イエス・キリストをより良く知るために

真の礼拝者,3人の博士達

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

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生まれたばかりのイエス様とお会いできたかたは、本当に限られていましたけれども、今日は、その中の東方の博士たちの姿に注目していきたいと思います。皆さんよくご存じのお話ですけれども、東方の博士たちとはどんな人達だったんでしょうか。どんな思いで旅をしてきたんでしょうか。生まれたばかりのイエス様とどんな出会いを経験したんでしょうか。そんな博士たちの姿を通して、私たちはイエス様とどう出会っているでしょうか。そしてそれは私たちにとって、どんなに素晴らしい出会いでしょうかそんなことを共に考えていきたいと思っています。

1.ユダヤ人の王としてお生まれになった方 

東方の博士たちが長旅をして、エルサレムまでやってきました。そしてユダヤの王であったヘロデのところまでやってきて、こう言ったそうです。2節、

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?私たちはそのかたの星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。

ヘロデのところまでやってきた東方の博士たちが言ったその言葉が、聖書に記されてあります。この博士たちの言葉に、私たちは驚きを覚えるんではないかなと思います。東方という風に一言で言いますが、東方とは一体どの辺のことを言うのでしょうか。聖書にはそのことは書いてないんですけれども、アッシリアかもしれないし、バビロンかもしれないし、詳しいことはわからないんですけれども、いずれにせよそれは異教の国々であるということが言えると思います。その国にはその国の宗教がありその国の神々が信じられていたという風に思います。

ところがこの博士たちは、そんな神々では満足できなかったということだと思いますね?ユダヤ人の王として生まれた方が、全世界の王であると信じているからこそ、わざわざ長旅をしてやってきたんではないでしょうか。

エルサレムまでやってきたと、一言で言うんですけれども、それは本当に大変なことだと思います。どんなに深い思いが博士達の中にあったでしょうか。どんなに真剣な想いがそこにあったでしょうか。それがなければとてもそんな犠牲を払って旅をしてくることはなかったと思うんですね。

私たちはこの博士達の姿に、人間の真実の姿っていうのを見るんではないかなという風に思います。時々日本には日本の宗教があり、日本の神々があるのに、なぜ西洋の宗教であるキリスト教を信じなければいけないんだというような、そういう反応に出会うことがあります。あるいは世界には様々な宗教があるのに、なんでキリスト教だけが真理だと言えるんだと、それは独善じゃないかなんて、そんなことを言われることもありますね?

確かにそれぞれの宗教が尊重されなければいけないと思います。でも私たちは、この世の宗教ではとっても満足できないそういうものをみんな持ってるんではないだろうかと思います。この世の価値観とか、常識とか、教えでは、とてもとても解決することができない本当に深い深い想いというものを、私たちは持ってるんではないでしょうか。この世の宗教ではとても解決できない、そういう非常に深い問題というものを、みんな抱えているんじゃないかなと思うんですね。そして私たちは皆、心の深いところでは、神を知りたい、神と出会いたい、それを神と意識することはもしかしたらあまりないかもしれないけれども、でもそんな切なる思いと言いますか、そういう思いをみんな持ってるんじゃないだろうかと思います。

この東方の博士たちの姿が 、私たちの姿ではないかなと思います。

かつて岩手の水沢にいた時の話ですが、教会に訪ねてきた一人の中学生のことを時々思い出しています。水沢の教会で牧師をしていましたけれども、ある平日の午前中でした。一人の中学生の女の子が教会を訪ねてきました。その中学校は、水沢の教会のある所からずいぶん離れたところにある中学校でしたが、そこの女子生徒が自転車でやってきたんです。制服を着ていましたので、学校をサボって来たんだなということがわかりました。その女の子が、「あのお、今日一日、教会の中で過ごさせていただいてもいいですか?」と言ったんですね。それで、どうぞゆっくりしていってくださいということで中に入れました。彼女は恐らく2時間か3時間ぐらい誰もいない礼拝堂の中で一人、座ってました。その間、何を考えていたのか、どんなことを感じたのか、私には分かりません。あまり詮索しませんでしたが、想像するに、学校から逃げ出したかったのかな?あるいはもしかしたら、家からも逃げ出したかったのかな?とも思いました。詳しくは聞きませんでしたけども、でも彼女はなぜか教会に来たんですね?なかなかそういう人はいませんね。でも彼女は自分で自転車をこいで教会にやってきたんです。そしてお昼ぐらいになったら少し落ち着いたような顔になって、これで帰りますと言いました。またいつでも来てねと言って、送り出したんですが、しかし彼女は、その後一度も来ることはなかったんです。でもあの時のことをちょっと思い出して、いつかまた来てくれることを今でも願っております。

彼女は、「何か教会にある」、と思ったんじゃないかなと思います。それが何かよく分かりませんけれども、何か求めていたんだと思うんですよね。その求めていたものが、そこで得られたのかどうかはわからないですが、彼女のその姿を時々思い出しますね。

私たちみんなどこかでそういう想いをもっているんじゃないかなと思うんです。いろんなもので紛らわして生きていることが多いかもしれないけれども、でも本当に心の深いところでは、自分を愛してくれる人を求めている、自分は何のために生きているのか知りたい、そして本当に神というかたがいるのであれば、そのかたと出会ってみたい、そういう深い想いというものをみんな持ってるんじゃないかなと思うんですね。

そういう神様でしか満たすことの出来ない、心の渇きというもの、あるいは神様でした解決することもできないところの悩みというものは、みんな私たちは持っているんじゃないでしょうか。

この東方の博士たちの姿というのは、まさにそんな私たち人間の姿を示しているんじゃないかなと思います。イエス様はユダヤ人の王としてお生まれになりました。でもこのイエス様は、ユダヤ人だけの王ではなかったんですね。全世界の全ての人の王となるために、主となるために、救い主となるために、来てくださった。そのイエス様が、私たちの王となってくださったことを、主となってくださったこと、救い主になってくださったことを、私たちは感謝したいと思います。

2.何処におられますか?

そんなわけで、博士たちはエルサレムまでやってきました。おそらくエルサレムに向かう道中、博士たちは非常に期待を持ってやって来たんじゃないかなと思います。それはどんな期待だったかと言うと、おそらくユダヤ中大騒ぎになっているんじゃないか?ユダヤの王様がお生まれになったわけですからね、もうその誕生の知らせに、国中が湧き上がって、お祝いムード一色になってるんじゃないかという、そんな期待を持ってやってきたんじゃないかなと想像します。ところが実際やってきたところ、そんな雰囲気じゃないですよね。誰も知らないんです。博士たちは非常に戸惑ったんじゃないだろうかと想像いたします。そしてヘロデの王宮まで行って、ヘロデに向かって言うわけですね、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか?」

この、「どこにおられますか?」というこの言葉の中に、博士たちの戸惑いの気持ちが込められてるんじゃないかなと思うんですね。いったいどこなんですか?どこにもいないじゃないですか。そういう強い気持ちが感じられる言葉じゃないかなと思います。その中に、何か焦りのような、期待したものが叶えられないことの落胆のような、そんな思いも込められていたんじゃないかなと思います。

ところがヘロデも知らないわけです。ユダヤ人の王であるならば、当然ユダヤの王宮にいるだろうと思ってやってきた博士たちでしたけれども、ところが王がいないだけではなくて、ヘロデも知らないなんて、一体どういうことなんだろうと、博士達はますます当惑し、混乱してしまったんじゃないかなと思うんですね。

今まで随分長い旅をしてきたんです。大変な犠牲を払って来たのは、やっぱりこのユダヤ人の王としてお生まれになったかたにお会いしたいと思っていたから、はるばるやってきたわけですが、そのかたに会えないとなると、もうそれは、この旅は失敗だったんじゃないかと、自分が思ってたことは全部間違いだったんじゃないかと、それまでの自分達の歩みもなんだか怪しくなって来るっていいますか、そういう不安もあったと思うんですね。

彼らの求める思いが、真剣であれば真剣であるほど、それが叶えられない時の落胆というのは、本当に大きいものだったと思います。

でもそんな時に、不思議ですけれども聖書が開かれたんですね。聖書の言葉が朗読されたんです。祭司長達、律法学者たちが、聖書を色々調べた結果、次のように言ったんです。6節、

ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。

聖書が開かれて、御言葉が彼らを導く指針になったということが分かると思います。

そんなわけで、博士たちはエルサレムまで来ましたが、じゃあ今度はベツレヘムに行こうということで、ベツレヘムに向かっていくわけですけれども、でもまだ内心不安だったと思いますね。 でもその時、不思議な事が起こったんです。星が動いた。9節、

かつて彼らが、昇るのを見たあの星が動いて、彼らの先に立って進み、

と聖書に記されてあります。まるで戸惑っている博士たちの心を見透かしたかのように、もうそのタイミングで星たちが動いたんですね。

この星が動いたっていうのは色んな解釈があって、ハレー彗星のような彗星が出てきたんじゃないかとか、動いていなかったのに動いて見えただけなんじゃないかとか、いろんな人がいろんなことを解説しておりますけれども、でもとにかく星が導いたんです。そしてその星がイエス・キリストのおられるところまで来て、その上に留まった。つまり星がイエス様のおられるところを、指し示したっていうことであります。

その星を見て博士たちは、どう反応したんでしょうか?10節を見ると、

その星を見て彼らはこの上もなく喜んだ

と、大喜びしたということが書いてあります。ちょっと喜ぶタイミング早いんじゃないかなと思うんですね。この時点では、まだイエス様とお会いしていません。家に入るのは、11節なんですが、まだイエス様とお会いしてないわけです。 ちゃんと会ってから喜べばいいものを、イエス様にお会いする前にもう彼らは大喜びしている、これ彼らはもう確信したんだと思うんですね。ここに至るまでのこの導き、全部神様は自分たちの必要を知っていてくださる、そして本当に困ったこともあるし、苦労したこともいっぱいあるけれど、ちゃんと主が導いてくださってここまで来ることができた、そしてここにおられる赤ちゃんは、間違いなく私達が探し求めていたかただと、確信したんだと思うんですね。ですからもう本当に大喜びした、ちょっと早いんじゃないかなと思うんですけれども、でも本当に嬉しかったんじゃないでしょうか。

3.イエス様との出会い

この話は、私たちのイエス・キリストとの出会いについて、よく教えている言葉だなと思います。私たちはどのようにしてイエス様と出会ったんでしょうか。どのようにしてイエス様を知る者となったんでしょうか。みんなそれぞれ違いますけれども、それは例えて言うならば「星に導かれてきた」っていう、そういうことが言えるんじゃないでしょうか。

実際に星を見たわけではないけれども、でもあの時に、あの人に出会っていなかったら、今の自分はないっていう、そういう出会いが皆さんにあったんじゃないかと思うんですよね。あるいはあの時出会った一枚のトラクトがなかったら、私の今の人生はなかったという、そういうこともあるかと思いますね。あるいは、あの時本当に苦しかった、失敗した、挫折を経験した、本当に振り返ると悲しかった、でもあの挫折があったからこそ、今の自分があるって言う、そういうこともあるんじゃないかなと思うんですね。そして何よりもあの時に開いた御言葉、あの御言葉がずっと自分の支えだった、今までずっと導いてくれた、そういう御言葉の出会いもあったんだと思います。

みんな人それぞれ違うと思うんですけれども、それはみんな例えて言うならば、星に導かれてきたということじゃないでしょうか。そしてそのようにして導かれてきた私たちが、今このようにして神様を礼拝しているっていう事は、なんと不思議なことじゃないかなと思うんですね。

かつては神様を知らなかった私たちです。神様のことは全然考えたこともないような、神様を知らず、自分のために生きてきた私たちが、今このようにして集まって主を礼拝しているということは、何という驚き、何という不思議でしょうか。私たちは当たり前のように毎週毎週礼拝しているけれども、これは本当に不思議なことだなと思うんですね。ここに至るまでの一つ一つの歩みを振り返ってみる時に、なんと神様は私たちのことを愛してくださっていたでしょうか、なんと私達の事を、時にかなってふさわしく導いてくださったことでしょうか。全ての事が益に変えられて今に至っているっていう事に気づかされるんじゃないでしょうか。その時に私たちは、嬉しくて嬉しくて喜びでいっぱいになるんじゃないでしょうか。

どうでしょうか皆さん、是非そういう時を持っていただけたらいいと思います。本当にこのようにして、共に主を礼拝できていることは感謝だなと思います。まず私たちは喜びたいと思います。感謝したいと思います。かつて神を知らなかった私たちが、今、神を知っているということ、神を礼拝しているということは何と素晴らしいことではないでしょうか。

4.博士たちは、礼拝を終えるとすぐ帰った。

 

さて博士たちはそのようにして、イエスキリストのおられるところにたどり着きました。家の中に入りました。母マリアとおられる幼子、イエスキリストと出会いました。そしてひれ伏して礼拝して用意してきた宝物をイエス様の前にお捧げしました。そしてその後帰って行きました。イエス様のところに滞在したのはどの位だったのか聖書には書いていませんけれども、多分そんなに長い滞在ではなかったんじゃないかと思います。そのことが終わったら彼らはすぐに帰って行ってしまった。

ヘロデに狙われているというそういう緊迫した状況もありましたから、ゆっくりはしていられなかったんだろうと思いますが、そのまま帰って行ったというこの展開に、ちょっと私たちは、何かあっけなさを感じるって言うこともあるかなと思いますね。

ここに至るまでが長かったんですね。10節、11節に至るまでの道中が、もう本当に長くて、すごく時間がかかって、すごく苦労をしてきたんですね。本当にもうそのことを楽しみにしてやってきて、それだけですか?もうそれで帰ってしまったんですか?なんとあっけない話ではないでしょうか?博士たちも随分長旅をしたのに、辿り着いた後せめて3日ぐらい滞在したら良かったんじゃないかとか、イエス様との時をもっと楽しめば良かったのになってちょっと思ったりもするんですけども、でも彼らは礼拝が終わったらすぐ帰ったということですね。

彼らはもう、それだけで満足したんだと思うんです。博士たちがベツレヘムまでやってきた目的は、イエス様を礼拝することです。そのようにヘロデにも話をしていますね。2節、

私たちはそのかたの星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。

と、言っておりますね。礼拝が目的なんです。イエス様とお会いして、礼拝ができたら、もうそれで目的が果たされて、十分満足なんですね。その他の理由は何もないんです。

もう本当に満たされて、心満たされて、喜んで帰ったと思うんですね。

この博士たちの姿というのは、礼拝の豊かさということを私たちに教えています。

礼拝とは何でしょうか?礼拝とはイエス様とお会いすることです。このかたと出会い、このかたの前にひれ伏すことです。それが経験できたら、もうそれだけで充分に幸せなんだと思うんですね。礼拝とはそのようなものではないでしょうか。そこに何も付け加える必要もない。もしそこでイエス様と出逢えたならば、もうそれで本当に幸せいっぱい、そういう経験じゃないかと思うんですね。

ダビデは、詩篇16編2節で、

あなたこそ、私の主。私の幸いはあなたの他にはありません。

という風に言いました。ずいぶん大げさな言い方だなと思うかもしれません。でもこれはダビデの心からの告白だったと思いますね。もう本当にあなたと出会えたら、もうそれで十分です、幸せです、幸せいっぱいですっていう、そういう告白です。そしてパウロもピリピ書3章8節でこのように言っております。

私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの故に、私は全てを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらは塵芥だと考えています。それは私がキリストを得て、キリストにあるものと認められるようになるためです。

と、そういう風に言ってるんですね。イエス様を知っていることの素晴らしさのゆえに、それまで素晴らしいと思っていたものは全部チリになってしまった、ゴミになってしまったというすごい告白ですね。これも大げさな言い方だなと思うかもしれませんけど、これもパウロの本当に心からの告白だと思うんですね。

もし本当にキリストと出会うことができたならば、きっと私たちも、こういう風な告白に導かれていくんじゃないでしょうか。もう本当に素晴らしいと、それ以外のものはもう全部チリです。本当にあなたを知ってるだけで幸いです、幸せですと、そういうことが経験できるのが礼拝だとすれば、礼拝というのはなんと素晴らしい時間ではないでしょうか。私たちは毎週毎週、礼拝するたびに、実はこんな素晴らしい経験が与えられているって言う事なんですね。本当にそれは感謝なことではないかなと思うんです。教会に来て、みんなとお会いするのも楽しいですね。兄妹姉妹と交わりをするのも楽しいです。

でも何よりも、生きている神様とお会いできる、この方に賛美を捧げることができる、この方の前にひれ伏して礼拝できることは、私たちにとって本当に深い深い喜びではないでしょうか。礼拝の時間というのは一週間のわずか1時間か1時間半の、本当に限られた限られた時間ですけれども、その1時間半で、一週間全部が決まってしまうと言えるくらい、この一時間半は私たちにとってとても大切な、とても感謝な時間じゃないかなと思うんですね。ここで主に本当にお会いできたら、もう一週間も幸せいっぱいというね、それくらいの時間だということを思う時に、私達は本当に礼拝を大切にしなければいけないなということを思います。是非私たちはこれからも、礼拝というものを、そういう時間として過ごしていきたいと思います。この礼拝において神様との生きた出会いを経験し、そして神様の素晴らしさを発見する者でありたいなと思います。そのような生きた礼拝、そして生きた信仰、そのようなものを、私たちはしっかりと与えられて歩んでいく者でありたいと思います。

5.礼拝とは捧げること。

最後に礼拝とは、「捧げること」だということを覚えて終わりたいと思います。博士たちはイエス様にお会いしまして、ひれ伏して、そして用意してきた宝物ですよね、11節に「宝の箱を開けた」って書いてますから、宝の箱だったんですね。宝物だったんです。その中身は黄金、乳香、没薬という、そういう内容でした。それは東方の国々においては、最も高価な、本当に最も大切なものだったと思いますけれども、それを全部イエス様の前にお捧げした、これが礼拝だったということなんですね。そしてそれだけじゃないですね。博士たちは時間を捧げたということが言えると思います。どれだけの時間を費やしたんでしょうか。本当にここに到着するまで、長い長い時間をかけて来たでしょうか。

私は教会の近くに住んでいますのでそんなに長い時間はかからないんですけれど、でも秩父から通って下さってる方もいらっしゃいますし、人によっては本当に遠いところから来てくださってる方がいますね。私が岩手にいた時は、岩手は教会が少ないですから、本当に遠いところから駆けつけてくださる人がいるんですね。沿岸の方からとか、山の奥の方から、車で2時間そのくらいかけてやってくるんです。でもそれは、その人にとって本当に喜びなんですね。礼拝に行くことが、本当に喜びなんです。そのようにして時間を捧げて、そこに来たらもう一日終わっちゃいます。その他の事はも何もできない。朝来て帰ったら、夜になってしまいますので、礼拝しかできない、日曜日は礼拝しかできない、そういう状況であったとしてもその人にとっては、礼拝という時間は絶対失うことができない、本当に大切な時間なんですね。それはもう本当に喜んで捧げているということだと思います。

あるいは労力も捧げました。どんなに疲れたことでしょうか。長旅をして本当に疲れたと思いますけども、労力を捧げました。あるいはお金も捧げたと思いますね。一体どれだけの費用がかかったでしょうか。その旅の途中の宿泊代とか、食事代とか、交通費はあんまりかかんなかったかもしれませんけれども、本当にいろんな準備をして、お金をかけてやってきた、本当にそれは全部イエス様に捧げて犠牲を払ってやってきて、そして体も捧げて、そうやって捧げた、これが礼拝なんだっていうことを、博士たちの姿から教えられるんじゃないかなと思うんですね。

礼拝というのは捧げることです。私たち自身を神様にお捧げすることです。礼拝で私達が受けることも 大事ですけれども、でも礼拝というのは、お捧げすること、私たちの心からの感謝を、主にお捧げすること、本当に主を賛美すること、そして私たち自身を主のために使ってくださいと差し出すこと、それが礼拝であるということを覚えたいなと思います。

かつて私がフィリピンで生活をしていた時に、フィリピンのクリスチャンの家庭にホームステイをさせて頂いたことがありました。それでそのホームステイの家庭には、若い学生たちもいまして、それで私はある時尋ねられました。君の誕生日はいつなんだと言われ、8月9日だと答えました。8月9日が近づいていましたので、私はきっとフィリピンの彼らは、私のために誕生会を開いてくれるのかな?と、ちょっと期待していたんですね。それで楽しみに待っていました。ところが、8月9日になっても何も起こりませんでした。なんだ何もないじゃないかと思って、がっかりしたというそういう経験があるんですけれども、フィリピンでは、誕生日は誕生日を迎えた方が、自分で誕生会を企画し、そして普段お世話になっている人々を招待し、おもてなしをする、そういう習慣の国なんだなということが分かったんですね。では彼らは、私が誕生会を開いてくれるのを待っていたんだなって気づいたわけなんですね。

それで2年目からは、私、ちょっと頑張りまして、自分でたんじょう会を企画しましてですね、少しおうどんを料理したりとか、日本食をちょっと振舞ったりしました。マニラで日本食買うと、結構高いんですね。ですからちょっと痛かったんですけれども、しかもフィリピンのパーティーはちょっと恐くて、何人やってくるかわからないという、そういう怖さがあります。日本だったら招待した人だけが来るんですけれども、フィリピンだと、招待してない人、全然知らない人まで来る、そういう怖さがありましたが、それも楽しかったんです。繰り返しになりますが、フィリピンでは、誕生日というのは祝ってもらう日ではなくて、普段お世話になっている方々に感謝を表す時なんだなということですね。そういう習慣の国なんだなということを思いました。それでだんだんそういうフィリピンの滞在が長くなるにつれて、むしろこっちの方が聖書的なのかなということを思うようになったんですよね。

6.まとめ

私達はややもすると、受けることばっかり考えて、自分から感謝することがあまりないような、私たちと神様との関係においても、そんな面があるんじゃないかなと思うんですね。教会に来て、受けることばっかり期待して、何か祝福されることばっかり考えて、感謝が無い、神様に捧げるということに乏しい。神様は本当にイエス様という、素晴らしいプレゼントを下さいました。本当に感謝です。でももらってばっかりで何の感謝もない、私の方から捧げるということもない、そういうちょっとバランスの崩れた信仰者になっていることが多いんじゃないかなと思います。

私のために命を捧げたイエス様に、私達を捧げていく者となろうではありませんか。本当の私たちの喜びっていうのはむしろ、捧げることができる、そういう方を私たちが持っているということのほうが、もっと幸せじゃないかなと思うんですね。この方のために、自分の全てを捧げたい、捧げることができる、そういう方を私は持っているということの方が、本当に幸いなことじゃないでしょうか。このクリスマスの季節、私たちは本当に神様に感謝したいと思います。素晴らしいプレゼントをくださった神様、そしてイエス様に感謝したいと思います。そのような心からの感謝と礼拝を、捧げしていこうではありませんか。

 

お祈りをしたいと思います。愛する神様、今日は東方の博士たちの姿を通して本当にイエス様と出会うということが、どんなに素晴らしい経験であるかということを教えてくださったことありがとうございます。本当に素晴らしい恵みをくださったイエス様、そしてそのイエス様に、私たちが心から感謝し、また自らをお捧げできますように、そのような生きた出会いを私たちに経験させてくださいますようにお願いいたします。御言葉を心から感謝しイエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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