信仰によって義と認められる
「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
アブラムは言った。「神、主よ、
さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。
すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、
アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。聖書 新改訳2017
これまでアブラハムは、あれこれとトラブルに巻き込まれてきました。なんとか事を治めはしましたけれども、でもそのことにアブラハムはとても落ち込んでいたわけです。その時に神様の声が聞こえてきました。「目を上げなさい」というそういう言葉をもって神様はアブラハムのことを励ましてくださったと言ことを前回学んだところでありました。
1.主の語りかけ
今日の箇所でも同じですね。1節にこう書いてあります。
このように神様はアブラム、このときはまだアブラムという名前でしたが、アブラハムに「アブラムよ、恐れるな。私はあなたの盾である。」と語ってくださり、アブラハムのことを励ましてくださっているということがわかります。
ここで「アブラムよ恐れるな」と語られていますので、この時のアブラハムの心の中に恐れがあったということがわかります。実は15章に先立つ14章において、アブラハムはこの世の厳しい現実に直面させられるという経験をしました。その土地の王達、様々な王達が支配していたわけですが、その王たちの間に戦いが起きてしまい、ロトが財産とともに略奪されてしまうという事件が起きてしまったんですね。アブラハムはロトの救出に乗り出して見事にロトとその財産を取り戻すということを成し遂げました。また敵を追い払ったことで、ソドムの王がやってきてソドムの王から感謝され、財産贈与の提案をいただくという、そういうこともあったんですが、アブラハムはそれを断ったということがそこに出てくることです。この世の力関係の中に取り込まれることを恐れたということが言えるという風に思います。アブラハムは何とか起きてきた状況に、うまく対応できたのかもしれません。でもアブラハムはこの経験によって、すっかり疲れ果てていたのではないかというふうに考えられます。アブラハムのこの世における生涯は旅人のような生涯であったとよく語られますが、しかしアブラハムはこの世離れした人生を歩んでいたわけではないですね。難しいこの世と複雑な人間関係の中で、いつも苦労していた、そういう旅路でありました。ですからこの時のアブラハムも、相当疲れ果てていたと思いますし、そしてこれからもこのような戦いが強いられることに対して、アブラハムは異常に恐れを抱いていたということが考えられるわけであります。
しかしそんなアブラハムに対して神様は、「アブラムよ、恐れるな。私はあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい」と語りかけ、アブラハムのことを励ましてくださいました。困った時、悩んでいる時に、神様の声が聞こえてくるなんてなんて幸せなことでしょうか。アブラハムって本当に幸せな人だなと思いますね。でも神様は私達にもきっと同じように語りかけてくださっている方ではないだろうかと思うんですね。私たちの側で十分な準備ができていないだけで、実は神様はいつも私たちに語りかけてくださっているのではないでしょうか。実際に御声が聞こえてくるわけではないかもしれないけれども、聖書を通して、御言葉を通して、神様は私たちにいつも親しく語りかけてくださっているということを、私たち覚えたいと思うんですね。困難な時に、悩んでいる時に、苦しみの時に、私たちの名前を呼んで、「恐れるな」と語りかけてくださっている方がおられるということを、私たちはいつも覚えているものでありたいという風に思います。
今日の箇所はこのような神様のアブラハムに対する語りかけから始まっているんですけれども、この神様のアブラハムへの語りかけがアブラハムの祈りを触発したという事実に今日、私たちは注目したいと思います。
2.アブラハムの応答
神様の優しい励ましの言葉を頂いて、アブラハムはこの後、自分の中に隠し持っていた悩みを神様に正直に打ち明けているということがわかります。2節と3節をお読みいたします。
この言葉にですね、それまで溜まっていたアブラハムの悩みが注ぎ出されているということを感じますね。神様がアブラハムに対して語った、「あなたへの報いは非常に大きい」というこの言葉に、アブラハムが反応したんだと思いますね。神様はあなたへの報いは非常に大きいという風に言ってくださってるんですけれども、アブラハムの心のうちには、まだ何の報いもないというそういう思いがあったと思いますね。アブラハムの中で日々募っている悩みがありました。それは神様がなかなか子供をくださらないという悩みでした。かつて、あなたを祝福するよ、あなたの子孫を祝福するよと、約束してくださった神様、その神様からの約束を頂いた時に、アブラハムはきっと神様が自分とサラとの間に子供をくださるに違いないと単純に思ったと思いますね。ところがあれからもう10年近くの日々が経とうとしているんですね。アブラハムも妻のサラも子供を産むことのできる年齢ではなくなってしまいました。アブラハムの心の中に、最初希望があったと思いますが、その希望がだんだん失望に変わっていく、喜びがだんだん寂しさに変わっていくという、そういう心の移り変わりがあったんじゃないかなと思います。2節においてアブラハムは神様に「神、主よ、あなたは私に何をくださるのですか。私は子がないままで死のうとしています」って、もう明日にでも死んでしまいそうな感じの言葉ですが、実はアブラハムはこの後ずっと長生きするんですけれどもね、でもなんかそういう気持ちだったんですね。なんか非情にも、神様が何もくださらないということで、心の中がいっぱいになっているアブラハムの心理状態を感じますよね。
また3節では、「ご覧ください。あなたが子孫を私にくださらなかったので・・・、」この言い方にもその時アブラハムが感じていた心の葛藤と寂しさのようなものを私たちは感じさせられるんではないかと思いますね。神様のことを疑ってるわけではないんです。神様がアブラハムに対して特別な計画を用意してくださっていることをアブラハムは信じていました。しかし、いつまで経っても状況は変わりません。
そこでアブラハムは神様の約束を自分なりに解釈し、自分ではなくて自分のしもべ「エリエゼル」と言うしもべがいましたけども、そのエリエゼル を通して神様の約束がきっと実現されるんだろうと、そのように解釈してしまったんですね。
ここに神様の約束を信じながらも、自分の未来をなんとか自分の考えで操作しようとしているアブラハムの姿が表されているのではないでしょうか。
信仰がないわけではないんですよね。たえず神様のこと意識してるんです。神様の導きを意識してるんです。でも同時に、アブラハムは自分の未来を、自分の力で切り開こうとしています。神様のアブラハムに対する計画を信じながらも、その一方で神様の御手に完全に委ね切ることのできない一人の信仰者の葛藤が、ここに表されているのではないでしょうか。このような内的葛藤が、アブラハムの中で日々募っていったことと思います。 神様に対する疑問をどこかに感じながらも、それを神様になかなか打ち明けることのできない日々が続いていたと思います。
しかし、この日この時、アブラハムは神様の優しい御手に支えられながら、ついにそれまで募っていた、溜まっていた自分の心の中にある悩みを、正直に打ち明けることができました。そのこと自体がアブラハムにとっての大きな成長だったのではないでしょうか。
私たちもいつも祈ってると思いますけれども、神様に対して必ずしも心のうちを正直に注ぎ出しているわけではないことが多いんじゃないかなと思うんですね。祈りの時に、同じような言葉を繰り返してるようなこともあるかなと思います。私たちの神様との関係も、実は表面的なレベルで留まってしまって、なかなか深いところまでゆかないということもあるんではないかなと思います。
でもそんな私達でも、神様の語りかけを受け、神様の御心に触れた時に、私たちの心が開かれて、それまで隠されていた、募っていた不安や恐れや悩みを神様の前に注ぎ出すように導かれることがあるんではないでしょう。神のことばの導きの中で、神様との深い交わりの中に加えられていくという経験を、私たちにも与えられることがあるんではないでしょうか。その守りの中で、神様の力強い御手の中で、私たちが正直にされ、主に委ねるものに変えられていくという、そういう主の導きがあるということを私たちは是非意識するものでありたいという風に思います。
アブラハムは、そのようにして自分の心の中に募っていたその思いを打ち明けました。
3.神との友情
そんなアブラハムの正直で率直な祈りを受けて、その後どうなったでしょうか。
4節にこう書いてあります。
この言葉を読むと、まるで神様が、アブラハムのそのような祈りを待っていたかのようなそんな反応だなという風に思いますね。神様とアブラハムの間に言葉のやり取りがあるわけですけれども、単なる言葉のやりとりではなくて、心が響きがあっている、互いに響きあう交わりがここに成立しているということを私たち教えられます。
そしてそのようなアブラハムの応答を受けて、神様もアブラハムにさらに深い御心を示してくださいました。4節の言葉ですね。
このようにアブラハムに語りかけてくださいました。つまりあなた自身に子供が与えられるよってことですよね。他の人じゃない、アブラハム、あなた自身から子供が与えられるよ。そのように、より具体的な約束をアブラハムにしてくださった。
そしてさらに神様は、アブラハムを外に連れ出したということが5節に書いてあります。
この箇所を読むと、アブラハムは天幕の中にいたんだなって事に初めて気づかされますね。そしてその時は実は、夜だったんだなということにも気づかされるわけですけれども、空は満天の星空。神様は言われました。「さあ天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。神様の、実に 時にかなった、実に素晴らしい励ましの言葉でありました。13章14節でも、あの時も神様はアブラハムに「目を上げなさい」って励まして下さったんですね。その神様が、ここでも「見上げなさい」という風に語りかけてくださっている。前回は「目を上げなさい。あなたがいるその場所から、北、南、東、西を見渡しなさい」という励ましの言葉でした。アブラハムの回りの、四方八方のその景色を眺めなさい。そしてそれは全部あなたの子孫のものだよ、っていう励ましの言葉だったんですけれども、今回は「天を見上げなさい」という、さらに天を見上げてさらに「無数に輝く星たちを見なさい」そういう励ましの言葉だったということがわかります。
アブラハムは天を見上げて、この無数の星たちが、満点の星たちが輝いているのを見て、圧倒されたんじゃないかなと思いますね。そういう星空を見ることが最近はなかなか少なくなってしまったかなと思いますけれども、それでも山に行ったりキャンプに行ったりするとですね本当に素晴らしい星空に私たちも圧倒されることがあると思います。アブラハムもその時、本当にその星空を見上げて圧倒されて、数えてみなさいと言われんですけれど、でも数え切れない。しかし、あなたの子孫はそのようになるんだよという風に約束をされて、本当にこの時に励まされたと思うんですよね。その時にアブラハムは天地万物を支配しておられる神様の偉大さを感じたと思います。その偉大な神様がこんな小さな自分に目を留めてくださっているということ、自分の人生に関わってくださっているということ、そしてこの自分の悩みをしっかりと受け止めてくださっていることの幸せを、その時に感じたに違いないんですよね。この経験はアブラハムにとっては神様の偉大さ、素晴らしさを知らされる経験でありました。そして自分の思いをはるかに超えたところに、もっと素晴らしい神様のご計画が用意されているっていう事を教えられる、そんな経験だったに違いないという風に思います。
4.信仰によって義と認められる
そのような御言葉をいただいて、アブラハムはどう応答したんでしょうか。6節をお読みいたします。
そのような神様からの力強い励ましをいただいて、アブラハムは主を信じたって書いてあります。そしてそれゆえにアブラハムは義と認められた。アブラハムの信仰による応答があったということ、そして神様がその応答を心から喜んでアブラハムのことを受け入れてくださったということがここに示されていることであります。素晴らしい神様の約束が与えられました。
でも実はですね、よく見るとですね、いつ与えられるのか?どのような方法で与えられるのか?という具体的なことは何も示されていないんですね。見方によっては極めて曖昧な指示であります。そしてこのような具体性がなかったことの故に、実は16章に入りますとアブラハムは、妻のサラではなくてサラの女奴隷ハガルという女性がいましたけども、このハガルとの関係によって子供を得ようとしていく、それがまた大きなトラブルになっていくんですね。そんなあまり具体性のない神様の言葉ではありましたが、しかしアブラハムはそこで神様を疑うことはしませんでした。「神様を信じた」とここに書いてある。
ここで「信じる」と訳されている言葉は、アーメンという言葉と同じ言葉が使われてるんですね。私たちが祈りの度に唱えるアーメンという言葉ですね。それと同じ言葉が使われています。アーメンどいう言葉は、私たち祈っている時に、神様に信頼して私たちの祈りは本当に心からの祈りです、真実な祈りです、アーメンという応答の言葉ですよね。
神様に対する応答。 それまでのアブラハムは、自分の未来をなんとか自分の力で画策し、自分で切り開こうと努力していたと思いますね。神様の計画を信じながらも、でも何とか自分で頑張ってですね、なんとか切り開こうと努力していたと思います。
しかしこのときアブラハムは神様の素晴らしさを知らされて、神様が用意してくださっている素晴らしいご計画に委ねることができました。アブラハムはこのとき神様の全てを知り尽くしてるわけではないんですよね。神様のご計画についてもまだわかんないところたくさんあるんですね。曖昧なところも沢山あるんです。でもそれでもアブラハムは神様に信頼したんですね。この方を信じたんです。自分の願望に支配される人生から解放されて、神様の用意される希望に生かされる人生へとアブラハムは導かれているっていう事に私たちは気付かされるんではないでしょうか。そして神様はそのアブラハムの信仰を見てアブラハムを義と認めてくださったと、こに書いてある。
「義と認める」という言葉がここで初めて出てまいりました。これは私たちと神様との関係を表している言葉です。私たちもイエスキリストを救い主として信じ、イエス様を信じた時に、義と認められるという経験をしました。私たちの罪を赦すために、また私たちを救うために、イエス様が身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったという、そのようなイエス様の素晴らしさを知らされて、私たちもこの方を信じましたね。
私たち神様のことは、まだ全然分からないんですね。神様のご計画のすべても知らないんです。わからないことがたくさんあるんです。でもそれでもイエスキリストの素晴らしさを知らされて、この方を信じ受け入れました。その時に私達は義と認められると聖書で教えられている。私たちの行いとか努力とか立派な振る舞いによって、私たちは神様から認められたんじゃないんです。神様の素晴らしさを知らされて、イエスキリストの愛の素晴らしさを知らされて、この方を信じ信頼したからこそ、私たちは神様に受け入れられ義と認められた、これが私たちの信仰であるということをもう一度ここで覚えたいという風に思います。
今日の聖書の箇所を通して、本当にうらやましいなと思いますね。アブラハムと神様の関係はどんどん深まっているということが分かる。今までのアブラハムと神様のやり取りの箇所見ていると気づかされることは、神様からの一方的な語りかけはあるんですけれども、アブラハムの応答は、基本的になかったんですね、今までは。今までは祭壇を築いて祈ったとか、そういうことは書いてあるんですが、どういう言葉を会話していたかってことは書いてないんです。
でもこの箇所から、この両者は会話を始めるんですね。対話がここから始まるんです。神様とアブラハムが親しく語り合っていることに気づかされる。しかもただ単に言葉のやりとりではないんですね。情報の伝達ではないんです。心を開きあって響き合って、まるで親しい親友同士であるかのように、両者は楽しく語り合っていることではないでしょうか。
アブラハムこのような神様との交わりを、本当にかけがえのない時として楽しんでいることがわかるし、神様も実はアブラハムのそのような祈りを喜んで受け止めてくださっている。その両者の間に本当に親しい交わりが成立しているということに、私たちは気づかされるわけであります。
私たちも実はこの箇所から、このような神様との親しい交わりの中に招かれているんだということを覚えたいなという風に思います。
私たちの人間関係は多くの場合、その付き合っている相手が、自分にとって得か損か、益になるか、都合が良いか、便利か、そういう基準で私たちの人間関係が築かれていることが実に多いんではないかなと思うんですね。つまり私たちの損得勘定や利害関係によって私たちの人間関係が築かれてしまっているということが結構あるんではないでしょうか。
しかも夫婦とか親子とか、私たちにとって近い関係においても同じような事が、自分を中心にすえた原理原則によって人間関係が築かれてしまっているということが結構あるんじゃないかなという風に思います。
そして神様との関係においても、私たちはそのような利害関係を求めてしまうことがあるんではないかなと思いますね。神様が自分にとって果たして益であるか、得であるか、自分にとって本当に都合がいいかどうか、そういう限りにおいて私たちは神様を信じているという、そういうことになっていることがあるんじゃないかなと思う思うんですね。
でもそんな前提では、私達と神様の関係は全く深まっていかないですし、信頼関係が深まっていくことはないという風に思います。
5.結び
今日の聖書の箇所を通して私たちの信仰とは、神様との親しい友情に生かされることであるということを覚えたいという風に思います。私たちにとって祈りの時ってどんな時なんでしょうか。単なる神様との交わりではなくて、それは神様との親しい友情を経験する時ではないでしょうか。私達を無条件に愛してくださっている方に向かって、私たちが心を開く時ではないでしょうか。神様の御言葉にふれて、心が開かれて、私たちの心を注ぎ出す、そのような時ではないでしょうか。そのような私たちの真実の祈りを、神様も喜んで、そしてさらに神様が私たちに御心を示してくださるのではないでしょうか。そのような神様との生きた交わりが、もし私たちの日々の生活の中で経験されてゆくならば、それは本当に私たちにとって幸いなことではないだろうかと思うんですね。願わくは私たちが御言葉によって神様の偉大さ、素晴らしさを覚えることができるように、そして私たちの心が開かれ神様を信じ信頼することができますように、私たちのために最善の計画を用意してくださっている方に、本当に私たちが委ねることができますように。そして私たちもアブラハムのように神様との親しい交わりの中に生かされていくものとして成長していきたいと思います。