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しかし、の恵み(救いとは?)

マルコの福音書10章17節~27節

 

皆様おはようござい ます。ご 紹介に預かりました 吉村直人 といいます。 今朝はですね、 あのお読みいただいたこの箇所から「救い」ということについて少し考えてみたいと思っているんですね。「 救い」ということです 。

1.聖書の「救い」

クリスチャンでない方にとっては キリスト教 の聖書が言っている「救い」 って一体どういうことなのか ?救われる って一体どういうことなのか?
また、クリスチャンの皆さんにとっては、 こういう風に言うことができるかもしれません 。 自分の家族であるとか、 近所の方とか、友人 、あの人たちは本当に救われるんだろうか ?
いかがでしょうか皆さん、今、少しこう 頭に思い浮かぶ 救いを願ったり少し声をかけてみようと思っている人がおられるでしょうか 。それは 皆様のご家族かもしれませんが 自分がクリスチャンであるということ、 そのことをお伝えするということはできるかもしれません 。あるいは 、 クリスマス会とか教会のいろんなイベントに、 誘うということもできるかもしれません。 でもその人が本当にイエスキリストを信じて救われるということを 私たちは本当に信じているだろうか?という問いであります 。
もちろん全く信じてないということはないとは思うんですけれども、 いきなりはちょっと難しいんじゃないか 、長い時間がかかるのではないか 、まずはこの地道な一歩から ・・・そうであるかもしれません 。

2.神が働かれる時に必ず救われます。

ですが今朝はあえてこういう風に申し上げたいと思います。 まあ 結論でもあるんですけれども、 神が働かれる時にその人は必ず救われます。 神が働かれる時に、御霊が導かれる時に、その家族や、それはご主人 かもしれませんし、 お子さんやお孫さん かもしれませんが、 その人は神が働かれる時に必ず救われます。
言い換えると、 私たちが自分で考えるタイミング とか 、私たちの 努力の先に 救いがあるのではないということでもあります。 神がその人を救われる。 今日すぐに救われるということも起こりうるわけですね 。もし神がそこで働かれるならば「救われる」。 クリスチャンの方々にとっては、 私たちに「その信仰」があるだろうかということであります 。

今朝は そういった「 救い」ということについて、 人がクリスチャンになっていくということについて、 今日の箇所から見ていきたいと思っています。

3.永遠の命を受け継ぐためには何をしたら良いか。

まず17節に、「1人の人がイエスのもとにやってきた」という風にあります 。彼は「駆け寄り、ひざまずいて」とあります。 なかなかの登場の仕方ですね。 いきなり走ってきてひざまずいている 。
そして こういう風に言います。
「 良い先生 、永遠の命を受け継ぐためには何をしたら良いでしょうか?」

熱心に 切実な思いを持って イエスのもとに、こう 尋ねてきたんだろうなということが いろいろな姿勢からよく現れているように思います。 真剣だったわけですね 。
この「良い先生」という呼び方は決して皮肉ではなくて、 イエスという人物が立派な律法の教師であることを知っていて、その尊敬や経緯が込められている呼び方ですね。
この良い先生ならばきっと道を示してくださる、 何か教えてくださるはずだと 、永遠の命を受け継ぐためには一体何をしたらいいのか? 何をどうすればいいのか?
それに対する答えはこうでした。 19節 、
「戒めはあなたも知っているはずです。殺してはならない 。姦淫してはならない。 盗んではならない。 偽りの証言をしてはならない。 騙し取ってはならない。 あなたの父と母を敬え 」。
これは 旧約聖書に記されている律法、 特に 十戒と呼ばれるものですね。 イエス様は こういう風に言うわけです 。その答えはもうあなたも知っているはずではありませんか。 神様の基準である その律法、 旧約聖書を通して すでに与えられ、 示されているはずです。
するとその人は、 こう答えています。
「 先生 私は少年の頃からそれら全てを守ってきました。」

もちろん十戒のことは知っています 。そして私はそれを 小さい頃からずっと大切にし、 その通りに生きてきました。 すごいことではないでしょうか 私たちも自分のことを振り返ってみますときに、旧約聖書を全て守ってきましたと、自信を持って答えられる方はおそらくそんなに多くはないであろうと思います 。
しかしこの人に関して言えば 、おそらく ですけれども、決して大げさではなかったと考えられます。 多分彼は本当に 善良な人で律法を守るために 、あらゆる努力をして、その通りに生きてきた、稀な人だった、 立派な人だったんですね 。だからこそ敬意を持って 、イエス様のもとにやってきて、ひざまずいてまでして尋ねているわけです 。

4.救いに至るための、金持ちとイエスの問答

もし「 律法の通りに生きなさい 」。そういう答えでしたら、彼はずっと律法を守ってきましたから、安心できたのではないでしょうか。 彼には自分が律法に忠実に生き、模範的な生き方をしてきた自覚はありました。 戒めで言われてることに明らかに反したことはないし、私はずっとこの律法を人生の規範として生きてきたという自覚がありました。 イエス様もどうもその点を否定してるわけではなさそうですね 。
ところが 彼には平安がなかった。 安心ではなかった 。永遠の命を 本当に自分は受け継ぐことができるのか不安だった。 つまり 彼には救いの確信がなかったんですね。 救いの確信がなかった 。律法 全て守ることによっては確信が得られなかったんです。 これは律法を 全て守ってきたと言えるほどの人にこそわかる 、そういう気持ちであるのかもしれません。 だからこそ 彼はイエスのもとに こうやってきたのではないか 。真剣に、また 切実にやってきた。

すると イエスは彼を見つめ 慈しんで 言われた。「 あなたにかけていることが一つあります 。帰ってあなたが持っているものを全て売り払い、 貧しい人たちに与えなさい 。そうすればあなたは天に宝を持つことになります。 その上で 私に従ってきなさい。」

あなたにかけていることが一つある。 イエス様 そう言われました 。「じっと見つめ 慈しんで」と、この言葉は愛を持って言われたという そういう ニュアンスがある 言葉なんですね。 あなたは全てを守ってきたというが それは嘘だとか、 あなたはまだまだ それが足りてないという風に言われたわけではないんです。 彼の誠実な姿勢、 あるいは善良な生き方 を全面的に否定してるわけでもないんです。 でも足りないものがあります。 イエスは愛を持って 慈しんで言いました。 あなたの持ち物を貧しい人たちに与えなさい 。それから私に従ってきなさい 。すると 22節、

彼はこの言葉に顔を曇らせ、 悲しみながら立ち去った 。多くの財産を持っていたからである 。

彼の表情は暗く沈んでいったわけですね 。それはとても難しい、 いや それだけはできない 。この金持ちの人は、永遠の命への平安を得ることができずに立ち去っていきました。

5.救いを得るたっめに必要な「たった一つのこと」とは。

なぜ彼は悲しんで立ち去って行ったのでしょうか ?イエスが言われている「かけていた1つ」というのは一体何なのか ?
そのことの鍵はですね、 実は 17節 18節に出てきている言葉である「 良い」 という言葉が何度か出てきています。
「 良い先生」、「 なぜ私を良いというのですか」

この 「良い」という、 そのことの考え方に実は 鍵があるんですね。
実はこの金持ちの人が「良い」と考えていたことと、イエス様 つまり 神様が「良い」とされるものの間には少し違いがあったんです。
この金持ちの人が「良い」と考えていたのは、「律法を守り、 その通りに生きること」でした 。この点においては 彼自身が主張するように、 少年の頃から全て守ってきたのであれば、彼は良い人という風にできると思います 。
「でもそれでは 何かが足りない。 永遠の命 救いを得るためには、 この生き方では 何かが欠けているんじゃないか? 」この金持ちはそう感じていたんです。
この考え方については彼の質問の言葉にもよく表れてると思うんですね 。
「永遠の命を受け継ぐためには何をしたら良いでしょうか ?」
何をしたらいいのか ?つまりですね、この金持ちの人にとっての「良い」というのは 何かをなした結果 認められるもの、 つまり「 頑張りによって達成していく 何か」であったんです。
良い人だったと思います 。でも もっと良い人、 永遠の命の確信を得られるほど良いとされるためには、 あと何を達成していけばいいのか? それがわからなかった。
だから私よりももっと良い先生に、 「良い先生、 私はどうしたらいいですか?」 と、 そのように問うてきています。
これに対して イエス様はまずこう 答えられています。 18節ですが、

なぜ私を良いというのですか。 良い方は神 お一人の他誰もいません。

と、 ここでイエス様はこの金持ちの人が使った「良い」ということ その言葉の考え方にですね、 問いを投げかけているんですね。 なぜ人間に対して「良い」っていう言葉を使うんですか と。本当に良いお方というのは神様だけじゃありませんか。
どうすれば自分はもっと良くなれるのか 。まあそういう風に考えていた この人の視線を ですね、 神様の方に向けようとしているわけです 。良いのは人間ではない 。良い方は神 お一人のほか いない。 その上で、 イエス様は旧約聖書の律法について言及されていきますが、先ほど見ましたように 、彼は全てを守ってきたと考えていました。 では ということで 、イエス様はチャレンジをされます 。

帰って 、あなたが持っているものを全て売り払い、 貧しい人たちに与えなさい 。

この言葉は この金持ちの人に鋭く突き刺さりました 。そして悲しみながら去っていく。
この時にはまだ、この金持ちの人はイエス様が言おうとされていることをちゃんと理解できなかった。 いやそれどころか 23節以降を見ていくならば 、イエス様の弟子たちさえ よく分かっていなかったんですね 。

神の国に入ることはなんと難しいことか。

金持ちの人が去った後 、イエス様 は弟子たちに言われました。

神の国に入ることは何と難しいことでしょう。 金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が易しいのです。

この言葉は弟子たちを驚かせました。 というのも この当時のユダの社会では、多くの財産があるということは、神様からの祝福だと考えられていたからですね 。旧約聖書を見てみますと 実際にそういう例はたくさんあるわけです。 あのアブラハム も、神様の祝福によって多くの財産を持っていましたし、 あの ヨブという人も神様の祝福によってたくさんの財産があったわけです 。ですから この 多くの財産があるというのは、すなわち 神の前に正しい人、 清い人である 、そういう一般的な理解があったんですね 。現代風の言い方をするならば、神様に熱心で、しかも 祝福を受けている人 、それが金持ちの人、 財産を持ってる人 、そういう感じ かもしれません 。そして事実この人もこの金持ちの人も、できる限り 神の前に正しくあろうと努力をしていたんですね。
ところが イエスは言われるわけです 。そのような人が神の国に入るのは何と難しいことか。 ラクダが針の穴を通る方がまだ簡単だと、言ってるんです。 まあラクダというのはこの当時 、日常的に目にする最も大きい動物であって、 針の穴というのは 想像できる一番小さな穴、 まあそういう例えですけれども、 つまり 最も大きいものが、最も小さい穴を通り抜けること、 こちらの方がまだ簡単だということです。 であるならば、 いかがでしょうか 、金持ちが神の国に入ること、 それは事実上 不可能だと言っていることにはならないでしょうか。 祝福されていると思われている人が神の国に入れない。 これを聞いた 弟子たちは、26節、

弟子たちは ますます 驚いて互いに言った。「 それでは誰が救われることができるでしょう 」

弟子たちにとっても これは深刻なことでした。神の祝福を受け 、律法を よく守る 金持ちの人が、神の国に入れないのであれば、 言わんや そうではないと思われる私たちは一体どうなってしまうのだろうか? 決して 他人事ではないんですね。
もしかすると 私たちは、この金持ちという立場にあまり ピンと来ないということがあるかもしれません。 もし こういう風に言い換えてみると どうでしょうか。
「 清く 正しい人が神の国に入るのは何と難しいことか。 優しくて他の人にも親切な 立派な人が神の国に入るのは何と難しいことか 。」さらに思い切って言ってしまえば ですけれども 、「礼拝に忠実に出席し、たくさん 奉仕をし、 献金をたくさん 捧げてる人が、神の国に入るのは何と難しいことか 。」そのような人が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっと優しい 。
そして私たちは思うわけです。 そういう人が神の国に入れないのであるとすれば、 私たちはどうなんだろうか? 言うまでもないのではないか。 それでは 一体誰が救われることができるのでしょうか。 私たちはもう なす術もなく諦めるしかないのか。 イエス様が言うように財産を全て売り払って、貧しい人に分け与えれば、神の国に入ることができるのか?

5.神の国に入るために必要なこと

その答えは ですね 27節の前半ですが、

イエスは彼らをじっと見て言われた。 それは人にはできないことです 。

「人にはできないことです 」ここをちょっと 直訳をしてみると、「 それは人にとって不可能であるということです。」
ついにイエス様のメッセージの核心 が語られているわけです。
つまり 「神の国に入るのは人にとって不可能である」と、そう言われたんですね。
神の国に入るのは人にとって不可能である。 何ということか。 弟子たちの戸惑いはですね 当たっていたんですね。 それでは誰も救われないじゃないですか。
そうなんですね。 神の国に入るということに関して 、あなたにできることは何もないという風に言われたんです。
この金持ちの人が永遠の命を受け継ぐためにできる、何か良いこと というのは一つもなかった。 しかしこの宣言には続きがありますね。

しかし神は違います 。神にはどんなことでもできるのです。

人には不可能である 。しかし神にはどんなことでもできる 。
その神にあなたは信頼をするのかと。
これがイエス様の語られたこと なんですね 。金持ちの人は自分の拠りどころでもあった財産を手放すように言われた時に、それができずに立ち去ってしまいました。 でもここで彼に本当に必要だったこと、彼にかけていた一つのこと、 というのは自分ではなく、 富ではなくて、神に頼るということだったんです。
自分ではなくて神に頼るということ。 どうすれば永遠の命を得ることができるか?自分には可能か? ということではなくて、自分には不可能だ。 しかし神にはどんなことでもできると、だからこそ神様を信頼していくということだったんですね。
神には不可能なことがありません。 言うなれば神にとってはラクダが針の穴を通ることも可能なんです。 そしてこの金持ちの人が救われることも可能であり、 私たちが、 あなたが、神の国 、永遠の命を得ることも神にはできるんです。
イエス様はあなたは金持ちだから救われないという風に言ってるわけじゃないんですね。 そうではなくて、 あなたの人生において、富みが大きな 拠り所になっていないか? そこに自分の体重が乗っかっているのではないか?とそういうふうに問われているわけです。 そのあなたの持っている 莫大な富はあなたが神の国に入ることを全く 保証しない。 全く不可能である 。おそらくこの金持ちの人にとって、実は財産というものが、 自分の かなり深い部分、 アイデンティティのようにさえなっていたのかもしれません。 自分を自分たらしめるものとでも言いますか、 大切なステータス、 そして一番手放したくないものであった。 確かに彼は敬虔で善良な人でした。律法もちゃんと守ってきていました。
しかし イエス様の問いかけは、この金持ちの人に対して、 あなたは一体何を一番大切にしているのか ?ということを浮き彫りにしたんですね。 イエス様はこの人の痛いところを突かれた。
私たちの現実に置き換えるならば、例えば社会にたくさん 貢献することとか、出世していくこととか、健康な体であることとか、人が羨むような美貌があることとか、深い知性や名誉や人から評価を得る あらゆる 素晴らしいこと、 頑張って真面目に生きていくことさえ、これら 一切は神の国に入るということにおいては 何の貢献 ももたらさないということです 。人にはできないこと、 たくさん 奉仕をすることや、 熱心に 礼拝に出席することをさえ 、私たちが救われる という点においては 何の貢献も果たせないんですね 。
人間の 神の国に入るためのあらゆる努力は、神の国の扉を開かないわけです。 まさしく人にはできないことなのです。

しかし神は違います。 神にはどんなことでもできる のです。

この「しかし」というのは まさに恵みの言葉ではないでしょうか。
キリスト教の、また 聖書の福音 というのは、どんなことでもできる神に頼って生きていくということ、 自分自身を手放して神にお 委ねしていくということです。
これは反対から言うならば、 徹底的に自分は無力であるということを神の前に 認めていくということです。 自分は無力であることを、神の前に 認めていくということ。
問題は 私たち人間が、自分の無力をなかなか受け入れられない、 認められないということにあります。 私たちにとって自分の無力を 本当の意味で認めるのはとても難しいことです。 建前として「自分なんて大したものではないですよ 」ということは簡単ですけれども、 そして平常時から 尊大な人ってのはあまりいないと思うんですね。
でも永遠の命、 自分の人生 神の救いということに、 本当に直面する時にですね、 私たちの 手放せないものが顔を出してくるんですね。 無力であることを認めたくない。 99は神様の救いでも、1ぐらいは自分も貢献をしたい 。無力であることを認めたくない。神に頼ることができない部分が、この金持ちの人にとって それは財産だったわけです。 あなたは自分が頼りにしているその財産を手放して私に全幅の信頼を置けますか? と問われたのです。 皆さんにとって、自分が無力であることを認めること、 それを妨げているものは一体なんでしょうか。 私たちの心の中を最も占めている事柄は一体何か? イエスもある時 言われました 。「あなたの宝のあるところ、 そこにあなたの心もあるのです。」
このことは 例えば、私たちが自分が何に最も時間やお金や労力を使っているか?自分が一番 時間を使うこと、 お金を使っていること、 エネルギーを注いでいること、 それを考えていく時に、自分の心がある場所が見えてくると思うんですね 。手放せないものの中には 私たち自身の弱さや罪ということもあります。 自分の弱さを自分のものとして 握りしめているということも、時にあるわけですね。 しかしそれさえも 神様の御前に持って行き、お 委ねするということです。 神様にはどんなことでも お出来になります。 神様が救うことができない人は一人もいません 。皆さん自身も 、また家族や友人も一人も例外はないんですね。

6.証

最後にこの夏 私が経験したことを少し お分かちしたいと思います。 これは私自身の悔い改めということでもあるんですけれども、 私の 牧会している教会では、 毎年夏にですね中高生をキャンプに送り出しているんですね。 ところが 私の今、牧会してる教会では この夏 中高生がいなくなったんですね。 いなくなっちゃったというのは卒業して大学生になったりして、該当する中高生がいなくなったんです。 昨年のキャンプの折に、来年は キャンプに送り出せないかもねということをみんなで口々に言っていたわけですね 。
ところが そのうちの1人の方が こういう風に言いました 。「いや 祈りましょう。 来年この上水 恵みキリスト教会から、5人の中高生が 参加できるように」ということ。
その時点では ですね 、1人も思い浮かぶ人はいないんですね。 でも祈りましょうと言ってくれました。 人間的な考えで言うならば 、なかなかちょっと、 こう難しいというか、 無謀なことにも思えたんです。 でも 教会は祈り始めました。 毎週水曜日と金曜日に祈り会をしていますが 、その時に「5人の中高生が与えられるように」ということを祈り始めたんです 。すると 今年の6月に入った時に急遽 1人の男子高校生の名前が上がったんですね 。それは教会に来ているおばあちゃんのそのお孫さんということでした。 でも彼は ですね 1回も 教会に来たことないんですね 。両親はクリスチャンではありませんでした。そして 聖書の話 ももちろん 聞いたことがない人でした。 高校1年生の男の子ですね。 4泊5日もある バイブルキャンプに急に参加するのはちょっと考えにくいかなと思っていたんです 。でも彼は参加することになったんですね 。驚きました 。神様本当に祈りを 聞かれるんだってことを思いました。 しかし 同時にですね ちょっと大丈夫だろうかという心配もあったんですね 。何しろ 今からこう 聖書 の「せ」の字も全く知らない 人が、クリスチャンがいっぱいいる キャンプに、4泊5日も参加して、ちゃんとフォローできるだろうか ?
そういう心配もあったわけです.
私は祈ったわけです.
「 神様どうか彼がいつか神様を信じることができるように.。今回のキャンプ がその良い きっかけとなるように」と そういう風に祈っていたんですね。
しかし 私の予想は大きく 裏切られました。 彼はこの4泊5日のキャンプで、イエスキリストを信じ、 受け入れました。 彼は十字架のメッセージを聞いた時に 、こういう風に分かち合ってくれたんです。「 僕のために イエス様が身代わりとなって死なれたならば 、それを本当に申し訳なく思う。でも本当にありがたいです。」 そういうことを言ったんですね 。私はびっくりしたんですね 。そして まあ自分の不信仰者ということを恥 じ、また 悔い改めに導かれました。 もちろん いつかは救われて欲しいと、そういうふうに祈っていたんですね 。でも今救われるということをあまり信じていなかった。 まさに人にはできないこと。しかし神に違う。神にはどんなことでもできる。 彼は今 毎週 教会に来ています。 一人で自転車で40分かけてこいで来てるんですね。 しかも 彼は ですね、 今 友達を連れてきてるんですね。 友達を連れて2人で40分かけて教会に来ています。
皆さんは信じておられるでしょうか。 神が本当に働かれる時にその人は救われるということ。いや 神に拠らなければその人は救われません。 しかし神が働かれる時、必ずその人は救われます。 私たち クリスチャンは、その神様に、救い主であるイエスキリストに、今頭に思い浮かぶ その人のことも 委ねていきたいと思います。

閑話休題

今回は、息抜きにブログ管理人が始めたハーモニカ教室の様子をUPしました。
まずは下手ですが管理人の練習風景、2つ。

[colwrap][col2][/col2][col2][/col2][/colwrap] 次は、師匠の模範演奏、2つ。ハーモニカの醍醐味が存分に味わえます。
[colwrap][col2][/col2][col2][/col2][/colwrap] 次に先輩たちの素晴らしい合奏。
[aside type=”boader”][/aside] 最後に、年季の入ったお弟子さん、2人
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 ハガルの祈り(1)

創世記16章1~16節     礼拝説教要約=若井千鶴子師

[aside type=”boader”]アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷であるエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。
サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」アブラムはサライに言った。「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。
 主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。そして言った。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」すると彼女は言った。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」 また、主の使いは彼女に言った。「わたしはあなたの子孫を増し加える。それは、数えきれないほど多くなる。」さらに、主の使いは彼女に言った。
  「見よ。あなたは身ごもって  男の子を産もうとしている。  その子をイシュマエルと名づけなさい。
  主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。  彼は、野生のろばのような人となり、
  その手は、すべての人に逆らい、  すべての人の手も、彼に逆らう。  彼は、すべての兄弟に敵対して住む。」
そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。それゆえ、その井戸はベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。 ハガルはアブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。                                          聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 [/aside]

【1】  ハガルとサライの争い

ハガルはアブラムの妻サライに仕えているエジプトから連れて来られた女奴隷でした。異国の地で、主人の言われるままに仕える存在だったわけですが、そのハガルが一躍、脚光を浴びる時がやって来ます。

アブラムには子孫が与えられるという約束が神様から与えられていたのですが、サライにはまだ子どもがありませんでした。2節の「主は私が子を産めないようにしておられます」とのサライのことばには、サライの複雑な気持ちが表れています。そのためにサライは女奴隷であるハガルを通して子どもを得ようと考えました。

サライがハガルをアブラムに与えたので、ハガルはアブラムの子どもを身ごもることになりました。それはハガルにとっては本当に大きな出来事でした。すると、ハガルは自分の主人であったサライを軽く見るようになってしまったのです。

女奴隷から見下されて怒りを爆発させたのはサライです。サライは5節でアブラムに向かって「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです」と語りました。「横暴」と訳されていることばは、聖書の他の箇所では「暴虐」と訳されている非常に激しいことばです。ハガルの態度が「サライの女奴隷」という立場をはるかに超えていたことがわかります。

そのようなサライの怒りを受けて、アブラムはサライに「あなたの女奴隷はあなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい」と語り、ハガルをサライの手に委ねました。その後、サライがハガルを苦しめたので、ハガルはサライの元から逃げ去ることになりました。それはハガルにとっては耐えられない程の苦しみだったと思います。

 

【2】  神のハガルに対する愛

そんなハガルを神様は見捨てませんでした。主の使いが現れ、泉のほとりにいた彼女を見つけてこう語りました。

[aside type=”boader”]「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか(8)」[/aside]

まず神様はハガルを「女奴隷ハガル」と呼ぶことで、「あなたはサライの女奴隷なのだよ」と話しかけていることがわかります。自らの立場をわきまえなさい、というメッセージです。

その上で「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と問うのです。もちろん、神様はハガルの状況をよくご存知でした。エジプトから連れて来られ、サライの元でひどい仕打ちを受け、ここまで逃げて来たこともよくわかっておられました。しかし、その上で敢えてこのような問いかけをしたのは、ハガルに自らの罪に気づいてほしかったからです。

ハガルは「女主人サライのもとから逃げているのです」と神様に答えましたが、どこへ行くのかに関しては何も語っていません。何も答えられないのです。どこにも行く当てがないからです。ここにハガルの深い苦しみを見ることができます。

 

【3】  苦しみを聞いて下さる方

そんなハガルに神様は三つのことを告げました。第一に女主人の元に帰り、彼女のもとで身を低くして仕えること。第二に、神様はハガルの子孫を増し加えられるということ、第三に、生まれる子どもに「イシュマエル」という名前をつけなさいということ。イシュマエルとは「神は聞かれる」という意味です。

神様はハガルの苦しみを聞き入れられました。それは、女主人の元へ帰れと言われたハガルにとって、どんなに大きな慰めだったことでしょう。神様は私たちの苦しみをすべてご存知で、その苦しみに耳を傾けて下さる方です。

ハガルはそんな主を「エル・ロイ」と呼びました。「私を見て下さる神」という意味のことばです。ハガルは自らの立場を忘れて、自分の女主人を軽く見てしまうという罪をおかしました。それゆえにサライから苦しめられて、逃げ出してしまうという結果になりました。その苦しみはすべて自らの罪のゆえです。

ところが、そんな罪深い自分を神様は見捨てずに見守って下さるというのです。この「エル・ロイ」という告白には、ハガルの神様のあわれみに対する深い感動と感謝が込められています。

私たちも主のみこころからそれ、失敗を繰り返すことがあるかもしれません。自分の犯した罪の結果ゆえに苦しんだり、後悔したりしていることがあるかもしれません。ハガルのように行く当てがなく、行き詰って、今の人生の中でさまよっているかもしれません。

しかし神様はそんな私たちにも問いかけておられるのではないでしょうか。「あなたはどこから来て、どこに行くのか」と尋ねて、私たちの罪に気づかせ、正しい道に導いて下さるのではないでしょうか。その上で私たちの苦しみを聞き入れ、なおも私たちのことを見守って下さるのではないでしょうか。

私たちも日々、私たちに語りかけておられる神様のみことばを聞き、悔い改め、そこから力を得て、置かれた場所でへりくだって主に仕えてまいりましょう。

人工妊娠中絶を合法化した「ロー対ウェード裁判」とは?

「中絶禁止法」違憲判決

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そもそも、1970年くらいまでは、アメリカの殆どの州では人工妊娠中絶が禁止されていました。しかし、1970年に、テキサス州でノーマ・マコービーさんという女性が、妊娠中絶の権利を求める裁判を起こしたのです。

[/col73][/colwrap] 本名は明かさず、ジェーン・ローという仮名で原告となりました。

ジェーン・ローは、「中絶の権利は女性の基本的な権利である」と主張し、一方ダラス地方検事のヘンリー・ウェードは、「中絶を禁止することで、女性の体と胎児の生命を守る事は州の義務である」として対立しました。(それで、「ロー対ウェード裁判」という名称がついたのです。)

しかし、連邦地方裁判所が、「中絶のほとんどを犯罪とするテキサス州法は、違憲である」という判決を下し、ジェーン・ローの主張を支持しました。

その後1973年には連邦最高裁判所もこの判決を支持たのです。

つまり、中絶禁止法は違憲であるという結論に達し、それまでかなり厳しく中絶を禁止していたアメリカでは、条件はあるものの人工妊娠中絶が合法化されたのです。

「中絶禁止法」は合憲とすべきとする主張

しかし、これに反対する人たちも多く、アメリカでは国を二分する論争が巻き起こっています。とくに現在、アメリカの保守派の多い州では、前述の違憲判決にもかかわらず、人工妊娠中絶禁止法が続々と可決されています。特にアラバマ州での中絶禁止法はかなり厳しいものになっています。

そして、「ロー対ウェード裁判」での、違憲判決に反対する運動家も大勢います。彼らは、この違憲判決を、再び最高裁で覆す、つまり「中絶禁止法」は合憲であるとの判決に至らせることを目指しています。

トランプ大統領は、自分も中絶禁止に賛成していることを宣言し、宗教保守派を味方につけている形になっています。2020年の再選を目指しているトランプにとっては、宗教保守派の票を獲得することは、かなり重要なことだからです。その後のノーマ・マコービーさん↓

その後のノーマ・マコービーさん

ところで、「ロー対ウェード裁判」の原告だったノーマ・マコービーさんは、中絶の権利を主張する人たちのシンボル的存在でした。しかしその後、その後中絶を禁止を求めていた福音派キリスト教団体と交流を持つようになり、2017年69歳で亡くなるまで、その立場を180度変えて、中絶反対派の熱心な活動家となりました。

3分解説☞Youtube

中絶反対を公言する、トランプ大統領。

人工妊娠中絶については、これを禁止している国もあれば、禁止していない国もあります.。人工妊娠中絶が可能な時期であればこれを許すとする国は67カ国、これに対して絶対に中絶を禁止する国は26カ国あります 。

では人工妊娠中絶とはどのようなものでしょうか?

文字通り人工的に胎児を母体から排出することを言うのですが、懐胎からどの程度の期間が経過しているか、つまり胎児が母体の外で生きる事が可能か否かを考慮し、どこに線引きをするかということがポイントになります。

この点、妊娠してから12週未満に限り、人工中絶が可能とする国が多いようですが、日本では、妊娠22週未満であれば、条件付きで、人工妊娠中絶は認められています。 

では、女性が人工妊娠中絶をする理由にはどのようなものが挙げられるのでしょうか。

1.レイプ等で妊娠した時 2.経済的に子供を育てられない 3.父親が分からない

4.仕事のため育児の時間がない 5.母体が危険な時、等です。

現在、アメリカでは色々な州で、人工妊娠中絶禁止法が可決されており、今後もそれに倣う州が増えていくだろうと推察されています。

それは、人工妊娠中絶を倫理的に殺人と考え、宗教的に容認できないとしているのです。アメリカでのアラバマ州では母体が危険だからという理由以外はどんな理由であれ、例えそれがレイプが原因であっても、中絶は赦されません。

他の州でも、胎児の心音が聞こえた時点で、中絶は禁止するとい法律が可決されています。

胎児の心音は、妊娠6週目あたりから超音波では聞こえるようになるので、つまりは妊娠6週目以降の人工中絶は禁止ということになります。

もし中絶する医者がいたら、最大禁固99年という厳しい法律もあるほどです。

 

アメリカでの人工中絶を禁止する運動は、50年前から続いていますが、その殆どの運動は福音派教会等の宗教保守派を通じて、組織化されています。

この運動の一番の目的は、「ロー対ウェード裁判」の最高裁判決を覆すことにあります。

その判決とは、1970年に原告ジェーン・ロー(仮名)が「中絶するのは女性の基本的権利である」と主張した裁判です。それまで中絶に厳しかったアメリカですが、1973年には最高裁判所で条件付きながらも人工中絶を認める判決が下ったのです。

この裁判によって、女性の中絶の権利を認めたことにより、人工妊娠中絶を禁止していた各州の法律が違憲であるという事になりました。ですから、現在も中絶禁止法は違憲ということになります。

しかし、たとえそれが違憲であると訴えられても、連邦最高裁判所まで持ち込んで、その場で1973年に制定された中絶禁止法を覆すことが50年来の願いなのです。

そしてこの活動を後押ししているのが、トランプ政権なのです。トランプ大統領は中絶反対であることを公言し、そのため保守派(中絶反対派)の判事を2人最高裁に送り込んでいます。これは、宗教敵保守派とされる福音派を味方に付けることが狙いだとされています。

つまりは、トランプ大統領は福音派の票が欲しいですし、反中絶活動家たちにしてみれば、50年にもわたる悲願の「最高裁判決を覆す」チャンスがやってきたのです。

2018年の中間選挙の時には、共和党が上院で過半数を獲得しました。その要因はトランプ大統領が福音派の票を獲得できたからだと言われています。さらに来年、大統領に再選されるためにも福音派の応援は欠くべからざる要因となります。一方、福音派の人たちにとっても、最高裁での中絶禁止法を勝ち取るチャンスだと言えるのです。

 

トランプ大統領とは、どんな人ですか?

1.トランプ大統領の人となり

トランプ大統領といえば、あまり考えずに暴言を吐いたり、メキシコとの国境に壁を造ると言ったり、最近では、グリーンランドの買収構想をぶち上げたり・・・何かとお騒がせなイメージがあります。

トランプ大統領はニューヨーク出身です。口さがない人の評価では、色々な人からバカだとか言われていますが、ペンシルベニア大学のアイビーリーグの一つであるウォートン校を出ています。ここを出ているということは、結構、優秀な人だと言えるかもしれません。

参照:トランプ大統領を支持→キリスト教「福音派」とは?

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また、トランプ大統領が不動産王であることはよく知られています。保有する不動産は数千億円とも言われていますので、ビジネスの成功者というイメージがありますが、実は色々な会社を設立しつつも、たびたび倒産させるなど、事業で数々の失敗を重ねているそうです。

堅実なビジネスというよりは、はったり屋の感もぬぐえませんが・・・・たとえば、「トランプ大学」まで運営していたのですが、高額の授業料を取る詐欺だと訴えられています。ですが、億万長者であることは確かなので、成功したビジネスも多いということでしょう。

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トランプ大統領の意外な面は、トランプの娘、イヴァンカさんの評判がすこぶる良い点です。アメリカの大富豪の娘や息子たちは、贅沢三昧に、甘やかされて育てられるとことが多い中、イバンカさんは美人で品もあり、頭も優秀で、良い大学を首席で卒業しています。そのうえ、親に甘えることなく、学生時代からモデルのアルバイトをしていました。

そのせいか、トランプ大統領もイヴァンカさんの言う事にはよく耳を傾けるようです。

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トランプ大統領のもう一つ意外な面と言えば、酒、たばこは勿論、コーヒーさえ飲まないということです。お酒を飲まないのは、パイロットだったトランプの兄が、アルコール依存症だったことがその理由のようです。

そのせいで早く亡くなった兄からも「お酒は飲むな」と、何度も言われていたそうです。そのため、どんな会食でも、回りが飲んでいようとも、絶対にお酒は飲まないのです。

こういう自らの体験からか、大麻などの麻薬類に対しても絶対反対の立場をとっています。

参照:中絶反対を公言するトランプ大統領

2.アメリカ合衆国の政治の仕組み

このトランプ大統領の立ち位置を知るためには、アメリカ合衆国の政治が、どのような仕組みになっているのかを知ることが大事でしょう。。

まず、アメリカ合衆国は、50の州と連邦区から成り立つ連邦共和国であることは誰でもおよそ知っていることだろうと思います。

[colwrap][col73]アメリカ合衆国の首都は、ワシントンD.Cですが、いずれの州にも属しません。ワシントンD.Cと、ワシントン州とは全く別で、位置している場所も違います。ワシントンD.CのDCというのは、District of Colombiaの略で、コロンビア特別区のことで、ワシントン市+連邦政府直轄地域のコロンビア特別区を足した呼び名です。東京に置き換えた場合東京都がコロンビア特別区、23区がワシントン市に当たります。[/col73][col37][/col37][/colwrap]

アメリカの州は日本の「県」とは違い、かなり独立していて、各州が1つの国家のようでもあります。

また、日本は立法(国会)と行政(政府)がしっかり結びついていますが、米国では立法、行政、司法の権力分立がなされていることも、日本とはかなり違います。

大統領は国家元首であり、首相でもあり、アメリカ国軍の最高司令官でもあります

任期は4年で、1回のみ再選されることが出来ます。

大統領を選出するのは直接的には国民ではなく、国民が選んだ大統領選挙人により選出されます。

どういう事かというと、大統領選挙人が支持している候補者と自分が支持している候補者が同じなら、その選挙人に投票するということです。

大統領のスタッフ(各省の長官や閣僚級の公務員)は、大統領自ら選んだ人がなります。

それは民間人でもいいですし、野党からでもいいのですが、任命は上院の承認が必要になります。

そして特に重要視されるのが、大統領の右腕として任務する大統領補佐官たちです。

首席補佐官、国家安全保障問題担当補佐官、経済政策担当補佐官の3名が任命されています。

アメリカの議会は上院と下院の二院制になります。

上院は定員100名で各州から2名づつ選ばれ、任期は6年です。

下院は定員435名で任期は2年ですが、人口の多い州に応じてそれぞれの州の人数が決められます。

裁判所は州裁判所と連邦裁判所の2つがあります

アメリカでは州によって法律を制定するので、州ごとに法律が異なります。

連邦裁判所には最上級の連邦最高裁判所があり、長官(主席判事)と8名の判事の合計9名で成り立っています。

判事は大統領に任命され、上院で承認される形をとります。

この連邦最高裁判所は、連邦法や州法が憲法に違反していないかを判断する場でもあります。

なぜ石破茂は総裁選に立候補したのか?

2020/09/11

クリスチャンの石破茂の主張

現状は自民党総裁選規定の「緊急の場合」に該当せず 石破茂衆院議員が特派員協会で会見

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聖書とコロナウイルス

先日、安倍首相より2週間を目度として人の多く集まる集会は極力避けるようにとの要請がありましたが、その期間を過ぎてもなを感染者は増え続けて居ます。
私たちの教会も、礼拝を2回に分けて、できるだけ座席の距離を離して座ることにしました。中には礼拝そのものを中止した教会もあると聞いています。今回だけ、このような対策で済むのなら良いのですが、今後あとどのくらいの期間、このような状態が続くのかといった、先行きがわからない不安な状況にあります。

1.感染者の増加

①パンデミックの恐怖

既に今年の1月の時点で 、WHO が世界に緊急事態を宣言したのですが、その時点ではまだ実感がわかず他人ごとのように思っていました。しかし今、中国に始まり韓国、日本と感染者が増え続け、想像を超えた広がりをみせています。ひょっとすると14世紀にヨーロッパで流行し、2万人が亡くなったペストのような状況が世界中に再現されるのではないかと懸念したりもします。その時は当時のヨーロッパの人口の半分くらいが亡くなったと言われています。
実際、今もなお感染者の増加が絶えず発表され続けているうえに、多くの人は検査待ちの状態や検査結果を待ってる人々もいますから、症状のない感染者も合わせると、さらに増え続けることも考えられます。
さらに問題なのは、検査を受けて陰性と診断されたのに、2回目には陽性反応が出てしまうケースも少なからずあるようです。つまり陰性の間はひたすら歩き回っていたということになるのではないでしょうか。また陽性反応が出て治療を受けてやっと退院しても、再度発症する事例も起きているようです。 中国で感染が始まった頃の事例では、20代の女性が、20日程度の潜伏期間中に何の症状も現れなかったのに、その後、5人の家族が陽性となり、さらに多くの人に感染させたと言います。ですから隔離期間は14日あれば大丈夫だと言われていたのですが怪しくなってきました。
新型肺炎の治療がパンデミックを起こした場合、軽症の時は家に居ることができるとしても、もっと重症になるとそこから病院に行っても受け入れてもらえず、治療も難しくなり、その頃には既に肺などの臓器が破損した状態になってしまうということも予想されます。

②経済不安

それに加えて世界中に広まっている経済不安の問題があります。世界最大の生産国である中国の経済が麻痺して、世界中の経済が打撃を受けています。工業製品、生活必需品、食料品が全て値上がりして、株式市場はパンデミック恐怖によって急落しているそうです。
杞憂かもしれませんが、正体不明の恐怖にさらされて収入の道が閉ざされた場合、食料価格の上昇が懸念されます。パニックに陥った人々は食料確保に血眼になるかもしれません。このような状況があとどれくらいの期間続くでしょうか?一か月でしょうか?それとも一年?最近のテレビ報道では、収束までは今年いっぱいかかるとも報道されるようになりました。

③バッタの群れ

Yahoo newsによれば、それに追い討ちをかけるかのように、インドからの数千億匹のバッタの群れが、中国に向かって飛んできているそうです。現在パキスタンのような中東諸国では、ウイルスが問題ではなく、このバッタの群れが大きな災害となっているようです。なにやら旧約聖書の出エジプト記で描かれているシーンを彷彿とさせてくれます。
このバッタの群れは2月に発生したのですが、気候が暖かくなれば繁殖力がより強力になると言われているので、今後どれほどたくさん増えるか全く予想もつきません。日本はほとんどの食料品を輸入しているのですが、この輸入がウイルスのせいで妨げられた場合、約1ヶ月後には武漢のように食料価格が数倍に上昇することだってありえそうです。ですから、コロナウイルス自体が、無事収集したとしても、バッタの群れによって食料品の価格が急騰することもあります。

去年から燃え続けているオーストラリアの山火事と、地球温暖化による気候の問題や、今のような感染症流行、バッタの群れによる全世界的な危険。そうなると必然的に世界的な経済破綻が起こり、またこのタイミングで、もし日本に地震が追い打ちをかけるように起こったら、どんなことになるでしょうか。

2.聖書の警告

危機をあおるような事を書き連ねましたが、ふと、新約聖書黙示録の「獣の刻印」の艱難時代を思い描かざるをえません。この事態が収集されず引き続き発展していって、そして最後の時代の、イエス・キリストの再臨までつながっていくのではあるまいかと・・・・。
仮に今回は神様の恵みでどうにか収拾がついて乗り越えたとしても、黙示録を読む限り今回のような災害は必ずまた襲って来ることになります。そして次にやって来る時は、今よりはるかに重大な危機が迫ってくるでしょう。

聖書によれば、今私たちが住んでいるこの世界は、決して永遠に続くわけではないことが分かります。聖書はこの地球の終末の時、人類歴史に終わりが来ることを明らかに宣言しているからです。またその時に何が起こるかについても詳しく書かれています。いま世界で繰り広げられていることは、イエス様の再臨と切り離して考えるわけにわ、いかないと思われます。

①死への備え

私たちは一体何をどう対処したらよいのでしょうか。
人々がコロナ・ウイルスを恐れているのは、死ぬことを恐れているからです。私たちは、死に備えなければなりません。死というのは、老若男女問わず、誰もが避けられないことです
聖書には、以下のような記述があります。

[aside type=”boader”]また私は天からの声がこういうのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ者は幸いである』と」。御霊も言われる。「然り、その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼の行いが、彼らと共について行くからである」。黙示録14章13節。[/aside] [aside type=”boader”]主の聖徒たちの死は、主の目に尊い。詩篇116編15節[/aside]

聖書は聖徒の死を祝福だと言っています。聖徒たちの死は、主の目には貴重なことなのです。なぜでしょうか?
イエス様が地上におられたとき、一度、葬儀に出席されたことがありました。その葬儀の時の説教でこのような御言葉を言われました。

[aside type=”boader”]イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりです。命です。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」。「また生きて私を信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたはこの事を信じますか」。ヨハネ11章、25-26節[/aside]

死は自分一人で迎えなければならないものであり、恐ろしいはずのものです。

ところがイエス様は、復活であり命であり、イエス様を信じる者は死んでも再び生きると断言しているのです。死は終わりではなく、新たな始まりだというのです。

だとすれば、死の準備と、イエス・キリストを信じることとは、極めて密接な関係があるように思われます。

人は死が近づくと、残される妻子たちに対する心配ではなく、神様の存在に対する恐怖だそうです。

聖書によれば、死後は自分を創造された絶対的存在者の前に立たなければならないことを教えています。それまでは世間的に成功し、何でもすることができるかのように振舞って生きてきたとしても、最終的に自分の死の前に立った人間は、恐怖を持ったまま神様の存在を考えて目を閉じることになります。
ですから生きているときに、神様の存在に想いを致すことは、人間らしく生きることの延長線上にあると思うのです。

②神様を認めるとは?

さて、ここでもう一度考えてみましょう。神様を認めるとは一体どういうことでしょうか?

普通私たちが何かをする時、自分の良心に照らして、こんな言い訳をすることがあります。
「これぐらいはいいだろう」、「ほとんどの人がやってるから」、「これぐらいの過ちは見逃してもらえるだろう」など、当り前に自分の行動を正当化します。
今、医療の現場でマスク不足が叫ばれているのですが、ある県会議員が医療用マスクを高額でネットオークションにかけてヒンシュクをかいました。確かにその時の法律には違反していません。

ところが、神の目には見逃しがありません。神は聖なる方、きよい方、罪を徹底的に憎む方、そのわずかな罪をも見逃すことがありません。
「神」とはそのような方であり、逆に相対的で曖昧な存在ならば、「神」とは言い難いです。
この神の絶対的基準からすれば、人はだれ一人、この世に存在できません。

キリスト教を好意的にみる方でも、クリスチャンになるということは、自分で努力し、罪を犯さないように修行して、そして一生懸命掟を守って、頑張って、 ついに罪を犯さないようなそういう人間になって初めて、クリスチャンになれると考える人がいます。

しかし、そんな日は永久に来ません。「正しく清い人になろう」と頑張れば頑張るほど、無理だということがわかるはずです。人間は自分で自分を救うことはできません。
だから、私たちの身代わりとなって罪の償いをしてくださる方、イエス・キリストが、私たちをご自分の完璧な生涯で贖ってくださるので、私たちは神の前に立つことができるのです。

その人が 立派だったわけではありません。キリストを信じたのです。
神の存在を意識せずに生きてきたことを悔い改め、キリストが、まさにこの自分のために贖いの死を遂げてくださったことを信じたのです。

③へりくだった魂

黙示録4章10節11節、

[aside type=”boader”]24人の長老たちは御座についておられる方の、前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を、礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った 。
「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方、あなたが万物を創造されました。み心のゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」[/aside]

「世々限りなく生きておられる方を、礼拝した」って書いてあるんですが、天では、神を礼拝しているんですね。

「昇天のキリスト」という像があります。トール・バルトソンという作家がイエス・キリストが、オリーブ山から、昇天する場面を描いたものです。
それを実際に見た人は、大したことがないなといって、失望するらしいのです。
ところが「昇天のキリスト」なので、作者は、人が、下から見上げた時に一番魅力的になるように造っているのです。
ですからキリストと同じ目線に立ってる時には、「なーんだ」ということになるそうです。
でも、その像の前で、跪いて、下から見上げると、何とも言えない神々しさを感じるそうです。 すなわち、へりくだる人にだけ、見えてくる神の新しい発見があるのだそうです。

これと同じように、教会で礼拝するときにだけ気づく事があるんです。
神は教会を通して、へりくだった魂に働かれる方なのです。
自己充足されている神は、人間に礼拝されなかったからと言って困るわけではありません。礼拝すらも、神が人に、神の偉大さや恵を人に知らしめるために与えて下さった機会なのです。
先ほど読んだ、3章の11節の後半、

あなたが万物を創造されました。み心のゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。

この「み心のゆえに」存在しているものの中には、御心に反している悪者もいるんです。御心にかなうもの以外は存在できないと言うのだったら、この瞬間に全員消滅します。
あからさまな悪意や、独裁者や、恐るべき力があるんですが、それらをみこころのゆえに、ある期間、存在させています。
私たち人間は、近視眼的にしか事象を捉えることができません。
「神様が正しかったら、どうしてこんなことが起こるんだ」と呟きがちです。
しかし、天に召されたときに、なぜそうだったのかという舞台裏が全部明かになるのです。その時に神様の賢さが改めて分かって、「礼拝」が途切れません。神に対する讃美が途切れません。あれも、これも、全部意味があって間違いがなかったんだと気付かされます。

神様はそこに行く資格を与えるために、イエス・キリストを遣わして下さったのです。