イエス・キリストをより良く知るために

ナルドの香油

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マルコの福音書14章1~11節

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1月になりました。そしてこれから3月に受難週がやってきます。4月にイースターがやってまいります。これから私たちはしばらくの間、「十字架の道」という題でイエス様がどのような思いで十字架の道を歩んでいかれたか、十字架に向かっていかれたかということについて、マルコの福音書の記事に注目をしていきたいと思っております。

「イエス様は私たちのために十字架にかかって死んでくださった」と、一言で私たちは説明するわけです。そしてそのような説明が可能なわけですけれども、 そう言い表わされる事実の中にどれだけイエス様の想いが込められていたのか、 イエス様はどんな思いで十字架に向かっていかれたのか、私たちのためにどれだけの苦しみを味わわれたのか、それらを思い巡らすことは私たちの信仰の養いのために欠かせないことだと思います。

今日からしばらくイエス様のたどられた道を、私たちも共にたどっていきたいという風に思います。

今日の聖書の箇所は一節の「過ぎ越しの祭り」即ち「種なしパンの祭り」が二日後に迫っていたという1文から始まっております。イエス様が十字架にかけられたのは、過ぎ越しの祭りの時でありましたので、この時がもう二日後三日後、数日後に迫っているということがわかります。さらにその次を読みますと祭司長たちと律法学者たちはイエスを騙して捉え、殺すための良い方法を探していたという風に記されてあります。イエス様にとっては危険極まりない状況がエルサレムにおいて用意されていたということであります。

 

非常に緊迫した雰囲気の中に、イエス様はエルサレムに戻ってこられたということ、そしてそのような背景の中で、状況の中で、今日の出来事が起こったということを心に留めていたいと思います。

(1)マリア

3節を読みたします。

さて、イエスがベタニアでツァラアトに犯された人シモンの家におられた時のことである。食事をしておられると、女の人が純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壷を持ってきて、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。

この日イエス様はベタニアのシモンという人の家で食事をしておられました。その時一人の女の人が純粋で非常に高価なナルド湯の入った小さな壷を持ってきてその壺を割りイエス様の頭に注ぎました。ですからそのお部屋を想像するに、そのお部屋いっぱいにそのナルドの香油の香りが広がっていたという風に思います。


そのナルドのナルドの香油は、その後読むと分かりますが、300デナリ以上もする高価なものでありました。1デナリは1日分の賃金という風に言われておりますので、もしそのナルドの香油を売ったら1年近くは生活ができるという、それだけの高価なものであったということがわかります。

しかもこの女性は壺を割りました。壺を割ったということは、その高価な香油の全てをイエス様に捧げたということを表しています。もし私がこの女性であったならばイエス様の頭に油を注ぐことはあっても、壺は割らなかったかもしれないなと思いました。壺は割らなくても、必要な分だけ壺から取り出してイエス様の頭に注いでも、十分イエス様に対する尊敬を表すことできたと思います。ところがこの女の人はツボを割ってしまった。そのようにして高価なナルドの香油のすべてをイエス様に捧げたということであります。

どうしてこのような行動が生まれたんでしょうか?なぜこの女性は高価な香油の全てをイエス様にお捧げしたんでしょうか?

 

話は変わるんですけれどもルカの福音書の7章の後半部分に、この話ととてもよく似た話が出てきます。こちらの記事でも一人の女性が香油の入った壷を持ってきて、泣きながらイエス様の足を涙で濡らし、髪の毛でぬぐい、イエス様の足に口づけをして、そして香油を塗ったというふうに出てくる。

とてもよく似た記事なので同じ出来事であるかのような印象を私たちは受けやすいのではないかと思うんですが、 これは違う出来事であるということがわかります。マルコが記した、今日いま私たちが読んでいる記事は、イエス様の十字架刑の直前、エルサレムの近くのベタニアという町で起きた出来事であります。

ところがルカが記した記事は、イエス様がまだガリラヤ地方で伝道していた頃の話で、おそらくナインという町がその周辺の町での出来事であるということが考えられる。そしてルカの記事において紹介されている女性についてルカは「一人の罪深い女」という風に記しています。その女性は、街において人々からは蔑まれていた女性、嫌われていた女性、そしておそらく遊女と呼ばれる仕事をしていた女性だったということが考えられる。

 

ですからルカの福音書7章の記事と、マルコの今日の記事は似ているんですけれども、違う出来事であると考えるのが普通かなという風に思います。つまりイエス様は同じような体験を2回しておられたということになります。ルカの福音書の記事の方では、一人の罪深い女が、やはり高価な香油をイエス様にお捧げしたんですけれども、それはどうしてだったか?それは罪深い女のその罪を、全部イエス様が許してくださったからでした。誰からも評価されない、そして多くの人から蔑まれ嫌われていた女性、そしてそれはその女の罪深い生活のゆえだったわけですけれども、しかしイエス様はこの女性の罪の全部を許してくださった。それはこの女性にとって本当に大きな喜びだったと思うのです。誰も理解してくれない、誰もわかってくれない、でもイエス様だけは自分の罪を許してくれた。もうこれはこの女性にとって、もう本当に人生の最大の出会いだったと思いますね。そのイエス様の愛に応えたいというのが、香油を捧げたことの理由だったんではないでしょうか。ですからイエス様の愛に対する感謝の表れでありました。

 

今日のマルコの記事の女性はどうだったんでしょうか?ヨハネの福音書の12章にこれと同じ出来事が記されてあって、平行記事を読みますと、この女性はマルタの妹のマリアであっということがわかります。ベタニアのラザロ、マルタ、マリアの兄弟、その妹のマリアであるということがわかる。この女性がもしマリアであるとするならばそこには死んでしまった兄弟ラザロを、イエス様が蘇らせてくださったことに対する感謝が込められていたんではないかというふうに思うんですね。イエス様はベタニアに行く時にはいつも、このラザロマルタマリアの家を訪ねて親しくしていたということが福音書を読んでいると分かるんですけれども、ある時にはラザロが死んでしまった、病気で死んでしまった。その後イエス様が行かれて、そしてその時にラザロを生き返らせてくださった。その記事がヨハネの11章に出てきますけれども、ですからマリアのこの行為は、イエス様から受けた大きな愛に対するマリアの心からの感謝の印であったということが言えると思います。

 

このマリアの姿は、私たちに信仰って何かっていうこと教えてくれると思います。信仰って何でしょうか?それは私たちを愛してくださったイエス様に対する、私たちの心からの感謝の表明ではないでしょうか。

私たちを命がけで愛してくださった。私たちのために死んでくださいました。尊い命を捧げて下さいました。そのような大きな犠牲を払って、私たちを死から命に救い出してくださった。そのイエス様の愛に心から応答すること、100% イエス様に自らを捧げること、それが信仰ではないでしょうか。

このマリアの姿は私たちに信仰について教えてくれていると思います。

 

私たちの主に対する信仰は今どのような状態になっているでしょうか。主の前でどんな信仰になっているでしょうか。このマリアの信仰になっているでしょうか?

今日私たちはこのマリアの姿から自らの信仰を吟味する時を持ちたいなという風に思います。

(2)イスカリオテのユダ

さてマリアのその行為はそこにいた多くの人たちに驚きと戸惑いを引き起こしたということが分かる。そこにたくさん人がいるわけですね。4節と5節を読んでみたいと思います。

すると何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして彼女を厳しく責めた。

マリアがそこで香油の壺を捧げたその場面を皆見てました。そしてその人たちが心の中には戸惑いが起こって、そして憤慨したって書いてある。そして互いに言いあったそうです。

「何のために香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、300デナリ以上に売れて貧しい人たちに施しができたのに。」

彼らの心に引き起こされた想いは、なんともったいないことか、なんと無駄なことをしているのかという事が一つ、そしてもう一つは貧しい人たちに施しができたのにという思い。この二つの思いであるって言うことがわかる。

そしてこれもヨハネの福音書の並行記事を読むと、このように語った人物はイエス様の弟子の一人の、イスカリオテのユダであったということが分かる。ですからこの場面、マルコははっきり書いてないけれども、ここにユダがいるということが分かるんですね。

でもマルコの記事を読む時に、実はユダだけではなかったということも分かる。「何人かの者が」とここに書いてあるんです。ですからユダだけではなくて何人か他の者たちも同じ気持ちであったということです。もしかするとユダ以外の他の弟子たちがその中に含まれていたかもしれない。そんな彼らがこの女性マリアを厳しく責めたと5節に書いてあります。

 

このイスカリオテユダの反応、彼らの反応を見て皆さんいかが感じるでしょうか?極めて常識的な、もしかしたら私たちでもこういう反応してしまうんじゃないかなという、そういう反応じゃないかなと思うんですよね。

「なんてもったいないことしてるんだろうか」「壺を割らなくてもいいのに」とか、そういうふうに思いやすいところじゃないかなと思うんですね。

またユダヤ社会では貧しい人たちへの施しは聖書で定められている大切な行いでした。先ほど申命記の実言葉を皆さんと読みましたけれども、貧しい人たちに対する施しは神に喜ばれる行為として旧約聖書にて定められていた行いだったんですね。ですからユダのこの非難の言葉の背後には、マリアは聖書の言葉通りにしていない、十分な財産があるにも関わらず、貧しい人にたいする施しもしていないという御言葉に基づく非難が含まれていたということであります。

私たちも時々そんな思いになることがあるんじゃないかなと思うんですね。聖書の理解に基づいて人をさばいてしまうということはないでしょうか。人のことを見てあの人は御言葉通りに全然してないと人を非難したりさばいたりしてしまうことが私たちにはないでしょうか。私達でもそういうことがあるんではないかなという風に思うんですね。

 

ここで一つ確認しておきたいことがあります。ユダは本当に貧しいユダ人たちのことを考えていたんだろうか?貧しい人たちに対する施しを本当に彼は願っていたんだろうか?

ここに貧しい人たちに施しができたのにという風に言っています。この言葉から察するに 、貧しい人に対する思いやりに満ちていた人物だったのかなという感じがするんですけれども、でも実はそうではなかった。

これもヨハネの福音書の12章6節を読むとはっきり書いてあるんですけれども、こういう風に書いてあります。

彼こう言ったのは貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。

 

と、そこに書いてある。信仰的な言葉と振る舞いの裏側に、恐ろしい不正と罪が隠されていました。ユダは弟子たちの会計係でした。でも彼は何とそのお金を着服していたっていうことです。しかもそれにもかかわらずユダは、自分の正しさを主張しているんです。そしてそんな自分の抱えている自己矛盾に気づいていない。

ここに私達信仰者が陥りやすい姿が示されているように思います。それは信仰的な言い方や振る舞いによって自らの正しさを主張し、その一方で自分の罪を覆い隠してしまうという姿。しかもその自己矛盾に気づいていないという姿、自分の中にやましいものを何か感じているからこそ、自分の正しさを必要以上に誇張してしまうという傾向を私たち持っているんじゃないかなという風に思います。

そしてそんな自分の考え方が無視されたり、軽視されたり否定されたりすると、その相手に対する怒りや憎しみが突然起こってきてしまうということが私達にもあるんじゃないかなという風に思うんですね。

 

イエス様はこの後、マリアを高く評価し、その結果としてユダの考えを退けた。そしたらその結果どうなったでしょうか?ユダは何をしたでしょうか?10節と11節を読みます。

さて12人の中の一人であるイスカリオテのユダは、祭祀長たちの所へ行った。イエスを引き渡すためであった。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダはどうすればイエスを上手く引き渡せるかと、その機を伺っていた。

この出来事があった後、ユダの心はイエス様に対する悲しみと怒りでいっぱいになったことが分かる。そしてすぐに祭司長たちの所に行きました。そしてなんとイエス様お金で売ってしまった。「祭司長たち律法学者たちはイエスを騙して捉え殺すための良い方法を探していた」って今日の最初のとこに書いてあった。そこにユーザーがやってきました。なんとイエス様の弟子のユダがやってきました。彼らは大喜び、つまりこの出来事がきっかけでイエス様の十字架に向かっていく道が具体的現実的に用意されてしまった。この出来事が引き金になったっていうことを聖書は記してるわけなんですね。

砕かれない魂は、なんと恐ろしい結果を引き起こしていくだろうかってことを私達ここで教えられる。私たちの信仰はこのユダのような信仰になっていないでしょうか。信仰的な言葉や振る舞いをすることがあります。でもその裏側で自分の正しさを主張し、人を裁いてしまっているようなことはないだろうか。「ユダにはなるまじ」という歌詩の聖歌がありますけれども、知らず知らずのうちに私たちはユダのようになってしまっていることはないだろうか。私たちにとって大事なのは、本当に砕かれた心です。

御言葉によって自分の正しさを主張することではなくて、御言葉によって砕かれるということ、そのような砕かれた魂がどんなに私たちに求められているかって言うことを、このユダの姿から学ぶものでありたいと思います。

(3)まとめ~私達はどちらだろう?

マリアの姿、行為があり、その後のユダたちの反応があります。その両者を見ておられたイエス様は、最後にどう反応されたでしょうか。それを最後に確認したいと思います。6節から読んでみます。

するとイエスは言われた。「彼女をするままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。私のために良いことをしてくれたのです。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望む時いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし私はいつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。彼女は自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、私の体に前もって香油を塗ってくれました。まことにあなたがたに言います。世界中どこでも福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

 

この言葉からイエス様は、ユダの考えではなくて、マリアの信仰を高く評価してくださったということがわかります。イエス様は言われました。「私のために良いことをしてくれたのです。」マリアの行為は常識的ではなかったかもしれないですよね。常識的な判断ではなかったかもしれない。ちょっと非常識に見えるそのような行為だったかもしれない。それゆえにヒンシュクを買ってしまった面があるのかもしれない。でもイエス様にとってはそれは良いことを私にしてくれた。イエス様にとっては、それはとっても嬉しかった。そのように彼女の行為を高く評価して下さって、その後でその行為が自分の場合その備えになったという風におっしゃっておられました。明らかにイエス様はここで自分の死を意識しております。自分がもうあと数日したら十字架につけられて殺されてしまうということも知っていました。それはイエス様にとってどれだけ大きな恐怖、苦しみ、心の負担だったことでしょうか。ところがそういう思いでいるのに、そのイエス様の想いに気付いてる人は誰もいない。誰も理解してくれる人がいないんです。イエス様といつも行動を共にして、イエス様の御業を日々目撃し、イエス様の教えをいつも聞いていた、いつも一緒にいた弟子たちは、イエス様のこの気持ちに全然気づいていない。全然理解できてない。

イエス様は弟子達にちゃんと伝えてるんですね。自分は十字架にかかって死ぬよと伝えてるんです。でも弟子たちは全然そんなこと理解してない。イエス様のその苦しみが誰にも理解されないという孤独の中にあって、マリアのこの愛の行為はどれだけイエス様にとって大きな大きな喜びだったでしょうか。どれだけ大きな慰めだったでしょうか。それが自分の埋葬の準備をしてくれたんだって、そういうふうに評価してくださった。イエス様はユダのような信仰ではなくて、マリアの信仰を喜んでくださった。そのことを心に留めるものでありたいと思います。

 

私たちの信仰はどっちに似ているでしょうか。マリアのようにイエス様の愛をいただいて、その愛に心から答えていくという信仰になっているでしょうか。それともユダの信仰に似ているでしょうか。ユダのように自分の正しさを主張し、自分の正しさにより頼み、人を心の中で裁いてしまっているような、そんな状態になっていないだろうか。私たちはマリアのような信仰を持たせていただこうではありませんか。

 

今年もコロナとの戦いが続きそうですけれども、その中にあって私が一つ心配していることがあります。それはこのコロナの影響が続いていく中にあって私たちの信仰までが萎縮してしまうんではないかっていうことなんですね。緊急事態宣言が発令されました。その中にあって、この後、皆さんにオンラインでの集会に参加して下さいと呼びかけることになるんですけれども、でも正直言いますと私は、心の中にはオンラインを早く止めにしたいなという思いがあります。オンラインによって伝道の可能性が広がりました。そのこと感謝したいと思います。

でもその一方で、この事によってあまり好ましくない影響と傾向が教会の中にもたらされたら困るなぁということも思っているんですね 。今私たちはオンラインの形態にまだ新鮮さを感じている段階かもしれませんが、これが続いていくとだんだん慣れてきます。それが当たり前になっていきます。そうするとオンラインがあることによって教会に来なくても礼拝に参加することができます。教会に来なくても集会に参加することができます。そこでは奉仕をする必要がありません。ただ自分のいる場所にいて、その時間だけで礼拝に参加して、後はそれで終わりにすることができる。

教会との関わりが、神様との関わりが、部分的になっていたり受け身になって行ったり消極的になっていったり、そういう傾向が促進されてゆかないかなって、そういう事を心配するんですね。人間はどうしても楽な方に傾きやすいという面があります。

このことでだんだん私たちの、教会離れ、奉仕離れが加速していくことがないだろうか?そのような現象がもうすでに各地で起こっているという知らせを時々聞くこともあります。

その過程で、私たちの信仰がどうしても受け身的、部分的、消極的な信仰に変質してしまうとしたら、それはイエス様がとても悲しまれることじゃないかなと思ってるんですね。

 

私たちのためにイエス様すべてを捧げて下さいました。命を捧げて下さいました。そのイエス様に自分の全てを捧げるというこのマリアのような信仰ではなく、イエス様の愛に応えていきたいというこのマリアのような生きた積極的な前向きな信仰ではなくて、どこか部分的どこか消極的、受け身的な信仰になってしまうことないだろう?

かそしてだんだん自分の正しさばかりを主張するようなユダのような信仰になってしまうことはないだろうか?

そうならないように私たちは注意深くこの年も歩んで行かなければいけないなという風に思ってるんですね。どんな時代になったとしても、どんな状況にあったとしても、私たちの信仰の原点は変わらないと思います。

イエス様は私たちに何をしてくださったんでしょうか。イエス様がもしおられなかったら私たちはどうなっていたんでしょうか。イエス様がおられなかったら私たちはどうなっていくんでしょうか。そのイエス様のしてくださったその大きな愛に応えていきたい、これが私たちの信仰じゃないでしょうか。

このコロナの状況の中にあって、私たちが信仰の中身さえ見失ってしまうことがないように私たちは注意していきたい。一年の初めに、私たちは今日はこの記事の中にあるマリアの姿を、しっかりと私たちの目と心に焼き付けたいと思います。どうか私たちはこの年も私たちに注がれている、これからも注がれていく神様の大きな愛と恵みを見失ってしまうことがありませんように。そしてその神様の愛に応えていく信仰でありますように。そのような信仰の歩みを目指していきたい。そのような信仰をイエス様も喜んでくださるんです。そのようにしてイエス様に喜ばれる信仰者として1年歩んでいきたいと思います。

 

お祈りをしましょう。

愛する神様、御言葉ありがとうございます。2021年あゆみが始まりました。今年もコロナに対応する日々が続くのだと思いますが、その過程で私たちの信仰の中身が失われてしまうことがありませんように、どうか助けてください。日々私たちに注がれている神様の愛と恵みを味わいながら、そのあなたに心から応えていく信仰でありますようにどうぞみ言葉によって導き支えてください。み言葉を心から感謝しイエス様の御名によってお祈りをいたします。

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