個人への手紙

聖書が教える「牧師」とはどんな人?テモテへの手紙第一3章1~13節

聖書が教える「牧師」とはどういう人なのでしょうか?

「牧師」ということばは、新約聖書に余り出てきません。エペソ4:11に「キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。」と、あります。Ⅰテモテ3:1に「監督」ということばが出て来ます。これは簡単に言いますと、現在の私たちが理解している「牧師」のことと理解して良いでしょう。そこでこのⅠテモテ3章から「牧師」について学んでみましょう。

1.神様の召命があること

1節にありますように、「監督」(牧師)の職は、「立派な働き」です。この「立派な働き」と訳されている言葉は、テトス書で話しました「良いわざ」(カラ エルゴ)と同じ言葉です。どうして「立派な働き」なのか、と言いますと、この働きは神の民(クリスチャンたち)を霊的にも、物質的にもケアし、育成する働きだからです。又、この働きは、人間的な好みや願いで志願してする働きではありません。パウロが使徒20:28でエペソ教会の長老たち(牧師たち)に「神がご自分の血を持って買い取られた神の教会を牧させるために聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」と言ったように、「監督」(牧師)は聖霊によって「神の教会を牧させるために」立てられた人なのです。

つまり牧師は神様によって召された者、神様によって神様の教会の働きのために立てられた者です。

この神様の召命があることが牧師として働く時に重要です。牧師となる個人が神様からの召命の確信を持っているかどうか、また、教会も牧師の召命の確信を受け入れることが出来るかどうかが問われなければなりません。牧師、及び教会の人々がこの牧師の働きへの召命について検討する時に、2節以下に書かれている資質が考慮されなければなりません。

2.監督(牧師)の資質はどんなものでしょうか?「非難されるところが無い人

「非難されるところが無い人」。これは誤りがない完全な人と言うことではなく(もしそうでしたら、誰も牧師にはなれません。)むしろ社会生活の中で、社会的にも道徳的にもその人の言動が受け入れられないで、社会一般の人に非難されるようなことをしない人、と言うことです。どういう面で非難されないのか、とパウロは以下に10点を挙げています。

1.「一人の

これはもちろん一夫一婦制を言っていますが、牧師がエペソ5章で教えられているような夫婦関係にあることを示しています。

牧師夫婦が同じ家にいても別居状態というのもダメです。様々な理由があるにしても、長期に別居しているのも牧師としてふさわしくないことでしょう。しかし、「一人の妻」と言うのは独身者を排除しているのではありません。離婚者、再婚者については意見が分かれていますが、その人の状況、事情を慎重に調べ検討する必要があるでしょう。

2.「自分を制し、慎み深く、礼儀正しい

自制は御霊の実の最後、9番目の実です。この実はある意味で御霊の実すべてに関わっている実とも言うことが出来ます。

牧師にはこの自制が必要です。この自制が自分の内側に現れると、「慎み深さ」となり、対人関係に現れると、「礼儀正しさ」になります。

また人がいる所でも、いない所でも自分をコントロールすることは一番難しいことです。自分の力ではできません。ですから聖霊にお願いし、聖霊の力の助けによってコントロールして頂くのです。そう言う意味でも御霊の実なのです。

3.「よくもてなす

このことばの意味は、見知らぬ人、外国人、旅行者、寄留者をも愛し、暖かく迎え入れる、ということです。

教会にはいろいろな人が来ます。牧師はそのようないろいろな人をキリストの愛をもって受け止めて行きます。

4.「教える能力がある

牧師の資質の中で一番大切だと思われることは、この教える賜物があるかどうか、ということです。牧師が教えるのは神のことば、聖書のみことばです。日本は仏教、儒教の影響が強いからでしょうか、牧師の中には、礼拝説教は「良いお話」や自分の言いたいことを話すことと勘違いや誤解している人が少なくないです。

が、牧師のすべきことは、神のことばを説き明かすことです。礼拝説教は道徳的な教訓話や社会問題を解説するような時事話や面白おかしい話ではなく、聖書のことばの意味を説き明かすことです。礼拝に来た人々は神様のことばを聞き、それを理解して神様からの自分へのメッセージを受け取り神様ご自身を礼拝するのです。ここが礼拝と集会の違いです。

5.「酒飲みでない

日本の福音的なクリスチャンたちはこの面で余り問題がないようです。しかし、牧師たちの中には仕事のストレスに耐えられず、酒でストレスを解消しようとする人がいます。そしてアルコール依存症になってしまう人もいます。

6.「乱暴でなく、柔和で、争わない

牧師の気質、性質は柔和、穏和であることです。柔和は御霊の実の8番目の実です。聖霊の働きで私たちの中に柔和と言う実が結ばれてくると、私たちは温和な人に変えられて行き、乱暴で無くなり、他人とむやみに争うことも無くなります。

7.「金銭に無欲

教会内で良く起こる問題は、性的な問題と会計上の不正です。金銭的な問題、例えば、牧師が献金を無断で借用したとか、盗んだとか言った問題です。また、牧師が必要以上にお金を要求したり、献金のアピールを繰り返し、強要したりする問題です。パウロはこの後、6:9~10でこのことを改めて教えています。

8.「自分の家庭をよく治める

パウロはここで教会を神の家族と譬えています。ですから自分の家庭を治めることが出来ない人は牧師として神の家族を治めることが出来ない、と教えるのです。

この「治める」と言うことばは、リーダーとして治め、又、ケアすることです。牧師が自分の家庭をきちんと治めることやケアすることが出来ないならば、当然神の家庭である教会を治め、ケアすることはできません。家庭を治めることの中には、夫婦関係のみならず、キリスト中心に家庭生活を送るという「監督」(牧師)ことが含まれます。具体的な事として、多くの牧師家庭が悩まれることの一つは子供たちの育て方、教育でしょう。神を否定する社会、学校の中で子どもを育てて行くというのは、並大抵のことではありません。私が勧めるのは、先輩の牧師たちや宣教師たちの実例から学ぶことです。また、牧師夫妻(父母)にとって神様第一に生きることがどれだけ重要なことなのか、ということを家庭生活の中で子供たちに示すことも大切なのではないかと思います。

9.「霊的な成熟

牧師は信者になったばかりの人であってはいけません。牧師になるには信じてから何年、と決まってはいませんが、霊的にも、人間としても成熟した人になっていることが求められます。なぜなら未成熟でしたら教会の霊的責任を十分に負うことができません。その上、高慢に成り易いからです。自分は牧師になった、と牧師として尊敬される立場(Ⅱテサ5:13)を間違って使うようになる残念な牧師もいます。悪魔は神の前に高ぶり、自分を神とした高慢によって神にさばかれました。牧師もいつも高慢にならないように注意しなければなりません。牧師はイエス・キリストの模範に従い、へりくだり、謙遜な生き方、しもべとして生きることです。また、神様の前に謙遜になり、個人的なデボーション、神に献身した生活、神にいつも信頼して生きる信仰、神に常に従順に生きる生活をするのです。

10.「教会外での良い評判

牧師は教会内でも教会外でも評判の良い人でなければなりません。気がつきにくいですが、教会外の人々は、教会のことをいろいろと関心を持って観察しています。牧師や牧師家族及び教会員の行動が悪かったり、誤解を生むようなものであると、つまずいたり、教会の悪い評判が広まります。それによって福音が人々に「嘲られ」てしまい、人々はキリストから遠ざかって行ってしまいます。

 

このような資質が牧師には問われます。私たちは弱く、不完全な者ですが、御霊の力によってこれらの霊的必要に対応してゆくことが牧師に求められることです。

 

 

私達はクリスチャンなのか?・・・テトスへの手紙3章4~7節

クリスチャン、と一言で言っても、クリスチャンになる経緯は大きく分けて、二通りあります。

まず、家族の中で最初にクリスチャンになった人は、ある程度の年齢になるまで、ノンクリスチャンとして生きて来て、それから、クリスチャンとして生きるようになりますから、生活がラディカルに変化します。

もう一つはクリスチャンホームで育った人です。小さい時から教会に連れて行かれ、教会学校で讃美歌を歌い、お話を聞き、暗誦聖句をしたりして育っていきます。それからある時に、自分自身と神様との関係、主イエス・キリストとの関係を考えるようになり、信仰決心に導かれ、洗礼を受けてクリスチャンとして歩むようになると言う方が多いでしょうか。ある方は幼児洗礼を受けていますから、受洗の証しはしたことがありません。

ここで、はっきりさせなければならないことは、「私たちはクリスチャンなのか?」ということです。ずーっと自分はクリスチャンだと、言っているので、何を今さらそんなことを、と思われるかもしれません。しかし私たちはクリスチャンとは何なのか?ということを明確に理解し、確信をもっていなければならないと思います。

そこでいわゆる牧会書簡、テモテ、テトスへの手紙を読み、学んでみました。その中から、この課題にふさわしい聖書の箇所をご一緒に読み、学んでみましょう。

 テトスへの手紙3章4~7節

4.しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、

5.神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。

6.神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

7.それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

1.救われる」ということの6つの面

この文章は、実は一つの文章です。日本語訳では、4節~5節が一つの文、6節がもう一つの文、7節も一つの文、と三つの文に分けられていますが、原文では一つの文章です。一つの文章と言うことは、主動詞は一つしかありません
それは5節の終わりの「救ってくださいました。」という動詞です。

パウロはここでテトスに対して、クレテ島の教会(クリスチャンたち)に牧会上(クリスチャンの牧師たちのために)の諸注意、特に偽教師たちの教えに注意するように、正しい教えについて書いています。この個所でパウロは、神が私たちを「救ってくださる」とは何なのか、と言うことを明確に記しています。ここでパウロは「救われる」ということを6つの面から説明しています。

1)「救い」の必要(なぜ救われる必要があるのか?)

2)「救い」の源 (その救いはどこからやって来るのか?)

3)「救い」の基盤(救いは何に拠っているのか?)

4)「救い」の方法(どのようにして私たちは救われるのか?)

5)「救い」のゴール(救いは私たちをどういうゴールに到達させるのか?)

6)「救い」の根拠(本当に救われているのかがどうしたら分かるのか?)

この順番で「救い」についてこの個所から学んでみましょう。

1.なぜ私たちには「救い」が必要なのでしょうか?

パウロは私たち人間の状態について3節に述べています。「愚かで、不従順で、迷っている者、色々な欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みの内に生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者」です。私たちはこのような状態から救われる必要があるのです。

2.その「救い」はどこからやって来るのでしょうか?

4節にありますように、「救い」は、「私たちの救い主である神」からやって来るのです。それも「神のいつくしみと人に対する愛」からやってきているのです。この神の愛はイエス・キリストの生涯即ち、誕生、生涯、死、よみがえりにおいて現わされました。イエス・キリストの「いつくしみ」「愛」「あわれみ」(5)「恵み」(7)によって私たちは救われるのです。

3.「救い」の基盤は何なのでしょうか?

何を基盤にして神は私たちの罪を赦すのでしょうか。これについてこの聖句には明らかな言葉で書かれていませんが、5節の「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって」と言う言葉から分かりますように、「神のあわれみ」が「救い」の基盤であることを示しています。神はご自身のあわれみによって御子イエス・キリストを私たちのために遣わして下さいました。この神のあわれみこそが救いの基盤なのです。なぜならこの神のあわれみが「神のいつくしみと人に対する愛が現れた」ことに繋がるからです。この「現れ」はイエス・キリストの現れのことです。(テトス2:11)更に、この「現れ」は、テトス2:14にかかれていることであります。つまり神のあわれみによる十字架の死のことです。

4.それではどのようにして私たちは救われるのでしょうか?

5節にありますように、「聖霊による再生と刷新の洗いをもって」救われるのです。「再生」とは、Ⅱコリント5:17にありますように、一人一人が新しく造られる、創造される、ということです。「刷新」とは、「再生」と同じ意味にとることもできますが、むしろ新しく創造されてから道徳的に、霊的に、変えられて行くプロセス(過程)を言っているのでしょう。「聖霊」は神様であり、この御業をなさるお方です。私たちを新生させ、刷新を導かれるお方です。「神はこの聖霊を私たちの救い主イエス・キリストによって私たちに豊かに注いでくださったのです。」(6)「洗い」とは何でしょうか。これは水によるバプテスマのことです。バプテスマは私たちの内側で起こった霊的な恵みの業を外側に私たちの目に見える形のしるし、ということです。それは聖霊によって罪が赦され、新しく生まれた、ということです。

救われる方法をまとめてみますと、神は私たちに聖霊を豊かに注いでくださり、聖霊によって私たちは内面的に(霊的に)新しく生まれ、刷新されます。外側では信仰告白をしてバプテスマを受け目で見える形で「救い」証しし、神の証印をうけます。「救い」は7節にありますように、「私たちがキリストの恵みによって義と認められる」ことでもあります。義とされることは私たちが御子の十字架の死、贖いの死によって神の前に罪赦されたものであるという宣言がされたということです。(無罪宣言)新しく生まれることは、私たちは聖霊によって新しく生まれ、新しいいのちに生きて、きよめられて行くということです。これは同時に起こることです。

5.私たちは救われて、どういうゴールに到達するのでしょうか?

7節にありますように、「永遠のいのちの望みを抱く相続人となる」のが私たちのゴールです。終わりの日に私たちは天にて私たちに約束された全相続を受けます。それが永遠のいのちです。それは完全な形での神様との交わりです。

6.私たちが「救われた」ということはどうして分かるのでしょうか?

証拠(根拠)はあるのでしょうか?それは8節に「神を信じるようになった人々が、良い業に励むことに心がけるようになるためです。」とありますように、「救われた」者たちの生き方、生き様によります。2:14には、神が私たちを救われたのは、「良い業に熱心な選びの民として、ご自分のものとしてきよめるため」です。又、3:14には、「実を結ばない者にならないように、良い業に励むように」教えられています。

まとめてみますと、私たちは罪人であるので、罪から救われる必要があります。神はいつくしみと愛をもって私たちを救おうとされ、私たちは自分の良い業によってではなく、神のイエス・キリストの十字架に拠るあわれみによって救おうとされ、聖霊による新生と刷新、そのしるしとしてのバプテスマによって救ってくださる。救いのゴール、目的地は永遠のいのちの相続、完全な神との交わりです。救われた私たちは良き業に励んで生きる者となるのです。

2.聖霊による再生と刷新の洗いとは

この箇所から分かりますように、「救い」は聖霊なる神様の御業です。聖霊なる神様によって私たちが新しく創造される、新しく生まれるというのが、「救われた」と言うことです。Ⅱコリント5:17には「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とありますように、私たちは聖霊による新生と刷新を経験すると、古い考え、価値観、生き方が過ぎ去り、すべての面(考え、行動、目的)で新しくなります。新しくなり続けて行きます、と言った方が良いかもしれません。又、イエス様はヨハネの福音書7:37~39に「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。私を信じる者は聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになります。』イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊についてこう言われたのである。」と言われました。パウロがテトスで言っている「良いわざ(カラ エルガ、2:7、3:8,16)に励む」と言うのは、イエスがここで言われている「イエスの下に来て飲む」こと、「心の奥底から生ける水の川が流れ出る」ことと繋がっているようです。

8節や16節の「良い業」とは、2節にある「だれも中傷せず、争わず、柔和で、全ての人にあくまで礼儀正しい者となる」ことですし、私たちがクリスチャンになる前の状態を言っている「愚かで、不従順で、迷っていた者であり、色々な欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者」(3)の反対のわざのことです。

これらは「聖霊による再生と刷新の洗いをもって」クリスチャンになった人が聖霊の力によってすることが出来るように変えられて行く「良いわざ」です。このように私たちの生活は聖霊の力によって良いわざに励んで行く生活です。これがないと「神を知っていると公言しますが、行いでは否定してい」(1:16)る人になってしまいます。

3.聖霊の力を受けて生きるには

ヨハネ7章の主イエスのことばのように

  • 霊的な渇きを持つこと、
  • 主イエスの下に行って霊的な飲み物を飲むこと、です。

これは38節に言い換えられていますように、主イエス・キリストを主として、救い主として信じることです。そうすると、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」聖霊によって生ける水に譬えられる新しいいのちが川のように心の奥底から流れ出る、というのは、テトス書でパウロが言っているように私たちが「良い業に励」み続けて生きるようになることでしょう。

これがないと、教会及び教会にいるクリスチャンたちは、ただキリスト教的な活動に忙しく明け暮れし、生き生きとしたいのちが無くなります。牧師も牧師夫人の生き様も同じです。聖霊によって新しいいのちを与えられ、その新しいいのちによって日々生き続けていることが必須なことです。

ところが多くのクリスチャンたちが聖霊の働きについて誤解をしているようです。「聖霊」というと使徒の働き2章のペンテコステの時に弟子たちが経験したような経験をしなければならないと考えたり、また、同じような経験を強調し(ある時は強制し)異言を話したり、癒しの奇跡を行ったり、予言をしたりすることだけを聖霊の働きとするクリスチャンのグループがいますので聖霊について余り話さないし、教えもしないようです。

しかし、私たちは三位一体の神を信じ、聖書の教えている聖霊の働きを信じています。テトス書が教えている通り、私たちは「聖霊による再生と刷新の洗いをもって私たちを救ってくださり、・・この聖霊を救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださいました。」(3:5,6)

それでは私たちはどうしたら聖霊によるいのちの水の川が心の奥底から流れ出る生き生きとしたクリスチャン生活、教会になれるのでしょうか?

  • 聖霊によって新しく生まれたクリスチャンになる。
  • 聖霊の助けを求めて聖書を読み、良く意味を考え、理解する。他のクリスチャンと一緒に聖書を学び合う。(グループ聖研)
  • 聖書から教えられたことを自分の生活で実行する。
  • 聖霊の導きを求めつつ祈る。継続的にいろいろな人々のために祈る。他のクリスチャンと祈り合う。
  • 聖霊の力によって神様から受けた恵み(特に聖霊なる神様の働き)を他の人に証しする。

 

神との豊かな交わり~(2)祝された デボーション のために・・・第二テモテ3章16~17節

聖書を読み、黙想するというテーマで学んでみたいと思います.
聖書という本はそもそも何でしょうか?どんな本でしょうか?と聞かれたら皆さん何て答えるでしょうか。
今読んだ第二テモテ3章16節17節にそのひとつの答えが書いてあるかなと思います。

「聖書は全て神の霊感によるもので、教えと戒めと強制と技能訓練のために有益です。それは神の人が全ての良い働きのためにふさわしい十分に整えられたものとなるためです」。
聖書は全て神の霊感によって書かれたということですので、書いてるのはもちろん人が書いてますけれども、モーセが書いたり、ペテロが書いたり、パウロが書いたり、マタイが書いたり、それぞれいろんな人が書いてますけども、それは全部の神様の聖霊の導きの中で記した、霊感された言葉であるということですね。ですから人によって書かれてはいるけれども、それは「神の言葉である」ということが教えられております。

そしてこの聖書は非常に私たちにとって有益であるということが書いてあります。「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益だ」ということです。私たちいろいろやっぱり教えられなければならないですよね。何をしたらいいか、進むべき方向をどう判断したらいいか、色々悩んだり分からなくなったりすることがあります。でもやっぱり教えられなければならない存在だと思います。

 

それで聖書を読むことは大事だよということになるわけですけれども、前回そのための準備について学びましたので、今日は、聖書を実際に開いて読むときに、どういうことに気をつけて読んでいったらいいかということを学んでみたいと思います。

三つのステップがあると考えてください。まずは文字通り聖書を①読むということですね。聖書に書いてあることを読むっていうことが最初のステップになります。二番目のステップとしては②黙想するというそういう段階があるかなと思います。そして最後は③応答する。聞いたそのみ言葉に応答するというそういう段階まで行くと聖書を読んだということになるのかなと思います。今日は一番と二番、読むということと黙想するということについて皆さんで学びたいと思います。

(1)聖書を読む

 

■聖書を読むとは。

 

まず「聖書を読む」というのはどういうことなのかを考えたいと思うんですけども、 ユージン・ピーターソンという有名な神学者がこういうことを言っています。

「聖書のみことばはどの一語も、自己と言う粗末な掘っ立て小屋から、神がご自分を表された見事な外界に導いてくれる窓やドアのようなものである。神は空に海に、木に花に、イザヤにヨハネに、そして最後には完全にイエスに、ご自身を表されたのである」

とても素敵なたとえですね。私たちは自分という粗末な掘っ立て小屋の中に閉じこもっているような、そういう存在なんだけれども、聖書のみ言葉を通して、そのドアが開かれ、その窓が開いて、そしてその外側にもっと素晴らしい世界が広がっている、そういう出会いに導いてくれる、そういうものなんだということが書いてあります。

[colwrap][col37]
[/col37][col73] ところが私たち多くの場合、なかなか出てこないで、家の中に閉じこもってるようなことも多いじゃないかなと思うんですね。外に出たら素晴らしい神様を中心とした世界が広がっているのに、私たちあまり小屋から出ないですね。自分という、その小屋の中に閉じこもって自分が世界になっちゃっている、そういうことが多いかなという風に思います。でも、み言葉によって私達はもっと広い世界がここにあるということ、神様を中心とした、目には見えないけれども確かに神様が生きておられる世界があるということを、聖書を通して気付かせていただく。[/col73][/colwrap]

そして、その神様の世界を中心に、自分自身を改めて見つめ直したり、 人生について考えたりすることができる。全く違う視点が与えられたということになると思うんですね。

それがまさに聖書を読むということなんだよということを教えてくださっております。

私たちは、神が望まれるような人間になりたいと思うなら、自分の人生が神によって形作られるようにしなければならないですね。聖書を読むことを通して、神が私たちのために、そして神の世界のために建てられたご計画に参加させていただくという姿勢が大切です。

私達の中心は神様で、神様のご計画があって、そして私たちはその中にあって、作られたり、イカされたりしている。その神様のご計画の中に加えられることが、やっぱり人間として一番の幸せですよね。

それに気づかないで終わってしまうこと多いわけですけれども、でも御言葉によって、私たちは本来の在り方、生き方に導かれていくとするならば、それは本当に幸いな経験ではないかなと思います。

■聖書を読む時に大切なこと‥・恐れをもって(聖書は神の真理)

こういうことを意識していくとですね、聖書を読むということは凄いなって、ちょっ励ましなるかなと思うんですけれども、聖書を読むときに覚えておかなければいけないことがあるかと思います。

それは怖れをもって聖書を読むということ。聖書は神の言葉です。その神の言葉を恐れを持って受け止めるという、その姿勢が私たちには必要じゃないかなと思います。

万物の創造主たる神が私に直接語ってくださる、そう思うと、それにふさわしい態度が求められると思います。全身全霊で受け止めたいと思うのですね。

ペテロの手紙の中にこういう言葉があります。

「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」 第二ベテロの手紙Ⅰ章2O~21節

私たちは、ついこの私的解釈をしがちなものです。自分の心に引きつけて、自分の立場とか考え方の正しさを証明するために、み言葉を使って自己主張してしまう、そういうことが起こりうる。「聖書にこう書いてあるんだから聞きなさい」みたいにですね、利用してしまうというようなことが起こりうる。

牧師も説教してるとき、そのような誘惑がありますね。本当に私的解釈をしてしまいたくなる、自分の心に引き付けて、「教会の人よ聞きなさい」みたいな思わず力が入ってしまうような誘惑を覚えることがあります。

しかしそれは、祈りによって勝利し、乗り越えていかなければならないことです。 本当に神様が、そこで語っていらっしゃることを述べなければいけない。

このように、私たちは御言葉に向き合う時には、それにふさわしい態度が求められます。恐れを持って向き合うことができたら幸いだなと思うのです 。

■聖書をどのように読むのか。

・心を開きながら(相手がいる。大切なことは神を知ること。読みながら、聴く。)

聖書を開いて、み言葉を 読んでいくわけですけれども、まず意識したいのは、心を開きながら読むということです。文字を読んでいるわけですけれども普通の読書とはちょっと違うのは、やはりその先に神様がおられるんだということを意識しながら読むということですね。その読むということをとおして、やっぱり私たちは神様との交わりを経験してるわけですね。神様との生きたコミュニケーションの中に加えられている。そのことを意識するときに、やはり心を開きながら聖書を読むということが大事かなと思います。そこに神がおられるということ、神様が今、私に語ってくださっている。だから読むということを通しながら、神様のみ声を聞くということも同時に行っているのです。その両方を意識できたらいいのかなと思います。

・全体の流れを意識する。

そして聖書を読むときに全体の流れを意識しながら読むということもすごく大切なことかなと思います。聖書というのはそれぞれ独立した書物ではあるけれども、やっぱりこの創世記から始まって黙示録に続いていく全体の流れというのがあります。そしてそれは、神様の救いのご計画が、歴史の中でどのように進展して行ったかということが記されているわけですよね。

天地創造の話から始まって、人間が罪を犯して堕落をしてしまって、でもそこから神様の救いのご計画が始まって、アブラハムが選ばれ、イスラエル民族が形成され、そしてモーセ、ダビデが現れ、その後、罪のためにイスラエル王国が分裂して、そして捕囚になったりとかですね、色々と困難の中に預言者たちが出てきて、救い主がやってくるからという希望を与えながらという展開がありますね。

そしてイエス様が来られて、そしてみ国がやってきて、そして今度は弟子たちが福音を宣べ伝える教会ができる。そして教会を通して神様の御技がなされていく。そして最後に黙示録、終末に至るという大きな枠組みがありますね。

そういう全体の流れを意識しながら読むということが助けになるかなと思います。

そして旧約聖書があって、新約聖書がありますね。旧約聖書が分かると新約聖書も解かるんですね。

私たちは旧約聖書の理解が弱いためにイエス様の愛が十分わかっていないんじゃないか?と仰る神学者がいらっしゃいますけれども、旧約聖書の厳しさを理解していないとですね、やっぱりこの新約聖書も分からない、イエス様の十字架の意味もピンとこないという、その連続性がありますね。ですからそういう流れの中に、ひとつひとつの聖書の言葉があるということも意識しながら読むということも大切なことかなと思います。

・文脈の流れを意識する。

そして文脈の流れを意識しながら読むということですね。このひとつひとつの言葉と切り離された言葉ということではなくて、やっぱりつながりがあってですね、そのつながりの中で語られている言葉だということがわかります。さっきテモテへの手紙の3章を読んでいただきましたが、最後に「聖書は全て」という言葉が出てくるんですけれども、この言葉がどういう文脈の中で教えられているのかということを、3章全体を読むとわかるわけですね。

終わりの日には困難な時代がやってくる。そういう時には、本当に不法がはびこり邪悪な世の中になっていき、いろんな 問題が起こってくる。そしてみんな快楽を愛するようになってしまう。真理から迷い出てしまうようなそういう時代がやってくる。そういうなかにあって、いかにみ言葉が大事かと、そしてテモテはおばあさんの代からのみ言葉を教えてもらっている、お母さんもクリスチャン、そういう風にし、小さい時からみことばに親しんできた、そのみ言葉が、本当にこの時代に必要なんだよというそういうメッセージになるわけですよね。

文脈の流れの中で味わうと、より深くそのみ言葉の伝えているメッセージがわかることがありますね。そのみ言葉だけ切り離して使うことも、あるいはそのみ言葉によって励まされるということもあるんですけれども、文脈の流れにあって読むことによって、より深くみ言葉を理解することができると思います。

・正確に読む。(聖書はこう言っているはずだと自分が思うようにではなく、実際に何と言っているかを理解する。)

何が書いてあるかっていうことをまず注目しながら読むということなんですけれども、時々自分の中に思い込みがあったりしてですね、聖書はこう言っているに違いないと、そういう思い込みがあるために、実際に何て言ってるかということを聞き漏らしてしまうということがありますね。色々な気持ちがあると思いますけれども、ちょっとだけ横においてですね、そこに何が書いてあるかなっていうことを、的確に把握していくことが最初のステップとしては大事なことかなと思いますね。それがある程度わかってきた中で、それがどういう風に語られているかということを味わっていくということになるかなと思います。

そして、その聖書に書かれていることのなかには、中心的な事ってのがあります。パウロが手紙を書いている時には、そこで教えている中心的なテーマっていうのが、必ずあるんですね。それが何であるか、ここでパウロは一体何を一番言おうとしてるんだろうか、いろんな情報があります。いろんなことが出来ててきます。けれども一番教えたいことは何だろう?それはやはり十字架だろうか?復活だろうか?再臨だろうか?いろんなテーマがありますけれども、その中心点を意識しながら読むということも助けになるかなと思います。

・文学形式歴史的背景を理解する

これは専門的なことになってしまうので、聖書を読むだけではわからないということがあるかもしれません。これは、いろんな参考書のようなものや優れた本が出てますし、教会に来れば牧師とか詳しい人が必ずいます。

例えば時代背景聖書がちょっと分かりづらいなと感じることがあるかもしれませんが、一番大きな理由はこの聖書がユダヤ民族の文化的背景、あるいは歴史の中で書かれてるってことですね。ユダヤ人だったらピンとくるものが、私たち日本人で、全く違う文化の中に生きているので、ピンとこないってことがありますね。そういう文化的な壁というのがあるわけですけど、 それも教会に来ていれば少しずつ教えてもらえますし、いろんな優れた参考書があります。そういうものを通して理解が少しずつ深まっていくと思います。

・繰り返し読む、一気に読む、丁寧に読む、味わう、想像しながら読む。

読み方も、いろんな読み方があって、色々試してみるといいかなと思います。

同じ箇所を何度も何度も繰り返して読む、一回読んで2回読んで3回読むと、だいぶ味わいが変わってくるということがあります。

また一気に読んでしまうのもいいかもしれませんね。とりあえず全部読んでしまって、全体像をまず理解するって意味では一気に読むのもいいかと思います。

また丁寧に読むこと、ひとつの短い箇所を、じっくりじっくり味わいながら読むこともいいと思います。味わうということも大事です。

そして想像しながら読む。聖書を読むときに、イマジネーション、想像力を用いるということも助けになるかなと思います。ただし、あまり想像力が膨らみ過ぎちゃうのもちょっと問題です。[colwrap][col37]
[/col37][col73] 全く違う解釈になってしまうのは問題ですけれども、でも例えば弟子たちがガリラヤ湖の船に乗っていた時に、嵐に遭い、慌てふためいてしまうとき、それはいったいどういう気持ちだったんだろうと、自分もそこにいるような気分で、色々思いめぐらすことがあると思いますね。そして、動揺してる時に、イエス様がグーグウ寝てるのを見た時には、どんなにイライラしたかって言うなことが分かると思うんですよね。[/col73][/colwrap]そこに自分がいるかのような、そういう気持ちで想像力を働かせながら読むと、そこでイエス様が語ってくださった言葉の重みとかですね、その後ピタッと嵐が止んで静かになった時の感動が、すごい感動だったかとかですね、それも非常に伝わってくるんじゃないかなと思うんですね。ですから想像力を働かせるということも、すごく大事なことかなと思います。

あと聖書にだんだん馴染んでくると、一つの言葉から想像力が膨らんでいくってことがあるんです。例えば「地の塩になりなさい」という言葉が出てきた時に、「」という言葉が出てくるんですが、その言葉が、そういえば聖書の他のあそこにも出てきたなとかですね、旧約聖書読んでいると「塩の契約」っていう言葉が出てきますよね。捧げものを捧げる時に、「塩を添えて捧げなさい」と出てくるんですね。「塩」という言葉は聖書の中でどういう意味を持っているのかなという具合に想像力が膨らんでいきます。

また聖書には「豚に真珠を投げてはいけない」っていう言葉がありますけれども、「真珠」という言葉みた時にですね、そういえばマタイの福音書13章には「天のみ国は良い真珠を探している商人のようなものです」とありますが、真珠を探していて、見つけた途端にですね、その商人が欲しくてたまらず、それまで持ってたもの全部捨てて手に入れたっていうそういう例え話があって 、天の御国はそれくらい素晴らしいものなんだよと言うその譬えとして「真珠」という言葉が使われていますね。そういう風にイメージが膨らんでいくことによって聖書で語られている言葉の味わいというものが深まっていくことがあるかなという風に思います。あるいは箴言の中にですね「しっかりした妻を誰が見つけられるだろうか。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い」という言葉があるんですけど、真珠というのはあの場面ではこういう意味で使われていたとわかると、しっかりとした妻がどんなに尊い存在であるかということが分かると言うことが全体として見えてくる、そういう発見があるとずいぶん聖書が楽しくなってくると思います。

・インフオメーション (情報収集)ではなく、フオーメーション (形づくられること)。

聖書を読むということは一面情報収集の意味がありますが 、でも私たちが目指しているところはただ単にインフォメーションではなく、その言葉によってフォーメーション、つまり私たちが形作られていくということを期待して、祈りながら読むということですね。そういうことも大事だなと思います

・1日3章、日曜日は5章読むことで、聖書全体を一年で通読。

必ずそうしなさいということではなくて、一応参考までにね、これくらいのペースで行くと、だいたい一年で一回読みを終わりますよっということですね。

1日3章といっても、長いところと短いところがありますから、すぐ終わっちゃう時もあれば、すごく時間がかかるところもありますので、みな同じようにいかないかもしれませんけれども、一応の目安としてはそういうことが言われております。

(2)黙想する (探求し、調べる)

■黙想する

・全人格をかけて、みことばに応答すること。

黙想とは、「全人格をかけてみ言葉に応答する」ということだといえると思います。応答するという事が、最後のステップにがあるんですけれども、「黙想」の中に既に「応答」が始まっていると考えることできるかなと思います。やっぱりそれは神様が語ってくださっているみ言葉を、私たちは正面で受け止める、自分の全存在をかけてしっかり聞いて行く時、黙想と言っても、それがもうすでに応答の始まりということが言えるんじゃないかなと思います。

・心を空にすることではない。神と神のなさる方法に集中すること

仏教だと、「心を空っぽにする」、「思ってることを空っぽにする」、「無の境地に達する」っていうことが黙想の中で大事なことかなと思いますけれども、私たちにとって黙想というのは心を空っぽにすることではなくて、むしろ私たちの心を神様と神様のなさる方法に集中させていくっていうことですね。

・受け身ではない。積極的、主体的な姿勢。

自分の中に、ある思いがあるものをですね、それを神様の方に向けていくということになるかなと思います。ですからそれはけして受け身ではない非常に積極的主体的な姿勢であるということが言えるかなと思います。そしてJ・Iパッカーという俺も有名な神学者の方ですけどもこういうことを言っています。

黙想とは神の働き、やり方、目的、そしてお約束について知っている様々なことを思い起こし、思いを巡らし、熟考し、自分に適用していく行為である。それは聖なる考えの行為であり、神との交わりの手段として、神の臨在のうちに、神の監督のもとで、神の助けによってなされる。その目的は、人の知性によって、かつ霊性によって見る神の姿を明確なものとすること、そして神の真実によって、人の頭脳と心に、十分なまた適切な影響を与えることである。

ちょっとなんか難しい漢字が入ってしまうかもしれませんけれども、前半の方はやっぱりその思いを神様の方に集中させながら、まず自分で考えてみるって言うことですよね。神様の働き、神様どういうふうに働いてるのか、その方法、あるいはその目的、そのお約束について、自分なりに思ひ巡らして考えてみるということ、そしてそれを自分に適用していくわけですけれども、でも、そのプロセスとしてはやっぱり、この神様の主導のもとで、それがなされるって言うことが後半に出てくることかなと思います。

神との交わりの手段として、神の臨在のうちに、神の監督のもとで、神の助けによってなされるとあります。・・ですから、自分でものを考えたり、思ひ巡らしたりしてるんですけれども、最終的にそれをきちんと理解させてくださるのは、やっぱり神様なんだというそういう信頼のもとに、神様の導きの中で考えていくということになります。

その時にはっきりと 神様の真実ということが見えてくる、わかるという経験を与えられて行くんではないかなと思います。ですから非常に知的な作業でありながらも、でもやっぱりそこに、神秘的なっていうことはあまり言葉じゃないかもしれませんけど、やっぱりそこに霊的な神様の働きがあって、そういう導きの中で私たちが目が開かれていくという、とても理屈ではなかなか言い表せないようなものがあると思いますね。そういう経験を神様によってさせていただくというそういう出会いが経験できたら素晴らしいんじゃないかなという風に思います。

■ どのよぅに黙想するか。

・聖霊と歩調を合わせる。(ひとりで黙想するのではない。)

じゃあ最後にですねどのように黙想するか?具体的にどういう風に黙想したらいいのかということですけれども、「精霊と歩調を合わせる」ということです。一人で読んでいるようでありながら、実はみ霊がそこに働いておられる。そしてみ霊が共にいてくださるからこそ、目が開かれて真理を知ることができるということですから、み霊の導きにゆだねるということが大事かなと思います。ですから、祈りながらということになるかなと思います。

・知性を働かせる。(神について何と教えているか。神は私に何を教えているのか。)

そして同時に知性も働かせる。神について何と教えているか?、神は私に何を教えているのか?いろいろ情報があってそこに書いてあることをある程度理解した上で、そこから何を主は私に語ってくださっているんだろうか、どんなメッセージを今の自分に語られているんだろうか、今の自分の置かれてる状況とか、色々抱えてる問題とか、あるいは悩みとかね、いろいろなことがありますけれども、そういう今の自分に対して、このみ言葉から、神様は何を語ってくださり、何を期待していて、どのような方法を持って私たちを用いて、私たちを導いてくださるんだろうか、そういうことを思い巡らしていくということになると思います。

・流れ出る感構を無視しない。(威情を認め、自分の一部として受け止め、それを神と分かち合う。)

聖書読んでる時に、色々な感情を大切にすることも大事なことだと思います。嬉しいことも、感謝だなと思うこともあるでしょう。でも戸惑うことも、もしかしたらあるかもしれないですね。「何で聖書にこんなことを書いてあるんだ」とかですね、場合によっては怒りを覚えることがあるかもしれません。あるいは心探られて読むのが辛いという場合もあるかもしれません。その感情を大切にしてほしいと思います。その感情をそのまま受け止めて、認めて、それを神様に向けて行き、その時に神様が受け止めてくださる。そこに親しい交わりが成立していくことを覚えることができたらなと思います。

・生活に聖書を結ぴつける。具体的に、現実的に、適切に。

今日私は朝のデボーション の時マルコの福音書を読んだんですけれども、そこにこういうことが出てきました。「イエスはこのような多くのたとえ話をもって、彼らの聞く力に応じてみ言葉を話された」とあります。

たくさんのたとえ話を群衆たちに語るときにですね、群衆達が聞く、その聞く力に応じて語っておられるんですね。イエス様は、本当に難しい言葉を、本当にわかりやすい言葉で、群衆たちに伝わる言葉で語ることを選んだんですね。

それで今日は金曜集会で話さなくちゃいけないなと思ったので、今日なるべく皆さんにわかりやすく話せるように努力しようと思ったんです。実際そうなっているかどうかちょっとわかりません。一応そのように適用しようと思ったわけですね。そしてどうぞ私にも分かりやすく話すことができるようにと祈りました。このように1日の予定を見ながら、今日はこういう人に会うとか、こういうことをするとか、そういう中にあって与えられたみ言葉を、生活にどう適応していくか、そこまで思い巡らしていくと、生活の中に御言葉が生きていくという、そういう経験をしていくんじゃないかなと思います。

あなたの 「フィルター」を認識する

もう一つ指摘しておきたいことは、あなたのフィルターを認識する、意識するということですね 。自分のフィルターのゆえに、無意識の内に、神のメッセージ  を取りこぼしたり、取り違えたりすることがあるんです。

ちょっと難しいかもしれませんが、考え方の中にですね、色んなフィルターを持っているんですね。つまり独自の考え方をみんな持っているんですけど、そのためにせっかく語られているみ言葉が聞こえなくなってしまうということが起こりうるって事ですね。

  (1)文化的フィルター (個人主義的傾向、日本人としての感覚‥・)

例えばどんなフィルターがあるかというと、文化的なフィルターというものを持っていると言われています。現代人は概ね個人主義的傾向が強いという風に言われておりますので、非常に個人主義的に聖書を読んでしまうというそういう傾向があるかなと思いますね。実は聖書を読んでいると、家族が大事にされていたり、教会というものが大事にされていたり、集団というものが大事にされているんですけれども、意外とそういう部分は見落としてしまって、自分自身の必要のためだけに読んでしまうという、そういう個人主義的な傾向、そのことによって聖書を読んだしまうために、他にもちゃんとメッセージが書かれているにもかかわらず、その部分は聞こえてこないという、そういうことが起こりうるんですね。

あるいは日本人としての感覚があると思うんですね。日本人について言われていることは、聖書を読むときに、聖書を道徳律のように、あるいは倫理のこととして読む傾向があります。日本人には日本人の良い面もあるんですが、その傾向の中で聖書を読んでしまいやすいといこともあるかもしれないなと思います。

 (2)教理的フィルター (聖霊・洗礼・終末論などの理解、この世との関わり‥・)

二番目に教理的なフィルター。これはの教会の中にいろんなグループがありまして、そのグループによってはですね、精霊という事に関して非常に強い一つの立場を取っているグループがあります。 あるいは洗礼ということの問題についても、ひとつの独自な立場をとっているグループがあります。あるいは週末論に関して言うと、黙示録の理解ついて、例えば千年王国をどう考えるかということについての、いろんな立場の違いがあります。あるいはこの世との関わりということで、教会によっては、政治的なものにもっともっと関わっていきたいとか、積極的に社会的な運動とか政治的なこととかそういうことにもっともっとね積極的に関わっていくべきだという、まそういう風に教えてる教会もあります。

いろんな教会があって個性があっていいと思うんですけれども、でも時々そういう独特な考えとか教えということが、聖書読むときのフィルターになってしまって、本当に聖書が言っていることが聞こえないという弊害のひとつになってしまうことはあるかなと思いますね。

 (3)個人的フィルター (自我と結びついた強い願い、感情)

もうひとつは自分の自我と結びついた強い願いがあるために、その所から離れられないという罪のために、自分の強いこだわりのために、それに合わせて聖書を読んでしまうこともあるんですね。

私の経験ですが、東日本大震災の後で、ちょっと色々困難があったとき、つまり地震があり、津波もあり放射能のこともあり、悲しいことがたくさんある中で、ちょっと私の精神状態もちょっとおかしくなったと言うか、被害者意識とか、自己憐憫のような感情が芽生えてきちゃって、それで、それに心に引きつけられて聖書読んでしまったということがあってですね、仲間の牧師から指摘されて初めて気づいてですね、ちょっとそれおかしいんじゃないって言われて気づいたことがあって、本当に不安定な気持ちになっている時、気をつけなきゃいけないんだなーっていうことを学びました。

そういう時にこそ聖書が何と言っているかということに耳に傾けなくちゃいけないんですけれども、どうしても気持ちの方に惹きつけられてしまうことによって、せっかくそこで語られている神様の御心を受け止め損ねてしまう。そういうことも起こりうることかなと思います。そういういろんなフィルターがあるということを意識しながら、じゃあそれをどういう風に乗り越えて行ったらいいのか?ということなんですけど、それは中心を自分に置くんじゃなくて、やはり神様の側に中心を置きながら読んでいくということになるのかなと思います。そして聖書全体から理解するということ、さっきの例じゃないんですけど、やはり自分の狭い家の中で解釈するというのではなくて、神様の側に踏み出して行って、理解するというそういう作業が、自分の抱えている問題を正しく評価できるようになるんじゃないかなと思います。

・聖書全体から理解する (神のご性質とお働きの全体像を理解することによって、個人的な問題にも対処できるようになる。)

・神は集団にも、個人と同じように語られる (神のみこころは神の民の共同体の形成)

最後に神様は集団にも個人と同じように語られる。神の御心は、神の民の共同体の形成にあるということが書いてありますけれども、やっぱり神様ご自身には、神様のご計画があります。私達には、私達の個人的な計画あるんですけれども、でも神様には神様の計画がある。それは「私たちを救う」という計画で、やっぱり教会を築く、そして教会を通して神様のみ業を進めていく、成し遂げていくという大きな計画があって、その中に私たちが加えられているんです。その中にあっての私たちの人生であり、神様との大切な個人的な関係があるということが見えてくることによってですね、私たちは自分の問題に触れるような、そういうことができるんじゃないかなとおもいます。