[聖書の言葉の背景・・神と人との契約]
1.聖書概観。
まず、 「旧約聖書」は全能の神と、その神に選ばれた民、イスラエル人との交流の歴史が描かれている。全能の神が人々に与える啓示や試練、祝福を、イスラエル人が歩んできた歴史と絡めて、天地創造からバビロン捕囚、そいてそこからの解放に至るまでの壮大な歴史を描いている。
イスラエル人が信仰しているユダヤ教の聖典として伝えられ、後にキリスト教とイスラム教の聖典ともなっている。
「新約聖書」は、ユダヤ教の聖典とはなっていない。ユダヤ教から分派し、いまや世界宗教となったキリスト教のみが聖典としているもので、イエスとその弟子たちが残した教えなどにより構成されている。それゆえ、イエスをメシヤ、つまり救世主としないユダヤ教はこれを聖典としてない。
さて、「旧約」と「新約」の「約」とは「契約」の意味である。「契約」の意味は3に後述するが、キリスト教の思想には二つの契約がある。神がイスラエルの民とのみ交わした最初の契約を「旧約」、この「旧約」における預言の成就として、神がイエス・キリストを人々の元へと遣わすことによって、すべての人々と結んだ新しい契約を「新約」と言う。
2.世界宗教への変貌
前述のとおり、神はまずイスラエルの民だけを選び、契約を行った。この契約を履付するための条件となるのが、ユダヤ教でいう律法、預言書及び諸書であり、キリスト教における「旧約聖書」である。
モーセが授かつた十戒などは、まさに神からの契約が明確化されたものと言えるだろう。ところが、人はしばしば契約に背いてしまう。場合によっては神の真意が理解できずに、神の存在を疑ったり畏れたりもする。また、神からのめぐみを忘れ高ぶりの罪に陥る。神はその都度警告を発し罰を与えるが、人びとは過ちを繰り返していく。
そしてついに旧約聖書で預言されていたメシヤ、つまり神の子であるイエスを地上に送る。そして、単一の民族に限定することなく、イエスを信じる者すべてが神の加護を受けるとされたのがキリスト教である。その思想は、イエスが人の罪を背負つて十字架にかけられ、復活したあと、キリストを信じる者は罪から救われるという新しい契約が交わされるというものである。 こうしたキリスト教の思想においては、 旧約聖書で述べられる旧い契約は、新しい契約の準備段階ととらえられている。
3.夫婦にたとえられる人間と神の契約
前述のように『旧約聖書』、『新約聖書』の「約」は、契約を意味している。それゆえ、契約の観念を理解することは聖書をより読みやすいものとする。 そもそもこの契約という観念は、イスラエル宗教の特色といっていい。ヤハウェを唯一神として信仰し、その神によって特別な恵みと救いの恩恵に預かる。 つまり、神を信じていれば救いと繁栄が約束されるが、逆に神に背けば神の懲らしめとしての災いがもたらされ、時に人を窮地に陥れる。 一般に契約とは二人の人間、または二つの組織が協約関係に入ること。そして契約は、あくまで当事者は対等な関係であり、いわばギブ・アンド・テイクの関係にあることが基本とされる。
だが聖書における神と人との契約は、平等の立場にない。唯一絶対の神によって示された契約に、人は従うか、あるいは拒否するか、いずれかである。
この観念については、聖書が置き換えてい るように、両者を夫婦の関係としてとらえる とより理解しやすいかもしれない。男性優位 の社会であった、当時の夫婦観に基づいてのことではあるが、イスラエルのために心を砕き続ける神ヤハウェを夫にたとえ、妻にたとえられる民はその応答としてヤハウエだけに忠誠を傾けなくてはならないということを示している。
聖書の物語はこうした契約の観念を軸に、様々な出来事を説明するという形で展開していく。
4.神と人間との間で結ばれ履行された契約
神を篤く敬った場合、イスラエルの民はこの契約に従って、数々の恩恵と祝福を受ける。
だが、神を敬うことを忘れたり、神の意思を無視したり背く行為を行ったりした場合、民の堕落を許さないヤハウエは、 一転して過酷な試練を与える。
モーセがシナイ山に籠っていた間に、偶像崇拝を始めた人々に対しては容赦なく死の裁きを下しているし、後にはバビロン捕囚という試練を与えている。さらに、イエスの死後、ユダヤ人はローマの前に敗れ去り、民は国家を持たない民族として世界中に離散していってしまうというデイアスポラの悲劇を味わうこととなった。
5.旧約聖書の概略
旧約聖書は神の約束にかかわる歴史の出来事です。旧約聖書のどの本もこの約束のことを語つています。
A.律法の書
旧約聖書の初めの5冊は律法の書です。この中には、世界の起源と神がご自分の民として選んだイスラエル民族の物語が書いてあります。
神はご自分の民をエジプトでの奴隷の状態から解放し、映画「十戒」で描かれたように、海の中に乾いた道をつくって救い出し、天から食物(マナ)を送り、岩から水を出して養いました。神が求められたことは、民が神の戒めに従うことでした。けれども民は、何度も何度も神に背きました。民が最初に背いたときから、神は民をもう一度正しいあり方にする方法を約束されていました。
B.歴史の書
神は、ご自分の民を約束の地に連れて行き、敵を打ち負かし、また、その民の願いを聞き入れ民を統治する王を選び与えました。人々は、ときどき神と神の戒めを思い起しましたが、むしろ自分たちの目先の思いにとらわれ、戒めを犯し罰を受けました。
その国は、北イスラエルとユダの二つに分裂し、どちらの国も、敵国に捕囚されて最後を迎えました。人々に残されたのは、やがて必ず国に帰され、永遠の偉大な王=救い主イエス・キリストが遣わされるという神の約束だけでした。
C.詩歌書
これらの本は、神のすばらしさと被造物の美しさを知らせます。また、神を喜ばせる生き方とは何かについて語られています。あるいは「善良な人々に、どうして悪い事が起るのか」というような難しい質問にも、答えてくれています。これらの詩の多くも、神がご自分の民のために一人の新しい大いなる王=救い主イエス・キリストを遣わす時の、不思議で驚くべき事柄をたくさん約束しています。
D.大預言書・小預言書
神は、「預言者」と呼ばれる神の言葉を託された使者によって、ご自分の民にメッセージを伝えました。そのメッセージは、「私の示す戒めに従いなさい」というもので、何度も何度も繰り返し発せられました。ここに登場する預言者の多くは、非常に困難な時期に遣わされました。例えばその国が敵国に攻撃され、民が捕囚されようとした時などに、その警告を発したのでした。
6.新約聖書概略
新約聖書は、神の約束(旧約聖書)がどのように実現したかを知らせてくれる。約束が実現するのを目撃した人々が、それらがどのように起ったのかを正確に記録していった。その人たちは、神の約束がすべての人々に対してもっている重要な意味について、多くのことを書き残している。それらを纏めたものが新約聖書なのである。
A.四福音書 (マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)
福音書の著者は、新しいイスラエルの王(イエスキリスト)について、神の約束がどのようにして実現したかを知らせている。彼らは、まず神の御子イエスの特別な誕生について語り、また、イエスの生涯と、彼がどんなに人々と交わり、愛し、天の父なる神様について教えたたかを語つている。そして、イエスが無残にも十字架に架かって死んだ時、実は預言者達のことばが実現したことを知らせてくれる。福音書のクライマックスは、最後の出来事一一イエスの復活ーーである。そしてイエスは、もう一度地上に来られるために、天で待ち受けているのである。
B.歴史の書(使徒達の働き)
神の約束はイエスの死で終つてしまったのではない。それはまさしく始まりであった。イエスは死からよみがえられ、ご自分の弟子たちに、世界中にこの良い知らせを伝えるようにと命じられました。「使徒の働き」は、人々がどのように良い知らせを聞いて、信じたかを支えてくれる。
これらのクリスチャンが、世界中に良い知らせを広め始め、今なお続いているのである。
C.パウロによる手紙
ユダヤ教の熱心な信徒であったパウロは、かつてイエスに従う者たちを迫害したが、イエスキリストに出会った後、もつとも有力なキリストのしもべの一人になった。
彼はいろいろな地方に出かけて、伝道し、信じる人々が起こされた所ではどこにでも、新しく教会を建て上げていった。パウロは投獄され、やむなくクリスチャンの群れを離れざるを得なかった時、よく彼らに宛てて手紙を書いている。これらの手紙は、彼らが何を信じ、どのようにふるまうべきかを説いている。パウロは個々のクリスチャンたちにも手紙を書き送っている。
D.公同の手紙
パウロ以外のイエスの弟子たちも、教会が必要としていることに有益な手紙を書いている。これらの手紙は、イエスのことについて、また、クリスチャンの信仰のあり方について教えてる。これらの手紙は、困難な時代状況の中で、新しく信じた人々を勇気づけた。
E.預言の書
黙示録では、イエスの弟子のヨハネが、未来に起こることについて、神が彼に示されたことが書かれている。つまりこの世界が最終的にどうなるかについてである。そしてイエスはある日再び地上に再臨され、信仰者と不信仰者を分かっのである。