イエス・キリストをより良く知るために

自分の悟りに頼らないことが、あなたの救い。・・・第一サムエル29章1~7節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

今日も第一サムエル29章の御言葉に注目していきましょう。1節をお読みいたします。
ペリシテ人は全軍をアフェクに集結しイスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。
この箇所よりペリシテ人の軍隊とイスラエルの軍隊がそれぞれ陣を敷いて、これから戦いが始まろうとしている、その様子がここに描かれています。この両者、ペリシテ人とイスラエル人は今までも何度も戦いを続けてきましたけれども、今回の戦いは今までにはないちょっと違う戦いであるということが分かります。今までにはなかったような大一番、総力戦がこれから始まろうとしているということがわかります。ペリシテ人は全軍をアフェクに集結したと、一節に書いてあります。全部の軍隊をそこに集結したということは、ペリシテ人が、本気でこれから立ち向かおうとしてきている。イスラエル軍のほうも、相応の軍を、そこに投入して、いわゆる総力戦がこれから始まるということであります。天下分け目の関ヶ原ではありませんけれども、歴史を変えるかもしれないという、大一番がここから始まっていくという、そういう緊迫感が感じられるようなそんな言葉だなと思います。

1.追い詰めれらてゆくダビデ

この時ダビデは、どこにいたのかということが2節を読むとわかります。2節にこう書いてあります。
ペリシテ人の領主たちは、100人隊、1000人隊を率いて進み、ダビデとその部下はアキシュと一緒にその後に続いた。

この時ダビデはどこにいたかというと、ペリシテ人のがわにいたということであります。ペリシテ人のガテのマオクの子、アキシュの軍隊の一部として、ペリシテ軍の中にいたということです。イスラエルの王となるために油を注がれたダビデが、そしてこの後、本当に彼はイスラエルの王様になるんですけれども、そのダビデが、イスラエルの側にではなくて、ペリシテ人のがわにいるということは、あり得ないことなんです。
これはもう変なことなんです。とてもおかしいことです。
どうしてダビデはこの時ペリシテ人の中にいるのか、それはその時のダビデには、もう他に道がなかったと感じられていた、相当追い詰められていた状況だったということが言えると思います。
自分の命を狙って、サウルが追いかけてくる。そのサウルから、逃げ回っていましたね。でもどこに隠れていても必ず密告する人がいて、自分の居場所がサウルに知られてしまう。そうするとサウルが追いかけてきて、どこに逃げても安心して隠れる場所がない。どこも安全な場所がない。もうどんどんどんどん追い詰められていくんですね。それでダビデは思いました。他に道はない。もうペリシテの地に逃げるしか道はないと、その時のダビデは思ってしまったわけですよね。それでダビデは、その時ペリシテ人の地に紛れ込みまして、アキシュに、とにかく匿ってもらう、そういう判断をしたんですね。そうしたらサウルも追いかけて来なくなりました。ですからある意味では、その時点においては、ダビデの計算通りだったということが言えるかもしれません。
でも実はその後、ダビデは大変な深刻な問題を抱えるようになるんですね。
アキシュの信頼を得るために彼は、嘘をつかなければいけなくなりました。ダビデは部下とともに登っていって、ゲシェル人、ゲゼル人、アマレク人などの、いろんな民族を襲って勝利してくるわけですけれども、アキシュに報告する時には、イスラエルの諸部族を打ってきましたと言って嘘の報告をする。その事によってアキシュに信頼してもらうための努力をしてきたと言えるのでしょうか。そしてその事がアキシュに絶対バレないためにも、彼は徹底的に人々を殺しました。もう男も女もみんな殺した。信じられないダビデの姿です。私たちが知っているダビデの姿から考えると、ありえない殺人鬼じゃないかと思うような、本当に恐ろしいダビデの姿が描かれている。そのことをちゃんと聖書は書き留めてるんですね。そしてその姿から私たちは、学んだんですけれども、そのようにしてかろうじて自分の居場所を確保して、アキシュの信頼を得て、自分の身を守っていた。そういうダビデの姿がそこにあります。
信頼されたかもしれないけれど、その信頼というのは、嘘とアキシュの誤解によってかろうじて成り立っている信頼です。もしそれがばれたら、すぐにその信頼は吹っ飛んでしまうという非常にもろい、そういう信頼関係ですよね。でもダビデには、自分の身を守るためにはそれしか方法がなかった。「他に道はない」と、ダビデにはそう感じざるを得なかった。そういう状況であります。
ただダビデは本当に苦しかっただろうなと思いますね。ダビデの生涯の中で、最も惨めで最も苦しい時だったんじゃないかというふうに思います。
そのような経緯があって、ダビデは今ペリシテ人の地にいるということになります。

2.神の軍(=同胞)との対戦が避けられない緊急事態

ところが今日の場面に入りますけども、29章に入って大変な危機的な状況になっていたということがわかります。イスラエル軍とペリシテ軍が、激しい戦いをこれから始めるというそういう状況になりました。
これはダビデにとっては何を意味しているでしょうか。それは自分がイスラエルと戦うということです。今まで戦うふりをしていましたけども、本当に戦わざるを得ないということですね。そしてそれは自分が本当に心から仕えてきた、サウルと戦うということですね。あるいはヨナタンと戦うということです。自分の同胞たちと戦うということです。そしてそれ以上にそれは、神の軍に対する反逆ですね。神の御心に背くことです。
これはダビデにとっては、絶対にしたくなかった、避けたかったことだったと思います。しかも、もう誤魔化しは効かない。今まではうまくごまかすことができました。アキシュの目の届かないところで敵を襲って、アキシュには適当に嘘の報告をして、なんとかそれで取り繕ってきた。そういうごまかしはもう効かない。ダビデはイスラエルとの戦いに、絶対出て行きたくなかったと思います。でもそれを言ってしまったらどうなるでしょうか。アキシュの信頼を失ってしまいます。それ以前に、自分の居場所がなくなってしまいますね。ペリシテ人の地にいるという、自分の居場所がなくなってしまう。完全に追い詰められたダビデの姿がここにあります。
今までは自分の知恵と力をやりくりして、なんとかこれが道だ、これが道だと、やりくりして、なんとか自分の居場所を確保して生き抜いてきたかと思いますけれども、でもここに来て、もうどうすることもできないんです。できることならこの状況から逃げ出したいとダビデは思ったんじゃないでしょうか。でも逃げ場所はもうどこにもない。そんな八方塞がりの状況に追い詰められたダビデの姿がここにあるということであります。
あなたも今までの人生の中で、いろんなことを経験してきたと思いますけれども、これに似たような経験をしたことがあるかもしれませんね。自分であれこれ考えて、これが道だと思って判断するけれど、うまくいかない。どんどんどんどん追い詰められていく。そしてその結果、もうどこにも逃げ場所がないっという、そういう苦しい経験をしたことが、もしかしたらあなたにもあるかもしれませんね。

3.神の不思議な導きによる逃れの道

ダビデは本当に苦しかったと思います。しかし今日の聖書を読み進めていく時に、そんな中にあっても主の助けがあったということ、そして主の助けが意外な方向からやってきたということに、私たちは気づかされます。
神様はやっぱり、ダビデのことを見てるんですね。そしてダビデのことを見守っていて、本当に苦しい時は、救いの手をちゃんと差し伸べてくださる方であるということを、私たちは今日の聖書の箇所から教えられます。どこから助けがやってきたんでしょうか。どのような展開になっていったんでしょうか。次を読んでみたいと思いますが3節4節5節を読んでみたいと思います。

ペリシテ人の首長達は言った。「このヘブル人たちは一体何なのですか。」アキシュがペリシテ人の首長達に言った。「確かにこれはイスラエルの王、サウルの家来ダビデであるが、この1~2年、私のところにいる。私のところに落延びてきてから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」ペリシテ人の師匠たちは、アキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の人たちは彼に言った。「この男を帰らせて欲しい。あなたが指定した場所に帰し、私たちと一緒に戦いに行かせないで欲しい。戦いの最中に、我々に敵対するものとなってはいけない。この男はどのようにして自分の主君の好意を得るだろうか。ここにいる人たちの首を使わないだろうか。この男は、皆が踊りながらサウルは千を打ち、ダビデは 万を打ったと歌っていたダビデではないか。」

戦いがこれから始まるというまさにその直前の時でありましたが、ダビデたちがそこにいる姿がペリシテ人の首長等の目に留まったということがわかります。ペリシテ人の首長達はアキシュに向かって言いました。なぜこの人たちがここにいるのですかと疑いを持って訴えています。ダビデとその一族たちがそこにいることが、ペリシテ人の首長等に、不安と不満を抱かせたということが分かります。ところがアキシュは言いました。
「確かにこれはイスラエルの王様の家来、ダビデであるが、この1~2年、私のところにいる。私のところに落延びてきてから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。アキシュはダビデのために必死にとりなし、弁明してくれているということだ分かりますね。
ところがそんなアキシュの言葉を受けて、ペリシテ人の首長達は腹を立てたと書いてあります。そしてこの男を帰らせて欲しい、我々と一緒に戦いに行かせないで欲しいと、強くアキシュに要請したということが次に書かれている。
その理由はもうわかると思いますけれど、このダビデが裏切るかもしれないということです。戦いの最中に、主君のサウルの好意を得るために、我々を裏切るかもしれない。だから彼を帰らせるようにと、ここで要請してるわけですよね。しかもサウルは千を打ち、ダビデは万を打ったという、あのかつてダビデが大勝利を収めて帰ってきた時に、イスラエル中の人達、とくに女の人達に歌われたこの歌が、何と、ペリシテの人達にもよく知られていたということも分かりますね。あの評判のダビデが、そしてペリシテ人たちは、このダビデに、何度も何度も苦しみを味あわされてきました。ペリシテ人が誇る、あの大将ゴリアテもダビデに殺されてしまいました。あのダビデがここにいる。それがもう信じられないことだ。
このダビデが裏切るかもしれない。ペリシテ人の首長たちのこの考え方は、極めて常識的、当然な心配だったんじゃないでしょうか。織田信長も明智光秀に裏切られて殺されてしまった有名な話がありますけれども、戦乱の世にあって、裏切りというのはいつでも起こりうることだと思いますね。ですからアキシュは、もう大丈夫だと言ってるわけですけれども、ダビデを信じて疑わないでいるそのアキシュの人の良さ、のんきさんのほうがペリシテ人の首長達には腹立たしかったんだと思います。そのようなペリシテ人の首長達の強い要請を受けて、アキシュもダビデに言わざるを得なくなるんですね。6節、7節。
そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたはまっすぐな人だ。あなたは陣営で私と行動を共にしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、あなたには何の悪いところも見つけなかったからだ。しかしあの領主たちは、あなたを良いと思っていない。」
とてもアキシュの残念そうな気持ちが伝わってくる言い方だなと思いますね。本当だったら行動を共にして欲しかったんだけれども、彼らがあんな風に言うから仕方ない。今日のところは勘弁して帰ってくれといっています。
それに対してダビデは何て答えたでしょうか。8節。
ダビデはアキシュに言った「私が何をしたというのですか。あなたに仕えた日から今日まで、下僕に何か過ちでも見いだされたのですか。我が君、王様の敵と戦うために、私が出陣できないとは。」アキシュはダビデに答えて言った。「私はあなたが神の使いのように正しいということをよく知っている。だがペリシテ人の首長達が、『彼は我々と一緒に戦いに行ってはならない』と言ったのだ。さあ一緒に来た、自分の主君の家来たちと、明日の朝早く起きなさい。朝早く明るくなり次第出発しなさい。」ということで、アキシュとダビデのやり取りがここに 描かれているということがわかります。

このアキシュの言葉を聞いて、ダビデはどう思ったでしょうか。正直助かったという思いがあったんじゃないかなと思います。非常に複雑な思いがあったと思いますが、正直助かった、イスラエルと戦わなくて済む、という事に非常にホッとした、そういう気持ちがあったんじゃないかなと想像します。口ではアキシュに不満をぶつけてますね。私が今まで何をしたというのですか、私が出陣できないとはと、あたかも出陣したいかのような、そういう言い回しですけれども、出陣できないことをとても残念そうに語っていますが、でもどれくらい本気でこの言葉を口にしているだろうかと考えさせられますね。おそらく半分以上は演技だったんじゃないかなと思います。
思い返せばダビデのアキシュに対する態度は、全部嘘でした。全て演技でした。ごまかしであり、嘘であり続けました。そのようにアキシュを騙し続けることによって、かろうじて彼はアキシュの信頼を勝ち取ってきた。そのことによって彼は、自分の身を守ってきた。その嘘を隠すために、最後まで嘘をつき続けているダビデの姿をここに見るんじゃないかなと思うんですね。そしてそれはとても残念なダビデの姿ではありますけれども、でもそれがやっぱり人間の姿なんじゃないかなというふうに思います。

でもそんなダビデではありましたけども、神様はやっぱりダビデのこと守ってくれた。そしてダビデも自分ではどうすることもできないんですよね。本当に八方塞がりですね。曖昧な態度しか 取ることができないダビデでしたが、そのダビデの苦しい状況から、神様が介入してくださってく、見事に救い出してくださったということを、私たちはここから感じさせられるわけであります。
ダビデの生涯を振り返ってみると、いつもそうでしたね。本当にダビデはいつも守られてきたと思います。今までも危険な目に何度も会いました。危うく殺されかけることもありましたね。本当に危機的な状況の中にあって、あと一歩で、危ないという時に、ちゃんと神様の守りがあって、守られてきたということを何度も何度も繰り返してきたダビデであります。今回もダビデにそのような試練があったわけですけれども、でもちゃんと主が守ってくださった。神様は選ばれた人たちを、必ず守ってくださるということを、私たちはここから覚えさせられます。ただ今回ダビデに与えられた経験は、助かった、守られた、良かった、だけでは済まされない、そういう経験だったんじゃないだろうかと思いますね。
今までは、本当に逃げて、逃げ回って、危なくて、守られた、本当に感謝だった、という感じだと思います。
今回の件に関しては、ただ主が助けてくださって良かったと、それだけで終わりにしてはいけない。ダビデにとっては厳しい反省が求められる、自己吟味が求められる、そういう経験だったんじゃないでしょうか。確かに主が介入してくださって、守って救い出してくださって、本当に感謝したと思いますけれども、それで終わりにしてはいけない。
10節でアキシュはダビデに、「私はあなたが、神の使いのように正しいということをよく知っている」という風に言っています。アキシュにとってダビデは、あたかも天使のような存在であったと、アキシュは、それくらいダビデのことを信頼していたということなんですけど、この言葉を聞いてダビデどう思っただろうかなと思いますね。どう感じたでしょうか?本当にダビデはアキシュにとって天使のような存在だったんでしょうか。とんでもないですね。彼はペリシテ人の地にあって、悪魔のような振る舞いをして、しかしアキシュの前に出る時だけは、それを隠して、ごまかして、それによってアキシュの信頼を勝ち取って、まるで天使のように振る舞ってきたけれども、でも実はそうではなかったんですよね。そのようなことをアキシュから言われて、ダビデはどういう風に思ったんでしょうか?
心は激しく痛まなかっただろうかと思いますね。そんなにアキシュの心を騙し続けて、心が痛まないとしたら、やっぱり問題だと思いますね。そこがダビデは反省しなければならない、自己吟味しなければならない課題というものを、抱えていたということが言えると思います。この経験を通してダビデは何を学んだんでしょうか。そしてこの経験を通してダビデは何を知ったんでしょうか。

4.心をつくして主により頼め。自分の悟りに頼るな。

それは、「自分の判断がいかに不確かであるか」、ということ、「自分がこれで良しと思った判断がいかに心もとないものであるか」、ということを、ダビデはこの経験を通して学んだのではなかったでしょうか。あの時は、「他に道はない」と、ダビデは思いましたね。本当に相当行き詰っていましたので、人間的に考えれば致し方がない、そういう状況だったかもしれない。本当に追い詰められていて、苦しくて、ペリシテ人の地に行くしか道はない、とその時のダビデには感じられていたんだけれども、でも、その結果としてどうなったでしょうか。ダビデは、もっと苦しみを負うようになってしまい、もっと厳しい状況に追い込まれていく。
そういうご経験をする中で、これが良いと思った自分の判断が、いかに不確かなものであるか、いかに脆いものであるか、曖昧なものであるかということをダビデは今回、身にしみてわかった、そんな経験だったんじゃないかなと思います。そしてもう一つ、ダビデが学んだことは、自分で判断したその結果も、全部引き受けて行かなければいけないということも、今回学んだんではないでしょうか。ガラテヤ人の手紙の6章7節8節に、こんな言葉があるんです。
人は種をまけば刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔くものは、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔くものは、御霊から永遠の命を刈り取るのです。
そういう御言葉が新約聖書にありますけども、「人は種を蒔けば刈り取りもする」と、出てきますね。良い種を蒔けば、良い刈り取りをしますね。悪い種を蒔けば、悪い刈り取りをすると書いてます。要するにこれは、私たちが判断を下すときは本当に慎重でありなさいということですよね。私たちは自由です。選択の自由があります。判断を下すのは自由です。
でも良い種を蒔けば良い結果を引き受ける、でも悪い種を蒔けば悪い結果を引き受ける、その責任もちゃんと負いなさいということです。ですから種を蒔くときはよく吟味しなさい、判断するときは慎重でありなさい、そういうことが聖書で教えられていることだというふうに思います。ダビデは自らの失敗を通して、その事を身に染みて教えられたんじゃないでしょうか。「他に道はない」と思って、その判断、踏み出したその結果も、全部彼は引き受けなくてはいけない。自分の判断によって、いかに自分が苦しむか、その事をダビデは身にしみて感じたと思うわけであります。そしてそういうことを通して、どんな厳しい状況の中にあっても、本当に主に、より頼むことが大事だということ、自分の判断がいかに愚かであるかということ、本当にどんな時にも、主に、より頼むということが、どんなに大事であるかということをダビデはこの経験を通して教えられたと考えられます。
箴言3章5節6節に記されてあります。
心をつくして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道、全てにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。
心をつくし主によりたのめ。自分の悟りに頼るなと、箴言は教えてますね。聖書私たちに心を尽くして主により頼むことの大切さと、自分の悟りに頼ることの愚かさを、教えております。

5.まとめ

私たちは信仰者としておそらく、主に、より頼むことの大切さを知っていると思います。教えられていると思います。大切なのは信仰であると、頭では分かっていると思います。
ところが意外と、肝心な時に心をつくして主に、より頼むことが乏しい、そういうことがあるんじゃないかなと思うんですね。普段は主に信頼しているようでありながらも、何か、肝心な時、ことが起こった時、主に、より頼むのはこの時でしょうという時に限って、私たちは主により頼まないで、自分の悟りに頼る、自分の力にすがる、そういうことをしてしまいやすいんじゃないかなと思うんですね。信仰者であっても、そういう傾向があるんじゃないかなと思いますね。そしてその結果、失敗をしてしまって、苦しんだり、悩んだりするということが、時々あるんじゃないだろうかと思うんですね。私たちの人生は、そういうことの繰り返しになるかもしれませんけれども、でも大事なのは、その失敗した時に、そこで何を学ぶのかということではないでしょうか。ダビデも今日の箇所で、大変な失敗をしました。そこから神様が守って、救い出してくださいましたけれども、でもそれはダビデにとっては、やっぱり深く反省すべき機会だったと思います。私たちも時々失敗します。不信仰のゆえに、私たちの愚かさの故に、間違った判断を下し、その結果を引き受け、苦しんでしまうということがあると思います。私たちの人生は、そんなことの連続かもしれませんけれども、でもそこで求められてくるのは、そこで私たちが何を学ぶかということではないかと思います。
日本語のことわざの中に、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということがありますけれども、私たちは苦しい時は必死ですね。苦しい時は必死で祈ります。クリスチャンである私たちも、苦しい時は、神様と祈りますけれども、解決されるとすぐに忘れてしまうということがあるんじゃないかなと思うんですね。神様、感謝します。問題は解決しました。ありがとうございます。それで終わってしまって本当にいいのだろうか。そこで、自分が苦しんだのはなぜか、なぜこんな目にあったのか、自分の何が問題だったのかと、そこで立ち止まって考えたり、反省したりすることが、本当は大事なんじゃないかな と思います。
私たちは、ことが過ぎてしまうと、それで、もう終わったような気になってしまって、結局同じことを繰り返しているということも、あり得ることではないでしょうか。そんな傾向が私たちにあるんじゃないかなと思います。
その裏側には何があるでしょうか。おそらくそれは、自分の失敗を認めたくない、自分の弱さを認めたくないという、強い想いじゃないでしょうか。その思いがあまりにも強いために、私たちはなかなか自己吟味ができないですね。いつまでたっても主に、より頼むことができません。主に信頼することの大切さを知っているのに、肝心な時に、主に、より頼むことができないんじゃないでしょうか。そういう傾向を私達は持っていないだろうか。私たちそれぞれが、本当に深く考えてみなければいけないことだと思います。

私たちの父なる神様は、私たちに何を願っているでしょうか。それは私たちの弱さをごまかしたり、隠したりすることではなくて、その弱さの中にあって、主を見上げ、主に信頼すること、主に、より頼むことではないでしょうか。そのことを神様は私達に願っているんではないでしょうか。私たちはなかなか自分の弱さを認めたくないという思いがありますよね。自分の弱さには蓋をして、自分の問題には蓋をして、そして終わったら、良かったと言い、感謝するかもしれないけれど、なかなか心の深いところで、主に、より頼むことができない。それはもしかしたら、私たちの中に弱さを認めることができない、自分の貧しさを認めることができない、そういう傾向があるからじゃないだろうかと思うんですね。
でもその中にあって、私たちは、本当に主に、より頼むことが求められているんではないでしょうか。ペテロが用いられたのは、彼が失敗した後でした。イエス様のことを知らないと、三回言って大失敗をして、自分の弱さがとことん分かった後で彼は、本当に主により頼む人に変えられたと思います。ペテロは、それまでは自分が一番偉いと思っていましたね。自分が一番、まともな弟子だと思っていました。他の人が全部つまづいても、自分だけはつまずかないと豪語しておりました。自信家でした。うぬぼれ屋さんでした。でもそんな時は、あまり用いられる人ではなかったと思います。彼が本当に支えられて、本当に用いられるようになったのは、彼が失敗をして、そこでとことん自分と向き合って、そして自分の弱さを知った後、本当に主によって生かされる人に変えられたんですよね。
ダビデもそうです。ダビデも今日のところで本当に失敗をして、自分の弱さがよくわかったと思います。自分を守るために、いろんなことしてしまう自分の姿が、よくわかったと思います。でも、王になる前にそういう経験が与えられて良かったんじゃないかなというふうにも思いますね。この後ダビデは、イスラエルの王様になって、権力を手中に収めますけれども、その前に彼が自分の弱さをとことん知らされたのは、本当にいい経験だったんではなかったでしょうか。そういう意味では本当に良い導きの中に置かれていたということが言えるんだと思います。そしてその経験からダビデは、しっかりと学んで、王となって行きました。
私たちはどうでしょうか。私たちも色んな経験の中から、時には失敗もしますけれども、失敗から学んでいるでしょうか。そこで自分の悟りに頼ることの愚かさを、学んでいるでしょうか。主に信頼することの大切さを学んでいるでしょうか。私たちは人に過ぎないんです。土の器です。本当に脆い脆い土の器です。神様の御手の中にあって、初めて生かされ、用いられる、そういう一人一人であることを決して忘れることがないように、私たちの弱さの中で主がしっかりと支えてくださる、その恵みを味わっていきたいと思います。主に導かれて成長していきたいと思います。

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。あなたの恵みは、私たちの弱さのうちに十分にあります。どうぞその恵みによって、生かされるものとしてください。あなたの力強い御手によって支えられ、導かれるものとして、私たちを導いて下さいますように、お願い致します。御言葉を心から感謝し、尊い主、イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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