イエス・キリストをより良く知るために

黙示録22章・・私達の目指しているゴール

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 

新しいエルサレム、新天新地の輝きという素晴らしい世界がそこにあると言うことが、視覚的に描かれたそういう場面だなと思います。21章からずっと続いていますけれども、新天新地と言うのは一体どういう場所なのか?
一言で言うならば、命に満ち溢れているそういう場所であると言うことが言えるのかなと思います。ここに
「水晶のように輝く、命の水の川を私に見せた。」と、1節に出てきまして、そこには川が流れていて、それは命の水の川であり、それは神と子羊の御座から出ていて、「都の大通りの中央を流れていて、そしてこちら側にも、あちら側にも12の実をならせる命の木があって、」と、どこか 天地創造のあとの、エデンの園の光景を彷彿とさせる街の景色であると言うことが言えると思います。

1.新天新地とエデンの園の比較

エデンの園の光景が、創世記2章に出てくるんですが、やはり、川が流れていたっていうことが書いてあります。2章の10節に、

一つの川がエデンから湧き出て園を潤していた。それは園から分かれて四つの源流となっていた」という言葉から始まって、 その四つの川が全地を満たしていく、そういう光景が描かれています。もう一つ注目すべきなのは、そこに命の木がある と言う事なんですね。

十二の実を鳴らせる命の木があって、毎月1つのみを結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒した。

と、葉っぱによって癒されると 出てきますけれども、命の木と聞いたら、やっぱりエデンの園を思い出しますよね。そのエデンの園の中央に2つの木がありました。

1つは善悪の知識を知る木の実ですね。もう一つは命の木です。ところが善悪の知識の木の実を食べてしまったために 、人間は楽園から追放されてしまって、その命の木に届かないように、そこにケルビィムが立って、そこに絶対入れないようにされてしまった。そういう記事が2章の最後に出てくるんですね。ですから人間は絶対に命の木の実に近づけない、そういう定めになってしまったのが、最後の最後に なって、そこにはまた命の木が有るわけですね。エデンの園のあの場面、命の木に戻ってきたと、そういうことも気づかされる記事かなと思います。そこに本当の祝福があると言うことがわかります。呪いがもうないですね。そしてそこに神と子羊の御座が都の中にあり、神の僕たちは神に仕えていると言うことで、神様とその僕たちがジカにお会いして、そして仕えていると言う、そこに生きた神様との交わりがあるっていうことですね。そこには闇がない、夜がない、神である主が彼らを照らされるので、灯も太陽の光もいらない。神様ご自身が光だから、太陽もいらないと言うようなことができます。

このようにしてみると、本当に命に輝いている、生き生きとした、そういう世界なんだなと言うことが示されております。これが私たちのゴールですね。私たちが今、目指しているところが、ここに記されてあります。

2.これらの言葉は真実であり、信頼できます

中には本当にこんな世界があるのかな?ちょっと夢じゃないかしら?と、ちょっと思ってしまう、なそんな光景かもしれません。聖書を知らない人クリスチャンでない人は、 そんな現実離れした夢物語だなんていうふうに言われてしまうような事かも知れません。でも6節を見ると このように書いてますね。

御使いは私に言った。「これらのことばは真実であり、信頼できます。」

「これらの言葉」って出てきますが、これらは黙示録全体を表す と考えて良いかなと思います。ですからここにきて、まとめに入っているということがわかるんですけれども、これらの言葉は、ヨハネが今までさんざん見てきた幻、そこで示されてきたたくさんのメッセージがありますね、それ全部神様から与えられた 幻であり、その言葉をずっと書きつらねてきましたけれども、これらの言葉は真実であり、そして信頼できる、必ずその通りになりますよと言うことを、最後に念を押してヨハネに伝えてくださったと言うことです。

私たちはこの言葉を通して、安心して黙示録の言葉を信じることができるし、このような世界がちゃんと用意されているんだなと言う事 、希望を持って信じることができるということ、そのことを感謝とともに覚えたいと思います。

3.聖書全体の最後のメッセージ

そういうわけで21章の続きで7節からは 最後のフィナーレといいますかまとめになるかと思います。そして後半部分で最後のメッセージと言っていいと思います。黙示録の最後というだけでなくて、聖書全体の最後のメッセージと言っていいかもしれません。聖書で最後に強調されているメッセージは何でしょうか?

みよ、わたしはすぐに来る

それは7節と12節と20節に繰り返し語られている「みよ、私はすぐに来 る」と3回繰り返されております。
これは間違いなく聖書の最後にはっきりと伝えられているメッセージであると言うことが言えると思います。この黙示録が書かれたのは今から2000年位前になりますけれども、すぐ来ると言ってから2000年経っているわけで、なかなか来ないじゃないかと、ある人は思うかもしれませんね。2000年たってもまだ来ていないなぁ、まだ来てないなぁと、言う感じがあるかも知れませんけれども、気を付けていないと、そういう感覚で聖書を読んでしまうと、まだ来ないかなと、ちょっと油断してしまって、まだ大丈夫かな、まだ来ないかなと思っていると、ほんとにすぐ来てしまうんだと思います。それで多分イエス様がいらっしゃった時に、きっと私たちは思うんじゃないでしょうか。「イエス様、もういらっしゃったんですか?」そういう気持ちになるんじゃないでしょうか。 ですから私たちは目を覚まして、いつ来てもいいように、ほんとにすぐ来るんだということを忘れないように、信じていかなければいけないなと言うふうに思います。

そしてもう一つ最後のところで強調されているのは、13節の言葉 なんですけれども、これも3回繰り返しています。

わたしはアルファでありオメガである

私はアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終りである

言葉がちょっとずつ変わっているんですけど、同じことを言ってるんですね。これも強調されていると言う意味で、本当にイエス様は、初めであり終わりなんだということですね。始めた事は必ず終わりがある。そしてこの「 最後である」と訳されている言葉は、テロスというギリシャ語なんですけれども、この言葉は「完成する」と言う意味を含んでいる終わりと言う言葉です。ですからただ終わりじゃないんですね。完成すると言う意味を含んでいる終わりです。ですから必ず完成します 。神様の御業というのは、必ず完成する。私たちも完成する。そして地上も完成します。新天新地が完成します。神様のご計画は全部完成します。そういうところにつながっていくということが、ここで強調されているということがわかるかなと思います。

4.私達の備え

そうすると私たちの課題としては、すぐイエス様がいらっしゃいます。そのすぐいらっしゃるイエス様を、 どんな備えをして待っていたら良いのか?どんな気持ちで待っていたらいいのか?それが私たちの課題になってくるのかなと思います。

今日の聖書の箇所から3つのことが言えるのかなと思います。

御言葉を守る

 イエス様は、私はすぐに来るとおっしゃってまして、じゃあどんな準備をしながら私たちはイエス様を待つべきかと言う事ですが、まず1つには7節ですが、御言葉を守ると言うことです。7節、

見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は幸いである。

イエス様はすぐにきます。そして私たちがここでしなければならない事は、御言葉を守ると言う事ですね。預言の言葉を守るものは幸いですと書いてありますから。

ガラテヤ書には最初、純粋な信仰だったのに、変な教えが入ってきて、教会が 混乱して、そしてせっかく恵みによって救われたクリスチャンたちが、律法を行わなくてはいけないんだとか、あるいは割礼しなくちゃいけないだとか、そういう教えにとらわれて、教会が混乱したと言う記事があるんですが、私達は本当に福音を守っていかなくちゃいけませんね。福音は福音でなければいけません。福音が違うものに変わってしまったら、もう救いはないんですね。福音が福音であるからこそ、人は救われるんですね。神様のメッセージであるからこそ、それは救いのメッセージになるんです。それが人のメッセージに変わってしまったら、それは全然効果がないわけです。ですから本当に福音が福音として保たれていく戦いというのがあると思います。今日そういう戦いがあると思うんです。ですから福音を守っていくということがすごく大事だということですね。そのことを私たちはしっかりと覚えておかなければいけないことだと思います。

その一つの例なのかなと思うんですけれども、福音を守れなかったヨハネの例というのが、この8節、9節に出てきます。これは失敗談なのかなと思うんですが、御使を礼拝しようとしてしまうことがありました。これは19章でも同じことをやってるんですね。同じ場面がありました。8節と9節でヨハネは、御使いの足元にひれ伏して礼拝しようとしたと書いてありますね。そうすると御使いからいけませんと言われて、怒られて、神を礼拝しなさいと言われています。もしかしたら初代教会には御使礼拝と言いますか天使礼拝という習慣が紛れ込んでいたと言われています。そういうことが意識されているのかなと思うんですが、そういうことも意識された中で、こういうことが書かれた可能性もあるんで けれども、いずれにせよ、ここでちゃんと指導してもらって、いけませんと言ってもらって、ちゃんと軌道修正できたと言う事はヨハネにとって幸だし、またそういうふうに私たちは導かれていくんだろうなと思います。私たちもヨハネと同じで、神様を礼拝したいと思ってるし、また神様の御言葉に従いたいと思っていながらも、ちょっと焦点がずれるとか、道がそれるとか、間違いとか、結構あるわけですね。でもそういう時に必ず、いけませんと言っていただける、神を礼拝いしなさいと指示してもらえる、正しい方向にちゃんと向くことができるように御言葉がみちびいてくれるということなんですね。 ですから本当にそういう意味でも、御言葉と言うのは、すばらしいなと思いますが、その御言葉を守ると言う事は、私たちにとってどんなに大切なことか、大事なことかということを、ここで覚えたいと思います。

罪に勝利してゆく

二番目のことは、14節ですけれども、

自分の衣を洗う者たちは幸いである

と言う言葉が出てきます。私たちはクリスチャンになって、白い衣を着せられて、 清められているんですけれども、でもその割には、その後も罪を犯すわけですね。そうすると白い着物がだんだん汚れていきます。そうなるとやはり洗濯が必要になるんですね。ですから自分の着物を洗う者たちは幸いであると言うことです。清められているんですけれども、でもその割にはその後も罪を犯すわけですね。そうすると白い着物がだんだん汚れていきます。そうなるとやはり洗濯が必要になるんですね。ですから自分の衣を洗うもの達は幸いであると言うことです。 

私たちは救われたものであるけれども、まだ完成していないわけです。今、完成を目指しているところです。その途中です、ですから不十分なところもまだ有るし、失敗してしまうところもあるし、罪を犯してしまうところもあるし、そういうことを繰り返していくわけですけれども、でも完成を目指しているところは変わらない。

そのためには何が大切かと言うと、衣を洗うと言うことです。ちゃんと罪を清められてゆくということ、そして罪に勝利すると言うことですね。罪を断ち切るというだけではなくて、罪に勝利してゆくと言うこと、そういうことがクリスチャンとして求められていると言う事ですね。そういうことを通して、私たちは、すぐやってくるイエス様を待つことができる。そういう準備が必要だと言うことを覚えたいなと思います。クリスチャンの中には洗礼を受けると、安心してしまって、ほっとしてしまって、もうゴールにたどり着いたかのような、そんな勘違いをしてしまい、その後たるんでしまう、緩んでしまうこともあるかなと思います。洗礼を受けるかたには必ず学びをしますけれども、その時にはこれからスタートだよと必ず言うようにしています。クリスチャンになった後が大事ですよと言うことを話すようにしています。

「来てください」という応答の言葉

もう一つ最後に私がすぐに来るとイエス様がおっしゃった、それにどう私たちは答えたらいいのか、応答したらよいのか。17節に、

御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。

イエス様が、「見よ、私はすぐに来る」と言っているわけですね、それに対して私たちはなんと応答するか?まだこないでくださいとか、ちょっと待ってくださいとか、そう言いたくなるような気持ちも、もしかしたらあるかもしれないですね。

今、来られたら困りますとかですね、私たちはどんな応答をしてるかということなんです。でもここでは「御霊と花嫁が言う」と書いてあるんですね。御霊なんですよね。御霊がやっぱり与えてくださる告白であるし、そして改めて私たちは花嫁なんだなと言うことを教えられる言葉だと思います。花嫁は花婿を待っていますね。花婿が、今いくよって言った時に、まだ来ないでって言う花嫁はいないと思いますね。花嫁はやっぱり来て欲しいんですね。イエス様が花婿ですから、花婿であるイエス様が来てくださいと言っているのに、まだ来ないでというのは、ちょっと失礼じゃないかなと思います。私たちやっぱり心を開いて、来てください、イエス様といられるのは幸せなことですね。イエス様と直にお会いできるんです 。イエス様と一つになれるんです。それを思うとき、私たちはやはり、「来てください」と言う応答の言葉が出てくるんじゃないかなと思います。

5.最後の招きのことば

そしてもう一つ、注目したいのは、「これを聴く者も言いなさい」と、 17節にあります。自分で「来てください」と言うだけじゃなくて、これを聞く者も「来てください」と言いなさいと言う事なんですね。

この「聞く者」と言うのは誰なのか?これは色々と解釈があるんですが、これはやはり、「来てください」と言う声が、人々に聞かれなければいけないと言う、そういうことが意図されているんだと思います。 そしてその次の言葉とのつながりで考えるときに、これはやはり、まだ救われていない人たち、まだイエス様のことを信じていない人たちが、この言葉を聞かなければいけない 、ここに「渇く者は来なさい。命の水がほしい者はただで受けなさい」と言う言葉につながっていきます。これは聖書の最後に出てくる神様の招きの言葉であると考えて良いと思います。聖書の最後のページに至るまで、神様は招いていますね。私のもとに来なさいと招いているその言葉が、最後まで出てくる。その声はちゃんと聞かれなければいけない。ですから私たちは、「来てください」と言う再臨の主を待ち望む、そして「来てください」と声を上げることによって、人々に伝道することができる、そういう時が来るんだよと言うことをちゃんと知らせることができる、 そういうことも教えられる箇所じゃないかなと思います。てここでは「渇いている者は来なさい」と言っていますね。 命の水が欲しいものはただで受けなさいと言っています。救いの恵は、ただで与えられるんです。こんなに素晴らしいものはないですね。

でも、それを知らない人がたくさんいるんですけれども、渇いている人は 来なさいとあります。神様は、本当はすべての人を招きたいと思っているんですね。でも多分15節にでき出てくるような人たちは、どんなに招いても、来ないんだと思うんですね、

犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、 偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。

この人たちは中に入れないよと宣言されています。

この人たちはどんなに来なさい、来なさいといっても、 来ることができないんだと思いますね。最後の招きと言うのはあくまでも渇いている人、 まだ神様を知らなくて、心の深いところで渇いている人、何かを求めている人、そういう人に来なさいと、最後まで神様は招いておられる、と言うことを私たちは忘れないようにしたいと思いますね。そういう気持ちで私たちは、本当にイエス様がすぐ来られると言う事ですので、しっかりとした準備をもってイエス様を待ち望むものでありたいと思います。

6.まとめ

前にもちょっと紹介したと思うんですが、初代教会が非常に、伝道熱心だったと言うこと、そしてローマ帝国のその中に、どんどん教会が広まっていった、そういうことを分析し、その理由が書いてある本があるんですけれども。1つは初代教会の人たちは本当にイエス様が、すぐ来るんだんと思っていた、再臨信仰が非常にはっきりしていた、本当に明日くるんじゃないかと、本気で思っているような、今来たら本当に大変だ、これは絶対伝えなくちゃいけないと言う、明確な再臨信仰に生かされていたと言うことが書いてあるんですね。

ですから私たちも本当に、この信仰を持たなければいけないなと思います。まだしばらく大丈夫かなと思っていると、全然伝道しようと言う気持ちが湧かないかもしれない。明日もしいらっしゃると思ったら、もうほんとに今日のうちに伝えなくちゃと言う気持ちになると思うんですね。そういう意味でイエス様がすぐに来るよと言っている言葉を、本当に信仰持って受け止めて、今、与えられている時間を有効に用いて、御言葉をしっかりと守って、私たち自身もしっかりと清められて、福音をしっかりと伝えていく、そんな風にしてイエス様を待ち望みたいなと言うふうに思います。

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