イエス・キリストをより良く知るために

心を一つにして祈る

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

使徒の働き1章12~26節

 そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。
 そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。ユダは私たちの仲間として数えられていて、その務めを割り当てられていました。(このユダは、不義の報酬で地所を手に入れたが、真っ逆さまに落ちて、からだが真っ二つに裂け、はらわたがすべて飛び出してしまった。このことは、エルサレムの全住民に知れ渡り、その地所は彼らの国のことばでアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになっていた。)詩篇にはこう書いてあります。  『彼の宿営が荒れ果て、そこから住む者が絶えますように。』
また、『彼の務めは、ほかの人が取るように。』ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、
すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」そこで彼らは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立てた。
そしてこう祈った。「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです。」
そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。 聖書 新改訳2017

新年度の歩みが始まっておりますけれども、また教会として私たちは心をひとつにして主に従っていきたいと思っております。教会にとって一番大事なことってなんでしょうか?色々大事なことがあるかと思いますけれども、やはり教会の中心にイエス様がおられるということ、そのことが教会にとっての一番の大切なことだと思います。単にクリスチャンと呼ばれる人たちが集まっているということだけではなく、教会の中心にイエス様が共におられるということ、そしてそれはつまり教会がイエス様の命によって生かされているということであります。そのことを私達は忘れないで今年一年確認していきたいなと思ってまいすが、どうすれば私たちはそのことを経験できるんでしょうか。それは聖霊に満たされることによって、そのことを経験します。私たちに与えられている精霊を私たちがしっかりと受け止め聖霊に満たされる時に、イエス様がここに共にいてくださると私たちは確信することができる。ですから私たちにとって聖霊に導かれているということは本当に大切なことであります。

聖霊を受けるためにイエス様が弟子たちに命じられたことがありました。それは何だったでしょうか?先週学んだところでしたが、4節を読んでみます。1章の4節、

使徒たちと一緒にいる時イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで私から聞いた父の約束を待ちなさい。」

約束の聖霊を受けるために彼らが求められたことは「待つ」ということだったということ、前回ともに確認したことでしたけれども、今日はそのイエス様の命令を頂いて弟子達がどのように待ったのかというその姿に注目をしていきたいと思います。12節をお読みいたします。

そこで使徒達はオリーブという山から、エルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりの所にあった。

イエス様は天に帰られました。その直前の場面でイエス様天に帰られてしまったんですね。そして弟子たちはオリーブ山からエルサレムに戻ったということがここに出てまいります。オリーブ山からエルサレムまで安息日に歩くことが許される道のりだったという風に書いていますが、これは約1.2 km の距離なんだそうですが、そのくらいの距離、それほど遠くないと思いますが、それほどの距離、そのくらいの距離を弟子たちは歩いてエルサレムに戻り、彼らが留まっている家がありましたが、その家の屋上の部屋に上がったということがここに書いてあります。

弟子たちの故郷はエルサレムではなくて、ガリラヤ湖周辺のガリラヤ地方でしたので、普通であればガリラヤに戻るところだったと思います。でもガリラヤではなくてエルサレムに向かったのは、それはイエス様の命令だったからであります。イエス様は彼らにエルサレムを離れないでという風に言われました。つまり彼らがエルサレムに向かったのはまさにイエス様の言葉に従った結果であったということが分かると思います。そして留まっている家の屋上の部屋に上がって、その屋上で彼らは何をしたんでしょうか。

1.聖霊を待ち望む祈り

14節に書いてありますが、

彼らはみな、・・・いつも心をひとつにして祈っていた。

という風に書いてあります彼らは祈りながら聖霊が来るのを待っていた言うことがわかることであります。聖霊が与えられますということがこれは約束でした。父なる神様の約束でした。神様の約束なのでそれは必ず与えられるものでした。もし神様の約束 なら、弟子たちはその実現の時をただ待っていれば良かったのではないかという風に考えられます。何もしないで神様が一方的にその約束を果たしてくださる時を待てば良かったのではないかという気もいたします。

でも弟子たちはイエス様の命令は待ちなさいという命令でしたけれども、ただ待っていただけではなくて、祈りました。確かにそれは神様の約束だったんですけれどもその約束をしっかり受け止めるために、「彼らは祈っていた」とここに書いてあります。何もしないでただじっと待っていただけではなくて、祈りつつ約束の実現の時を待ったということであります。その結果として聖霊が彼らの上に下っていきます。

神の側の約束と、人間の側の信仰がしっかりと連結された時に神様の素晴らしい御業がなされていくということを私たちは聖書を通して教えられるのではないでしょうか。

神様は私たちにも約束してくださいました。聖霊を与えると約束をしてくださいました。それは約束なんですね。ですから約束であれば必ず実現することなのです。

父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主はいつまでもあなたがたと共におられます。

と、イエス様も約束してくださった。その約束は今も有効なんですね。それは私たちにも与えられている恵みなんです。

その約束が本当に自分の中で実現されるために、私たちはどれだけ祈っているでしょうか?それを受けとめ、聖霊に満たされるために、私たちはどれだけ祈っているでしょうか?どれだけそのことを求めているでしょうか?

わたしたちもぜひ祈るものでありたいと思いますね。聖霊が来て下さいと心から祈るものとなろうではありませんか。その約束と私たちの信仰が、そこでひとつになってゆく時に本当に素晴らしい御業がなされていくということを覚えるものでありたいと思います。

そのようにして弟子達はただじっと待っていただけではなくて、お交わりをしながら待っていただけではなくて、祈りながら待っていたということですね。

2.心を一つにした祈り

ではその祈りってどんな祈りだったんでしょうか?どんな特徴のある祈りだったんでしょうか?

二つの特徴がここに示されているということがわかります。

まず一つ目の特徴は、それは心をひとつにした祈りであったということです。13節と14節を読んでみたいと思います。

彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちはペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルバヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。彼らはみな、女たちとイエスの母マリヤ及びイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

このように心を一つにして祈っていたという風に書いてあります。この13節に、その屋上の部屋に集まった人たちの顔ぶれが紹介されております。イエス様の弟子たち11人いますね。これはイスカリオテのユダを除く11人が全員そこに集まっていたということ、そして更に女たちがいて、またイエス様の母マリアもいて、及びその家族たち、イエス様の兄弟たちもそこにいたということが記されてあります。様々な顔ぶれの人たちが集まっていたということがわかります。そこで捧げられた祈りが、それらのたくさんの人たちがいましたけれども、その人々が心を合わせて祈る一致した祈りであったということを私たちは確認することができます。このたくさんの人たちの顔ぶれの中に、イエス様の母、お母さんのマリアがいるっていうことが、 私たちは慰めを感じるところではないかなという風に思います。今日は母の日ですね。いつもであれば本当に母の日の朝、ますらお会の皆さんが食事の準備をしたりしていた時の事が懐かしく感じられますが、今年はそれができませんけれども、本当にそれぞれのお母さんたちの祝福を祈りしたいなと思います。ここにイエス様のお母さんのマリアが含められている、というところに私たち慰めを感じるんじゃないかなという風に思います。マリアの夫のヨセフはこの時、もうすでにいなかっただろうという風に言われております。聖書には詳しいことは書いてないんですけれども、おそらく先に亡くなっていただろうということが言われております。つまりマリアはこの時未亡人であったということであります。しかもイエス様も十字架にかかって死んで、その後復活されましたが、でも天に帰って行かれました。夫を失いました。息子も失いました。やはりマリアは悲しみの中に歩んでいたんではないだろうかというふうに考えられる。そして当時、夫を先に失った未亡人の立場というのは社会的に非常に弱いものであったということが言われております。これからの先のことを考えると、本当に色々不安が尽きないようなそういう境遇だったということが言えるんではないでしょうか。でもそのマリアがしっかりと弟子たちの交わりの中に加えられているということ、しかもイエス様の兄弟たちも家族一緒でそこに加えられているというその姿は、本当に私たちにとって慰めを覚えさせられるそのような光景ではないかなという風に思います。またその交わりの中には女性達もいたということが書いてあります。

聖書読んでいますと、イエス様に付き従っていたたくさんの女性たちがいたということが明らかにされております。その中にはおそらくイエス様のあの復活の朝に、お墓に駆けつけた女性たちも含まれていたんじゃなかったかと想像しますけれども、いずれにせよ男性だけではなくて、女性達もそこにいたっていうことがわかります。当時のユダヤ社会の中で男性と女性が一緒になって行動するということはほとんどなかったんだそうです。男性と女性が同じ部屋の中で共に祈るという習慣も当時はほとんどなかったという風に言われております。

ところが彼女たち、女性達もそこにいて心を合わせて祈ったと書いてある。そこに当時の既成概念にとらわれない、全く新しい共同体が誕生しているということに、私たちは気づかされる。ここに既に教会の原型が示されているということに私たちは気づかされるんではないかと思いますね。

教会が誕生するのは、その10日後のペンテコステの日の日でしたけれども、その前にもうすでにここに教会の姿が示されているということに私たち気づかされるではないかと思います。そして11人の弟子たちがここに集まっておりました。この弟子たちが心を一つにして祈るということも、おそらくそれまではなかったことではないだろうかと考えられる。弟子たちは、かつては誰が一番偉いという議論をしていた一人一人でありました。他の弟子たちのことを差し置いて、イエス様の右大臣と左大臣にしてくださいと申し出るような人が2人ぐらいいたりして、そういう弟子たちでしたよね。その二人を他の弟子たちは苦々しい思いで見つめていたという風に思います。よって、かつての弟子たちの心の中にはおごりとか妬みとか怒りとか不満とかそういうものが渦巻いていたんじゃないかと考えられる、非常に複雑な間柄であったというふうに考えられます。

イエス様が要としておられるので、かろうじてひとつにまとまっていましたが、イエス様がおられなくなったら、いつでもバラバラになってしまいかねない、そういう脆い人間関係だったというふうに考えられるんですね。その彼らの要だったイエス様がもういないんですが、しかしそのいない時に、彼らは何と、心を合わせてひとつになって祈っていたとここに記されている。そのこと自体が驚きだし、素晴らしい ことじゃないかなという風に思います。

このようなさまざまな背景を抱える人々が一同に介するだけでなく、心をひとつにして祈ることができたのはどうしてだったんでしょうか。

それは彼らがともにイエス様の十字架を経験したということ、十字架によって罪をしっかり許されて、また復活の主と出会うという、その恵みを体験したということ、こんなに惨めで罪深い愚かな自分を何とイエス様は許してくださった、なんと大きな罪をイエス様は許してくださったことか、そしてこんな弱い自分達を、それにもかかわらず気にかけてくださり、もう一度弟子として召し出してくださり、立たせてくださったということ、しかも「これからずっと一緒にいるよ」と永遠の約束を守って導いてくださるという、このイエス様の恵みを体験したからこそ、彼らは今、心をひとつに合わせて祈ることができる、そのような群れに成長させられているということを、私たちは教えられることであります。

私たちも心をひとつにして祈るために必要なことは何でしょうか?一緒に集まることはできても、心をひとつにして祈るの難しさを感じることが、私たち時々あるんじゃないかなと思いますね。私たちの心の中に様々な複雑な感情が残っている時に、なかなか私たちは一人で祈ることはできますが、でも人と心を合わせて祈るということがなかなかできない。あるいはその祈りがなかなか深まっていかないという、そういう経験をすることがあるかなと思いますね。

一人で祈る方が楽である、教会に来てみんなでに祈るのはちょっと抵抗がある、そういう場合もあるかもしれません。でもそんな私たちが心を一つにして祈るために必要な事って何でしょうか。

それはやっぱり一人一人がイエス様と出会うことです。イエス様の恵みを体験することです。そしてこのイエス様を、お互いに共有することです。このイエス様の恵みに預かって、イエス様がどんなに素晴らしいことをしてくださったかということを、分かち合うこと、そのことを通して私たちは共に祈るものに変えられて行きます。教会ってそういうところですよね。教会って心を合わせてひとつになって祈るところだと思うんですね。そのように私たちに導かれているんじゃないでしょうか。是非私たちはイエス様の恵みを、本当に一人一人豊かに味わい、感謝し、分かち合い、そして心合わせてひとつになって祈るものになりたい、そのような成長を導かれていきたいという風に思います。

3.熱心で真剣な祈り

彼らの祈りにはもう一つの特徴がありました。それは何だったでしょうか?

それは熱心で真剣な祈りだったということであります。14節をもう一度読んでみたいと思います。

彼らはみな、女たちとイエスの母マリアおよびイエスの兄弟たちとともにいつも心をひとつにして祈っていた。

ここに「彼らはいつも祈っていた」という風に記されています。「いつも」と訳されているこの言葉の元々の意味は、「没頭する」とか「くっついて離れない」とか「固執する」という意味の言葉です。前の訳の聖書では、この箇所は「祈りに専念していた」という訳になっていました。「専念する」という言葉が使われておりました。

まさに彼らは祈りに専念してたんですね。そしていつも祈っていたんです。ある人はこの聖書の箇所を「祈りに忙しかった」と訳しました。

「祈りに忙しい」などと言える時が、私たちに果たしてあるでしょうか。祈り以外のことで忙しくしていることはよくあるんじゃないかと思いますね。仕事・家事・勉強・用事・作業・計画など、私たちいつも忙しくしていると思います。でも祈りに忙しいと言える時が私たちの生活の中に果たしてあるだろうか?それを考えると私たちの祈りの生活がいかに乏しいかということに気づかされるんではないかという風に思います。

でも弟子たちはこの時、祈りに忙しいと言えるくらい熱心に真剣に祈っていたということであります。イエス様がおられなくなってしまったんですね。今まで一緒だったイエス様がもういないんです。そういう時に、私達であればすぐ不安になるんじゃないかと思うんですね。これからの先のこと色々考えたくなるんじゃないでしょうか。そして色々計画を立ててですね、これからどうやっていこうかって、これからどうやって生きていこうかって、色々話し合いを始めたりですね、そういうことをまず先にやりたがる私たちの傾向があるんじゃないかなと思うんですね。でも弟子たちは、この後色々、弟子をもう一人加えるとか色々準備もしてるんですが、でもその前に、彼らは祈ったんですよね。まず祈るんです。そして祈り続けたんです。いつも祈ったんです。

聖霊が彼らの上に降るのはそれから10日後のことでありました。よって単純に考えますと彼らは10日間祈り続けたということになると思います。つまり10日間は祈っても聖霊が与えられなかったということであります。10日間も結果が出なかったということですね。

でも結果がでなくても、信じて忍耐深く祈ったということであります。

4.教会が誕生するために必要な祈り

私たちは祈ってもすぐ結果が出ないとすぐに諦めてしまうという傾向があるのではないかと思います。ですから祈りには忍耐が必要ですね。結果がすぐに出ないことも多いんですね。でもそこであきらめないで祈り続けるって事がとても大事です。私達もこの弟子たちの姿にならって祈り続けたいという風に思います。すぐに結果が出なくても諦めずに忍耐の限りを尽くして祈ろうではありませんか。それこそ祈りに専念する者でありたいという風に思います。

皆さんはこの大型連休をどのように過ごされたでしょうか?私達の家族はこの連休は巣ごもり休暇で、ほとんど家の中で過ごすとそういう休暇でしたけども、家の中で過ごす時間が多かったんですけれども、でも息子がですね、あの一泊、牧師館に泊まりたい、一人で泊まりたいと言い出しまして、1人泊めたりもしました。そして私もですね一泊だけ教会のゲストルームに泊めていただいたんですね。誰もいない教会の中で一泊過ごして、その時に事務所2階の事務室がありますが、その事務室に昔の教会の記録が残ってるんですね。役員会の記録とか、総会の時の資料とか、週報とか記念誌とか、小林京子先生、軍事先生が記した文章とか残っているんですね。それはなかなかじっくり読む機会がなかったので、その時に読んで過ごしました。それを読みながら、前から教えられていたことではありましたけれども、小林恭子先生や軍事美津子先生はそれこそ祈りに忙しいという生活をしておられたんじゃないかなということを感じました。教会の中心に絶えず祈りがあったということであります。そしてお二人はいつでも心をひとつにして祈っていた。そういう牧会姿勢だったんだなということを、この文章の残されている記録の端々に感じさせられたことでありました。それが宣教教会が未だに祝福されていることの一つの原因ではないだろうかというふうに考えております。教会はやることがたくさんあります。今年一年間の計画も立てました。色んなやるべきことがたくさんあるんですね。奉仕も必要です。伝道も必要です。色んな集会も大事です。

でも本当に教会が教会として聖霊に満たされた場所になるために、本当に教会が命に溢れた場所になるために必要なことは何だろうか?それはやっぱり祈りではないだろうかと思うんですね。しかもそれは本当に心を一つに合わせた、いつも祈っているというその祈り、その祈りによって教会はどんなに祝福されることでしょうか。そのような祝福を私たちの教会は与えられてきていたんではなかったかなという風に思うんですね。

弟子たちも祈りました。祈りの結果として10日後に聖霊が降りました。そしてその聖霊によって弟子たちは強められました。そしてそこに教会が誕生しました。今も変わりません。今も教会が覚醒されるために必要なものは何でしょうか。聖霊です。そしてそのために私たちに求められているのは何でしょうか。私たちの祈りなんですね。真剣な熱心なそして心をひとつに合わせて祈る祈り、それによって教会は祝福されていくっていうことを日々覚えたい。今年私たちは、いつも祈る者を目指したいなと思いますね。祈りに専念するあゆみを大切にしていきたいと思います。教会で色んな祈りの機会があります。礼拝も祈りの機会です。そして祈り会もあり、いろんな集会もありますけれども、本当にそこで祈り合う交わりを、私たちは大切にしていきたい。心をひとつにして真剣に熱心に祈っていこうではありませんか。私たちが御霊に満たされるまで、キリストのいのちにいかされるまでに、本当に私たちは祈り続けていくものでありたい、そのようにしてともに主の祝福を味わっていこうではありませんか。

 

お祈りをしましょう。恵み深き私たちの父なる神様。あなたが聖霊をくださる約束を与えて下さっています。そして私たちに聖霊が与えられています。その聖霊を私たちがしっかりと受け止めることができますように、祈ることができるように励ましてください。どうぞ私達を聖霊で満たしてください。聖霊に背くのではなく、聖霊を拒むのではなく、聖霊に満たされ導かれて歩むことができるように、そしてキリストの命によって生かされますようにどうぞ私たちを励ましてください。そのためにどうぞ祈ることができますように。この教会が祈りの群れとして豊かに成長していくことができますように。今年一年の私たちの祈りの取り組みを祝福し、祈りの中で、私たちが深くあなたと出会い、あなたを知ることができるように助けてください。み言葉を心から感謝し、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。

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