿営していた。
ダビデは、ヒッタイト人、アヒメレクと、ヨアブの兄弟で、ツェルヤの子アビシャイに言った。「だれか、私と一緒に陣営のサウルのところへ下って行く者はいないか。」アビシャイが答えた。「私が一緒に下って参ります。」
ダビデとアビシャイは夜、兵たちのところに来た。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ていて、彼の槍が、枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵たちも、その周りに眠っていた。”
ダビデはこの後すぐに、サウロの陣地を見に行ったということがわかります。すると本当に偶然だと思いますが、サウルが寝ている場所を見つけてしまうんですね。そこでアビシャイという家来を連れて一緒にその場所に下って行く。これもまたすごい展開だなと思いますが、時は夜でした。サウルもその周りの兵士達も、みなグッスリと眠っておりました。ダビデとアビシャイは、何と、誰にも気づかれないで、サウルのすぐそばまでたどり着いたという展開になっています。しかもサウルも周りの兵士達もみんな熟睡しているんです。これはあたかも再び神様から与えられた、チャンスのような展開のようにも見えると思いますね。そんな中、部下のアビシャイが提案します。それが8節です。
“アビシャイはダビデに言った。「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」”
アビシャイとしては、もうこれは神様が与えてくださったチャンスです。今こそサウルを殺してしまいましょう。私が一撃で殺しますから、と提案しているんですね。
ところがダビデは前回と同じですが、今回もそれを許しませんでした。9節でこういう風に言っています。
“ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」”
こう言ってアビシャイの提案を退けました。24章で起きたこととほぼ同じことが、ここでも繰り返されているということがわかります。

同じことの繰り返しのように見えるかもしれませんが、24章と26章の記事を比べてみると、今回のダビデは、はっきりとした態度で部下の提案を退けているということが言えると思います。今回の26章では「サウルを殺してはならない」と、はっきり言い切っております。24章には出てこない言葉でありました。
24章の記事を思い出していただきたいんですけれども、あの時ダビデは、サウルの上着の裾の先の方を少し切り取ったんですね。その切り取ったことで、「心を痛めた」と、そこに書いてあります。サウルに対して、やってはいけないことをしてしまったために、心を痛めたということが24章ではありました。そういうダビデの姿から実はダビデの心の中には迷いがあったということが感じられます。
もしかすると、ダビデの心の中には、サウルを殺してしまいたいという思いが、どっかにあったのかもしれない。なんとか神様を意識することによって、その思いを止めることができたけれども、でも本音を言えば、早く楽になりたい、チャンスを生かしたい、ここでサウルを殺してしまえば楽になれるのに、と、何かそういう思いが、どこかにあったんじゃないかなと思います。そんな心の深いところを探られたからこそ、「心を痛める」という、そういうことがあったんじゃないかなと想像するんですね。つまりダビデの中には迷いがあったということであります。

でも今回のダビデの言葉と行動からそのような迷いを感じることはないんです。サウルを殺すことは絶対にしてはいけないと言っております。ダメなんだとはっきりと確信しております。そんなダビデの姿に、同じことの繰り返しでありながら、実はしっかりと成長している、成熟しているダビデの姿というものに、わたしたちは気付かされるわけであります。そしてダビデは10節でこういう風に言っております。
“ダビデは言った。「主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。」
主は生きておられると告白しています。この言葉は、24章の時にはなかった言葉なんです。この事を、この事実を、ダビデはいったいどこで学んだんでしょうか。

25章で学んだんです。皆さん覚えておられる方も多いと思います。あの時ダビデはコントロールを失って、暴走していましたね。暴走しかけておりました。
サウロとの件では、何とか自分を収めることのできたダビデが、ナバルという一人の男から侮辱された時に、自分をコントロールできなくなったんです彼は。もう侮辱されて、あたまに血が上って、激怒して、怒りの感情のままに自分を制することができなかった。そしてもし何も起こらなければ、ダビデは間違いなく、ナバルを殺してしまっていただろうと思います。激しい怒りの感情に任せて、一人の人を殺してしまうという、たいへん大きな罪を、ダビデは犯していたと思うんです。しかし、守られた。
その時に誰がやってきたでしょうか。ナバルの妻のアビガエルがやってきたんですね。そしてそのアビガエルが本当に賢い女性でした。賢く振る舞いました。たくさんの食料を用意して、ダビデの前に現れて、まず謝罪をして、そしてその後、切々と訴えていましたね。その長い会話を前回学びましたので、今日は見ませんけれども、その一つ一つの言葉が、実に知恵に富んだ言葉でしたね。そしてその言葉のの中で、アビガエルは、とっても大事な一つの言葉を話していた。それはこういう言葉ですね。
「ご主人様、今、主は生きておられます。」
そう言ったんですね。そしてその後長い会話がありましたけど、ダビデも最後に言うんですね。「イスラエルの神、主は生きておられる。」つまりダビデがアビガエルとの出会いを通して学んだことは、これだったんです。
「主は生きておられる。」この同じ言葉を、今日の箇所で、ダビデは、アビシャイに向かって言ってるわけです。
このことは、ダビデ自身が、25章で、体験を通して与えられた確信だったということが分かることであります。
こうして見ると、皆さん気ずくと思いますが、ダビデは、24章25章26章と、確実に成長しているということなんです。そこには失敗もありました、挫折も経験しました。自分をコントロールできなくなって、自分の弱さとも向き合いました。
でもそのたんびに教えられてきたことは何でしょうか。それは「主は生きておられる」ということを、何度も何度も学んできた、経験を通して教えられてきました。本当に生きているんです。主は私たちを守ってくださる。自分の弱さと向き合いながら、挫折もし、本当に深く悩んで、どうすればいいのか迷った時、そして自分がコントロールがきかなくて暴走してしまった時、本当に主が共にいてくださった、守ってくださったというのがダビデの経験だった。そしてそういう経験を積み重ねていく中で、ますます主に信頼するものに変えられていく。そこにダビデの成長があるということをこの箇所を通して教えられるんではないでしょうか。
本当に主は生きておられるということが、ダビデの口先だけの告白ではなくて、心からの確信に変えられているということを、私たちは覚えたいと思います。このようなダビデの姿に、私たちは着実に成熟していく信仰者の姿を見ることができます。
このダビデの姿を通して、私たちは教えられるんではないでしょうか。信仰が強められていくっていうことについて、教えられるんではないでしょうか。私たちも時々「信仰が強められた。」という、言い方をすることがあると思います。でもそもそも信仰が強められるとはどういうことなんでしょうか。
それは何か、確かな、力強い自分自身が築かれていくということではないんです 。強い逞しい主が共にいてくださるということを経験するということ、その主への信頼がますます深められてゆくと言うことが、私たちの信仰が強められていくという経験であるということを、私たちは覚えたいと思います。むしろ私たちは、どんどん弱くされていくんではないでしょうか。砕かれて、いろんな問題とぶつかって、深く悩んで、自分の限界を知らされて、自分の欠け、頑なさ、罪深さ、愚かさ、弱さを、どんどん知らされていくんではないでしょうか。でも私たちはそのたびに主と出会って、この方の哀れみを経験して、恵を味わい、この方にますます信頼するものに変えられていくんではないでしょうか。それによって私たちの信仰が強められていくと言うことを、このダビデの姿から学ぶものでありたいと思います。その時に私たちは、あのパウロが告白したように、「私が弱い時にこそ、私は強い。」そういう告白に、導かれていくということを信じたいと思います。それが信仰が強められていくということ、成熟していくということであることを覚えたいと思います。

3.なぜ、わが君(サウル)は、このしもべ(ダビデ)の後を追われるのですか?

そして今日の聖書の箇所で、もう一つ素晴らしいなと思うことがあります。それはダビデがサウルに向かって語りかけるその言葉です。今回もダビデは、24章と同じように、サウルに何も手を加えないでそのまま去らせたんですけれども、その後で話しかけるんですね。そのやり取りの言葉がまた素晴らしいんじゃないかなというふうに思います。
まずダビデは、サウルのすぐそばにいた家来の、アブネルという人に語りかける。その言葉が15節と16節に出てまいります。15節と16節を読んでみます。
“ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があるだろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を護衛していなかったのか。兵の一人が、おまえの主君である王を殺しに入り込んだのだ。
おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、主に油注がれた方を護衛していなかったのだから。今、王の枕もとにあった槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」”
ダビデはサウルのすぐそばに居た家来のアブネルを責めているんですね。ちゃんと王様の事を守っていなさい、あなたの王様になんと無礼なことをしてるんだと伝えているのがこの言葉であります。そしてその後に、サウルがそのことに気づいて、その後サウルとの会話が始まるんですけれども、18節と19節でダビデはサウルにこのように語りかけております。
“そして言った。「なぜ、わが君は、このしもべの後を追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。
わが君、王様。どうか今、しもべのことばを聞いてください。もし私に敵対するようあなたに誘いかけたのが主であれば、主がささげ物を受け入れられますように。しかし、それが人によるのであれば、その人たちが主の前で、のろわれますように。彼らは今日、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、『行って、ほかの神々に仕えよ』と言っているからです。
こういうふうに語りかけています。ここでダビデがサウルに声かけをしているんですけども、その問いかけを一言で言うならば、あなたが今私に敵対しているこの行動は、どこから来たものですか。その行動は主から示された事ですか、それとも人から来たことですか。そういう風に声をかけている言葉なんですね。つまり今ダビデのことを追いかけている、サウルのその心の中にある動機は何ですかと、それに気付いて欲しいという、そういう願いがここに込められているということがわかります。
このような発言も24章の時には見られない発言でありました。24章の時のダビデは、もう自分自身を守るので必死でしたね。もう自分の命を守ることが大事、相手のこと考える余裕もないんです。とてもサウルの側に立ってサウルのことを思いやる余裕がないんです。あの時はもう、自分の命を守ることで精一杯だったんです。ところが今日の26章の箇所においては、ダビデはサウルの側に立って考えてるんですね。そしてそサウルの事を心配してるんです。そして願わくは、それに気づいて欲しい、もう一度あの時の、かつてのサウルに戻って欲しい、信仰をもって神様によって立てられたの時の、サウルになってほしいと、本当に願ってるんですね。そういう気持ちが込められている言葉であると感じます。
つまりサウル王に対するダビデの愛を、私達はここにに感じるんじゃないかなと思います。イエス様も言われました。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」自分の敵を愛する愛こそは本物の愛なんだよと、イエス様は教えてくださいました。そのような愛を私たちはこのダビデの内に見るんではないでしょうか。サウルは間違いなくダビデに敵対しております。そしてダビデにとって、サウルはやはり敵として意識される存在でした。ダビデにとっては、サウルは自分の命を追いかけてくる、狙っている、実に実に危険な存在なんです。その人のことを考える余裕なんか、普通私達は持てないと思いますね。でもこの時のダビデは、このサウルの事を本当に心配してるんです。このサウルに立ち直って欲しいと願っている。なんて素晴らしい家来をサウルは持っていたことでしょうか。ダビデのような家来を持っていて、サウルは本当に幸せだったと思うんですけど、でもそのことに気づかない、そこに人間の難しさが表されていますが、でも今日のこの箇所を通して、私達は主が共に生きておられるということが、どれだけ大きな変化を人にもたらすものであるかということ教えられるんではないでしょうか。主が共におられるというその確信が、どんなに大きな愛を私たちに備えてくださるかということを、私たちは教えられるんではないでしょうか。このようにダビデは主にあって確実に成長していく、そのような姿をここで私たちは教えられるわけであります。今日の聖書の箇所を通してサウルとダビデの違いはもうはっきりしていると思います 。サウルはなかなか成熟していかない信仰者の姿を現しております。ダビデは、どんどん着実に成長していく信仰者の姿を現しております。

4.まとめ

最後に私たちは考えたいと思います。私たちはいったいどちらに似ているでしょうか。あなたはいったいどちらのようでしょうか。サウルのようか、それともダビデのようでしょうか。なかなか変わっていかない。信仰者であるにもかかわらず、なかなか成長していかないサウルのようになっていないでしょうか。ダビデのようになっているでしょうか。一つ一つの事柄の中に主との出会いを経験し、そこで取り扱われて成長していくダビデのようになっているでしょうか。いったいどちらでしょうか。願わくはサウルのようではなく、ダビデのようにならせていただこうではありませんか。そのためにしっかり主に取り扱っていただきたいと思います。私たちの成長を阻んでしまっているものが、内側にあることをしっかりと自覚して、その部分を主の前に差し出して、取り扱っていただこうではありませんか。そして生きておられる主を意識しながら、この方たに信頼して歩んでいきたいと思います。いつもこの方に出会わせていただこうではありませんか。そして主は本当に生きている、本当に共にいてくださった、そのことを心から告白できる、そのような信仰者へと導いていただきたいと思います。

お祈りをいたします。神様今日のみ言葉ありがとうございます。本当に私達人間の難しさを教えられますけれども、私たちはまだまだ自覚が乏しいかもしれません。どうぞ、その事実に気付かせてください。しかし主のめぐみが用意されています。その主の恵みの主に私達の深いところを差し出して、どうかその部分を癒してください。取り除いてください。解放してください。そして主は生きておられる、その恵を日々味わうことができるように、そのようにして私たちを成熟へと導いて下さいますようにお願いいたします。御言葉を心から感謝して、キスイエスキリストの御名によってお祈りをいたします

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