イエス・キリストをより良く知るために

十字架の上で

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マルコの福音書 15章16~32節

 

兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。
それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
 兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。聖書 新改訳2017

1.十字架に向かうイエス

今日はこの聖書の箇所から、「十字架の上で」という題で説教がたりしたいと思います。今日の箇所は、ポンテオ・ピラトによって十字架に引き渡されたイエス様が、いよいよ十字架に向かって行かれる場面、そして実際に十字架に付けられる場面です。16節から23節までに十字架に向かっていかれるイエス様の姿、そして24節ではイエス様は十字架につけられますけども、それ以後はイエス様の十字架上での姿が記されています。
今日の箇所全体を通して見てみる時に、その内容は十字架につけられる前も、十字架につけられた後も、イエス様は様々な苦しみを味あわれたということであります。今日の箇所は、是非皆さんが、自分がイエス様の身になったつもりで、この箇所を味わっていただけたら良いのではないかと思っております。16から20までをもう一度お読みいたします。

兵士たちはイエスを中庭に、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着て茨の冠を編んで被らせ、それからユダヤ人の王様万歳、と叫んで敬礼し始めた。また葦の棒でイエスの頭を叩き、唾をかけ、跪いて拝んだ。彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて元の衣を着せた。それからイエスを十字架につけるために連れ出した。

イエス様はまず、ローマ軍の兵士たちに紫の衣を着せられ、茨の冠を被らされ、ユダヤ人の王様万歳と叫び、その叫びとともに敬礼されたっていうことを経験されました。彼らはイエス様を王様のように仕立てて、馬鹿にしているということがわかると思います。その後、葦の棒でイエス様の頭を叩いて、さらに唾をかけ、その上でひざまずいて拝んだ、というふうに記されてあります。そしてイエス様をからかって、元の衣を着せた上で十字架を担がせ、ゴルゴダの丘まで歩かせようとした。まずローマの兵隊たちに散々ひどい目に遭ったということがここに記されていることであります。続けて21から23も読んでみます。

兵士たちは通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンデルとルポスの父で、田舎から来ていた。彼らはイエスをゴルゴダというところ、100ストドクロの場所に連れて行った。彼らは没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。

ゲッセマネの園でイエス様が捕らえられた後、イエス様そのまま祭司長の家に連れて行かれて、そこで裁判が始まりました。そしてその後、今度はピラトのもとに引き渡されて裁判が続いて行きました。ですからイエス様は、おそらく一睡もしておられなかったと思います。さらに鞭で打たれましたので、体中が傷だらけで、血だらけになっていたというふうに考えられます。寝不足と衰弱した体で、重い十字架を背負うのは到底無理なことだったと思います。おそらくイエス様、最初は十字架を担ぎながら歩いていたんだと思うんですが、何度も倒れたんじゃないかという風に想像いたします。そこで兵士たちは通りがかりのクレネ人シモンという人に、イエス様の十字架を無理やり背負わせたということがここに出てまいります。
話は少し逸れるんですけれども、ここでこのクレネ人シモンという人物は、アレクサンデルとルポスの父であったとここに記されてあります。このアレクサンデルとルポスなる人物が、どのような人物であるのかは、私たちには全く分かりません。全く分からないんですけれども、おそらくマルコの福音書が記された、この時の最初の読者はこの二人のことをよく知っていたんだと思います。名前を聞けばすぐわかる人物だったんだと思います。おそらくこの二人は、初代教会のクリスチャンだったと、メンバーだったというふうに考えられます。イエス様の代わりに十字架を担わされたクレネ人シモンは、その後イエス様を信じる者とされたのかもしれません。そしてその息子たちに、信仰が与えられていったのかもしれない。これは想像の域を出ないんですけれども、このシモンという人物と、その家族はきっと祝福されていったんじゃないだろうか、というふうに考えられます。イエス様の十字架を無理やり背負わされるというこの経験は、その時には大変な災難に感じられたかもしれませんけれども、その経験を与えられたことを通して、この家族、このシモンと家族は大変大きな祝福を神様から与えられていったんではないだろうかという風に考えます。
そのようなことがありましたけれども、いずれにせよイエス様は、その後自分の処刑場である、自分の死ぬ場所である、ゴルゴダの丘に到着されます。兵士たちはイエス様の苦痛を軽減するために、没薬を混ぜたぶどう酒をイエス様に与えようとしました。この節を見ると、ローマ兵にも少し憐れみの心があったんだなという感じがします。ところがイエス様は、それをお受けにならなかった、とここに記されてあります。イエス様はまるで十字架刑の苦しみの全てを、そのまま味わい尽くされ、尽くそうとしていたかのように、その断ったということが感じられる箇所だな、という風に思います。

2.十字架上のイエス

そのようにしてイエス様は、いよいよ十字架につけられていくことになります。24から読んでみます。

それから彼らは、イエスを十字架につけた。そしてくじを引いて、誰が何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。彼らはイエスを十字架につけたのは午前9時であった。イエスの罪状書きにはユダヤ人の王と書いてあった。彼らはイエスと一緒に二人の強盗を一人は右に、一人は左に十字架につけた。

ここでまさにイエス様が十字架につけられる場面が記されています。イエス様は手を釘で打たれて十字架につけられました。午前9時のことだったとここに書いてあります。それから約6時間、午後の3時までイエス様は、この激痛を味わい続けたということになります。罪状書きにはユダヤ人の王と記されてありました。そして二人の強盗が、イエス様の右と左に一人ずつ一緒に磔にされた、ということもこの箇所を通してわかります。29節から読み進めていきます。

通りすがりの人たちは頭を振りながら、イエスをののしって言った。おい、神殿を壊して三日で建てる人よ、十字架から降りてきて自分を救ってみろ。同じように祭司長たちも律法学者たちと一緒になって代わる代わる、イエス様を嘲って言った。他人は救ったが自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。また一緒に十字架につけられていた者達も、イエスを罵った。

様々な人たちが、イエス様のことを、十字架につけられてるイエス様のことを見上げながら、みんなそれぞれイエス様を罵ったり、嘲ったりしている場面が、そこにずっと記されているなという風に思います。
まず初めに、通りすがりの人々が頭を振りながら、イエス様を罵ったという風に記されてあります。頭を振るという表現が、旧約聖書を読んでいると時々出てくるんですけれども、これはみな、人を激しく罵ったり嘲ったりする時の人のポーズであるということがわかります。非常に激しく、彼らがイエス様を罵ったということの表れであります。そして、「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りてきて自分を救ってみろ。」非常に攻撃的な言葉だったという風に感じられます。
イエス様の十字架刑を企んでいた、祭司長たちや律法学者たちもやってきました。そしてイエス様に向かって、やはり言いました。「他人は救ったが自分は救えないキリスト、イスラエルの王に、今十字架から降りてもらおう、それを見たら信じよう」っていう風に彼らは言ってますけども、彼らはイエス様を信じる気持ち全然なかったと思います。でもこのように語って、イエス様を嘲ったということがわかります。
さらにイエス様と一緒に十字架につけられた罪人たちまでもが、イエス様を罵ったということが、32節最後に出てきます。その言葉は、「お前はキリストではないか。自分と俺たちを救え」、というそういう言葉だったということが、ルカの福音書の23章39節を見ると分かります。キリスト、つまり救い主であるくせに、自分も救えない。俺たちも救えない、と皮肉まじりに罵ったということが分かる言葉です。このようにイエス様も、ただでさえも釘で打たれて、もうそこに全部の体重がかかって、もう本当に激痛に耐えておられたわけですけれども、それだけではなく、精神的にも本当に様々な辱めを受けたということがわかります。肉体的な苦痛だけでなく、精神的にも本当に苦しんで様々な人々から嘲られました。ローマの兵士だったり、群衆だったり、通りすがりの人々だったり、祭司長や律法学者たちだったり、そして一緒に自分と一緒に磔になっている罪人さえからも、侮辱され嘲られ罵られたということであります。
イエス様は本当に十字架から降りてきて、自分を救うことできなかったんでしょうか。そのように人々から罵られていますけれども、本当にできなかったんでしょうか。おそらくできたんじゃないかなという風に思うんです。しかしイエス様は、それをあえてしませんでした。あえてしないで、むしろその全ての苦しみをそのまま受け止められたということであります。
他の福音書を読んで、総合的に考えるとイエス様は、実は十字架の上で7つの言葉を語っておられることがわかります。十字架の上から、自ら十字架につけた人々、罵ってる人々に向かって彼らの罪をお許しください、と祈っている。そういうことも分かる。ただマルコの福音書においては、そのほとんどが省略されております。そしてその代わりに、一連の苦しみをひたすら受け止めておられる、イエス様の姿というものがここで強調されております。これだけの苦しみを皆さんが受けられたと想像してみていただきたいなと思います。皆さん頭を棒で殴られたり、唾をかけられたり、馬鹿にされたりした時の事を想像してみて欲しいんですね。その上で、十字架を担がされ、歩かされ、そして十字架に磔になって、さらにその上で馬鹿にされたり、中傷されたり、罵られたりした時のことを少し想像してみてほしいんですね。皆さんだったら、この苦しみに耐えられるでしょうか。とても耐えられない苦しみではないだろうかという風に思います。しかし、本来これは私たちが味わわなければならなかった苦しみである、ということを私たちは忘れるべきではないんではないでしょうか。本来これは私達が受けなければならない体験だったということを、私たちは覚えながら、この聖書の箇所を読む必要があるんではないでしょうか。そのすべてをイエス様が代わりに受けてくださったという、その恵みを私たちは忘れないようにしたいという風に思います。

3.人間と同じようになられた

3月11日を先日過ごしましたけれども、東日本大震災より10周年という節目の時でありました。私たち夫婦は3月11日の夜に、岩手協会ネットワークの第10回3.11集会、という集会がオンラインで開かれまして、それに参加する機会を与えられました。大震災後10年経った、この10年の歩みを振り返る、そういうひと時。岩手県の協会によって主催された集会でした。かつて岩手に行った時に、一緒に慰労した仲間達と画面で、オンラインで再会することができてとても嬉しかったんですけれども、その中で北海道から駆けつけ、震災後の約1年半を岩手県の宮古市に引っ越してこられ、被災地の方々に丁寧に関わって下さった、一人のご婦人が証をしてくださいました。最初その姉妹は、北海道からボランティアの一人としてやってきたそうで、その時に三陸の街々が津波によって破壊されている光景を目の当たりにして、大変大きな衝撃を受けた、ということでありました。
そして、このような体験をされたんだそうです。ある被災者の方のお宅に入って、ボランティアの他の人たちと一緒にガレキの後片付けをしていたそうです。なるべく早く終わるようにと、一生懸命その作業を行ったんだそうですけれども、終わった後でその家の主人から、そんなに急いで片付けて欲しくなかった、という風に言われてしまったということなんですね。その家はその主人にとって亡くなられたご家族と一緒に暮らした思い出がたくさん詰まっていた。そういうお宅だったそうで、急に片付けられてしまう事に、非常に大きな悲しみを抱かれたっていう、そういうことだったそうです。その話を聞いて、そのご婦人は本当に申し訳ないことをしてしまったと反省をされたんだそうです。そして、たとえ外から来た者にとってはガレキに見えたとしても、そこで生活していた人々にとって、それは決してガレキではなくて、思い出がたくさん詰まっている大切な大切な所有物であるっていうことに気づかされたんだそうです。そして、たとえ善意であったとしても、自分の思いだけで行動してしまう時に、相手を傷つけてしまうっていうことがありうるんだっていうことをその時学んだと、そのように、その姉妹は話しておられました。そしてそのご婦人は、被災者の方々の心の傷の深さってものをその時に感じて、その後被災地に留まる決心をされて、北海道から引っ越して来られて、一年半被災地の方々の友達となられて、そこに住まわれて、丁寧に関わってくださった。本当に良い働きをしてくださった。その姉妹のお証を聞かせていただきました。
私も被災地に何度も通ったことがあるんですけれども、似たような経験をしたことがあります。ある時、じゃがいもとか人参とか玉ねぎとかたくさんの野菜が教会に届いたことがありました。私はそれを小分けにして袋にいっぱい詰めてですね、それを被災地まで持って行って陸前高田の仮設住宅一軒一軒訪ねていて、配ったことがあります。ところが小分けした野菜を全部のお宅に届けることができないで、途中で終わってしまったことがあったんですね。その次に行った時に、その仮設住宅の方から言われてしまいました。その包みを貰えなかった方々が、とても悲しい気持ちになられた。そしてその包みをもらった方がたも、とても申し訳ない気持ちになってしまった。私の届けた善意によって、結果的には被災された方々の大変な迷惑になってしまった、ということを後で知らされて非常に私も反省を致しました。その時をきっかけに仮設住宅訪問するときは、そこに何世帯住んでいるか、ちゃんと調査してから行くようになりました。人を助けたいという気持ちを持っていました。被災者の方々に何とか力になりたい、という善意は持っているつもりでした。しかし、私の配慮の無さ、理解のなさのゆえに、現地の人々を苦しめてしまうことが何度もあったようです。自分自身の力不足を感じさせられ、そして本当に人を助けることの難しさというものをその時に経験したように思います。考えてみると、一番の原因はやっぱり被災者の苦しみを自分は完全に理解できていない、ということ。被災者の側に自分が完全に立てていないということ。支援活動が人に仕えているようで、実はどこかで自己実現や自己満足の手段になってしまっているということ。人に仕えているように見せて、実は自分の栄光を求めているようなところがあるんではないだろうか。自分の非常に小ささと限界というのを、次第に感じさせられていく。そういう体験だったなという風に思わされました。

でも、そこでいつも思い出すことがありました。それはイエス様のことなんですね。イエス様は、どんな方だっただろうか。イエス様は神の御姿であられたのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を虚しくして下僕の姿をとり、人間と同じようになられたと、ピリピ書2章6節7節に書いてあります。神のみ姿であられた方が、人間と同じようになられたと、聖書は私たちに教えています。人間と同じになるって言うのは、人間と同じ罪人になったという意味ではありません。罪は犯されなかったけれども、罪ゆえの苦しみの全てを味わい尽くしてくださったということであります。
以前ボランティアの青年たちがたくさん応援に来てくださって、水沢の教会に泊まっていってですね、そして朝ボランティアの青年たちを送り出したことがありました。被災地で活動するわけですから、彼らは動きやすい格好をしてですね、運動着とかジャージとかそういうの着てですね、出かけて行ったわけですけれども、1日の働きを終えて戻ってきた時に彼らは全身泥だらけでした。津波が入ってしまった家の泥のかき出しを一日中してきたそうで、戻ってきた時は、朝行った時はきれいな服装しておりましたけど、戻ってきた時は真っ黒だったんですね。そんな彼らの姿を見た時に、その彼らの姿に私はイエス様を感じました。
イエス様もかつては神の御姿であられた、神としての清い聖なる御姿を持っておられた。しかし、その方が罪に汚れたこの世に来てくださって、人間の罪の全てを背負って、泥だらけになってくださったんではなかっただろうか。そんなことを思ったんですよね。そして、そんな彼ら、青年たちを見ながらですね、自分も限界を思い知らされながらも、でもイエス様のようになりたい。イエス様のようにしていただきたい、そういう祈りが生まれてきたように思います。
コリント人への手紙の第2の5章15節にこういう御言葉が記されてあります。今日の週報の右側にも掲げてありますので、そちらをご覧になっていただけたらと思いますけれども、こういう言葉があります。

キリストはすべての人のために死なれました。それは生きている人々がもはや自分のためにではなく、自分の為に死んで蘇った方の為に生きるためです。
こいうふうに聖書で教えられています。イエス様が十字架にかかって死んでくださったのは、もちろんわたしたちの罪を赦して、私たちを罪の支配から解放してくださるためでしたけれども、それゆえに私たちの罪を許されて、本当に神の裁きから解放された。本当にその恵みが与えられました。

でも今日の聖書の御言葉を通して、それだけではないんだなっていうことも教えられるんですね。
それは私たちがもはや自分のためではなく、自分の為に死んで蘇ってくださった方の為に生きる。そのためにイエス様はこの世に来てくださって、私たちに仕えてくださって、私たちのすべての苦しみを担ってくださって、十字架にかかって死んでくださったんだっていうことを、私たちは聖書を通して教えられるんではないでしょうか。
私たちは今、誰のために生きてるでしょうか。何のために今、私達は生きてるんでしょうか。私たちに今、命が与えられて今、生かされていますけれども、それは何のためなんでしょうか。もしかしたら、自分のためでしょうか。自分の満足のためでしょうか。それとも、私たちのために死んでくださったイエス様のために、私たちは生きてるんでしょうか。救われる前はもちろん、自分のために生きてたと思います。私たちみんな。イエス様はまだ知らない時は、みんな自分のために生きてたと思います。
でも救われた後の今はどうでしょうか。救われた後もなおも自分のために生きているということになっていないだろうか。ぜひ私たちは、私たちのために本当に自分が本来受けなければならなかった苦しみのすべてを担って、私たちの身代わりとなって死んでくださったイエス様。その方のために生きるものとなろうではありませんか。
今、コロナの影響下で、本当に多くの人が苦しんでいると思います。コロナの影響がもう色んな所に及んできていて、本当に行き詰まっている人、悩んでいる人、先が見えない人、たくさんいらっしゃるんじゃないかなと思うんですよね。東日本大震災の時、あれは東北地方が中心だったかもしれませんけども、コロナはもう全世界の問題になりました。日本中の世界中の人々が直面している課題になりました。ですからもう、みんな私たちの問題だと思いますよね。そのような人々が私たちの周りにも私たちの家族の中にも、もしかして教会の中にもいらっしゃるかもしれない。それ、私たちにとって他人事なんでしょうか。自分とは関係のないことなんでしょうか。主は私たちに何を期待しておられるんでしょうか。私たちの重荷を担ってくださったイエス様のように、私たちも本当に互いの重荷を担い合い、互いに仕え合うものでありたいなという風に思います。
でも同時に、自分の力ではとてもできないですね。自分の力では、人の重荷を担うこともできません。人に仕えることもできません。人を愛することもできません。自分の力でできると思っていたら、それはうぬぼれだと思います。とてもできません。もう自分は本当に力がない。でもそこにイエス様、おられるんじゃないでしょうか。そこに主が共にいてくださるんではないでしょうか。主がその重荷を共に担ってくださるんではないでしょうか。
ですから私たちは、本当に私たちのために死んでくださった。そのイエス様をしっかりと受け止めて、この方に信頼して祈りつつ、主の御心に沿って歩んでいこうではありませんか。主のたどられた足跡、私たちも一歩一歩辿っていくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。本来私たちが受けなければならなかった悩み、苦しみのすべてを主が担ってくださって、身代わりとなって十字架にかかってくださった恵み覚えて心から感謝いたします。だから私たちが、その主の模範にならって、本当に主の御心に沿って歩んでいくことができますように、救われた後もなおも自分の幸せと栄光を求めて生きてしまってるような私たちをお許しください。どうか私たちのために死んでくださったイエス様のために生きることができるように、でもまだまだ力不足であります。本当に自分の力では人を愛することができません。でもそのために主は、私たちに模範を示して下さり、また共に歩んでくださる恵み覚えて感謝します。その主の宮と私たちは一歩一歩信仰を持って祈りつつ、歩んでいくことができるように、どうか助けてください。今、本当に試練の中に置かれている方々、苦しんでいる方々に少しでも私たちが寄り添うことができるように、助け導いてください。御言葉を心から感謝します。尊き主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。しばらく黙祷しましょう

 

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