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子が親に従うべき本当の理由!エペソ書6章1~3節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

今日は「子供たちに対する教え」という題で御言葉を取り次ぎたいと思います。パウロの手紙は、礼拝の中で朗読されたという風に言われております。そしてパウロは自分の手紙が礼拝の中で朗読されることを想定しながら書いた。そしてそこに子供達がいるということも想定しながら手紙を書いたという風に言われております。

当時の教会の中にあって、子供達は礼拝の中のとっても大事なメンバーだったということが伝わってきますけれども、そういう意味でも今日は感謝したいなという風に思います。今日は子供たちに対する神様のメッセージということでありますし、子供達と言った場合、小さい子供だけに限りません。大きい子供たちもありたくさんおりますけれども、私たちそれぞれ父と母を持っております。そんな父と母に対して私たちはどんな務めを果たさなければいけないでしょうか。そのことを、今日は聖書から学んでいきたいというふうに思います。

主にあって自分の両親に従いなさい

エペソ書6章の1節の言葉を、お読みいたします。

子供たちよ、主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。

「子供たちよ」とパウロは子供たちに呼びかけております。そしてその後で子供達が果たさなければならない務めについて教えています。子供たちがまず第一に果たさなければならない務めは何でしょうか?それは自分の両親に従うということです。自分の両親に従うということが子供たちに与えられている第一の務めであるということが聖書で教えられています。そのことを心に留めたいと思います。
肝心なのはその理由ですね。なんで子供達は自分の良心に従う必要があるでしょう。今日の聖書の箇所から三つの理由について共に覚えあっていきたいと思います。

1.子供たちが両親に従うことは「正しいこと」だから

なぜ子供達は自分の両親に従わなければいけないんでしょうか?

第一の理由はそれは「正しいことだからです」と聖書に書かれてあります。1節の後半にこれは正しいことなのですと書いてあります。第一の理由はとても単純明快と言って良いかと思います。子供達が自分の親に従うことは正しいことなのだということです。おそらく皆さん、そのことはよく分かっていると思います。そしておそらくクリスチャンでない方でもそう思うんじゃないかなと思います。聖書を読んだことが無い方でも、この御言葉には納得していただけるんではないかというふうに思います。子供が親に従うのは良いこと、正しいことである、と広く知られていると思うからであります。世界中にたくさんの国々、たくさんの民族、たくさんの文化がありますけれども、おそらく全ての国、その全の民族で、子供の親に対する服従の大切さというものは教えられているんじゃないかというふうに思います。ですからこれはとても正しいことです。そして子供達もそのことを知っています。

ですから子供達は親に逆らう時、親に背く時、親に反抗する時というのは、どこかに後ろめたさを感じているじゃないだろうかというふうに思いますね。自分は今正しいことをしていないという申し訳なさのようなものを、どっかに抱えながら、背いたり、反抗したりしてることが多いんじゃないかなという風に思います。

ルカの福音書の15章の「放蕩息子のたとえ」、皆さんよくご存知だと思いますが、あの放蕩息子も、随分、親不孝な息子で、まだお父さんが元気であるのにも関わらず、まだ生きているにも関わらず、財産の半分をくださいと要求して、そしてそれをもらって家を出てしまいました。そして遊び歩いてた。遺産を使い尽くしてしまって最後には行き詰まってしまうんですけれども、聖書を読むとその時に、彼は我に返ったと書いてありますね。
あたかもそれまでの彼が、本当の自分ではなかったかのように、そしてその時、ついに本当の自分を取り戻したかのように、彼は我に返ったということです。そして その時、放蕩息子は言うんです。「立って父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。』こういうふうに言っているんですね。この彼の言葉から、彼はやっぱり、お父さんに逆らい続けていることに対する罪の意識を、ずっと持ってたんだなということに気づかされます。それまではもしかしたらあんまり気にしてなかったかもしれませんね。
それまではあんまり気づくことなかったかもしれませんけど、彼は遂に我に返って、彼の本当の気持ちに気付いたんですね。彼の心は親に従うのは正しいことなんだと知っていました。そしてその親に背く事は、正しいことではないということを分かっていた。このように私たちは人間は、親に従うのは正しいことだと知っているんではないかというふうに思います。そしてそのような存在として神様に造られているからであります。

つまりこのことは神様の創造の秩序にかなっているということです
先月は夫と妻の関係について考えました。妻が夫に従わなければならない理由も、夫が妻を愛さなければならない理由も、造り主なる神様の創造の秩序というものに関係していました。夫は妻の頭です。夫は妻の頭として造り主なる神様によって造られました。夫には神様から特別な権利と責任とリーダーシップ与えられている。それ故に妻は夫に従わなければならない。創造の秩序というものがそこにあるということを、私たちは教えられました。また夫と妻は神様によって結ばれて二人の存在なのに一体です。一体になったことも聖書で教えられていますね。ですからこれが夫が妻を愛さなければならない理由ですね。自分の体です。夫は妻を自分の体のように愛さなければいけない。自分のように愛さなければならない。それもやっぱり創造主なる神様の秩序に従っているという形であるということがわかります。

親子の関係も同じです。子供達はなぜ親に従う必要があるでしょうか?そのような存在として子供たちが神様によって造られているということなんですね
家庭の頭は親です。親に神様は家庭を納める権利と責任とリーダーシップは与えています。私たちは子供である限りこの権威に、神様が定められた権威に従うということが求められている。よって子供が親に、両親に従うのは正しいことです。子供として当然のことです。

創造主なる神様の創造の秩序というものを、私たちは覚えながら、私たちは自らの父と母に従うということ、この姿勢を大切にしていきたいというふうに思います。これが一番目の理由です。

2.子供たちが両親に従うことは、神の命令だから

子供達が両親に従わなければならない二番目の理由は何でしょうか?

それは神様の命令だからということになります。2節の言葉をお読みしたいと思います。

「『あなたの父と母を敬え。』これは約束を伴う第一の戒めです。」

あなたの父と母を敬えこれは十戒の第5番目第五戒ですね。皆さんよくご存知だと思います。パウロはここで旧約聖書に出てくる十戒の第五戒を引用しています。それは「あなたの父と母を敬え」というそういう戒めです。

私たちの父と母に従うことは、子供として正しいことですけれども、それだけではない。それは歴史を支配する神様の、人間に対する命令であるということ、人間がどうしてもしなければならない大切な務めであるということが、ここから私たち教えられます。ですから私たちは自分の両親に従わなければ いけない。

そしてこの十戒の第5番目には、「敬いなさい」と教えられております。ただ従うだけではなくて、敬うということが求められています。ただ私たちは言われたことに機械的に従うロボットのように従うということではなくて、そこに敬うという姿勢が求められている。機械的に従うということではなくて、親を愛情と尊敬をもって、敬う、尊敬するということが私たち子供として求められていることであるということです。

ここで私たちに注目したいのはパウロがこの戒めと一緒になっている、「約束」というものに注目しているということです。2節の後半には、「これは約束を伴う第一の戒めです」と書いてあって、ただ十戒の第5番目の戒めを紹介するだけではなくて、それにセットになっている約束があるんだと、約束が伴っている戒めなんだということがここで教えております。

そしてその約束ってどんな約束だったでしょうか。それが3節ですが、3節にこう書いてあります。

そうすればあなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。そうすればあなたは幸せになりますという約束、そしてその土地であなたの日々は長く続きますという約束、つまりこれは長生きしますという約束ですよね。当時の人々にとって長生きするというのは最高の幸せとして覚えられていることでした。つまりこれはあなたの地上での歩みは間違いなく祝福されますよという約束です。

皆さん十戒の第5番目にこのような素晴らしい約束がセットになっていたということを知っていたでしょうか。十戒についてよく知っている方多いと思うんですね。十戒の5番目に「父と母を敬え」という戒めがそこで教えられているということはよく知られていることだと思いますけれども、そこにこんなに素敵な約束が伴っていたという事を、皆さんどれだけ知っていたでしょうか。意外と知られていないことかなという風にも思いました。

十戒は、出エジプト記の20章と申命記の5章に教えられています。2箇所で教えられていますが、そのどちらを見ても、この第5番目の戒めにはこのような素晴らしい約束がセットになっております。

そして十戒の1番目から10番まで全部読んでみますとですね、このような素晴らしい約束がセットになってるのは、実はこの第5番目だけなんですね。他の戒めは、その戒めが教えられているいるか、あるいはそれに対する解説が結構付いているのもありますけれども、このような素晴らしい約束がついているのはこの第5番目だけです。そこに私は神様の憐れみというものを感じさせられるなという風に思います。

親に従いたいと思ってもなかなか従えない。そんな私たちではないかなと思うんですけれども、親に従う時にいろんな難しさを感じさせられる私達ではないかと思うんですが、そんな私達を励ますための祝福の約束が、ここでセットになっているというのは、神様の私たちに対する大きな憐れみじゃないかなという風に思います。

ここに父と母を敬いたくなるような、素晴らしいおまけが付いていると言ったらいいでしょうか、子供達はおまけが大好きですね。お菓子を買うよりも、お菓子についてるおまけの方が欲しくてお菓子を買ったりしますけれども、でもそのような素晴らしい祝福をもって私を励ましてくれ、約束をもって私たちを励ましてくださっているとしたら、そこに神様の愛を私たちは考え、感じるんじゃないかなという風に思います。父と母を私たちが敬う時に、私たちは間違いなく幸せになります。神様はそう約束してくださっていますね。私たちの父と母を敬う時に、私たちの地上の歩みは間違いなく祝福されます。これが神様の約束です。

その事をもっともっと私たちはここに覚えるべきではないかなと思うんですね。そしてこんなに素晴らしい祝福が約束されているのであれば、本当に私たちに与えられている父と母を敬うということを大切にしていきたいなと思います。

そしてこの十戒の第5番目の戒めが置かれている位置関係を意識する時に、確かにこれは祝福の約束なんだなということがおのずからわかってきますね。十戒は、1番目から10番目までありますが、第一から第4番目の戒めは、主に神様との関係における戒めであるという風にわかります。そして6番目から10番目の戒めは人間関係における戒めであるということが分かるかというふうに思います。

一番目は「あなたは、私以外に他の神があってはならない。」第二番目は「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」3番目は「あなたはあなたの神の名をみだりに口にしてはならない」4番目は「安息日覚えてこれを聖なる日とせよ」と、以上が神様との関係における、私たちが果たさなければならない戒めです。

 

一方6番目は「殺してはならない。」7番目は「姦淫してはならない。」8番目は「盗んではならない」9番目「偽りの証言をしてはならない。」10番目「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」と続いていきますけれども、このように6番目から10番目は人間関係における戒めであるということがわかります。

つまり「あなたの父と母を敬え」というこの第5番目の戒めは、前半と後半を結ぶ「要」の位置に置かれているということが分かるわけですこの両方を結びつける大切な位置に、この戒めが置かれているということ、そしてこの戒めが、神様と私たちの関係の中で味わう祝福を、私たちの人間との関係の中に味わう祝福へと、繋げていく大事な役割を果たしている戒めであるということに私たちは気付かされるんではないかというふうに思います。

私たちの神様は、今、礼拝している神様は、私たちの父なる神様ですね。私たちは父なる神様の子供たちです。ですから私たちの神様との関係は親子関係ですね。もし私たちが父なる神様を本当に尊敬し、この神様に従い、神様を敬うならば当然、この地上における自分の父と母を敬い従うことができるんじゃないだろうかというふうに思いますね。

実際子供たちは、父と母に従うことを通して、神様に従うということを学んでいきます。
この地上において、お父さんとお母さんというのは、神の権威を表しています。神の権威を表す存在です。ですから子供達は、自分の家でお父さんとお母さんに従うということを通して、実際には神様に従うということを学んでいきます。神様との親子関係と、この地上の親子関係は繋がってるんですね。そのようにして家庭は祝福されていきます。そのようにして家庭が祝福されていくと、これが今度は私たちの人間関係の祝福に広がっていきます。繋がっていきます。

この第5番目の戒めは、あらゆる人間関係の戒めの前提になっている戒めです。殺してはならない、姦淫してはならないという戒めよりも、もっと先に、父と母を敬いなさいという戒めが来ているんです。ですからパウロはここでこれを「約束を伴う第一の戒めです」と教えています。

そこで「第一の戒め」とパウロが言っていることの意味については、いろんな議論があるようですけれども、この第5番目の戒めの大切さが、このような言葉を持って強調されているというふうに考えられます。

父と母を心から尊敬する人は、人を殺しません。父と母を心から尊敬する人は姦淫を犯しません。父と母を心から尊敬する人は盗んだり嘘をついたりしませんね。

あらゆる人間関係の祝福の基盤がここにあるということを、私たちは聖書から教えられたいという風に思います。 逆にこの親子関係が崩れるところから、様々な人間の問題が起こってくるんじゃないでしょうか。様々な罪悪というものが起こってくるんではないでしょうか。今の世の中において、様々な社会悪がはびこっていることと、家庭が崩壊してるということは、つながっていると私たちは考えるべきだというふうに思います。

このように私たちは、自らの父と母を敬い、両親に従う時に、神様との関係が祝福されます。そして同様に人との関係も祝福されていきます。そうしたらどうでしょうか、もう間違いなく幸せではないでしょうか。神様との関係において祝福があり、人との関係においても祝福があったら、間違いなくそれは幸せな人生だということ、この地上の歩みがいかに祝福されたかということになるんではないでしょうか。ですからここに書いてあることは、根拠のあることなんですね。

第5番目の戒めには、約束が伴っているということをぜひ今日は心に留めたいと思います。それはこの地上での祝福が約束されているそういう戒めであります。私たちも地上での歩みが本当に幸せになるように、祝福に満ちたものとなるとなるために、私たちは是非自分の父と母を敬っていきたい。そして自分の両親に従うものでありたいという風に思います。

3.子供たちが両親に従うのは、イエス様に従うことになるから

子供達はなぜ自分の両親に従う必要があるのか?3番目のことを次に学んでいきたいと思います。

それは両親に従うことが、イエス様に従うことになるからです。1節に「子供たちよ、主にあって自分の両親に従いなさい」と、教えられております。命じられています。

ここに「主にあって」という風に記されております。私達の肉親、両親に従うことと、イエス様に従うことが、別々のことではないということ、それは実は一つに繋がっているんだということを、この言葉を通して私たちは教えられます。私たちが子供として自分の親に従うことと、イエス様に従うことは、別々のことではないんですね。一つにつながってるんです。そしてむしろ、私たちは、自分の両親に従うことを通して、イエス様に従うことができます。

その一番いいお手本はイエス様です。イエス様ご自身です。イエス様は本当に自分の親によく従って、仕えた。そのことによって父なる神様に従った。その姿が聖書の中に出てきます。イエス様が12歳になられた時の話皆さんよくご存知だと思いますが、一つの事件が起こりました。家様がいなくなってしまうという事件です。イエス様と父ヨセフ、母マリアはエルサレムでお祭りがあって、その時に家族でエルサレムに来ていました。そのお祭りが終わってナザレへ帰ろうとした途中で、イエス様がいないことにお父さんヨセフとお母様が気付きます。聖書を読んでいると一日の道のりを進んだ後に、そのことに気づいたって書いてますので、1日の間、全然気付かなかったっていいますから、ずいぶん気づくのが遅いなあと思います。思いますけれども、おそらくたくさんの人たちと一緒に旅をしておりましたので、どっかにおそらくいるんだろうと安心しきっていたんだと思います。ところが、どこを見ても、どこを探してもイエス様がいないということで、お父さんとお母さんも大慌てで、エルサレムに戻っってくるというそういうことなんですね。それでエルサレムを探して探して、三日後と書いてありますが、何とイエス様は宮にいて、宮の教師達とお話をしていたということですね。お母さんマリアは、そのイエス様のところに行って、言ったそうです。「どうしてこんなことをしたのですか?みなさい、お父さんも私も心配して、あなたを探していたのです。」母マリアの真剣な表情が目に浮かんでくるようなそんな感じがいたします。それに対してイエス様はこのように答えました。「どうして私を探されたのですか?私が自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存知なかったのですか。」

 心配して問い詰める母親マリアに向かってイエス様はおっしゃられた。私はお父さんの家にいるよ、お父さんの家にいるのが当然なんだよ、そんなことお母さん知らなかったの?そういうそういう言い方ですよね。ヨセフとマリアにしても、驚きの回答だったという風に思いますけれども、実際に二人は、イエス様の語られたことの意味が言葉が理解できなかったとそこには書いてあります。でも私たちは、この言葉、イエス様の言葉を通して、イエスさまは12歳にして父なる神様との、しっかりとした関係の中で生かされているっていう事に気付かされますね。そして父なる神様との関係の中で、自分の本当の居場所は天のお父様のいるところなんだよ、そういう理解に達しているということがわかります。ナザレのヨセフとマリアの家ではなくて、お父さんの家にいることが僕の本当の居場所なんだよということを、理解してるわけですね。そして、自分の地上に生かされているその務めというのは、まさにお父さんの仕事をすることなんだという、そういう理解をもう12歳にして持っているということに、私たちは気付かされる。イエスさまの信仰の成長というものを感じさせられるという場面だなという風に思います。

で、大事なのはこの後なんですね。この後イエス様はどうしたかということです。イエス様そのように言い張ってですね、お母さんマチアにですね、自分の居場所はお父さんの家だよって言い張ってですね、ここが僕の居場所だよと言い張って、その後どうしたんでしょうか?そのまま帰らなかったんでしょうか?そうではなかった。その後こういう風に書いてあります。「それからイエスは、一緒に下っていき、ナザレに帰って両親に仕えられた。」イエス様は結局、両親と一緒にナザレ帰って、そこで両親に仕えられたと聖書は私たちに教えております。おそらく30歳になるまでは、イエス様は自分の家に滞在して、両親に仕えられたんではないかという風に言われております。それが父なる神様に仕えることだと、イエス様は知っていたからであります。

これらの一連のお話は、ルカの福音書の2章に出てくることですけれども、私たちも同様に、自分の父と母に従うことを通して、主なるイエス様に従うことができます。これは二つは別々のものではありません。ひとつにつながっております。そのこと覚えて私たちは自分の両親に従いながら、その事を通してイエス様に仕えるものになりたいという風に思います。

時々私たちの理解の中で、この二つが分離してしまう傾向があるかなと思うんですね。「イエス様には一生懸命従います。でも自分の父と母にはあんまり従いたくありません」というですね、何かそういう子分れてしまう傾向点が時々あるかなと思いますね。むしろ自分の父と母のことは、ないがしろにして、そしてイエス様に従っていくっていうようなことがあるかもしれません。でも実はその二つは繋がっているって言うことを是非、今日覚えたいという風に思います。

両親に従うことは実は簡単な事ではない

そして最後に、実はそれは簡単なことではないということを覚えて終わりにしたいというふうに思います。

私たちが子供として、自分の父と母に母に従うということは正しいことですね。そしてそれは神様の命令です。そしてその事を通して、私達はイエス様にお仕えすることができます。ですからそれはとっても大切な、私たちにとってとっても大切な務めであるということは分かります。

でもそれを全部わかった上で、全部理解した上で、それでも私たちが自分の両親に従うというのはなかなか大変なことではないかなという風に思います。簡単なことではないような気が致しますね。

私たちの両親は、父なる神様のような父親ではありません。完璧な親ではないですね。様々な弱さを抱えております。人間としても不十分です。そしてもしかすると長い親子関係の中で、親から言われたこととか、されたことが傷になってるって事も、もしかしたらあるかもしれません。それこそ親から虐待を受けたということがあるかもしれません。とても親を尊敬することができない。そういう親ではありませんという場合があるかもしれません。そのような場合、そのような傷を乗り越えて、父と母を敬うとか、親に従うというのは、なかなか大変なことですね。そしてそれは不可能なことと言っていいんじゃないかというふうに思います。
また親は、とても近い関係なので、なかなかそりが合わないと言うか、なかなかうまく合わないというの場合もあるかもしれません。近すぎて、お互い知りすぎていることの故に、なかなかうまく折り合いがつけられないということもあるかもしれません。親を見ていると、自分の弱さが見えてくるような感じがして、とても嫌だって言う場合もあるかもしれません。なかなか親を愛するっていうのは難しいことですし、親を敬うということも大変なことだなあというふうに思います。

聖書で教えていることは、本当に素晴らしいことだけれどもでも、とても難しい、とても無理だ、そう感じてしまう場合も私たちに多いんではないかというふうに思います。でもそんな時にこそ、私たちはここで、「主にあって自分の両親に従いなさい」と教えられている、その意味をよく味わうものでありたいという風に思います。

私たちは自分の両親に従う時に、自分で従うわけではないですね。自分の力によって両親に従うわけではないんです。主なるイエスキリストにあって、両親にしたがう。イエス様に信頼することによって、そしてイエス様に私たちの親子関係の中に入ってもらうことによって、そこに仲介してもらうことによって、私たちは初めて、父と母を敬うことができるんではないだろうか、また親に従うことができるんではないだろうか。

そこにちゃんとイエス様に入ってもらうという事が、とっても大事なことだということを最後に覚えたいという風に思いますね。その時に私達本当に心から親に従うことができるんではないでしょうか。そういう葛藤をみんな味わいながら、だんだん親に従うことでがきるようになっていくんじゃないかな、そこに私たちの人間としての成長があるということを覚えたいという風に思います。

まとめ

まず、イエス様が私たちのために死んでくださいました。私たちの罪のために死んでくださいました。そして私たちの高慢なこの罪を、全部許してくださったというその恵みがあって初めて、私たちは親と向き合うことできるんじゃないかなと思いますね。そして私たちの様々な痛み、いろんな経験をしてきました。色んな苦しみ、色んな経験を引きずっています。けどもで全部イエス様が担ってくださって、共に苦しんでくださる、痛んでくださる方です。そしてそのイエス様は今、何と天に帰られて、私たちのためにとりなしをしてくださっているということが、聖書に教えられている。このイエス様にしっかり私たちの間に入ってもらうことによって、できないと思うことができるようになっていくという、そのような恵みがあることを、私たちは最後に覚えあえるものでありたいという風に思いたいと思います。

イエス様にしっかりと入って頂いて、主によって私たちは、この恵みを味わっていきたいと思います。その時に私たちの親子関係は、間違いなく祝福され、そしてこの地上での歩みが間違いなく祝福されていきます。是非この御言葉に頼りながら、信頼しながら、与えられている父と母との関係を大切にし、従い尊敬していくものでありたいと思います。

ここにいる全ての方々の親子関係の祝福のために、一言お祈りをいたします。

恵み深き私たちの父なる神様。私たちそれぞれに、父と母がいます。父と母がいなければ私たちはこの地上に存在することがありませんでした。私たちにお父さんとお母さんをお与えくださったことを覚えてありがとうございます。どうぞそれぞれの家庭に、イエス様が共にいてくださいまして、イエス様がその間に入ってくださいまして、私たちの親子関係を祝福し、私達の家庭を豊かに祝福してくださいますようにお願い致します。御言葉を心から感謝し、尊い救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします 。

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