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聖書が教える「牧師」とはどんな人?テモテへの手紙第一3章1~13節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
聖書が教える「牧師」とはどういう人なのでしょうか?

「牧師」ということばは、新約聖書に余り出てきません。エペソ4:11に「キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。」と、あります。Ⅰテモテ3:1に「監督」ということばが出て来ます。これは簡単に言いますと、現在の私たちが理解している「牧師」のことと理解して良いでしょう。そこでこのⅠテモテ3章から「牧師」について学んでみましょう。

1.神様の召命があること

1節にありますように、「監督」(牧師)の職は、「立派な働き」です。この「立派な働き」と訳されている言葉は、テトス書で話しました「良いわざ」(カラ エルゴ)と同じ言葉です。どうして「立派な働き」なのか、と言いますと、この働きは神の民(クリスチャンたち)を霊的にも、物質的にもケアし、育成する働きだからです。又、この働きは、人間的な好みや願いで志願してする働きではありません。パウロが使徒20:28でエペソ教会の長老たち(牧師たち)に「神がご自分の血を持って買い取られた神の教会を牧させるために聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」と言ったように、「監督」(牧師)は聖霊によって「神の教会を牧させるために」立てられた人なのです。

つまり牧師は神様によって召された者、神様によって神様の教会の働きのために立てられた者です。

この神様の召命があることが牧師として働く時に重要です。牧師となる個人が神様からの召命の確信を持っているかどうか、また、教会も牧師の召命の確信を受け入れることが出来るかどうかが問われなければなりません。牧師、及び教会の人々がこの牧師の働きへの召命について検討する時に、2節以下に書かれている資質が考慮されなければなりません。

2.監督(牧師)の資質はどんなものでしょうか?「非難されるところが無い人

「非難されるところが無い人」。これは誤りがない完全な人と言うことではなく(もしそうでしたら、誰も牧師にはなれません。)むしろ社会生活の中で、社会的にも道徳的にもその人の言動が受け入れられないで、社会一般の人に非難されるようなことをしない人、と言うことです。どういう面で非難されないのか、とパウロは以下に10点を挙げています。

1.「一人の

これはもちろん一夫一婦制を言っていますが、牧師がエペソ5章で教えられているような夫婦関係にあることを示しています。

牧師夫婦が同じ家にいても別居状態というのもダメです。様々な理由があるにしても、長期に別居しているのも牧師としてふさわしくないことでしょう。しかし、「一人の妻」と言うのは独身者を排除しているのではありません。離婚者、再婚者については意見が分かれていますが、その人の状況、事情を慎重に調べ検討する必要があるでしょう。

2.「自分を制し、慎み深く、礼儀正しい

自制は御霊の実の最後、9番目の実です。この実はある意味で御霊の実すべてに関わっている実とも言うことが出来ます。

牧師にはこの自制が必要です。この自制が自分の内側に現れると、「慎み深さ」となり、対人関係に現れると、「礼儀正しさ」になります。

また人がいる所でも、いない所でも自分をコントロールすることは一番難しいことです。自分の力ではできません。ですから聖霊にお願いし、聖霊の力の助けによってコントロールして頂くのです。そう言う意味でも御霊の実なのです。

3.「よくもてなす

このことばの意味は、見知らぬ人、外国人、旅行者、寄留者をも愛し、暖かく迎え入れる、ということです。

教会にはいろいろな人が来ます。牧師はそのようないろいろな人をキリストの愛をもって受け止めて行きます。

4.「教える能力がある

牧師の資質の中で一番大切だと思われることは、この教える賜物があるかどうか、ということです。牧師が教えるのは神のことば、聖書のみことばです。日本は仏教、儒教の影響が強いからでしょうか、牧師の中には、礼拝説教は「良いお話」や自分の言いたいことを話すことと勘違いや誤解している人が少なくないです。

が、牧師のすべきことは、神のことばを説き明かすことです。礼拝説教は道徳的な教訓話や社会問題を解説するような時事話や面白おかしい話ではなく、聖書のことばの意味を説き明かすことです。礼拝に来た人々は神様のことばを聞き、それを理解して神様からの自分へのメッセージを受け取り神様ご自身を礼拝するのです。ここが礼拝と集会の違いです。

5.「酒飲みでない

日本の福音的なクリスチャンたちはこの面で余り問題がないようです。しかし、牧師たちの中には仕事のストレスに耐えられず、酒でストレスを解消しようとする人がいます。そしてアルコール依存症になってしまう人もいます。

6.「乱暴でなく、柔和で、争わない

牧師の気質、性質は柔和、穏和であることです。柔和は御霊の実の8番目の実です。聖霊の働きで私たちの中に柔和と言う実が結ばれてくると、私たちは温和な人に変えられて行き、乱暴で無くなり、他人とむやみに争うことも無くなります。

7.「金銭に無欲

教会内で良く起こる問題は、性的な問題と会計上の不正です。金銭的な問題、例えば、牧師が献金を無断で借用したとか、盗んだとか言った問題です。また、牧師が必要以上にお金を要求したり、献金のアピールを繰り返し、強要したりする問題です。パウロはこの後、6:9~10でこのことを改めて教えています。

8.「自分の家庭をよく治める

パウロはここで教会を神の家族と譬えています。ですから自分の家庭を治めることが出来ない人は牧師として神の家族を治めることが出来ない、と教えるのです。

この「治める」と言うことばは、リーダーとして治め、又、ケアすることです。牧師が自分の家庭をきちんと治めることやケアすることが出来ないならば、当然神の家庭である教会を治め、ケアすることはできません。家庭を治めることの中には、夫婦関係のみならず、キリスト中心に家庭生活を送るという「監督」(牧師)ことが含まれます。具体的な事として、多くの牧師家庭が悩まれることの一つは子供たちの育て方、教育でしょう。神を否定する社会、学校の中で子どもを育てて行くというのは、並大抵のことではありません。私が勧めるのは、先輩の牧師たちや宣教師たちの実例から学ぶことです。また、牧師夫妻(父母)にとって神様第一に生きることがどれだけ重要なことなのか、ということを家庭生活の中で子供たちに示すことも大切なのではないかと思います。

9.「霊的な成熟

牧師は信者になったばかりの人であってはいけません。牧師になるには信じてから何年、と決まってはいませんが、霊的にも、人間としても成熟した人になっていることが求められます。なぜなら未成熟でしたら教会の霊的責任を十分に負うことができません。その上、高慢に成り易いからです。自分は牧師になった、と牧師として尊敬される立場(Ⅱテサ5:13)を間違って使うようになる残念な牧師もいます。悪魔は神の前に高ぶり、自分を神とした高慢によって神にさばかれました。牧師もいつも高慢にならないように注意しなければなりません。牧師はイエス・キリストの模範に従い、へりくだり、謙遜な生き方、しもべとして生きることです。また、神様の前に謙遜になり、個人的なデボーション、神に献身した生活、神にいつも信頼して生きる信仰、神に常に従順に生きる生活をするのです。

10.「教会外での良い評判

牧師は教会内でも教会外でも評判の良い人でなければなりません。気がつきにくいですが、教会外の人々は、教会のことをいろいろと関心を持って観察しています。牧師や牧師家族及び教会員の行動が悪かったり、誤解を生むようなものであると、つまずいたり、教会の悪い評判が広まります。それによって福音が人々に「嘲られ」てしまい、人々はキリストから遠ざかって行ってしまいます。

 

このような資質が牧師には問われます。私たちは弱く、不完全な者ですが、御霊の力によってこれらの霊的必要に対応してゆくことが牧師に求められることです。

 

 

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