イエス・キリストをより良く知るために

約束の聖霊

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

使徒の働き1章1~11節

テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。
 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」            聖書 新改訳2017

私たちは今までイエス様の十字架の場面について学んでまいりました。その後イエス様が復活された場面も学んでまいりました。そしてその復活されたイエス様が、弟子の前にご自分を表してくださった、その場面も学んでまいりました。弟子たちは復活されたイエス様とお会いできて本当に嬉しかったと思います。

ただ弟子たちがイエス様と共に過ごすことができたのは40日だけでした。復活の40日の後にイエス様は天に帰って行かれました。今日読んでいただいた使徒の働きの1章の中にその場面が出てまいります。でもイエス様は天に帰られたんですが、その代わりに弟子たちのために「聖霊なる神様」を送ってくださいました。聖霊が弟子たちに与えられるということは、実は、父なる神様からの約束でした。そのことをイエス様も生前に弟子たちに話しておられた。それはヨハネの福音書の14章16節に出てきますが、こういう言葉です。

そして私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与え下さり、その助け主がいつまでもあなた方と共に居るようにしてくださいます。

ここでイエス様が語られたもうひとりの助け主こそが、「聖霊なる神様」です。イエス様は天に帰ってしまわれたんですけれども、その代わりに聖霊なる神様が弟子たちに与えられて、この聖霊がいつまでも私たちと共におられると約束されている。その同じ聖霊が私たちにも与えられているということを覚えたいと思います。この聖霊が私たちといつも共にいてくださる恵に私たちは授かっているということをぜひ心に留めたいと思います。

1.聖霊によってもたらされる神の国

でもどうしてイエス様は聖霊を弟子たちに下さったんでしょうか?なぜ聖霊が必要だったんでしょうか。今日の聖書の箇所に注目をしていきたいと思います。今日の聖書箇所は「使徒の働き」です。イエス様が地上に来られました。そして地上に来られて一体何が始まったんでしょうか。神の国の建設が始まったと一言で言っていいと思います。

使徒の働きを記した著者は、ルカです。ルカの福音書を記したルカが、この使徒の働きを書いていますが、この使徒の働きの冒頭の一章一節でこのように語っています。読んでみます。

テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。

このような言葉から使徒の働きが始まっていますが、この使徒の働きという書物がテオフィロという一人の特定の人に宛てられていたものだったということがわかります。そのテオフィロに向かってルカは、前の書で、イエスが行い始めまた教え始められたすべてのことについて私は書き記したと書いている。「前の書」と出てくるのは、これはルカの福音書のことです。

ここで「イエスが行い始め、また教え始められた」と記されている点に私たち注目したいと思います。イエス様が来られたことによって、何かが始まったんですね。行い始め教え始められた何かが始まった。

何が始まったのか?「神の国の建設」が始まりました。それはイエス様によって始められ、まだ始まったばかりの働きですが、その後も続いていくということが意識されています。復活されたイエス様は、40日にわたって弟子たちに現れてくださったということが、3節に出てくるんですけれども、そこで弟子たちに現れて神の国 のことを語られたと3節に書いてある。この40日間弟子たちはイエス様との交わりを頂いて、復活のイエス様と出会って、本当に嬉しかったと思いますが、それだけではなくて、そこで神の国について教えられたってことが分かるんです。この40日間で、弟子たちは本当によくわかったんじゃないでしょうか。イエス様という方がどういう方で、なぜこの地上に来られてどうして十字架にかかってくださったのか、さらになぜ復活をされたのか、全部わかったんじゃないでしょうか。それは神の国をこの地上にもたらすというその大切なお働きのために、イエス様来てくださったっていうことが、全部わかったんじゃないでしょうか。

 

ですからこの40日間って本当に大事な40日間だったなと思います。イエス様にとってもまた弟子たちにとっても大事な大事な40日間、それは言ってみれば引き継ぎのための40日間だったという言い方が可能じゃないかなと思います。イエス様は、この後いなくなってしまうんですね。このあと天に帰られてしまうんです。せっかくイエス様によって始まったこの働きを、これから誰が引き継いでいくんでしょうか。弟子達が引き継いでゆく神の国の建設という尊いお働きが弟子たちに委ねられていく、そういう展開になっているということがわかります。そこで必要になってくるのが聖霊なる神様でありました。

この使徒の働きというのは使徒行伝と 呼ばれますけれども、よく聖霊行伝という風に呼ばれていまして、聖霊によって満たされた弟子たちによって、福音が世界中に宣べ伝えられていったということ、神の国が世界中に拡大していったということが記されている書物です。ですから主人公は聖霊なんですね。弟子たちが活躍しているように見えるんですけれども、聖霊の働きがここに豊かに記されているそういう内容になっているということ、私たちもよく教えられていることだと思います。

その聖霊の働きは弟子たちによって引き継がれ、その後ずっと継続されております。今も継続されております。聖霊に満たされた人たちによって福音は全世界にもたらされ、この日本にもやってきました。そして飯能にもやってきました。神の国の広がりっていうのは世界中に広がっている。そして今私たちもその中に加えられています。聖霊に満たされた人々によってこのはたらきは担われ、これからも展開していくということを私たちは覚えたいという風に思います。

2.弟子たちが変えられることによって

もう少し具体的に考えてみたいと思いますが、神の国というのは具体的にどのような形でこの世にもたらされるんでしょうか?

1番目にそれは聖霊によって支えられた弟子たちによってもたらされるということを、今日与えられた御言葉から確認したいと思います。イエス様は弟子たちに聖霊がやってくるよ、お前たちに聖霊が授けられるんだよっていうことを、5節で話しておりますが、それを受けて弟子たちが答えた、反応した言葉が6節に出て参ります。この言葉に注目したいと思います。

そこで使徒達は、一緒に集まった時、イエスに尋ねた。「主よ、イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」

このように弟子たちはイエス様に反応しているということがわかります。この言葉を通して当初の弟子たちは神の国についてゆがんだ理解を持っていたということに私たちは気づかされます。いくつかの点を指摘する事できると思いますが、

まず第1に彼ら弟子達にとって「神の国」とは、イスラエルのための国だと思っていました。彼らはイエス様に、「イスラエルのために国を再興してくださるのですか?」という風に言っております。イエス様によって始められた神の国というのは、イスラエルに限定されない民族や国家の壁を越えて世界中に広がっていく神の支配なのに、弟子たちは自分たちの国のことだけを考えていたということがわかります。これを私は民族主義的先入観と名づけてみました。自分の国のことが大事、自分の国のことを、民族を、第一に考える考え方がここに表されているということが分かると思います。

2番目に彼らはイエス様が自分たちの国を再興してくださることを期待していたということがわかります。再び興すという意味の再興という言葉がここで語られています。この言葉から弟子たちはかつてのダビデ・ソロモンの時代、ソロモン王の時代の繁栄を取り戻したいという願望を抱いていたということが考えられます。これ私は過去を懐かしむ懐古主義的先入観と名付けてみました。弟子達は過去の栄光にしがみついてるんですね。過去の成功体験から離れられないんです。再び過去の栄光を取り戻したいということを夢見ている、そんな弟子たちの気持ちがこの言葉に表されています。

3番目に彼らは、「この時に」そのことが起こることを期待していたということがわかります。イスラエルのために国を再興してくださるのはこの時なのですかという様に問いかけています。彼らが、今この時に、すぐにでも結果を見たがっているということが分かる言葉だと思います。私はこれを結果主義的先入観と名付けてみました。この続きの7節でイエス様が教えているように、神の国がいつ起こるかは「父なる神様がご自分の権威をもって定められている」ことでした。でも弟子たちは今すぐにでもその国が興るのを見たいんですね。すぐに目に見える形で結果が欲しいんです。

 

このように弟子たちの神の国に関する理解は、彼ら自身が持っていた民族主義的先入観、懐古主義的先入観、結果主義的先入観によって著しく歪められていたということが言えると思います。私たちが驚かされるのは、この先入観あるいは彼らが持っている想いの強さ、根深さというものをここで感じさせられるんじゃないかなと思うんです。弟子たちはこのこの状態、今この状況で、イエス様の十字架を彼らは経験しました。イエス様の復活も経験しました。復活の日に出会いました。そしてその後40日間イエス様から神の国についてしっかり教えられたはずなんですね。でも教えられたにも関わらず、まだこの状態なんですね。彼らの強い先入観によって神の国の理解は著しく歪められていたっていうことに気づかされる。本当に大丈夫なのかなって心配になってしまいます。イエス様はこの後いなくなっちゃうんですね。もうすぐに天に帰られちゃうんです。この大切なお働きを委ねられて、こんな理解で、弟子達は本当に大丈夫なのかしらと思ってしまいます。イエス様、もうちょっと、40日だけではなくてもちょっと教育した方がいいんじゃないかしらと思ってしまうようなそんな状態かなと思うんですけれども、でも、この弟子たちの姿の中に、信仰者であっても自分の中にある古い性質にとらわれやすい私たちの姿というのが表されているんじゃないかなと思います

3.弟子たちが力を受けることによって

でも大丈夫だったんですね。どうしてかと言うと、その後、聖霊がやってきたからなんです。聖霊なる神様が来ることによって、弟子たちは砕かれて、聖められて、整えられていきました。聖霊の導きの中で弟子たちは本当に取り扱いを頂いて、神の国の建設の働きは、彼ら自身の働きではなくて、まさに主の働きとして展開されていった。そのことを私達はこの後の展開を通して教えられます。

私たちも注意が必要かなと思いますね。神様によって私たちにも、大切なお働きが委ねられておりますね。それは神の国をこの世にもたらすという、福音をこの世に伝えるという大切な働きを委ねられております。でも時々、私たちの内側にある個人的な願望によって、その大切なお働きが歪められてしまうことがあるんではないかなと思うんですね。せっかくの主のお働きが、知らず知らずのうちに私たちの中にあるこだわりによって、人間の働きにすり替わってしまうようなことがあるんじゃないでしょうか。聖霊の導きがなければきっとそうなってしまうと思います。ですから私たちにも聖霊が必要なんです。聖霊の神様によって、私たちも砕かれる必要があるんです。清められる必要があるんです。整えられる必要があるんです。

教会の働きは聖霊によって支えられた人々によって建て上げられていくということを、私たちは心に留めるものでありたいと思います。

まず神の国の働きを展開していくために、「弟子達自身が変えられる必要があった」ということを覚えたいと思います。

2番目に神の国は「聖霊によって強められた弟子たちによってもたらされた」ということを覚えたいと思います。イエス様は、8節で弟子たちにこのように約束をしてくださいました。8節をお読みいたします。

しかし聖霊があなたがたの上に望むとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで私の証人となります。

このように「聖霊があなたがたの上に望むとき、あなたがたは力を受ける」とイエス様は約束してくださいました。

その力ってどんな力でしょうか?それはイエスキリストの証人となるための力、つまりイエス様、主イエス様を証しするための力であったということがわかります。しかもここで力と訳されているギリシャ語のジュナミスという言葉ですが、これはダイナマイトという言葉の語源になっている言葉です。爆発的な力、そしてこれは人間の力ではないですよね。神の力を表しています。弟子たちは聖霊を受けた時に力を受けました。そして弟子たちの内側で働くこの「神の力」を経験しました。その聖霊の働きによって、力を頂き、力づけられた弟子たちは、この後、力強くイエス様を証しする人に変えられていった。言葉を以てイエス様を証し、自らの生き様を通してもイエスも証する人に変えられました。あのイエス様の十字架の時には、もうみんな恐くなって逃げてしまった、イエス様を見捨てて逃げてしまった弟子達が、聖霊を受けた結果、全く変わってしまった。まるで別人になったかのようなそういう姿を、私たちは使徒の働きを通して確認することができますね。本当に様々な迫害や戦いの中にあって、彼らは堂々とイエス様を証するものに変えられてきました。その言葉を以て証し、自らの生き方、生き様を通して証をしました。ここで証人と訳されている言葉には、殉教という意味が含まれております。この言葉の通りに弟子たちの多くは殉教してゆきました。ローマ帝国の迫害にあって、ローマの皇帝とイエス様とどちらが大事であるかというようなことを問われる中にあって、イエス様を選んでいく、そういうことを通して彼は殉教していったということがいわれていますけれども、そんな彼らの生き様を通して、結果的には福音が全世界に広がっていきました。エルサレムからユダヤ、サマリア、さらに当時、地の果てとみなされていたローマにまで福音が広がっていった。まさにこの言葉の通りになったということを、私たちは使徒の働きの全体を通して確認することができます。

私たちも遣わされた所で証をするために必要なものは何でしょうか?言葉を通しても、また生き様を通しても、イエス様を他の人に知ってもらうために必要なのは 何でしょうか?それは「聖霊」であるということ、聖霊なる神様が必要です。

聖霊が私たちの上に臨まれる時に、私たちが力を受ける。これがイエス様の私たちに対する約束です。私たちの努力で人を説得するのではないんですね。私たちの頑張りでイエス様を証するのでもないんです。

私たちは自分の努力や頑張りで証しようとするから疲れてしまいますね。」失敗してしまいます。私たちの内で働く聖霊と、その力によって私たちは主を証するんだということですから、私たちに必要なのはまさに聖霊の満たしであり、聖霊の導きであるということを今日の箇所を通してぜひ覚えるものでありたいと思います。

このように聖霊に満たされた弟子たちによって福音が全世界に伝えられてきました。使徒の働き全体を通してそのことが伝わってきます。

4.待つこと

ただし今日私たちはもう一つのことにも注目をしたいと思います。それは弟子たちすぐに聖霊に満たされたんでしょうか?すぐに聖霊に満たされたわけではなかったんですよね。

聖霊に満たされるまでに少しの時間があったということは今日の箇所を通して教えられることであります。弟子たちが聖霊を受けるために、イエス様が求められた一つの事があったんですね。それは何だったでしょうか?4節と5節を読んでみたいと思います。

使徒達と一緒にいる時、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなた方はまもなく聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

このようにイエス様は弟子たちに言われました。ここでイエス様は「まもなく」っていう風に言われましたね。まもなく聖霊によるバプテスマを授けられるからです。もう少しすると、まもなくすると、聖霊がやってきます、聖霊が授けられますって言っています。

でもそのために何が必要だというふうにおっしゃってるでしょうか?

エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさいと教えられた。つまり「待つこと」、それが彼らが聖霊に満たされるための準備だったということが分かるという風に思います。

私たちにとっての切実な課題、私達の多くにとっての切実な課題の一つは、私たちが「なかなか待つことができない」というところにあるんではないでしょうか。私たちは待つのがとても苦手です。待つことができなくて、つい勝手に判断して動き出してしまうということがあります。それゆえに聖霊に満たされることがなく、神の力ではなくて自分の力で動き回ってしまうということがあります。そして疲れてしまいます。結果に振り回されてしまいます。自分のやってることに確信がないために、人からの評価を必要以上に求めてしまいます。そして人から評価されないと不満になってしまいます。私たちの心の状態は極めて不安定です。自分の力にすがっている時はそうなるんですね。

ところがよく準備されていたされているものには平安があるんです。よく準備されたものだけが、主の前で良い働きをすることができる。私たちに大事なのは準備ができているかどうかっていうことではないでしょうか。

 

今のコロナのこの危機の中にあっても、私たちが問われていること、教えられていることは、準備ができているかどうかということではないかなと思います。コロナ問題に対応するために保険所にも病院にも行政にも良い準備が必要だと思います。ワクチン接種がスムーズに進むためにも良い準備が必要だと思います。東京オリンピックを安心して開催するためにも良い準備が必要だと思います。そしてこの危機的状況を私たちが本当に乗り切れるかどうかというのは、それだけの準備ができているかどうかにかかっていると言ってもいいんじゃないでしょうか。今私たちはこの時期の中で本当に準備ができているかどうかっていうことを 問われているんだと思います。

私たちも信仰者として、もっと準備に力を入れてもいいのかなという風に思うんですね。私たちが信仰者として動き出す時、遣わされた場で良い働きを行うために、私たちは果たして私たちの中で良い準備ができているだろうか、本当に私たちは御言葉によって整えられているだろうか、聖霊に満たされているだろうか、その準備もないままに私たちの焦りや、心配や、願望や内的衝動によってのみ動き出してしまっているということはないだろうか?その結果、せっかくの主の働きが歪められてしまっているということはないだろうか。私たちにも、「待つ」ということが必要ではないでしょうか。動き始める前に「待つ」ということが求められているんではないでしょうか。私たちもひと時、御言葉と祈りの時を持ちたいと思います。そして本当に「聖霊で満たしてください」と祈るものでありたいという風に思います。聖霊なる神様が私たちの内側から清めてくださいます。整えてくださいます。そして私たちを内側から強めてくださいます。その内側から湧き出てくる力によって私たちが導かれて行く時に、本当に主の栄光をあらわすことができるんではないでしょうか主の主の働き私たちは継続していくことできるんではないでしょうか。私達ではなく主の働かれる時まで待つという習慣を、わたし達も身につけていきたいものだと思います。私たちは、どれだけ聖霊を待ち望んでいるんでしょうか。それが私たちに必要だとどれだけ気づいているんでしょうか。どれだけそのことを願っているんでしょうか。私達を本当に内側から導いてくださるのは聖霊なる神様なんですね。この方にもっともっと私たちは信頼して期待し、待ち望みたい。そしてしっかりと聖霊に満たされて歩んでいくものでありたいと思います。そのようにして主の働き、私たちに委ねられた尊い働きをし、本当に心から主にお仕えし、従事していくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。天の父なる神様。私たちに聖霊なる神様をお与えくださっている恵みを覚えて感謝いたします。どうか私たちを聖霊で満たしてください。急いで、満たされないままに動き出してしまう愚かなことをする事がありませんように、どうぞ守っていてください。聖霊の導きの中で私たちが良い働きを継続し、主の御栄光を表していくことできるように助けてください。み言葉を感謝します。イエス様の御名によってお祈りをいたします 。

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