イエス・キリストをより良く知るために

交わりの「いけにえ」が、意味するところ・・・レビ記3章

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

旧約聖書の3番目の書物のレビ記の、御言葉に耳を傾けております。そのことを通して私達の礼拝について、今、学んでいますが、1章では、「 全焼の生贄」という捧げもの、2章では、「穀物の捧げもの」という捧げ物について、順番に見てまいりました。

そして今日の3章では、「交わりの生贄」という捧げものがそこで紹介されているということがわかります。

この後4章、5章と、「罪の清めの捧げもの」とか、 「代償の捧げもの」とか、当時の旧約時代にイスラエルの礼拝において実に多くの捧げものが神様に捧げられていたっていうことが分かるんですけれども、この3章に出てくる、「交わりの生贄」とは、一体どんな捧げものだったんでしょうか?

基本的には1章に出てくる、「全焼の生贄」と似ている部分がたくさんあります。牛や羊やヤギを礼拝者が自分で会見の天幕の前に連れてくる、そしてその捧げものである家畜の頭に手を置く、その後自分で屠る。その後、祭司にその血を祭壇の側面にふりかけてもらう、その後、祭壇の上の薪の上に乗せて、火で焼いて煙にする。その天に立ち上っていく煙が主への食物の捧げ物、香ばしい香りとなって神に受け入れられていくという一連の儀式の流れは、全焼のいけにえと同じなんですね。ただ違う点もいくつかあってこの違うというところがこの「交わりの生贄」の特徴をよく表しております。

 

この「交わりの生贄」ってどんな捧げ物だったんでしょうか?そしてその捧げものから今の時代に生きる私たちにとって、どんなことが教えられているんでしょうか?私たちの信仰について、何をここから学ぶことができるんでしょうか?今日のみことばに耳を傾けていきたいと思います。3章全体を先ほど読んでいただきましたけども、目で追いながら気づいたことがあると思いますね。

1.「脂肪」を神への捧げものとした

この3章の中に、何度も何度も繰り返される言葉があります。

それは「脂肪」という言葉ですね。3章の3節と4節を読んでみたいと思いますが、

次に交わりのいけにえから、主への食物の捧げものとして、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪すべて、また、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた肝臓の上の小葉を捧げる。

これは神様に牛が捧げられる時のことが書いてあるんですけれども、その次に羊とかヤギとかが出てくるんですが、基本的にみんな同じなんですね。みんな脂肪が捧げられるということ、6節から11節までは羊が捧げられる時のことを書いてるんですが、9節と10節を読んでみます。

そして、その交わりのいけにえから、主への食物の捧げものとしてその脂肪を献げる。すなわち、背骨に沿って取り除いたあぶら尾全て、内臓をおおう脂肪、内臓についている脂肪をすべて、また、二つの腎臓と、それについている腰の辺りの脂肪、さらに腎臓と共に取り除いた、肝臓の上の小葉である

と、さっき読んだ三節と4節とほぼ同じ事ですね。そして12節以下17節までは、ヤギを捧げものとして捧げられる時なんですが、これも大体同じです。14節と15節を読んでいきます。

そして主への食物の捧げものとして、その生贄 から、内臓をおおう脂肪と、内臓に付いている脂肪すべて、又二つの腎臓と、それについている腰の辺りの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた肝臓の上の小葉を捧げる。

 

以上、3通りのパターンが出てきまして、脂肪、脂肪、脂肪と、何度も脂肪という言葉が出てきますね。ですから捧げものが牛であろうと、羊であろうと、ヤギであろうと、体の中の脂肪が徹底的に取り分けられて、それが神様のために捧げられたっていうことが分かる内容になっております

決定的な言葉が16節の最後の言葉です。16節の最後の部分にこう書いてあります。

脂肪はすべて主のものである。

17節の最後では、

あなた方はいかなる脂肪も血も食べてはならない。

と、血と同様に脂肪の部分も、絶対に食べてはいけないんだよ。それはもう神様に捧げられる部分だから、ちゃんととっておきなさいということが、ことで命じられているということがわかります。

脂肪とは、最高に美味しい部分であって、それゆえに神様に捧げられなければならない最高の部分であって、人間が勝手に食べてはいけないという、そういう部分であったということが伝わってきます。

脂肪という言葉は、私たちにとってはあんまり聞きたくない言葉ではないかなと思います。先日私、健康診断がありまして、病院に行って体の健康状態についてチェックしてもらいました。その結果、特に問題はないということで、健康が保たれていることを神様に感謝しましたけれども、一つのことだけお医者さんから言われました。「体脂肪率が上がっています。気をつけてください。」そう言われました。おそらく私たちの国にとって、脂肪という言葉は聞いてあまり嬉しくない、なるべく減らしたい、できればない方がよい、少し厄介に感じられる、そんなものかなという風に思います。ところがイスラエルの人々にとって、脂肪とは、最高に美味しいところで、それ故にそれは、神様に捧げられなければならない部分であったということ、大切な部分であったということがわかります。

ちょうど私たちの家にお客様がいらっしゃった時に、お食事の一番美味しい所は、お客様に差し上げますね。お客様に召し上がっていただきたいと思います。自分で食べたりしないと思いますね。一番美味しい部分は、ちゃんとお客様のために取っておくわけですけれども、そういう気持ちで、イスラエルの民は、脂肪を神様に捧げたということが分かるわけです。

脂肪と一緒に二つの腎臓と肝臓の上の小葉も取り分けられ、脂肪と一緒に主に捧げられたっていう事も書いてあります。

どうして腎臓を、また小葉を神様に捧げる必要があったのか?いろんな解説があるんですけれども、当時のイスラエルでは、人間の持っている感情は、腎臓などの内臓に宿っていると考えられていたそうです。

ですからおそらく、腎臓と肝臓と小葉を主に捧げるということをとおして、この捧げ物が心からの神様への捧げものなんだということを表したんじゃないかということがいわれていることですね。ですから当時のイスラエルの民は、脂肪と腎臓と小葉を主に捧げることをとおして最高のものを神様にお捧げした、そういうことが言えるんだと思います。

2.神様は、私たちの捧げる食物を必要とされているか?

ここで私達は一つ疑問に思うことがあるんじゃないでしょか?

①.私たちの信じる神様は、私たちの捧げる食物を必要とされているんでしょうか?

私たちの周りでも、時々仏壇に食べ物のお供えをするという習慣が見られます。仏様や神様やお地蔵様の前に、ご飯を置いたり、果物置いたりするという習慣が時々見られると思いますので、そのような意味で、私たちも、私たちの信じる神様に一番おいしい脂肪の部分を捧げるべきなんでしょうか?私たちの信じる神様って、お腹が空いてしまう神様なんでしょうか?ちゃんと、私たちの側で食べ物を備えないと、不機嫌になってしまう神様なんでしょうか?

そういう方ではないです。私たちの信じる神様は、私たちが捧げる捧げ物によって、養われたり、機嫌が良くなったり、満足したりするような神様ではありません。食物を必要とされる方ではないんです。

 

②.ではなぜ、どうして、ここで動物の脂肪が主の食物として捧げられる必要があったんでしょうか。

 

それはその部分を主に捧げることによって、私たちと神様が、同じ食卓に預かっていることを確認するためであったということが言える。

それがこの交わりの生贄の最大の特徴でありました。まず、脂肪と内臓が神様に捧げられるんですね。燃やされて、その後、胸肉ともも肉は祭司たちに捧げられるって言うことが、7章を読むと出てくるんですね。それ以外の肉は、全部、礼拝者たちが、共にそこで食することが出来た。

そういう捧げものだったんだっていうことが分かるんですね。

 

これは全焼の生贄とは全く違うところでした。1章で学んだ全焼のいけにえは、文字通り全部焼き尽くして、全部神様に捧げるっていうところが目的だったんですね。全部煙になって、神様に捧げられて、その結果礼拝者が食べられる部分は何も残ってないんですね。全部捧げられるということが、全焼のいけにえの、最大の目的でした。

ところがこの「交わりのいけにえ」は、脂肪と内臓だけが取り分けられて、それは一番美味しいところ、最も一番いいところとして、神様に捧げられるんですけれども、残りの部分はみんなで一緒に食べることができた。

そこで表されているのは、神様と私たちが、同じテーブルで食事を共にしているという目に見える形で確認する機会だった。勿論、神様は目に見えない方ですね。でもその目に見えない神様が今、私たちとともに食事をしておらる、一番美味しい部分は神様に召し上がっていただいて、でも同じものを私たちも食べる、そういう形を通して今、私たちは神様との親しい食卓のお交わりを頂いているということを経験する、それがの「交わりの生贄」によって表されている恵だったということを、私たちは覚えたいと思います。

③.聖書では、食事を共にする関係というのは、特別な関係でした。

食事を共にする関係というのは、とっても親しいということの表れでした。ですから食事を共にしてるって言う事は、それは本当に友達だよっていうことなんですね。それは本当に親しい間柄だった。

聖書を読んでいると、たくさん食事の場面が出てくることに気づかされるんです。そして特にイエス様は、食事をとても大切にされた方だったなと思います。福音書を読んでいると、「あ、またイエス様、食事をしている」、「また食べてる」、いつも食べていたのかなって感じがするくらい、いろんな食事の場面が出てくるんですね。

あるときイエス様は言われたんだそうです。「何故あの人は取税人や罪人達と一緒に食事をするのですか?」

そのように文句を言われたことがあるということが聖書に出てくるんですね。これはなぜイエス様は、あんな罪深い連中と仲良く付き合ってるんだっていう、そういう意味の不満なんですね。当時のユダヤの社会では、罪人として社会から排除されている人たちがいました。取税人とか遊女とか、そういう人達ですね。それらの人々は、罪深い汚れた人々として社会から見下されて、一般の人はほとんどお付き合いをしませんでした。ほとんど交流することはなかったですね。ところがイエス様は、そういう罪人とみなされている人たちと、一緒に食事をした。それが大変な問題になる当時の社会だったんですね。

それはどういうことかというと、イエス様がその人の友達になってくださったということを表わしています。罪人と見なされていた人達にとっては、もうそれだけで大変な感動だったんじゃないかなと思うんですよね。「イエス様が、私と一緒に食事をしてくれる。考えられない。」誰も一緒に食事をしてくれる人がいなかったんですね。その代表者はザーカイというひとだったと思うんですけれども、ザーカイも、誰も食事を一緒にしてくれる人はいなかったのに、なんとイエス様が、自分の家に来てくれて共に食事をしてくれたことが嬉しくて嬉しくて、ザーカイはそこから変えれれていったという話を、私達は知っていますけれども、それはその人にとって本当に大きな大きな喜び、信じられないような感動のある喜びだったと思います。

④.私たちと神様との関係は、どういう関係なんでしょう?

それは食事を共にする関係であるということを覚えたいと思います。それはとても親しい関係だっていうことなんです。そしてそのことを一番はっきりとした形で表しているのが、礼拝であるということを、私たちは覚えるものでありたいと思います。

礼拝で今私たちは何をしているんでしょうか?それは、例えて言うならば、神様の食卓で、ともに食事をしているということが言えるんじゃないかと思います。神様との親しいお交わりを経験しているって言う事です。

まず神様が、私たちを礼拝に招いてくださいました。罪深い私たち、とても神様の前に来ることができないような私たちを、招いてくださっている。一緒にお食事をしようと招いてくださっている。それだけでも考えられない恵みなんですね。ですから私たちはその神様に感謝をしますね。賛美しますね。神様ありがとうございますと言って感謝します。そして私たちは、信仰告白したり、祈ったりします。

そうすると神様から御言葉が語られます。それを親し聴くんですね。その御言葉を聞いたら、その御言葉に応答します。反応します。ありがとうございます。あなたの御言葉に従ってゆきます。そしてそのことを、祈りとまた献金を通して表わしますね。私たちの献身を表します。そして最後に私たちは頌栄の賛美をしてですね、「神様、あなたは素晴らしいです」と、栄光を全部神様に帰す讃美をし、その後神様が祝福の祈りを持って私たちを送り出してくださる。

そういう一連のプログラムを経験していますけれども、その中で私たちは何を経験してるんでしょうか?それは神様と親しく交わる出会いを経験していますね。まさに礼拝とはそういうところです。今、私たちは父なる神様と交わりをして、親しく語り合っています。父なる神様の御声を聞いている。それが礼拝であるということを私たちは今日、覚えたいなという風に思います。

ですから礼拝というのは単なる形式ではないですね。単なるプログラムではないんです。形式があります。プログラムもあります。そのプログラム通りに礼拝は進んでいきますけれども、でもそのプログラムを通して、私たちは今、神様と出会って、神様とお交わりをしている、ともに恵みを味わっている。

食卓に与かっている、そんな礼拝が今、私たちの中で豊かに味わわれているでしょうか?私たちを主の食卓に招いてくださっている神様の恵みに感謝して、この恵みをじっくり、ゆっくり、しっかりと味わう、そして満たされる、そんな礼拝でありたいなと思います。

3.神様がその宴会の主催者です。

この神様と食卓を共にする楽しい食事会に関して、私たちが一つ覚えておくべきことがあります。それはこの食事会のテーブル・マスターは人間ではなくて、神ご自身であるということです。神様が私たちを礼拝に招いてくださいました。神様が私たちのために食卓を用意してくださいました。生贄を用意して捧げるのは人間かもしれませんけど、その捧げられたものを用いて、今度はその捧げた物そのもので、私たちを満たして下さいます。よってテーブル・マスターは、私たち人間ではなくて神様ご自身であるということを私たちは覚えたいなと思います。

これが他の宗教と違うところかなと思います。礼拝の中で食事を共にする習慣というのは必ずしもユダヤ民族の中で見られただけではなくて、ペルシャとか、バビロンとか、エジプトなどの異教世界でも見られたということが言われております。日本にも神前料理という料理がありますけれども、神々の前で食事を共にするという宗教儀式が、おそらく色んな国々にあるんだろうなという風に思います。よって神様に動物を捧げて、その動物を共に食べるという習慣は、特にイスラエル民族に限ったことではなくて、多くの宗教に見られる習慣だったと考えられる。

でも両者には決定的な違いがありました。それはその食事会を主催しているのが誰であるのかという違いです。多くの宗教で、その主催者は、人間です。人間が、神のために食卓を整え、食事の準備をし、人間が神のために最高の食事を用意し、神様に召し上がっていただく、これが世間の宗教、一般の宗教が教えているところではないかなと思います。

ところが聖書で示される食事は違うんです。神様がその宴会の主催者です。神様が私たちのためにその食事を用意し、食卓を整え、そしてそこに私たちを招いてくださる。その恵みの一部を主に捧げるように命じるけれども、その捧げられたものを今度は、私たちに返してくださって、それによって私たちを満たしてくださる。このように聖書では人が神の為に宴会を開くのではなく、神が人のために宴会を開き、そこに私たちを招いてくださっているということを確認することができます 。

ここに私たちの信仰にとって大切な真理が示されています。

それは私たちの信仰の中心は、私たちの側ではなくて、神様の側にあるということ。私たちの信仰というのは、私たちの信仰生活は、私たちが神のためにしたことによって決まるのではないんです。一生懸命奉仕をしたとか、たくさん献金をしたとか、より真面目に主に仕えたとか、そのことによって私たちの信仰が成長していくわけではないんです

神様が私たちのために備えてくださったものを、感謝と喜びをもって受け止めていくときに、私たちの信仰は成長していきます。神様はあの時こんなことをしてくださった、こんな励ましがあった、こんなこと教えてくださった、辛い時に共にいてくださった、苦しい時に相談に乗ってくださった、そのようにして絶えず神様との交わりの中で、与えられる恵を通して、その恵みが与えられることによって私たちの信仰は養われていきます。この方に対する信頼が深まっていきます。そんな経験の積み重ねを通して、私たちの信仰が養われていくんじゃないかなと思うんですね。

4.放蕩息子のたとえから学ぶ信仰のありかた

①.ルカの福音書の15章に記される放蕩息子の話を皆さんよくご存知だと思います 。

放蕩息子が散々放蕩した果てに、お父さんの所に帰ってくるっていうそういう話ですけれども、その時、お父さんは何をしたんでしょうか?どう行動したんでしょうか。お父さんは自分の息子が、ボロボロの状態で帰ってきたことを遠くから見て、帰ってきたことをとっても喜んだ。そしてなんと、自分のほうから走りよって、その息子を抱きしめたと書いているんです。 新しい着物に着替えさせて、指に指輪をはめさせて、足には新しい履物を履かせて、そしてその後に宴会を開いたって書いてありますね。大宴会だったんです。そのために太った子牛を屠った、たくさんの料理を用意した。そしてなんと楽団まで連れてきて、音楽まで奏でて、随分賑やかな宴会だったっていうその様子がそこに出てきますね。そのようにしてよく帰ってきたと言って歓迎し、受け入れてくれた、そういうことが書いてあります。その時に、それまで失われていた親子の関係、それまで断絶していた親子の関係が、回復したっていうことが分かるんです。とうとうその放蕩息子はお父さんの親しい交わりの中に加えられました。お父さんは、美味しい食事まで用意してくれた。そしてその食事によって、本当に満たされた。嬉しかっただろうなと思います。彼はもうお父さんに受け入れてもらえないと思って帰ってきてるんですね。こんな自分を、お父さんは受け入れてくれるはずがない。さんざん反抗して、親に反発して生きてきました。お父さんを何度悲しませてきたことでしょうか。もう怒られたって、裁かれたって、何も言えないような状態だった。それだけ自分勝手な生き方をして、ボロボロに失敗して、本当に惨めな状態で、お父さんに怒られても何の言い訳もできないのだから、彼は自分はもう息子と呼ばれる資格はない、雇人の一人にしてもらおうと、覚悟を決めて戻ってきた。ところがそんなつもりで帰ってきた息子を、お父さんは 抱きしめた。 どんなにか嬉しかっただろうかと思いますね。

綺麗な着物に着替えさせてくれて、大歓迎してくれて、本当に嬉しかっただろうなと思います。これが私たちの信仰なんですこれが聖書で私たちに教えている信仰なんです。

信仰者として歩むっていうことは、どういうことなんでしょうか?

それは父なる神様との交わりの中で生かされるって事なんです。

父なる神様がくださった有り余るほどの恵みに感謝していくっていうことなんです。

そしてこの方との交わりの中で、継続的に生きるって言うこと、それが私たちの信仰生活です。

このお父さんが用意してくださった素晴らしい恵みを味わって、それに感謝して、それに応答して生きるっていうことです。それが私たちの信仰ではないでしょうか。そういう信仰を私たちは与えられたんです。

 

②.ところが、この放蕩息子が帰ってきた時に、それを快く思わない人が、一人いたんです。

お父さんが帰ってきた放蕩息子のために、宴会を開いている様子を見て、腹立たしく感じた人が一人いました。この息子のお兄さんです。

兄は父親に向かって不満をぶつけて言いました。

「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には友達と楽しむようにと、子ヤギ一匹くださったことがありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食い潰した息子が帰ってくると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」

随分的確にといいますか、正確に書いてるんですね。よっぽどこのお兄さんは不満だったんだということが伝わってきます。そしてこの言葉から、父親に歓迎されてる弟の姿を見て、とっても妬ましく感じたんだなっていうことが伝わってくるんですね。

私たちも注意していないと、このお兄さんのようになってしまうことがあるんです。

とても真面目だったんです。お兄さんはとても真面目な人間でした。お父さんに長い間、忠実に仕えてきました。その間、お父さんに不平不満を漏らしたことは、一度もなかったんですね。戒めを破ったことも一度もありませんでしたと、自分で告白をしております。とっても良い息子だったとおもいます。ところがこのお兄さんは、心を開いてお父さんと親しくするということがほとんどなかった。親子の関係はあっても、そこで話を聞いてもらったり、打ち明けて悩みを相談したり、語り合ったり、そういう関係ではなかった。息子としての義務と責任を忠実に果たすということだけで成り立っている親子関係だった。

ですから自分以上に愛されているように見える、自分以上に祝福を頂いてる弟を見た時には、妬ましくてしょうがなかった。 

私たちも気をつけないと、 こういう信仰者になってしまうことがあるんです。

私たちの信仰も、時々自分の行いが中心になってしまうことがあります。どれだけ忠実に主に仕えたか、どれだけ集会に忠実に集ったか、いかに奉仕をしているか、どれだけ献金をしているか、神の前にあっての義務をちゃんと果たしているかどうか、そういう自分の行いが中心になってしまうことがある。それなのにそこに神様との生きた交わりがほとんど経験されていない。神様から御言葉が語られ、それに応答をしたり、あるいは自分の罪をそこで悔い改めて許されるという恵を経験することがすごく乏しかったり、そういった神様との生きた交わりの中で歩んでいない、そういう経験ができていない、そうなると私たちの信仰もだんだん形だけの信仰になってしまいますね。私たちの礼拝も、そうなってしまう傾向があるから私たち気をつけたいと思います。

今、皆さん礼拝に来ていますけども、私たち何のために礼拝に来ているでしょうか?時々礼拝に来ることが目的になってしまうことがありますね。礼拝に来ることが目的、あるいは奉仕をすることが目的、礼拝に参加することも奉仕をすることもとても大事なことなんですけれども、でも一番肝心なことが抜け落ちてしまっている、一番大切なことが見失われてしまっている、そこで主とお会いするということ、目に見えない神様の臨在に触れるって言うこと、神様の語られる言葉に耳を傾けるということ、そしてそれに応答するということ、恵を味わうということ、そういうことがほとんど経験されないままに礼拝を終えて、ここから出発してしまうっていうことが起こり得るってこと、私達はそのことを覚えていなければいけないですね。

一番肝心な事が、二番目、三番目、四番目に追いやられて、結局忘れられてしまうということが起こり得るということです。そして私たちにはここでお交わりをしていても、その交わりが非常に表面的な交わりで終わってしまうっていうこともあるかなと思いますね。祈りますけどれも、その祈りがいつも同じ言葉の繰り返し、形式的な祈りで終わってしまって、そこに心を通わせる、そういう交流ができていないということがあります。神様との交わりが非常に表面的なまてしまって、そこから関係が深まっていかないということがあります。

私たちの心の、一番深い所はしっかり自分で守っていて、絶対開こうとしないという時がありますね。そのために神様の深い恵みを味わうことができない、神様に本当に許していただくという恵みを味わうことができない、そういうことも起こりうることだと思います。

ですから礼拝に集っているんですけれども、なかなか神様との関係が深まってゆかないっていうような、そういう葛藤を味わうようなこともあるんじゃないかなと思うんですよね。

そうなってしまうと私たちの礼拝も本当に形式的な礼拝になってしまうから注意したいなと思います。形はあるのに感謝がない、喜びもない、命の営みが感じられない、そういう礼拝になってしまう。今日私たちは、礼拝とは主の食卓で、神様と共に食事をするひと時であるということをぜひ覚えたいなと思います。

5.まとめ

そして最後に礼拝とは、イエス・キリストを共に味わう 一時であるということを覚えたいと思います 。全焼のいけにえと同じように、今日の「交わりの生贄」において捧げられる家畜達、牛や羊やヤギも、全部イエス様の姿を象徴的に表しています。 イエス様がこの家畜たちのように、わたしたちの罪を背負って屠られて、そして血が流されました。 そしてそれは燃やされて、神に捧げられました。ところがその肉をもって今度は、神様が、私たちを養ってくださり、私たちを満たしてくださる。つまりこの「交わりの生贄」は、神様が備えてくださったイエスキリストを共に食することによって、私たちが神の交わりに加えられているということ、そしてこのイエス様によって私たちが満たされるって言うことを、象徴的に表しているということであります。

イエス様は言われました。ヨハネの福音書6章35節、

私が命のパンです。私の元に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は、どんな時にも決して渇くことがありません。

その時にイエス様も言われたんですね。私が命のパンです。イエス様はご自分が命のパンであるということをおっしゃられた。そしてこのパンを食べる者は、決して飢えることがないし、どんな時にも決して渇くことはない、そういうふうにおっしゃられました。

つまりこの方は、私たちを根本から満たしてくださる方であるということ、私たちの心の底にある、誰も満たすことのできない、何をもっても満たすことのできない、深い渇きの部分を、このかたは満たすことができる。命のパンであるイエス様。そのイエス様を食べなさいと、イエス様は教えて下さった。

このかたを味わう食卓の交わりが、礼拝であるということを、私たちは覚えたいという風に思います。礼拝の度に私たちは、イエス様の恵みを味わっています。イエス様ご自身を味わっております。イエス様の十字架の恵みを味わっています。そしてその恵みによって満たされます。私達を深い所から満たしてくださるイエス様を、今私たちは共に味わい、この神様との関係が与えられている恵みを感謝する、それが礼拝であるということを覚えたいなと思います。この恵みを、共に味わっていこうではありませんか。イエス様の恵みによって心から満たされようではありませんか。主の恵み恩寵の中に、生かされ続けるものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。恵み深き私たちの神様、罪深い私たち、そして自分勝手な道に歩んでいた私たちを、なおもそれにもにもかかわらず受け止めてくださって、ご自分の子として私たちを受け入れてくださったことを覚えてありがとうございます。そのために、イエス様が捧げられたこと、そのイエス様の恵みを私たちは今、味わいながら、あなたと親しい交わりが与えられているという恵を覚えてありがとうございます。私たちが、あなたとの関係の中で、親しい交わりの中で、これからも日々歩んでいくことができますように、今日ここで味わった恵みをいただきながら、この一週間、共に主と歩んでいくことできるように、この恵みが、この一週間ずっと継続されていきますように、どうぞ助け導いていてください。

御言葉を心から感謝し、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします 。

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