詩書

地はあなたの恵みに満ちています。

詩編119編57~64節

1.主は私への割り当て

詩篇119篇も、今日は8段落目に入ります。第6番目の段落においては「めぐみ」という言葉で、7段落目では「慰め」という言葉に特に注目をしてきましたけども、今日はまず57節に記されている「割り当て」という言葉に心をとめていきたいと思います。57節で詩編の著者はこのように語っています。

[aside type=”boader”]主は私への割り当てです。[/aside]

「割り当て」と語られていますが、これは一体どのような意味の言葉でしょうか?

聖書を読んでいると、この言葉が時々出てくるんですね。それで「割り当て」と訳されていることもありますし、「相続地」とか「分け前」と訳されたりする言葉でもあります。私たちにはやがて行く天の御国においても、「相続地」が保証されていますし、また今のこの地上においても、神様からの「分け前」が保証されているということを示している言葉であります。

かって旧約聖書の時代にイスラエルの民が、40年の荒野での旅を終えて、約束の地カナンに到着すると、イスラエル12部族のそれぞれに土地が分割されて分け与えられたということがありました。それぞれに土地が与えられていくわけですが、ところが祭司職として特別に任じられたレビ族、そしてその子孫であるレビ人たちには、「分け前」の土地は与えられませんでした。その代わりに神様は、レビ人に関してこのような約束を与えられました。

民数記の18章20節に出てきますが、

[aside type=”boader”]あなたは彼らの家で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、私があなたへの「割り当て」であり、あなたへの「ゆずり」(相続)である。[/aside]

このように約束されております。

神ご自身が、あなたへの「割り当て」であり、あなたへの「ゆずり」であると、このようにレビ人たちは約束されたということであります。

彼らは土地を持っていなかったんですね。所有地を与えられませんでしたが、でも神ご自身が彼らの生活の必要を全て満たしてくださるとの約束でありました。詩篇の著者はこの箇所において、あのレビ人たちと同じような信仰を、ここで表明しているということが言えると思います。「主は私への割り当てです」、このように告白できて本当に素晴らしいなと思いますし、そのような約束が与えられていることを彼は本当に喜んだと思います。

でも実は彼は正直不安だったんではないでしょうか?

神様のことを疑っているわけではありません。神様のことを心から信頼していました。でもそれでも本当に大丈夫だろうかと、心の深いところでは不安な気持ちを彼は抱えていたのではなかっただろうかと思います。58節その続く58節において彼はこのように祈ってます。

[aside type=”boader”]私は心を尽くして、あなたに乞い求めます。み言葉の通りに、わたしを憐れんでください。[/aside]

このように祈っている祈りが記されています。これは彼の心を尽くしてのお願いでした。彼の心からの求めでした。み言葉の通りにわたしを憐れんでほしいと、彼は切にここで祈っているということがわかります。

その前の57節の2番目の行の所では彼は、

[aside type=”boader”]私はあなたのみ言葉を守ると申し上げました。[/aside]

と、このように告白しております。

ここで彼は、私はあなたの御言葉を「守る」とは言わなかった。「守ると申し上げました」、ちょっと遠慮気味に言っているかなと思いますね。

彼のうちに、おそらくあなたのみ言葉を、「守る」、「守りたい」、その願いはあるんだと思いますね。あるんだと思うんですけれども、しかしみ言葉を守りたいと願いながらも、なかなか守り切れない自分の傾向、弱さも意識していたのではなかったでしょうか。

感謝なんですね。約束が与えられて感謝なんです。そして本当にそれを信じるんです。信じたいんです、でも信じきれないという、そういう彼の想いがここに現れているんではないかなと思いますね。

そのように祈っているうちに、彼は自分の歩みを整える必要も感じたようです。59節をお読みいたします。

[aside type=”boader”]私は、自分の道を顧みて、あなたの智(サトシ)の方へ足の向きを変えました。[/aside]

彼自身の歩みの中に、彼のその時の状態の中に、神様の前でふさわしくない部分があったということに、彼は気づいたようです。彼は自分の道を顧みて、「神の智」の方へと足の向きを変えました。すぐに軌道修正を行って、自らを整えているということがわかります。 そのように 祈りの中で神様に導かれていることが分かります。

私たちも神様を信じていますね。そして神様に信頼しています。み言葉が真理であるということを私たちもみんな信じています。でもそれでも、私たちは時々不安になることがあるのではないかなと思います。神様を疑っているわけではないんです。私たちも神様のことを信頼しているんです。そして本当に神様は私たちの必要を満たしてくださる方であると告白するんですね。でも正直心配になる事があるんではないでしょうか。本当に生活は守られるんだろうか?本当に神様は満たしてくださるんだろうか?明日からどうなるんだろうか?この先どうなっていくんだろうか?誰が助けてくれるんだろうか?

色々考え始めたら、次々心配事が頭をよぎってしまって、そして本当に不安に心が囚われてしまうことがあるのではないでしょうか。私たちは信じているんですけれども、神様はそのような方であるということを信じているんですけれども、でも信じきれないという、そういう傾向と言いますか、課題をみんな抱えているんではないでしょうか。

そんな時に、私たちもこの詩編の著者のような祈りが必要なのではないでしょうか 。

彼は祈りました。

[aside type=”boader”]私は心を尽くして、あなたに乞い求めます。み言葉の通りに、わたしを憐れんでください。[/aside]

このように彼は祈りました。

私たちにも憐れみが必要ではないでしょうか。神様の憐れみを求めるものでありたいと思います 。

神様は私たちへの「割り当て」です。私たちの必要を全て満たしてくださる方です。私たちの必要に応じて、ちゃんと神様は私たちに「割り当て」を与えてくださる方です。

不信仰な私たちのその思いをも、神様はしっかり受け止めて、整えてくださいます。

そして主に寄り頼む者へと私たちを引き上げてくださる。そのようにして私たちも心から、「主は私への割り当てです」と告白するものに変えられていく、そのような神様の導きがあることを私たちは覚えたいと思います。主に本当に心を注ぎ出して祈るものでありたいと思います。

2.悪しき者の網が私に巻き付いても

さて私たちの不安な時というのは、私たちがなかなか正常な判断ができずに騙されやすい時ではないでしょうか。私たちの不安な時というのは私達、非常に注意が必要だなと思います。どうしてかと言うと、私たちの敵がその不安をかきたてて、私たちを神様から引き離そうとするからであります。そんな誘惑を詩編の著者もこの時感じていたということに私たちは気づかされます。61節の言葉をお読みいたします。

[aside type=”boader”]悪しき者の綱が私に巻きついても、あなたのみ教えを私は忘れませんでした。[/aside]

「悪しき者の綱が私に巻きついても」このように彼はここで告白をしています。

悪しき者の綱とは、悪しき者が仕掛けてくる罠であったと考えられます。詩編の著者はこの時、罠を仕掛けてくる悪しき者の危険にさらされていたということ、その危険を彼が意識していたということであります。しかし彼はそこでどう対処したでしょうか。

彼はこのように告白しました。

[aside type=”boader”]あなたの御教えを私は忘れませんでした。[/aside]

悪しき者の綱が私に巻きついても、そのような状況が起こっても、あなたの御教えを私は忘れませんでした。そのような攻撃にさらされているという現状は変えられないと思います。その状況を取り除くということは困難だったと思います。

しかしその中にあって彼が大切にしたこと、それは神様の御教えを忘れないことでありました。もし御教えをこの時忘れてしまったならば、もっと恐ろしいことになってしまうということを、彼は自覚しておりました。自分の気持ちにとらわれて、感情的になったり、神の恵みを失って攻撃的になったり、もっと恐ろしい結果になり、神様からすっかり離れてしまうということを彼は知っていました。そうなってしまったら、まさに敵の思うツボです。

そうならないように、彼は必死になって、みことばを忘れないで、み言葉にしがみついて、より頼んでいる姿がここに表されております。

私たちも敵の攻撃にさらされております。そしてその敵というのは非常に狡猾で巧妙な敵ですね。罠を仕掛けてくる敵です。そしてその敵は私たちの弱点をよく分かっているんですね。私たちのどの部分を攻撃し、どのように誘惑すれば、私たちの心が不安でいっぱいになるか、そして神様を忘れて信仰を失ってしまうのか、ということを私たちの敵はよく知っているんですね。そのような現実を変えるのはなかなか難しいかもしれません。私達は、いつでもそういう攻撃にさらされている、誘惑されている、霊的な色々な戦いを経験します。その現実は変えられないかもしれない。

しかしその中にあって、私たちが大切にしなければいけないことがあります。それはみことばを忘れないことです御言葉にしっかりとしがみつくことです。御言葉により頼むことです。もしそれを忘れてしまったならば、私たちはすぐに自分の気持ちにとらわれてしまいます。そして攻撃的になったり、感情的になったり、結果的には神様を見失って神様から離れてしまう、信仰を見失ってしまうという結果になってしまうんではないでしょうか。御言葉は私たちを守ってくれます。この詩編の著者のように私の境遇は変えられないけれども、いろんな戦い、攻撃そのものにさらされますけれども、私たちはしっかりと御言葉にしがみついていくものでありたいと思います。

さらに次の節を読むと、この詩編の著者が真夜中に目を覚ましてしまうことがあったということに気づかされます。「真夜中に、私は起きて」ってそれに書いてますね。どうして真夜中に彼は目を覚ましてしまったんでしょうか?おそらく不安になったからではないかと想像します。皆さん夜よく眠れているでしょうか。よく眠れているという方は幸いな方だと思いますが、私達は時々眠れない夜を過ごしてしまうことがありますね。つい目が覚めてしまって、その後ずっと眠れない夜を過ごしてしまうということが時々あるんではないかと思うんですね。

どうして目が覚めてしまうんでしょうか。それは心が不安だからではないかと思いますね。心がそわそわしているから、そして心配事があるから、私たちはつい目を覚ましてしまう、そういうことがあるんではないかなと思います。この詩編の著者も心配事があったようで、真夜中に目を覚ましてしまいました。

がしかし、彼はそこで何をしたでしょうか。62節にこう書いてあります。

[aside type=”boader”]真夜中に、私は起きてあなたに感謝します。あなたの正しい裁きのゆえに。[/aside]

彼は真夜中に目が覚めてしまいましたけれども、起きてしまったんですけれども、でもそこで神様に感謝したと告白をしております。

どうして神様に感謝できたんでしょうか。「あなたの正しい裁きのゆえに」と、ここで彼は告白をしております。彼は、夜中に目が覚めて眠れない状態の中にあって、神様のことを考えたということですね。神様が共にいてくださるということ、彼のその不安になっている心を、主がしっかりと受け止めてくださっているということを意識しました。しかも主が最善の結果に導いてくださるということ、主の裁きは正しいということを、身をもって彼は信じたんですね。それゆえに彼は抱えている心の重荷を主に委ねることができました。第一ペテロの手紙の5章7節にこのような言葉が記されています。

[aside type=”boader”]あなたの思い煩いを一切神に委ねなさい。神があなたのことを心配してくださるからです。[/aside]

このように記されてますね。私たちを取り巻く現実や環境、境遇は、なかなか変えられないものです。その中にあって思い煩うことの多い私たちだと思います。それはもう変えられないかもしれない。しかしそんな時に大事なことは御言葉を忘れないこと、御言葉にしっかりと留まるということ、そしてその御言葉を通して語られている神様を仰ぐということ。神様は思い煩っている私たちのことを心配してくださる方であると聖書に記されてあります。その後、そこから最善の結果に導いてくださる方です。主の裁きは正しいんですね。そのような御言葉の励ましを得て、私達は初めて主に委ねることができるのではないでしょうか。私たちの抱えやすい課題の一つは、なかなか主に委ねることができないっていうことにあるんじゃないかなと思うんですね。私たちはみんな信じてるんですね。神様を信じています。イエス様を信じています。信頼してます。そして御言葉が確かだってことも分かっている。

信じているのに信じきれない、委ねたいと願っているのに委ねることができない、自分の手の中に握っているものをなかなか離すことができない。そういう傾向、そういう課題を私たちは抱えやすいんではないかなと思うんですね。

どうして委ねることができないんでしょうか?どうして手に握っているものを離すことができないのでしょうか?

それは本当に深いところに不安があるからじゃないかと思うんですよね。本当に深いところに不安があるために、なかなか委ねることができない、手放すことができない、そういう戦い、葛藤を私たちは経験することがあるんじゃないかなと思います。

でもその不安に思っているその部分で、もし私たちが神様を覚え、神様を仰ぐことが出来たならば、主が私たちのことを心配してくださっている、その不安を全部受け止めてくださっているその、その主が共にいてくださるということを、私達が知ることができたなら、私たちはそこで委ねることができるんではないでしょうか。そこで主を仰ぎ、本当に感謝することができるんではないでしょうか。眠れない夜が感謝の夜に変えられていくのではないでしょうか。辛い状況の中にも賛美が生まれてくるのではないでしょうか。

そのようにして神様が、私たちを御言葉によって導いてくださる方だっていうことを今日の箇所をとおして覚えるものでありたいと思います。

この詩編の著者も、本当にこのようないろんな境遇の中で、色んな戦いを覚える中で、色んな不安を覚える中で、でも御言葉によって神様を仰ぎ、そこで神様と出会ってゆきました。その事によって本当に彼は神様に感謝し賛美する人に変えられていったということを、私たち覚えるものでありたいと思います。みことばによる励ましを与えられながら、彼は与えられているめぐみに気づき始めました。それまでは抱えてる問題しか目に見えない、そして本当にその苦しみしか目に見えなかったんだと思いますが、でも実はもうすでに与えられている神様の恵みがあるということに気づき始めている。そのことが63節64節を読むと気づかされるのではないかと思います。63節で彼はこのように告白しました。

[aside type=”boader”]私は、あなたを恐れるすべての人、あなたの戒めを守る人たちの仲間です。[/aside]

彼はここに来て仲間たちの存在を意識して、「仲間」っていう言葉が初めて出てきましたね、詩編119編の中で。今まで何か一人で戦っていたような、孤独の戦いを強いられていたような、もちろん神様との関係がありますから、ずっとそれによって支えられていたと思いますけれども、ここにきて彼は仲間たちの存在を意識しているって事が分かるんですね。

彼は一人で孤独な戦いを強いられていたわけではありませんでした。彼と同じように神を恐れ、神の戒めを守る仲間たちがいたんですね。その仲間の存在によって、彼は支えられていた。そんなめぐみがすでに与えられていたということに彼は気づいたわけであります。

教会の恵ってどういうところにあるんでしょうか?教会のめぐみめぐみはもちろん、神様とお会い出来る事ですよね。教会に来ると、神様とお会いすることができます。神様を礼拝することができます。それが何よりの恵みです。それが一番の恵みであることに変わりはありませんけれども、でもそれだけではないような気がしますね。

同じように神を畏れ、神の戒めを守る人たちと私たちは出会うことができる。そのような兄妹姉妹との交わりによっても、私たちは支えられているのではないでしょうか。その恵みがもうすでに神様から与えられているのではないでしょうか。孤独な戦いを強いられているわけではないのではないでしょうか。互いに分かち合ったり祈りあったりすることのできる仲間たちがいるのではないでしょうか。それは主の恵みだと思いますね。そのことを私たちは感謝したいと思います。

3.地はあなたの恵みに満ちている

そのようにいったん神様の恵みに気づき初めて開かれた彼は、またさらに神様の恵みに開かれていくということがわかる。64節、

[aside type=”boader”]主よ、地はあなたの恵みに満ちています。あなたの掟を私に教えてください。[/aside]

彼の目は、地に広がっていったということがわかります。地は神の恵みで満ちています。見渡すと神様の恵みだらけです。空も海も宇宙の星たちも、動物たち、空の鳥たち、海の魚たち、野の植物たち、被造物はみな神の恵みで満ちています。神様から与えられた役割をちゃんと果たしながら、造り主なる神様を賛美しています。地は恵みに満ちてるんですね。

ところがその中にあって、人間だけが神の恵みを見失っている。そして人間だけが神を忘れ、思い煩いにとらわれ、思い悩んでいるのではないか、そんなことに彼は気づかされたんではないかなと思いますね。しかし彼は、御言葉の導きの中で、神様との出会いを経験し、そして与えられためぐみに気付き始め、見渡したらもう恵だらけだ、神様の恵みが満ちている、そのようにして被造物と共に、彼も神様と出会って整えられて賛美を始めている。そのような姿がここに示されているのではないでしょうか。

4.結び

今日、神様は私たちの「割り当て」である、私たちの必要を満たしてくださる方であるっていうことを覚えたいと思いますね。私たちの霊的な必要、精神的な必要、そして肉体的な必要、経済的な必要、私たちはいろんな必要を覚えます。でもみんな神様が満たしてくださる。その恵みが溢れているっていう事を覚えたい。

でも私たちは時々その恵みを見失ってしまいますね。多くの障害があって、私たちは神様の恵みを見失ってしまいます。私たちの不信仰のゆえ、弱さのゆえ、罪深さのゆえ、また私たちが直面している問題の深刻さのゆえ、あるいは悪しきものの存在の故、私たちは与えられてる恵をすぐに見失ってしまう。そして信仰を失い、神様から引き離されてしまう思い煩うことのなんと多い私達ではないでしょうか。

 

でもその中にあって、私たちが大切にしたいことは、詩編119編の著者のように、御言葉を守ることですね。そして御言葉に留まること、み言葉を忘れないこと、そしてそこに表されてる神様を仰ぐ事、神様と出会うこと、その時に私たちにも、もう一度、地は恵で満ちていると、そのような告白を与えてくださるんではないでしょうか。そのようにして主が私たちを御言葉によって導いてくださることを信じ、この方に信頼していきたいと思います。

どうか曇ってしまっている私たちの心の目が、本当に開かれますように、そして御言葉の導きの中で、神様の恵みをいつも覚えながら、感謝と平安のうちに歩んでいく事ができるように、そのために私たち御言葉をしっかりと守っていきたいと思います。

 

お祈りをしたいと思います。愛する神様。本当にあなたの恵みはいつも十分にあります。神様の恵みが溢れている、注がれているのになんと私達は思い煩うことが多い私たちでしょうか。お許しください。私たちの不信仰をお許しください。どうか憐れんでください。そのような不信仰の私たちを助けてください。しかしあなたは御言葉を私たちにくださっています。御言葉を通し私たちを引き上げ、整え、導いてくださる方であることを覚えて感謝いたします。どうかもう一度私たちを御言葉によって整えてくださり、あなたの恵みに気付かせてくださり、めぐみに生かしてくださるように導いてください。与えられた御言葉によってこの一週間も歩み出していきたいと思います。どうぞ一週間の歩みを支え導いてください。感謝します。主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

 

私の旅の家での私の歌

詩篇119篇49~56節

詩篇119篇の 今日は第7段落目に入ります。先週の6段落目の主なテーマは、「恵み」というテーマでした。恵みが神様からもたらされる祝福であるということを前回、ともに確認することができました。今日の段落では「慰め」について教えられているということがわかります. 詩篇の著書は50節と52節で「慰め」について語っているということがわかります。

神様の恵みを、私たちが一番深く感じることができるのはどんなときでしょうか?

それは、私たちの悩みの時、苦しみの時に私たちが「慰め」を経験する時ではないでしょうか。今日私たちは主なる神様が、私たちをみ言葉を通して慰めてくださる方であるということを覚えたいと思います。

1.苦しみ

50節で詩篇の著者は、「これこそ悩みの時の私の慰め」と告白をしております。この詩篇の著者が、この時に悩んでいたということがわかります。彼は一体何を悩んでいたのでしょう?51節に少しそれがわかるかなと思います。

[aside type=”boader”] 高ぶる者はひどく私を嘲(あざけ)ります。しかし私はあなたの御(み)教えからそれません。[/aside]

 このように告白をしています。このとき彼は「高ぶる者」と呼ばれる人に嘲けられていたということがわかります。しかもそれは、「ひどく私を嘲けります」と語られていますので、その嘲りはとても酷いものだったということがわかります。そんなことを経験する中で彼は続けて、「しかし私はあなたの御教えからそれません」と告白をしております。彼自身がそのような嘲りの中で、決して御教からそれることがないようにと、必死に御(み)言葉にしがみついている様子が感じられると思います。そして逆を言うならば、もし御言葉がなければ、すぐにでも御教からそれってしまう危うさを彼は感じていたということであります。さらに53節を読むとこんなことも出てきます。

[aside type=”boader”] 悪しき者、あなたの御教えを捨てる者のゆえに、激しい怒りが私をとらえます。[/aside]

 ここまで彼の激しい感情が、ストレートに表されている言葉は、詩篇119篇の中で初めてじゃないかなと思いますね。彼は悪しき者の、特に「神様の御教えを捨てている姿」に激しい怒りを覚えているということがわかります。彼は御言葉に信頼し、より頼みながらも、いつも冷静だったわけではないんですね。激しい怒りに彼の心が捉えられてしまうこともあったということがわかります。このように彼は高ぶる者、悪しき者からぶつけられる嘲りや誹りに苦しんでいたということが言えると思います。

 でも彼のもっと深いところに、もっと深い苦しみがあったんではないだろうかと思うんですね。それは何かと言うと、彼がみ言葉の通りに生きることができない苦しみ、すぐ自分の思いにとらわれてしまう苦しみ、そして結果的に神様の恵みをすぐに忘れてしまう苦しみ、自分が自分であることに対する苦しみというものを、彼は深いところで悩んでいたのじゃないかなという風に思うんですね。彼は49節でこういう風に祈っています。

[aside type=”boader”] どうか、あなたの僕への御言葉を、心に留めてください。あなたは、私がそれを待ち望むようになさいました。[/aside]

 「どうかあなたの僕、つまり、彼自身への御(み)言葉を、[emphasis]神様が心に留めてくださいと[/emphasis]祈っている、お願いしている祈りであるということがわかります。

このみ言葉を今回私は読みまして、私は果たしてこのように祈った事があっただろうかと考えさせられました。

「神様に対する私の言葉を、あなたが心に留めてください」と祈ることはよくあると思うんですね。「私が祈る祈りの言葉に、神様、どうか耳を傾けてください。」と祈ることは、よくあると思うんです。

ところがこの彼の祈りは、あなたの僕へのみ言葉、つまり神様がこの自分に語ってくださった言葉を、自分ではなくて、あなたの心に留めてくださいという祈りなのですね。

神様が彼に語ってくださった言葉を、「神様ご自身が覚えていてください」というそういう祈り、とても不思議な祈りではないかなと思いました。このような祈りが聖書に記されているということを知らされて、今回私は、非常に新鮮な発見をしたような気持ちになりました。

彼はせっかく語られた御言葉をすぐに忘れてしまう、せっかく与えられたみ言葉をすぐに見失ってしまうという自分の傾向を意識していたのではないでしょうか。せっかく語られたみ言葉を心の中にとどめておくことができずに、すぐに御言葉からそれてしまう自分の弱さを彼は自覚していたのではないでしょうか。み言葉がいつも自分のうちに留まり、そしてその中を歩み続けるために、神様の最善の導きがなければならないということを彼は自覚していたのであります 。彼は続けて語っていますね。「あなたは、私がそれを 待ち望むようになさいました」。もしそこに、神様がそのみ言葉を、私の中に留めてくださらなければ、もし神様の助けが私の なかに無ければ、神様の御言葉を待ち望むこともできないような 、そんな弱い自分を意識している。み言葉を待ち望むことができるのは、まさに神の助けがあったからであるという信仰が、ここに告白されているということを私たちは教えられます。

私たちは「待ち望む」っていうことがとても苦手ではないかなと思います。すぐに結果が見たいんです。すぐに結果が出ないと、せっかく神様からみ言葉が与えられているのに、約束されているのに、その約束を待ち望むことができないのですね。結果的にせっかく与えられていたみ言葉が見えなくなってしまう。与えられた恵みを忘れてしまう。そういうことが起こりがちではないだろうかと思うのですね。私たちもこの詩篇の著者のような祈りが必要ではないでしょうか。「どうかあなたの僕への御言葉を、心に留めてください」と祈る必要があるのではないでしょうか 。私達が御言葉を待ち望むために、神様の助けが必要です。主に祈りつつ、より頼みながら神様の助けを頂いて、私たちはみ言葉を待ち望む者とされていきたい、そのように私達は主に祈り信頼するものでありたいと思います。 

 2.慰め

さて詩篇の著者は、悩みの中で人から受けるそしり、嘲り、いろんな悩みがあります。そしてそれを受け止めきれない自分自身の悩み、いろんな深い悩みの中で慰めを見出したんですね。み言葉によって慰めを見出したのです。その慰めて、いったいどんな慰めだったんでしょうか?

その慰めの中身についても次に考えていきたいと思います。

第一番目にそれは、自分の悲しみを理解してくださる神様が、「共にいてくださる」という慰めでありました。「慰め」と訳されているこの言葉は、「ナハーム」というヘブル語の言葉ですけども、これは、もともとは、「悲しみ」と訳されることの多い言葉なのですね。つまりこの慰めっていうのは、彼が抱いている悩み、悲しみに対する、共感がもたらす慰めであるということが言えると思います。その悲しみの中に慰めがあるのですよね。悲しみから離れたところに慰めがあるのじゃないんです。

その悲しみの只中に慰めがある、それはどういうことでしょうか?神様が彼のこの体験していた悩み、悲しみ、苦しみをしっかりと知っておられ、受け止めてくださり、共感してくださるということ、その神様が、彼のその悩みのその場所に、そのところに共に居てくださるということ、そこから来る慰めであるということ、そのことを私たちに教えています。これが彼にとっての慰めでありました。

パウロも第二コリントの手紙の15節で、「慰め」について教えていますけども、その箇所でこういう風に語っています。第2コリント15節をお読みいたします。

[aside type=”boader”] 私たちにキリストの苦難が溢れているように、キリストによって私たちの慰めも溢れているからです。[/aside]

そのように教えられていますよね。私たちの悩み苦しみの時に、私たちの慰めが溢れると教えられている。それはどうしてなのでしょうか。

それはその悩み苦しみが、キリストの苦難だから、キリストもその悩みを知っていますね。キリストもその悩みを体験されました。その苦しみを味わわれました。そのキリストが私たちの悩みの時に共にいてくださるんですね。それをしっかりと理解してくださるんですね。そこに慰めが溢れるということを、私たちは信仰生活の歩みの中で教えられていく。体験させられていくんではないだろうかと思います。

私達時々悩んだり苦しんだりしているとき、人から怒られてしまうことが時々あるかなと思うんですね。そんな小さなことで悩んでいてどうするんですかと言われたりとかですね、あの人はあんなに頑張っているんですよって、人と比較されて、叱咤激励されたりする時もあるかなと思いますね。そういう時、もしかするとあんまり慰めにならないかなという感じがしますね。むしろどんどん苦しくなってしまう。悩みが深くなってしまうということもあるかなと思います。

私たちの「慰め」というのは、キリストからきます。キリストの苦難が溢れるところに、私たちの慰めも溢れるということ、そのことを私たちは共に覚えあい、またこのみことばによる慰めを豊かに経験していくものでありたいと思います。

 

二番目に、彼の経験している慰めとは、彼がみ言葉を通して、さばきを心に留めた」ことの結果であったということが言えると思います。52節の御言葉をお読みいたします。

[aside type=”boader”] 主よ、私はあなたのとこしえからのさばきを心に留め、慰めを得ます。[/aside]

 このように語られています。彼が慰めを得た、慰めを得ますと、彼が語っていたその理由は彼が神のとこしえからのさばきを心に留めたからだったということがおしえられていることです。

さばきは主から来ますね。神様から来ます。公正なさばきは神様から来ます。今がその時ではないかもしれません。今はこの世の矛盾の中に巻き込まれ、理不尽で不当な全く理解できないような体験を強いられているかもしれません。でも神様は、いずれ公正な裁きをされるんですよね。その時に全てが明らかにされるんです。隠されている罪も全部明らかにされます。そんなとこしえからのさばきを、心に留めることによって、私たちは慰めを得るということ、そのことを聖書は教えております。ローマ人への手紙1219節は、このように教えています。

[aside type=”boader”] 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに委ねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」[/aside]

そのように教えられていますね。私たちは時々、復讐したくてしょうがなくなることがあるのですよね。なにか言われたり嘲られたり馬鹿にされたりしたとき、心が煮えくり返って何か言い返したいという怒りや憤りに囚われてあって、自分でその相手をさばきたくなってしまう。しかし心に平安はなく、ますます問題が複雑になってしまう。そういうことを日々の歩みの中でたくさん経験しているのではないでしょうか。でも聖書は教えているのです。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに委ねなさい。復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」神様が必ず公正な裁きをなさいます。その時が必ずやってきます。だから神様にゆだねなさいと聖書は教えているのですね。

その御言葉に立ち止まるとき、「すべて神様にお任せすればいいのだ」と、私たちは平安を得るのではないのでしょうか。自分でどうすることもできないいろいろな気持ち、感情、それをみ言葉によって本当に鎮めていただき、慰めをそこでいただけるのではないでしょうか。神様はそのようにして私たちを、御言葉を通して慰めてくださるということを覚えたいと思います。

安倍前首相が殺害されるという、とても恐ろしい事件が起きて、そしてその日、そのような暴挙に出た容疑者あるいは犯人のその動機の解明というのが、今、少しずつなされているようです。これからいろんなことが見えてくるのかもしれませんけれども、でもどうやら彼の中に恨みを晴らしたいっていう、そういう強い感情が蠢いていたようだということが、いわれております。その恨みを晴らす対象が、どうして安倍元首相だったのか?どうもその辺がちょっとまだわからないところですけれども、でも彼の中に人生をめちゃくちゃにされたという本当に自分ではどうすることもできない深い嘆きと、怒りと、憎しみが渦巻いていたんじゃないかなと思うんですよね。そしてそのような大きな事件にならなかったとしても、同じような感情を抱き自分ではどうすることもできないような怒り、憤り、恨みを募らせている人々が、もしかすると今の世の中にたくさんいるのかなということを考えさせられる事件だったなという風に思います。

そのような人々を慰める慰めって、どこから来るのでしょうか?人の言葉ではとても慰めることができないように思いますね。自分で自分を慰めることもできないような気がしますね。誰も慰めることができない。誰が慰めることができるんでしょうか?
私たち聖書を通して、主が慰めを与えることができる方なのだってことを覚えたいなと思うんですよね。主の豊かな臨在を通して、本当にその誰も理解できないような深い悩み、苦しみを主だけはしっかりと受け止めてくださるという、その豊かな主の臨在をもって、そして自分では制することができないような、いろんな感情をコントロールできないような思いも、神様が全部公正な裁きを下してくださるというその確かな約束によって、私たちは慰めを得るんじゃないだろうかと思うんですね。本当に今この時代の中にあって、私たちは福音を語って行かなければいけない、御言葉を伝えていかなければいけないと思います。私たちは、神様は御言葉によって慰めてくださる方であることをぜひ覚えようではありませんか。

私たちはまずはこの主によって慰められるものでありたい。御言葉によって、みことばのうちに、豊かに主の慰めを味わわせていただいて、そしてこれこそ悩みの時の私の慰め、真にあなたの御言葉は私を生かしますと、そのように告白するものでありたいと思います。

3.これこそ

今日の段落7段落目の中で一つ、とりわけ印象的な言葉があると思うんですね。
それは、「これこそ」

っていう言葉です。50節で彼は、

「これこそ悩みの時の私の慰め」

と言っていますね。56節でも

「これこそ私のもの。私があなたの戒めを守っているからです」

と言っています。

この「これこそ」っていうその部分に、いかに彼がみことばに信頼し、御言葉に生かされていたかっていうことを感じさせられる、そういう表現ではないかと思います。
創世記2章で最初の人、アダムが初めてエヴァと出会った時に、そこで彼が口にした言葉は何だったかみなさん覚えておられるでしょうか。アダムは最初、ひとりぼっちだったんですね。心細かったのではなかったかと想像します。周りを見渡すと動物たちは、皆オスとメスでペアでいるんですよね。それなのにアダムには協力者がいない、パートナーがいない。人生を分かち合う人が誰もいない。寂しかったんじゃないかなと想像します。でもあるとき神様は、アダムに深い眠りを与えられました。そしてその眠りから目が覚めて起き上がった時に、何とそこにエヴァがいたんですね。女の人がいたんです。で、その時に彼は言ったんです。
「これこそ」って言ったのですね。

[aside type=”boader”]これこそついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名付けよう。男から取られたのだから。[/aside]

このように告白したと創世記2章に記されてあります。この「これこそ」という部分にアダムがエヴァと出会えた時の感動と喜びが、豊かに表されているのを私たち感じます。そしてそれと同じ感動と喜びが、今日の聖書の箇所においても表されているのではないでしょうか。詩篇の著者も言ったんですね。50節、

[aside type=”boader”]これこそ悩みの時の私の慰め。[/aside]

これこそ私のものって、もう本当に御言葉が大好きで、もう御言葉を誰にも奪われたくないという強い彼の気持ちが、この「これこそ

っていうとこに表されているように思うんですよね。
さらに54節で、彼はこんなことも言っていますね。

[aside type=”boader”]あなたの掟は、私の旅の家で、私の歌となりました。[/aside]

彼は「私は、地では旅人です」と、19節で告白しておりました。彼は天の御国を目指して旅をしている旅人なんですよね。この世に頼れるものは何にもないんです。この世に仮に家を建てたとしても、その家も仮の住まいでしかないんですね。でもその彼が唯一頼りにしたものがあったんです。それが御言葉だったんですね。神様の掟だったんです。その御言葉でした。

そしてそれだけ彼は御言葉に導かれる人生の喜びを知りました。結果的に彼は歌い始めるんですね。歌う旅人になるんです。神様の掟が、その御言葉が、彼の旅の家での彼の歌になったんです。彼の口にはいつも神様を讃える賛美の声がありました 。

 言葉に導かれていく人の姿が、ここに示されているということを覚えたいと思います。

4.結び

私たち日々の歩みの中で、「これこそって言っているでしょうかね。

御言葉が「これこそと言えるだけの感動と喜びになっているでしょうか。それだけ私たちの歩みが、御言葉によって支えられ導かれたものとなっているでしょう。かあるいは御言葉が私たちの旅の家での私の歌になっているでしょうか。いつも私たちは御言葉を口ずさんでいるでしょうか。そして御言葉によって私たちの魂が揺さぶられ、そして御言葉によって本当に深い恵みを味わいながら、本当に神様の恵みに感謝し賛美しているでしょうか。
神様は、私たちをあらゆる境遇を用いて、御言葉により頼むものにしてくださることを覚えたいと思います。どんな状況の中にも主が共におられることを覚えようではありませんか。特に私達の悩み苦しみの時に、主がそこにいて、御言葉を通して、私たちを慰めてくださる恵を味わおうではありませんか。そしてそのようにして私たちは、歌いつつ歩みながら、歌う旅人にされていくその恵みを、今日も明日も味わっていくものでありたいと思います。

お祈りをいたします。

愛する神様。御名を賛美いたします。私たちの悩み苦しみの時、そして誰にも理解されないような孤独の時にも、主はそばに居て、その悩みをしっかりと受け止めて下さる方であることを覚えて感謝します。自分ではとても制することができないような、激しい気持ちに捉えられる時にも、あなたが御言葉を通して私たちを鎮めてくださる方であることを感謝します。私たちも、どうかあなたの御言葉を待ち望むことができるように、あなたの御言葉が、私の中にいつも留まるように、どうぞ主が覚えていてくださるようにお願い致します。そのようにして私たちが、御言葉に支えられ、そして御言葉を口ずさみながら、歌う旅人として成長していくことができますように。御言葉を感謝します。尊い主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

 

あなたの救いが、みことばのとおりに

詩篇119篇41節から48節

1.もたらされる恵み

まず私達が今日注目したいのは、「恵み」という言葉が語られていることであります。41節で詩篇の著者はこのように祈っております。

[aside type=”boader”]「主よあなたの恵みが私にもたらされますように。あなたの救いがみ言葉の通りに[/aside]

聖書の中で一番大事な言葉の一つだと思います。この「恵み」という言葉が、詩篇119篇の中ではここで初めて語られております。何故ここで「恵み」が語られたでしょうか。そのタイミングにも私たちは注目したいと思います。

この詩篇の著者はここに至るまで、神様のみ言葉を切に求めてきました。そのような強い想いの裏側には、自分の無力さに対する失望があったと思います。神の祝福の道を歩みたいという願いがあるのに、つい自分の偽りの道に戻されてしまうという不安を彼は抱えていました。み言葉が大好きです。み言葉を大切にしています。その大切さを理解しています。み言葉をしたい求めているのに、すぐに不正に傾いてしまったり虚しいものに目を留めてしまう傾向が、自分の中にあるということを彼は意識しています。40節の最後の言葉で彼は、

[aside type=”boader”]あなたの義のわざにより私を生かしてください。[/aside]

と祈っています。自分の力や努力ではとても神様の祝福の道を歩んでいくことができないという自分の限界を、彼はよく分かっていました。ただ神様の義の技によってのみそれが可能になるということを彼はわきまえていました。

何が必要だったんでしょうか?それを可能にするのが「恵み」であったということであります。ですから彼はここで、「主よ、あなたの恵みが私にもたらされますように」と祈っています。どうしても、彼にはめぐみが必要なんですよね。恵にすがらざるを得ない状態であったということであります。

この彼の言葉、祈りの言葉から、私たちは改めて「恵み」というものは、「もたらされるもの」であるということが分かるんじゃないかと思いますね。本当にそうだと思います。恵みというのは、私たちが自分の努力で獲得するものではないですね。神様からもたらされるものです。私たちに対して神様から一方的に与えられるものです。それが「恵み」です。

しかも私たちの状態に関係なく、私たちの持っている長所とか、能力とか、価値とか、そういうものに関係なく与えられるものです。

そして神の「恵み」に、実は私たちは全く値しないものであるにもかかわらず与えられるのが、恵みであります。ただ一方的に神様から注がれる愛、これが「恵み」であるということです。

私たちが今礼拝をしている神様、私たちの信じている神様は、恵み深い方であられます。そしてヨハネの福音書の中に記されていますけれども、イエス様によって「恵み」と「誠」は実現したとそのように記されてますね。イエス様が罪人である私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。そのイエス様を信じる信仰によって、私たちは罪が赦されて救われました。神の子供とされました。そしてそれ故に、今、私達は生かされている。今、私たちは神の家族の一員になりました。これらすべては「恵み」です。神様からもたらされたものです。私達の努力で勝ち取ったものではないんですよね。それゆえに今、私たちは生かされている。今の私たちがあるのは、生かされているのは、ただ「恵み」のゆえであるということ。この詩篇の著者が語っている通りに「恵み」というのは、もたらされるものですね。そしてその恵みというのは、それは「救い」です 。

そしてみ言葉の通りに私たちにもたらされるもの、その与えられている恵みを私たちは決して忘れてはいけない。そして決して無駄にしてはいけない。そのことを改めて私たち今日確認するものでありたいと思います。

2.恵みをはばむもの

ところが、このような多大な恵み、有り余るほどの恵み、そして驚くべき恵みを私たちは与えられているにもかかわらず、私たちはその恵みを時々忘れてしまうことがあると思います。神の恵みによって神様に受け入れられているということを、信じることよりもむしろ、自分の努力によって、神様との関係を勝ち取ろうとしてしまうことが、私たち時々あるんではないかと思うんですね。私たちは時々、自分の行為、自分の能力、自分のふさわしさによって、神様に受け入れていただきたいと願ってしまうことがあるのではないかと思います。そのような性質が、私たちの中にしっかり染み付いていて、取り除くことができないために、せっかく与えられている恵みを忘れてしまったり、台無しにしてしまったりすることがあるのではないかと思うんですね。

42節を読み進めていきたいと思います。42節でこの詩篇の著者はこのように語っています。

[aside type=”boader”]そうすれば私を謗る者に対して、言い返すことが出来ます。私はあなたのみ言葉に信頼していますから。[/aside]

この言葉を読んで、この詩篇の著者は、「そしられて」いたんだなっていうことが分かるんですね。「そしられる」っていうのはどういうことでしょうか。それは「けなされる」とか非難されるとか、悪口を言われるとかという意味の言葉だと思います。皆さんもきっと人からそしられたことがあるんではないでしょうか。それは非常に辛い経験だと思いますね。

非常に私たちは落ち込んでしまう、そういう経験ではないかと思うんですね。

ところがこの詩篇の著者は、「そうすれば、私を謗る者に対して、言い返すことができます」と、ここで語っています。これは復讐心に駆られて、口で攻撃できますという意味の言葉ではないんですね。これはふさわしく応答し、証言するという意味の、「言い返す」という言葉であります。「そしり」を受けて、ただ黙って耐えているのではなく、あるいは怒りにかられて攻撃的になるのでもなく、穏やかな心で、ふさわしい態度で、「そしる」人に対しても、しっかりと対応できますと、その人はここで告白しているということであります。

なぜそんなことが可能なのでしょうか?何か彼を根底から支えているものがあるという事が分かるんですね。彼はその理由として42節の最後でこういう風に言ってますね。

[aside type=”boader”]私はあなたの御言葉に信頼していますから。[/aside]

この最後の「から」が大事ですね。彼が人から誹りを受けて、そこで穏やかに対応できるのは、彼がみ言葉に信頼しているからでありました。み言葉が彼の心をしっかりと守ってくれているということがわかります。それ故に彼は43節で、

[aside type=”boader”]私の口から、真理のみ言葉を、取り去ってしまうないでください。私はあなたの裁きを待ち望んでいるのです。[/aside]

と告白をしています。真理のみ言葉が、彼にとっていかに大きな助けであったかが伝わってくる言葉ではないでしょうか。私たちも人から、「そしり」の言葉をぶつけられると、落ち込んでしまいますね。「そしられる」時って大体どういう時かと言いますとですね、それは、私たちが何か失敗をしてしまった時、あるいは相手に迷惑をかけてしまった時、自分の弱さとか不十分さが、明らかになってしまった時に、私たちは「そしられる」わけですよね。そういうことが多いわけです。そんな時に誹りを受けたらですね、私たちはみんな落ち込んでしまうし、自分に自信を失ってしまうし、自分が嫌いになってしまう人も出てくると思うんですよね。

そして私たちは時々、人だけではなく、自分で自分のことを「そしっている」ことがあるんじゃないかなと思いますね。弱い自分、かたくなな自分、人をついさばいてしまう自分、なかなか成長しない自分、役に立たない自分、そういう自分を知らされて落ち込んだり、自分を責めたり、自信を失ってしまったり、自分が嫌いになってしまったり、そういうことがあるんじゃないかと思うんですよね、、。

しかしそんな時に、私たちも、み言葉に信頼したいと思うんですね。そしてみ言葉に守られながら、私たちも「言い返そう」ではないですか。彼はここで「言い返すことができます」と言ってますけど、私たちもみ言葉に支えられながら、言い返したいんですよね。

確かに私は罪人ですね。確かに小さくて弱いです。あまり役に立ちそうにない者かもしれない。でも、こんな私を神様は愛してくださいました。こんな私のためにイエス様は十字架にかかって死んでくださいました。どうしてかわからないけれども、こんな私が、神様に選ばれて「今生かされています」と、私達は恵みの故に、み言葉に頼りながら、そのように言い返すことができるんではないでしょうか。自分をそしる者、攻撃してくる者に対して、心を騒がせることなく、「私は神様に愛されてます。神の恵みに生かされています」と、穏やかにしっかり、しかしはっきりと言い返すことができるとするならば、それはまさに神様の恵みの技であり、み言葉の導きであるということを私たちは覚えるものでありたいなと思います。

み言葉が、私たちの口を守ってくれるんですよね。心も守ってくれるんです。体もの守ってくれるんです。私たちは真理のみ言葉に支えられながら、信仰告白するものとなりたい。そのようにみ言葉の導きの中で、本当に語らせていただくものとなりたいと思います。

3.恵みに生かされる時

さてそれでは、もし私たちがみことばにより頼み、恵みによって生かされていくときに、どんなことが体験されていくんでしょうか。今日の詩篇119篇の段落の後半部分に私たちは注目をしていきたいと思います。44節を読みます。

[aside type=”boader”]こうして私は、あなたのみ教えを、いつも、とこしえまでも守ります。[/aside]

この詩篇の著者は、神様のみ教えをその時一回だけではなくて、「いつもとこしえまでも守ります」と告白をしています。み言葉に守られたり、支えられたりする経験を与えられながら、彼のみ言葉に対する信頼がますます深められているということを感じさせられる言葉ではないかと思います。そしてその彼が45節ではこのように告白をしています。

[aside type=”boader”]そして私は広やかなところに歩いて行きます。あなたの戒めを私が求めているからです。[/aside]

このように告白をしました。44節の言葉は「こうして」っていう言葉から始まってるんですね。で、45節の言葉は「そうして」って言う言葉で始まっているんですね。

これ、43節、44節、45節が全部繋がっているっていう事が分かるんですよね。これは切り離して考えることがないできないんですね。全部連続してるんですね。真理のみ言葉を取り去ってしまわないでくださいって、み言葉にすがりついてますけども、その結果どうなるかと言うと、「あなたのみ教えをいつもとこしえまでも守り ます」という告白に導かれるんですね。そしてそのみ言葉に信頼が深まっていくとどうなるかと言うと、45節、「そして私は広やかなところに歩いて行きます」と、そのように導かれていることがわかります。

以前32節を学んだ時、あの時彼は、「あなたが私の心を広くしてくださるからです」と告白をしておりました。まず彼が体験したことは、彼自身の心が広くされるということでした。ところが今日の箇所においては、彼は広やかなところを歩き始めているということがわかります。彼の心の中だけでなく、彼の現実のあゆみにおいても、彼は広さを感じ始めているということが分かるんではないでしょうか。彼の信仰が、内面で味わう精神的なものから、生き方に表される現実的なものへと変えられてきていることに私たちは気付かされるのではないでしょうか。

彼自身が、より開放されて、信仰者として心の中で味わうだけではなくて、生活の中に、生き方の中に、生き生きとその信仰が表されてきていることに、私たちは気づかされるのではないかと思うんですよね。何か彼の環境が大きく変わったわけではないと思うんですよね。彼の抱えてる問題が、何か瞬間的に取り除かれたということではないと思う。現実は変わらないけれども、でも彼はその同じところを歩いてにいるにも関わらず、自分は「広やかなところを歩いています」と実感を込めて告白することができた。

どうしてそうなったんでしょうか?

それは45節の2行目で、

[aside type=”boader”]あなたの戒めを私が求めているからです。[/aside]

と告白されております。彼は人の言葉ではなくて、神の言葉を第一に求めていました。人の前で生きることよりも、神の前で生きることを優先しました。神の言葉に対する信頼が、人々の影響から、この世の中の影響から、彼を解放し自由にしているっていう事に私たち気づかされるのではないでしょうか。

私たちの歩みが狭くなってしまう一つの理由は、私たちが人目を恐れてしまう、この世の色んな価値観に流されてしまう、そういうことがあるために、私たちはこの世が本当に狭く狭く感じて、縮こまってしまうような生き方してることが多いんではないかなと思いますね。でも私たちが本当に神の御声に生かされて、本当に神様に恵みの中で生かされていることを体験的に知って行く時に、私たちは人の前ではなくて、神の前に生きるものに変えられていくうんではないでしょうか。そのような信仰の成長というものが、私たちにみ言葉を通して与えられていくとするならば、私たちにとって本当に幸いなことではないかと思います。そんな彼の信仰が46節で更にはっきりと告白されていることがわかります。

[aside type=”boader”]私はあなたのサトシを、王たちの前で述べ、しかも恥を見ることはありません。[/aside]

たとえこの人が、王たちの前に立たされることがあったとしても、この世の権力者たちの前に立たされるようなことが仮にあったとしても、そこでも「私は神のサトシを王達に語る、そしてそこで私は恥を見ることがない」と、いかにこの人が人の目から、人の力から解放されているか、そして本当に神様の力によって生かされているかってことを感じさせられる言葉ではないかと思うんですよね。彼はもっと偉大な王を知ってるんです。

この世の権力者達も凄いかもしれません。この世の王たちも恐ろしいかもしれません。でもその上にもっと偉大な王が君臨しておられることをこの人は知ってるんですよね。そしてこの方の前で生きるということを彼は選択しているんです。そのことの故に、彼は堂々とこの神の教えを、サトシを、王の前でも述べる、そしてそこで恥を見ることがない、というのは本当に素晴らしいみ言葉に支えられている信仰告白の言葉だなという風に思います。そして47節で彼はこういう風に語ってますね。

[aside type=”boader”]私はあなたの仰せを喜びます。それを私は愛します[/aside]

これはもう彼の愛の告白といっつもいい言葉かなと思います。この詩篇の著者は、単にみ言葉にすがり、み言葉に信頼しているだけではなくて、そのみ言葉を喜んでいます。そしてみ言葉を愛していると告白をしてるんですよね。み言葉が単に自分の人生を幸せにするための手段ではなく、方法ではなく、み言葉そのものが喜びであるということ、そしてみ言葉そのものが愛の対象であるということを、彼はここで告白しています。

み言葉愛するってことは、そのみ言葉を語っておられる神様を愛するってことです。私たちもそうだと思うんですよね。愛する人がいたらですね、愛する人の声が聞きたいんですね。愛してる人の言葉を、私たちは愛するんです。旧約聖書の中に雅歌っていう歌があるんですけども、愛 の歌を歌った歌なんですけど、女の人が愛する方の声を聞いて喜んでいるってという詩があります。雅歌の2章9節ですけども、

[aside type=”boader”]私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。山を跳び越え、丘の上を跳ねて、私の愛する方は、カモシカや若い鹿のようです。[/aside]

そのように歌っている歌があるんですよね。この人まだ会ってないのに会いする方の声が聞こえるだけで、もう心をときめかせてしまう。そういう喜びがここで語られていますね。

この詩篇の著者も同じだと思うんです。聞こえてくる神様の言葉を喜びとして、そしてその言葉を愛していますね。彼が神様と、愛し愛される関係の中で生かされているということ、そのことがわかる。これが恵みを頂いた人の姿です。神様から圧倒的なめぐみ、一方的に無条件に神様の愛をいただいた人の姿じゃないでしょうか。私たちもそのように変えられていくんではないでしょうか。私たちも本当に神様からの恵みを頂いたら、神様を愛する人に、そして神様の言葉を愛する人に変えられてゆくんではないでしょうか。私たちの信仰というのは、そういうものですね。そして48節最後に彼はこのように告白をしました。

[aside type=”boader”]私は、愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ、あなたの掟に思いを潜めます。[/aside]

「両手を上げ」とこに出てきます。これは祈っている姿を現していると考えられますけれども、彼は神様に直接申し上げています。「愛するあなたと、彼自身の神様への愛を告白しながら、愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ、あなたの掟に思いを染めます」。この人がどれほど神様の言葉を、み言葉を、したい求めているか、そしてそのみ言葉に彼自身の思いを潜めることによって、どれだけ大きな喜びと感謝を味わっているか、そういう事が伝わってくる言葉だなと思います。

私たちにとっての「信仰」というのは、何か決まりをきっちり守るということ以上に、神様との愛の関係に生かされることですよね。神様から一方的に注がれている恵みを体験し、神様との愛の関係に生かされているということ、それが私たちの信仰なんだっていうことを今日はもう一度、心にしっかりと、心に留めるものでありたいと思います。

今日のこの一つの段落の中だけで見てもですね、前半部分は祈りが多いんですけれども、後半はもう全部彼の信仰の告白であるということに気づかされるんじゃないでしょうか。

44節で、「私はあなたのみ教えを守ります」と告白してますよね。45節、「私は広やかなところを歩いて行きます」と告白をしております。47節、「私あなたの仰せを喜びます」。「私はあなたを愛します」と、告白なんです。48節、「私は愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ、あなたの掟に思いを潜めます」。最初はずっと祈っていた。ずっと祈ってた彼がここに来て、告白をしている。これは彼がいかにみ言葉の豊かさ、素晴らしさを体験しているか、み言葉に生かされているか、そしてそのみ言葉に生かされることによって、いかに力強い核心へと導かれていくかってことを、私たちは教えられる言葉だと思いますね。私たちも是非この恵みによって、神に受け入れられる歩みを進めていきたいものだと思います。すぐに私達は恵みを忘れてしまうんですよ。ねそして恵みを台無しにしてしまうんです。そして何か、自分の努力とか、自分のふさわしさとか、自分の才能とか、なんかそういう事によって神様に認めてもらいたいなと、そんなことを考えてしまうことがあるんですね。そのために私たちは、だんだん恵みが見えなくなってしまう。せっかく与えられている恵みを台無しにしてしまうことがあるとすれば、それは本当に残念なことです。まず神様が私たちを愛してくださったんです。無条件に一方的に愛して下さったんです。その愛を私たち、しっかりと受け入れようではありませんか。そしてしっかりとその愛に応えていきたいと思いますね。主の愛に応えていくということ、それが私たちの信仰生活です。そのようにして私たち、恵みによって満たされ、そして御言葉に支えられながら、与えられた人生を主とともに一歩一歩、歩んでいくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様。御名を賛美いたします。いつもみ言葉によって私たちを照らしてくださって、私たちの不十分なところ、足りないところ、また離れてしまっているところを示してくださって、本当にあなたの恵みの中に戻らせてくださること覚えてありがとうございます。本当に私たちは、あなたに裁かれるだけの本当に愚かなものでありましたが、しかしあなたの恵みにの故に、私たちは一方的に愛され、イエス様の十字架の血潮によって罪赦され、神の子供とされました。その与えられた恵みを、私たちが無駄にすることがなく、本当にあなたの愛に応えてことできますように、み言葉に信頼し、み言葉を慕い、またみ言葉を愛していくことかできるように、どうか助け導いてください。み言葉を心から感謝し、主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。

あなたの掟の道をおしえてください。

先月教会のオルガンの調子が悪くなってしまって大変心配しましたけれども、昨日修理の方が来てくださいまして4時間ぐらい丁寧に丁寧に良く見ていただきまして、それで今日からまたオルガンで礼拝ができますことを覚えて感謝しております。そうこうするうちに教会の2階の部屋のエアコンも調子が悪くなってしまいまして電気屋さんに来てもらいました。

今なにか教会の色んなものが順番に調子悪くなっている感じがしているんですけれども、私も考えさせられました。私たちの信仰生活にも時々メンテナンスが必要なんじゃないかなと思ったんですね。正しい道を歩んでいるつもりでいても、時々私たちは本来の軌道から外れてしまっていることがあるんではないかなと思います。そして知らないうちに、あちこちに不調をきたしているって事があるんじゃないかなと思うんですね。私たちも聖書の言葉と照らし合わせながら、私達の外れ具合とか歪み具合を、神様に点検してもらうということ、示してもらうということが必要なんではないかなと思わされました。

1.終わりまで守るために

今日は詩篇119篇の5段落目に入ります。前回の箇所でこの詩篇の著者は二つの道を意識しておりました。一つは自分の道、自分の偽りの道、もう一つは神様の真実の道、その二つの道を意識しながら、でも彼は自分が偽りの道ではなくって、神の真実な道を選び取りました。30節ですね、「私は真実の道を選び取った」と告白しております。そして「神の定めを自らの前に置き、神のさとしに固くすがりました」。それと彼はそれまで狭かった彼の心は「広くされる」という恵みを体験し、そして「神の仰せの道を走ります」と32節で告白してますね。ですから彼が「みことばのちから、恵」を体験し始めているということ、そしてこの「仰せの道」を、喜びながら走り始めているということが教えられる箇所だなって思います。

そんな彼が今日の個所の33節に入ってこのように祈っています。

[aside type=”boader”]主よ あなたのおきての道を教えてください。そうすれば私はそれを終わりまで守ります。[/aside]

彼は神様に向かって「主よあなたのおきての道を教えてください」と祈りました。今もその道を彼は歩み始めているわけですよね。それを体験してるわけですけどもでも、さらに「神の掟の道を教えてほしい」とここで祈っていることがわかります。

どうしてでしょうか?その理由は何でしょうか?その次に「そうすれば私はそれを終わりまで守ります」と告白されています。かれが神のおきての道を終わりまで守るためであったということがわかります。

「終わりまで」って出てきますけども、「終わりまで」とは一体どの終わりまでなのでしょうか?これはおそらく彼の人生の終わりまで、地上での旅人としての歩みが終わる時まで、そして天の御国に移されるその時まで、という意味だと思います。その終わりの時まで、彼はこの「神の真実の道・おきての道」を歩んでゆきたいと願っているということ、つまりその道を最後まで歩み続けたい、完結させたい、全うしたいという願いを持っているということが分かる。そしてそのために必要なのが「み言葉」だったということですね。

ですから彼は「主よ、あなたのおきての道を教えてください」と、ここで祈っているわけであります。

つまり彼は、すぐにでも自分の偽りの道に戻されてしまうという危険を意識していていたということであります。今まさにその道を歩んでいて、その祝福を味わっていますよね。35節に、

[aside type=”boader”]私はその道を喜んでいますから。[/aside]

と書いていますから本当にそれは喜びの道なんです。その道を味わい、体験しながらも、いつのまにか、かつて自分が歩んでいた偽りの道に戻されてしまうかもしれないという危うさを、彼は意識しているということ、そんな傾向を彼は自分の中にあることを感じているということを教えられるんですよね。ですからこの道を最後まで、終わりまで全うしたい、そのためには本当に「み言葉が必要です」「教えられる必要があります」だから主よ、あなたのおきての道を教えてくださいと祈っている。そのような詩篇の著者の姿に私たちは注目したいと思います。

私達も同じだと思いますね。私たちにとってみ言葉の学びが十分だということはないです。もう十分教えられましたということはないんですよね。私たちは一回だけではなくて、絶えず絶えず教えられ続けなければいけないんです。継続的にいつも教えられなければいけない。そうでないと私たちも知らず知らずのうちに、いつのまにか、かつて自分が悩んで苦しんでいたあの偽りの道に戻されてしまうんですよね。そしてせっかく始まった、この祝福の道を全うできないで終わってしまう。そんなことにならないように私たちにもやっぱり御言葉が必要です。そして教えられ続けることが必要です。私たちもこの詩篇の著者のように「主よ、あなたのおきての道を教えてください」と祈り続けるものでありたい。そうすれば「私はそれを終わりまで守ります。是非終わりまでこの道を全うさせていただきたい」。そのような願いを持ってこの詩篇の著者のように祈り続けるものでありたいと思います。

2.頭から体へ、体から生き方へ

さてこの詩篇の著者は続けて34節に来ると、

[aside type=”boader”]私に悟らせてください。私があなたの御教えから目を離さず、心を尽くしてそれを守るために。[/aside]

と祈ってまいます。35節に入ると

[aside type=”boader”]私にあなたの仰せの道を踏み行かせてください。[/aside]

と祈っています。そして37節にゆくと、

[aside type=”boader”]あなたの道に私を生かしてください。[/aside]

と祈っています。彼はまず教えてください、道を教えてくださいと祈ってますけれども、でもそこでストップしてないんですよね。教えられたら今度はそれを悟らせてください。そしてその次に仰せの道を踏み行かせてください、そしてさらにあなたの道に私を生かしてくださいと、彼の祈りが続いていくということ、そして彼の祈りが深められていくっていうことは私たち教えられるんではないかと思うんですよね。

私たちは聖書から教えられるって事とっても大事ですね。本当に教えられやすい器でいたいと思います。でも教えられてそこでストップしてはいけないということも覚えたいと思うんですよね。時々礼拝が終わった後、「先生のメッセージ、今日教えられました」って感想を聞かせていただくことがあります。それで私の説教を本当によく聞いてくださったんだなと感謝して受け止めるんですけども、でもやや気になるのはその次のことなんですよね。

本当に教えられたことが、その人の生活の中に生かされていくといいなあと、教えられたことによって生かされていくといいなって、そこまでいくといいなと思うんですけれども、でもどうでしょうか?私達時々ですね、教えられてそれで終わってしまうことが結構あるんじゃないかなと思うんですよね。教会に来て、礼拝に出てメッセージを聞いて、「今日教えられました」ってそういう感想を抱いて帰っていただくのは感謝なんですが、その後何も続いていかない、何も生まれてこない、生活が全然変わってゆかないっていうことも起こりうることじゃないでしょうか。教えられっぱなしで、その先に何も続いてゆかない、たくさん教えられているのに、たくさん聖書を学んでいるのに、私たちの生き方や生活は一向に何も変わって行かない、そういう事があるんではないでしょうか。教えられているのに、その先に悟ということがないために、教えられたことが私たちの歩みの中に全く生かされていかないということがあるとするならば、それはとても残念なことではないだろうかと思います。

イエス様のみ言葉を聞くことは大事ですね。「よく聞きなさい。聞く耳のある者は聞きなさい」って、聞くことは大事ですとイエス様も教えていますけれども、それだけではなくて聞いたことを悟ることの大切さもイエス様は教えてます。マタイの13章23節で、

[aside type=”boader”]良い地に撒かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結びます。[/aside]

って、イエス様が教えておられる箇所であります。これは「四つの種のたとえ話」の場所ですけれども、その箇所の中で、「み言葉を聞いて悟る人は、多い人で100倍、少ない人でも30倍の実を結びます」と教えています。実り豊かな人生の秘訣っていうのは、「み言葉を聞いて悟ることなんだよ」っとイエス様が教えておられる箇所ですが、私たちもみ言葉を聞くことが大事ですね。教えられることも大事です。でもその次に悟るということが求められている。そんなことを意識したいと思います。

「悟る」ってどういうことでしょうか?「み言葉を悟る」ってどういうことなんでしょうか?

それは神様が、私たち一人一人に個人的に語りかけておられる事実を意識することによって、与えられるものだと思います。今み言葉が与えられました。教えられました。その教えられたみ言葉を通して、神様は何をこの自分に期待しているのか、何を望んでおられるのか、何を変えるべきなのか、どう変わったら主は喜んでくださるのか、今私は何をしたらいいでしょう。どの方向に進んでいったらいいでしょう。

そのような神様の私自身に対する個人的な、み心を理解すること、受け止めること、それがみ言葉を悟ることではないでしょうか。そこにみ言葉の事実が示されると、客観的にも理解できるんですね。「ああ」こういうことが教えられてるなって、わかる、納得するんです。でもそれだけではなくて、そのみ言葉から、「いま私は何を求められているのか?主は何を私に期待してるんだろうか?何を語っているんでしょうか?」、そのことをしっかり受け止めるその時に、私達は本当にみ言葉を悟る者に変えられていくそしてその時にそのみ言葉によって私たちは初めて生かされるものに変えられていくんじゃないでしょうか。私たちの信仰が、頭の中だけの信仰ではなくて、本当に体へと、そして体から私たちの生き方へと、表されていく、そのような信仰へと私たちが導かれていく。是非私たちは教えられただけで満足しないようにしたいと思うんですね。「今日はイメージを聞きました。ありがとうございます」。それで終わらないようにしたいと思うんですよね。本当にその御言葉から、自分が何を期待されているか?本当に主のみ心は何か?そのことを良く悟りながら、本当に私たちの生き方の中に そのみ言葉を表していきたい。み言葉に本当に生かされるものになりたい。その所までぜひ私たちは願い求めるものでありたいと思いますね。

わたしたち日々の歩みの中で、聖書を開いて読む時があると思います。皆さん、その時にそのみ言葉をただ聞くだけではなくて、その御言葉を通して何が語られているのか思い巡らす時があるでしょうか?その御言葉を味わったり、自分自身の想いをその御言葉の中に潜めたりするような、そんな時があるでしょうか?そこで主が私達に寄せているみ心を受け止めるような事があるでしょうか?私達デボーションと呼びますけれども、日々の生活の中で主と親しく語り合う時間をデボーションと呼びますけれども、そのような時間が確保されているでしょうか?忙しい毎日ですので、そんなにゆっくり時間を取れない方も多くいるかもしれませんが、でもひと時ちょっとみ言葉を開いて、そして主がそこで、自分に何を語っているのか意識するという時間があったら、私たちの生活はもっと祝福されてみ言葉に導かれて行くあゆみになっていくんじゃないかなと思うんですね。是非私たちも、実を結ぶ信仰へと導いていただきたいなと思います。是非み言葉を聞いて、悟らせていただくものでありたいと思います。

3.主の主権の中で

さてもう少し丁寧に考えたいと思います。本当にそうありたいと思うんですよね。み言葉を聞いて理解するだけではなくて、み言葉に生かされる信仰者になりたいって、みんな願いますよね。本当にそうありたいと思います。でもどうすればそれが可能になるでしょうか?

そこにひとつの葛藤があるような気がするんですよね。どうしたら「理解する信仰」だけではなくて「生かされる信仰」に変えられていくんでしょうか?そこでこのみ言葉を、もう少し丁寧に見ていきたいと思うんですけど、ここで使われている動詞の多くが「使役動詞」であるってところに注目したいなと思うんです。

34節で神様がこの詩篇の著者に「悟らせてくださり」、35節では「神の仰せの道を踏み行かせてください」とあることが分かりますよね。36節では「神様が彼の心を、神のさとしに傾かせてくださる」って書いてあります。37節「神様が彼を神の道に生かしてくださる」という風に書いてますよね。

皆さん分かると思うんですよね。彼は自分で悟りを得てるわけではない。自分で悟ってるわけではないですね。自分で踏み分けていくわけではない。自分で自分の心を傾けようとしてるわけではない。自分の力で生きているのではない。それは全部神様の御業です。神様がみことばを悟ることができるように導き、神様が仰せの道を踏み出して行けるように導いてくださり、そして神様が私たちの心を神のさとし、に傾かせること傾けることができるように、導いてくださり、そして神様の道を生きることができるように、全部神様の導きなんですよね。神様がそうしてくださることなんです。36節に、

[aside type=”boader”]私の心はあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。[/aside]

とありますが、ここに「傾く」という言葉が二つ出てくるんですね。

どっちかに傾いてしまう危うさを彼は意識していますよね。まるで自転車が止まった時のような感じですね。右に倒れるか左に倒れるか分からない っていう、そういうときの危うさを彼は意識しながら、もしかして不正な利得に傾いてしまうかもしれないという不安を抱きながら、でもそうなりませんように、私の心があなたのサトシに傾きますようにと祈っているのがこの言葉ですよね。自分で傾いてるわけじゃないんですね。自分でこっちに行きたいと思って操縦してるわけではなくて、それは全部神様の御業なんです。神様が、そうしてくださらなければ本当に反対の方に転んでしまうかもしれないっていうそういう不安の中で、でも主がそのことを成し遂げてくださるっていうその信仰が ここに表されている。全部それは神様の導きなんですよね。彼はそのようにですね、ほんとに危険を意識しております。34節に、

[aside type=”boader”]私があなたのみ教から目を離さず、心を尽くしてそれを守るために。[/aside]

と書いていますけれども、彼はみ教に目を留めているんです。そのみ教えのすばらしさを味わいながら、そのみ教に目を留めているのに、そのみ教から自分の目を引き離そうとする力が働いているって事を感じていますよね。彼の心は今み教に向いてそれを喜んでいるのに、そのみ教えから自分の心を引き離そうとする、その誘惑が働いているって事を彼は意識しているんですよね。そして今読んだ36節に、「不正な利得」という言葉が出てきます。37節には「虚しいもの」という言葉が出てきます。そして39節では「私が怯えているそしりを取り去ってください」とあります。様々な危険に彼は満ちているんですよね。そういうのに取り囲まれている。この世の不正な利得につい心を傾かせてしまいやすい自分。つい虚しいものに目を留めてしまう自分の傾向。そして人からのそしり恐れて心を騒がせてしまう自分の弱さというものをよく意識しながら、彼は必死に祈ってますね。そうならないように「神様どうか守って下さい、み言葉を悟らせてください。私の心を、あなたのサトシに傾かせてください。そして私を祝福の道に生かしてください。」切実な祈りがここに掲げられているのではないでしょうか。

でも主はその祈りを全部応えて、彼に悟らせてくださいます。神の仰せの道を彼に踏み行かせてくださいます。彼の心を守って、神のさとしへと傾かせてくださいます。そして彼を神の祝福の道に生かして下さる。それは全部神様の御業なんです。私たちは自分で聖書を理解できたなんて思うことがないように注意したいなと思うんですよね。あるいは自分の信仰っていうのは、自分の努力の賜物なんだって思うことがないように気をつけたいと思うんですよね。そんなふうに思ってしまいやすい傾向があるんじゃないかと思うんです。そしてなんとなく私たち、人を裁いてしまったりですね、見下してしまったりしやすいんじゃないでしょうか。だんだん自分を誇る信仰者になってしまうんではないでしょうか。

そうではないんですよね。私たちがもし真理に生かされているとするならば、それは全部そのように神様が示してくださった結果ですよね。今、自分が祝福の道を歩けているとするならば、全部それは神様がそのように導いてくださった結果なんですよね。もし神様の力が働かなければ、私たちはすぐにでも倒れてしまう。すぐにでも逸れてしまう。すぐにでも歪んでしまう。そんな私達ではないでしょうか。ただただ主のみ言葉があって、私たちはそのように導かれているという事を決して忘れることがあってはいけない。38節でこの詩篇の著者はこういう風に語っています。

[aside type=”boader”]あなたのしもべへの、仰せの言葉が成り、私があなたを恐れるようにしてください。[/aside]

あなたの下僕、つまり彼自身への言葉、仰せの言葉が、神様のみ言葉が成りますようにと言っています。

「成る」っていう言葉がここで使われていることにも私たち注目したいと思うんですよね。新約聖書の福音書の中で、イエス様はある日、死んでしまった少女に向かって、「タリタ、クム」と言ってですね、これは少女よ起きなさいって意味なんですけども、そう語ってそして少女を生き返らせた、蘇らせたっていうことがあったんですね。その「タリタ、クム」っていう言葉を聞いて、少女の目がパッと開いて、そして起き上がって歩き始めたっていう、そういう記事が福音書の中に出てきますね。あそこで使われている「クム」という言葉があるんですが、それと同じ言葉がこの38節で使われていて、こちらでは「成る」と訳されています。つまりこれは、あなたのしもべへの仰せの言葉が、「私の中で起き上がるように、立ち上がるように」って、そういう訳もできるような言葉かなと思います。あの死人を蘇らせたあの神様の同じ力が、私にも働いて、私の歩みの中で実現しますようにっていうそういう意味の祈りの言葉ではないかと思います。

もしそのような体験が与えられたならば、私たちにこの詩篇の著者と同じように、私たちの心に生じてくるのは神様に対する恐れではないでしょうか。御言葉に対する恐れではないでしょうか。み言葉が私を内側から作り上げて、建てあげていくという、そのことを経験していく時に、本当に私たちは神様に対する恐れを抱くんではないかと思うんですよね。

自分を誇るなんてとんでもない話だなと思います。もし私たちが本当に祝福の道を歩めているとするならば、それは神の言葉が私たちに「成った」ことの結果でありますね。神様のみ言葉が、私たちの中で実現したことの結果であります。私たちはこの主を恐れ、この方に信頼し、み言葉により頼むものでありたいと思います。

4.結び

私たちは本当に信仰の道を歩んで行く時に、み言葉により頼んで行く時に、奇跡を経験してるんだと思います。日々の歩みの中で、私たちの歩みの中で、本当に見えないところで神の奇跡を経験してるんだと思うんですね。それはどういう奇跡でしょうか?み言葉が私たちの中で実現する、私たちの中で「成る」という、その奇跡を日々体験してるんじゃないでしょうか。私たち、自分ではとてもできないんですよね。そのように歩むことはできないんですが、ただみ言葉が私たちの中で実現した結果として、私たちは今この祝福の道を歩めっている。それはまさに神様の奇跡のみ業だなと思います。そのようにして私たちは神様からみ言葉によって導かれているんだということを、ぜひ今日覚えるものでありたい。ぜひ本当にみ言葉を聞かせて頂きたいですね。聞かせていただきましょう。そして教えていただきましょう。そして教えられたみ言葉をしっかりと受け取るものになりたい。そしてそこでしっかりと主のみ力を頂いて踏み行き、そして決して傾くことがないように、主の御言葉に傾かせて頂き、そして主の祝福の道を歩んでいくものでありたい。そのようにして主の道を最後まで、終わりまで歩み続けていく者となれるように、私たちは祈り続けていきたいと思います。

 

お祈りをいたします。天の父なる神様、み言葉をありがとうございます。本当にさまよいやすい私たちでありますし、すぐに離れてしまう、せっかく与えられた恵の道からそれて、自分の道に戻ってしまうことの、なんと多い私たちでしょうか。どうぞ神様お許しください。しかし主は、なおもあなたの哀れみをもって、私たちをみ言葉によって導き、本来の道を歩むことができるようにいつも支え、導いててくださることを覚えて心から感謝いたします。日々主のみ言葉が語られている恵みを感謝します。そのみ言葉をどうぞ続けて教えてください。そしてその教えられたみ言葉を良く悟ることができるように、そして踏み行かせてください。そしてあなたの道を歩んでいくことができるように、終わりまでどうか主よ導いて下さいますように。み言葉を心から感謝します。主イエス・キリストのみ名によってお祈りをいたします。

心を広くしてくださる方

詩篇119篇の今日は4段落目に入るんですけども、今日の聖書の箇所25~32節を読んでいただきました。お聞きになって皆さん気づいたことがあるかなと思うんですけども、今日の段落には「道」という言葉が何度も何度も出てくるということなんですね。日本語でももちろん出てきますけども、「道」という言葉はヘブル語では「デレク」と言うんですけれども、へブル語の聖書では、「デレク」という言葉が、何度も何度も出てきますね。しかも、それぞれの言葉の最初に出てくるんです。

26節でも「デレク」という言葉から始まる、27節も「デレク」という言葉から始まる。29節、30節も「デレク」という言葉から始まる。32節の最後の言葉も「デレク」という言葉から始まる。ですから日本語の聖書以上に、ヘブル語の聖書を読んでいると「デレク」「デレク」「デレク」と出てくるんです。それでこの時の詩篇の著者にとって、「デレク」という言葉が、とても重要な強く意識されている言葉だったということが、はっきりと伝わってくる。そしてこの詩篇の著者にとって、「道」について非常によく考えている、そういう箇所なんだということがわかります。

私たちも皆、若い時はみんな自分の「道」で悩むんではないかと思いますね。年をとってももちろん悩むと思いますけど、とりわけ若い人にとっては「道」ということについて、本当に悩むんじゃないでしょうか。私も若い時がありましたけども、本当に自分の「道」について悩んでいたなと思います。私は若い頃、20代の頃はフィリピンに留学をしていまして、フィリピンでの生活をとても満喫していたようにも見えるんですけれども、でも心の中はいつも不安でいっぱいでした。フィリピンまで来て学びをして、「これからどうなっていくんだろう?これがどういうふうにに生かされるんだろうか?」ということで、いつも心配でした。心細かったんですね。それでイエス様をもちろん信じていましたけども、「本当に主はどのような道に導いてくださるのか?」ということが見えなくて、本当に不安な日々を過ごしていたなと思います。当時私は牧師になろうなどということは全然思っておりませんで、違うことを考えていたんですけれども、でもその後、不思議な導きで30代になってから神 学校に導かれて今に至ってる。その後は神様が導いてくださってるというのは分かりましたけれども、それが定まるまではだいぶ不安定な日々を過ごしていたなと思います。

私たちは皆、「道」で悩むんですよね。どの「道」を歩んで行ったらいいのかってことで悩むんですが、この詩篇の著者もやっぱり悩んでいるなと思います。

この人、まず二つの「道」をここで意識してるんですが、まずは自分の道のことを考えてます。26節で、

[aside type=”boader”]私は自分の道を申し述べました。するとあなたは私に答えて下さいました。どうか、あなたの掟を私に教えてください。[/aside]

ということですね。自分の道を申し述べたこの人が神様に自分の道について相談がしているということがわかりますね。それに対して神様は「答えてくださった」ということで、そこに神様との親しい交わりが経験されているんだなという事分かりますけれども、「あなたの掟を 私に教えてください」と続いていますので、どうやらこの人は、自分の道に満足していないということが分かるかなと思います。それは本当にその通りでして、なぜなら自分の道というのは「偽りの道」だったからなんですね。29節、

[aside type=”boader”]私から偽りの道を取り除いてください。みおしえをもって、私をあわれんでください。[/aside]

という風に語っております。彼は「自分の道」とはつまり「偽りの道」でありまして、そしてその偽りの道を取り除いてくださいと、この日祈っております。ですから彼は自分の道に失望しているということが分かるわけであります。このように彼は自分の道のことを考えていますけれども、でも一方ではもう一つ違う道のことを考えているということがわかります。それは「神様と共に歩む祝福の道」、その道を彼は考えています。27節で、

[aside type=”boader”]あなたの戒めの道を私に悟らせて下さい。私が、あなたの奇しいみわざを、語り伝えることができるように。[/aside]

と語って、ここに「戒めの道」という「道」が出てきます。さっきの「自分の道」、「偽りの道」とは違う道ですよね。そして30節では、

[aside type=”boader”]私は、真実の道を選び取り、あなたの定めを自らの前でおきました。[/aside]

「真実の道」という道、そのように言い表しています。最後32節に、

[aside type=”boader”]私はあなたの仰せの道を走ります。[/aside]

またここにも「道」が出てきます。このように主と共に歩む祝福の道というのは、神様の「戒めの道」であり「真実の道」であり、神様の「仰せの道」なんだということが分かる。そしてこの人は、この道を求めています。「あなたの戒めの道を、私に悟らせてください」って祈ってるんですね。この道を知りたいんです。「私は真実の道を選び取り、私あなたの仰せの道を走ります。」この道を彼は求めてるんですよね。つまり彼は自分の道に失望していますね。自分の道に失望しながら、でもだからこそ神様の祝福の道を求めている、活動している人なんだということ、そのこと私たちは教えられるんではないでしょうか。

そしてその道が本当に祝福の道になるために必要なものが、「み言葉」であったということがわかります。ですから彼は「み言葉」を求めてるんですね。26節で、「どうかあなたの掟を私に教えてくださいって」と祈ってますね。あなたのおきて、み言葉を私に教えてください。そして28節で、

[aside type=”boader”]み言葉の通りに私を強めてください。[/aside]

29節、

[aside type=”boader”]みおしえをもってわたしを憐れんでください。[/aside]

彼は繰り返し繰り返しみ言葉を求めてます。この道を歩むために、この神様の祝福の道を歩むために、「み言葉」が必要なんだ、だから「み言葉」を教えてくださいと祈っている。そのような祈りの詩篇であるということを、私たちも覚えたいと思います。

私たちの目の前にも、いつも二本の道が開かれてるんじゃないかなと思うんですね。「自分の道」と「神様の祝福の道」という、この2本の道が開かれているんではないでしょうか。そして私達は、「自分の道」を歩めば歩むほど、失望してしまうことが多いんではないかなと思いますね。でもそこから「祈り」が生まれてきますね。本当に祝福をの道を歩みたい、神様と共に歩む祝福の道を歩みたい。そしてその時に必要なものは「み言葉」なんですね。ですから私たちもこの詩篇の著者のように祈るものでありたいと思います。

「どうか私にも掟を教えてください。あなたのみ言葉を教えてください。あなたの仰せを教えてください」と、そのように祈る者でありたい。そして祝福の道に導かれる者になりたいと思います。そのような道を共に歩んでいけたら幸いだなと思います。

 

ただ私達、 丁寧にもう少し深く考えてみたいと思います。私たちはそもそも本当にこの祝福の道を歩みたいと心から願っているでしょうか?もちろんそう願ってると思うんですよね。本当にそのような祝福の道を歩んでいきたいなと思っていると思います。

でも実際にはどうでしょうか?意外と実際に私たちそのように願いを願いながら、神様の祝福の道を歩みたいなと思いながらも、相変わらず自分の道を歩み、自分の道の中にとどまり、そして自分の道を貫いてしまっているということが結構あるんじゃないかなと思うんですよね。クリスチャンとして、ずっと長く歩んでいたとしても、それで生活が安泰になるかというと、必ずしもそうではなくて、クリスチャン生活が長くなれば長くなるほど、いつまでたっても自分の道から離れられない。相変わらず自分の道を歩み続けている。そしてそこから離れられないで、それを貫き通そうとしている。そのような自分の現実ってものを示されて、よりはっきりと見えて来るっていう事があるんじゃないかなと思うんですね。

ですから私達いつもこの二本の道をどこかで意識せざるを得ない、そういう状況じゃないかなという風に思います。

今、私達の時代では、一つの生き方がすごく流行ってると言うか、求められている生き方があるんじゃないかなと思うんですよね。それはよく聞く言葉だと思います。それは「自分らしく生きる」っていう生き方ですね。よく聞くなと思います。自分らしく生きたい、自分らしく輝いていたいと言うんですね。自分らしさが求められる。自分らしさが追求される、期待される。そんな時代に私たち生かされているんじゃないかなと思うんですね。そして私たちも実は心の深いところではそう願ってることが多いんじゃないかなと思うんですね。自分らしく生きたい。誰にも邪魔されないで、本当に自分に与えられた人生を、自分らしくそして自分の色を輝かせて歩んでいきたいって言う、何かそういう願いを、心の深いところで持ってるような気がするんですよね。

でも本当にそれが神様が願ってる生き方なのかどうかということは、私たち、注意深く見る必要があるかなと思います。何かすごくもっともらしいことのように聞こえますけれども、でも神様が私たちに願っていることは、違うところにあるんじゃないかなと思うんですよね。人のそういう期待に応えていく、人の声に耳を傾けていくということも大事ですけども、一番大事なことは、「神様の声に耳を傾けていくということ」、「神様が何を願っているかということ」なんですよね。

もし本当に私たち、「自分らしさ」というものが本当にはっきり見えた時には、私達、自分に失望してしまうんではないかなと思うんですね。自分の姿が本当にありのままに見えてしまったら、がっかりしてしまうんじゃないでしょうか。アダムとエバは、エデンの園で罪を犯した時に、自分たちが裸であることに気づいたって聖書に書いてますよね。それまでも裸だったんですけど、それまでは全然気にならなかったんですよね。ところが、神様のみ言葉に背いて罪を犯した時に、「自分たちが裸であることに気づいた」って書いてある。そして何をしたでしょうか。イチジクの葉っぱを綴りあわせて自分の服を作ったんですよね。それで、その事のゆえに、自分の中に、堂々と見せることのできないものを抱え込んでしまった、何か隠さざるを得ないものを自らの内に隠し持ってしまったってことが、そこから言えることではないかなと思うんですよね。とても自分らしく生きることができないんですよね。

1.気落ちした時の助け

この詩篇の著者は25節で、

[aside type=”boader”]私のたましいは、チリにうち伏しています。[/aside]

という風に語っている。非常に興味深い言葉だなと思うんですね。彼のこの時の心境です。「私のたましいは、チリにうち伏しています」って、どんな心境だったんだろうって考えさせられる。それで「うち臥している」というふうに訳されている言葉を調べてみると、これは「くっつく」とか「密着する」とかそういう意味の言葉であることがわかりましたけれども、彼は本当に気落ちをして、そして自分の抱えているその問題の中で本当にそこから離れられなくて、苦しんでいる、もがいてている、そんな様子が感じられる言葉ではないかなと思います。また28節でも、

[aside type=”boader”]私の魂は悲しみのために溶け去ります。[/aside]

と、「溶け去る」という言葉を使ってますね。私の魂は悲しみのために溶け去るってどれくらい深い悲しみだったんだろうかということを考えさせられますね。その悲しみのために自分の魂が溶け去ってしまうくらいの、自分がもう持たないってんでしょうかね、もう自分が自分であることが、もうもたない、自分の存在の危機をここで感じてるような、そんな言葉ではないかなと思います。どうして彼はこうなってしまったのか詳しくはわかりません。

前の段落を見ると、「そしりと蔑み」という言葉が出てきますので、彼はもしかすると人々からそしられ蔑まれて、そんな人間関係のトラブルの中で本当に自分の惨めさを味わって、そのような状態になってしまったということも考えられるけれども、でもそれだけではないような気がするんですよね。

2.「偽りの道」から「真実の道」へ

もっと彼の内側にもっと内面的な理由があるんじゃないかということが考えられる。

どうしてそう言えるかと言うと、その後で彼は、「み言葉の通りに私を生かしてください」と祈ってるからなんですよね。25節で「み言葉の通りに私を生かしてください」と彼は祈りました。28節でも「み言葉の通りに私を強めてください」と祈りました。この両方の記事で、両方の個所で、彼は「み言葉のとおりに」と祈ってる。「み言葉のとおりに私を生かしてください」、「み言葉の通り私を強めてください」と。つまり彼の悩みはどこにあるかと言うと、み言葉の通りに生きることができないというところに彼の悩みがあるんですよね。人から色々言われて、落ち込んだりとか惨めさを味わったりとか、いろんなことがあると思いますけれども、それ以上に自分の中に神様のみ言葉のとおり生きることができない、そういう悩みがある。彼は知ってるんですね。み言葉の通りに生きたい。そしてみ言葉の通りに歩めば必ずそこに祝福があると知っているのに、しかしそう歩むことができない現実が自分の中にある。そうさせまいとする問題が自分の中にある。その罪の虜になっている彼の悩み苦しみというものがそこに示されているということに、私たち気づかされるんではないかなと思うんですよね。これはやっぱり「自分らしく」歩もうとする時の私たちの姿ではないでしょうか。私たちは皆そういう悩みを抱えているんだと思います。

私たちの祈りは、この詩篇のみ言葉から教えられる。私たちの祈りはやっぱり私たちの自分の道が、どうか主の祝福の道に変えられますように、自分の偽りの道が、真実の道に変えられますようにという祈りであるべきではないでしょうか。そして自分のこの道が、自分らしく歩むこの生き方が、そうではなくてキリストらしく歩む生き方に、キリストのような生き方に変えられますようにというのが、私たちの祈りではないでしょうか。主が願っていることって、私たちが皆それぞれ自分らしく生きることではないと思いますね。私たちがキリストのように、キリストらしく生きることを主は願っておられるんではないでしょうか。そのことを私達は心に留めながら、この詩篇の著者のように、本当に祈っていく、心を注ぎ出して祈っていくものでありたいと思います。私たちも是非、「み言葉の通りに私たちを生かして下さい」と祈るものとなろうではありませんか。

3.私の心を広くしてくださる方

さてこの詩篇の著者は30節を経ると、ちょっと変わってきてるなという感じがするんですよね。30節から読んでみます。

[aside type=”boader”]私は、真実の道を選び取り、あなたの定めを自らの前に置きました。私はあなたのさとしに固くすがります。主よ、どうか私に恥を見させないでください。私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが私の心を広くしてくださるからです。[/aside]

このように語っていますけども、ここ読むとですね、この詩篇の著者がだんだん前向きに積極的になってきているということを感じさせられるんではないかなと思います。30節で「私は真実の道を選び取った」と告白していますが、これが大きかったんじゃないでしょうか。彼は真実の道を選び取った。彼の目の前に二つの道があったんです。自分の道、偽りの道と神様の祝福の道、真実の道、その二つの道を彼は意識していましたけれども、自分の道の中に歩みながらも、でも彼は真実の道を選び取ったと告白した。そこに選択があるって事が分かりますよね。二つの道がある中で、彼は信仰をもってこの道を選んだということなんですよね。そのような信仰による選択というものが、私たちにも求められているんではないかなと思います。そしてその後、「あなたの定めを自らの前に置きました」って、これも自分で置いたんですね。自分でに意識して、あえて自分で置いた。あなたの定め、神様の定めを自分の前に置いて、もうそこから絶対離れないように、彼はそういう気持ちでそのような努力をしているということが分かると思います。さらに31節で、

[aside type=”boader”]私はあなたのさとしに固くすがります。[/aside]

あなたのさとし、神様のみ言葉にすがります。そこからくっついて離れませんという、そういう意思表示をしていますね。本当に彼はみ言葉を心から求めている人でした。もうあの自分の道、偽りの道に戻りたくない。もうあの縛られた不自由な自分に縛られて、逃げられない、あの道に戻りたくないという、そういう気持ちの表れだなと思いますけれども、彼は「み言葉に固くすがりついている」と、そういう信仰告白がここになされていると思います。そしてその結果彼はどうなったんでしょうか?32歳です。

[aside type=”boader”]私はあなたの仰せの道を走ります。[/aside]

ここで「走る」って彼は言っている。びっくりです本当に驚きの言葉だなって思うんですよね。さっきまで彼は「ちりにうち臥している」って告白してたんです。「私の魂はチリにうち臥している」って。もうそこから離れられない。もがいてている。とても走れるような状態ではなかったんですよね。28節でも、「私の魂は悲しみのために溶け去ります」って、もう全然力が入らない,本当に無力な状態で、とても走れるような状態ではなかったんですけれども、ところがここにきて彼は軽やかに走り始めているということに気づかされる時に、本当に大きな変化を彼は経験しているということが分かる。そしてこれはやっぱり彼が真実の道を選び取り、そして神様のさとしに固くすがった結果であったということが言えるのではないでしょうか。つまり彼がみ言葉の道をあえて選び、み言葉にしっかりすがりつき、そのみ言葉によって生かされている恵みを体験したからこそ、このような告白が生まれてきたということであります。どうして彼はそのように告白できたんでしょうか?そして彼はその御言葉を経験することで何を経験したんでしょうか?それが最後の言葉、告白の言葉だと思います。彼は最後にこういう風に言っています。

[aside type=”boader”]あなたが私の心を広くしてくださるからです。 [/aside]

神様がみ言葉を通して、この人の心を広くしてくださった。そのような恵みを彼はみ言葉を通して体験した。だからこそ彼はここで「あなたの仰せの道を走ります」と告白に導かれているということ、み言葉というのはそのようにして私たちの心を広くしてくださる恵の言葉であるということを、私たちはここから覚えるものでありたいと思います。

私たちが悩む一番の原因と言っていいかなと思いますが、私たちが悩んでしまう、そして私たちが味わう不幸の原因は、自分で自分の心を狭くしてしまうからではないだろうかと思うんですよね。私達はよく、自分で自分の心狭くしているんではないでしょうか。人との関係の中で、色々な交わり出会いの中で、優秀な人・立派な人と出会うと。それと比べて自分がいかにみじめで、小さくて、足りなくて、貧しくて、そういうことを知らされて、だんだん自信がなくなってしまったり、情けなくなってしまったり、惨めさが募ってきたりしてですね、自分で自分の心を閉ざしてしまうことがあるんですよね。あるいは人から何か言われたとか、傷ついたとか、そういうことがあるとどうしてもその人に対して心を閉ざしてしまうということがあります。あるいは自分のいろんな醜い姿が見えてきたり、自己中心であったり、人を裁いてばっかりいたり、なかなか成長できないとか、色々自分の弱さが見えてくると、それでやっぱり自分に自信がなくなってしまって、クリスチャンとしても心を閉ざしてしまうことがあるんじゃないかなと思うんですよね。その人たちたちは、ドンドンドンの心が狭くなってしまうそういうことあるんじゃないでしょうか。

でも神様の言葉は、そういう私たちの心を広くしてくださる恵の言葉なんだということをぜひ覚えたいと思います。そこで今日は旧約聖書の雅歌の言葉を紹介しようかなと思います。最近はずっと我が家では雅歌を読んでいるんですけれども、雅歌の中にこんな言葉が出てきました。雅歌の2章の9節ですけど、

[aside type=”boader”]私の愛する方は、カモシカや若い鹿のようです。ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。[/aside]

これは女の人の言葉なんですけど、この女の人が自分の家の中に閉じこもってですね、そして格子越しに、つまり格子の窓ですね、窓の向こうから私の愛する方がこちらを向いている。この人は自分の家の中に閉じこもってるんですね。そうすると10節、

[aside type=”boader”]私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「我が愛する者、私の美しい人よ。さあ立って出ておいで。ごらん冬は去り、雨も過ぎて行ったから。地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやってきて、山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。イチジクの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香りを放つ。我が愛する者、私の美しい人よ。さあ立って、出ておいで。岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい」。[/aside]

そういう風に格子窓の向こう側から、私の愛する人が私に向かって語りかけている。その言葉が出てくるんですよね。その愛する男性の言葉ですけど、その愛する方がですね、「さあ立って出ておいで」って呼びかけてるんですよね。冬も去った、雨も去った、後に花は咲き乱れ、本当に素晴らしい季節になったんだから、さあ出ておいで、立って出ておいでって呼びかけていることはそして私の愛する者私の美しい人よ、さあ出て出ておいで。岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。この鳩、つまりこの女の人は岩の裂け目崖の隠れ場の中に隠れちゃっている、怖いんですね。出ていくのが怖いんです。

そういう心境になること私たちもあるんじゃないでしょうか。自分の全てを見せてしまったら、もしかしたら嫌われてしまうんじゃないか。私たちみんなそういうものも抱えてるんじゃないかなと思うんですよね。愛して欲しいんですね。愛してほしいんですけれども、なにか自分の中に不安なものがあるんですね。自信がないんですね。それを全部見せてしまったら、もしかしたら嫌われちゃうんじゃないか。もしかしたらあの人は去っていってしまうんじゃないかという不安があって、部屋の中に閉じこもっていることが多いんですよね。崖の中に隠れてしまっていることが多いです。

でもこの愛する人が呼びかけてくれるんですね。「さあ出ておいで。立って出ておいで。あなたの顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい」って、そういうふうに語りかけてくださる愛の言葉が、彼女に向かってかけられている。そうするとこの女の人は告白するんですね。16節、

[aside type=”boader”]私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。[/aside]

彼女の心が不安から解き放たれて、本当に安心してこの人に身を委ねていける。そういう愛の交わりが回復していく。その姿が雅歌の中で歌われている。この雅歌というのは男と女の人の間の歌でありますけれども、そのことを通して神様の愛の豊かさというものを、私たちは教えられる。そういう内容の歌だと思います。

私たちも皆不安なんですね。ありのまま出してもらえないじゃないかと、自分のことを知れば知るほど不安になってしまって、心を閉ざしてしまうんですね。本当に心配になるんです。ところがそういう私たちに向かって神様は語りかけてくださるんですね。

「出ておいで。あなたの声を聞かせて欲しい。あなたの顔を見せて欲しい。あなたはなんて愛らしい方なんでしょう」って、そのように語りかけてくださる神様の言葉があるって言うことを私たち覚えたい。そして本当にそのような愛と恵みの言葉を聞いた時に、私たちの心も開かれていくんですよね。固く閉ざされた言葉が開かれていって、そして本当に安心して神様めぐみの中で許されて、親しい関係の中に生かされていくことができる。神のみ言葉というのは、そのようなみ言葉であるということを、私達は覚えるものでありたいと思います。私達も、是非この自分を偽りの道ではなくて、神様の祝福の真実の道を選び取っていこうではありませんか。そして私たちもしっかりとこのみ言葉にすがろうではありませんか。そこで語られる神様の声に耳を傾けようではありませんか。それは本当に愛と恵みに満ちた言葉です。そのみ言葉を体験しながら、狭い心を本当に広くしていただきたい。そしてこの詩篇の著者のように、「あなたの仰せの道を走ります」と、軽やかに走っていくものでありたい、そのようにして本当に恵みの中を生かされて、主と共に歩む生涯へと私たちを導いていただきたいと思います。

 

お祈りをしたいと思います。愛する神様。御名を賛美します。今日詩篇119篇のみ言葉を味わうことができたこと感謝いたします。私たちの不安のゆえに、また罪深さのゆえに、私たちは心狭くし、そして本当に自分勝手な道の中に歩んで行きやすい 、そのような愚かな頑なな私たちをどうか許しください。でも主のみ言葉がいつも語られてるめぐみ覚えて感謝します。そのような私達をあなたが無条件に愛してくださり、また私たちの全ての罪を許すために十字架にかかって死んでくださいました。そのような大きな愛をもって、私たちを愛し受け入れ、そして今も導いてくださる恵みを覚えて感謝します。どうか恵のゆえに、私たちも心広くされて、喜びをもってこの一週間、主と共に歩んでいくことできるように助け導いてください。与えられたみ言葉を心から感謝し、主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。

私は地では旅人です。

詩篇119篇17~24節

前回は子供たちが、自分の道を清く保つためにみ言葉が必要なんだってこと共におぼえあいました。そしてそのためには私たちが御言葉を蓄えることが大事だということを前回ともに覚えることができました。その後の一週間、皆さんの信仰の歩みはいかがだったでしょうか?一週間振り返って「この御言葉が与えられました」ということがあったでしょうか?続けて私たち、み言葉と共に歩む日々を続けて参りたいと思います。

皆さんの中には、もしかすると聖書を開いたり聖書を読んだりすることに、やや億劫さを感じている方がいらっしゃるかもしれません。その方にはぜひ16世紀宗教改革期のヨーロッパのクリスチャンたちの姿を紹介したいと思います。宗教改革者のマルチンルターは、聖書をドイツ語に翻訳をいたしました。当時の教会にあって、それは大変大きな問題になりました。どうしてかと言いますと、当時のカトリック教会にとっては、ラテン語こそは神の言葉だったからであります。ドイツ語のような一般庶民の言葉に聖書を翻訳するということは当時は許されていませんでした。よって当時の人々、一般の人々は教会の司祭の解き明かす言葉によってのみ聖書、神のことばを聞くことができました。けれども自分で聖書を開いて読むということはありませんでした。ところがルーターが聖書をドイツ語に訳してくれた結果ドイツの人々は、自分の聖書、自分の言葉で神のみ言葉読むことができた。自分の知っている言葉で、神の声が聞こえてきた。それは当時の人々にとってて大変大きな喜びだったといえるでしょう。当時のカトリック教会はルーターに踊らされないようにと、警告を発したようでしたけれども、あまり効果がなかったようです。

どうしてかと言うと人々は、直接神の言葉を聞くことができたから。

今日私たち日本語で聖書が読めるというのは、本当に感謝なことではないかなと思いますね。自分の知っている言葉で、神の声が聞こえてくるということは、私たちにとって本当に嬉しいことではないでしょうか。意外と私達、幸せなのにその幸せに気づいてないってことが結構あるかなと思いますね。本当に素晴らしい恵みが与えられているのに、その恵みがまだ十分に味わい尽くせていないということもあるかなと思いますが、私たち、日本語で聖書が読める、自分の言葉で聖書がやめるっていう事に本当に感謝するものでありたいと思います。

1.私の目を開いてください

とは言いましても、でもやっぱり聖書って難しいなという、そういう思いを抱くことがあるかなと思います。それには理由があります。その理由が今日の聖書の箇所の中に示されているように思います。18節の御言葉に注目をしたいと思います。18節、

[aside type=”boader”]私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。[/aside]

これはこの詩篇の著者が祈っている祈りの言葉ですけれども、「私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください」と、ここで彼は祈っていることがわかります。この詩篇 の著者は、み言葉を喜びとしていた人ですね。み言葉にいつも親しんで本当にみことばにより頼んでいた人です。その彼が「私の目を開いてください」と祈りました。自分の目がよく見えていないという、そういう認識を彼が持っているということがわかります。そして主なる神様が自分の目を開いてくださらない限り、み教えのうちにある奇しいことは見えてこないという、そういう理解を持っているということが分かるのではないでしょうか。おそらく神のみ教えの大まかな部分は見えていたんだと思いま。み言葉が語っているところの、家にある薬師その知識その内容に関して、その多くを彼は理解していたのだと思います。

しかしそのうちにあるくすしいこと、そこで語られている神様の最も大切なメッセージ、最もとも素晴らしい部分が見えて こないというそういう意識を彼は持っていた。だから彼はここで神様に向かって「私の目を開いてください」と祈っているということが分かるんですね。「あなたが伝えようとしている最も大事な部分のみことばの中に示されている素晴らしい部分がはっきり見えるように、どうぞ私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。」そのように祈っている。そのような祈りであることを心に留めたいと思います。

私たちも同じ心境になることがあるんじゃないかなと思うんですね。聖書に示されているある程度のことは分かるんですね。お話としてはよく分かるんです。でも、わかるけど心に響いて来ないっていうことがあるように思うんですよね。頭では納得しているのに、心ではまだ満たされていないっていうこともあるんじゃないでしょうか。私たちも皆同じです。

もし神様が私たちの目を開いてくださらなければ、私たちもみ教えのうちにあるくすしいことが見えてこない。私たちの霊の目が閉ざされているされているっていうことです。そして同時に聖書の言葉の奥義は隠されているっていう事は、新約聖書の中でも教えられていますよね。ですからそのみ言葉の中にあるみ教のうちにあるくすしいことが本当によくわかるためには注意が必要です。聖霊の導きが必要です。そのようにして私たちは初めて聖霊の導きの中で、そこに示されている聖書のみ言葉の奥義を教えていただけるということをぜひ心に留めるものでありたい。そして何よりも私たちには謙虚さが必要だということを覚えたいと思います。

私たちは時々御言葉を自分勝手に解釈してしまいたくなる誘惑があるんではないかなと思うんですよね。第2ペテロの1章20節において、「聖書のどんな予言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい」と教えられていますけれども、神様の御声に謙虚に耳を傾けるということではなくて、自分がどう感じるか自分がどう解釈するか、神様が中心ではなくて、自分が中心になって聖書を読んでしまうというそういう誘惑に駆られてしまうことがあるんじゃないかなと思うんですよね。

この詩篇219篇読んでいて気付かされる一つの事があるんです。それはこの著者は本当に謙遜な人だってことなんですね。今日の聖書の箇所の中にも出てきますが、17節で彼は自分のことを「あなたのしもべ」と呼んでいますね。また23節でも自分のことを「このしもべ

」って呼んでおります。自分が神様のしもべであり、神様は自分の主人であるということをよくわきまえているということが分かる。

下僕にとって大事なことって何でしょうか。それは謙虚な気持ちで主人の言葉を聞くことだと思いますよね。主人の指示にすぐに行動できるように、よく心を整えて、よく準備をして、そして御主人の声を今か今かと聞くという、そういう姿勢、心の姿勢が私たちにも求められているのではないでしょうか。私達が聖書を開く時、み言葉と向き合う時に、まさにそういう心が求められているのではないでしょうか。ぜひ私たちにも、「私の目を開いてください」と祈る、そのような祈りを与えて欲しいものだと思います。そして祈りと聖霊の導きの中で、私たちも聖書の中にあるくすしいことに、み言葉によって導いていただきたい。そのような体験へと、わたしたちは導いていただきたい。そのように祈りながら私たちは聖書を読むものでありたいと思います。

2.私は地では旅人です。

さてこの詩篇119篇の著者は、読んでいるとすぐわかります、み言葉が本当に大事なんですよね。みことばを渇望しています。しかもみ言葉の表面的なことではない。大枠ではない。みことばのうちにあるくすしいものを求めている。本当に強く強く求めている。どうしてこんなに強く深くこの人はみ言葉求めているんだろうかって?そういう風に感じさせられる姿勢だなと思うんですよね 。その理由が次に出てくることではないかなと思います。19節をお読みいたします。

[aside type=”boader”]私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください[/aside]

このように彼は告白しています。彼は自分のことをこの地では旅人であると、そのように自覚していたということがわかります。旅人というのはの寄留者という、そういう意味の言葉ですけど、つまり自分の土地を持ってないんですね。自分の土地を持っていない。つまり自分の立場が定まっていない人のことですね。非常に不安定な人です。自分の足元に頼れるものが何もないですから、この人は「あなたの仰せを私に隠さないでください」と祈っています。旅人である彼を足元から支えてくれているのが「神様の仰せ」「み言葉」だったからであります。彼がみ言葉を本当に求めていたのは、まさに彼が旅人であるという自覚を持っていたからであったということを心に留めたいと思います。

彼は「私は地では旅人です」というきわめて限定的な言い方をしているということに気づかされます。「地では旅人」ってどういう意味でしょうか?それはつまり天ではそうではないって意味なんですよね。この地上での歩みが続く限りこの人は旅人なんです。地では旅人なんです。しかしその状態がいつまでも続くわけではない。やがてこの人は天に移されるんです。そしてその時にはもはや旅人ではありません。新約聖書の中でパウロは「私たちの国籍は天にあります」って、そのように教えました。今の私たちの人生は仮の宿です。しかしいずれ私たちは、私たちの国籍である天に移されるということを私たちに教えている。そしてイエス様もヨハネの福音書の14章で弟子たちに教えられました。「私の父の家には住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために私は場所を備えに行くのです。」そのようにイエス様は弟子達に教えられました。先にイエス様天に帰られたわけですけれども、その先に天に帰られたイエス様は、私たちのために住まいを用意して待っておられると約束してくださった。つまり私たちは天においては住まいがもう保証されていますね。もう天においては天の住民です。そこではもう旅人ではないんです家。詩篇119篇の著者が、「私は地では旅人です」と語る時、その言葉の中には地では旅人であるけれど、その状態が永遠に続くわけではないということ、やがて天では天の住民にされるという希望が、もうそこに意識されていたということ、含まれていたということを、私たちは心に留めたいと思います。私たちはそのような希望が与えられている点においては、もう希望が与えられていることに感謝しながら、でも私たち思います。でも地上の旅人としての歩みは決して生易しいものではないということ、そういうことも意識させられることではないでしょうか。その事が20節21節22節を読むと感じさせられることだなと思います。20節21節22節と読んでゆきたいと思います。

[aside type=”boader”]いつの時もあなたの裁きをしたい求めて、私の魂は押しつぶされるほどです。あなたはあなたの仰せから迷い出る、高ぶる者の呪われるべき者を、お咎めになります。 私から、そしりと蔑みを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです。[/aside]

このように詩篇の著者は続けて語っております。

ここにですね、この詩篇の著者がこの時に経験していた苦しみの一端が示されているのを感じさせられるんではないかなと思います。地では旅人、旅人として歩む時に、そこで経験しなければいけない困難、苦しみの一端がそこに示されているように思う。具体的にどういう状況がそこにあったのか、私たちには分かりませんけれども、しかし神の仰せから迷い出る高ぶる者、呪われるべき者達から、彼はそしられたり蔑まれたりしているということが分かる。それゆえに彼は神様に正しい裁きを、慕い求めていますね。本当に不正が行われています。この世では本当に理不尽なことがたくさんある。その中にあって神様に正しい裁きを求めている彼の姿、そして「私からそしりと蔑みを取り去ってください」と切に祈っている。そのような信仰者の姿がここに示されていることがわかります。私たちも信仰をもってこの地上で歩んで行く時に、いろんな経験をすると思います。誤解されることもあるし、馬鹿にされることもあるし、偏見の目で見られてしまうこともあるし、この詩篇の著者のようにそしられたり蔑まれたりする 教えられていくんではないだろうかそんな時私たちはどう対処するでしょうか。いろんな起こってくる出来事に対して、私たちは感情に任せて言い返したり、弁明したり戦ったりするってことがあるかもしれない。そういうことももしかしたら必要なのかもしれないけれども、しかしこの詩篇の著者は、ここでどのような対処をしているでしょうか?このことにも私たち注目したいと思うんですよね。23節をお読みいたします。

[aside type=”boader”]たとえ君主たちが座して私に敵対して語り合っても、このしもべは、あなたの掟に思いを潜めます。[/aside]

このように彼は告白をしています。自分がもしかすると権力者の前に引き出されてしまうかもしれない。告発されてしまうかもしれない。そんな危険を意識しながら、しかし仮にそうなったとしても、そのような苦境の中に置かれたとしても、私はあなたのおきて、つまり神の言葉に思いをひそめると、このように彼は告白している。この人がいかにみ言葉により頼んでいる人か、いかにこの人がみ言葉を慕い求めている人であるか、そしてみ言葉に信頼している人であるか、というのがよく感じられる言葉ではないだろうかと思うんですよね。私たちもこの世で歩んで行く時、信仰者として歩んで行く時に、色んな出来事の中に巻き込まれますよね。色んな経験をします。その時に私たちどんな対応しているでしょうか。私たちもこの詩篇の著者のように、神の言葉に思いを潜めるものでありたいと思います。自分の感情や思い、複雑な思いにとらわれやすいまさにそのような時に、そこに神様のみ言葉がありますように、そこで語られている主のみ言葉に耳を傾けることができますように、そしてそのみ言葉に信頼することができますように、まさにその時にみ言葉に思いを潜めるというそういう体験が与えられるように。そのようにして私たちの信仰が養われていくならば、それは本当に私たちにとって感謝なことではないだろうかと思うんですね。是非そのようにして私たちもあなたの掟に思いを潜めるというそういう経験を通して、信仰を養っていくものでありたいと思います。

3.あなたのさとしこそ私の喜び、助言者です。

さて私たちがこの地上で旅人として歩んで行く時、そしてそこで与えられる神の言葉に想いを潜めながら、み言葉に信頼しながら歩んでいくときに、そこで与えられるのはどんな体験なんでしょうか。そのことを最後に確認をして終わりにしたいと思います。

24節の言葉に注目をしたいと思います。24節をお読みいたします。

[aside type=”boader”]あなたのさとしこそ、私の喜び、私の助言者です。[/aside]

彼はこのように告白しました。彼の旅人として歩みは本当に苦しかった。色々な試練がありました。色んな経験する中で、でもその中で、彼はみ言葉に思いを潜めて、そこで主の語られる声を聞きました。そしてそのみ言葉に信頼しました。その経験が彼にとっては喜びだったっていうことなんですよね。そうじゃないでしょうか。私たちも本当にそのようないろんな経験をする中で、そこに主が語ってくださってる声を聞くことができたら、主が語ってくださることが分かったら、私たちにとって本当に嬉しいことではないかなと思いますね。

そしてこれがさらに喜びなのはどうしてなのか?それはここで彼は「私の助言者です」って語っています。「あなたのさとしこそ、私の喜び、私の助言者です。」み言葉が彼に必要な助言を与えてくれているということ、全能者なる神様が彼にみ言葉を通して必要な助言を与えてくださっていること、今この状況の中で、自分は何をしたらいいのか、何を語ったらいいのか、どの方向に向かって歩んで行ったらいいのか、彼が本当に心の深いところで求めているその助言が、まさに神様から与えられるというその経験、それはどんなに彼にとって嬉しいことだったでしょうか。この「助言」と訳されている言葉は、「忠告」とも訳される言葉ですけれども、私たちの人生に必要なのもこの助言であり、この忠告ではないだろうかと思います。人から与えられる助言や忠告もありがたいなと思いますね。でも時々私たちは、人の助言や忠告を聞きすぎてしまって、かえって混乱してしまうこともあるかなと思いますね。かえって戸惑ってしまうこともあるかなと思います。もちろんみんな善意でアドバイスを与えてくださってるわけですけれども、でも時々的が外れていたりすることがあるかなと思います。やはり人間は完全ではないんですよね。人間は限界があります。

しかし神様のくださる助言はどうでしょうか。そういうことがないですね。どうしてですか?神様は天地万物の造り主、私たち一人ひとりを作られた創造主なる神様、私たちの全てをご存知です。私たちの体の中に何があるのか、私たちの人生に何が必要なのか、私たちがどの方向を歩むべきなのか、みんな主はご存知なんですよね。しかもこの方は私たちのことを本当に愛してくださっています。私たちの最善を願っています。私たちの人生が祝福され幸せになることを主は願っておられ、そして神にとって不可能なことは何一つないと、聖書で教えられている。その方が私たちの歩みに伴っておられる。私たちを導いてくださっている。そしてその方から助言が与えられるとするならば、それは私たちにとってなんと嬉しいことではないでしょうか。なんと幸いなことではないでしょうか。私たちに求められているのは本当にその助言を、私たちは聞いているのかっていうこと、そのことが私たちに問われているんじゃないかなと思うんですよね。

4.結び

私たちの神様は、私たちにとっての本当に助言者でしょうか?助言者として私達の中で意識されているでしょうか?私達は本当に神様の助言を待ち望んでいるでしょうか?もしかすると神様の助言をよく聞かないうちに、自分で勝手に判断し、自分で勝手に動き出しているということはないでしょうか。私たちは時々判断が早すぎるときがあるんじゃないかなと思うんですよね。もう少しそこでじっくり留まって、そこでみ言葉に思いを潜め、主が語ってくださることを味わいながら、神様は、なにを自分に願っておられることなのか、よく考え、わきまえてから判断すればいいのに、そういうことを十分にしないうちに、自分の感覚、自分の経験、自分の常識というもので、勝手に判断して動き出してしまうということが結構あるんじゃないだろうかという風に思うんですね。せっかく主がそばにいて、私たちに助言のみ言葉を語ってくださっているのにも関わらず、それはあまり聞こうとしないで、むしろ自分の感覚で判断してしまうということが多々あるんではないでしょうか。私たちはこの世から召し出されて、あがなわれて神様のものとされて、そして旅人としての歩みが始まっているにも関わらず、私たちは知らず知らずのうちにこの世にしっかり根を張って、この世の住民になってしまっているということがあるんではないでしょうか。神様のみ言葉に聞き従う、神様のみ言葉によって生かされるという生き方ではなくて、この世の価値観、この世の常識、この世の流れに従って、しっかりこの世に根を張って歩んでしまっている事の多い私達ではないでしょうか。私たちはこの詩篇の著者が告白している「私は地では旅人です」というこの告白を、私たち自身の告白にしていきたい。旅人の特徴は、神の言葉によって生かされるってことです。神の言葉に本当に信頼して歩んでいくということです。この方がくださる助言を求めながら生きていくということです。そのようにして私たちも、旅人として歩んでいこうではありませんか。この地では旅人です。天においてはもう住まいが与えられています。その恵、その希望に生かされながら、私たちはこの地上において旅人として信仰を持って歩んでいくものであり たいと思います。

もっともっとみ言葉に思いを潜めようではありませんか。私たちの日々の歩みの中で、具体的な状況の中で、父が語ってくださってる助言を私たちもっと聞こうではありませんか。信頼しようではありませんか。そのようにしてこの一週間も本当にみ言葉と共に歩む者でありたいと思います。主が語ってくださるそのみ言葉に信頼しながら、旅人としての歩みを続けていくものとなろうではありませんか。

 

お祈りをしたいと思います。愛する神様。み名を賛美します。あなたがいつも私たちに伴ってくださって、助言を与えてくださる方であることを感謝します。それにもかかわらず、あなたの助言に耳を傾けることの乏しい私たちを許しください。自分の思いの中で勝手に判断してしまう私たちをお許しください。どうか私たちを高ぶりの罪から守り、へりくだって助言者なるあなたのみ声に耳を傾けることができるように、そして信仰を持って天の御国へ私たちが導かれるまで、本当に旅人としての歩みをこの世において続けていくことができるように、どうか今日も明日も励まして下さるようにお願い致します。み言葉を感謝し、主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

あなたのみ言葉を心に蓄えます。

 

今日は詩篇119篇9節からの箇所ですけれども、「あなたの御言葉を心に蓄えます」という題で、説教をお語りしたいと思います。私たちの教会には数は少ないかもしれませんけれども、若い人たちや子供たちが与えられていることを感謝したいと思います。私たちは最近の若い人は、こうだあーだと、よくそういうことを言いますけれども、今の若い人も昔の若い人も基本的には変わっていないのではないだろうかと思います。若い人は豊かな可能性に満ちているということが言えると思います。ですから若い人たちのこれからのことが楽しみです。でも同時に若い人たちは皆、発展途上であり未完成です。ですからいろんなことを学んでいかなければいけません。それゆえに若い人たちはいつの時代も悩んでいると思います。自分について自分の将来について、これからどう生きていったらいいのかについて色々悩んでいるんじゃないかなと思います。よってとても不安定な時期ということも言えるのかなと思います。教会はどのようにして若い人たちを励まし育てていくことができるでしょうか?教会に与えられている大切な努めだと思います 。今日与えられている聖書の御言葉に私たちは耳を傾けていきたいと思います。

1.み言葉の通りに道を守る

詩篇の著者は今日の聖書の箇所でこのように語っています。9節をお読みます。

[aside type=”boader”] どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。[/aside]

 

どのようにして若い人は自分の道を良く保つことができるのかと問いかけております。その答えが次の言葉です。

[aside type=”boader”]あなたの御言葉の通りに、道を守ることです。[/aside]

このように教えられております。「あなたの御言葉を守る」のではなくて、「あなたの御言葉の通りに道を守ることです」と、ここで教えられています。つまり御言葉が基準であり、その基準に従って人生を歩んで行くということ、御言葉と自分の道が分離していない。御言葉と自分の道がしっかりと繋がっているということ、御言葉に基づいて人生が築かれているということ、そのようにして若い人は自分の道を清く保つことができると、ここで教えられております。ここで「道を守ることです」、「道を守る」という言葉がここで使われております。若い人たちは、御言葉の通りに自分の道を守らなければならないということであります。

この世は様々な教え、色んな教え、もっともらしい教え、そして魅力的な価値観に満ちていると思います。今の私たちの生きている時代は、ポストモダンの時代と呼ばれます。これは「近代以後」と訳されるんですけれども、かつて社会主義、共産主義、資本主義、何々主義と呼ばれるそういう「主義」と呼ばれる価値観がとても大事にされた時代があったと思います。近代と呼ばれる時代があったと思います。でも今は「ポストモダン」、「近代以後」の時代と言われるんですね。この時代の特徴は、「真理」も「価値観」も、人それぞれですという考え方、真理よりも「フィーリング」が大事ですという考え方、絶対的な真理よりも、「それぞれの価値観や考え方」が大切にされなければならないという、そういう価値観が支配的な時代だといわれていますね。何が真理であるかという見極めよりも,、それぞれがどう感じるかが大事であるということが尊重される、そんな時代であるという風に言われております。

そのように「考え方」も「価値観」も無限に多様化していくわけですけれども、しかしそのような相対的な価値観では、実は人間は満たされることができないんですね。私たち一人一人は絶対的な神様によって作られていますので、必ず絶対的な何かが必要なんですね。それは心の深いところではみんな求めています。ですから現代では何か自信と確信に満ちた強い意見を主張する人の声にむしろ人々が共鳴するってういう傾向があるということが指摘されています。時代も変わってくんですね。時代の変遷の中で人間の意識も変わっていきます 。

私たちが若い時に当然だったとされていたことの多くは、今の若い人たちには全く通用しないと思いますね。そういうことが多いと思いますね。そして今の若い人にとって当然だと思っていることも、次の時代になるとまったく時代遅れになってしまうってことが、多分起こるんではないかと思います。私たちは時代の変化に翻弄されるんですね。付いていきたくても、ついていけない。そしてその影響を一番受けやすいのが、若い人々ということになるのではないでしょうか。

若い人々に何が必要なんでしょうか?

聖書によると「みことば」が必要であるということです。神の言葉が必要です。そして神の言葉に対する信頼が必要です。御言葉を基準として、御言葉に基づいて、自らの人生を立ち上げる取り組みが必要です。そのように私たちは、聖書で教えられていることを心に留めるものでありたいと思います。

旧約聖書を読んでいると、イスラエルの民は自らの子供達に徹底してみことば教えていたということが分かるんですね。色んな所を通して教えられるんですけれども、特に申命記6章の記事を通して、私たちは教えられるんではないかなと思います。申命記6章の6節から9節まで読んでみたいと思います。申命記6章の6節、

[aside type=”boader”]私が今日あなたに命じるこれらの言葉を心にとどめなさい。これはあなたの子供たちによく教え込みなさい。あなたが家で座っている時も道を歩く時も、寝る時も起きる時も、これを彼らに語りなさい。これをしるしとして自分の手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい[/aside]

と、このように子供達にただなんとなくに言葉を教えるのではなくてよく教え込みなさいと、ここに書かれてますね。教え込むんです。そして家で座っている時、道を歩く時、寝る時、起きている時も、御言葉を子供たちに教えるように。さらに手に結びつけたり、記章として額の上に置いたり、家の戸口と柱と門に書き記したりして、それくらい徹底してみことばを子供たちに教えるように、教え込むようにと聖書で教えられている。イスラエルの民はこれを忠実に守ったんだと思いますね。もうその教えるという、子供たちに教えるということに関しては妥協がないんですね。徹底しています。でも、これが子供たちの人生が祝福されるための一番の秘訣でありました。若い人たちが自分の道を清く保つための一番良い方法でした。

私たち大人が子供たちのためにできる最大の事って何でしょうか?親が子供のためにできる最大の事って何でしょうか?いろんなことがあると思いますが、でも一番大事なことは御言葉を教えることではないでしょうか。子供達がみことばにより頼んで生きていくことができるように励ますことではないでしょうか。それが私たちに与えられている務めであるということを覚えたいと思います 。

教会では毎週のように教会学校がもたれているということは、どんなに大切なことであるか、とても大きな恵みであるかっていうことを私達覚えたいと思いますね。そして毎回そこに子供達がやってきて、教える先生がいるって事がどんなに素晴らしいことか、このような聖書の記事を通して私たちはを教えられるんではないでしょうか。ぜひこのCSの働きが先生達だけの働きではなくて、本当に私たち全体の教会の働きとして、担っていきたいなと思うんですね。私たちも祈り励ますものでありたい。そして子供達が確実に御言葉に基づいて人生を歩んでいくことができるように、そこまで祈っていくってことですね。励ましていくっていうこと、それが教会に与えられている勤めなんだってことを、自覚するものでありたいと思います。

2.み言葉を心に蓄える

さてこの詩篇の著者はある一つのことに取り組んでいるということがわかります。何に取り組んでいるんでしょうか。11節の御言葉を読んでみたいと思います。

[aside type=”boader”]私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。[/aside]

この人は「みことば」を心に蓄えようとしていることがわかります。何のためにそれをしてるんですか?それは神の前に罪ある者とならないためであると、このように彼は話しています。人の前ではなくて神の前に罪ある者とならないことを、この人願っているということがわかります。人の目は誤魔化すことができるんですね。時々私たちは人の目をごまかして罪を犯すことがあるんです。でも人の目をどんなにごまかすことができたとしても、神の目は誤魔化せないということをこの人よく知っているんですよね。そして自分の罪が人の前ではなくて神の前に問われているっていう自覚をこの人持っているんです。この人は自分が罪人であるってことを、よく知っています。そしてその罪がいかに恐ろしいかということも分かっています。ですからこの人必死になって祈ってるんですよね。10節で、

[aside type=”boader”]どうか、あなたの仰せから、私が迷い出ないようにしてください。[/aside]

と祈ってます。12節でも、

[aside type=”boader”]あなたの掟を私に教えてください。[/aside]

と祈ってます。もし神様の言葉がなければ、仰せがなければ、掟がなければ、自分はすぐにでも迷い出してしまうという、そういう危うさを意識しているからこそ、彼は必死になって祈っている。この人は罪の誘惑と力が、いかに大きいかが分かっている。そしてその結果がどんなに恐ろしいかもわかっている。想像するに、この人は若い時に罪の問題で悩み苦しんでいたのかもしれない。そしてその罪の問題をずっとその後も引き続き悩み続けているという人だったのではないかと思います。

そんな罪から自分を守る一番いい方法は何でしょうか?

それが「みことば」を心に蓄えることです。そのことを彼は知っているからこそ、み言葉を心に蓄えるんですね。もうたくさん、たくさんみ言葉を心に蓄えるんです。そのようなことに取り組んでいるということを私たちを教えられることではないでしょうか。

ここで蓄えると訳されている言葉の元々の意味は、「隠す・秘める」という意味があります。つまりこれはただ単に御言葉をたくさん覚え、覚えて蓄えればいいということではなくて、蓄えた御言葉の中に、じっと留まり思いめぐらすこと、その御言葉が自分の人生にどう関わっているのか、何が自分に語られているのかをよく考えること、そのことも全部含んでいる「蓄える」という言葉であるということを意識したいなと思うんですね 。

聖書を学んでいればそれで信仰が成長していくかと言うと必ずしもそうではないと思うんですね。子供達は教会学校に来て毎週聖書の話をたくさん聞きますね。でもそのお話は、お話として受け止めながら、その学んだお話が、自分の生活の中に繋がっていかないという課題が時々起こるんではないかなと思うんですね。アブラハムの話も、モーセの話も、ダビデの話も、ペテロの話も、イエス様の話も、色々学んでそれはとても良いお話として聞いて帰るんですけれども、その聞いたことが、学んだことが、自分の生活の中に必ずしも繋がっていかないということが起こり得るんじゃないでしょうか。せっかく毎週毎週教会に来て聖書を学んでいるのに、それが実生活に活かされていかないとするならば、それはとても残念なことじゃないかなと思うんです。

でもこれは子供たちのことだけではないですね。大人も同じです。私たちも教会に来てみ言葉を聞き聖書を学びます。聖書を学んでだんだん聖書に詳しくなっていきますが、そこに何が書いてあるかだんだん理解するようになっていきます。

でもどんなにそこで学んでも、その学んだことがなかなか生活の中に繋がっていかないということが起こりうるんではないでしょうか。せっかく学んだ御言葉が、生活の中にいかされていかないということがあるんではないでしょうか。日曜日の教会と、月曜日から土曜日までの生活、普段の生活が、どこか切り離されてしまっていることはないだろうか。あるいはこの世の価値観があまりにも強すぎて、そのように感じられているために、教会で学んだことはあまり通用しないと、最初から諦めてしまっているようなことはないだろうか。私たちにも神の御言葉を心に蓄える取り組みが必要なんではないでしょうか。

 

どうすれば私たちは日々の歩みの中で御言葉に生かされることができるんでしょうか?みことばの力を体験できるんでしょうか?その力も実は御言葉の中にあるって言うことを私たち覚えたいと思うんですよね。私たちは時々学んだこと、聖書から学んだことを活かすために、自分で頑張ろうとするんですね。努力をしてクリスチャンらしくなりたいなと思うんですね。それで努力をして、でも全然その通りにいかないので、疲れてしまうんですね。そしてだんだんみことばを学ぶことが負担になっていったりすることがあると思いますね。どこに問題があるんでしょうか?

自分の力でそれを成し遂げる力はないんですよね。その力も実は御言葉の中にあるんです。御言葉は「種(たね)」であると、聖書で例えられていますけども、種には命があるんです。種が成長していくんですが、それは種の中に命があるんですよね。御言葉の中に命があるんです。ですから種は必ず成長します。ところがその種も固い土の上や、岩地やいばらの上に落ちてしまうと、なかなか種は成長していかないんだよということをイエス様は、お話になりました。それはそこに成長を阻んでしまうものがあるからなんですよね。御言葉を生かすも殺すも、私たちの心がけ次第ということであります。私たちがどのような心の状態でみことばを聞き、それを受け止めるかによってかかっている。私たちも是非御言葉を心に蓄える取り組みをしていきたい。みことばを聞いてそれを心の中に受け止めて、その御言葉の力に、私たちが触れるまで、その御言葉の力に私たちが生かされるまで、じっとそこにとどまり続けること。私たちはもしかすると、御言葉を受けてその力を体験する前に、もう自分で動き始めてしまうことが多いんじゃないかなと思うんですよね。みことばを経験する前にもう自分で動いてしまって、なにか自分で成し遂げようとして、そのために全くみ言葉を経験できない、御言葉に生かされると恵みを味わうことができない、そこでずっと留まり続けるということ、心に蓄えるっていう事、それがもっともっと私たちに必要なことではないだろうかと思わされますね。

私たちはみことばを聞いてその御言葉の中にとどまり続け、そして本当に御言葉の力に触れて、その命に生かされるものになりたい。そのような体験をするものでありたい。そのような一週間として歩んでいけたら本当に幸いだなと思います。

3.み言葉が生み出す喜びに満たされる

さて最後にもう一つの事を確認して終わりたいと思いますが、もし私たちが御言葉を心に蓄えたらどうなるんでしょうか。そのことを御言葉を通して確認をしていきたいと思います。14節と15節と16節をお読みいたします

[aside type=”boader”]私はあなたのサトシの道を、どんな宝よりも楽しんでいます。私はあなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。私はあなたの掟を喜びとし、あなたの御言葉を忘れません。[/aside]

この詩篇の著者は、「私はあなたのサトシの道をどんな宝よりも楽しんでいます」とそのような告白に導かれていることがわかります。この世のどんな素晴らしい宝も霞んで見えてしまうくらい神様のさとしの道は楽しい道であるということが分かる。その楽しさを彼は味わっている、体験しているということがわかります。それゆえに彼はさらに、神様の戒めに思いを潜め、神様の道に目を留めたと15節で告白をしています。すると彼は最後に、「私はあなたの掟を喜びとし、あなたの御言葉を忘れません」と、そのように告白している。

そのような告白に導かれていることがわかります。み言葉を心に蓄えることが、彼にとって本当に楽しいこと、嬉しいことだったということ、み言葉を心に蓄えることによって本当にそこに神様の祝福が溢れるということ、み言葉のいのちに生かされるという恵を彼は体験しているということであります。み言葉が彼の人生に直結するんですよね。み言葉と彼の道が一つになるんです。

皆さん、どうでしょうか?御言葉と皆さんの人生は本当に一つになっているでしょうか?繋がっているでしょうか?そして、み言葉が彼の人生を豊かにしていくんですよね。彼の人格を、性質を変えていきますね。彼の人生を変えていくんです。そして人生が本当に整えられていく。祝福に満ちていく。もしそれが経験できたら、本当にそれは楽しいとになり、それは嬉しいことではないでしょうか。

私たちの課題は、なかなかその楽しさ、嬉しさを感じるところまで行かないっていう、そういう課題があるんじゃないかなと思うんですよね。私たちはどれだけこの楽しみと喜びを日々の歩みの中で体験できているんだろうか。そしてもしできていないとするならば、どうしてなんだろうか。そこは非常に大事なところではないかなと思いますね。

私たちは、何に私たちの喜び、楽しみを見出しているでしょうか。本当にみ言葉の中にこの喜び楽しみを見出しているでしょうか?もしかしたら別のところに私たちの喜びと楽しみを求めているということはないだろうか。そういうことも、私たち考えなければいけないことかなと思うんですよね。「み言葉の学びはもう十分です。それよりもっと交わりがしたいです」っていうそういう声を聞くことが時々ありますね。あるいは「もう御言葉の学びはほどほどにして、もっと活動しましょう、活動的になりましょう」ってそんな声を聞くことも時々あります。交わりはとっても大事なんですね。活動もとっても大事なんです。教会は活動的でなければいけないんですね。

でももしその交わりが、み言葉に基づいた交わりでなければ、その交わりはだんだん人間中心の交わりになっていくんです。神様の恵みによって満たされた交わりではなくて、自分の成果を誇ったり、自慢したりするような、そんな交わりになってしまうんです。活動がいけないわけではない。活動も素晴らしいこと。でももしその活動に御言葉がなければ、その活動は全く力のないものになってしまうんです。そしてこの世の価値観に流されてしまう結果になってしまう。逆にその中心にみ言葉があるならば、その交わりは豊かな祝福に満ちた交わりになります。そこにみ言葉があるならば、その活動は本当に力に満ちた祝福された活動になっていく。

私たちは、何に私たちの喜びと楽しみを見出しているでしょうか。是非私達はこのみ言葉によって生かされる恵み、その喜び楽しみを体験するものでありたい。そして私たちの信仰生活の土台を、み言葉に据えるものでありたい。そのようにして私たちの歩みを整えていくものでありたいと思います。

4.結び

子供達、若い人達は教会に来る時、どんな気持ちで来ていてくれるかなと時々思いますね。本当に喜んで来てくれているだろうか?もしかしたらいやいや来ているって事はないだろうか。そんなことを考えたりすることもあります。そして私たち大人も、信仰者として歩む楽しみ喜びを、どれだけ若い人たち、子供達に伝えきれているだろうかってことも合わせて考えさせられることであります。クリスチャンになることが、何か禁欲的になることだと考えている人もいますけれども、決してそうではないと思うんですよね。クリスチャンになるって事は、主のみ言葉によって生かされるってことですね。主のみ言葉によって捕らえられ、歩むっていうことで、そこには必ず喜びがありますね。楽しみがありますね。私たちの人格が、人生が、もう神様のみ言葉によって支えられて行く。そしてそこには必ず祝福があり、それが本当に楽しいあゆみ、嬉しあゆみではないでしょうか。

その楽しみ、喜びが本当に次の世代の人たちに伝えられているかどうか、私たち、ぜひその恵みを味わうものでありたいなと思います。どうか私たち自身が、み言葉を心に蓄え、み言葉に生かされる恵みを体験できますように。そしてそのようにしてみ言葉に生かされる恵みを、次の世代の人達に、若い人達に、子供達に語り継いでいくことができますように。そしてその結果として、神様の祝福が次の世代の子供たち、孫たちに豊かに伝えられていくように私たちは祈り励んでいくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様。御名を賛美いたします。教会に子供達、若い人たちを与えてくださっていることを感謝します。どうか若い人たち、子供達の歩みの中に、み言葉がありますように。み言葉に基づいて自らの道を歩んでいくことができますように。そのために私たちがふさわしい励ましと、祈りを祈ることができますように。私たち自身が御言葉に生かされる喜びと楽しみを経験し、喜びをもって子供たちに伝えることができますように。どうか、いつも私たちが、み言葉から離れることがないように助け導いてください。この一週も主が語ってくださる、み言葉に期待します。そのようにどうぞ私たちを導いてください。感謝します。主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

主のみおしえに歩む人々

 

5月は,、一か月、詩篇22篇の御言葉に皆さんと一緒に耳を傾けてきました。久しぶりに礼拝の中で詩篇の御言葉を味わったわけですけれども、実は当初の予定では詩篇は繋ぎのつもりでありました。詩篇が終わったら次の聖書の箇所にうつって、どこから御言葉語ろうかと祈りながら考えておりました。ところが詩篇の22編を皆さんと一緒に味わっているうちに、わたし自身の心が非常に喜んでいるということを感じました。また私の心が詩篇を求めているというそういうことに気づかされまして、もっと皆さんと一緒に詩篇を味わいたいという願いが起こされました。詩篇の御言葉が本当に私たちの心の深いところに響くメッセージを語っているという風に思ったんですね。それで今日からはユダヤ人たちが最も愛しただろう詩篇の一つである詩篇119篇のみことばに耳を傾けていきたいと、そのように示されました。

どうしてこの詩篇が愛されているかといいますと、非常に美しい文学的技法がこの詩篇には用いられているからです。これはとにかく長い、全部で176節あります。ですから長い長い詩篇なんですけれども、でも、この詩篇は八冊ずつ22の段落に綺麗に分けられております。そして全体が「いろは歌」のような構造になっております。つまりそれぞれの段落の初めの言葉が、全て同じアルファベット、ヘブル語のアルファベットの言葉から始まるという、そういう構造になってるんですね。今日読みました1節から読んでいただいた1節から8節までは、「アレフ」というアルファベットが、全部始まりに来ています。9節から10節までは「ベイト」、そして17節から24節は「ギメル」というまた違うアルファベットが、全部同じ言葉から始まっていて、これがずっと最後まで続いていくんですね。

ですからヘブル語の聖書で読むと、綺麗に収まって、まとまっているということがわかりますし、暗記するときの助けになっているということも分かります。おそらくユダヤ人たちはこの詩篇119編を何度も何度も口ずさみながら暗記したんではないかと考えられますね。そしてこの詩篇の中で繰り返し繰り返し教えられていることがあります。それはみことばの確かさということになります。掟とか智し、戒めなど、いろんな言葉で表されていますけれども、神様の言葉の大切さと、それを守る者の祝福というものが、繰り返し教えられているのがこの詩篇の内容ということになります。私たちもこの詩篇119篇を味わいながら、私たちの御言葉に対する信頼を深め養っていくものでありたいと思います。

さて詩篇119篇の最初の言葉、冒頭の言葉は何でしょうか。それは「幸いなことよ」というその一文であるということがわかります。詩篇全体の最初であります詩篇1篇1節、その最初の言葉もやはり同じ「幸いなことよ」によって始まっています。詩篇全体が「幸いなことよ」っていうこの言葉から始まるんですね。ですから「幸い」ということが、詩篇全体のテーマであると言って良いかと思います。

私たちは誰もが皆、「幸い」を求めていると思います。そして神様も私たち一人ひとりが「幸い」になることを願っておられます。ただ私たちの願う「幸い」と、神様が私たちに願っている「幸い」は、多くの場合違っているのではないかと思います。それゆえに私たちは「幸い」を願い求めつつも、なかなかその幸いを手に入れることができないという、そういう課題を抱えているんじゃないかと思います。

1.罪人の道から守られる

聖書は何と教えてるんでしょうか?聖書が教えている「幸い」って、どんな「幸い」なのでしょうか?今日はそんなことに注目をして、御言葉に耳を傾けていきたいと思います 。

1節と2節の御言葉をお読みいたします。[aside type=”boader”]

 幸いなことよ

 全き道を行く人々

 主のみおしえに歩む人々。

 幸いなことよ

 主のさとしを守り

 心を尽くして主を求める人々。

[/aside]このような人々が幸いの人なんだと教えられていることがわかります。どうして「主のみ教えに歩む人々」、「主のサトシを守る人々」が幸い何でしょうか。

その答えその理由は3節に記されてあります。3節を読みたします。

 

[aside type=”boader”]まことに 彼らは不正を行わず

主の道を歩みます。[/aside]

つまり主のみ教えにあゆみ、主の智しを守ることによって、その人は罪と不正から守られるということ、それゆえに彼らは幸いだということであります。ここに「まことに」という風に言葉がありますけども、「まことに」と訳されているヘブル語の言葉は、「まさに」とか「本当に」とかいう非常に強い意味の言葉が使われております。この部分にこの著者の気持ちが込められているのが感じられます。

主のみ教えに歩むことによって、主の智しを守ることによって、本当に不正から守られるのですよと、著者が実感を込めて語っているのが感じられる。この詩篇の著者は、人間の内側に潜む罪の恐ろしさっていうことを知っている人です。おそらくこの人は自分の罪の問題に悩み苦しんできた人です。罪の誘惑に負けて不正を行ってしまったことがあるんだと思います。その罪の支配から自ら断ち切ることができなくて、逃れることが出来なくて、もがき苦しんできた人。でもその人は、その著者は、神の御言葉によって救われるという経験をしました。そして御言葉によって不正から守られるということを体験しました。それゆえにこの人は、「誠に」と心を込めて告白することができた。

主のみ教えに歩む人々がなぜ幸いなのか?第一の理由はそれは、罪と不正から守られるからであります。詩篇1篇2節ですね、詩篇の最初の言葉もやっぱりですね、ここでも「幸いな人」っていうのは「罪から守られている人」なんだよってこと教えられている。同じことが教えられてるんですね。それが詩篇の最初のメッセージってことになるんですけども、詩篇の1篇1節もちょっと開いてみたいと思います。最初の言葉です。このように教えられております。

[aside type=”boader”]幸いなことよ

悪しき者の謀に歩まず

罪人の道に立たず

嘲るものの座につかない人[/aside]

 

ここに「幸いなこと」、そしてその「幸いな人」ってどんな人か、それはこの罪から守られている人ですよってことが教えられてますね。同じことが教えられていますけども、もう一度読みます。

幸いなことよ、悪しき者の謀に歩まず、罪人の道に立たず、嘲るものの座につかない人

ここで使われてる動詞に注目したいんですけれども、「あゆむ」「立つ」「着く」という動詞が使われていて、その動詞が移り変わっていくところに、この罪の恐ろしさっていうのが表されております。

この人は最初、罪の中を歩んでいました。ところがある時、その中に足を停めて立ってしまうんですね。そこに止まってしまうんです。そうするとさらにそこに居座ってしまうんですね。最初はもしかすると面白半分だったのかもしれません。ちょっとだけ罪の楽しみを味わいたい、その後すぐに立ち去る予定だったのかもしれない。ところが次第にその罪の味に魅了されて足を止めてしまう。そしてその後、完全にそこにのめり込んでしまう。そのようにして罪にとらわれ、支配されてしまう人間の姿っていうのがここに示されている。そしてそれは同時に、「罪」がいかに恐ろしいかっていうことなんです。

私たちの内側に潜む罪によって、私たちが内側から支配され、そして人生を台無しにされてしまう、破壊されてしまう人々が、なんとたくさんいることでしょうか。そしてみんな私達同じ危険にさらされているんですよね。なぜならば私達はみんな罪人だからです。私達はどのようにしてこの罪の攻撃から身を守ることができるのでしょうか?

主の御教えに歩むことによって、智しを守ることによって、つまり御ことばに聞き従うことによって、御ことばに信頼することによって、私達は守られるのです。だからこそ主の御おしえに歩む人は幸いなのだということを、私達は心に止めるものでありたいと思います。神の御言葉は私達を罪の危険から守ってくれる、そのようにして私達は、御ことばに対する信頼を日々深めながら、御ことばに聞き従ってゆく者でありたいとおもいます。

2.神との交わりの中で生かされる幸い

さて主のみ教えに歩む人々はなぜ幸いなのか、2番目のことを注目していきたいと思います。それは二番目に、その人は御言葉を通して神様との親しい交わりの中に加えられていくからであります。詩篇119篇の4節5節6節7節8節をもう一度読んでみたいと思います。

[aside type=”boader”]あなたは戒めを仰せつけられました。

 それらを堅く守るように。

 どうか 私の道が堅くされますように。

 あなたのおきてを守るために。

 そうすれば あなたのすべての仰せを見て

 私は恥じることがありません。

 あなたの義のさばきを学ぶとき

 私は直ぐな心であなたに感謝します。

 私はあなたのおきてを守ります。

 どうか 私を見捨てないでください。

[/aside]このように語られております。1節から3節までのところでは、この詩篇の著者は主のみ教えに歩むことの幸いについて私たちに語り聞かせてくれていました。

ところが4節に入りますと、 「あなたは戒めを仰せつけられました。」と神様に向かって語りかけていることがわかります。神様との対話がここで始まっているということが分かるんですね。そして5節では「どうか私の道が固くされますように」と祈っております。さらに7節では「あなた義の裁きを学ぶ時、私は直ぐな心であなたに感謝します」と神様に向かって感謝しています。そして最後8節においても「どうか私を見捨てないで下さい」とお願いをしている。

つまり4節から8節まで、この人は神様と対話しているっていうことが分かる。彼はみことばのうちに、神様が自分に語りかけておられることを知りました。神様が戒めを固く守るようにと命ぜられていると御言葉を通して気づかされました。神の声を聞きました。そしてその声に彼は反応し応答しました。この詩篇の著者と神様は親しい交わりの中に生かされているということであります。かれは神様のことを「あなた」と呼んでますね。そして自分の事を「私」と呼んでいます。つまり「私ーあなた」という極めて個人的な関係の中に神様との親しい個人的な関係の中に生かされているということ、それがこの人の幸せであり幸いであったということであります。これが主のみ教えに歩む人の幸いです。主の智しを守り、心を尽くして主を求める人の幸いです。主のみ教えに歩む人々は、その神教の導きの中で神様との親しい交わりの中に加えられていきます。私たちも神様が御言葉を通して、私たちに語りかけておられるということを自覚するものでありたいと思います。聖書の言葉は印刷された、記述された言葉です。でもこれ単なる記述された言葉ではなくて、御 言葉です。その御言葉によって主が私たちに語りかけてくださっている語りかけです。よって聖書読むときに大切なのは、聖書の中身を理解するってことは大事ですね。聖書が何て言っているか、そこで何が語られているか、正確に理解するっていうことも大事なんですけれども、それに合わせて、その御言葉を通して主が今この私に語りかけておられるその御声を聞くということ、それも本当に大事なことです。その御声が聞こえた時に、私たちのうちに応答が生まれるんですよね。神様の御言葉が聞こえてきた時に、それに応えたいと願い、私達の願いが生まれてくる。そしてそこから神様との対話が始まっていきます。神様との交わりが始まっていく、それが私たちにとっての幸いであることを覚えたいなと思います。

それにしても天地万物を作られた偉大な神様が、そして歴史を支配し、そしてこの世界の国々を治めておられる大なる偉大なる神様が、私たち一人ひとりに目を留めておられて、私たち一人一人に個人的に語りかけてくださっているという事実を知れば知るほど、それ私たちにとって驚きではないだろうかと思いますね。その事実を知らされる時私たちが感じるのは 喜びよりもむしろ、恐れではないだろうかと思うんです。

そしてその時に私たちは、その言葉をけっして安易に聞いてはいけない。聞き漏らしてはいけない、適当に聞いてはならない。私に語りかけてくださっている御言葉として、本当にへりくだって、厳かに受け止めなければいけないという思いにさせられていくんではないでしょうか。そしてその御言葉に応えたい、そのような応答が生まれてくるのではないかなと思うんですね。

その事実を知り、またそのことを体験する中で、私たちの信仰は神様の前で整えられていくし、養われていくっていうこと、その恵みを私たちは経験するものでありたいと思います。

今、主が皆さん一人一人に語りかけてくださっている声が聞こえているでしょうか。主は皆さんに何を語っているでしょうか。私たちはそのようにして主の御声に耳を傾けるものでありたい。そしてその御声に反応する者でありたい。そのようにして神様との生きた交わりの中に捉えられて行ったらば、私たちにとってなんと幸いなことでしょうか。日々そのような交わりが経験されているとするならば、それは何と喜びに満ちた人生ではないでしょうか。そのような交わりの中に私達はいつも招かれているということを、私たちは忘れないでしっかりと主の声を聞くものでありたいと思います。

3.「主の道」が「私の道」である幸い

主のみ教えに歩む人々がなぜ幸いなのか?3番目のことを今度見ていきたいと思います。

その3番目のことは「私の道が、主の道に変えられる」ということであります。3節でこの詩篇の著者はこのように語っておりました。もう一度3節をお読みいたします。

[aside type=”boader”]まことに彼らは不正を行わず、主の道を歩みます。[/aside]

この言葉を語るときのこの詩篇の著者は自信に満ちていました。「主の御教に歩む人々は本当に不正から守られます」と実感を込めて確信を持って生きることができた。この時この人は本当に自信を持ってこう語ることができたんですよね。

ところがその同じ著者が5節に来るとこのように語っている。

[aside type=”boader”]どうか私の道が堅くされますように。あなたの掟を守るために。[/aside]

こう語るときのこの詩篇の著者はちょっと自信がないんですね。不安な感じなんです。ですからどうか私の道が堅くされますようにと、祈ってる。お願いしています。それを堅く守ることができるように助けてくださいって祈っている。つまりそれは戒めを堅く守ることのできる自信がないってこと、主の御心が示され、主が守ってくださると、恵みに感謝しながらも、それを守る自信が自分にはないという不安を抱えている。

彼は3節で「主の道」という言葉を語り、5節では「私の道」っていう言葉を語っています。この詩篇の著者の中で、二本の道が意識されているということが分かるんですね。主の道は安泰です。安心です。神様が御言葉によって彼をしっかり守ってくれます。そのことで彼は安心してるんですね。そのことを彼は確信しております。しかしもう一方の道を彼は意識している。それは「私の道」、その私の道には不安がいっぱいあります。その道で彼はつまずいてしまうかもしれない。さまよってしまうかもしれない。神様からどんどん離れていってしまうかもしれない。そして自分中心になってしまうかもしれない。その道は決して堅い道ではないんですね。ですからこの人は、どうか私の道が堅くされますようにと祈っている。たえずそこには不安があるんですね。主が共におられる道は安心・安全ですが、しかし自分の道は決してそうではないという、その両方意識しながら彼は祈ってるんですね。

彼は自分の罪人の罪人としての性質がよくわかっているんだと思います。 そして自分中心になってしまうかもしれないその道は、決して堅い道ではないんですね。ですからこの人は「どうか私の道が堅くされますように」と祈っている。そこには不安があるんですね。主が共におられる道は安心安全ですが、しかし自分の道は決してそうではないというその両方意識しながら、彼は祈ってるんですね。彼は自分の罪人の罪人としての性質がよくわかっているんだと思います。すぐに罪に捕らわれてしまう、神様から離れてしまうという弱さをよく知っているんだと思います。そして自分の努力では決して主の道を歩むことのできない自分の弱さっていうものも意識してるんだと思います。ですから彼は祈ってるんですね。繰り返し祈っているんです。「私の道が堅くされますように。どうか私を見捨てないでください」。

私たちの中にもこの二つの道が意識されているのではないでしょうか。一つは「主の道」を私たちは認識してますよね。主が伴ってくださる道、それは本当に安心です。安泰です。そこにはいつも恵があります。主が伴ってくださることのゆえに、安心して歩むことができる。その道を私たちは知っています。ところがもう一つの道も、私たちは意識してるんですね。それは「私の道」「自分の道」なんです。自分の道にはいつも不安があります。自信がないんですね。神様の御心に従っていく、その自信がないんですね。失敗もするんです。つまずくこともあるんです。すぐ自分勝手になってしまうんです。それは罪に汚れた道なんです。おおくの場合私たちは、主の道と私の道の間にあって葛藤し、悩み苦しむんではないだろうか。

でもそこから私たちの祈りが生まれてきます。そしてその祈りに神様は答えてくださいます。そして私たちを主の道へと導いてくださる。つまり私の道が、主の道に変えられていく。そのような祝福に私たちは預かる者とされているのではないでしょうか。不安と恐れと心配に満たされている、その私たちの道が、主が伴ってくださる平安の道に変えられるとするならば、私たちにとって本当に嬉しいことではないでしょうか。罪に汚れた、本当に自分から離れられない、失敗や後悔や恥ずかしさや、そんなものがいっぱいある道が、主の恵みによって許されて、平安の道に変えられていくとするならば、それは私たちにとって本当に嬉しいことではないでしょうか。でもそのようにして主は、私たちを主の道に導いてくださる、私たちの道を主の道に変えてくださる、そのような恵みに私達は招かれているということを忘れないようにしたいと思うんですね。

この詩篇の著者も祈りました。そして祈りのうちに、このような告白に導かれました。 6節、7節をもう一度読みます。

[aside type=”boader”]そうすれば あなたのすべての仰せを見て

 私は恥じることがありません。

 あなたの義のさばきを学ぶとき

 私は直ぐな心であなたに感謝します。[/aside]

 

そうすれば、「そうすれば」これも祈った結果ですね。どうか私の道が堅くされますようにと祈ったんです。その祈った結果、「そうすれば あなたのすべての仰せを見て、私は恥じることがありません。」。もうそれまでは恥ずかしさだらけだったんです。人に見せることもできないような自分の人生だったんです。自分の道だったんです。その道がもう恥を見ることがない道に変えられたという喜びがここに表されていますよね。7節、「あなたの義の裁きを学ぶ時、私はすぐな心であなたに感謝します。」それまで後悔や本当に残念な思いがいっぱいあって、何でこんなことしてしまったのか、自分を責めるようなそういうこともたくさんあった。その道が本当に神様に感謝する道に変えられていく。心から素直に主に賛美できる、主に感謝できる、そういう道に変えられていく、そのような恵みに彼 は招かれているということ、これが私たちの幸ではないでしょうか。そのような恵みの道に私たちが招かれているとするならば、それは本当に嬉しいこと、本当に幸いなことではないでしょうか。御言葉によって私たちが罪と不正から守られ、主と親しい交わりに加えられ、さらに主の道に導かれるとするならば、それは本当に私たちにとって幸せなことであります。どうか、日々の歩みの中で、私たちが主の語られる御声を聞き漏らすことがありませんように。その御声をしっかりと聞いて、そして主の交わりの中に加えられていくことができますように、その時に私たちの自分の道が、主の道、祝福の道に変えられていく。その道を私達は感謝しながら賛美しながら喜びながら歩んでいくものでありたいと思います。

4.むすび

なぜ私たちはこの世に生まれてきたのでしょうか。なぜ今、私たちはこの世に存在しているのでしょうか。それは神様が永遠のご計画の中で、私たちを造られたからです。私たちは偶然、この世に存在しているわけではありません。何らかの神のご計画があって生かされているのです。その神様のご計画の中で生かされている時、私たちは幸せです。なぜならば、私たちはその時、この世に生まれてきた目的を果たしているからです。
私たちはキリスト者になった後、自分の計画が先にあって、その計画の実現のために神様にお願いしたり、助けてもらったりする段階があると思います。ところが信仰の深まりの中で、神様のご計画の一端を示され、その中に自分が位置づけられている事実を知らされる時が来ます。そして私たちは自分の願いの実現ではなく、神様のみこころの実現のために、自らが用いられることを願う者へと変えられていきます。その時に深い平安と幸いとを与えられていくのです。

 

 

お祈りをいたします。愛する神様。御言葉によって私たちを導いてくださることを感謝いたします。詩篇119篇の御言葉に耳を傾けることができました。私たちはすぐに罪を犯し、また過ちを犯し、あなたの御心から外れてしまう弱いものであります。しかしそんな私たちをなおも見守り、導いてくださり、そして恵の道、祝福の道に伴ってくださる主がおられることを覚えて感謝いたします。主が今日もまた明日も私たちに御ことばを語り続けてくださっているその事実を、私たちは忘れることがありませんように。日々主の御声に耳を傾け、あなたの声をはっきりと聞き、そしてあなたの御声に応答していくことができるように。そのような主との深い交わりの中で、感謝しながら喜びながら歩んでいくことは出来るように、この一週間の歩みも、主が伴ってくださいますようにお願い致します。御言葉を心から感謝し、イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

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王権は主のもの

詩篇22篇28~31節(聖書本文はこちら)

 

5月、今月は5回にわたって詩篇22篇のみことばに耳を傾けてきましたけれども、今日が最終回ということになります。同じ詩篇の中でダビデの祈りが深まっていく様子を私たちは今まで確認してまいりました。詩篇22篇は、「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というダビデの絶望の叫びから始まっていました。絶望の中でダビデは神を仰ぎ必死に祈りました。自らの抱えている苦しみ悩みを訴えながら、「主よ、離れないでください。早く助けに来てください。救い出してください」と、救いを渇望しました。すると神様はダビデに答えてくださった。そしてそれが嬉しくて、ダビデの口に賛美が生まれてきました。そしてその喜びを、自分ではもう収めきれなくなって、兄弟たちとも共に分かち合い、賛美の輪が広げられて行きました。

その喜びは、「主を賛美せよ」との呼びかけとなり、貧しい人々が、主を求める人々が、そして世界中の人々が「主よ賛美します」との祈りに支えられて行きました。

ダビデの祈りは最初は個人的な、極めて個人的な祈りでしたが、その祈りが個人からイスラエルの祈り、そしてイスラエルから全世界への祈りへと広げられていっている。そのことを私たちは確認できたことと思います。

1.王権は主のもの

そのダビデが今日の箇所に入りまして、このように告白をしております。28節です。

[aside type=”boader”]王権は主のもの。主は国々を統べ治めておられます。[/aside]

このような告白に、ダビデが導かれているということに私たちは注目したいと思います。

今までダビデは、神様のことを「我が神」「あなたは私の力」と呼んできました。ダビデにとって神様っていう方は、そういう方として意識されていた。つまり極めて個人的な神様として意識されてきたということだと思います。

その神様が同時に、世界中の国々を統べ治めている世界の王であるということ、「王権は主のものです」と、ここで告白している。そのダビデの告白の中に、そのような認識へと導かれているダビデの信仰というものを、私たちは確認することができます。これはダビデが世界を意識した結果だったということが言えます。

その一つ前の27節でダビデは、

[aside type=”boader”]地の果ての全てのものが、思い起こし、主に帰ってきますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。[/aside]

と祈っていました。ダビデの思いが、地の果てにまで、そして世界中の国々へと及んでいるということがわかります。

なぜ「地の果ての全てのもの」が、主に帰ってくる必要があるのか?どうして国々のあらゆる部族が神様の前にひれ伏す必要があるのだろうか?その答えが28節ですね。

[aside type=”boader”]それは王権が主のものだからです。主が国々を全て収めておられるからです。この方が世界を支配しているからです。[/aside]

27節28節が、繋がっているということを私たちは意識するものでありたいと思います。ダビデは王様でした。イスラエル王国の王でした。様々な敵を破り、イスラエル統一王朝を築き上げた偉大な王です。未だにイスラエルの人々が尊敬している偉大な方ですね。人物です。でもダビデは自分の上に、もっと偉大な王が君臨しているということをよく知っていました。自分はその王の代行者、代わりにすぎないということをよく理解していました。

これがダビデの知性が祝福された原因です。ダビデは自分の立場をよくわきまえておりました。ダビデの上にもっと偉大な方がおられ、その方の御心を行うことが、自分の務めであるということをよくわきまえていたからこそ、イスラエル王国は栄えた、祝福されたということであります。

私たちも目に見えるこの世の国々の王の上に、全世界を支配しておられる真の王が君臨しておられるということを覚えるものでありたいと思います。そしてその自覚、理解が今本当に必要とされている世の中ではないだろうかと思います。

ロシアがウクライナに侵攻して以来、この世の王たちの様子が騒がしくなってきていると思います。そしてこれからの世界情勢、国際関係がどうなっていくのかということについても世界中の人々が今、不安を抱きながら注目している状況ではないかと思います。そして日本でも、中国や北朝鮮などの脅威が声高に叫ばれるようになり、そんな国際情勢の変化が私たちに不安を抱かせているという、そういう状況ではないでしょうか。さらにその不安を煽るような色々なマスコミの動きもあるのかなという風に感じております。

そんな世界の動きというものに私たちは注目しながらも、同時に忘れないようにしたいと思います。王権は主のものであるということ、主は国々を統べ納めておられるということ、 私たちの信じている神様が、全世界を治める王であるということ、このことを私たちは今のこの状況の中で本当に覚えていなければいけないと思います。そのことを忘れてしまうと私たちは目に見えるこの世の現実の中に振り回され、心をいたずらに騒がせ、不安になってしまうのではないでしょうか。この世の国々の上に真の王が君臨しておられる、主が統べ治めておられると、私達は今日しっかりと心に刻むものでありたいと思います。

同時に私たちは地上の国々の王たちが、自らの立場を忘れて暴走することがないように、自らの権力を絶対的なものと思ってしまわないように、祈る必要があるのではないかと思います。特にロシアの王が暴走しないように、あるいは暴走を納めることができるように祈らなければならない。さらにこれに刺激されて他の国の王たちまでが暴走し始めてしまうことがないように、私たちは祈る必要があるのではないかと思います。第一テモテ2章一節に、

[aside type=”boader”]全ての人のために王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし感謝を捧げなさい。[/aside]

と教えられています。私たちは王たち、高い地位にある人たちのためにとりなしをするという勤めが与えられているということも覚えたい。プーチン大統領のためにも、ゼレンスキー大統領のためにも、アメリカや中国や北朝鮮のリーダー達の為にも、そして私たちの国の為政者たち、リーダー達の為にも、祝福があるように。そして自らの立場を忘れて暴走してしまうことがないように、主の御心に沿った政治を行うことできるように私たちは祈るものでありたいと思います。

2.すべての民がひれ伏す

さてこの王を前にして、国々を統べ治めておられる偉大な王を前にして、人々はどう反応するんでしょうか?どう対応するんでしょうか?それが29節の内容ということになります。29節をお読みいたします。

[aside type=”boader”]地の裕福な者はみな、食べてひれ伏し、ちりに下る者もみな、主のみ前にひざまずきます。自分のたましいを生かすことができない者も、[/aside]

ダビデはここで地の裕福な者は皆食べて、ひれ伏すと、そのように告白をしています。

もう既に見たところですけども、26節でダビデは、「どうか貧しい人々が食べて満ち足りますように」と祈っておりました。こちらでは貧しい人々が、食べて満ち足りますようにと祈っています。貧しい人々も食べてみたります。そして主を礼拝するようになります。

でもこの箇所では、地の裕福な者が皆食べてひれ伏しますようにと、そのように告白していることが分かります。。 

旧約聖書の時代の礼拝においては、礼拝式の中で食べる習慣がありました。和解のいけにえという生贄がありまして、色んな生贄があるわけですけれども、その中に和解のいけにえとという生贄がありまして、その生け贄を神様に捧げたあと、神様によって罪赦された恵み、そして神様と和解に導かれたその恵み、親しい神様との関係の中に加えられた恵みを喜ぶために、その捧げられた肉をともに食するという儀式が礼拝の中に含まれておりました。

29節に記される「食べる」という言葉はそのような意味で使われていると考えられる。つまり裕福な者も皆許されて、神様の恵みの中に加えられた、神様との親しい交わりの中に加えられた、その恵みを頂いて満たされて、そしてひれ伏した。そういうことであります。裕福な人、お金持ち、豊かな人が満たされているかと言うと必ずしもそうではないということが言えるのではないかと思います。むしろ私たちから見ると本当にうらやましいなと思うほどの豊かな生活をしている人々の中に、深刻な乾きがあるということに、私達は時々気づかされることがあるんではないかなと思います。私達人間の心は、お金や物では決して満たすことができません。でも神様は私達の心の深いところから満たすことのできるお方です。私たち自身では決して解決することのできない罪の赦しを与え、その問題に解決を与え、神様との親しい交わりの中に私たちを加えてくださる方です。そのような恵みを得てこそ、貧しい人々も豊かな人々もともにこの神様の前にひれ伏すことができる、そのような恵みがここに表されております。

またはダビデは続けて、29節、

[aside type=”boader”]チリに下る者もみな、主の御前に跪きます。自分の魂を活かすことができない者も、[/aside]

と続けております。「チリに下る者も」と出てきますが、これは死にかけている者、死を前にして弱り果てているもの者という意味の言葉であります。また「自分の魂を生かすことができない者」とは、力を失って生きる気力を失っている人ということが考えられます。

このように弱り果てている人々もまた、主の前に跪いて礼拝するということがここで語られていることであります。

なぜ礼拝できるんでしょうか?

それはこの王が、このように弱り果てている人々に目を留めて憐れんでくださる方であります。憐れんでくださる王だからです。そして必要な力を与え、新しい命で満たしてくださる王だからであります。この事をダビデもまさに経験しました。ダビデも、もう本当に疲れ果てて弱り果てて、何の力も残っていない時に、主を仰いで、「私の力よ」、神様のことを私の力よ早く助けに来てくださいと声をあげました。

そうしたら神様は、力を与えて下さったんですよね。本当に弱り果てていたダビデが、まさに神様の力によって支えられて、主の御前にひれ伏している。これがダビデの経験なんですよね。

そのようにして私たちも主の御前に礼拝する者へと導かれていることを覚えたいと思います。この29節でダビデが語っていることは、全ての人がこの方の前にひれ伏すということであります。貧しい人も主の前にひれ伏します。裕福な者もこの王の前でひれ伏します。弱っている人も、元気な人も、全ての人がこの王の前にひれ伏すということ。

なぜならば、「王権は主のもの」だから。主が国々を統べ治めておられるから。この方を前にする時、私たちも必ずひれ伏す、そのような偉大な方であるということを、私たちは心に留めるものでありたいと思います。

私たちは、私たちの神様が本当にそうであるということを、どれだけ信じているでしょうか?この方が世界を全て治めていると本気で心からどれだけ信じているでしょうか?

そしてその方を前にして、私たちはどれだけ跪きひれ伏して、主を礼拝しているでしょうか?この方の前に私たちは自らの冠を投げ捨ててこの方に従っているでしょうか?

私たちの信仰、自らの信仰を吟味する時としたいと思います。もしかすると自分の冠をそのままかぶったまんま、神様の前に来ているという事はないだろうか、自分が王になってしまっていて、そしてもこの方の前で冠を決して捨てないで、そのような状態で自分顔の状態で礼拝してしまってるということはないだろうか?自分が王になってしまって、あたかも神様がしもべであるかのような、自分の都合に合わせて神様を利用してしまっているような、そんな不遜な態度を取ってしまっているようなことはないだろうか。私達自らの信仰を吟味するものでありたいと思います。

 

王権は主のものです。主が国々を統べ収めて治めておられます。この方が私達の王です。私たちはこの方に仕えるしもべです。その立場を私たちはよくわきまえようではありませんか。そして私たちは引き続きこの方の前に、跪いてひれ伏して礼拝する者でありたい。そしてこの方を王として崇めるものでありたいと思います。

3.世代を超えて語り告がれる

さらに読み進めていきますと、ダビデは今のこの時だけでなく、これからの時代も考えていたということが分かってきます。30節と31節をお読みいたします。

 

子孫たちは主に仕え、主のことが世代を超えて語り継げられます。彼らは来て、生まれてくる民に、主の義を告げ知らせます。主が義を行われた からです。

 

このように出てきます。「子孫たち」という言葉が出てきました。「子孫たち」つまりこれはダビデの次の世代の子供たちということになります。この子供達が主に仕える。そして主のことが、世代を超えて語り継がれていくということ。さらにその次の世代の人たちが来て、「生まれてくる民に主の義を告げ知らせます」とここで語られています。つまり神様の恵みをダビデが経験していますが、その恵みは次の世代、さらにその次の世代にも語り継がれていく事実がここに示されているということであります。

私たちが注目したいのはその理由なんですね。なぜこういうことが起きるんでしょうか。なぜそのような素晴らしい恵みが、世代を超えて引き継がれていくのでしょうか。

その理由は、この22編の最後に出てくる言葉ですよね。31節の最後に「主が、義を行われたからです」このように語られております。

 

ここで「主が義を行われる」と、未来形ではなくて、「主が義を行われた」と過去形で語られている点に私たちは注目しなければなりません。

これはダビデがもうすでに体験したことなんですよね。ダビデは経験したんです。この主の義をまさにダビデ自身が経験しました。ダビデは敵に取り囲まれて、みじめさの中で苦しんでいました。敵に囲まれて散々嘲られ、馬鹿にされ、本当に自分でも惨めで惨めで苦しんで誰も自分のことを味方してくれる人がいない中にあって、しかしダビデの神様だけは、御顔を隠す事がありませんでした。ダビデの神様だけは、そのような時にしっかりとダビデを受け止めてくださって、そばにいてくださって、そしてダビデが叫んだ時に答えてくださった。そういう風にダビデは告白している。神様との親しい交わりの中に、ダビデ自身が加えられているということ、これが主の義なんですね。ダビデの義ではない。ダビデ自身の正しさの故に、ダビデ自身が何かふさわしかったことのゆえに、神様がそのような恵みをくださったのではない。ただ一方的な神様のあわれみのゆえに、そのような恵みの中に加えられている。これが主の義。その主の義が行われたことのゆえに、ダビデはもう今本当に賛美しているし祈っているし、そしてそのことのゆえにこの信仰が、このめぐみが、子供たちの世代に、またその次の世代にも引き継がれていくとそういうことをダビデはここで告白しているわけであります。つまり私たちの子孫の祝福は、私たちの信仰の結果であるということであります。主が私たちに主の義を行われた結果として、そして私たちがこの方との親しい交わりの中に生かされていることの結果として、その神の祝福が子孫に引き継がれていくということ 、そのことを私たち覚えたいと思います。

私たちは今のこの時代だけではなくて、私達の子供達・子孫に対する責任を負っているっていうことを今日ともに覚えたいと思います。

そしてこれは私たちの教会にも与えられている大切な努めだということですよね。教会に与えられている子供たちがいます。そして赤ちゃんも与えられていますけれども、その子供たちが大人になった時の時代のことを、私たちは考えなければいけない。あるいはその子供たちがやがて大人になって、次の子供達が与えられた時、その時のことも私たちは考えていなければいけない。その時代に私たちは生きてないかもしれないですね。もうその子供たちのことを私たちは見ることはできないかもしれない。その時代を知ることはできないかもしれない。じゃあそれと私たちは無関係かと言うと、そうではないんですよね。私たちはその時代の子供達に対する責任を負っているということを私達は聖書から教えられるんではないでしょうか。その子供たち、孫たち、その次の子孫とが、本当に祝福を受けるために大切なことは、今私たちが神様の恵みの中に生かされているということ、私たちの信仰が、そこで求められているということ、そこにかかっているって言うことを、私たち御言葉を通して覚えるものでありたいと思います。出エジプト記20章6節このような言葉があります。

[aside type=”boader”]私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである[/aside]

そのように約束されています。主を愛し、神様を愛し、神様の命令を守る者には、恵みを千代にまで施す。千代です。一代、二代、三代ではないんですね。もう千代、子々孫々ずっとその恵みが引き継がれて行くのは、今の私たちが神を愛し、神の命令を守るかどうか、そのことで神様の祝福が及んでいくということが聖書を通して教えられていることであります。私たちは本当に子供たちが祝福されるように、孫たちが祝福されるように、そしてさらにその先までも祝福が及んでいくように、そのためにも本当に今、神様との関係を大切にし、主を愛し、主に従っていくものでありたいと思います。

4.むすび

今日の箇所を通して、イエス様の御国、イエス様が王である御国は、空間と時間を超えて無限に広がっていく御国であるということを教えられるのではないでしょうか。もう世界中に広がっていきますね。もう国境がありません。しかも時間も越えて行く。そしてこの国は軍事力とか経済力とかそういうことで支配されている国ではなくて、大なるイエス様が治めておられる愛の国です。この国が今ここにあります。御国はイエス様とともに来ました。私たちはその御国の中に生かされています。この御国の中の住民とされました。これは本当に大きな特権ではないでしょうか。

今年の私たちの教会に与えられている目標聖句は、マタイの福音書10章7節、「行って天の御国が近づいたと宣べ伝えなさい」この御言葉が今年教会に与えられた御言葉として、この御言葉を共に皆さん覚えあって励んでいきましょうって話を、総会の時にもしましたけれども、本当に御国がこにある、その御国を宣べ伝えるという、その大切な努めが私たちに与えられていることを覚えたい。是非この御国が力強く成長しますように。世界中に、そして時間も世代も超えて発展していくことができるように、そのために私たちが少しでもお役に立てるように、この大なるイエス様に本当に人生を捧げ、全てを捧げて従っていくものでありたいと思います。

 

お祈りいたしましょう。愛する神様。御名を賛美いたします。私たちを御国の民として導いてくださっていること、本当にありがとうございます。そしてこの御国が今この地上にあります。この御国がこれからも豊かに成長し発展しますように。そのために私たちがあなたに従っていく事ができるように助けてください。どうか私達の子供たち、孫たちに、またさらにその先に、神様の祝福が及びますように。私たちますますあなたを愛することができるように、そして今この国、地上に建てられているを王達、為政者たち、リーダー達をどうか守っていてくださいますように 、本当にまことの王を覚えることができますように、まことの王の御心に従ってこの世を導いていくことできるように。立てられている指導者達にも主の恵みが豊かにあるように助け導いてください。御言葉を心から感謝し、主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

[詩篇 22:28,29,30,31] [aside type=”boader”] 王権は主のもの。
主は 国々を統べ治めておられます。
地の裕福な者はみな 食べてひれ伏し
ちりに下る者もみな 主の御前にひざまずきます。
自分のたましいを生かすことができない者も。
子孫たちは主に仕え
主のことが 世代を越えて語り告げられます。
彼らは来て 生まれてくる民に
主の義を告げ知らせます。
主が義を行われたからです。聖書 新改訳201[/aside]

 

 

私の賛美はあなたからのもの

詩篇22篇21~27節 聖書本文はこちら)

最近いのちのことば社から一冊の本が出版されましたが、「福島から福島への道」っていう本が出ました。最初の福島はカタカナの福島、2番目の福島は漢字で書かれておりますけれども、東日本大震災後、福島で歩んでこられた19人のクリスチャンの方々が当時を振り返って、またこの11年間を振り返って書き記された証言記録集です。私たちの教会にも奉仕に来てくださった木田先生もその中の一人になっておりますけれども、この本について書評を書いてくださいとクリスチャン新聞から頼まれまして、一生懸命読ませていただきました。2冊いただいたので後ろに置いときましたので、読みたい方はぜひ読んで頂ければと思います。福島の奥の方々は、地震や津波だけではなくて原発事故による放射能汚染の影響で被害にずっと苦しんできたということだと思います。多くの方々が傷つきながらも、懸命に生きてこられたと思います。それらの方々の非常に貴重な、尊い証言であると思わされました。苦しみと悩みの中から発せられた呻きの言葉がありました。人間の命を真剣に顧みない、国に対する厳しい告発の言葉もそこにはありました。そして非常に厳しい状況の中にあって、それでも多くの人々が助けに来てくださった、祈ってくださったという、そんなことの喜びと感謝の告白もありました。そんな1人1人の声を聞かせて頂きながら、今、私たちちょうど詩篇22篇を学んでいるところでしたので、この本も全体として詩篇22篇のような味わいがあるなという風に思いました。この本の全体が福島の方々の祈りであり、また賛美でもあると思わされたからであります。そしてこの本を通して思わされました。心からの賛美というものは、苦しみの中から生まれてくるということを教えられました。苦しみの深いところから発せられた祈りに、神様は必ず応えてくださること、それが私達にとっての大きな喜びなんだということを教えられる本だったなと思います。

1.あなたは私に答えてくださいました

今日の聖書の箇所は詩篇22篇の21節の2行目から始まりますけれども、ここから22篇の最後までですね、内容は全て讃美になります。そこには「呻きの言葉」「嘆きの言葉」は、ひとつも出てきません。今までの箇所では、悩み、苦しみを抱えるダビデの正直な告白が含まれていました。疲れ果て、弱り果てて、弱音を吐き出しているダビデの姿がそこには示されていました。ところが今日の21節以降、そのような記述は全く無く、ひたすら賛美が続きます。前半と比べると大変大きな変化です。なぜダビデの内にこのような賛美が生まれてきたのでしょうか?

21節の2行目このように記されてあります。

[aside type=”boader”]あなたは私に答えてくださいました。[/aside]

これがダビデの賛美の原因です。詩篇22編後半の賛美のすべてが、この言葉から始まっています。つまり神様はダビデに応えて下さいました。この前の場面、先週学びましたけども、ダビデはひたすら祈っておりました。悩み苦しみの中で神様に声をあげました。「離れないでください。早く助けに来てください。救い出してください。救って下さい」と、切に神様に求め続けました。そのダビデの祈りに神様が応えてくださったということがわかります。

おそらく状況は全く変わっていなかったと思います。相変わらずダビデは、苦しみの中に置かれていたと思います。問題が取り除かれたわけではありませんでした。でも、それでも、その中にあって神様はダビデの祈りに耳を傾け、応えてくださった、そのことがダビデにはとても嬉しかったということであります。

どのように答えてくださったんでしょうか。それは24節の内容ということになると思います。24節をお読みいたします。

[aside type=”boader”]主は貧しい人の苦しみを蔑まず、厭わず、御顔を彼から隠すことなく、助けを叫び求めた時、聞いてくださった。[/aside]

主なる神様は、貧しい人の苦しみを蔑みませんでした。この貧しい人とはダビデのことを表していると考えられます。ダビデが貧しかった時、一番惨めで落ち込んでいる時、自分でも自分の惨めさの中に苦しんでいる時に、神様はそんなダビデを「蔑みませんでした。厭うことがありませんでした」と、ここで告白されています。今、ダビデは、敵たちに囲まれています。そしてその敵たちは、ダビデを見て、散々蔑み、嘲り、馬鹿にしたと、今まで私たちは学んできました。ダビデは6節で、自分が「人の誹りの的、神の蔑みの的です」と、告白しておりますが、その時の苦しみを告白しております。自分が「いかに人々から誹られているか、蔑まれているか、その的になっているか」と、ここで告白していますけれども、とても惨めな状況でした。そして自分でもその惨めさの中で苦しんでいた。

ところがそんな惨めな時も、神様は共にいてくださったということ、ダビデの味方だったということ、それがダビデにはどんなに嬉しかったかっていうことを、ここで私達は感じさせられるのではないでしょうか。さらに神様は御顔をダビデから隠すことがありますせんでした。そしてダビデが助けを叫び求めた時に、聞いてくださったということが告白されています。ダビデの心の叫びを神様がちゃんと受け止めてくださったという、その確か確かな手応えをダビデは感じていたということであります 。

 

ダビデは最初、神様に見捨てられたと思いました。この詩篇22篇の最初の言葉は「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」っていうこの言葉から始まってますよね。ですからダビデはもう自分は完全に神様から見捨てられたと思ってたんですね。

そしてその中で、本当に叫んでいただけですけれども、でもそうではなかったんですね。ダビデは見捨てられていませんでした。なぜならばダビデが叫んだ時に、神様はちゃんと応えてくださったから。神様を遠くに感じていましたけれども、でもその神様は御顔を隠すことがなかったんですね。ずっと見守っておられました。その事を知った時に、それが本当に嬉しくて、ダビデの口に賛美が生まれているということがわかります。

私達も苦しみの時、悩みの時、そこで私たちが神様に向かって声をあげるとき、神様は私たちに答えてくださる方であるということを、私たちも覚えようではありませんか。

詩篇120篇1節で詩篇の著者はこのように語って、このように賛美しています。

[aside type=”boader”]苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった。[/aside]

悩み苦しみの中にあっても、主が共におられるということ。御顔を隠すことがないということ、そして私たちの叫びを聞いてくださるということ、その方がおられるということ、その方との関係に生かされているということが、私たちにとっての幸せではないでしょうか。

そしてそれが私たちの賛美である。そこから賛美が生まれて来るって言う事を、私達は覚えるものでありたいと思います。

私たちの心からの賛美は苦しみの外から生まれるのではありません。苦しみのその只中から生まれてくるとということ、そのことを覚えたいと思います。そのようにして「あなたは私に答えてくださいました」と、喜び告白しているダビデ、これが本当に嬉しかったんですよね。主が答えてくださったっていうことが本当に嬉しかった。

2.会衆の中での私の賛美

そのダビデは次に何をしたでしょう。22節をお読みいたします。

[aside type=”boader”]私は、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美します。[/aside]

このように告白しています。ダビデは次に神様の御名を兄弟たちに語り告げました。神様の素晴らしさを兄弟たちに語り聞かせたということであります。

ダビデの喜びがあまりに大きくて、自分の中だけでは収めきれなくなっていることがわかります。そして兄弟たちとともに、会衆の中で賛美を始めていることがわかります。私たちも嬉しい経験をした時にはそうなるんではないかなと思うんですね。本当に嬉しい経験をした時というのは、もうその喜びを自分の中で収めておくことができない、そういう気持ちになるんじゃないでしょうか。誰かにこの喜びを知ってほしい、そういう風になるんじゃないかなと思うんですよね。誰かに伝えたくなるのではないかと思います。この時のダビデもそうだったんですね。もうダビデも嬉しくて嬉しくて、そして神様の素晴らしさを兄弟たちに語りかけている。そして会衆の中で、一緒に賛美が始まっているという、賛美の広がりがここに生まれているということがわかります。つまり兄弟たちもダビデの呼びかけに応じたっていうことです。ここで「兄弟たち」と呼ばれる人々、その彼らがダビデの呼びかけに応えているって事は、ダビデに共感したってことですよね。この人たちもやっぱり神様の素晴らしさを知っているし、祈りが答えられることの嬉しさも知っている人々でありました。ですから彼らはすぐにダビデと一緒に賛美することができたんですね 。

ここにクリスチャンの交わりの素晴らしさが表されております。私たちはイエス様を信じる者同士、そしてイエス様を共有する者同士であります。その兄妹姉妹ですね。私たちも互いにイエス様の素晴らしさ、神様の素晴らしさを語り合うときに、互いに響きあえるんじゃないでしょうか。イエス様がこんなことをしてくださった、祈りに答えてくださったと聞くと、それで私達も一緒に賛美したくなるんじゃないでしょうか。それがクリスチャンの交わりの素晴らしさではないかなと思うんですよね。互いにひびき会える、そういう兄妹姉妹であることを感謝したいと思います。そしてその交わりを得て、私たちの喜びはさらに増幅されていくんじゃないかなと思うんですね。ダビデもそうでした。ダビデもここで会衆の中での賛美を経験し、交わりの恵みを得て、更にダビデの喜びが増幅されていくことが分かる。

 

次にダビデは何をしたでしょうか?まだ賛美の輪に加わっていない人々に対して呼びかけを始めたんですね。23節をお読みいたします。

[aside type=”boader”]主を恐れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの全ての裔よ、主を崇めよ。イスラエルのすべての裔よ、主の前におののけ。[/aside]

ダビデではさらに多くの人々に向かって呼びかけてるんですね。主を恐れる人々よ、ヤコブの全ての裔よ、イスラエルの全ての裔よと、参加を呼びかけて、そして主を賛美せよ、主をあがめよ、主の前におののけって、一緒に賛美しましょうという風にですね、呼びかけている。そういうダビデの姿がここに示されております。神様の素晴らしさを味わったダビデが、さらにその素晴らしさを多くの人々とともに共有しようとしている。そこに賛美の輪が広がっていく、広げられていく様子が示されていることが分かると思います。

そして25節でダビデは告白をしました。

[aside type=”boader”]大いなる会衆の中での私の賛美は、あなたからのものです。[/aside]

このように告白をしております。ここで「大いなる会衆の中で」と語られているところがとても興味深くて、とても印象的だなと思いました。ダビデにとってこの一緒に賛美している兄弟たち仲間たちは、「大いなる会衆」だったんですね。普通の会衆じゃないんですね。

「大いなる会衆」なんです。英語の聖書でこの箇所を読むと「グレートアッセンブリー」って書いてありましたけれども、この人達はダビデにとって「グレートな人たち」なんですよね。グレートに感じられる人たち、ダビデがこの人たちをとても誇りに感じているのを感じますよね。そしてそんな彼らの中にあって彼らと一緒に賛美できていることが、本当に嬉しくて楽しいというダビデの気持ちが伝わってくる言葉ではないでしょうか。

さらにダビデは、神様のことを「あなた」と呼びかけております。「私の賛美はあなたからのものです」って語っている。つまりここでダビデは神様とお話をしてるんですよね。神様と直接お話をしているんです。「あなた」と呼んでいる神様とお話をしている。ダビデにとって神様は「あなた」と呼べる方なんですよね。非常に親しい個人的な関係の中に生かされている。親しい方として呼びかけている。「あなた」と呼べる方が神様だということ、その方との親しい交わりの中に生かされているということ自体が、ダビデにとっての喜びなんですね。そしてその喜びをみんなで一緒に共有できるそういう兄妹姉妹がいるということがさらに喜びなんですね。「讃美はあなたからのものです」と、ダビデはここに告白してる。も本当にその通りだったと思いますね。賛美とは、自分の中で作り出す歌ではないですよね。これは言うまでもないことですけども、賛美はカラオケではありません。元気がない時落ち込んでいる時自らを励ますために、あえて歌う歌でもないんですよね。自分の中から絞り出すようにして歌う歌でもないんですね。

賛美というのは神様から来ます。神様から与えられる歌です。私たちが神様に信頼し、神様の答えを頂き、神様の親しい関係に生かされていることを経験する中で、自ずと生まれてくるのが賛美であるということ、そしてさらにその喜びを与えられている兄妹姉妹との交わりの中でさらに豊かにされていくということ、それが賛美の祝福であるということを私たち覚えるものでありたいと思います。そのような賛美の恵みを私たちも体験していきたいと思います。

このコロナの2年ぐらいですね、私たちはなかなかみんなで一緒に賛美することができなくて、本当に寂しい思いをしてきたんじゃないかなと思うんですね。でも少しずつ気をつけながらではありますが、色んな配慮しながらではありますけれども、賛美できるようになってきていることを本当に感謝したいなと思います。

私たちは続けてですね、本当に主が共にいてくださる恵みを、私たち一人ひとりが体験し、そしてそれを皆さんと共有しながら、そこに響き合う兄妹姉妹がいるということを感謝しながら、みんなで喜び主を賛美していきたい、そのような賛美の溢れる教会として、これからも歩んでいけたら幸いだなという風に思っております。

3.世界中の人々への呼びかけ

ダビデの賛美は、続けて読んでいくと、今度は祈りに変わっているということがわかります。26節をお読みいたします。

[aside type=”boader”]どうか、貧しい人々が食べて満ち足り、主を求める人々が主を賛美しますように。 あなたがたの心がいつまでも生きるように。[/aside]

今までも喜びに満たされて賛美していた、大いなる会衆の中で賛美ていたダビデがですね、ここにきて祈り始めているということが分かるんですよね。

それまで神様とお話をして、本当に神様を「あなた」と呼びかけている、その交わりに喜んでいたそのダビデの思いが、この時、貧しい人々に向けられているって事が分かるんですよね。そしてこの貧しい人々が、どうか満ち足りますように、そして主を求める人々が主を賛美しますようにと、そのような祈りに変えられているということがわかります。

ダビデも自分のことを「貧しい人」と呼んでいました。ダビデも実は貧しかったんですよね。貧しい人だったんです。24節でダビデは自分のことを、「貧しい人」とよんでいる。でもその貧しかったダビデが、神様の恵みによって満たされる経験をしました。そんなダビデなので、彼は貧しい人々に対して共感を覚えることができました。自分が与えられたような恵みを、この人たちにも味わってほしいと心から願うことができたんですよね。

苦しんだ人は、同じように苦しんでいる人と共感することができます。苦しんでいる時というのは、私たちは本当に苦しくてですね、早くこの苦しみが終わってほしいと願うんですけれども、でもその体験が実は同じように苦しんでいる人を助ける力になります。貧しさの中で満たされた経験を与えられた人は、同じように貧しい人たちのために祈ることができるんですね。そのようにしてダビデの心が、実は神様から養われているということに私たちは気づかされます。

私たちも苦しみの中、悩みの中で、実は神様によって養われているということ、そのような体験が必ず用いられていくんだって事を覚えるものでありたいと思います。そしてダビデの祈りはさらに広がっていくんですよね。広がりを見せるんです。27節を読みたいと思います

[aside type=”boader”]地の果ての全ての者が、思い起こし、主に帰ってきますように。国々のあらゆる部族も、あなたの御前にひれ伏しますように。[/aside]

このように祈っております。ダビデは地の果ての全てのものが主に帰ってきますようにと祈ってます。ダビデの前に地平線が広がり、地平線の向こう側さらにもっと先にまでダビデの気持ちが広がっていくことを感じさせられます。そしてその地の果てにいる者が、思い起こして主のもとに帰ってきますようにと祈っている。これは神様から離れてしまっている人々もかつては神様のすぐそばにいた、でも今はもう遠く離れてしまいました。もう地平線の遥か彼方に去っていったかのように感じてしまうそんな人々でも、思い起こして神様の元に戻ってきますようにと、これは救いを求めるとりなしの祈りであるということがわかりますよね。そしてさらにあらゆる国々の部族、つまり世界中の人々が神様の前に来て、ひれ伏しますようにと祈っている。賛美が祈りに支えられ、そしてそれが伝道の力になっているということに、私たちは気付かされるのではないでしょうか。神様の素晴らしさを知っている人は神様を賛美しますよね。そしてこの素晴らしさを他の人にも知ってもらいたいと思います。すぐそばにいる人とは響きあえます。でも響きあえない人もいます。でも響きあえない人もこの素晴らしさを知ってほしい、この神様の元に戻ってきて欲しい、そのような祈りが賛美の中で生まれて来るって言う事、賛美が私たちにとって伝道の力であるっていうことを私たち覚えたいと思いますね。

私たちは賛美をとうして、実は神様の素晴らしさを多くの人々に語り継ぐことができるんですね。そのようにして私たちはすぐそばにいる人にも、また遠くに離れてしまっている人にも、この神様の素晴らしさを伝え語り聞かせていくものでありたいと思います。

4.結び

今日の全体の内容を振り返って、主が答えてくださるということがどんなに大きな喜びであるかということを教えられるのではないでしょうか。全ては21節の2行目から始まってるんですよね。21節の2行目の「あなた私に答えてくださいました。」というこの言葉から始まっています。それで、そのことがあまりにも嬉しいために、その喜びがダビデだけではもう収まりきらなくて、すぐそばにいる人に広げられ、さらに次の人々に広げられ、貧しい人々にも広げられ、さらに地の果てにいる人々にまで、神様から離れてしまっている人々にこのダビデの喜びがどんどんどんどん広がっていく様子がここに記されている。神様に答えていただくということが、どんなに大きな喜びを私たちにもたらすかっていうことを、この箇所から学びたいと思います。

でも最後に私たちが改めて確認したいことは、これはダビデが祈った結果だったということなんですよね。先週学んだことだったことでしたけど、悩み苦しみの中で、ダビデが何度も何度も祈りました。離れないでください、早く助けに来てください、救い出してください、救ってください、この悩み苦しみの中で真っ直ぐに声を上げた時に、主が答えてくださった、そこに主がいてくださった。御顔を隠さないで私の祈りを聞いてくださった。そのことがどんなに嬉しかったか。それが賛美に変えられている。そしてその賛美が多くの人々に広げられていた。その経過を思いながら、私たちも本当に主にまっすぐに声を上げていくものでありたい。悩み苦しみの中にまっすぐ祈るものでありたい。その時に主が答えてくださる恵を体験したいなと思います。そこから生まれてくる賛美を歌い、共に賛美し、そして神様の素晴らしさを人々に語り伝えていくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします愛する神様、御名を賛美します 。

あなたが賛美の素晴らしさを教えてくださっていることを感謝いたします。あなたは私たちの祈りに耳を傾けて下さる方です。私たちが呼ぶ時に答えてくださる方です。私たちから決して御顔を隠す事がありません。呼べば必ず答えてくださる主よ、そのような主との親しい交わりの中で生かされている恵みに感謝します。どうか今日も明日もこの一週間も、どうぞこの恵みを知ることができますように。この恵みの中に生かされて、そして日々あなたを賛美することができるように。そして互いに賛美できる兄妹姉妹が与えられていることにも感謝します。私たちの教会の中で、またその素晴らしさが語り継がれていきますように。そのことが多くの人々に届けられますように。私たちの交わりを祝福し用いてください。感謝します。主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

 

詩篇22篇21~27節

[aside type=”boader”]救ってください。獅子の口から 野牛の角から。

あなたは 私に答えてくださいました。
私は あなたの御名を兄弟たちに語り告げ
会衆の中であなたを賛美します。

主を恐れる人々よ 主を賛美せよ。
ヤコブのすべての裔よ 主をあがめよ。
イスラエルのすべての裔よ 主の前におののけ。
主は 貧しい人の苦しみを蔑まず いとわず
御顔を彼から隠すことなく
助けを叫び求めたとき 聞いてくださった。

大いなる会衆の中での私の賛美は
あなたからのものです。
私は誓いを果たします。主を恐れる人々の前で。
どうか 貧しい人々が食べて満ち足り
主を求める人々が主を賛美しますように。
──あなたがたの心がいつまでも生きるように──
地の果てのすべての者が 思い起こし
主に帰って来ますように。
国々のあらゆる部族も
あなたの御前にひれ伏しますように。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会[/aside]