イエス・キリストをより良く知るために

ザビエルの見た日本—–日本キリスト教史(1)

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

動画解説

(序章)、日本キリスト教史を学ぶ意味―

そもそもこのような学びをすることにどんな意味があるのか。

第一に神の働きの全体像を理解するということです―
神様のお働き、それはこの地上に御国をきたらせるそういう働きが今、展開されております。これはもう歴史を貫いている神様の働きということになります。その働きがずっと継続されているわけです。そして、初代教会の時代から始まって、ローマ帝国の迫害の時代もありましたし、宗教改革もあって、その働きが何と日本にまで及んできた。そして日本においてもその働きがずっと継続されている。それらは全部繋がっているわけです。神様のお働きというのは絶えず継続されて、そして世界中に展開し、広がりを持っていく働きです。「全世界に出て行って」という命令、イエス様の命令があるわけですが、その命令に従った多くの人たちによって、その宣教の働きが拡大し、そして日本にまで及んできた。そういう働きの中に、私たちの働きも加えられているわけです。けして切り離して考えるべきものではない、ということです。ですから歴史を貫く主の働きの中に、私たちの働きを位置づけるために、このような学びはとても有効である、その理解がないと私たちも働きが、主の働きのつもりでありながら、自分の働きになってしまう、ということが起こり得るかなと思うんですね。もちろんみんな一生懸命なんですけれども、でも全体像が見えない中で、自分の働きに集中してしまうと、なんとなく全体の流れから離れて、自分の孤立した働きになってしまうという、そういう危険があると思いますね。ですからそういう意味で、全体像を理解するということは、とても大事なことではないかなと思います。

二番目に日本と日本人を理解するために、非常に良いと思います―
日本人とは何か、日本とは何か、ということについて社会学者、歴史学者、政治学者いろんな方がいろんな本を書いてると思いますけれども、私たちは、私たちの視点なりに、日本という国がどういう国で、日本人というのはどういう民族であるかということを、この、教会の歴史で、学ぶことができる。どうしてかと言いますと、福音が提示された時に、その福音にその人がどう反応するかというところに、その人の持っているものが表わされるんですね。不思議な感じがしますけど、福音というのは、私たちの中に何があるかということを明らかにするという、そういう面があると思います。ですから、拒絶する人、無視する人、関心を示さない人、色々な反応があるかと思いますけれども、その反応の中に、その人の持ってる価値観というのが出てきますね。なぜそれに反発するのか、なぜそれを拒絶するのか、というところですね。日本はなかなかキリスト教が広まって行かないっていうことはよく言われますけれども、日本人ってどういう民族なんだろうか、何が日本人の中にあるんだろうか、ということが、そういう学びを通して見えてくるということが言えると思います。あるいは反発する人、無視する人だけじゃなくて、福音を受け入れている私たちの中に、その福音をどういうふうに受け入れているか、その傾向があるんですね。日本人はどういう風にして福音を受容しているかという、その姿の中にも、常に日本人的なものが見られるということがあると思います。ですからこういう学びを通して私たち自身を知るということが言えるんじゃないかなと思います。

そして三番目に、日本における、働きの恵みと課題の両方を理解することができます―
今までも、本当にたくさんの働きが積み重ねられてきております。ザビエルが来てから、もう500年ぐらい経ち、そしてプロテスタントの宣教師達が来てからも、もう150年以上経っていますけれども、その間、私たちの先輩たちは、本当に必死に伝道し、教会形成の働きを続け、その蓄積が、たくさんあるはずなんです。その中には私たちが本当に継承していかなければいけない、大切にしていかなければならない働きがあります。でも同時にこういうことは二度と繰り返してはいけないという、そういう課題もあるんですね。そういう、めぐみと課題の両方を理解し、そして今の時代に合った、私たちが何に取り組んで、何を祈って行ったらいいのか、どのようにクリスチャンとして証して行ったらいいのか、教会形成して行ったらいいのか、ということのいろんな知恵を、歴史を通して与えられていくということが言えると思います。そのようにして主の働きというのは前進し展開していくということを覚えたいなと思います。ですからそういう意味で、こういう学びは非常に助けになるということが言えるかなというふうに思います。

1.ザビエルの日本宣教―

ここまでが、イントロダクションなんですけれども、それでは今日のテーマはフランシスコザビエルです。皆さん中学生の時にキリスト教を最初にもたらした人物として学び、誰でも知っているその人物が、どうして日本にやってきて、そして日本でどういう風に宣教したのかというのが今日のテーマになります。
結論から言いますと、日本に最初に来た宣教師が、ザビエルでよかったなあという感じがします。まずカトリックですけども、当時の宣教のスタイルというのは、植民地主義と一体になった、キリスト教宣教が、なされることが普通だったんですね。これはポルトガル・スペインの時代でして、ポルトガルとスペインの世界征服の一環としてのキリスト教伝道という面があるんですね。ですからそういう姿勢でアジアとかアフリカとか中南米の国々にカトリックの修道士たち、宣教師たちが来ると、だいたいそこでなされる宣教というのは、今風の言葉で言うと、上から目線の宣教と言う感じになることが多かった。その現地の人たちを見下す、自分達はヨーロッパ人であるというプライドがあって、黒人や黄色人種の人たちを非常に低く見る。その人たちの文化はあんまり尊重しない。むしろ破壊してしまう。スペインの人達は中南米の国々に出て行ってそこにあったインカ帝国とかアステカ帝国っていう凄い古代の帝国を次々に破壊して、非常に残酷なことをしましたね。それとキリスト教の伝道が結びついてしまっていると言う非常に悲しい現実があるわけですね。そういうのが普通のスタイルでした。

当時のそういう状況の中にあって、ザビエルは日本に来たんですけれども、ザビエルの姿勢を見ると、そういう事があんまり見られない。むしろ日本人を非常に高く評価している。日本人がとっても大好きだった人だったんだな、ということが分かるんですね。それでザビエルの見た日本というテーマですけども、これと同じタイトルの本があります。宣教師の先生というのはだいたい皆、報告書を書きます。自分を派遣してくれている母国の宣教団体とか、献金して祈ってくださってる方がたくさんいますので、そういう方々にちゃんと祈ってもらうために、また献金してもらうために報告書を書くんですね。ですから宣教師が書いた文章というのが大体残ってるわけですけれども、ザビエルもイエズス会の本部に報告書を書いてるわけです。それを読むと、彼が日本をどういう風に見ていたのか、日本人をどう見ていたのか、日本の宣教をどういう風にやっていたかが、よく分かるようになってるんですね。それの翻訳になっている本があるんですが、それを読むとよく分かるんですけれども、今日はそれをちょっとだけ紹介したいなと思っております。

(1)ローマカトリック教会の世界宣教―

さっき少しお話しした通りで当時15世紀・16世紀というのは世界的に見るとスペインとポルトガルの時代でした。その当時は、スペインとポルトガルが世界を支配していた時代です。この時代は、ヨーロッパの中では宗教改革の時代でして、プロテスタントの教会が誕生しましたが、いろんな迫害に苦しんでいた時でしたから、プロテスタントの教会が世界宣教する余裕は全然なかったんです。一方、カトリックの人達はどんどん世界に出ていくというそういう時代でした。そしてすごいことを考えました。この広い世界を、ポルトガルとスペインとで二分するという、そんなことまで考えていた時代でした。そしてそのために、カトリックの総本山であるローマ教皇がそれを認めてしまう。それぞれの支配権を公認するということですね。布教保護権という権利を与えました。それで教会のお墨付きを頂いて、スペインもポルトガルもどんどん世界に進出していくという、そういう時代がやってきたわけですね。
それでスペインは、おもに中南米、アメリカ大陸の国々に進出してきて、そしてさらに地球の裏側のフィリピンにまでやって来る。スペインから見るとフィリピンは、地球の反対側になりますけれども、よくこんなところまでスペインがやってきたなと感心するくらいですね。フィリピンに7年間生活をしていましたので、いかにフィリピンにスペインの影響が色濃く残ってるかっていうことがよくわかります。すごい情熱だったんだなっていうことがわかります。
そしてポルトガルは、今度はアフリカ、そしてアジアのほうに、進出してくるということになります。それでポルトガルは貿易で非常に成功しました。アジアにある香辛料ですね、スパイスがとてもヨーロッパでよく売れるということで、中国や東南アジアのスパイス、香辛料を、どんどん輸入して、それをヨーロッパに持っていくという貿易で大繁盛したんです。ポルトガルのすごく栄えた時代がありました。そのポルトガルが、アジアに拠点を作ったのがインドのゴアというところです。そのゴアという所に拠点を作って、そしてそこを中心に貿易もしましたけれども、宣教活動の中心もその後はゴアが中心になっいてきます。ですから当時のキリスト教の宣教は、純粋な宣教活動ではなくて、植民や貿易と結びついた形で、スペイン、ポルトガル両国王が利用するものになった、そういうことだったんですね。そういう展開の中でアジアにやってきたのがイエズス会という修道会でした。

(2)イエズス会の世界宣教―

それは1540年に、イグナチウス・ロヨラという人によって設立された、男子修道会で、ローマ教皇に絶対的服従を誓い、世界宣教のためならば、地の果てにまで出て行くことを目指す、戦闘的修道会という風に表現されますね。全てを捧げるという献身がはっきりしていて、教皇の命令だったら地の果てにまで出て行くっていうのはすごい情熱ですね。そういう情熱を持った修道会があった。それがイエズス会であります。そのイエズス会の派遣宣教師としてインドまでやってきたのがザビエルだったということになります。このイエズス会は二つの、大事にしていた御言葉があります。それがマタイ16章26節とマルコ16章15節の御言葉です。「人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の益があるでしょうか」ということで、この人間の命の尊さ、そして人間がいかに大事であるかということを理念に掲げた、そういう特徴を持っている修道会でした。全世界よりも人の価値は重いんだっていうスピリットを持っていたという事が一つ、そしてもう一つは、「全世界に出てゆき全て作られたものに福音を、のべ伝えなさい」と言うマタイ16章の御言葉がモットーですね。もう全世界どこにでも出ていくっていう、そういう情熱を持っている修道会でした。
イエズス会は非常にユニークな政策を持っていまして、その国に入っていった時に、その国が文化的に非常に高度な文化を持っているときは、その文化に適応するっという「適応主義政策」と言いますけれども 、そういう政策をとったと言われております。中国や日本がそういう国だったわけですけれども、ザビエルが日本にやってきた時、日本は非常に高度な文化を持っているということで、日本の文化を尊重したと言われておりますけれども、それはイエズス会の考え方だったということが、一つ言えるかなと思います。
もう一つ、イエズス会は教育を非常に重んじたんですね。ですから各地に大学や学校を作っていくという展開をしました。日本には上智大学がありますけど、上智大学はイエズス会の学校ですし、フィリピンにもアテネオ大学っていう大学が、今でも私立のナンバーワンですね。エリート校ですけども、その学校はイエズス会によって建てられた学校です。世界中にそういう形で、大学や学校教育機関を建てていったという、教育を重視したという、そういう特徴も持っております。

(3)フランシスコ・ザビエルの来日―

そういうイエズス会の働きの中で、ザビエルがやってきます。1542年インドのゴアにやってきました。そして最初は日本に来ることを全然考えていなかった。インドで伝道する予定だったんですね。ところが一つの出会いがありました。1547年にマラッカで日本人の弥次郎という人に会いました。でこの弥次郎と出会ったことがきっかけで、日本宣教の志が与えられて、彼は日本にやって来るんですけれど、この弥次郎との出会いがなかったら、彼は日本に来てなかったのかなと思います。
この弥次郎という人は何者なのかということで、いろんなことが書かれてますけれども、鹿児島の出身の方で、どうやら鹿児島で人を殺してしまった。殺人を犯してしまった。でも彼は、ポルトガル商人の船に紛れ込んで、逃げてきたらしいですね。そういう人だったという風に言われております。それで、でも彼は、やっぱり人を殺してしまったことの罪の重荷と言いますか、それで悩んでいたみたいですね。それで宣教師との出会いがあったりして、どうすれば神と仲直りできるだろうかということが、かれの切実な悩みだったということですね。人を殺してしまったという罪に責められ、そして神を意識していた彼は、どうすれば神と仲直りできるか、神と仲直りするためにはどうしたらいいか、そういう求めがあって、ザビエルに相談したという事が一つのきっかけで、日本に行ってみようという気持ちが、ザビエルの中に起こされてきたという風に説明されています。

ザビエッルは1549年に8月15日に鹿児島にやってきました。この1549年にキリスト教が日本に届けられた大きな記念すべき時だったということが言えると思います。当時鹿児島には島津島津藩という島津の殿様がいましたけども、非常に歓迎されたようですね。弥次郎の家族親戚や、島津家からも歓迎されたということが書いてありました。

(4)ザビエルの宣教活動―

そこから本格的にザビエルの日本宣教が始まってゆきます。鹿児島で許可を得て、1年間の宣教をしましたけれども、この時にザビエルは日本語や日本文化を学んだということになります。これは非常に画期的なことです。どうしてかと言うと、カトリックの神父たちが、現地語を理解して、現地の文化を学ぶということはほとんどなかったからです。当時の常識としては、その宣教する地域の文化を、低く見るというのが当り前でしたし、そしてもう一つは、カトリックでは聖なる言葉はラテン語なんです。ラテン語でいいんです。もうその他の言葉に訳す必要はないんです。それが当時のカトリック教会の考え方でした。ですからヨーロッパでも、ドイツでもそうですけれども、ミサは全部ラテン語なんです。人々は全然理解できない、理解できなくてもいいという考え方でしたね。ルターが聖書をドイツ語に訳したことが、画期的な宗教改革になるわけですけれども、それまではラテン語で済まされていたというわけですから、日本語に訳す必要もないし、日本語を勉強する必要もないんですが、ザビエルは日本語を勉強したことは非常に画期的なんですね。当時のカトリックのルールとしては外れているスタイルだったということは言えると思います。
そして信仰箇条の説明書という小さな小冊子があったようですけれども、それを日本語に翻訳をして、なんとか日本人に福音を伝えようとしてるわけですね。つまり聖書に書かれてある大事なポイントを、なんとか日本人に分かってもらおうという情熱がここにあるということが分かると思うんです。そして聖書の中に出てくる「神様」、という言葉を日本人に伝えようと思って、どういう訳がいいか考え悩みました。それで、何て訳したらいいかということを、弥次郎に相談したところ、弥次郎は「大日」と訳すといいよという風にアドバイスしたようですね。この「大日」というのは、仏教の真言宗の「大日如来」と同じ言葉になるわけですね。結局これが後で、大変な問題が起こる原因になります。それでザビエルは悟ってですね、日本語には神を表す言葉がないことを悟って、神と訳すことをやめました。そこでそのまま、ポルトガル語の「ゼウス」という言葉を使った。その後も翻訳翻訳の働きがずっと継続されていて、日本人がちゃんと理解できるように、聖書の言葉をどう訳したらいいか悩んでる人はたくさんいるわけですけれども、この悩みはザビエルの時から始まっていたと言えると思います。どうしたら日本人に分かる形で福音を提示するかという努力を、ザビエルがしていたかがわかると思います。
またザビエルは、鹿児島にいたわけですけれど、福音伝道はちゃんと殿様から許可をもらってやらないといけないという配慮も持ってた人ですね。当時、日本の殿様はどこにいたのか?天皇や将軍は京都にいるということで、京都まで出て行って、そしてなんとか天皇や将軍にお会いして、許可をもらいたいと努力したようです。でも会えなかったみたいですね。それで目的は果たせなかったということになるんですけれども、その後、今の山口県に行きました。その山口には、大内氏という殿様がいまして、その大内氏から許可をもらって、山口で伝道しました。
大変それが成功し、500人ぐらいの方がたが、そこで受洗をしたそうです。
そのうちの一人は、琵琶法師と言って、盲目で、琵琶を弾き語りをしながら旅をするという、そういう人がいました。その人が救われ改宗して、ロレンソという名前をいただいたそうです。この人が非常に用いられたと言われております。でも山口で伝道した時に、当初、例の「大日」を拝みなさいと言っていました。ザビエルは神様を礼拝しなさいと言ってるつもりですね。そういうつもりで教えるんですけれども、真言宗の信徒がとても多かった山口では、仏教の「大日如来」と、どう違うのかといった混乱が起きたそうです。そういう痛い経験をしながら、ザビエルはやっぱり神という言葉は日本にはないと悟り、これから全部「ゼウス」でいこうということで、その後は「ゼウス様」という言い方に変わっていきます。
その後、豊後の国、現在の大分県のほうに移りまして、ここで、大友義鎮という領主が治めている領地ですけれども、そこで許可を頂いて連動しました。この大友氏が改心をして、キリシタン大名になります。ですからこの大分県での伝道がが非常に祝福され、この地域にたくさんのキリシタンたちが誕生し、九州の伝道の、中心になったということが言われております。
そしてその後、1551年に日本を去っていくんですね。ですからザビエルが日本にいた期間というのは1549年から始まって51年までですので、2年間しか、いなかったんです。
もっと長く居たような感じがするんですけれども、たった2年しか、いなかったんです。でもその中身は、すごく大きな働きをしました。2年では収まりきれないくらいの、非常に大きな働きをしたということが言えるかなというふうに思います。
彼は結局、中国に行きたい、日本の伝道のためにも、大元の中国に行かなければいけないという志を持って中国に行きたいと願ったんですね。けれども病気になってしまいまして、広東で1552年に、志半ばで召されていったということになっております。
ザビエルの宣教の特徴を4つぐらいまとめてみますと、
①一つは適応主義ですね。
その国になるべく適応しようと努力しました。そのために日本語を覚えてたり、日本の文化を理解しようと務めました。これは当時のカトリックの宣教の中にあって、非常に画期的なスタイルだったということが言えると思います。

②もう一つはちゃんと領主からの許可をもらおうとしました。
勝手に連動すると混乱しますので、ちゃんと殿様の許可を頂いてから伝道しようということで、鹿児島にいた時は島津氏の許可を頂き、山口にいた時は大内氏の許可を頂き、そして日本全体を考えた上では、やっぱり天皇の、御門の許可も必要だということで、京都まで行きました。そういう許可を求めたということも一つ特徴だというふうに思います。

③そしてポルトガル商船の日本来航を、宣教活動に積極的に利用しました。当時は南蛮貿易を通して、ポルトガルの南蛮物と言われたグラスとか、ヨーロッパの食器とか、華やかな服とかが、非常に日本人の心を惹き付ける効果があったわけですね。見たこともないようなステンドグラスですね、そういうものを見ると日本人の心が、そっちにも向いていくっていう効果があったわけです。ですからそういうポルトガルの貿易なんかも利用しながらというスタイルがあったことは確かです。

④そして鹿児島や北九州や山口でも伝道しましたけども、やっぱり京都に行って伝道しなくちゃいけないということから、京都に行ったことも一つのポイントかなというふうに思います。

(5)ザビエルの日本宣教の評価―

それで、ザビエルの日本の宣教は2年間だけでしたけれども、非常に評価が高いということも言えると思います。またザビエルの日本人に対する評価が高いんです。「日本キリスト教宣教史」という本を書いた中村敏先生という先生がいらっしゃるんですけども、この先生がこの本の中に書いていることですけれども、日本人に対する彼のまなざしは深い愛情と大きな期待に満ちているということで、非常に暖かい眼差しを持って日本人を見ていたっていうことが書かれていますね。確かにそれを感じます。その内容を少し紹介したいと思います。たとえばこんなことを言っております。

ザビエルの、日本と日本人に対する評価の例。

「マラッカで、大変信心深い、信仰の厚い、あるポルトガル商人から最近発見されたいくつかの大きな島の話を聞きました。その国は日本と呼ばれていて、イエスキリストの教えを広める上で、インドより発展しそうなところだそうです。なぜかと言うと日本人はどの国民より知識に飢えているからです」
これはザビエルが日本に来る前、ポルトガルの商人から聞いた言葉として紹介していますけれども、ザビエルが日本に対して仕入れた最初の情報の一つは、日本人は知識欲が旺盛であるということですが、今もあまり変わってないかもしれませんね。今も日本人は常に知識欲旺盛という面があるんじゃないかなと思いますけども、そういうところからザビエルの日本への関心が入っているということが言えると思います。つぎ、

「日本人は控えめな、度量の大きい国民で、徳と、文学を愛好し、学者たち全てに対して敬意を示す」
これは彼が日本に来た後の言葉ですけども、日本人は控えめで、でも度量の大きい国民であるというふうに評価してくれております。さらにつづけて、

「神に大いなる感謝を捧げるために、一つ知っておいていただきたいのは、この島国は、福音を受ける心構えができている、ということです」
この表現は結構出てくるんです。ザビエルが日本を見たときに、この人たちは福音を受け入れる準備が、もうできているんだ。心構えができているというふうに書いているんで、そういう風に報告してるんです。最初に宣教師としてザビエルが入ってきた時、日本人を見た時に抱いた印象はこういう印象だったようです。今、私たち日本人を見てこういう印象をいだくでしょうか。あまり、いだかないかもしれないですね。全然福音に心が開かれていない。最初から諦めてるようなところもあるかもしれませんけれど、最初ザビエルが入ってきた時は「この人たちは凄い、もう福音を受け入れる準備ができている」という印象を持っていました。入口から全然違うような感じがしますけれども、そういう風に見てくれていたということがポイントじゃないかなと思います。

そして次の言葉は「私は日本人に口では語り尽くせないほど恩を受けています。日本人を通して、私の心を照らし、私が数え切れないほど多くの罪を犯していることに気付かせてくださいました」
こういう言葉を聞くと非常にザビエルは人格者だったんだなという感じがしますね。非常に謙遜で、日本人からたくさんの恩を受けたと言っています。普通だったら「自分がキリスト教を教えてあげてるんだ」みたいな、そんな風になりがちかなと思うんですけど、そうじゃないんです。日本人から、たくさん教えられる、日本人を通して自分の罪まで示されることになった、自分がいかに罪人であるかということを、日本人を通して示されるっていう、そういう日本人との接し方があったということはですね、非常に興味深い人格者だったんだなということを教えられる、そういう言葉が、色々出てきますけれども、そういうことを読むとですね、日本に来たのが最初ザビエルでよかったなあというそんな感じが致します。
そしてザビエルの日本宣教の評価のところですけども、ザビエルは、ほんとに日本人と同じような生活を目指した人でしたね。日本人が食べる食べ物を食べて、同じような服装をして、なるべく日本人になろうと努力したという、そういうところも見られます。そして彼はもう2年でいなくなるんですけれど、その時以来、宣教師もなるべく良い宣教師が来るように、優れた格式と、優れた1級の宣教師が続けて日本に派遣されることを求めたということでした。日本は文化のレベルが高いから、教養のある宣教師が必要だって言うようなことをイエズス会の本部に訴えてるんですね。そして日本は特に気候が寒いので、スペイン人やイタリア人じゃなくて、ベルギー人とドイツ人がいいなんて、そんなことまで書いてますね。そういう気候の配慮までして、こういう宣教師がいいということをリクエストしているようなところもあります。日本宣教はザビエル自身の情熱的使命感によって独断的になされました。ザビエルの日本宣教は、中世的宣教方法を打破するきっかけを作ったんですね。ザビエルの日本の宣教のスタイルというのは、当時のカトリックからするとですね、型破りなんですね。当時のカトリックの本部の人達が見たら、なにやってるんだと怒られそうなそんな宣教の仕方なんですけれども、でもザビエルは、やっぱり、なんとかしてそういう既成概念にとらわれないで、なんとか日本人に福音を届けようと努力した、そういう宣教師だったということが言えると思います。そして全人類が、神による同じ被造物として、等しく救いにあずかるべき価値と特権を持つとの価値観に支えられていたということで、さっき二つの御言葉がイエズス会の大切なみ言葉だったということを紹介しましたけれども、やっぱり日本人とか、ポルトガル人とか、ヨーロッパとアジアとかということではなくて、皆等しく、神様に作られた人間なんだ、その魂はみんな、尊いんだということを信念として持っていたということ、そして彼が全世界に出て行って福音をのべ伝えるというそういう福音の持っている人間観、そして世界観の両方を持っていた、そういうことも言われております。

キリシタン宣教は当時の日本における最大の思想運動、社会運動、文化運動であったということ、そして非常にに素晴らしい面がたくさんあるんですけれども、ただもう一つの面としては、彼の宣教活動は、やっぱりポルトガル国王の援助に支えられていたということ、お金を出しているのは国だったんですね。けどやっぱり国の基本方針があるわけですから、そこから完全に無縁ではいられないというそういう現実もあったのは確かだなと思いますね。ですから日本の宣教はポルトガルの国の日本の植民地政策の一部になっていたという、そういう一つの現実があったかなというふうに思います。そういう限界のある中で、でもザビエルは最大限日本人を愛して、福音を伝えるように努力してくださったということを覚えておきたいなと思います。

ザビエルが去った後、どうなったんでしょうか?次にそのことを見ていきたいと思います。

2.ザビエル以後の日本宣教―

(1)布教長の交代と継承―

ザビエルが当時の日本の布教長という立場だったわけですが、それが帰ってしまいました。二代目の布教長がやってきたその人物は、トルレスという人ですが、このトルレスという人はザビエルの宣教方針をそのまま継承したと言われておりますので、あまり深刻な問題が起こらなかったのですが、 1568年、三代目の人が派遣されてきました。それはカブラルという名前の修道士です。この人がザビエルとちょっと違うタイプの人で、日本語や日本を学ぶということはなかったし、常に日本人に対して高圧的な態度で接したと言われております。それで各地で反発が起こるんですね。特に九州地方ではキリシタンがザビエルの影響で広がっていたんですけれど、その後の三代目の布教長が、ずいぶん、上から目線だったものですから、反発が広がってしまいまして、九州では混乱が広がるっていうことがあったようです。
その一方ですね、オルガンティーノという、もう一人のイエズス会の修道士が京都を中心に伝道しましたね。これは非常に祝福されたと言うか、うまくいって、オルガンティーノという人は、むしろザビエルと同じような精神を大切にした人だったようです。京都で次々に改宗する人が増えまして、その中で一人、有名なキリシタン大名が誕生しました。それは高山右近という人ですね。当時大阪の高槻藩の領主だった高山右近が、その当時キリシタンになったということで、この近畿地方に、わーっとキリシタンが増えていったということですね。今でも大阪の高槻に行くと、その記念碑が建っていると思いますし、高槻のカトリック教会に私も行ったことがありますけれども、高山右近のことを記念しているそういう場所が残っております。そういう形で九州では混乱しても、関西のほうでは非常にキリシタンが増えて行きました。
つまり宣教方針をめぐって、布教長、カブレラと、地方長、オルガンティーノは、激しく対立し、不満と対立が教会の中に充満していったようです。
つまり日本での宣教が、地域によってちょっと違ってきたということで、これは全体の視点から見ると大変由々しきことだということで、やってきたのがヴァリニャーノという人です。

(2)ヴァリニャーノの改革―

1579年にイエズス会の巡察使として来日したアレクサンドルヴァリニャーノという人です。
巡察使といって、宣教がうまくいってるかどうかというのを、いろんな国々を回って巡察・視察する立場の人がいたんです。イエズス会はそういうことまでちゃんと考えて全体として伝道していたっていうことが分かるんですけれども、そのヴァリニャーノという人が日本にやってきて、ちょっと大変なことになっているということで、ここで改革をしていきます。
1年間日本に滞在して、日本の情報をいろいろ集めて、日本についての勉強をしてですね、そしてその報告書を書いています。「日本巡察記」という報告書を書いて、日本はこういう国である、こういう特徴を持っていて、こういう人々がいるので、この地における伝道は今こんな感じであるけれども、ちょっと問題になってるって言うようなことを、ちゃんと報告してるわけですね。そういう報告をしながら、どういう伝道が日本にいいだろうかと、彼なりに考えて改革案を提示しています。

改革案―

①日本人修道士の養成
日本人の修道士を育てないといけないと言っています。いつまでもポルトガル人とか、外国の修道士たちが入って教えるんじゃなくて、ちゃんと日本人の修道士を育てないといけないということですね。
②都中心の宣教
京都を中心に宣教したほうがいいということです。
③適応主義
日本に入ってきている宣教師・修道士たちのがたくさんいたわけですけれども、その人達にちゃんと日本を学ぶように教えないといけない、日本の文化・習慣をちゃんと学んだうえで、日本人と接して宣教するようにというふうに改革案を提示しています。
④教会と儀式の「形式美」を優先させる
ちょっと面白いんですけれど、教会と儀式の形式美を優先させるっていうことです。どいうことかと言うと、日本人は結構、見た目に弱いっていうことを感じたみたいで、なるべく派手な服装をして行ったほうがいいということです。ザビエルはそういう考え方じゃなかったんです。彼はなるべく日本人と同じような質素な格好して、伝道したほうがいいという感じだったんですけど、でもそれで御門、つまり天皇に会いに行ったら、全然会えなかった。でも今度ヴァリニヤーノが、ポルトガルのすごい派手なドレスを着て行ったら、信長が会ってくれた、そういう感じですよね。 そういうポルトガルとかヨーロッパの華やかな文化を用いたほうが良いというような改革案を提示しております。

彼は、そういう改革案を提示しただけじゃなくて、実際に改革をしていったわけですけれども、どんな改革をしていたかと言うと、

ヴァリニヤーノの改革―

①日本を独立した宣教地区とした。
まず一番としては日本を統括していたゴア管区から、日本を準管区として分離独立させました。当時はこの日本は、アジア全体の宣教の中の一部だったわけですけれども、ゴアを中心とする考え方から切り離して、日本は日本で一つの宣教地区ということで考えました。そういう組織的な改革です。

②セミナリヨ・コレジオの設置
そして2番目は安土・山口・有馬に神学教育のためのセミナリオを設置、さらにコレジオも各地に設立したということで、日本人の修道士を育てなくちゃいけない、日本人をちゃんと教育しなければいけないということで神学校を各地に作りました。安土・山口・有馬・長崎などに神学校を作っていきましたが、神学教育をするためには、基本教育も必要だったんですね。日本人は当時、教育なんてほとんど受けてないわけですから、一般の教育も必要だということで、コレジオというのを作って、教育の面で貢献をしたということです。ここで学んだ日本人がたくさんいるわけです。

③コエリヨの初代日本準管区長任命。
そしてカブラルという人は、ちょっと問題になっていましたので、この人はマカオに転出させて、コエリヨという違う人を呼んできて、初代日本準管区長に任命するというそういう感じの改革も行いました。

 ④天正遣欧使節。
そしてもう一つは1580年彼は日本での働きを終えて、ヨーロッパに戻るんですけども、その戻る時に、日本人の少年4人を選んで連れていく、これは天正遣欧使節という風にいますけれども、セミナリオで学んでいた若い男の子四人を、ヨーロッパに連れて行ってヨーロッパを見せようと、カトリックの本場をちゃんと見せて、そして日本の宣教ために送り返そうとした、そういうことまで考えて日本の宣教が進展していくように配慮したということが言えると思います。

これがあのイエズス会による日本伝道の初期の様子ということになります。この時はまだ迫害は始まっていない段階ですね。次回の学びは、この後、時代が変わってゆく様子を学びます。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、だんだん変わってくるんです。つまりキリシタンが迫害されるようになっていきますね。徹底的に弾圧されるようになっていく。どうしてそうなったかっていうことを次回、見て行きたいなと思っていますが、この段階では、非常にある意味ではうまくいっていた段階ということが言えると思います。それで非常にたくさんの人たちがキリシタンに改宗したという風に言われております。

(3)キリスト教入信の動機―

1580年代日本のキリスト信者数は、推定で35万人、当時の総人口は約2400万人ということですので、約14パーセントなるでしょうかね。今の割合から言ってみてもですね、かなり多くの人たちがキリシタンに改宗したということが、言えるかなと思います。今はなかなかクリスチャンになる人が増えないと言われていますし、1%の壁が破れないなんて言うことを聞くことがありますけれども、当時としてはもうどんどんキリシタンが増えていく、という雰囲気があったわけですよね。
どうして当時はそうだったのか、いろんな理由が指摘されておりますけれども、6つぐらいの理由を指摘することができるかなと思います。
   ①日本の混乱した状況。
一番は、この日本の混乱した状況ですね。当時は戦国時代です。戦乱の世の中です。戦国時代と言うと、私たちは武田信玄と、上杉謙信、真田幸村とかあの織田信長とか、戦国の武将たちの活躍を思い出しては非常にロマンに満ちた、天下統一の戦いの時代っていうふうに歴史で教わることが多いと思いますが、それはもう本当にトップの人たちの歴史であって、その当時の民衆たちが、どんなに苦しんでいたかということには、あまりそこまで関心が及ばないと思うんですが、とにかく民衆達は非常に惨めな状況に投げ出されていたということが言えると思うんです。そこは戦乱の世の中ですね。飢饉があちこちで起こる、一揆が起こる、天災が起こる、貧困が深刻になる。そしてそれに対して宗教界は何の助けも与えることができない。当時の仏教は非常に無力だったという風に言われておりますね。仏教も形骸化しているということで、全然どこにも、救いがないんです。みんな行き詰まってしまっているわけです。そういう中に、あのザビエルのような人たちが現れて、そして人々に福音を伝えて行った時に、もう本当に乾いたスポンジに水が浸透していくように人々の心の中に入っていったということですね。これはやっぱり一つの大きな要因だったということが言えるかなと思います。

  ②イエズス会修道士の情熱と努力。
そして2番目にやっぱりイエズス会等の修道士たちの情熱があったと思います。なんとか日本の人々に福音を届けたいという情熱があったということが2番目だと思います。

③集団改宗。
あともう一つはですね、これよく見られた例でしたけども、殿様が回心すると、下々の人もみんな一緒に回心するという集団回心というのが当時あったんですね。ですから大分の豊後の国なんかで、トップの大友氏が、お殿様が、キリシタンなると家来もみんなキリシタンなっちゃうと言う、そういう例が見られましたから、それはどれだけ本当の回心だったかどうかっていうのは難しいところですけれども、殿様が回心したから、じゃあ私もっという形が、結構見られたということも一つ、あったと思います。

 ④南蛮文化の影響。
あとやっぱり南蛮文化の影響ということで、ヨーロッパからもたらされる南蛮文化が、非常に人々を引き付けると言う、そういうことも用いられたということもあったと思います。

⑤主君に対する忠誠心と武士道。
そして当時は武士の時代です。侍の時代です。ですから主君に対する忠誠心を、みんな持ってるわけですね。侍の人達はお上に忠実であるという武士道の精神というものをみんな持ってるわけですから、そういう中でこのゼウスに対する忠誠心、あるいはキリストに対する忠誠心という形で、そういう信仰が表されていくということがあったと思います。

  ⑥仏教徒の類似。
そしてもう一つは仏教と似てる面があったということも一つ言えるかなと思います。仏教においては、極楽か地獄かという、この世でちゃんと生きていかないと地獄に落ちるぞなどということが教えられていたわけですが、そういう仏教の教えのベースがある中で、修道士たちが天の御国と、そして神の裁きと滅びについて教えると、ピタッと心にはまるものがあったということも言われておりますし、カトリックは、プロテスタントと違ってマリア信仰がありますね。マリア様を拝む、そういう伝統があります。これは直接神様とかイエス様に行く前に、マリア様という存在があるおかげで、弥勒菩薩とか仏像とかに愛着があった仏教の人達にとっては、カトリックに移行する時にあまり抵抗にならなかったとも言えるかなと思います。聖画なんかが用いられたということもありますし、ロザリオっていうカトリックの人たちが数珠のような十字架のついているものを手にとってお祈りしますけれども、あれは仏教の数珠に似てますね。そういうところに類似点があって、そういうことも用いられたんじゃないかという一つの指摘があります。いろんな形がありますけれども、たくさんの人たちが当時のキリシタンに改宗したということです。

3.キリシタン文化―

最後になりますが当時のキリシタン宣教は伝道という面で見てもですね非常に祝福があったと思いますが、当時の日本の社会の中にあって、教育であったり芸術であったり音楽・社会福祉など、日本社会の広範囲にわたって大きな影響を及ぼしたと言えると思います。当時の日本における最大の思想運動・社会運動・文化運動でもあったということです。

(1)教育・学問。

どんなことがあったかということですが、一番目に教育と学問 。イエズス会は当初から教理教育に熱心に取り組みました。そのためにドチリナ・カテキズモ(どちりな・きりしたん)が用いられました。聖書の翻訳はやっぱり難しかったんですね。少し挑戦したようですけれども、やっぱり聖書全体を日本語に訳すというのは大変だったんですね。それでも何とか福音を日本人に伝えたいと思った修道士たちは、カテキズモという教理問答書というものを作って、それを翻訳して、福音の一番中心のエッセンスにしました。それをちゃんと日本人に伝わるように努力したんですね。問いかけがあって、それに答えるというような形で、聖書が教えていることを、ちゃんとみんなが把握できるように、そういう内容のものなんです。師とその弟子の問答形式で書かれています。
例えば弟子が問いかけます。「キリシタンとは何事ぞや」。
師匠が答えます。「御主、ゼズ・キリシトの御教えを心中にひいですに受うくるのみならず、言葉を以てっても現す人なり。」
キリシタンてどんな人なんですか。そういう問いかけに対して、キリシタンとはイエスキリストの教えを心の深いところに受けるだけではなくて、それを言葉を持って表す人である。信じるだけじゃなく、信じたらそれを告白する人である。それがキリシタンであるという風に小教理問答でやってるわけですね。そういう理解の中でだんだんとキリシタンになっていく。

弟子:「何の故にか御主ゼズ・キリシトの、お教えをひいですに受け、言葉を持って現す人なりとは伝われけるぞ。」
師:「諸のキリシタン御主ゼズ・キリシトの尊き御んことを心中にひいですに受けずして叶わぬのみならず、死すると伝うても、言葉にも、身持ちにも、現わすべきとの覚悟ある事もっぱらなり。」
このイエスキリストの教えを心に受けて、言葉で表すのはなぜなのかという問いかけがあって、それに対しては、心で受けるだけではなくて、たとえ死んでも、言葉にも身持ちにも現す覚悟がなければならない。覚悟を持って信じる決心をしていたって言うことが伝わってくるかなと思いますね。

弟子:「キリシタンと伝うは何をかたどりたる名ぞや。」
師:「キリストをかたどる奉也。」
弟子:「キリシトとはいかなる御主にてましますぞ。」
師:「実のデウス、実の人にて御座ますなり。」
キリストは実在の人であり、誠の神であり、真の人である、というキリストの理解を、ちゃんと確認しながら、自分は何を信じているのか、神様というのはどんな方なのかが、ちゃんと伝わるように教育をしていたっていうことが分かります。。

そんな感じで教会学校にも力を入れたようですし、児童教育にも取り組んだということですね。そしてセミナリオ・コレジオによって神学教育だけでなく、基礎的教育も提供されました。少年遣欧使節団が帰朝した1590年に、先ほど紹介したあのバリニアーノが連れて行った4人の少年たちが8年ぐらいヨーロッパを旅してですね、戻ってくるわけですけども 、その時には印刷機を持ち込んだりして、日本初の活字印刷が始まり、この印刷機を基に、たくさんの信仰書が翻訳され印刷され、それがキリシタン達に配布されていたんですね。なにか、ヨーロッパの宗教改革みたいなんです。そんなことが日本で起こっていたっていうのは、非常に驚くべきことじゃないかなと思います。そういう意味で、教育・学問の面において非常に日本に貢献したということが言えると思います。

(2)美術・芸術。

また芸術・美術の面でも、ヨーロッパのルネッサンス期の絵画・彫刻・刀・版画などが、日本に持ち込まれてきました。そして音楽ですね。グレゴリオ聖歌・ビオラ、オルガン・ハープシコード、リュート・聖歌隊など、洋楽が初めて輸入されたということですね。今、私たちは、オルガンのコンサートとか、聖歌隊の賛美とかを聞くと素晴らしいなと感じますね。当時の日本人は、浪曲とか、演歌とか、そういうのしか知らなかった人たちが、聖歌隊の讃美を聞いた時はどんなに感動したでしょうか。オルガンの音とかリュートの音を聞いたら、もう本当にすごいなと思ったんじゃないかなと思います。そういうものが非常に人々を魅了し、音楽が非常に盛んになっていきました。当時からクリスマスには、降誕劇が上演されていたと言われておりますね。そして建築の面における貢献、陶器、いろんな陶器が出てきました。演劇、そして茶の湯、これは日本の文化の代表みたいなことが言われますけれども、この茶の湯の文化の中に実はキリシタンの影響が入ってると言われております。

(3)社会活動。

3番目ですけども、慈悲の所作を実践することを目的としたコンフラリア(信心会)が各地で自発的に作られました。互助共済によって共同体意識が強められてゆきました。戦国の世の中です。お互いやっぱり苦しんでる人たちがいっぱいいますね。貧しかったり、病気の人がいたりで、自分一人で生きていけないわけですね。そういう人たちを結び合わせて、互いに組織を作っていくんですね。信心会、つまり「コンフラリア」というグループを作って、自分たちで助け合っていけるようにそういうことに尽力しました。そのことによって共同体意識が強められていたという結果になっていきました。そして養老院・孤児院・難民救済所・養生や病院・大病院などの建設ということにもかかわっています。お年寄りの人たち、孤児・難民・病人、そういう人たちをちゃんとケアするための働きまで作り出していたということが言われております。
そしてポルトガル商人にも、やっぱり悪い人がいて日本人を奴隷として売り買いをしたいと思う人もいたようです。当時スペインなんかは、中南米にアフリカから奴隷を連れてきて奴隷貿易をしていた歴史でもあるんですけれども、そういう世の中ですよね。ですからポルトガルの商人たちも、日本人を連れていって奴隷にしてしまいたいと思う人たちもいたようですけれども、それに対してはイエズス会の宣教師達は抗議活動を起こしたという記録まであるんですね。ですから、あの当時の修道士達が、人間の価値の尊さっていうものを日本の社会の中に示してくれたという、尊い働きもありました。これは日本の社会にとって非常に大きな革命的といいますか、それまで経験したこともないようなすごい価値観だったと思うんです。そういうものが提示された時に、やっぱり多くの人たちがそこに何か素晴らしいものを見出したと言いますか、この世では見られないような、すごい神様の恵みを見出していったのではないでしょうか。
そういう中で人々がキリシタンに改宗していたということは当然起こり得ることだったんじゃないかなと思います。もちろん、殿様の圧力もあったかもしれないし、南蛮文化の影響もあったかもしれないけれども、やっぱり基本的なところで、そういう福音の精神が表されたということは非常に大きかったんじゃないかなというふうに思います。

今日はここまでなんですけれども、ここまでは一応うまくいってた段階ですね。
日本の宣教がイエズス会だけで担われていたときはよかったんですね。
この後だんだん時代が変わってゆきます。カトリックには色んな修道会があるんですね。フランシスコ会とか、ドミニコ会とか、アウグスチヌス会とかいろんな修道会があるんですが、その人たちが、それぞれ宣教師を日本に送り出すようになってきました。そうすると競合関係になり、ライバル意識が強くなってきます。それで、ちょっと日本の教会の宣教が混乱するっていうことが起こってくるんです。それで、だんだんキリスト教に対する為政者達の信頼が失われていくという面もあったと思います。
ですから、その後どうして迫害になっていったかっていうのはいろんな理由があると思いますけれども、本当に福音に根ざした精神のもとで、宣教がなされているうちはいいんですけれども、いろんな人間的な要素が混じり込んでいくと、いろんな問題が起こってくるというのはいつの時代も変わらないことなのかなと思います。

4.まとめ

以上、今日学んだことをふまえて、こんなことをちょっと考えてみたいと思います。
私たちも未信者の家族や友人など、クリスチャンじゃない人たちの中に生かされていますけれども、そういう人たちのことを、どう評価しているでしょうか。どんな眼差しを以てその人たちを見ているでしょうか。自分はクリスチャンとして救われ、真理を知っているということが、ややもするとプライドになってしまったり、特権意識になってしまったり、なんとなく、上から目線になってしまうことも起こり得ることかなと思うんですけども、ザビエルはそういう人ではなかったと思います。ザビエルは非常に暖かい眼差しを持って、日本人を見ていたということですね。ですからやっぱり宣教で何を伝えるかということは大事ですけれども、私たちがどんな眼差しでクリスチャンとして生きているかっていうことが、基本的な部分として非常に大事なことじゃないかなと思いますね。ですから、まずは眼差しですね。イエス様の眼差しというのがありますけれども、そういうところから始まるということも覚えておきたいなというふうに思います。
また、最後に付け加えたいのは、修道士たちは、いつでも日本から追放されるということを意識しながら伝道をしていたと言われています。ですから一応うまくいっている時も、やがて日本の状況は変わるかもしれない、世界の状況変化もわるかもしれない、自分たちはこの日本にいつまでも居られないもしれない。もしかしたら追い出されるかもしれない、そういうことも意識しながら、たとえそういう時が来てもちゃんと福音が日本人の心と生き方の中に、残って行くようにするには、何が必要だろうか、そういう視点から伝道していたっていうことも言われているんですね。ですからそのために、ちゃんと日本人を育てなくちゃいけない、日本人の中にちゃんと福音を届けなくちゃいけないと、埋め込むように伝道していたということも言わているんですね。
今すごくうまくいっているような、そういう状況かもしれませんけれども、何が起こるかわからないんですね。もしかしたら牧師がいなくなるかもしれない、リーダーだと思ってた人がいなくなるかもしれない。宣教師もいなくなっちゃうかもしれない。信徒だけでなんとかやっていかなくちゃいけない状況になるかもしれないんですが、そういう中にあってもちゃんと福音に根ざして生きていけるような、そういう準備をちゃんと普段からしていくっていう、そういう志も私たち持っていかないといけないのかなということも教えられることの一つかなと思います。

次回は豊臣秀吉とか徳川家康とか時代が変わっていく中で、キリスト教がどのように厳しい問題に、直面するようになっていったかっていうところを学んでいきたいと思います。

一言お祈りいたします。神様、今日の学びを感謝いたします。私たちに委ねられた福音を本当に私たちがしっかりと心に受け止めて、そしてそこに根ざして歩んでいくことができるように、私たちがみことばを理解するだけではなくて、本当にみことばに生かされていくことができるように私たちの歩みの中に実を結ばせてくださいますようにお願いいたします。今日の学びを心から感謝し全てをお委ねして、イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

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