黙示録16章
黙示録16章1節:大きな声が神殿から出て、7人の御使いに「行って七つの鉢から神の憤りを地に注げ」というのを聞いた。 [ditty_news_ticker id=”2504″]
前回、神の憤りが極みに達したということが言われてきましたけれども、今日取り上げる16章は、その怒りがまさに降り注がれる場面だということが分かると思います。14章・15章と学んできて、14章では、裁きの時が来たぞという警告がなされていました。そして15章においては、この神の憤りが極まるという言葉が1節に出てきましたし、その準備が着々となされていく場面でしたね。御使いが、鉢を用意して、もう準備ができているという、そういうところまでの展開が進んだんですけれども、用意された鉢が一つ一つ、地に注がれていく、鉢の中身が注がれていくという場面が続いていきます。7つの鉢です。その中身というのは、神の憤りなんですけれども、それがいろんな形で注がれていくということがわかります。
1.ひどい悪性の腫れものができた。
1番から7番まで順番に見ていきたいと思いますけれども、1節、
「また私は、大きな声が神殿から出て、七人の御使いに、『行って、七つの鉢から神の憤りを地に注げ』と言うのを聞いた。」とあるように、御使い7人に、行って7つの鉢から神の憤りを、地に注げというその命令が下されました。そこで2節、
「第一の御使いが出て行き、鉢の中身を地に注いだ。すると、獣の刻印を受けている者たちと獣の像を拝む者たちに、ひどい悪性の腫れものができた。」ということです。
獣の刻印を受けている者たちと、獣の像を拝むものたちの姿は、13章に出てきました。13章を学んだ時に、竜から、竜というのはサタンの象徴ですけれども、この悪魔から、力を与えられ権威を与えられた「獣」という存在がいて、そしてその獣は非常に力があって、人々を魅了し、人々が獣を拝むようになるという、そういう光景が描かれていましたけれども、それはひととき、確かに人々の心を惹き付けて、人々がその獣を拝むようになってしまう。
それくらい、人の目から見ると、偉大な力がある存在に見えたのですけれども、鉢に入った神の怒りが注がれると、その獣の刻印を受けている者と、その像を拝んでる人たちには、悪性の腫れ物ができてしまうということが書かれています。ここは出エジプト記の記事を思い起こさせる場面だなと思います。出エジプト記の、災いがエジプトにたくさん降るという場面がありますけど、その中に「膿の出る腫れ物」に人々が苦しめられるという場面がありましたが、それを思い起こさせる場面だなと思います。
2.海は死者の血のようになった。
3節、
「第二の御使いが鉢の中身を海に注いだ。すると、海は死者の血のようになった。海の中にいる生き物はみな死んだ。」
ということで、最初の鉢は地に注がれた。地上に注がれた。2番目の鉢は海に注がれたということで、そうしたら海が、血になってしまったというんですね。その結果その海の中にいる生き物がみんな死んでしまうんです。これも非常に大変なことだなと思いますけども、前回学んだ時の、ラッパが吹き鳴らされた時には、この海の1/3が汚染されたっていう、そういう記事がありました。あの時も、だいぶ被害が大きかったけれども、でも、1/3に限定されて、致命的な被害ではなかった。まだ限定された被害だった。でもここの場面では100%であるということですから、これはどんなに恐ろしい結果だったかということが伝わってきます。
3.川と水源も血になった。
3番目の鉢は4節ですが、
「第三の御使いが鉢の中身を川と水の源に注いだ。すると、それらは血になった。」
ということで、海も血になってしまいました。川も血になってしまいました。水の源が血になったので全部が血になってしまった。これもナイル川が血になったというエジプトに下された災いを思い起こさせますけれども、そういう結果になっていくということがわかります 。ラッパが吹き鳴らされた、その前に出てくる災いの時には、川の水源の1/3に落ちたという描写で、1/3がニガヨモギのようになったという記事が出てきましたけれども、今回は1/3という数字は出てきませんので、やっぱり全体がそういう結果になったということだと思います。
4.最後にはちゃんと裁きをなさる神様。
次に5節、6節、
「また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。『今おられ、昔おられた聖なる方、あなたは正しい方です。このようなさばきを行われたからです。』彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは彼らに血を飲ませられました。彼らにはそれがふさわしいからです。」
水を司っている御使いという存在があるんだなということがわかりますけれども、その御使いが話しました。神様に向かって、「あなたは正しいかたです」ということで賛美をしているんですが、「今おられ」、「昔おられ」「後に来られる」聖なる方と、普通は続くんですが、「後に来られる」って言うほうはもう必要がなくなってしまった、この最後の時が来たんだということが分かる言い方だなと思います。
そして「正しい方」です、「裁きが行われたからです」、と言っています。この「裁き」というのが、神様のご性質に基づいているさばきであるということがわかります。
そして「彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流した」ということで、これは獣や獣の支配を受けている人たち、神に反逆している人たちと考えたらいいかなと思いますが、その人たちが預言者たちの血を流してきた、今までの預言者たちがたくさん信仰のゆえに殺されてきた、殉教してきたという歴史を踏まえてのことですけども、その彼らに対して、「あなたは血を飲ませられた」と言っていますが、すごい表現だなと思います。
実は旧約聖書の中にも出てくる言葉なんですね。イザヤ書の49章26節には、「自分の血に酔う」という、そういう言葉が出てきます。これはツルギによって殺されるという、そういうことを象徴的に表しているという風に解説されています。ですからかつては、そういう風にして不正が行われていて、信仰のゆえに殺されてしまうという悲劇が起こっていたけれども、それに対する復讐を神様がしてくださったという、そういうことが言えると思います。
それが彼らにはふさわしいことなのに、ずっとそのことは放置されていたんだと思います。でもやっぱり、最後にはちゃんと神様が裁きをなされるということが示されています。
5.「祭壇」も応答する。
そういう風に御使いが言うんですが、そうすると7節で、祭壇が応答して言うんですね。
「また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。 『しかり。主よ、全能者なる神よ。あなたのさばきは真実で正しいさばきです。』」
という風に言って、あなたの言った通りです、その通りです、然りアーメンと応答しているんです。賛美する時って、そういうスタイルを取ることがありますね。詩篇なんかでもそうなんですけれども、一方の人が賛美すると、その通りです、アーメンという風にして呼びかけるようにして賛美する風習が当時からあったと言われています。お互いに賛美して何個も響きあっていくという、そういうことがここに描かれていますけれども、祭壇が反応してるというのは興味深いところだなと思いますが、これは6章9節を学んだ時に、自分たちの立てた証の故に殺された者たちの魂が、階段の下にいたという、そういう記事がありましたね。祭壇というのはそういう場所だったんですね。そして10節で、「どうして裁きを行わないんですか、主よ。」、「何時まで復讐をなさらないですか?」って訴えてる場面があったと思いますけれども、それの一つの応答として、結果として、まずその祭壇が、ここで「しかり」という風に答えているんだなということが見えてくるんじゃないかなと思います。
それでは3番目まで行って、賛美が入って中断がありましたけれども、また4番目から始まって行きます。
6.太陽が人びとを火で焼く。
8節、
「第四の御使いが鉢の中身を太陽に注いだ。すると、太陽は人々を火で焼くことを許された。」
それまでは地であったり、海であったり、川であったり、この地上のことでしたけども、この4番目は、鉢の中身を太陽に向かって注いだと言っています。そうすると太陽は人々を火で焼くことを許されたというのです。
エジプトでは太陽の神様を拝む、太陽神信仰なんですね。そして世界各地に太陽を拝む信仰があると思います。日本もあの天照大御神というのは太陽神ですね。今度、大嘗祭があって天皇がそういう儀式に入りますが、それは天照大神と一緒に食事をする儀式なんだそうですね。宗教的な意味があります。ですから日本にも太陽神信仰がありますし、世界中にいろんな国に太陽神信仰があると思います。太陽というのは本来はありがたいものですね。太陽がないと私たちは生きていけないということで、それは確かに信仰の対象になりうるものなのかもしれません。
その太陽が、この時には人々を火で焼くことを許されたってたと言うのですから、全ての宗教を、無にしてしまうと言う意味があったんじゃないかなと思います。
7.それでも悔い改めず、神を冒涜する。
9節、
「こうして人々は激しい炎熱で焼かれ、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名を冒瀆した。彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかった。」
最初の三つの鉢の時には人々の反応は出てこなかったんですけども、この4番目の所から、人々がどう反応したかっていうのが出てきます。これだけ酷い目にあって、これだけ神様から厳しい裁きを受けているのであれば、そろそろ悔い改めてもいいのかなという感じがしますけれども、決してそうはならないんだということが示されています。益々、これらの災害のゆえにと言ったらいいでしょうか、その神の御名を冒涜した。そして彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかったということなんですね。エジプトのパロもそうでした。エジプトのパロも散々災害を受けて、苦しんで、そろそろ悔い改めるかなと思いきや、最後まで悔い改めなかったですね。ちょっと悔い改めたようであっても、すぐ心を翻して、やっぱり悔い改めないという人間の姿が、やはりここにもあるんだなと思います。
8.獣の王国は闇に覆われる。
第五番目、10節、
「第五の御使いが鉢の中身を獣の座に注いだ。すると、獣の王国は闇におおわれ、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。」
5番目の鉢の中身は獣の座に注がれていく。これも13章の2節を学んだ時に、竜が獣に餌を与えたという記事がありました。竜が、サタンがですね、獣に王座と力を与えたという記事が出てきて、獣はその王座を与えられ、そこに鎮座して、そこから人々を支配していくっていう、そういう場所があった。そこに神の怒りが注がれていくということですよね。
その結果、獣の王国も、反キリストの王国と言っていいと思いますが、その王国が暗闇で覆われてしまった。これもエジプトでイスラエルが経験したことでしたよね。イスラエルのところだけは、光があったという記事がありましたけれども、闇に覆われてしまって、さらに暗くなっただけではなくて、苦しみもあったんだと思いますね。人々は苦しみのあまり、舌を噛んだんですね。舌を噛むくらい苦しいっていうのは、どれくらいの苦しみだったんでしょうか。ちょっと想像できないですけれども、そういう苦しみに捕らえられた。非常に恐ろしいことだなと思います。
そして11節、
「その苦しみと腫れもののゆえに天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。」
自分の行いを悔い改めようとせず、逆に、なんでこんなことするんだとばかりに神様に文句ばかり言っている。その原因が自分にあることに気づかない人間の姿だなと思います。
9.ユーフラテス川の水が涸れてしまう。
12節、
「第六の御使いが鉢の中身を大河ユーフラテスに注いだ。すると、その水は涸れてしまい、日の昇る方から来る、王たちの道を備えることになった。」
6番目の鉢は、ユーフラテスに注がれていく、大河ユーフラテスに注がれていく、大河と書いてありまして、今でも大河だと思うんですけれども、当時も非常に豊かな水が流れていて、日本の川っていうのは大きくても、せいぜい利根川とか信濃川とか、そのぐらいのレベルかなと思うんですけれども、でもナイル川とかチグリスユーフラテスとかですね、世界の川は本当にすごいですね。アマゾン川などは、すごい水の量で日本の川は比較にならないくらいの大河です。中国の揚子江とか、黄河とか、旅行した人はわかると思いますけど、全然比べ物にならないですね。すごい大きな川が世界中にはたくさんあるんだと思います。そのユーフラテスの川が、水がなくなってしまうっていうのは、信じられないことですけれども、そういうことが実際に起こるんですね。水があるゆえに、そこに文明が栄え、そこに人々の生活が栄えていたとしても、その水が全部なくなってしまったら大変な事態ですね。そういうことがここで示されております。
そしてこれはまた新たな展開を引き起こしたということがわかります。
「日の昇る方から来る王たちの道を備えることになった。」この6番目の鉢がその中身が注がれた結果、日の昇る方と書いてありますので、東の方と考えていいかなと思いますが、この東の方から来る王たちの道を備えるために枯れてしまった。つまり進軍し易くなった。
この王たちって何者だということになるんですけれども、それはこの次の展開を読んでゆくと、悪霊が出てきて悪霊が全世界の王たちのところに出ていって、そしてこの全能者なる神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを招集したということが14節に出てきますけども、その悪霊たちによって招集され、集められた王たちであるということですね。
さらに、ハルマゲドンという言葉が16節に出てくるんですけれども、ここに招集された王たちであることがわかります。つまり、この王たちが最後の戦いハルマゲドンと呼ばれる場所に集められて、神と戦いをするという展開になっていくということが分かると思います。
ちょっと戻りますけれども13節で、
「私は竜の口と獣の口、また預言者の口から蛙のような三つの汚れた霊が出てくるのを見た。」
ということで、竜と獣と偽預言者、これは13章に出てきたと思いますけれども、要するに竜がサタンですね。そして獣が竜から権力を与えられたこの世の支配者、そしてその前の記事には、「もう一人の獣」って出てきてましたけれども、この「もう一人の獣」というのが「偽預言者」であったということが、ここでわかるんですけども、この疑似三位一体と言ってよいと思います、神様の三位一体ではないですが、この神に反抗する勢力としての三位一体ですね、竜と獣と偽預言者、この三つが結託して、この反キリスト帝国を作っていた。その口から悪霊が出てくる、カエルのような悪霊が出てきて、地上の王たちを集めてくるという、そういう展開につながっていくということが分かると思います。最後の戦いがこれからやって来るんだなという感じがいたします。
そして最後7番目の鉢の中身がそそがれるんですけれども、その前に注目すべき言葉があります。
10.神様の驚くべき忍耐。
15節、
「見よ、私は盗人のように来る。裸で歩き回って、恥ずかしい姿を人に見られることのないように、目を覚まして衣を着ている者は幸いである。」
七番目が最後です。ところが、最後の最後の前にもう一度、こういう言葉が出てくるんですね。これは聖書の中に繰り返し出てくる言葉です。イエス様が言われた言葉ですよね。
マタイの福音書24章42~44節でイエス様は、「私は盗人のように来る、人の子は思いがけない時に来るから目を覚ましていなさい」と、イエス様にご自身が言われた言葉でした。
パウロも第一テサロニケ5章の2節から4節までで同じことを言っていて、「その日は、盗人のようにやってくる、人々が平和だ、安全だ、と言っている時に、妊婦に産みの苦しみが臨むようにやってくる。だから目を覚ましていなさい」と、同じメッセージを語っていました。
そして黙示録でも3章の3節に、サルディスの教会に対するメッセージの中に同じようなメッセージが出てきて、3章3節に、「悔い改めなさい。目を覚まさないなら私は盗人のように来る。私がいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。」ということで、やっぱりここでも目を覚ましていなさい、盗人のように来るからっていう警告ですね。
イエス様もそうでした、パウロもそうでした、黙示録の中でも語られている、もう何度も何度も繰り返し語られている。それが最後の最後の直前に、もう一度繰り返されているんですね。ここにやっぱり私達は、神様の「み思い」というものを感じるんじゃないかなと思います。やっぱり最後まで気付いて欲しいんですね。
厳しいさばきが繰り返されて、本当に痛めつけられて、もうそろそろ気付いてもいい頃なのに、全然気付かない、応答しない、頑なな人たちがたくさんいる中にあって、でもやっぱりまだ招いておられる神様、神様の守りというものを、私達はここに感じるんじゃないかと思います。
警告がちゃんとなされている、その警告がなされた上で、ここでもう一つ注目しなければいけないのは、「幸いである」と語られているんですね。「目を覚まして、衣を着ている者は。幸いである。」と語られています。この16章を読んでいて、ひたすら気が重くなって、もう本当に厳粛な気持ちになるそういう内容の中に、唯一、「幸い」という言葉が出てくる。非常に輝いている感じがしますけど、全然幸いに見えないようなそういう展開の中にあって、でもやっぱり幸いがあるんだなという事に気づかされる。
それはどういうところに幸いがあるんだろうか。それは目を覚まして衣を着ているものは幸いなんだと、その衣を着ているかどうか、裸で歩き回って恥ずかしい姿を、人々に見られることのないように、衣を着ているかどうか、衣を着ていなかったら、本当に恥ずかしいだけの私たちだと思うんですけれども、でもこの衣をしっかりと私たち着せて頂いているか、あるいは黙示録の3章の中には、「目薬を買いなさい。白い衣を買いなさい」って、そういう言葉が黙示録の3章18節に出てきました。ですから着せていただく恵みがそこにあるけれども、同時にそれをしっかりと買って自分で受け止めなさいという、そういう両方の面があるんだなってことが分かるんですけども、最終的に問われるのはそういうことなんだなと思います。与えられた衣をしっかりと着続けるということが大事だなっていうことを教えられます。
そのような励ましの言葉を頂いた上で、最後の七番目の鉢の中身が注がれます。
11.最後の裁き。
17節、
「第七の御使いが、鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、『事は成就した』と言った。」
「事は成就した。」、最後の宣言ですね。
これはイエス様が十字架の上で「完了した」という言葉を発せられました。その言葉と対応してるかなと思います。イエス様が最後に息を引き取られる前に、「完了した」と言いましたが、それはイエス様の十字架によって、救いのみわざが完了した、イエス様が来て下さった目的が完了したっていう、そういう意味がありますけれども、ここにおいては、事は成就したっていうことですね。神様のご計画の全体が、ここに成就した、今までずっと予言して、約束されていたことが、全部ここで成就したんですね 。そういう宣言が大きな声でなされたということが出てきます。
12.裁きの結果。
そうすると18節、
「そして稲妻がひらめき、雷鳴が轟き、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。」
ということで、稲妻、雷鳴、地震ということで、しかも今まで経験したことのないようなそういう大変な大きな地震が起こる。19節、
「その結果、大きな都は、三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。」
この後、「大バビロン」っていうことが出てきますけれども、この大きな都は、神に反逆する反キリストの帝国、それが三つに裂かれてしまう。そしてその帝国の影響を受けていた様々な国々のそういう街、街もあったわけですけれど、それも一緒に倒れるとそういう展開ですね。
「神は大バビロン忘れず、ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。」
ここにまた「ぶどう酒」が出てきますけども、これは喜びのぶどう酒ということではなくて、神の怒りがそこに注がれたということを表しております。20節、
「島は全て逃げ去り、山々は見えなくなった。」
どれほど凄まじい憤り、怒りだったかということが伝わってきます。さらに21節、
「また、一タラントほどの大きな雹が、天から人々の上に降った。この雹の災害のために、人々は神を冒瀆した。その災害が非常に激しかったからである。」
ということで、1タラントほどの大きな雹、これは約34 kg、子供の体重くらいのすごい雹が降って来るんですね。このように自然災害が降り注ぐというのは、そこに神の怒りが表わされているということなんですけれど、それくらいの大変な被害があっても、最後の所ですが、
「人びとは神を冒涜した。その災害が非常に激しかったからである。」
災害が激しかった、その原因を全て神様にぶつけてゆく、そして全然悔い改めようとせずに増々神を冒涜する、そういう人間の姿がここに描かれています。
13.まとめ。
今日の内容はここまでですけれども、神の裁きの厳しさということがここに記されています。この7番目の裁きは次の章の導入になっています。大体七番目というのは黙示録の場合、次に続くきっかけ、導入になっています。七番目のラッパもそうでしたし、巻物の封印が解かれるときの7番目の封印もそうだったんですが、次に展開していく導入になるんですね。
17章、18章、19章では、次の裁きが始まるわけではないんですが、大バビロンがどのように滅んでいくか、ハルマゲドンの戦いが、どういう風に展開されていくかということが描かれています。
この箇所を通して神の裁きの厳しさというものを教えられるわけですが、神様は最後にちゃんと裁きをなされる方だということ、 そしてもう一つ、それにもかかわらず人間は何と頑ななんだろうっていうことですね。
最後まで悔い改めない人間の姿ということ、でもそれは驚きなんですけど、しかしその人間に対してずーと忍耐を持って待っておられる神様のその忍耐ももっと驚きだなと思いますね。すぐさばいても全然問題ないのに、ずっとずっと忍耐して、最後まで招き続けている、何という忍耐だろうと驚かされるとともに、今、神様は忍耐を持って私たちのことを見守ってくださっているということは、やっぱり忘れるべきではないと思います。そしてやっぱり私たちは目を覚ましていなければいけない、こういう時に少しずつ近づいているなと思います。