私達はクリスチャンなのか?・・・テトスへの手紙3章4~7節
クリスチャン、と一言で言っても、クリスチャンになる経緯は大きく分けて、二通りあります。
まず、家族の中で最初にクリスチャンになった人は、ある程度の年齢になるまで、ノンクリスチャンとして生きて来て、それから、クリスチャンとして生きるようになりますから、生活がラディカルに変化します。
もう一つはクリスチャンホームで育った人です。小さい時から教会に連れて行かれ、教会学校で讃美歌を歌い、お話を聞き、暗誦聖句をしたりして育っていきます。それからある時に、自分自身と神様との関係、主イエス・キリストとの関係を考えるようになり、信仰決心に導かれ、洗礼を受けてクリスチャンとして歩むようになると言う方が多いでしょうか。ある方は幼児洗礼を受けていますから、受洗の証しはしたことがありません。
ここで、はっきりさせなければならないことは、「私たちはクリスチャンなのか?」ということです。ずーっと自分はクリスチャンだと、言っているので、何を今さらそんなことを、と思われるかもしれません。しかし私たちはクリスチャンとは何なのか?ということを明確に理解し、確信をもっていなければならないと思います。
そこでいわゆる牧会書簡、テモテ、テトスへの手紙を読み、学んでみました。その中から、この課題にふさわしい聖書の箇所をご一緒に読み、学んでみましょう。
テトスへの手紙3章4~7節
4.しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、
5.神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。 6.神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。 7.それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 |
1.救われる」ということの6つの面
この文章は、実は一つの文章です。日本語訳では、4節~5節が一つの文、6節がもう一つの文、7節も一つの文、と三つの文に分けられていますが、原文では一つの文章です。一つの文章と言うことは、主動詞は一つしかありません。
それは5節の終わりの「救ってくださいました。」という動詞です。
パウロはここでテトスに対して、クレテ島の教会(クリスチャンたち)に牧会上(クリスチャンの牧師たちのために)の諸注意、特に偽教師たちの教えに注意するように、正しい教えについて書いています。この個所でパウロは、神が私たちを「救ってくださる」とは何なのか、と言うことを明確に記しています。ここでパウロは「救われる」ということを6つの面から説明しています。
1)「救い」の必要(なぜ救われる必要があるのか?)
2)「救い」の源 (その救いはどこからやって来るのか?)
3)「救い」の基盤(救いは何に拠っているのか?)
4)「救い」の方法(どのようにして私たちは救われるのか?)
5)「救い」のゴール(救いは私たちをどういうゴールに到達させるのか?)
6)「救い」の根拠(本当に救われているのかがどうしたら分かるのか?)
この順番で「救い」についてこの個所から学んでみましょう。
1.なぜ私たちには「救い」が必要なのでしょうか?
パウロは私たち人間の状態について3節に述べています。「愚かで、不従順で、迷っている者、色々な欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みの内に生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者」です。私たちはこのような状態から救われる必要があるのです。
2.その「救い」はどこからやって来るのでしょうか?
4節にありますように、「救い」は、「私たちの救い主である神」からやって来るのです。それも「神のいつくしみと人に対する愛」からやってきているのです。この神の愛はイエス・キリストの生涯即ち、誕生、生涯、死、よみがえりにおいて現わされました。イエス・キリストの「いつくしみ」「愛」「あわれみ」(5)「恵み」(7)によって私たちは救われるのです。
3.「救い」の基盤は何なのでしょうか?
何を基盤にして神は私たちの罪を赦すのでしょうか。これについてこの聖句には明らかな言葉で書かれていませんが、5節の「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって」と言う言葉から分かりますように、「神のあわれみ」が「救い」の基盤であることを示しています。神はご自身のあわれみによって御子イエス・キリストを私たちのために遣わして下さいました。この神のあわれみこそが救いの基盤なのです。なぜならこの神のあわれみが「神のいつくしみと人に対する愛が現れた」ことに繋がるからです。この「現れ」はイエス・キリストの現れのことです。(テトス2:11)更に、この「現れ」は、テトス2:14にかかれていることであります。つまり神のあわれみによる十字架の死のことです。
4.それではどのようにして私たちは救われるのでしょうか?
5節にありますように、「聖霊による再生と刷新の洗いをもって」救われるのです。「再生」とは、Ⅱコリント5:17にありますように、一人一人が新しく造られる、創造される、ということです。「刷新」とは、「再生」と同じ意味にとることもできますが、むしろ新しく創造されてから道徳的に、霊的に、変えられて行くプロセス(過程)を言っているのでしょう。「聖霊」は神様であり、この御業をなさるお方です。私たちを新生させ、刷新を導かれるお方です。「神はこの聖霊を私たちの救い主イエス・キリストによって私たちに豊かに注いでくださったのです。」(6)「洗い」とは何でしょうか。これは水によるバプテスマのことです。バプテスマは私たちの内側で起こった霊的な恵みの業を外側に私たちの目に見える形のしるし、ということです。それは聖霊によって罪が赦され、新しく生まれた、ということです。
救われる方法をまとめてみますと、神は私たちに聖霊を豊かに注いでくださり、聖霊によって私たちは内面的に(霊的に)新しく生まれ、刷新されます。外側では信仰告白をしてバプテスマを受け目で見える形で「救い」証しし、神の証印をうけます。「救い」は7節にありますように、「私たちがキリストの恵みによって義と認められる」ことでもあります。義とされることは私たちが御子の十字架の死、贖いの死によって神の前に罪赦されたものであるという宣言がされたということです。(無罪宣言)新しく生まれることは、私たちは聖霊によって新しく生まれ、新しいいのちに生きて、きよめられて行くということです。これは同時に起こることです。
5.私たちは救われて、どういうゴールに到達するのでしょうか?
7節にありますように、「永遠のいのちの望みを抱く相続人となる」のが私たちのゴールです。終わりの日に私たちは天にて私たちに約束された全相続を受けます。それが永遠のいのちです。それは完全な形での神様との交わりです。
6.私たちが「救われた」ということはどうして分かるのでしょうか?
証拠(根拠)はあるのでしょうか?それは8節に「神を信じるようになった人々が、良い業に励むことに心がけるようになるためです。」とありますように、「救われた」者たちの生き方、生き様によります。2:14には、神が私たちを救われたのは、「良い業に熱心な選びの民として、ご自分のものとしてきよめるため」です。又、3:14には、「実を結ばない者にならないように、良い業に励むように」教えられています。
まとめてみますと、私たちは罪人であるので、罪から救われる必要があります。神はいつくしみと愛をもって私たちを救おうとされ、私たちは自分の良い業によってではなく、神のイエス・キリストの十字架に拠るあわれみによって救おうとされ、聖霊による新生と刷新、そのしるしとしてのバプテスマによって救ってくださる。救いのゴール、目的地は永遠のいのちの相続、完全な神との交わりです。救われた私たちは良き業に励んで生きる者となるのです。
2.聖霊による再生と刷新の洗いとは
この箇所から分かりますように、「救い」は聖霊なる神様の御業です。聖霊なる神様によって私たちが新しく創造される、新しく生まれるというのが、「救われた」と言うことです。Ⅱコリント5:17には「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とありますように、私たちは聖霊による新生と刷新を経験すると、古い考え、価値観、生き方が過ぎ去り、すべての面(考え、行動、目的)で新しくなります。新しくなり続けて行きます、と言った方が良いかもしれません。又、イエス様はヨハネの福音書7:37~39に「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。私を信じる者は聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになります。』イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊についてこう言われたのである。」と言われました。パウロがテトスで言っている「良いわざ(カラ エルガ、2:7、3:8,16)に励む」と言うのは、イエスがここで言われている「イエスの下に来て飲む」こと、「心の奥底から生ける水の川が流れ出る」ことと繋がっているようです。
8節や16節の「良い業」とは、2節にある「だれも中傷せず、争わず、柔和で、全ての人にあくまで礼儀正しい者となる」ことですし、私たちがクリスチャンになる前の状態を言っている「愚かで、不従順で、迷っていた者であり、色々な欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者」(3)の反対のわざのことです。
これらは「聖霊による再生と刷新の洗いをもって」クリスチャンになった人が聖霊の力によってすることが出来るように変えられて行く「良いわざ」です。このように私たちの生活は聖霊の力によって良いわざに励んで行く生活です。これがないと「神を知っていると公言しますが、行いでは否定してい」(1:16)る人になってしまいます。
3.聖霊の力を受けて生きるには
ヨハネ7章の主イエスのことばのように
- 霊的な渇きを持つこと、
- 主イエスの下に行って霊的な飲み物を飲むこと、です。
これは38節に言い換えられていますように、主イエス・キリストを主として、救い主として信じることです。そうすると、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」聖霊によって生ける水に譬えられる新しいいのちが川のように心の奥底から流れ出る、というのは、テトス書でパウロが言っているように私たちが「良い業に励」み続けて生きるようになることでしょう。
これがないと、教会及び教会にいるクリスチャンたちは、ただキリスト教的な活動に忙しく明け暮れし、生き生きとしたいのちが無くなります。牧師も牧師夫人の生き様も同じです。聖霊によって新しいいのちを与えられ、その新しいいのちによって日々生き続けていることが必須なことです。
ところが多くのクリスチャンたちが聖霊の働きについて誤解をしているようです。「聖霊」というと使徒の働き2章のペンテコステの時に弟子たちが経験したような経験をしなければならないと考えたり、また、同じような経験を強調し(ある時は強制し)異言を話したり、癒しの奇跡を行ったり、予言をしたりすることだけを聖霊の働きとするクリスチャンのグループがいますので聖霊について余り話さないし、教えもしないようです。
しかし、私たちは三位一体の神を信じ、聖書の教えている聖霊の働きを信じています。テトス書が教えている通り、私たちは「聖霊による再生と刷新の洗いをもって私たちを救ってくださり、・・この聖霊を救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださいました。」(3:5,6)
それでは私たちはどうしたら聖霊によるいのちの水の川が心の奥底から流れ出る生き生きとしたクリスチャン生活、教会になれるのでしょうか?
- 聖霊によって新しく生まれたクリスチャンになる。
- 聖霊の助けを求めて聖書を読み、良く意味を考え、理解する。他のクリスチャンと一緒に聖書を学び合う。(グループ聖研)
- 聖書から教えられたことを自分の生活で実行する。
- 聖霊の導きを求めつつ祈る。継続的にいろいろな人々のために祈る。他のクリスチャンと祈り合う。
- 聖霊の力によって神様から受けた恵み(特に聖霊なる神様の働き)を他の人に証しする。