イエス・キリストをより良く知るために

異邦人との平和・・・エペソ書2章14節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。


教会は素晴らしいところです。どうして素晴らしいかと言うと、やはりこの世では味わうことのできない経験をたくさんできるからだと思います。教会はキリストの体です。そして神のみ住まいです。私たちは教会でキリストと交わり、神と出会います。

それによって私たちの心は満たされる。これはこの世ではなかなか経験できないことではないかと思います。しかもそれだけではないですね。目に見えないところで私たちの心が満たされるだけではなく目に見えるところにおいても、私たちは大きな変化を与えられていきます。私たちの生き方やまた私たちの人格も変えられていきますね。このことはエペソ2章の10節で学びましたけれども、私たちは良い行いをする神様の作品としてイエスキリストによって作られていくということが書かれてありました。それまでは、自分のために生きていた私たちが、神のために生きるものに変えられていく、そのような変化が教会で起こるんだ、そういうことを私たちは学んだ。
そして私たちの人間関係が変わっていきます。これが今日のテーマになります。

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それまで憎みあってた二人、気まずい関係だった二人が、平和を与えられる、二人の間に平和が訪れる、これもまた教会の中で私たちが与えられるめぐみということになります。
教会は一面では人間の集まりですのでいろんなことが起こります。そして時々教会につまずいてしまうということもあります。でも、それでも教会は素晴らしいところだと言いたいと思いますね。なぜならばここにキリストがいるからです。ここでキリストと出会うからです。そしてここで本当に私たちがキリストと出会ったら、そこには平和が生まれるんですね。そういう大きな変化は、この世では決して交わることのできない恵なんですね。それがこの教会で味わわれていくんだということを今日はともに覚え合っていきたいと思います。

1.キリストこそわたしたちの平和です。

14節の御言葉に注目してください。この手紙の著者のパウロは、14節の冒頭でこう語っております。「実にキリストこそ私たちの平和です」。こう語っております。「キリスト」という言葉が強調されていることが分かると思います。まさに「キリスト」こそが平和である。そしてキリスト以外には平和は考えられないというくらいの強調がここにあるということが分かると思います。
どうでしょう?多くの人はこのパウロの主張に反発か、もしくは違和感を感じるんではないだろうかと思いますね。別にキリストがいなくても、別にキリストに頼らなくても、平和は実現できると考えるんではないでしょうか。あるいはそう考えたいんではないでしょうか。

今年も広島や長崎で、平和宣言が発表されました。そして沖縄においても、平和運動が活発になされております。そして私たちも皆平和を願います。この(8月)一か月は特にそういう季節だったと思いますね。いろんなテレビを見たり、いろんな新聞を読んだりして、本当に平和の尊さが、そこで教えられております。それは本当に尊い願いでありますね。みんなの願いだと思います。でも多くの場合、私たちの考える平和は非常に表面的な平和であることが多いんではないだろうかと思いますね。人間の罪の問題があまり真剣には考えられていないように感じるからであります。私たちが平和を願うとき多くの場合人間の罪の問題が曖昧にされているんではないでしょうか。どっかに置き去りにされているんではないでしょうか。その上で平和というものを願うことが多いんではないかなという風に思います。
ですからとても尊い願いなんですけれども、でもそれは非常に表面的な願いということになるんではないでしょうか。
私たちが平和を考える時にはまず、人間の罪の問題から考える必要があります。人間の罪深さから始めなければならない。そうでなければ根本的な解決にはならないからであります。
私たちは普通否定的な話は好まないですね。積極的前向きな話が大好きです。よって平和について考えるときも、出発点を間違ってしまうことがあるように思います。
もし私たちが上を目指したいのであれば、まず私たちは下に降る必要があります。神の愛を本当に知りたいのであれば、私たちの罪の問題からまず始めなければいけません。
平和を本当に待ち望んでいるのならば、救いようもないくらい堕落している自分の罪人としての姿を見つめるところから始めなければならない。そしてその部分に、解決をもたらすことができるのは人間ではないんですね。その部分に解決をもたらすことができるのは、キリストだけなんです。だから「キリストこそ私たちの平和である」ということを覚えたいんですね。
この「こそ」というところがとっても大事ですね。

なぜ「キリストこそ私たちの平和」なんでしょう?それはキリストにしか解決できないくらい深刻な問題を 、私達一人一人がみんな持っているからなんです。それを解決できるのはイエス様だけですね。十字架にかかって死んでくださった、私たちの罪を全部背負って十字架にかかってくださったイエス様だけが、解決できる。だから「キリストこそ私たちの平和」であるということを是非私たちは心に留めたいと思います。

2.キリストはどのようにして私たちに平和をもたらしてくださるんでしょうか?

さて「キリストこそ平和である」ということなんですが、具体的にキリストはどのようにして私たちに平和をもたらしてくださるんでしょうか。そのことを御言葉からともに学んでいきたいと思います。
今日のみことばから聖書の言葉から三つの段階があるんだなということを教えられます。

(1)私達の罪を認めそれを取り除く

まず第一は、私たちの内側にある罪をはっきり指摘し、それを取り除くこと。
今言った通りですけれどもね、まず上に上がるためには、下に降らなければいけませんね。私たちの内側に何があるのかということが明確に指し示され、それが取り除かれなければならない、これが平和を求める時の第一段階であるということを今日教えられることであります。

14節15節と読んでみたいと思います。14節「実にキリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定からなる戒めの律法を廃棄されました」こう記されてあります。
平和というものは二つのものを一つにすることですよね。それまで互いにいがみ合ってケンカしちゃってた二人が、仲直りすることですよね。それが平和ですけれども、でもその平和を私たちが待ち望み本当に願うのであれば、それを阻んでいるところの問題が意識され、それが取り除かれなければならないということであります。

そしてその平和を阻んでいるものとは何でしょうか?それは「隔ての壁である敵意である」とパウロはここで教えております。「敵意」という言葉がここで使われておりますね。どんなに相手と仲直りしたいと思っても、もし自分の中にその相手に対する敵意というものがあるとすれば、その関係は長く続かないんじゃないかなと思いますね。一時的には何とかやりくりできたとしても、何かあった時にすぐ壊れてしまう脆いものではないだろうかなと思いますね。
その「敵意」とは「隔ての壁である」という風にここに記されてあります。ここでパウロが意識しているのは、ユダヤ人と異邦人の関係であります。パウロの伝道によって、最初はエルサレムを中心にユダヤ人に広まった福音が、異邦人にも広められるようになりました。多くの異邦人、つまりユダヤ人ではない人たちも、イエス様を信じて救われましたね。そして異邦人世界に色んな所に教会ができていって、エペソの教会もそのような教会の一つだったわけですけれども、そこで一つ問題が起きましたね。それはユダヤ人と異邦人の対立が起こるっていうそういう問題であります。
イエスキリストによって救われた者同士なのに、イエス様によって救いの恵みに預かったもの同士であるのに、ユダヤ人と異邦人の対立が、しばしば教会の頭を悩ませる問題であったということでありますね。両者は宗教的にも感情的にも長い間、敵対する関係でありました。相手に対する不信感・嫌悪感・憎しみが、両者の間に目に見えない大きな壁を作り上げて言ったということであります。そしてその壁を、どうやって作ってたんでしょうか?どのようにして作り上げていったんでしょうか?不思議なんですけれども、彼らは「律法の戒めを守ること」によって、そういう壁を作り出したということが、ここを読むとわかることなんですね。ちょっと不思議ですね

律法というのは神様のみ言葉ですね。御言葉を大切にすることによって何で壁ができてしまうんでしょうか?ちょっと疑問に感じるようなところではないでしょうか。律法という言葉がここに出てきますけれども、「律法」とは何でしょうか?それは神様がイスラエルの民を祝福するために、イスラエルに特別に与えてくださった祝福でした。そして15節に記されてあるように、律法は様々な規定から成り立っておりました。神様に生贄を捧げる時には、牛か羊のオスの、傷の無い小さいものを、捧げなさいよとか、あるいは穀物の捧げものをする時には、塩で味付けをしなさいよとか、あるいは安息日には仕事をしてはいけませんよとか、いろんな決まりがあるんですね。特に旧約聖書のレビ記というところ読むと書いてありますけれども、そういういろんな規定があったわけですが、それらの律法は、実は神様がイスラエルの民を祝福するために備えてくださったものでありました。

それらの規定は、彼らが大切に守ることによって、彼らが神様から祝福を受けるため、そしてその祝福をイスラエルの民から全世界のために届けさせるということが、神様の願いであり計画だったわけであります。ですから神様がそのことを考えた時、律法をイスラエルのためにくださった時には、神様の中にはユダヤ人と異邦人の間に壁ができるなどという考えを全くしていないんですね。そういう発想は全くないんです。むしろユダヤ人を通して、イスラエルの民を通して、全世界が祝福されますように、それが神様の願いであり、期待だったわけであります。ですから律法というのは、元々は祝福だったんです。

ところがイスラエルの民はその神様の御心を完全に無視して、その律法を自分勝手に解釈し、自分達のためだけに受け止めてしまった。自分達は律法を持っているから特別なんだ。自分達は立法を守っているから聖いんだ。そして律法を持っていない異邦人の民をひたすら軽蔑し、汚れた民として見下すようになってしまった。そしてその両者の間に隔ての壁を作り上げて、そしてその中で、相手に対する敵意を膨らませていた、そういうことになったということが言えるわけであります。

これは当時の昔の話なんですけれどもでも、よく考えてみますと私たちもよくやっていることではないだろうかと思います。

全てのものは神様から祝福として与えられたものですね。水も空気も、この資源も、そして私たちに与えられているこの体とか、知識とか、才能とか、全部神様から与えられた祝福ですよね。それはもう本当に神様に感謝して、神様のために、人に仕えるために用いるべきものなんです。
ところが私たちは自分勝手なので、与えられたものを感謝するんではなくて、むしろ自分勝手に利用するようになります。持っているものにこだわって、自分はこんなに持っていると、自分にはこんなに力があると、自分はこんなに優秀だ、そんなことで、どんどんどんどん自分を誇ったり高ぶったりしてですね、持っていない人を見下したり、見下げたり、軽蔑したりするんじゃないでしょか。そして時に信仰ですらいそういうことになってしまいますね。私たちには信仰がある。信仰があるから偉いんだ。そんな態度とってしまうようなこともあるんではないでしょうか。神様の祝福を祝福としてではなくて、自分のために用いようとするところから私たちと人との間に様々な壁を作り出し、そしてその壁の中にあって相手に対する敵意をどんどん膨らませてしまう、そのような姿が私たちに等しくみられる姿であるということが言えるという風に思います。
しかしパウロはここで語っていますね。キリストは隔ての壁である敵意を打ち壊しました。様々な規定からなる戒めの律法を廃棄されました。
何によってそうしてくださったと書いてありますか?ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊したと、ここに記されてあります。ご自分の肉、つまりイエスキリストの、ご自分の肉体を十字架に磔にすることによって、自ら 私達の罪の贖いとすることによって律法を廃棄して、敵気を打ち壊してくださった、隔ての壁を打ち壊してくださったということが、ここに記されていることであります。イエスさまが私たちの罪のために死んでくださったわけですから、私たちはイエス様を信じるだけで救われるんですよね。何か律法を守り、行ったから救われたわけではないんですね。律法は救いを得る手段としては何の役にも立たなくなりました。律法の様々な規定を忠実に守っても、救いには全く関係ないんです。私たちただ、恵みの故にイエスキリストを信じる信仰によって救われる。もうイエス様が完全にこの隔ての壁を打ち壊してくださったということ、そのことを私たちは本当に感謝したいなという風に思います。私たちの平和の妨げになっている、私たちの内側にあるこの罪の問題を解決してくださったのは、イエス様。イエス様にしか解決できないその部分での平和が、もう私たちに与えられている、その恵みを感謝したいと思います。これが第一段階なんですが次に第2段階に行きたいと思います。

(2)互いに受け入れあい、愛し合うこと

私たちの中に、平和をもたらすためにまずキリストが、へだての壁を打ち壊してくださったということでありますけれども、でも聖書読んで教えられることはキリストによってもたらされる平和は、さらに積極的なものだということが言えると思います。15節のに途中から16節と読んでみたいと思います。「こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に作り上げて平和を実現し、二つのものを一つの体として十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました」と書いてあります。

二番目にキリストは、この二つをご自分において、新しい一人の人に作り上げて、そして平和を実現したと、15節で語っております。
平和に関する私たちの理解は多くの場合、消極的あるいは不十分ではないかと思います。戦争や争いのない状態が平和であると考える傾向が強いんではないかなと思いますね。確かにこれだけ戦争や争いの絶えない世の中になりますと、せめて戦争が早くなくなりますように、争いがなくなりますように、平和が来ますようにと、そう願うのもよくわかることだと思います。しかし聖書が教える平和はもっと積極的ですね。
平和とは単に戦争や争いがない状態をさしているのではない。もっと積極的なものです。それは互いに受け入れあって、愛し合っている関係です。そして二つのものが一つになるということです。そこまでいって初めて平和ではないでしょうか。キリストはそのような平和を実現してくださる方であるということがここで教えられております。
どのようにして実現してくださるんでしょうか?ご自分において、ご自分において新しい一人の人に作り上げる、という風にここに記されてあります。ご自分において、つまりイエスキリストとの親しい人格的な交わりを通して、イエスキリストに私たちがしっかりとつながることによって、私たちは新しく生まれ変わるということであります。
第二コリントの5章17節に記されてあるように「誰でもキリストにあるものは新しく作られたものです。古いものは過ぎ去って見よすべてが新しくなりました」とこで教えられていますが、誰でもキリストにあるものは新しく作られるんですね。そして古いものは過ぎ去って全てが新しくなった。イエスキリストを、もし信じて、受け入れて、私たちがしっかりとイエス様につながっているならば、私たちは全く新しいものにされたんだということを是非私たち信じたいと思います。つまりユダヤ人もイエス様を信じて新しくなったということですよね。異邦人も イエス様を信じて新しくなったということ、そして新しくなった者同士ひとつになった、ということであります。異邦人がユダヤ人となったんではないんです。異邦人がユダヤ人のやり方に合わせようと思って自分を変えて、それで一つになったわけではないですよね。あるいは、ユダヤ人が異邦人に合わせて、自分を否定して異邦人に合わせて、それで一つになったのではないですよね。つまり、どちらかが、どちらかに合わせることによってひとつになった、そういうひとつではないということであります。
昔日本は朝鮮半島を支配していたことがあります。けれどもその時、日本は朝鮮の人々に日本語を教えたり、朝鮮の人々の名前を奪って、日本風の名前に付け替えたりしました。そのようにして朝鮮人を日本人に作り変えることによってひとつになろうとした、そういう努力をしたということが歴史的に言われております。そんなこと、とても無理なわけですけれどもね。でもかつてそういうことをして、ひとつになろうと努力した時代があったということを私たちが歴史を通して教えられます。聖書で教える平和というのは、そういう平和ではないですね。誰かが誰かに合わせることによってひとつになるという、そういう平和ではありません。皆が等しくキリストによって生まれ変わり、新しく作られることによって実現される平和であります。これがキリストが平和を作り出す方法です。そしてそのような方法によって作り出されたものが、教会であるということを、わたしたちの覚えたいと思います。
でも私たちは、注意しなければいけないと思います。時々教会の中に古い物を持ち込むという場合があるように思います。せっかく新しくなって一つとされた、私達はみんな新しくよみがえり、生まれ変わって一つにされたはずの教会の中、に古いものを持ち込んできて、そして教会の中にいろんな隔ての壁を作り上げてしまうということが時々起こるんじゃないかなという風に思いますね。
生まれとか、家系 とか、受けた教育とか、社会的立場の違いとか、経済環境の違いとか、あるいは国籍、性別、文化、性格の違いというものを、教会の中に持ち込んで、それにひたすらこだわることによって、教会の中にいろんな壁を作り出してしまうということが起こりうることではないだろうかと思います。それらのものは、もしかしたらこの世の人々にとっては大切なものなのかもしれませんね。そして私たちも、救われる前は、そういうものがすごく大事だったかもしれません。でもどうでしょうか、私たちは今、キリストによって新しいものに作り変えられたんではなかったでしょうか。新しい性質と、新しい生き方を与えられたんではなかったでしょうか。せっかくキリストが隔ての壁を打ち壊してくださって、敵意を取り除いてくださったのにもかかわらず、私たちの方で逆に古い性質にこだわって、壁を作ってしまうとしたらば、それはなんと愚かなことではないだろうか、なんと残念なことではないだろうかというふうに思うわけであります。
私たちはキリストによって新しく作られた一人一人です。であるとするならば、私たちはそのようなものとして歩もうではありませんか。かつての古い自分にこだわるのではなくて、古い聖められていない性質に引っ張られるのではなくて、そのようにして教会の中にいろんな壁を作ってしまうのではなくて、日々主と共に歩みながら、新しく作り変えられていくものとなりたいと思います。ここまでが第二番目ですけれども、最後のことに行きたいと思います。

(3)神と和解する

キリストによって隔ての壁が打ち壊されて、そして新しい一人の人に作られても、これで十分に平和が実現されたかのように、私たちは思うわけですけれども、聖書を読むとさらにもう一つの段階があるということが教えられております。そしてこれがキリストの平和が実現するために最も大切で根源的なことであるということを私たちは覚えたい。

それは神と和解するということです。 16節をもう一度読んでみたいと思います。
「二つのものを一つの体として、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました」。このようにキリストは、十字架によって私たちを神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされたと、こに記されてあります。人と人との間の平和は、人と神との間の平和に密接につながっているということを、ここから教えられます。
なぜ私たちは、人と人との関係において真の平和を経験することができないんだろうか?
その一番の原因は、実は私たちが神に敵対しているからであるということであります。ふつう私たちはそこまで考えないんではないかなと思いますね。そこまで深く考えることはあまりないんではないでしょうか。そのレベルを意識することはあまりないと思います。
しかしパウロの答えはとても根源的であります。私たちが人との関係において、なかなか平和を経験できないその一番深いところにある原因は、実は私たちと神様との関係が壊れている、そこに原因があるということを私たちは聖書をとおして覚えなければいけないという風に思います。
パウロはここでも「敵意」という言葉を使っていますね。16節でも「敵意」という言葉を使っております。14節でも「敵意」という言葉を使っています。14節の方では、これはユダヤ人と異邦人の間の敵意なんですね。ですから人間関係における「敵意」ということができます。
一方16節において使っている「敵意」という言葉は、これは人間が神様に対して抱いてている「敵意」でありまして、人の神に対する「敵意」ということになるんです。ですから、この二つの「敵意」というのは同じものではなくて、それぞれ別のものなんですが、しかしパウロは、同じ言葉を使うことによって、その両者が実は繋がっている、実は重なっているということを私たちに意識させていますね。
私たちがなぜ人との関係の中で「敵意」を解消することができないのか?なぜそんな問題を解決することができないのか?その一番深いところにある問題は何か?それは私たちと神様との関係が破れているから、私たちと神様の関係が敵対しているからなんだ、ということを私たちはここから学ばなければいけない。でもここでもパウロは教えております。「イエスキリストは十字架によって神と和解させ敵意を十字架によって滅ぼされました。」イエスキリストは一度、神様の御前に捧げられたことにより、この敵意を全部解消してくださった。滅ぼしてくださった、ということがここに記されてあります。キリストは私たちの一番深いところから平和を作り出してくださる方であるということを是非覚えたいと思います。私たちの神様との関係がまず解決されないところから、そこから平和は始まってこないということですよね。まずそこから平和が始まっていくということを、そのような深いところから神様の御業が始まっていくということを私達はぜひ覚えるものでありたいと思います。

3.まとめ・・・結婚は3人で歩むべきもの。

今日は最後に一枚の絵を皆さんにご紹介して今日の説教を終わりたいと思います。
皆さん私達夫婦が結婚した時に、妻の友人から結婚のお祝いとしていただいた1枚の絵です。
ここに3人の人が寄り添って歩いている姿が描かれております。顔は見えませんけれども、その格好から誰であるかということがわかります。左側にいるのはタキシードを着ております新郎ですね。花婿です。そして右側に立ってるのは純白のウエディングドレスに身を包んでいる花嫁ですね。
でこの二人の横にもう一人の人がいるんですけれども、この人が誰であるかは皆さん分かると思いますが、この格好からですね、これはイエス様であるということが分かると思いますね。

ここに皆さんちょっと見えづらいかもしれません英語で書いてありますね。
「Marriage take three」と書いてあります。これをどういうふうに訳すか?こういうふうに訳すことができるかなと思いますが、「祝福された結婚のために必要なことは3人で歩くことです」よね。そういうことが言えるんじゃないかなという風に思います。
まあ結婚したばっかりのですね、新婚ホヤホヤの夫婦の場合はですね、あんまり中に誰も入れないで、直接くっついていたいと言うかもしれませんね。あんまり中に誰も入れないで邪魔になるからという感じかもしれませんけれども、でも結婚関係を私たちが育てていくために、愛を育んでいくために大事なことは、この両者の間にイエス様を挟むことですよということを、この絵を通して教えられたと言うか、私たちはこのようなプレゼントを結婚式の時に頂いて、そこから結婚生活が始まったという思い出があります。そして結婚して10年以上経つんですけれども、本当にこの絵の通りだなということを思っております。夫婦がすれ違ったり、ぶつかったり、あるいはいろんな自分のこだわりが出てきて、互いに意見が噛み合わなくなってしまった時、何によってそれを乗り越えることができるでしょうか?反省して、悔い改めて、自分の非を認めて、許したり許されたりするためには、何が必要でしょうか?イエス様が必要だなということを思いますね。イエス様の御言葉に耳を傾けるということ、イエス様にともに祈るということ、そしてイエス様の十字架を仰ぐという事、そのことによって自分の頑なさを示されたり、悔い改めに導かれたり、砕かれたり、反省させられたりしながら、もう一度ごめんねと言って、謝って関係を再開させるということが、今までも何度もあったということを思います。
これは夫婦の関係だけに限らないと思いますね。これは親子の関係でもそうですし、友人でも、同僚でもあれば、民族国家のレベルに至るまで、みんな同じだと思いますけれども、やっぱり私たちはイエスキリストを通して人と出会うんではないでしょうか。イエス様に間に入ってもらうことによって、私たちはそこで本当の和解というものを経験するんではないでしょうか?キリストこそは私たちの平和だからであります。キリストにしか解決できない問題、深刻な問題を、私たちはみんな抱えております。それはどこまで意識するかは、人によって違うかもしれません。でもいろんなケース、いろんな時と場合によってそういうものが出てきてしまうことがありますね。そうなると、その関係はすぐに壊れてしまいますね。それだけのものみんな持っていますね、私たちはね。その部分で本当に解決をいただくことができるのはまさにイエス様の十字架しかないんではないでしょうか。それくらい私たちの持っている問題は深いということを私たちは覚えたいと思います。しかしイエス様は、隔ての壁を打ち壊し敵意を廃棄してくださいます。そして二つのものを一つにしてくださった、そして神と和解させてくださった、その全てのプロセスにおいてキリストがまさに私たちの平和を導いてくださるということを覚えたいという風に思います。是非 イエス様に間に入ってもらおうではありませんかそしてこの教会において、この平和を私たちは豊かに味わうものになりたいと思います。そしてこの教会からこの世の中に向かって、ここに平和があるということをはっきりと提示できるような、本当にこの平和のない争いの絶えないという世の中にあって、ここにキリストの平和があるんだよということをはっきりと提示できるような、そんな教会を私たちは目指していきたいという風に思います。ここにキリストがおられる。そのことを私たちは信じて、しっかりとキリストに繋がっていく教会としていただきましょう。

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。私たちにキリストが与えられている恵を覚えて感謝いたします。キリストこそが私たちの平和であることを感謝します。キリストが私たちと人との関係、私たちと神との関係の中に立ってくださり、 平和を促してくださいました。どうか私たちがキリストと共に、キリストを仲立ちとして、人と出会い、神と出会うことができますように。私たちに与えられているもろもろの関係を祝福して下さい。そしてこの教会がキリストの平和を表すことができる教会となることができるように、助け導いてください御言葉を感謝します。イエスキリストのみなによってお祈りをいたします 。アーメン

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