イエス・キリストをより良く知るために

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

レビ記19章9~198節

あなた方が自分の土地の収穫を借り入れる時は、畑の隅々まで狩り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。またあなたの葡萄畑のみを取り尽くしてはならない。あなたのブドウ畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらは貧しい人と寄留者の為に残しておかなければならない。私はあなた方の神、主である。盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにしてあなたの神の名を汚してはならない。私は主である。

あなたの隣人を虐げてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで自分の元にとどめておいてはならない。

あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を畏れよ。わたしは主である。

不正な裁判をしてはならない。弱いものをひいきしたり、強いものにへつらったりしてはならない。あなたの同胞を正しく裁かなければならない。あなたは、民の中で人を中傷して回り、となり人の命を危険にさらすことがあってはならない。わたしは主である。

心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。そうすれば、彼のゆえに罪責を負うことはない。

あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。私は主である。

1.神様からの全ての祝福は、礼拝から始まる

ここまでの箇所ですけれども今日のこの聖書の箇所から、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」というかたちで説教をお語りいたします。レビ記19章より信仰者としての聖なる聖いあゆみについて、今学んでおります。19章の中心の御言葉は5節であると考えられます。5節の御言葉を読んでみますが、

「あなた方が交わりの生贄を主に捧げる時は、自分が受け入れれるように捧げなければならない」

交わりの生贄を主に捧げなさいと、ここに命じられていますけども、これはつまり神様を礼拝しなさいっていうことですね。そして神様との生きた交わりの中に加えられなさいということ、これが私たちのゴールです。

そのゴールに到達するために、まず自分の親を畏れ、その次に安息日を守り、さらに偶像礼拝を排除しなさい、そのようにして神様は、私達が確実に神様とお会いできるように導いてくださっているんだということを、前回の先週の礼拝で共に学びました。今日はその続きの箇所になるんですけれども、やっぱりこの5節から始めなければいけない。つまり礼拝から始まるっていうことです。

今日の聖書の箇所においては、人間関係における様々な掟、沢山のおきてがここに記されていますけれども、これは私たちが聖なる神様と出会った結果としてもたらされる祝福であるということを、私たちはまず覚えなければいけない。私たちと神様との関係が祝福されると、私たちの人間関係が祝福されていきます。そしてその祝福は、礼拝から始まるっていうことです。

私たちの日常生活における、人間関係における、聖さは、私たちが聖なる神様と出会った結果もたらされる祝福であるということ、それだけ礼拝が大事であるっていうことを、私たち覚えたいという風に思います。

もうこの礼拝で、一週間の歩みが決定されるくらい礼拝は大事であるっていうことを、私たちはここから教えられていくのではないでしょうか。

その順番をよく踏まえた上で、今日は9節から18節の御言葉を見ていきたいと思います。

2.神が示すオキテ

実に多くの掟がこの中に出てきたんですけれども、全体が五つの段落に分けられております。 9節と10節が、一段落。11節12節が第2段落。13節14節が第3段落。15節16節が第4段落。17節18節が第5段落という二節づつ、段落に分けられております。そしてよく見ると、それぞれの段落に、五つずつの掟がそこに記されております。

ですから今日の箇所は、数えてみますと5かける5で25の掟がそこに記されているということに気づかされます。そしてさらに、すべての段落の最後に、同じ言葉が繰り返されております。それは「わたしは主である」というそういう言葉です。

その神様の宣言の言葉、10節の最後に「私はあなた方の神、主である」と宣言されております。12節の最後、「わたしは主である」、14節の最後にも「わたしは主である」16節の最後にも「わたしは主である」18節の最後にも「私は主である」と、それぞれの段落の最後に、韻を踏むようにして同じ言葉が繰り返されている。

今日の箇所にはそのような構造上の特徴が見られます。そういうことをよく整理しながら読むと、とても分かりやすくなるんではないかなという風に思います。25あるおきての全部を、一つ一つ丁寧にみて行くことはできないんですけれども、全体的にどのような掟がイスラエルに語られていたのか、どんな御心がそこに示されていたのかという点に、今日私たちは注目をしてきたいと思います。

①貧しい者に対する配慮

まず9節から10節の最初の段落で命じられている掟は、一言で言うならば、貧しい者、寄留者たちを大切にしなさいというそういう命令です。9節と10節をもう一度読んでみます。

あなた方が自分の土地の収穫を借り入れる時は、畑の隅々まで狩り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。またあなたの葡萄畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのブドウ畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者の為に残しておかなければならない。

こういう風に命じられていまして、収穫の時に畑の隅々まで知り尽くしてはいけないし、収穫の時に必ず落ち葉が落ちますね。その落ち葉は拾って集めてはならない。ブドウ畑の収穫の時も同様であるということがここで命じられています。私たちも全部収穫したい、そういう性質を持ってるんじゃないかなと思うんですけど、わざとそれを残しておきなさい、それはイスラエルの中の貧しい人たち、寄留者たちのためであったということがわかります。人々が狩り残した作物や落としていった落ち穂を、彼らが拾い集めてそれで生きていくためであるということ。なんとも麗しい掟が、当時のイスラエルには定められていたことだろうかという風に思います。自分達だけ生き残っていけばいいということではないですね。社会のメンバー全員が、助け合って生きていくことができるようにと、よく配慮されていたことがわかります。

今のこのコロナの時代に、このような精神が私たちの社会にももっともっと必要ではないだろうかというふうにも思わされました。このような掟は、豊作の時、豊かな時は比較的守られやすかったんじゃないかなという風に思います。

でも不作の時、経済危機が訪れた時はどうだったでしょうか。私たちも経済が好調で豊かな時は、貧しい人々に対しても比較的におおらかに振る舞えるものではないかなと思います。しかし不況になればなるほど、そして私たちの生活が苦しくなればなるほど、私たちは余裕を失います。そしてだんだん財布の紐が固くなっていきます。人のことまで考えている余裕がだんだん無くなってくる、そういうものではないかなと思うんですね。そしてイスラエルの人々もきっと同じだったと思います。 そんな状況であったとしても、人々は共に歩んでいる貧しい人たち、寄留者たちを忘れてはいけないし、彼らに配慮することが求められていた。なぜならばそれが神様の願っていることだからです。それが神様の御心だからです。

つまりイスラエルの民は、この世の中を自分の目を通してではなく、神様の目を通して見つめるように導かれていたということが分かるのではないでしょうか。

この麗しい習慣が実践された例が、旧約聖書のルツ記という書物の中に表されております。ベツレヘムに住んでいたエリメルクとナオミの夫婦が、その地に飢饉が起こったために、二人の息子を連れて、モアブの地に移住したというところからルツ記の話は始まっていきます。二人の息子はその地でそれぞれモアブ人の女と結婚しますけれども、その一人がルーツでありました。そのモアブの地で大変な悲劇が起こります。まずナオミの夫が死んでしまいます。さらに二人の息子までも死んでしまいます。どうしてそうなったのか詳しいことは聖書に書いてありませんけれども、結果的にナオミと二人の嫁3人の女性たちが残されてしまったという展開になります。ナオミは故郷のベツレヘムに帰る決心をいたしました。そして二人の嫁たちには、自分の家に帰るようにと説得をします。一人の嫁はナオミの説得に応じて家に帰ることにしました。ところがルーツは、ナオミについて行くと言い張りました。その決心が固いことを知ったナオミはルツを連れて行くことにして、一緒に二人でベツレヘムに戻ってくるという展開になります。

ルツはモアブ人ですから、ベツレヘムに戻ってくると、その地においては異邦人ということになります。さあこのベツレヘムで、ルツがこれからどうやって生きていったらいいのかっていうことがルツにとっての切実な課題でもありましたし、直美にとっても大きな心配でありました。

でも不思議な導きがありまして、ルツはナオミの親類であったボアズの畑で働くようになる。そしてボアズはやがてルツがいることに気づくんですね。その時にルツにこういう風に語りかけたという言葉が記されております。読んでみますのでどうぞ聞いててください。ルツ記の2章8節9節ですが、

ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。他の畑に落穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私の所の若い女たちの側を離れず、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちにあなたの邪魔をしてはならないと命じておきました。喉が渇いたら、水がめの所に行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」

と、ボアズはルツに語ったんだそうですね。つまり他の畑には行かないように、自分の畑のところで働きなさい。そして喉が渇いたら、水も飲んでもいいいいですよと、そういうところまで配慮してくれていたということがわかりますね。一方ボアズは自分の下僕である若い人たちには、こういう風に命じておりました1。15節16節 、

ボアズ は若い者たちに命じた。「彼女には束の間でも落ち穂を拾い集めさせなさい。彼女に惨めな思いをさせてはならない。それだけでなく、彼女のために束からわざと穂を抜き落として、拾い集めさせなさい。彼女を叱ってはいけない。」

という風に若いしもべたちに命じていた。つまり留守のために収穫の束から落ち穂をわざと落としておくようにと命じていたということなんですね。 ボアズという人は本当に優しい人だったということがわかりますし、非常に思いやりに満ちていた人であったということがわかります。 ただ今日のレ簿記の記事と合わせてこの記事を読む時に、ボアズはただ人間的に優しかっただけではなく、それは御言葉に従った結果であるということが分かる。

要するにボアズという人は、神様の御言葉を大切にする信仰者であったということ、その優しさは、御言葉に従った結果としての優しさであったということに気づかされるわけであります。

この後、ボアズとルツは結婚に導かれます。そして子供が与えられるんですけど、その子供の子供の子供がダビデになります。そしてそれから1000年ぐらいの長い時間を経てこの家計から、イエス・キリストがお生まれになる。つまり神様が、この二人の結婚を本当に祝福してくださったということが分かるし、そしてこの話により、私たちは御言葉に従う者を神さまは豊かに祝福してくださるということを教えられるわけであります。

神様の思いというのは、社会的に弱い立場に置かれている人々に豊かに注がれているということを今日私たちはこの箇所から覚えたいという風に思います。その神様の御思いに心を留めながら、私たちも貧しい人たち、寄留者の人達に、心を注いでいくものでありたいという風に思います。

また教会は一つの社会です。初代教会は精神的、信仰的に互いに励ましあっていましたけれども、それだけではなくて経済的にも互いに励ましあっていたということを使徒の働きを読むとわかるんですね。使徒の働きの4章32節には、「彼らの中には一人も乏しい者がいなかった」と、そういう風に書いてある。教会の中には、乏しい者は一人もいなかった。それは兄妹姉妹たちが、財産や所有物をそれぞれの必要に応じて分配していたからだということがそこに書いてあるんですね。

「教会の中に一人も乏しい人がいなかった。」飯能キリスト宣教教会の中にも、乏しい人が一人もいない、そういう教会であってほしいなという風に思います。私たちはあらゆる面において、信仰的・精神的霊的な面においても、また生活面においても、経済的な面においても、互いに必要を覚えあってゆく、励ましあっていく兄妹姉妹であるということを、ぜひ覚えていきたいと思います。

②不正をしてはならない

さて11節から始まるレビ記に戻りますけれども、11節から始まる箇所においては、盗んではならない、欺いてはならない、互いに偽ってはならない、偽って誓ってはならないという言葉が、命令が出てまいります。さらに13節を読んでいくと、隣人を虐げてはならない、かすめてはならない、日雇い人の賃金を朝まで自分の元に留めておいてはならない、つまりこれは賃金をごまかしてはならないということだと思います。そしてその次に、あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない、目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない、これは障害を持っている方を虐げてはいけないというそういう命令ですよね。

ずっと何々してはならないという禁止の命令が続いていくことが分かる。

これらの掟を一言で言うならば、「不正をしてはいけない。正しい者であれ」ということになります。そしてそれはどうしてかと言うと、「神の名を汚してはならない」と、ここで命じられている。

このような社会的な不正は、人間を粗末にするという意味でも、それは非常に良くないことでありますけれども、それ以上に神の名を汚すことであるということが、ここで命じられている。そんなことを私たちもよく覚えておきたいという風に思います。

決して私たちが人間関係の様々な不正によって神の名を汚すことがありませんように注意したいという風に思います。

さらに15節には、不正な裁判をしてはならない、弱いものをひいきしたり、強いものにへつらったりしてはならない。あなたの同胞を正しく裁かなければならないということも命じられております。私達は小さいもの、弱いものを大切にしなければいけない。でも彼らを、ひいきしてはならないということもここに書かれてあります。つまり小さいもの、弱いものを大切にしようとするあまりに、そのために正義が歪められることがあってはいけないということであります。人に対する優しさも愛も、神の義を土台にする必要があるということがわかります。私たちの優しさや愛は、時々正義が犠牲になったり、罪が曖昧になった状態での愛になってしまうことがあるんではないだろうかというふうに考えさせられます。

でもそれは本当の意味での優しさではないし、愛ではないということを、第1コリントの13章6節にも、

愛は不正を喜ばず真理を喜びます

と、教えられております。真理から外れてしまったら、それはもはや愛ではないということです。愛は大事ですが、愛の中身はもっと大事。神の義に基づいてこそ初めてそれが愛になるということを、私たちは心に留めるものでありたいと思います。

③隣人を自分自身のように愛する

さらに17節からの箇所を読んでいきますと、

心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。復讐してはならない。恨みを抱いてはならない。

という掟が続いていきます。今まで命じられてきた掟の数々は、私たちの目に見える人間の悪い振る舞いや、行いを、禁じる掟でしたけども、この箇所においては私たちの目には見えない内側に注目しているということに気付かされる。

私たちの心の中にある憎しみだったり、怒りだったり、復讐心であったり、恨み、そのようなものは人の目には見えない、隠されておりますが、でもそこに神様は注目しておられる。そして心の内側か聖められなさいということです。

神様は私たちの内側を注目します。人はうわべを見るんです。人は表面を見るんです。しかし神様は心の中を見ます。私たちは多くの場合、外側の真面目さによりたのみ自分のありのままの姿を見つめない傾向を持っているように思います。まじめなクリスチャンほどその傾向が強いと思います。でも私たちの神様は、内側をあいまいにして外側の行いにこだわる私たちの生き方を嫌うんですね。かつてイエス様は心の中にある数々の罪悪を外側の良い振る舞いによって、おおい隠そうとしたパリサイ人たちに向かって何と言ったでしょうか。

お前たちは白く塗った墓のようだ」という風に告発をされた場面がマタイの福音書23章の27節にあります。

私たちは、内側から清められていくことを求めなければいけない。そしてその上で、18節の最後に命じられております。

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。

これが最後に来てますけれども、実はこの最後の掟が、いままで語ってきた24の、掟の総まとめの御言葉、そしてこの掟によって今までの掟が全て言い尽くされているという、そういう命令であります。

 

たくさんの掟が旧約聖書の中に出て参りますけれども、イエスキリストも、その中で大切な戒めは二つしかないと教えておられる。それは、

あなたは心を尽くして、命を尽くして、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい

という戒めが一つ、そしてもう一つは、

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。

という戒めがもう一つ、つまり、

神を愛し隣り人を自分のように愛しなさい、これが最も大事な戒めです。

と、イエス様はマタイの福音書22章37節39節で教えておられる。

この世にいろんなルールがありますね?人間関係を円滑にし円満にするための、様々なルール、配慮が求められていますけれども、全ての掟はこの御言葉に集約されます。

つまり、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」というこの一つの言葉に集約されるんです。この御言葉が、もし果たすことができたならば、 他の掟は全部自動的に果たされるというくらい、この御言葉が重要であるということ、そのことイエス様も教えてますけれども、私たちも是非、私たちの隣人は自分自身と同じように愛するものでありたい、そのように願うものでありたいという風に思います。

3.まとめ

さて、今日たくさんの戒めを見てきたんですけれども、最後のまとめに入りたいと思いますが、ここに出てくる全ての掟は、実はどれ一つ、私たちは自分の力では成し遂げることができません。私達はとても隣り人を自分自身と同じように愛することはできないんです。

そこで私たちはこの箇所で何度も何度も繰り返される言葉に注目しなければいけない。

私は主である」という言葉が、ここで何度も何度も繰り返されています。この掟の合間、合間に5回もこの宣言が繰り返されたのはどうしてなんでしょうか?

10節で、「私はあなた方の神、主である」、12節で、「私は主である」、14節でも「私は主である」、16節でも「私は主である」、18節にも最後に「わたしは主である」と、何度も何度も繰り返して強調されている。ともすれば私たちが聴きあきるほどですね。

神様そんなに言わなくても、ちゃんとわかってますって言いたくなるくらい、なんでこんなに繰り返されるんでしょうか?

それは、ここにある全ての掟を守るために、この御言葉が決定的に重要だから。つまり主である神様を覚え、この方に信頼しなければ、私たちはこれらの掟を何一つ守ることができません。私たちは主なる神様に信頼しなければ、「隣人を自分のように愛すること」はできません。よって何度も何度も繰り返されなければならなかった。何度も何度も私たちは繰り返され教えられなければいけない。本当に神様を仰いで、この方を信頼していかなければいけない、そのように教えられていることを心に留めたいなという風に思います。

私たちはイエス様と出会って、悔い改めに導かれて、その時に聖霊が与えられました。その聖霊に委ねて初めて、神様の御心に沿った歩むことができるんですね神を愛し人を愛しそのようにして私たちが聖なるものとされるためには、それは私たちの内に働く御霊の働きの結果であるということを、私たちは覚えたいという風に思います。

まだ神様と出会っていないという方、私たちのために十字架にかかって死んでくださった救い主イエス・キリスト、まだ信じていないという方はぜひ、イエス様を信じて、この方を受け入れようではありませんか。

その時に、聖霊なる神様が、私達に宿ってくださいます。その聖霊なる神様が、私たちを内側から満たし、私達を内側から作り変えてくださいます。そのような精霊の導きというものを、私達は期待したいと思います。

またイエス様の救いに、もうすでに預かって、生命を与えられている皆さんは、どうかその聖霊の働きを拒んでしまうことがありませんように。

自分の行いにこだわったり、そして自らを誇ってしまったり、自分の内側のことを曖昧にしてしまったりすることがないように、あるいは逆に、神様の愛が注がれているのにも関わらず、劣等感に苦しんでしまうことがありませんように。

御言葉に信頼し、御言葉を通して働かれる、御霊の力に委ねて参りたいと思います。その時に神様は私達の内側から作り変えてくださって、私たちを聖なる者、聖い者にしてくださいす。私たちと神様の関係においても、また私たちの人間関係の中においても、そこに神の聖さが現れていくことを、私たちは祈り求めていこうではありませんか。

 

お祈りしたいと思います。愛する神様、あなたの御言葉を通して私たちを導いてくださること、ありがとうございます。どうぞあなたが与えてくださった御霊の導きの中で、私たちが聖められ、満たされ、そして造り変えられていきますように。あなたの御心を行うものとして、成長させてくださいますように導いてください。御言葉を心から感謝し、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

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