イエス・キリストをより良く知るために

礼拝とは何か?・・・ローマ人への手紙1章18節

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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1.縦軸と横軸——縦軸のゆがみ:神を、神として崇めない生活

ローマ人への手紙1章18節の、「不敬虔と不正」という言葉も、私の心に突き刺さりました。

「と言うのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔不正に対して神の怒りが天から掲示されているからです」。
不敬虔とは神に対する人間の不信仰を意味し、不正とは他人に対する人間の 不誠実さを意味しています。
つまりこの二つの言葉は、人間が生きている世界の縦軸と、横軸を表し、神様に対する不敬虔は、人間関係の不誠実さとして現れることを知るようになりました。
そしてまさに私の罪の生活がどこから始まったのか?
神を、神として崇めない生活が、一番の大元にある原因であったということを示されたのです。

2.礼拝とは何か?

旧約聖書において最初に出てくる礼拝の用語は創世記18章のアブラハムが3人の使いに対して神にひれ伏す時に使われました。礼拝は私たちの世界における絶対者、卓越した存在、全てに勝って崇めるべきお方がどなたなのかを示す行為です。

キリスト教において神への礼拝とは、この神なしに自分は存在しない、この存在なしに自分の人生は意味がない、という告白を意味するものでありますから、誰に向かって礼拝を捧げるかは、その人の生き方にたいへん大きな影響をもたらします。

旧約時代の周辺諸国のひとつに、カナン人宗教がありますが、バールという男の神、バアルの妻であるアシュトラセと言う女の神は、聖書で度々登場する偶像礼拝の対象であります。

これが神殿において、正々堂々と男と女が体を売って汚れた交わりをするという儀式を行う偶像でした。今の私たちにとっては、何とひどい行為だと思うかもしれません。でもそれがバール宗教の教えの中にあったのですだから、彼らは何の疑問もなくそれを行っていました。

どなたを礼拝するのか、どんな方を礼拝するのか、それが行いに、生活に、生き方に現れるんですね。

3.ひれ伏す対象—その影響

旧約聖書のレビ記19章の2節には、「あなた方の神、主である私が、聖であるから、あなたがたも聖なるものとならなければならない」とあります。

心からひれ伏す対象が真の神であり、正直に聖なる神の前に立つ時に、私たちの人生に初めて神のご性質そのものが現れるという意味です。

ですから礼拝は形だけ学んでも意味がありません。客観的に礼拝とは何か?という「知識」を並べ立ても意味はありません。私たち自身が神様の前にひれ伏すのでないなら、意味がないと言わなければなりません。

4.神の前での礼拝—まずなすべきこと

そういう意味でパウロは、真面目に宗教儀式を律法通りに繰り返してきた習慣を持つユダヤ人達に、礼拝の中身として第一にしなければならない、神と人の関係について語っているわけです。

第一に、私たち礼拝者は、神様の前で自分の罪の姿を知らされるものでなければなりません。私たちが自分を罪人であることを忘れたり、置き去りにするなら、そこに真の礼拝はありません。

十字架の 御業みわざが完了した時、それを見た人々は胸を叩いて悲しみながら帰ったとルカは証言しています。礼拝は結果として喜びや元気を私たちにもたらしてくれる。しかし何を喜ぶのかということを考えるならば、喜びが先に来るのではありません。
キリストの十字架について考えさせられ、それを私の罪のためなのかと思わされ、キリストの十字架の痛ましい 意味を考える時に、我が胸を叩き我が身を悲しむ姿があってこそであります。その先に復活の喜びがあるのです。

ローマ人への手紙の3章の19節と20節は、一章の16節から1章、2章、3章の18節まで語ってきた事の総括であります。同時に3章21節以降で十字架にかけられたイエスキリストを信じる者はすべて、神から義と認められるということの意味について、新しいテーマに入ろうとしています。

その前段階として、人が「律法」による義を打ち立てるのに失敗したことを、述べているんですね。つまりキリストを信じる前に、まず自分の知恵の限り、力の限りを尽くして頑張ってみようとしたけれども、できなかったということであります。私も、あなたも、パウロも、全ての人が自分が正しく生きることに失敗したことが強調されているのですね。

19節、20節、「私たちは律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています」とは、モーセの律法だけではなく、あらゆる人の内側にある良心、いわば、自然法を含めたものなので、平たく言うならば、「全ての人間は道徳的に良いと思われることは何かということは、たいてい知っています」ということです。しかし現実に人間は「知っている通り」には生きていないようなのですね。

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