イエス・キリストをより良く知るために

マタイの福音書24章1~28節

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。死体のあるところには、禿鷹が集まります。( マタイの福音書 24:1-28 JDB )
要約
イエス・キリストは終わりの時代に起こる出来事について、信仰者たちに「人に惑わされないように」と警告されました。現代は情報が氾濫し、人々が不安や恐れから騙されやすく、声の大きい指導者や目に見える現象に引き寄せられる傾向があります。そうした中でも、信仰者はしっかりと神の言葉に立ち、惑わされないことが重要です。
また、イエス様は「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と教えています。信仰者にとっては迫害や自然災害、人間関係の冷えなどの困難が待っていますが、最も苦しいのは、信仰者同士の間で愛が冷め、惑わされていくことです。終末には偽キリストや偽預言者が現れ、大きな奇跡や印によって選ばれた者さえ惑わそうとします。
しかし、これらの苦しみは「生みの苦しみ」とも言われ、その先にはイエス様の再臨や復活、新しい天地が約束されています。だからこそ、信仰者は「苦しみの中でも希望を持ち、忍耐して待ち続けること」が求められています。
現代の教会や信仰者も惑わされやすくなっている今、このイエス様の教えを心に留め、希望を抱きながら、御言葉に根差して歩み続けることが大切です。最終的には、福音が全世界に伝えられるという約束の成就を信じ、祈りと宣教に励むことが求められています。

筆耕
1節でイエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄ってきて、イエスに向かって宮の建物を指し示した、ということで、イエス様と弟子たちが宮にいたことが分かります。
この「宮」というのは、エルサレムの神殿を指しているわけですが、そこから出てきた時に、弟子たちがイエスに近寄り、宮の建物を指し示したということが、マタイの福音書に書かれています。
一方、マルコの福音書の同じ記事を読むと、弟子たちはイエス様に対してこう言っていることがわかります。マルコの13章1節ですが、「先生、ご覧ください。なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」とあります。
つまり、神殿の建物の素晴らしさ、美しさ、特に石の立派さに弟子たちは魅了されており、それが本当に素晴らしいと、イエス様に伝えている場面です。
このエルサレムの神殿は、ヘロデ王によって改築されたもので、完成までに46年かかったと言われています。非常に立派な神殿であり、そのことはヨハネの福音書2章19〜20節にも記されています。
イエス様が、「この神殿を壊してみなさい。私は三日でそれをよみがえらせる」と言われた時、ユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに46年かかったのに、あなたはそれを三日でよみがえらせるのか」と答えました。
ここでも、神殿の壮大さと、それに対するユダヤ人たちの誇りが感じ取れます。
この神殿は、2〜4メートルほどもある巨大な白亜の大理石を積み上げて作られ、さらに金で覆われていたため、太陽の光に照らされると輝いて見えたそうです。まさに黄金の神殿であり、それはユダヤ人たちの誇りでもありました。
弟子たちも、その素晴らしさを共有しており、イエス様とのやり取りの中で、その思いが表れたのだと考えられます。
では、そうした弟子たちに対してイエス様は何とおっしゃったのでしょうか。
マタイの24章2節には、イエスは弟子たちにこう言われています。
「あなたがたは、これらすべてのものを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、他の石の上に残ることは決してありません。」
弟子たちは、この神殿の石や建物に魅了されていたわけですが、イエス様はその神殿が完全に崩される、破壊されるということを預言されたのです。
これは、弟子たちにとっても非常に大きな戸惑いだったと思われます。ユダヤ人たちがこれを聞いたならば、なおさら驚いたことでしょう。
イエス様がこのように言われたことは、実際に紀元70年、ユダヤ戦争の中で現実のものとなりました。
ユダヤ戦争は紀元66年にローマに対する反乱から始まり、70年4月にはエルサレムがローマ軍に包囲され、9月にはついに陥落します。
その際、神殿も完全に破壊されたということが、歴史に記録されています。
当時の状況は、『御言葉の光』という冊子の中で次のように解説されています。
「紀元66年、ユダヤ人たちがローマに対して反乱を起こし、ユダヤ戦争が始まった。紀元70年4月、ローマ軍はエルサレムを包囲し、9月に陥落。神殿はローマ軍によって破壊された。
包囲されたエルサレムには、約100万人の市民がいたと言われるが、人々は飢餓と疫病に苦しみ、城壁から逃げ出した者はローマ軍に捕らえられ、十字架にかけられた。
身重の女や乳飲み子を持つ女の悲惨さは、言葉では言い表せないほどであった。
陥落したエルサレムに入ったローマ兵たちは、町の惨状を目の当たりにして、茫然としたと記されている。」
このように、非常に恐ろしい悲劇がその時に起こったということです。
イエス様はこのことを、事前に預言しておられたわけです。
ですから、イエス様が「身重の女たちと、乳飲み子を持つ女たちは哀れです」と語られたことも、まさにその通りの現実となったわけです。
非常に恐ろしい悲劇が、許されてエルサレムを襲ったということなのです。ユダヤ戦争という歴史的な出来事が起こりました。そして、そのことが一つ、ここで預言されているということが言えるわけですけれども、それに合わせて、この世の最後の時、つまりこれから私たちが経験するだろう再臨の時と、その裁きの時も、やはりそこに合わせて預言されているということが言えると思います。
近い未来と遠い未来と、それぞれのことが語られているわけですが、そういう話をイエス様がされた時、弟子たちとしても驚きだったわけですよね。まだそれが起こっていませんでしたから。そこで弟子たちは、イエス様に言いました。
3節。「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが密かに御元に来て言った。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか? あなたが来られ、世が終わる時のしるしはどのようなものですか?』」
ということで、場所はオリーブ山に移りました。そして、そこで座っておられる時に、弟子たちがひそかに御元に来たということですから、非常に神妙な思いで、聞いていいのかどうか、戸惑いながら尋ねたのかもしれません。
彼らは二つの質問をしていますが、最初の質問、「いつそのようなことが起こるのですか?」について、イエス様は答えておられません。これは神様だけがご存じのことであり、いつ起こるかは人間には分からないのです。実際にはAD70年に起こったのですが。
ただ、次の質問、「あなたが来られ、世が終わる時のしるしはどのようなものですか?」については、イエス様はお話をされました。これが、マタイの福音書24章の内容ということになります。
そこで、7つの時のしるし、そしてそれに加えて1つ、合計8つのしるしが、終わりの時に現れることが語られています。
まず、最初は5節。「偽キリストの登場」です。「私の名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします」ということです。つまり、偽キリストが多く現れるということです。
2番目は6節、「戦争や戦争のうわさ」です。「また戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい」という警告です。
3番目は7節、「地震の発生」です。
8節には、「しかし、これらはすべて海の苦しみの始まりなのです」とあります。この3つのしるしの時点でもかなりの苦しみがありますが、それは始まりに過ぎないとイエス様は告げておられます。
4つ目は9節、「迫害の時」です。「その時、人々はあなたがたを苦しみに合わせ、殺します。また、私の名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます」ということです。
5番目は10節、「裏切りと憎しみ合い」です。「その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎しみ合います」と記されています。
6番目は11節、「偽預言者の登場」です。「偽預言者が多く現れ、多くの人々を惑わします」とあります。
7番目は12節、「不法がはびこることにより、多くの人の愛が冷えること」です。
ここまでが7つのしるしです。これらはいずれも、苦しいこと、悲しいこと、戸惑うことばかりですが、最後にひとつ、良いことが14節に語られています。
「この御国の福音は、全世界に宣べ伝えられて、すべての民族にあかしされ、それから終わりが来ます」とあります。
つまり、終わりの時には多くの困難な印が現れますが、それとともに、福音が全世界に伝えられるという希望の印もあるのです。
こうして見ていくと、イエス様は今から約2000年前にこのお話をされましたが、今の私たちの時代の状況を見ると、これらのすべてが当てはまると言ってもよいのではないでしょうか。
現代の世界には、「私こそ救い主だ」と名乗る偽キリストのような存在があふれ、戦争や戦争の噂は毎日のように聞かれます。飢饉や地震、自然災害、経済危機も、世界中で起きています。また、信仰のために迫害される人々も数多くいます。
互いの裏切りや憎しみ合いもあらゆる場所で見られ、偽預言者のような存在も次々と現れて人々を惑わせています。そして、人々の愛が冷えていく様子も、まさに今の社会の姿ではないでしょうか。
しかし一方で、福音が世界中に広まっているという事実もあります。それを見聞きしている私たちは、まさに終わりの時の印を、日々、目の当たりにしている時代に生きているのだということです。
だからこそ、私たちは目を覚ましていなければならず、終わりの時が近づいているという危機感を抱きながら、本当に祈りつつ日々を過ごす必要があると思います。福音を宣べ伝えていかなければいけない、そういう使命をもう一度再確認できればなと思います。
それで、その後ですね、終わりの日が来るわけですけどもね。その時、どういう日がやってくるのか、どういうことが起きるのか、そしてその時にはどういうことに注意したらいいのかということについて、今度イエス様は続けて15節以降のお話になっていくなと思います。
15節、「預言者ダニエルによって語られたあの荒らす忌まわしいものが聖なる所に立っているのを見たら(読者はよく理解せよ)、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家にあるものを取り出そうとして下に降りてはいけません。畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。その時は、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような大きな苦難があるからです。もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのためにその日数は少なくされます。」ということで、その日が来た時の姿、様子についてイエス様は語っておられるのです。
最初に、ダニエル書の話が出てきますね。預言者ダニエルによって語られた「荒らす忌まわしいものが聖なるところに立っているのを見たら」ということで、以前にダニエル書を説教で語っていましたけれども、その中で「荒らす忌まわしいもの」や「荒らす者」と呼ばれる人物が、ダニエルの幻の中に登場します。それはすでにダニエルによって予言されていたことです。
ダニエルの予言は、黙示録に繋がっていくような性質があり、彼の見た幻の中に、そうした存在がやってくることが記されています。歴史的には、紀元前167年にシリアのアンティオコス・エピファネスという人物が現れ、エルサレムを攻め、神殿を包囲し、ゼウスの祭壇を築き、ユダヤ人が忌み嫌うような歌を神に捧げるなど、神を冒涜する事件が起こりました。
これは歴史の中で実際に起こった出来事であり、そのことが予言されていたと一般的には理解されています。つまり、彼らが経験した紀元前167年の出来事が一つのモデルになっているということです。そして、あの時と同じような、非常に悲惨な状況がこれから再び起きるのだということを、イエス様は語っておられます。
そうした過去の出来事を想起させることで、聞いている人々にとってもイメージしやすくされているわけですね。過去に起こったようなことが未来にも再びやってくる。それは本当に大きな苦しみを伴う事件なのだと。それゆえ、「とにかく山へ逃げるように逃げなさい。屋上にいる人は下に降りてきてはいけない。畑にいる人は家に戻ってきてはいけない。とにかく逃げなさい」と語られているのです。
そして、「身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは本当に哀れだ」と言われていることからも、その日がどれほど過酷なものかがうかがえます。その時には、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような大きな苦難があると。
もしその日数が少なくされなければ、救われる人は誰一人いないほどの、まさに未曾有の悲劇が起こるということです。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされるとあります。
いずれにせよ、非常に苦しく、大変な時がやってくるということが警告されています。近い未来としては、紀元70年のユダヤ戦争の時にそれが実現しました。エルサレムにおいて、本当に過酷で苛烈な状況が起こったのです。
その出来事がまた一つのモデルとなり、やがて将来、同じような、あるいはもっと恐ろしい悲劇が再びやってくるということが語られています。イエス様は、歴史上の出来事をモデルにし、それを土台として未来を指し示すという方法で、私たちに警告を与えておられるのです。
その後を読んでいくと、また偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、大きな印や不思議を行い、人々を惑わすということが出てきます。今まさに、そうした時代状況の中に私たちは生かされているのではないでしょうか。
そのような時代に、私たちはどう向き合っていけばいいのか。どう対処すればいいのか。それこそが、私たちが考えなければならないことだと思います。
これは、過去の話のようでありながら、決して過去だけの話ではありません。これから、また困難な時代がやってくることでしょう。そして、「最後の時の印」は、今後も多く現れてくると考えられます。
今まさに、私たちはそのような時代に生かされているのです。その中で、では私たちはどのように生きていけばよいのか。そういう視点で聖書を読むとき、イエス様は三つのことを教えてくださっていると思います。

まず、4節でですね、イエス様は、最初に——一番最初のこの終わりの日の印について、たくさんの話が始まる中で——一番最初に言われたことは、「人に惑わされないように気をつけなさい」ということですね。4節、ここから始まっています。
まず、イエス様がこういう時代に生きていかなければならない信仰者たちに、メッセージとして語ってくださった言葉は、「人に惑わされるな」ということです。
キリストと呼ばれる人だったり、預言者と呼ばれる人たちが多く現れて、人々を惑わす、ということ。それはどういうことかというと、「人々がとても惑わされやすくなっている」ということの裏返しなんだと思いますね。
不安を掻き立てる自然災害もあるし、戦争もあるし、先が見えない——。今、現在の私たちを含めてですけど、私たちの時代の人々は、みんな惑わされやすくなっているかなと思います。いろんな詐欺事件も起こりますし、パソコンを巡るトラブルもありますけれども、いろいろと騙されやすく、惑わされやすくなっている。そして、非常に危機感が煽られるんですね。
みんな「飛びつきたくなる」ようなシーンを持っているわけですけれども、そういう意味で非常に惑わされやすい。そして、何か非常に声の大きい、はっきりとした発言をする人に、みんな惹かれていく傾向があると思います。
その言ってることがどうか、真実かどうかって、あんまり重要じゃないというか、自信を持ってはっきり堂々と言ってくださっている人に、なんだかみんな惹かれていく。声が大きい人に引っ張られていく、というのは、今「強いリーダー」を求めている状況だと思います。
今ね、世界中の人たちが、「みんなで話し合いで決めていく」ということではなくて、強いリーダーを求めて、どんどん引っ張ってくれる人が必要だというような、そういう状況が世界中に広がっているように思います。
非常に、惑わされやすくなっているんじゃないかなと。そういう状況の中で、偽預言者、偽キリストなどがどんどん現れてくる。今まさに、そういう状況が私たちの周りにあると思うんですが、そういう中にあって、私たちが気をつけなければいけないと、イエス様が言われていることは、「惑わされてはいけない」ということなんですね。人に惑わされてはいけない。
ですから、私たちも、とにかく人の言葉とか、魅力的な振る舞いとかに、つい心が引っ張られていくことがあると思いますけれども、惑わされないように注意が必要だと思います。
そして、2番目にですね、イエス様が私たちに命じておられること。それが13節にあると思うんですけども、ここで「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」とあるように、「最後まで耐え忍びなさい」ということです。
やっぱり、忍耐がとっても大事なんだよ、ということをイエス様は教えています。クリスチャンたちにとって、自然災害もつらいですし、戦争や戦争の噂も不安になりますし、人々の愛が冷えていくということも、とても悲しいことです。
迫害されるということも、とても辛いことですが、何よりもクリスチャンたちにとって辛いことは、この信仰者たちが惑わされて、信仰者たちの間で愛が冷えていくということ。これは一番辛いことじゃないかなと思いますね。
イエス様は、24節を見ると、「偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちさえ惑わそうとして、大きな印や不思議を行います」と書いてあるんですね。
最後の時にどんなことが起きるのかというと、神様を知らない人たちだけではなくて、「選ばれた者たち」とあります。これは、真の神様を信じて、そして選ばれて、信仰者になった人たち、という意味です。その人たちさえも惑わされる、ということなんですよね。
どういう方法で惑わされるかというと、大きな印や不思議によって惑わされてしまう、ということです。
その気持ちは分かるかなと思いますね。やっぱり手っ取り早い解決というんでしょうか。目に見えない神様よりも、目に見える効果とか、そういう手っ取り早い解決を求めたくなるという、人の思いというのは、私たちもよく分かると思います。
神様の御言葉が語られているということよりも、大きな印とか不思議を見せてもらったら、それに飛びついてしまう。変化が起きたら、もっと嬉しいですし、そういうものに飛びつきたくなる気持ちもよく分かります。
でも、そのことによって、実はだんだん真理から離れていき、神様から引き離されていって、惑わされていく。それがクリスチャンたちの間でも起こってくる、ということですね。そういう惑わしがあるということが、ここで警告されているのだと思います。
ですから、私たちはやっぱりそういう中にあって、「耐え忍ぶ」ということなんですよね。「最後まで耐え忍ぶ」ということ。そのことが、イエス様によって教えられているのです。
耐え忍ぶということは、御言葉にしっかりとより頼みながら、すぐに結果が出なくても、神様のご計画があるということを信じて、絶えず待ち続けるという、そういう姿勢です。そこに本当に信仰が伴うわけですが、そういう「耐え忍ぶ」ということを、イエス様は願っておられるということです。
そのことを、私たちはよく覚えておきたいと思います。
そしてもう一つは、ただ我慢していればいいということではなくて、ただ忍耐していればいいということでもなくて、やはり「希望を持って待ち続ける」ということを、イエス様はここで教えておられるのだと思います。
8節でイエス様は、こういうふうに言っているんですね。
「しかし、これらはすべて生みの苦しみの始まりなのです」ということで、
これから経験していくこと、すでに経験していること、そしてこれから経験することを、「生みの苦しみ」という言葉で表されたんですね。
女性が妊娠したときに、私たちは妊婦さんに「おめでとう」と言いますよね。
赤ちゃんが与えられたお母さんに対して、「おめでとう」と声をかけます。
でも、「おめでとう」と言われた本人は、これから大変な苦しみを経験していくのだと思います。
きっと、もうすでに少し苦しい時期もあると思うんですが、必ず妊婦さんは出産の際に苦しみを通ることになります。
本当に、出産に伴う苦しみというのは大きなものなんですよね。
でも、私たちはやはり「おめでとう」と言うんです。
そして、言われる方も、やっぱり嬉しいんだと思うんですね。
それはなぜかというと、その苦しみの先に、もっと大きな喜びがあると知っているから。
その先に、もっと大きな希望があるということを、私たちは知っている。
そこに目を留めているから、「おめでとう」と言えるんだと思います。
もし苦しみだけを見ていたら、まったくおめでたくなんかない、ということになるでしょう。
でもイエス様は、それを「生みの苦しみ」という言葉で説明されました。
つまり、確かに大変な苦しみ、悩みではあるけれど、その先に素晴らしい希望が用意されているということです。
イエス様の再臨がやって来るということ。
その時には、死者の復活が起こるということ。
信仰者は天の御国に導かれていき、新天新地が完成する。
それが、ちゃんと最後には用意されている。
私たちはそこに目を留めながら、希望を持って、忍耐して待ち続ける。
それが、ここで教えられていることだと思います。
ですから、私たちも、今日の聖書の箇所から「本当に惑わされないように」ってことをしっかり学びたいと思います。
今は本当に、惑わされやすい時代です。
だまされやすい時代です。
目の前のことだけ見ていたら、それだけで圧倒されて、心が暗くなってしまう。
とても忍耐なんてできない、手っ取り早い解決に飛びつきたくなってしまうような……
そして、だんだんと真理からそれて、神様から離れていってしまいやすい。
教会も、そういう時代になっていると思います。
教会もまた、惑わされやすくなっていると思います。
ですから、そういう時代の中にあって、イエス様が教えてくださったことを、しっかりと心に留めながら、本当に希望を持って待ち続ける姿勢が、今の時代、私たちに強く求められていると思います。
そういうことを、私たちは今日、しっかり心に刻みましょう。
そして、ぜひ福音が全世界に述べ伝えられていくように、祈りましょう。
困難な時代ではありますが、福音が全世界に伝えられていくというのは、終わりの時の印として、約束されていることです。
ですから、私たちはそのために祈りつつ、励んでいく者でありたいと思います。
はい、続きは来週にしたいと思います。
まだ続きがありますので、来週また学んでいきましょう。
それでは、お祈りをして終わりたいと思います。
________________________________________
お祈り
あなたはこの世界の始まりから終わりまで、すべてをご存じであり、
あなたのご計画の中で一つひとつの出来事がなされています。
私たちの目にはとても理解できないような、悲しいこともたくさんありますが、
その中にあって、私たちが惑わされず、耐え忍び、
そして希望をもって待ち続けるように励ましてくださっていることを感謝いたします。
どうぞ、私たちの心と魂を守ってください。
いつも主にあって平安をもって歩み、耐え忍びながら、
御国が完成する時を待ち望み、また祈り、宣教に励んでいくことができますように。
置かれた場所で力を与え、励ましてくださいますようお願いいたします。
御言葉を感謝し、イエス様のお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2025 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page