イエス・キリストをより良く知るために

黙示録14章

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。

 

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黙示録14章1節:また私は見た。すると見よ小羊がシオンの山の上に立っていた 。また子羊と共に144,000人の人たちがいて、その額には子羊の御名と、子羊の父の名が記されていた。 

 

14章に入っていきますけれど、これまで第12章では、地上の教会は、竜に追い掛け回されているという、そういう姿が描かれていましたが、でもそういう中にあっても、ちゃんと主の守りがあるという内容でした。また「一人の女」という象徴的な言葉で「教会」が表されていましたけれども、竜との戦いということが12章に描かれていました。13章では獣が出てきまして、二つの獣がいて一つは政治的な権力、もう一つは偽預言者を表しているということで、どちらかと言うと宗教的な力を備えている。その政治的な力と宗教的な力が結託して教会を苦しめると言うことが描かれて居ました。地上の教会はそのような戦いの中に置かれているということを前回学びました。

その中にあっても、守りがありますけれども、でも同時に聖徒たちの忍耐と信仰が必要であると13章の10節に書いてありました。それは3年半という限られた時間ではありますけれども、いろんな忍耐が求められる、そういう時期を教会は、らされるということが教えられていたと思います。

1.シオンの山に立つイエスと地上から贖われた144,000人の姿

そういう内容を受けて、14章に入るんですけれども、今日学ぶところは「また私は見た」という言葉から始まっています。これまで何度もヨハネは、「私は見た」「私は聞いた」という言葉を繰り返しているんですけれど、今日の箇所は、それがかなり頻繁に出てきます。

1節では「また私は見た」と出てきましうし、6節でも「また私は見た」と出てきます。そして2節では「私は聞いた」っていう言葉が出てくるんです。13節でも、「また私は聞いた」、14節にもまた「私は見た」っていう風に、見たり聞いたりしてるんだなっていうことなんです。

その間に、たくさんの御使いが出てきます。いろんな御使いが出てきまして、それぞれメッセージを発するんですね。ですから非常に、場面がめまぐるしく変わっていくような、そんな雰囲気の内容だなと思うんですけれども、いろいろ追求していくと、いろんなことがあるんだと思いますけれども、今日は全体的にこの流れを学ぶことができたらいいのかなと思っております。

 

最初「また私は見た」ということで、何を見たのかなというと、それは1節から5節までの内容ですけれども、天上の賛美の様子ですね。賛美をしている姿で、これまでも何度も出てきました。ヨハネは繰り返し、天上の礼拝の姿、賛美の姿っていうのを、黙示録の中に描いてきましたけれども、ここでもまた、繰り返し出てくるというところに、やっぱりそこに励ましがあるんだろうなと思います。

地上の現実っていうのは、非常に厳しいいろんな戦いがあります。竜が出てきたり、獣が出てきたり、偽預言者が出てきたり、それだけだと、本当に私たちは苦しくなってしまうということかもしれませんけれど、その、あいだあいだに、必ず天上の賛美の姿が描かれていますね。それはやっぱり地上の教会に対するメッセージだと思います。やはり私たち、いつも天を見てなくちゃいけないということの一つのメッセージだなと思います。1節、

また私は見た。すると見よ、子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに144,000人の人達がいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。

ということで、子羊がシオンの山に立っていた、というのはつまり、イエス様がシオンの山に立っていたと言うことですね。シオンの山というのは、イスラエルの人達にとっては、心の山と言うか、旧訳聖書の中にも、何度も出てきますけれども、それはおそらく、地上の彼らの一番身近な所、そういう所にイエス様は立って下さっている。そしてそれは救いの場所ですよね、シオンの山というのは救いの場所です。

ですから、これまでの黙示録の中で、子羊が出てきた時には、むしろ、「天」に立っていたっていうか、天におられたっていう、そういうことが書いてありました。ですからどちらかというと向こうの世界にいらっしゃるのかなという感じの感覚だったと思うんですけれども、ここではもうシオンの山に立っている、すごく身近なところに来てくださった。これはおそらくイエス様の再臨のことが象徴的に表されているんじゃないかなと考えることができます。

そして144,000人の人達っていうのは7章に出てきましたね。またここで再び登場してきて、この144,000人の人達は、3節を見ると、「地上から贖われた144,000人」と出てきます。そして4節を見ると、「彼らは神と子羊に捧げられる初穂として人々の中から贖い出されたのである。」と書いてありますね。ですからこの人たちは、すでに地上から離れて神様のものにされた人達、そしてその人達の額には、子羊の名前と、子羊の父の名が記されていた、つまりイエス様の名前と神様の刻印が押されているという事ですね。

13章の最後のところでは、「666」っていう数字を押されていた人たちもたくさんいたっていうことがでできてますけれども、これととても対照的ですね。

私たちの額には、どんなものが押されているのか。見えないわけですけれども、でも私達の額には、イエス様と父なる神様の印が押されていて、神様のものにされているんですね。これは私たちに与えられている恵みだなと思います。その光景が出てきますけども、2節で、

また私は天からの声を聞いた。それは大水の轟のようであり、激しい雷鳴のようでもあった。しかも私が聞いたその声は、竪琴を弾く人たちが竪琴に合わせて歌う声のようであった。」ということで、今度は「見た」ではなく、「聞いた」、ヨハネが聞いていますけれども、大水の轟のようであり、激しい雷鳴のようであり、非常に大きな声だったと、でも同時にそれは、竪琴を弾く人たちが竪琴に合わせて歌う声のようであったというのです。ただ大きいだけじゃない、もう本当に美しい、麗しい、うっとりするような大合唱だったということが分かるかなと思います。

そして3節に、

彼らはみ座の前と、四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた144,000人の他は、この歌を学ぶことができなかった。

この新しい歌を歌っている、このうっとりするような竪琴と、そのメロディーと、そしてその歌声が聞こえてきて、そして144,000人の人たちが一緒になって賛美している、この天国の素晴らしい礼拝の姿ですね、これがまたここに記されています。そしてそこにですね、144,000人以外の人は学ぶことができなかったっていう、そういうことも出てきますね。

今の世の中は、クリスチャンの人も、クリスチャンじゃない人も一緒に、賛美することができるかもしれませんけれども、この時には、もうこの144,000人の選ばれた人しか、この歌を学ぶことができないということが示されています。その144,000人の人達はどんな人たちだったかということが、4節に出てきます。

「女に触れて汚れたことがないものたちで童貞である。」

これは独身者じゃなければ天国に行けないという、そういう意味ではないと思いますね。これは清さということを表してるんじゃないかなと思います。そして、

「彼らは、子羊が行くところ、どこにでもついていく」とあります。ここには子羊と書いてありますけど、羊飼いのことですよね。羊飼いの人にどこにでもついていく、子供がお母さんの後をちょこちょこちょこちょこついていくような、そんな雰囲気ですけれども、羊飼いと羊たちの関係がここに表されています。

「そして彼らは、神と小羊に捧げられる初穂として、人々の中に贖い出されたのである」

初穂として捧げられた、そういう人たちなんだということが書かれてあります。

5節、

彼らの口には偽りが見いだされなかった。彼らは傷のないものたちである。

ということで偽りがないということと、傷がないということで、私たち地上の歩みにおいては、いろんな傷があり、いろんな痛みがあるんだと思いますけれども、この時にはすっかり癒していただいて、傷のない、整えられた最高の捧げものとして神様の前に捧げられるということが表されております。

このような 天上の姿のようでありながら、しかしこれは地上にもたらされた一つの現実であるって言う事ですよね。ですからそういう素晴らしい光景を、ヨハネはもう一度見せていただいたんだなということがわかります。これは本当に励ましだったと思いますね

 2.これから最後の本格的な裁きが始まるという警告

今度は6節、また私は見たと、6節から違う内容が始まります。そしてその内容を一言で言うならば、いよいよこれから本格的な裁きが始まると言う警告です。それまでも封印がとかれたり、ラッパが吹かれたりして、いろんな裁きが行なわれてきたわけですよね。でもいよいよこれから最後の本格的な裁きが始まるんだよっというその警告の内容であるということがわかります。そしていろんな御使いたちが次々に出てきますけれども、その内容を見ていきたいと思います。6節、

また私はもうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に述べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。「神を畏れよ。神に栄光をきせよ。神の裁きの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。

「中天」ってことが出てきますけど、以前は中天に鷲が飛んで、災いだ、災だ、災だと、三回警告したっていうこともあったんですね。同じ中天という言葉が出てきますけれども、これは天にあって地上に近いというか、見えるところと言うか、そういう場所であると思いますが、全世界の人たちが見えるという、そういう状況の中で、前回は「災いだ」っていうことが、そのメッセージだったのですけれど、今度は「裁きの時が来た」と言う、これは最後の警告といっていいかなと思いますね。そして神を恐れなさいと、神に栄光を帰しなさいと、そして創造者を礼拝しなさいって言う、本当に大事なメッセージを最後に伝えに来てくれたんだなということがわかります。

で、8節に違う御使いがやってきます。

またそのみ使の後にもう一人、第二のみ使いが来て言った「倒れた、倒れた、大バビロンがみ怒りを招く淫行のぶどう酒を、全ての国々のために飲ませた都が。」

大バビロンという言葉が出てきました。これは17章と18章に出てきますので、その時詳しく学びたいなと思いますけれども、大バビロンていうのは、この世の虚栄の都というか、エルサレムとは対極の、この世の都ですよね。そして大バビロンですから、すごく大きくて、経済的に繁栄していて、でも同時に、この大バビロンは「大淫婦」という言葉でも呼ばれていまして、非常に性的な堕落ですね、そういう問題を抱えていたこの世の現実と言うか、そういう都なんですけれども、その大バビロンが倒れたという、その具体的な内容が17章18章に出てきます。

で、9節、3番目の御使いがやってきました。

また、彼らの後にもう一人、第三の御使いがやってきて、大声で言った。「もし誰かが獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けるなら、その者は神の怒りのさかずきに混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。彼らの苦しみの煙は世々限りなく立ち上る。獣とその像を拝む者たち、また、誰でも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない

ということで、この獣と、その獣を拝む人たち、13章を前回学んだ時に、この獣が非常に人々の心を惹きつけて、多くの人々がこの獣を礼拝するようになる、そしてこの獣の像を作って、その獣の像を礼拝するようになるって言う、そういう記事でした。ですからこの獣っていうのは本当にこの世の人々の心を魅了してしまう、そういう魅力的な力、権力、力強さを持っていたわけで、その拝む人たちの額に666と刻まれてしまったっていうのが、前回のメッセージでしたけども、その人たちに対する裁きの警告であるということがわかります。子羊の前で火とイオウによって苦しめられる。そしてそれは世々限りなく続いてゆく、苦しみなんだという非常に厳しい警告ですよね。

3.今から後、主にあって死ぬ者は幸いです

そして12節、

ここに聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。」

ということで、厳しい世の中に生かされているクリスチャンたちにとっては、暫くの忍耐が必要なんだよという言葉も付け加えられています。

今度は「見た」じゃなくて、「私は聞いた」で始まりますが、13節、

また私は天からの声がこういうのを聞いた。「書き記せ、「今から後、主にあって死ぬ者は幸いである」と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて、安らぐことができる。彼らの行いが、彼らと共について行くからである。」

ということで、ここに「書き記しなさい」、これから言うことをちゃんと記しておきなさいと言っています。大事なメッセージだということだと思いますが、その内容は、「今から後、主にあって死ぬ者は幸いです」ということなんです。

これは当時の教会が経験していただろう、戦いとか迫害を味わいながら読む時にですね、非常に大きな励ましだったんじゃないかなと思います。

初代教会の信仰、1世紀2世紀3世紀の初代教会の人たちの置かれていた状況というのは、本当に厳しかったんですよね。でもそこに命があったんですね。あの迫害の中で殉教する人たちもたくさんいたんですね。信仰のゆえに処刑されたり、殺されてしまうっていうことが現実にあったわけですね。ですからそれは本当に恐ろしいことだったと思うんですけれども、でも聖書にはこういう風に書いてあるんですね。

今から後、主にあって死ぬ者は幸いです」って、死ぬことが幸いだなんて、なかなか言えないですよね。私たちはとてもそういう事を言えません。でも聖書にはそういう言葉が書いてあるんだなって、すごく励ましだなと思います。

どうして幸いなのかと言うと、その人たちはその労苦から解き放たれて、安らぐことができる。地上では本当に苦しみ、戦いが、たくさんあったわけですけれども、もう完全にそこから解き放たれて、本当に安心できますね。安らぎがそこにあるということ、そして「彼らの行いが彼らとともについていくからである」と、それはやっぱり報いということだと思いますね。それまでの地上における様々な行い、全然報われることがないようなことがたくさんあったかもしれませんけれども、でもちゃんとそれは数えられていて、行いが付いていくんですね。ですからただ肉体が死ぬだけではなくて、その行いがちゃんと付いて行って、ちゃんと天においては報いは約束されているということですよね。ですからそれはすごく大きな慰めだったんじゃないかなと思います。

ここに「御霊も言われる」っていう言葉が付け加えられていることも、すごく慰めを感じます。御霊は黙示録の中にあんまり出てこないんですけれども、ここに御霊が出てくるんですね。それで天からの大きな声でそういう風に励まされるだけではなくて、私たちの内側から、御霊が励まして下さるというのでしょうか、本当に私たちの身近なところから、大丈夫なんだよって語りかけてくれる、そういう神さまとイエス様と御霊の、そういう励ましの中にあって、この死の、現実を受け止めることができるということは、初代教会の人たちにとっては本当に大きな励ましだったと思うし、私たちにとっても、とても幸いなメッセージじゃないかなという風に思います。

 4.再臨のイエスが手に鋭い鎌を持ってやってくる=最後の審判の予告編

そして14節からまた「私は見た」ということで、ここからは、また次々と御使いが出てくるんですけれども、刈り取りの場面が出てくるんですね。刈り取りと言ったらこれはもう、最後の裁きの時であるということが、旧約聖書、新約聖書全体から分かるんですけれども、どういう光景であったかということを見ていきたいと思います。14節、

また私は見た。すると見よ。白い雲が起こり、その雲の上に人の子のような方が座っておられた。その頭には金の冠、手には鋭い鎌があった。」

ここに、人の子のような方が座っておられた、その方は白い雲と共に現れ、頭には金の冠をかぶっておられ、手には鎌を持っていた。鋭い鎌を 持っていた。これが誰のことかというのは皆さん分かると思うんですけれど、これは栄光のイエス様、栄光のキリストですね。さっきは子羊っていう言葉で表されていましたけれども、ここではですね、もう最後の再臨の主が現れる時に、その方は下僕として来られるんではなくて、本当に王として、権力者として、裁きを行う方として、もう一度こられるということが、聖書の中に予言されていますけれども、まさにその場面ですよね。その場面がここに、刈り取りの光景の中で描かれている、ということがわかります。15節、

すると、別の御使いが神殿から出てきて、雲の上に座っておられる方に大声で叫んだ。『あなたの鎌を送って、刈り取ってください。刈り入れの時が来ましたから。地の穀物は実っています。』

別の御使いが出てきて、その、人の子のように見える方、キリストですけども、その方に向かって、「刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地の穀物は実ってます。」まさに今、収穫の時ですということを言っております。そうすると、16節、

雲の上に座っておられる方が、地上に鎌を投げると、地が刈り取られた」ということで、刈り取りが始まったということが出てきます。そして17節、

それから、もう一人の御使いが天の神殿から出てきたが、彼もまた、鋭い鎌を持っていた」もうひとりの御使いが出てきて、その御使いも鎌を持っていた。さらに18節、

すると、火を司る権威を持つ別の御使いが祭壇から出てきて、鋭い鎌を持つ御使いに大声で呼びかけた。『あなたの鋭い鎌を送って、地のブドウの房を、刈り集めよ。ぶどうはすでに熟している。

また違う御使いが出てきまして、祭壇から出てきました。祭壇というのは神様のところと考えていいかなと思いますが、そこから出てきて、鋭い鎌を持つ御使いに呼びかけており、ここでも刈り集めなさいと、ぶどうを刈り集めなさいと呼びかけています。

ぶどうという言葉が出てきました。ぶどうはすでに熟している。19節、

御使いは地上に鎌を投げて、地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れた。

そして20節、

都の外にあるその踏み場でぶどうが踏まれた。すると血がその踏み場から流れ出て、馬のくつわの高さに届くほどになり、1,600スタディオンに広がった。

これはイスラエルの人たちがよく知っているぶどうの収穫の場面ですから、作業の工程を、ありありと頭に思い浮かべながらイメージすることができただろうと思われます。つまりそういう表現を使いながら神の裁きを表わしているわけですよね。踏み場は都の外にあります。都の中じゃないですね。都の中だったら主がおられるので、そこは平和なんですけれども、都の外ですから主はおられない場所ですね。しかもそれは、神の憤りの大きな踏み場に、全部ぶどうが集められて、踏みつけられて、そしてそこに出てくるのはぶどう酒じゃなくて、血であるって言うことが出てきます。そしてその血が流れ出て、馬の轡の高さほどになり、1600スタディオンに広がったとあります。1600スタディオンっていうのは約30キロということになるんですけれど、まあこれは文字通りの意味ということではなくて、黙示録の中に出てくる数字はみんなそうですけれども、象徴的な数字と考えるべきだと思います。そしてこれは解説書なんか読むとですね、40かける40なんです。で4、4という数字はマシ角という意味がありますね。ですからこれは全世界の隅々まで全てということと、そして全ての悪者たちの裁判という、そういう含みがあるんじゃないかという風に解説書なんか見ると書いていますね。要するに全世界におけるさばき、そして神様に背いた者たちの裁きっという、そういうことがこういう数字で表されているんじゃないかというそういうことも書かれてありました。このようにですねずっと14章を見ていくと、最初の礼拝の場面なんですけれども、でも明暗がはっきり分かれてますね。後半はもう全部神の裁きの場面です。そしてその警告がここでなされているということなんですけれども、でもこれはあのイエス様の予言の中にもうすでにあったことで、イエス様もマタイの13章の40節から43節の中で予言してました。

ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。人の子は御使いたちを遣わします。彼らはすべてのつまずきと不法を行う者たちを、御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。その時、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」と、

そこにもちゃんと記されてあってイエス様も最後そうなるんだよって予言しておられた通りのことが、黙示録においてもここで警告されているということが言えるという風に思います。

5.まとめ

でも、今日の内容は、言ってみれば、これから起こることの予告編と言うような、そんな感じの内容だったんじゃないかなと思います。15章から、来週、学びますけれども、15章からいよいよですね本格的というか最後の裁き、今までも続いてきてるんですけれども、いよいよ15章から7人の御使いが出てきて、7つの鉢っていうのが出てきましたですね、ここに7つの災害が始まっていく。そして15章の1節を見ると、ここに神の憤りは極まるのであるって言う言葉があって、本当に神様の怒りの極みっていいますか、最後の裁きが始まるっていう、その前の段階ですよね。そこでは予告してるわけです。これからこういう事が起こるよ、そのダイジェスト版みたいな感じで、その場面をヨハネはチラッチラッチラッと見せているわけですけれども、それを記して私達に書き残してくれたと言うのが14章の内容ということになるんです。

この内容が書かれた意味というものを考える時に、これは神様の憐れみが、そこににあるんじゃないかと思わされます。 こんなことを見せなくても神様ご自身がサッとさばいてくださればそれで済むはずなのですが、ちゃんとこのように見せてくれるというのは、時が迫っているんだよ、早く悔い改めて欲しい、これから始まってしまう、始まったらもう逆戻りできないから、最後の最後ですね、ここに神様の招きがある、悔い改めて、神様に縋る者になってほしいと言う思いの表れが、ここに記されている内容でした。 

そういうことをよく考えながら本当に一人でも多くの方々が救われるように、祈っていく責任があるということを覚えたいなと思います。

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