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黙示録17章・・大淫婦への裁き。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 

黙示録17章6節:私は、この女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。

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黙示録17章は、「大淫婦に下される、裁きの様子」ということになります。

前回16章の19節を学んだ時に、

大きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。神は大バビロンを忘れず、自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。」ということで、16章はこの「7つの鉢」に神の憤りが注がれて、この最後の裁きが展開されていく場面でしたけれども、最後の7番目の鉢によって、この大バビロンと呼ばれる都が、三つに裂かれていく様子、そしてその諸国も、町々も倒れていくという、そういう言葉が出てまいりました。

その具体的な内容が、17章と18章に出てくるというふうに考えられます。そこには、三つぐらいの内容があって、最初は「大淫婦」の姿が描かれていきます。

1.大淫婦の姿。

どういう姿をしているかといえば、ずいぶん派手な姿をしていたということが分かるかなと思います。

そして二番目のところは、この意味の説明ですね。17章7節に、

この女の秘められた意味と、この女を乗せている獣の秘められた意味をあなたに話しましょう。」ということで、実際にこの姿が見えた、さらにその意味の解き明かしが、7節以降に出てくる内容です。そして18章に入るんですけれども、実際の裁きの場面というのは、18章になります。ですから三つぐらいのステージがあるということが言えると思います。

  A.王達との不品行。

 

最初はどんな姿をしていたか、ということなんですけれども、1節で、

「また7つの鉢を持つ7人の御使いの一人が来て私に語りかけた。ここに来なさい、大水の上に座している大淫婦に対する裁きを見せましょう」っていうことで、もう一度、裁きを見せますということです。この大淫婦という存在、そしてこの存在が、ここでは大水の上に座しているという風に書いてあります。大水というところに、座っている、この大水というのが、何を指しているのか、次の18章に行くと大バビロンが海洋貿易を支配していたということも出てくるので、そういうことも意図されていたかなと思うんですけれども、でもおそらくこれは、諸国に対する影響力を行使できる場所に居たと考えたらいいのかなと思います。

17章の15節に、

あなたが見た水、淫婦が座しているところ」と出てきます。その所は「諸々の民族、群衆、国民、言語です。」と書いてあります。ですからこの世界中の人々に、圧倒的影響力を与えうるその場所に大淫婦が座していた、座っていたということが言えるだろうと思います。そして確かにこの大淫婦の持つ影響力の凄まじさというのが、2節に出てきますけども、「地の王たちは、この女と淫らなことを行い、地に住む人々は、この女の淫行のぶどう酒に酔いました。」ということで地上の王たち、諸国のたくさんの王たちが、この大淫婦と呼ばれる人と淫行を行い、また地にその人たちもこのぶどう酒に酔いしれたということでの大淫婦の世界中に及んでいく影響力の凄まじさというものが、ここに描かれていると思います。そういう風にして紹介されているんですが、

3節、「それから、御使いは私を御霊によって荒野へ連れて行った。」荒野に連れて行ったと書いてあるんですね。で、そこからまた見るようになってるんですけど、「荒野」という言葉はとても大事な言葉だと思いますね。これは黙示録を読んでいく中で、12章にも出てきたんですけれども、荒野というのは、イスラエルの民にとっては、自分たちのいる場所なんですね。そして神様によって養われる場所だということが、12章を学んだ時に出てきました。ですから、そこは神と向き合う場所、まさにイスラエルの民が、かつてエジプトから脱出をして、荒野にて神様と向き合い、神様に養われ、そこで律法を頂いたという、そういう経験をしていますので、荒野というのはそういう場所ですね。ですからその荒野に居ることによって、大淫婦の姿がよく見えたという面があるんじゃないかなと思うんですね。私たちにとっても、本当にこの世の現実が、本当によく見える場所ってどこなのかなと考えた時に、神様のもとなのかなと思えます。私たちの本来いるべき場所、神様のすぐそばにいるときに、逆に、この世の中の、本当にゆがんだ姿というのがはっきり見えてくると言うか、見させていただけるということがあるんじゃないかなと思います。ですから荒野に連れて行かれたっていうことは、すごく大事なことかなと思います。そしてこの荒野に連れて行かれて、更にはっきりと見えてくるわけですけれども、3節~6節、

  B.緋色の獣

私は一人の女が、緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神を冒涜する名で満ちていて、7つの頭と、十本の角を持っていた。その女は、紫と緋色の衣を纏い、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものと、自らの淫行の汚れで満ちた金の盃を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名、「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」という名が記されていた。私はこの女が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見て非常に驚いた。」

ずっとここに大淫婦と呼ばれる存在の姿が描かれていきます。そしてここに、またあの獣が出てくるんですね。この7つの頭と十本の角を持っていた「獣」っていうのは、13章にも登場してきた世界の諸々の大国、そして反キリストを表わします。この獣は、竜から権威を与えられて、この地上では政治的権力と言ったらいいでしょうか、そういう力を行使する存在として、ここにも登場してきましたけれども、大淫婦はこの獣の背中に乗っていた。緋色の獣に乗っているということで、一体であるといいますか、一つになっていたのです。

緋色というのは赤黒い色ですね。緋色の「緋」というのは、罪を表します。

イザヤ書の中に、「たとえ貴方の罪が緋のように赤くても」という言葉があります。でも白くなるって言う話の筋の中に出てきますので、「緋色」は罪を表しています。

この女も、「紫と緋色の衣をまとっていて」とあって、通常、王が着る紫色の衣をまとい、同時に緋色、つまり、罪に満ちた姿で描かれています。さらに「金と宝石と真珠で身を飾っていた」とあるので、富を蓄積していたのでしょう。そして「忌まわしいものと、自らの淫行の汚れで満ちた金の盃を手に持っていた」とありますから、この姿というのは経済的な繁栄と同時に性的堕落がセットになっている姿、 豊かではあるけれども道徳的には堕落していて、特に性的な面において堕落している姿が表されております。 

「その額には、意味の秘められた名、「大バビロン」・・ここに大バビロンって言う言葉が出てきます。大淫婦とか大バビロンとかみんな「大」がつくんですね。その言葉が何度も何度も繰り返しされいていまして、16章、17章、18章、、19章の4章に12回出てくるのですが、ギリシャ語の「メガス」という言葉ですが、大きいとか、凄まじいとか、そういう意味を持っていますが、その大きさが強調されているということですね。ですからもうその大きさとか力強さにみんな惹きつけられていくような、それだけでも魅力的な、そういう面があったんだと思います。しかも、そこには非常に人間の欲を満たしてくれるような、そういうものがあるということで、どんどん人々がそっちの方に流れていく、そういう存在だったということが言えると思います。

大バビロンという名前の他に、「淫婦達と地上の忌まわしいものも母」と出てきます。

「母」という言葉が出てきますから、地上が淫行に満ちている、腐敗に満ちている大元に、いる存在ですね。母親という存在というのは、生み出している、大元にある、そういう存在だったということですね。この姿を見て、ヨハネは非常に驚いたと言うことなんです。

この場面を見て私たちは、この世の中の姿そのままだと思うんですね。今の世の中も、本当にそうだと思いますけれども、でも私たちはこういう異常さに気付いて、どれだけ驚いているかなっていうことは、ちょっと考えさせられました。ヨハネはその姿を見て、非常に驚いたっということがあって、私たちは、もっともっと驚かなくてはいけないことかもしれませんけれども、意外と普通になってしまっている、当たり前になっちゃっているような、そういう面もあるかもしれないなという風に思います。

2.秘められた意味

  A.獣の秘められた意味

今度は7節からは、この秘められた意味の解き明かしが始まります。7節、

すると御使いは私に言った。なぜ驚くのですか。私はこの女の秘められた意味と、この女を乗せている、7つの頭と十本の角を持つ獣の秘められた意味をあなたに話しましょう

読んでいくと、「なんだ、大淫婦ではなくて、獣なんだ」という気がしてきますね。8節~11節を見ると獣のことが出てきます。

8節、「あなたが見た獣は、昔はいたが、今はいません。やがて底知れぬ所から登ってきますが、滅びることになります。地に住む者たちで、世界の基が据えられた時から命の書に名が書き記されていない者たちは、その獣が昔はいたが今はおらず、やがて現れるのを見て驚くでしょう。」

9節「ここに知恵のある考え方が必要です。7つの頭とは、この女が座している7つの山で、それは7人の王たちのことです。」

10節、「5人はすでに倒れましたが、一人は今いて、もう一人はまだ来ていません。彼が来れば、しばらくとどまるはずです。」

11節、「また昔はいたが今はいないあの獣は8番目の王ですが、7人のうちの一人でもあり、滅びることになります。

という風にですねこの獣の解説がずっと続いておりまして、この獣は一体何なのかという感じですし、その7つの頭が7人の王であるとかですね、その後十本の角が出てきますけれども、いろんな解説がなされております。この獣は「昔はいたけれども、今はいない。やがて底知れぬところから登ってくる。」というわけで、 昔はいたけど今はいない、またやがてやってくるっていう、そういうことが出てくるんですね。それは何を意味しているのかということでいろいろとの解釈がり、難しいところでもあるんですけれども、一つの解説によるとですね、当時のローマ帝国の中には、「ネロ復活神話」というのがあったそうです。皇帝ネロという非常に道徳的に腐敗をしており、そしてキリスト教徒たちを散々迫害した皇帝がいるわけですね。ローマ帝国の迫害というのは、ネロ皇帝から始まったという一つの歴史的な事実がありまして、ペテロ・パウロは、その時殉教してるんですね。この時はネロはもう亡くなった後の時代です。ネロの亡くなった後の時代で、それでもネロのような皇帝がまた復活してくるんじゃないかっていうそういう神話、あるいはそういう不安のようなものが当時あったということが、ちょっと解説書に書いてありました。この時代はドミチアヌスという皇帝がいて、この時もまた非常に厳しい迫害があったわけですけれども、確かにローマの歴史を見ていくと、その後迫害が止むこともあるんですよね。でもその後また違う皇帝が現れてくると、またさらに激しい迫害があるという、そそういうことを繰り返してるのですね。そういう歴史的なことをふまえながら読んでいくと、確かに昔、非常に厳しい獣のような皇帝がいた、今はいない、でももっと酷いのが、やがてやってくるっというそういうことが象徴的に示されてるんじゃないかという事が言われています。いずれにせよこの獣という存在が、次から次にやってくる。そして5人はすでに倒れたが、一人は今いて、もう一人はまだ来ていないということで、10節に5人はもうやって来た。この5人というのが、今までのローマ皇帝の5人の皇帝なんだという風に解釈する人もいます。1番目がアウグストス、2番目がテベリウス、3番目がカリグラ、4番目がクラウディウス、そして五番目がネロで、5番目はもういなくなって、今いるのはドミチアヌスだとかですね、そういう具体的な皇帝の名前を当てはめて考える人もいるし、あるいはこの5人はすでに倒れたというの今まで栄えてきた帝国ですね、エジプトから始まり、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ここまでは既に倒れた。今あるのはローマである、6番目はローマである。でもその後、もっとすごいのがやってくる。そういうことを意図してるんじゃないかという、そういう解説もあります。

いずれにせよ、そういう風に具体的な解釈も可能かもしれませんが、象徴的に考えるべきことかなという風にも思いますね。

つまり、今までもそうでした。いろんな支配がありました。それでだんだん苦しんできて、今6番目です。でもやがて7番目と8番目がやってきて、もっと大変なことが起こるということが、この様な描写によって表されているというふうに考えたらいいのかなと思います。

そして十本の角というのも、10人の王であるということが、12節に出てきて、

彼らはまだ王権を受けてはいませんが、獣と共に一時だけ王としての権威を受けます。」、この10人の王たちというのが何を指しているのかは、これもまた色々な解釈が分かれるところですけれども、いずれにせよそういう王たちが現れて、そしてこの王達は獣とひとつ思いになって、そして自分たちの力と権威をその獣に委ねるというわけですね。獣と呼ばれる一つの絶対的権威のもとに、たくさんの王たちが結集していく、あるいは、そこに一つに連結をしていくような、そういう姿が描写されているというふうに考えられます。

そして最終的に何が起こるかと言うと14節です。

彼らは子羊に戦いを挑みます。」これは前回学んだところですが、ハルマゲドンって言葉が出てきましたけど、地上の王達が皆集められてですね、そして最後の戦いをするっていう、子羊に戦いを挑むっていう記事が、前にも出てきましたけれども、ここにもまた出てきます。戦いを挑むと最終戦争のようなものが起こる、でも彼らは全然かないません。

子ひつじは彼らに打ち勝つ。」なぜならば、「子羊は主の主、王の王だからです。」子羊というのはイエス様のことを表しています。獣に引きずられる、そういう国々の王様たちが戦いを挑んでも、全然かなわないっていうことですね。

そして、「子羊と共にいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」という一節が加えられております。

子羊と共にいるというのは、救いを頂いているキリスト者たち、私たちも含まれているというふうに考えられますけれども、その人たちは子羊と共ににいるので、その勝利の祝福にあずかれるということが言えるのかなと思いますね。

私達は何の貢献もしていないと感じているかましれませんけれども、主が戦ってくださるんだと思いますけど、その勝利の祝福だけはちゃんといただけると言うことが、ここに示されているんだと思いますね。

ただ、そこで私達はよく覚えておかなければいけないことは、そこで示されているのは、召された人達、選ばれた人達、そして忠実な人たちであるということですね。子羊と共にいる、イエス様と共にいるとはどういうことなんだろうか。ただ一緒にいるって言うだけではなくて、やはりそれは、選ばれているということです。そして召されたってことですよね。召された召しを、ちゃんと私たちが受け止めて、選ばれるということですね。招待される客は多いけど、選ばれる人少ないのですというイエス様の言葉がありますね。招待状はみんなに出されているんですね。みんな招かれているんです。招かれても応えない人もいるんですね。応えない人は選ばれてないんですね。招待されてもちゃんとそれを受け止めて、招待に応える人は選ばれた人です。

私達どれだけ神様の御言葉に応答しているだろうかということを、ここで考えさせられることですし、それと同時に最後に「忠実な者達」っていうことが出てきますね。やっぱり忠実さが求められてくるということも教えられるんじゃないかなと思います。いずれにせよ私たちは祝福に与っているということを覚えたいと思います。そしてここまでズーッと獣についての説明だったんですが、15節からいよいよまた、大淫婦が出てきます。

  B.大淫婦の秘められた意味

15節、

「また御使は私に言った。「あなたが見た水、淫婦が座しているところは、諸々の民族、群衆、国民、言語です。あなたが見た十本の角と獣は、やがて淫婦を憎み、剥ぎ取って裸にし、その肉を食らって火で焼き尽くすことになります。」

ここに大淫婦の裁きの姿、具体的には18章に出てくるんですけれども、その裁きの姿がここに出てきます。で、これを読むと、この獣が憎むと出てきます。さっきまで獣の背中に乗っていて、一つだったんじゃないのかと、そういう感じがします。でもその一致というのは、もう偽りの一致なんです。そこに何にも一つのものはないのに、とりあえず力によって一つにまとまっているという、そういう関係だったのが、結局は最後にはこの獣によって憎まれるんですね。

ここではもう大淫婦じゃないですね。ただの淫婦になってますね。大という文字が抜け落ちてしまっておりますね。普通の淫婦に変わってしまってるって事に気づかされるんですけれども、この獣が、やがって陰謀を憎み、剥ぎ取って裸にし、あんなに着飾って、宝石いっぱいくっつけてて、もすごく贅沢な身なりをしていたのに、 全部剥ぎ取られて、裸にされてしまって、その肉を食われてしまって、最後は火で焼き尽くすことになりますという、なんとも哀れな最期ですね。これが獣によって引き起こされるということが、ここに出てくることです。

そして17節を見るとさらにそのことがわかりますけれども、

 

それは神の言葉が成る時まで、神は、み心が実現するように王たちの心を動かし、彼らが一つ思いとなって、自分たちの支配権を獣に委ねるようにされたからです

と書いてあります。ここに「神のことばが成る時まで」と 限定された時間の中でのことだということが出てきます。そしてその目的は、神の御心を実現するために、神様が王たちの心を動かしている。そして彼らが一つの想いとなって、獣に支配権を委ねて、そしてそのことによって大淫婦が滅ぼされていくっていう、そういう展開になっているわけです。

これは王達には、そんな気は全然なかったと思うんですね。自分達の欲望と、その野望によって、そういうことがなされているんだと思うんですけれども、でもそういうことも含めて全部、それは神様の御心の中に起こっていること、御手の中に起こっていることで、最終的にはそういう風に大淫婦が滅ぼされていくっていうそういう結果になる。それは主の御心なんだということが示されているんですね。

このことは非常に考えさせられる言葉です。人間のその想いと、神様のご計画というのが繋がっているんですね。人間は、自分の事ばっかり考えて、それでいろんなことをやっていますが、でもそういうことが全部実は神様の御心の中で実現していくっていう、非常に不思議な展開があるっていうことですね。全ては神様の御手の中で起こっていることなんだということが示されております。そして最後の18節で、

あなたが見たあの女は、地の王達を支配する大きな都のことです。」

ということで最後に大きな都という言葉が出てきて、大淫婦あるいは大バビロンとは、都のことなんだなということが分かると思います。この記事を読んだ当時の人たちは、間違いなくローマのこと思ったと思いますね。大きな都って言ったら、もうローマです。当時の人達にとってローマっていうのはもうすごく繁栄していた都ですよね。非常に豊かな、でも文化的、道徳的にはとても退廃していた街だったということが言われていますね。ですからここに出てくる姿は、そのままですね。そして非常に世界中に影響力を与えていて、諸国の王たちは、みんなローマ、ローマ、といって、ローマと繋がってるだけで儲かる、ローマと繋がっているだけで繁栄する状況にあり、みんなローマを目指しているという時代ですね。でもその中でクリスチャンたちは苦しんでいるんです。このローマの繁栄が続く限り、自分たちは苦しまなければならないのか?そういう現実の中に閉じ込められているようなクリスチャンたちにとって、このメッセージがどんな響きを持っていたんでしょうか。それは時代を見る視点というものを彼らに提供したであろうということが考えられます。

なぜこんなにローマが繁栄して、豊かな人が、得をして、自分たちのような信仰者が苦しまなければいけないのか、そういう問いかけが絶対あったと思うんですね。

それに対してはこのローマもいずれは滅びるんだよ、こういう繁栄は必ず倒れるんだよと、そういうことがここで教えられていて、結局、最後に勝利するのはイエス様なんだよということ、そのイエス様のもとにあなたがたは居るんだよということ、そういう励ましのメッセージであったという風にも考えられます。

そしてもう一つ、この箇所を通して教えられるのは、実はイスラエルもかつては「遊女」と呼ばれていた時代があったんですね。ここに出てくる大淫婦の姿、ローマの姿かもしれませんけれども、旧約聖書を読んでいると、かつてイスラエルの民は遊女のようだったという風に呼ばれている時がありました。イザヤ書1章21節を読むと、

どうして遊女になったのか、忠実な都が。」

かつては忠実だったはずのイスラエルが遊女になってしまった、これは偶像礼拝に走ってしまったことを嘆いている予言者イザヤの言葉です。またエレミヤ書2章20節にも、

あなたは全ての高い丘の上や、青々と茂るあらゆる木の下で、寝そべって淫行を行っている。

とあって、イスラエルの姿を嘆いています。かつては繁栄して栄えていた豊かな都だったはずのイスラエルが、淫行に耽っているとか、あなたの美しさに、より頼んで、自分の名声に溺れて姦淫を行ったとか、そういう言葉が旧約聖書の中に結構出てきます。

かつてのイスラエルは、まさにこの大淫婦のような姿だったということが言えるかもしれませんが、でもそのイスラエルが、今はキリストの花嫁とされている、黙示録の最後の場面で、花婿と花嫁と結婚式の場面が出てくるんですけれども、かつてはそういう風に遊女だったイスラエルの民が、今は花嫁とされている恵みというのがそこに出てくる、それはまさにイエスキリストの十字架の御業によってなされた、与えられた恵みであるということを、私たちは教えられると思います。

以上、大淫婦の裁きの最初の部分でしたけれども、来週は中身のほうを見てゆきたいと思います。

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