イエス・キリストをより良く知るために

黙示録15・・・神の憤りは極まれり

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 

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黙示録15章2節:私は火が混じったガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字に打ち勝った人々が、神の竪琴を手にしてガラスの海のほとりに立っていた 。彼らは神の僕モーセの歌と子羊の歌を歌った。 

 

15章は、どんな場面が描かれているのか。前回学んだ14章は、いよいよ神様の裁きの時が迫っているという警告があったということがわかりました。それで来週学ぶことになる16章はその裁きがいよいよ始まるという場面です。

ですから15章というのは、裁きの警告がなされた後、そしてその裁きが実際に始まるまでの、裁きが始まる直前の様子と言っていいと思います。

1.神の憤りは極まれり

そしてここでまた、ヨハネの前にもう一つの印が示されます。今までも何度も何度も印を見てきたわけですけれども、15章の1節に、

また私は、天にもう一つの大きな驚くべき印を見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。ここに神の憤りは極まるのである。」と書いてあります。

ここに、天にもう一つの大きな印を見たと書いてあって、しかもそれは驚くべき印であったと書いています。今までも、印を何度も見てきてるんですけれども、この驚くべきという表現は今までなかったですよね。ここに来て、「驚くべき印を見た」と書かれています。いままでも十分驚くべき印だと思うんですけれども、でもさらにそれに勝ると言う、本当に特別な印であるということが分かると思います。

そして七人の御使いが災害を携えて出てくるんですけれども、その災害は最後の災害であるということが示されていまして、これでもう最後だよっということが強調されていることがわかります。今までも封印が解かれるとか、あるいはラッパが鳴るとかいろんな災害が起こりましたけども、それは続きのある災害であるって言うこと分かるんですね。まだ続きがあるんですね。ところが、今度の災害はもうこれで最後だよ、その後はないよ、ということがここで強調されている、非常に特別な災害であるということが分かると思います。

そしてここに「神の憤りは極まるのである」とあって、神様の憤りがついにここで極まったということが書いてありますが、この言葉を通して教えられるのは、神様今までもずっと憤りを感じていたわけです。でもその憤りというのは、極まるところまでは行っていない、ある意味でコントロールされていた憤りであったということが分かるかなと思います。そして何が神の怒りを抑えていたと言うと、それはやっぱり神の愛と、忍耐だったんじゃないかなと思うんですね。

ローマ書の3章の25節に、「神は忍耐をもってこれまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。」という言葉があります。神様は、義の神様ですから、当然この世の不正とか、罪とか、悪とか、そのような状態を見て怒られるわけですね。憤りを覚えるわけです。けれども、それを忍耐をもって見逃して来られたといういうことが記されてあります。ですから、憤りはあるんだけれどもそこでコントロールされていたのは、まさに神様の愛と忍耐の故であったということが言えると思います。そしてその神の愛というのは、今までもずっと表されてきていたんだと思います。

この15章だけ読むと、神の愛なんかどこにもないじゃないか、神は怒ってばっかりで、全然、神の愛なんか感じられないということになると思いますが、でも私たちは今まで黙示録を最初から順番に読んできているので、もう分かると思うん ですね。

神様は、今までずっと、その怒りをコントロールしてくださっていた。ずっとそこに、神様の招きがあったということを教えられてきたと思います。今までも、かなりひどい裁きがあったけれども、でもそれは3割ほどに抑えられていたというそういう記述もありましたね。致命的な被害ではなく、そこに続きがあるということがわかりますし、その間にちゃんと警告もなされていましたね。中天を飛ぶ鷲が飛んできて、災いだ、災いだ、災いだって、3回言ったとかですね、色々と警告もなされていた。そしてそこにはやはり神様の招きがあったっていうことだと思うんですね。警告もあったが、そこにはちゃんと招きもあったわけですね。ですからそこに、やはり神の忍耐と愛があったということが分かるわけですね。

でもこの時はもう最後の時なんです。コントロールされていた憤りが、ここで極みに達する、憤りは極まったということがここに知らされて、本当に最後の時なんだなということが伝わってきます。

2.信仰によって勝利を得た人々の賛美

そして2節、

私は、火が混じったガラスの海のようなものを見た。獣とその像とその名を示す数字に、打ち勝った人々が、神の竪琴を手にしてガラスの海のほとりに立っていた。

「ガラスの海」という表現が出てきましたけども、これは4章6節に出てきたんですけども、これは天の御国の御座の前に広がっている風景ですね。ガラスの海っていう表現がありました。そしてそこに神の竪琴を手にした人々は獣と、その像と、その名を示す数字に打ち勝った人々、信仰によって勝利を得た人々、その人々が竪琴を手にして、そのほとりに立っていた。そしておそらくその人々が竪琴をかき鳴らしながら、演奏しながら、賛美が始まっていくんだと思うんですけれども、3節、

「神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った」ということで、賛美が始まる場面ですね。今までも何度も何度も黙示録の中で賛美の場面が出てきましたけれども、また出てきました。その賛美の内容は、カギカッコの中ですけども、

主よ、全能者なる神よ。あなたの御業は偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。あなただけが聖なる方です。全ての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しい裁きが明らかにされたからです。

ということで、神の裁きが明らかにされたというこの瞬間にですね、本当に神様、あなたは素晴らしい方だ、偉大な方だと、全ての民があなたの前にひれ伏すという、この神の偉大さ、素晴らしさ、正しさ、真実さ、そういうものが賛美されているということが伝わってくる言葉だなと思います。で、これはモーセの歌と子羊の歌という題がついてますね。

3.モーセの歌と子羊の歌・・エジプトからの救いの経験とイエスキリストの救い

モーセの歌という題がついてますけれども、モーセの歌と言ったら、やっぱりこれは、出エジプト記25章に出てくる歌のことを表していると考えられます。モーセが、あのエジプトから脱出して、その時に歌った歌がありますけども、ちょっとだけ開いてみたいと思います。

出エジプト記15章、ほぼ15章全体がモーセの歌になってるんですけれども、これは勝利の歌ですが、1節から3節まで読んでみましょう。

主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで表され、馬と乗り手を海の中へ投げ込まれた。主は私の力、またほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。主はいくさびと。その御名は主。

これは主の勝利を喜んでいる、そして神様をほめたたえている賛美の歌であるということがわかります。まさに今、その勝利を経験したばかりの、芦の海をくぐり抜けて、そしてそれを通り抜けて、エジプトから救われたっていう喜びの歌ですよね。そしてそこに主の勝利があるって言うことが歌われていますし、その後4節、5節、6節を読んでゆくと、エジプトの軍勢が全部水の中に飲まれて、敵が滅んだということですね。そのことが歌われていて、私達は救われたっていう喜びの歌なんですけれども、モーセの歌といたらこの歌になるわけですね。それでこの出エジプト記の歌が土台になっていて、これがまずイスラエルの民の救われたという原体験ですね。そこに、子羊の歌と呼ばれるイエス様の救いが重なって来る、そういう歌であるということ、黙示録15章の歌はそういう歌であるということが分かると思います。

黙示録を今まで読んできて、皆さんの気づいたことだと思うんですけれども、黙示録の内容っていうのは出エジプト記の経験が元になっていますね。色んな所に出エジプトのイメージが出てきます。今までも、イナゴが出てくるとか、水が血に変わるとか、いろんな闇がやってくるとか、雹が降ってくるとか、色んなことがあったんですけれども、それは全部、出エジプト記で経験したことですね。まさにイスラエルの民が経験した救いの経験というものがまず土台にあって、そこにイエスキリストの救いというものが重なってくる、それが歌になって、要するに旧約のすくいの歌と、新約のすくいの歌が重なっているかのように、一つになっているかのような、そのような賛美の歌声であるということが分かる、そんな内容になっているんじゃないかなと思います。ここで歌われてる歌もやっぱり、神様が勝利したということですよね。その勝利者なる主をほめたたえる歌で、この方がまさに裁きをなされる、あのファラオを滅ぼしてくれた全能者成る神様がここにきて、もう一度裁きを行われるという、この恵みが、歴史を踏まえた上で、今までイスラエルの民が経験してきたことの上に、さらにまた重ねて素晴らしい恵みがやってくれることを歌っている歌であるということが分かると思います。

このところみて、今回ちょっと思ったことはですね、竪琴を手にした人たちのその演奏によって、この歌が歌われてるんですね。それをみた時に、もしかしたらなんですが、これは天国に行ってみないとわかんないんですけれども、私たち、もしかしたら天国に行ったら、すごい楽器の名手になるのかなっていう感じがしました。みんな竪琴を手にとって、素晴らしい賛美を捧げることができるようになる。もしかしたら私たちは歌う方でも、すごい歌唱力を頂いて、神様の前で堂々と賛美できるものに変えられていくんじゃないかなってことちょっと思いました。そのようにしてですね、素晴らしい賛美が天の御国でなされているっていうことを改めて思わされました。

4.本当に神様を知ってる人の驚きと、地上の人の驚きの違い

それでこの歌詞の中で、一つだけ注目したいのは、3節の、
主よ、全能者なる神よ。あなたの御業は偉大で、驚くべきものです。」と言って、ここで歌われているしもべたちの歌が、本当に神様の偉大さに驚いている、その神様の素晴らしさに圧倒されている、そこから生まれてくる歌であるということが分かると思います。これは、この地上の人たちの驚きとは全く違う驚きを、私達は与えられているということが言えると思います。
この地上の人たちは何に驚くかと言うとですね、それが黙示録の13章の3節ですね、ここで地上の人達がすごく驚いている姿が出てくるんですけれども、こう書かれています。3節と4節を読んでみますが、
その頭のうちの一つは打たれて死んだと思われたが、その致命的な傷は治った。全地は驚いてその獣に従い竜を拝んだ。竜が獣に権威を与えたからである。また人びとは獣も拝んで言った。『誰がこの獣に比べられるだろうか。誰がこれと戦うことができるだろうか。』」ここに驚いている人々の姿と、本当に驚いている人々の言葉ですね、「誰がこの獣に比べられるだろうか。誰がこれと戦うことができるだろうか」と、この獣に与えられた権威・力というものに、人々が魅了されて驚いている様子がここに書かれています。これは竜が、竜というのはサタンの象徴ですけれども、サタンがこの獣に与えた力、権威に、この地上の人々が魅了され驚いているそういう光景が描かれているということがわかります。

これを読むと、私たちの驚きと、この地上の人たちが驚く「驚きのポイント」が、全然違うんだなということが分かると思いますが、やはり神様を知らない人たちの驚きというのは、そういうところにあるんだと思うんですよね。この世の繁栄とか、この世の権力とか、力とか、そういうものに魅了される。ドイツで、ヒトラーが出てきた時に、なんであのヒットラーの力に魅了されたかっていうのは、私たちにはちょっと不思議な感じがしますけれども、多分当時の人達にとっては、すごいことだったんだなと思うんですね。私たちはすぐに、この世のいろんな現象とか、出来事とか、力とか、そういうものに心を奪われてしまう傾向があるんだと思うんですけれども、でも本当に神様を知ってる人というのは、やっぱりこの神様に驚くんだと思うんですね。そしてこの神様に対する驚きを知っていれば、この地上の出来事や、いろんなことに必要以上に驚く必要はないし、心を騒がせる必要もないということが教えられるんじゃないかなと思います。

ですから私たちは、どれだけ本当にこの神様の素晴らしさ、偉大さ、力強さに、驚いているか、普段から驚いているか、ということですね、そのことを考えていきたいなと思います。

5.裁きが始まる、その準備が整いつつある、と言う緊迫感

そして15章の最後の場面ですけれども5節からですね、

そののち、私は見た。天にある、あかしの幕屋である神殿が開かれた。そして七人の御使が、七つの災害を携えて神殿から出てきた。彼らは、きよく光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた 。

ということで、「証しの幕屋である神殿」、これも旧約聖書に出てくる言葉ですが、「神の幕屋」と共にイスラエルの民は旅をしましたけれども、それは神様がそこにいらっしゃるということの一つの証でした。それが後に神殿になっていきます。神様がいらっしゃるその神殿が開いたんですね。そうしたらそこから七人の御使いが七つの災害を携えて神殿から出てきたというわけです。神殿から出てきたということは、神様のみもとから出てきたということですから、神様から直接遣わされたということです。 そして7人の御使いの姿は光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていたということで、おそらくこれは聖さということを表しているのではないかと思います。 そして7節、8節、
四つの生き物の一つが、七人の御使いたちに7つの金の鉢を渡したが、それには世々限りなく生きておられる神の憤りが満ちていた神殿は神の栄光とその後、み力から立ち上がる煙で満たされ、七人の御使いたちの7つの災害が終わるまでは、誰もその神殿に入ることができなかった。

ということで、四つの生き物のうちの一つが、7人の御使いたちに7つの金の鉢を渡した 場面でありそこには、神の憤りが満ちていたとあります。この辺の描写はひとつひとつとても丁寧だなと思います。それだけではなく緊張感を感じさせる場面だなと思います。今まさにこれから裁きが始まる、その準備が整いつつある、と言う緊迫感があり、神の栄光が現されている 場面だなと思います。

6.聖徒たちの祈りと、その祈りに対応する神の憤り

ところでここに、「金の鉢」という言葉が出てきました。 これは5章の8節にも1度出てきていますが、そこには、 「24人の長老たちが、竪琴と香に満ちた金の鉢を持っていた。」とあり、「香は聖徒たちの祈りであった。」とあります。 つまり金の鉢には聖徒たちの祈りが満ちていました。 これとの関連で見ると、15章の金の鉢が神の憤りで満ちていたのだとすれば、 この神の憤りは聖徒たちの祈りの答えであったということが言えるんじゃないかと思いますね 。聖徒たちは祈っていたんだと思います。「主よ。いつまで、裁きを行わないんですか?」「地に住む者達に、いつまで血の復讐をなさらないのですか?」という祈りが6章の10節に出てきていました。これは、自分たちが立てた証のゆえに殺された人達、信仰のゆえに殺された人達の魂が祭壇の下にいたんですが、その祭壇の下にいた人たちの叫びですね。その叫び、祈りに対する神の憤りがここで成就していくということが、この相関関係から見えてくるんじゃないかなと思います。そのようにしていよいよ神の裁きが始まるというところで今日の箇所は終わっているんですが、私たちはこの世の歴史の最後の瞬間にこのような厳粛な時がやってくるということをやはり今日の聖書の箇所を通して覚えていなければならないと思います。

7.まとめ

今いろんなことがありますね。この世の中本当にめちゃくちゃな状況で神様は何もしてくれないといろんなことを言う人がいるかもしれませんが、でもやがてこういう時がやってくる神様の裁きの時がやってくる、そしてその栄光がはっきりと表されてすべての人々が神様の前にひれ伏せざるを得ないような、そういう神の姿というものがはっきりとあらわされる。そういう時がやってくるんだということを私たちは信じていなければいけない。その日に向かって着々と準備が進んでいるということをよく覚えている必要があるんじゃないかなと思います。ですからその日がやってくるということを覚えながら、与えられたところにおいて、与えられた務めに励みながら、一人でも多くの人達が神様のもとに導かれるように、いつでも神様の招きはなされています。まだめぐみの時です。まだ裁きの時ではありません。まだ開かれております。この時を本当に用いて、福音の宣教に務める、そういうものでありたいなと思います。

 

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