イエス・キリストをより良く知るために

今は終わりの時

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

ヨハネ第一の手紙2章18-21節

幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。私がこのように書いてきたのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからです。また、偽りはすべて、真理から出ていないからです。( ヨハネの手紙 第一 2:18-21 SKY17 )
  • 説教内容筆耕

  • 以上の聖書の箇所より、「今は終わりの時」という題で本日の説教をお語りしたいと思います。

    前回は、2章15節の「あなたは世も世にあるものも愛してはいけません」という言葉に注目して始まりました。なぜ私たちは、世も世にあるものも愛してはいけないのでしょうか。それは、もし世と世にあるものを愛するなら、その人のうちに神の愛はないからです。そして、世とその欲は過ぎ去るものだからです。それが一時的で儚いものだから、ということを前回、私たちは教えられました。

    そして今日の箇所を読み進めていくと、「世と世にあるものを愛してはならない」もう一つの理由があることが分かります。それが18節のみことばです。

    では18節を皆さんで読んでみたいと思います。よろしくお願いいたします。

    さん、はい。「幼な子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。」

    はい、ありがとうございます。

    「愛してはいけない」もう一つの理由——それは、今が終わりの時だからです。

    私たちは人生の歩みの中で、さまざまな時を過ごしていると思います。入学の時、受験の時、就職の時、結婚の時、出産の時、退職の時……いろいろな時を過ごしてきたし、今も過ごしています。そのような個人的な「時」を私たちは経験しています。

    しかし、その「個人的な時」がすべてであるかのように生きてしまうことが多いのではないかと思わされます。けれども聖書を読むと、それとは違う「別の時」があることを知らされます。それは、神の時、神のご計画の時、神の定められた時です。聖書を通して、私たちはそのような「神の時」があると教えられます。

    聖書によると、今は「終わりの時」と呼ばれる時です。ヨハネはここで「今は終わりの時です」と語っています。どうして今が終わりの時なのでしょうか。

    ここに「多くの反キリストが現れている」と記されています。その様子を通して、今が終わりの時であると分かるのです。ヨハネはここで、「多くの反キリストが現れることは、あなたがたが聞いていたとおりである」と確認しています。

    ヨハネの手紙の読者である教会の信徒たちは、すでにそのことを聞いて知っていました。イエス様がずっと前に、そのことについて語っておられたからです。イエス様は終わりの日の様子や、終わりの日に起こるしるしについて、マタイの福音書24章で教えてくださいました。

    その中で「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って多くの人々を惑わします」と語られています(マタイの福音書24章4〜5節)。

    また、パウロも終わりの日について第2テモテ3章1〜5節でこう語っています。

    「終わりの日には困難な時代が来ることを承知しなさい。その時、人々は自分だけを愛し、金銭を愛し、高慢になり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、乱暴で、善を拒む者になります。人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になります。見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。このような人たちを避けなさい。」

    このように、終わりの日は惑わしと困難の多い、極めて不安定な時代であることが分かります。

    イエス様がこの地上に来られた時から「終わりの時」は始まりました。そして、あの時から2000年が経っていますが、今もその「終わりの時」は続いています。今も変わらず、それは惑わしと困難の多い、極めて不安定な時です。

    そのような時の中で生かされている私たちに、どんな心構えが必要でしょうか。イエス様は「目を覚ましていなさい」とおっしゃいました。あなたがたの主が来られるのがいつの日か知らないからです(マタイの福音書24章42節)。

    またパウロもローマ人への手紙13章11節で、「あなたがたが眠りから覚めるべき時刻がもう来ているのです」と語っています。

    終わりの時とは、キリストの再臨、すなわち裁きの時が迫っている時です。キリストがもう一度来られるその日が近づいています。いつその日が来るかは分かりません。しかし、その日は「盗人のようにやってくる」と聖書は教えています。

    その日、キリストは王として、また審判者としてこの世に来られます。それは、神の大いなる裁きが下される「大審判の日」であると聖書は語ります。

    私たちは眠ってはおれません。目を覚ましていなければなりません。そしてその日に向けて、よく備えておく必要があります。

    この終わりの時に、この世と世のものがいかに危ういものであるかを、私たちは気づかされるのではないでしょうか。ノアの時代の人々は、神の時を知らずに歩んでいました。皆、自分の時だけを意識して生きていたのです。ゆえに、神の時が迫っていることに気づきませんでした。

    私たちはしっかりと目を覚ましていたいと思います。その時が来てもよいように、今から備えておきたいのです。

    さて、ヨハネはこの「終わりの時」に多くの反キリストが現れると語っています。では、この人たちはどういう人々なのでしょうか。

    それは第一に、文字通りキリストに反対している人々です。「反キリスト」と訳されているギリシャ語は アンティクリストスと言いますが、これは「キリストに反する者」「キリストに敵対する者」という意味です。現代でも「アンチ〇〇」と言う言葉を使うことがありますね。同じように、「反キリスト」とはキリストに敵対する者のことを指しています。 救い主としてのキリストを認めず、キリストの教えに反対している人々——そのような反キリストが、終わりの時にはたくさん現れるということです。これは聖書で教えられていることです。

    もう一つの特徴が、ヨハネによって指摘されています。19節の言葉を読んでみたいと思います。

    さん、はい。
    「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとにとどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らが皆、私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。」

    はい。

    このように、ヨハネは反キリストの特徴について指摘しています。2番目の特徴は、この人たちは教会で生まれ、そして教会から出て行った人々であるということです。19節では「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです」と語られています。

    彼らが教会の中にいた時は、おそらく仲間であるかのように振る舞っていたのでしょう。ところが、実際には仲間ではなかったことが、教会から出て行ったことによって明らかになったのです。

    キリスト教会には2000年の歴史がありますが、その初めの頃から、キリストを否定する「異端」と呼ばれる人々との戦いの歴史がありました。そして、それらの異端の多くは教会の中で生まれ、教会の中から出て行ったことが分かります。新約聖書の時代に流行っていた異端は、グノーシス(Gnosis)でした。キリスト教と哲学を混ぜ合わせたような思想、およびそれに伴う運動であり、初代教会にとって非常に大きな脅威だったといわれています。聖書を読んでいても時々この思想が背景にある警告が出てきますが、パウロもヨハネもこの危険を警戒して書き記しています。

    19世紀のアメリカでは、教会の働きによって多くの人々が救われるリバイバルが起きました。しかし、その時に「キリスト教のように見えるが実はそうではない」という異端が多数生まれました。モルモン教、エホバの証人などは教会の中から生まれ、教会を出て行った人々です。

    20世紀になると韓国でもリバイバルが起きましたが、そこからも多くの異端が生まれました。その中でも代表的なものが統一協会です。統一協会は、現在は「世界平和統一家庭連合」と呼ばれていますが、かつては「世界キリスト教統一神霊教会」と名乗っていました。キリスト教を名乗っていましたが、聖書的な教えから逸脱していたのです。

    このように、昔も今も世界中でたくさんの異端が教会の中から生まれ、教会から出て行きました。かつて教会の中にいたはずの人々が、なぜ異端になってしまったのでしょうか。それは、聖書のゆがんだ解釈、誤った理解、そして聖書以外の何かを付け加えることによってです。

    私たちも、知らず知らずのうちに反キリストになってしまわないように気をつけたいものです。福音のように見えても、実はそうではない「他の福音」と呼ばれる教えに惑わされないよう、注意が必要です。

    今は本当にそういう時代です。多くの「福音のように見える」教えや、「キリスト教会のように見える」団体が、決して真の福音ではない状態で活動しています。その中で、私たち自身が反キリストになってしまわないよう、注意しなければなりません。

    パウロがガラテヤ人への手紙を書いた理由も、ガラテヤの教会の信徒たちが「他の福音」と呼ばれる違う教えに惑わされてしまったからでした。パウロはこう語ります。

    「あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを愛してくださった方から、これほど急に離れて他の福音に移っていくことに、私は驚いています。」

    パウロは驚きました。彼自身の伝道によって誕生したガラテヤの教会です。恵みによって救われ、福音に生かされ、御言葉に喜んでいた教会が、異なった教えに惑わされ、イエス様から離れていってしまったのです。その姿に心を痛め、手紙を書いたのが、ガラテヤ人への手紙です。

    私たちも注意しなければなりません。一見、福音のように見えるが、実際にはそうではない——そのような間違った教えが多く流行っています。終わりの日には、多くの反キリストや偽キリスト、偽預言者たちが次々に現れ、多くの人々を惑わしますと、イエス様も予言されました。

    この惑わしの多い時代にあって、私たちは与えられた御言葉にしっかりと立ち、この御言葉とともに歩んでいく者でありたいと思います。

    それでは、私たちが間違った教えに惑わされないためには何が必要でしょうか。それは、真理を知っていることです。真理そのものだけでなく、「真理を知っている」という状態が必要であることを、次に覚えたいと思います。

    まず20節を読みたいと思います。では、一緒に読みましょう。

    さん、はい。
    「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、皆、真理を知っています。」

    21節。
    「私がこのように書いてきたのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからです。また、偽りはすべて真理から出ていないからです。」

    ありがとうございます。

    この21節でヨハネが本当に伝えようとしていること——それは「あなたがたが真理を知っている」ということです。20節では「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、皆真理を知っています」と語り、21節では「私がこのように書いたのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、知っているからです」と、その事実を強調しています。ヨハネは、このことをとても喜び、誇らしく感じながら、その言葉で彼らを励ましているのです。

    反キリストと呼ばれる人々が教会の中から生まれ、やがて出て行きました。なぜでしょうか。それは、教会が固く真理に立っていたからです。もし教会の中に反キリストと呼ばれる者が残り続ければ、私たちは惑わされ、教会が混乱したかもしれません。しかし彼らが出て行ったのは、教会が真理に立っていたからです。あなたがたが皆真理を知っていたゆえに、教会は守られたのです。ヨハネはそのことを喜び、感謝し、誇りに思い、これからもそうであってほしいとの願いを持って、この御言葉を強調しています。

    教会の皆が真理に立っている時、教会は守られます——この言葉から、そのことを教えられます。では、なぜ彼らは真理を知っていたのでしょうか。ヨハネは「それは聖なる方からの注ぎの油があるからだ」と語ります。

    「聖なる方からの注ぎの油」という言葉は、聖霊を象徴的に表すものです。聖なる神様から与えられた注ぎの油とは、聖霊のことです。聖霊が彼らに与えられたことによって、彼らは真理を知る者になったのです。自分で苦労して真理を獲得したわけではありません。聖霊の導きによって、真理を知る者へと変えられた——それがここで教えられています。

    イエス様は確かに聖霊を「真理の御霊」と呼びました(ヨハネの福音書14章)。そして聖霊について次のように教えています。

    「しかし助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、私があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネの福音書14章26節)

    聖霊はすべてのことを教えてくださいます。また私たちは教えられたことをすぐ忘れてしまいますが、聖霊はそれを思い起こさせてくださるのです。もし私たちが真理を知っているのなら、それは聖霊が働いてくださった結果です。聖霊が私たちを導いてくださったからこそ、私たちは真理を持つ者となったのです。

    ここで気づかされるのは「真理を知っている人は謙遜な人である」ということです。時として、「真理を知っている」ということが、高ぶりにつながる危険があります。自分は真理を知っている——そのことで誇り、高慢になってしまうことはないでしょうか。しかし、この御言葉から分かるのは、真理を知っている人は御霊に心を開かれ、常に教えられる心を持った謙虚な人であるということです。そうした人は、自分の意見を振りかざすような人ではありません。

    また、ヨハネは聖霊を「聖なる方からの注ぎの油」という表現で語りました。単に「聖霊」と言えば良いのに、あえてこの言葉を選んだのです。「注ぎ」という言葉は、聖霊が聖なる神様から豊かに、あふれるほどに与えられることを意味します。ただ与えられるだけでなく、満ち溢れるように注がれるのです。 ローマ人への手紙5章5節で、パウロはこう語っています。
    「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているのです。」

    では、パウロが語る「神の愛が私たちの心に注がれている」とはどういうことでしょうか。それは、私たちの心が神の愛で満ち溢れている——つまり、それほどまでに豊かに、神様が聖霊を通して私たちに神の愛を与えてくださっているということです。

    「注ぐ」という言葉は、満たされている状態を表します。聖書ではそのように、注ぎの油である聖霊が私たちに豊かに関わり、真理を教え、確信へと導き、平安を与え、私たちを満たしてくださる——その働きによって、私たちは真理を知る者とされているのです。この豊かな導きが与えられていることを、私たちは心から感謝したいと思います。

    私たちも、イエス様を信じた時に聖霊が与えられました。そして、私たちも真理を知る者とされました。御言葉が真理であること、聖霊が悟らせてくださることを覚え、ぜひ私たちも聖霊の導きの中で真理に立ち続けたいと思います。これからも、豊かに聖霊によって教えられ続け、この惑わしの多い世の中にあって、しっかりと真理に立って歩んでいく者でありたいと思います。

    では、今という時代はどういう時代でしょうか。私たちは日々ニュースを聞き、新聞を読み、様々な情報に触れていますが、本当に大変な時代になってきたと感じる方が多いでしょう。もし特徴を一言で表すなら、「真理が曖昧な時代」「偽りの時代」と言えるのではないでしょうか。

    私が若い頃、真理の排他性が嫌われる時代がありました。ひとつの事実が真理であると主張することは、それ以外の事実は真理ではないということになります。真理には確かに排他性がありますが、その性質が嫌われる風潮が強くあったのです。

    「真理は決してひとつではない」「すべての人の中に真理はある」「すべての哲学・教え・宗教の中に真理がある」という相対主義、多元主義的な考え方が歓迎される時代がありました。その中で、「キリスト教だけが真理である」という主張は非常に嫌われました。

    しかし現実には、多くの人々が生きる意味と目的を見失い、漂流し、さまよっています。今や多くの人々が偽りの哲学、思想、宗教に惑わされ、騙されているのです。それにもかかわらず、真理をまっすぐ求めることができないような雰囲気が社会に満ちています。

    イエス様は、終わりの時には偽預言者や偽キリストが多くの人々を惑わすと予言されました。今まさに、その姿を私たちは経験しています。さらに今は「フェイクの時代」となり、真実や事実が軽んじられる時代に変わってきています。AIの発展とともに、真理に限りなく近い嘘が広まる時代——そんな極端な状況に急速に進んでいるのです。

    それでも、私たちは心の深いところで絶対的で確かな真実を求めています。しかし、その答えが見出せず、多くの人々がさまよい、彷徨う現状があります。そのような時代に、真理の福音を委ねられている私たちの存在意義は、非常に大きいのではないでしょうか。

    教会に与えられている役割、使命、存在の意味は、本当に大きいものです。なかなか福音はすぐには受け入れられないかもしれません。それでも私たちは真理に堅く立ち、世の中の灯台としての役割を果たす務めが与えられているのです。

    嘘と偽りに多くの人々が惑わされる中で、私たちは聖霊という注ぎの油をしっかり受け取り、謙遜に教えられ続ける必要があります。真理を知っていることが高ぶりにつながらないように。そして、これからも教えられ続けながら、「ここに真理の御言葉がある」ことをしっかり述べ伝えていきましょう。私たちの生き方を通して福音の確かさを証しし、目を覚まして終わりの時に福音を伝える者でありたいと思います。そのための力を、豊かに主からいただこうではありませんか。

    お祈りをいたします。

    恵み深き父なる神様、聖霊によって私たちに真理を与え、真理を知るように導いてくださったことを覚えて感謝いたします。今、偽りと嘘がまかり通り、多くの人々が惑わされている世にあって、私たちが謙遜な心で教えられ続け、福音に立ち続けられるように、惑わされることがないように、御言葉と御霊によって助けてください。御言葉による導きと励ましに感謝し、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

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