主の御心を悟る・・・5章15~17節
エペソ人への手紙 5章15~17節
15:ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、 16:機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。 17:ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 |
今日はエペソ書から、「主の御心を悟る」という題でお話をしたいと思います。読んでいただきました御言葉の冒頭の言葉は、
「ですから自分はどのように歩んでいるか、あなた方は細かく注意を払いなさい。」
という御言葉でした。自分はどのように歩んでいるのか細かく注意を払うことの大切さが教えられているということがわかります。
あなたはいかがでしょうか?自分がどのように歩んでいるか注意を払うという習慣があなたの内にあるでしょうか?しかも細かく注意を払うということは果たしてあるでしょうか?
忙しい毎日です。するべきことに追われて、気付いたら6月が終わってしまっていた、そういう感じなのかもしれません。自らの歩みというものを丁寧に味わうということが必ずしも十分ではなくて、なんとなく惰性に流されてしまっているということも私たちには多いかもしれません。
しかし聖書は私たちに、私たちの歩みに注意深くあるように教えているということに心に留めたいと思います。しかも細く注意を払いなさいと聖書において教えられていることを今日は心に留めたいと思います。
1.「光」とされた私たちの歩みが、本当に「光」としての歩みになるために。
どうして私たちのあゆみに細かく注意を払う必要があるんでしょうか?今日の言葉の冒頭の言葉は「ですから」という言葉ですね。15節の言葉がその前の内容とつながっていることが分かる。「ですから」というつなぎの言葉であります。この前の箇所でパウロは何を教えていたでしょうか。どんなことを語っていたでしょうか。
パウロはこんなことを語っていました。「すべてのもが光によって明るみに引き出され、そして明らかにされる者も皆、光とされていく。」と前の箇所でパウロは教えていました。
神の恵みの光に照らされると私たちのうちで、恥ずかしいと思っていたもの、あるいは醜いと思っていたものが引き出されてきます。そして引き出されたものが何と、「光」になってしまうということがそこで教えていました。神の恵みの力というのがどんなに豊かであるのかということがここで教えられていました。
つまり私たちは主によって光となったということです。このように八節においてもパウロは教えていました「あなた方は以前は闇でしたが、今は主にあって光となりました。」以前は闇でした。でも今は光です。私たちはイエス様を信じることによってこれだけ大きな違いを経験したんです。それは本当に本質的な大きな変化ですということをパウロは教えてきました。ですから私たちは自分の歩みに対して細かく注意を払わなければいけないと続いていきます。
光とされた私たちの歩みが本当に光としての歩みになっているだろうか、光の子供としての歩みになっているだろうか、もしかしたら光になったはずの私たちが、知らないうちに闇に埋もれてしまっているようなことはないだろうと、そのように細かく私たちの歩みに注意を払いなさいとここで教えられている。言ってみればその誘惑や危険が大きいということだと思いますね。せっかく光にされた私たちが、また闇に逆戻りしてしまうような危険があるからこそ、注意しなさいとここで教えられているわけであります。
パウロは実はここに至るまで私たちの歩み方について何度か教えてきました。4章一節では「あなた方は召されたその召しふさわしく歩みなさい。」と教えていました。
5章2節では、「愛の内に歩みなさい。」と教えていました。そして8節で「光の子供として歩みなさい。」と教えてきました。このようにパウロは私たちの信仰者としての歩み方について繰り返し教えてきたということが分かる。そして果たして私たちの信仰者としての歩みは本当に主に召されたものとしての歩みになっているかどうか?、愛されているものらしく愛の内を歩んでいるだろうか?あるいは光の子供としての歩みになっているかどうか、自分がどのようにして歩んでいるでしょうか、本当に新しくされた私たちが、新しいものとしての歩みをしているかどうか、注意深く私たちの歩みに注意を払いなさいということをパウロは教えているわけであります。
私たちも考えてみたいと思いますよね。かつて古い人であった私たちが、本当に新しい人に変えられた、もはや私たちは、かつての私たちと全然違う。かつては闇だったけれども、今は光の子供になった。じゃあ私達は本当にその歩みをしているかどうか注意深く私たちは自分の歩みを検討して見る必要があるんじゃないかなという風に思います。そのことがまずここで教えられているということを心に留めたいとと思います。
2.パウロの具体的アドバイス
さてパウロは私たちの歩みが本当に召されたものにふさわしいあゆみとなるように、また光の子としての歩みとなるように、次に具体的なアドバイスをここでしてくれております。二つのアドバイスがここで語られております。今日はそれを見ていきたいと思います。
a.神様から与えられた知恵を用いて、与えられた機会を生かす。
15節の後半の言葉ですが、パウロはここでこういう風に教えてます。
「知恵のないものとしてではなく、知恵のある者として、機会を十分に生かしなさい。悪い時代だからです。」
これは時を賢く捉えて、主のために用いなさいという意味の命令であります。私たちの時間との相応しい向き合い方が、ここで教えられていると考えることができます。
1日は24時間、一週間は七日間、1年は365日、これはみんな同じです。誰にでも平等に同じ時間が与えられている。その与えられている時間が、それぞれの中でどのように有効に用いられていくのかというのは、全ての人に課せられている課題なんだというふうに思います。一旦過ぎ去った時間は、二度と戻ってきません。取り返そうと思っても、過ぎて行ってしまった時間は、永久に取り戻すことができません。そして私たちの気持ちとは関係なく、時間はどんどんどんどん過ぎていきます。時が止まってほしい、この時間がいつまでも続いて欲しいと、時に思うことがあるかもしれませんが、そんな私たちの気持ちとは関係なく、時間はどんどん過ぎていってしまいますね。そしてその時間が過ぎていくということが、私たちの中で焦りになってしまうようなこともあるかもしれません。
そういう中にあって私たちがいかに与えられた機会を生かすかというのは、私たちにとって大事な課題であるということが言えると思います。そしてそれは本当に注意が必要だなという風に思います。
聖書にも「知恵のないものとしてではなく知恵のある者として、機会を十分生かしなさい」と命じられています。機会を十分に活かすためには知恵が必要だということがわかります。
・聖書でいう「知恵」
ただ聖書が知恵という場合それは、人間の知識の集積としての知恵ではなく、あるいは人間の経験の積み重ねによって勝ち取られた知恵ではなくて、神との相応しい関係によって与えられる知恵、神によって与えられる知恵、それが聖書で教えているとこの知恵であります。
箴言9章10節にこういう言葉が出てきます。
「主を畏れることは知恵の始め、聖なる方を知ることは悟ることである。」
主を恐れるということはつまり、神様を神様として覚えるということですよね。そしてその神の権威の前に私たちがひれ伏すということ、そのような神様の関係の中で私たちがどう生きるべきか、何をするべきかという、その知恵が豊かに与えられていくと言うこと、神がその知恵を私たちにくださると 言うことが聖書を通して教えられていることです。そういう時に私たちは、与えられている時を、本当に神様の前で有効に用いることができる、機会を十分に活かすことができるようになるということを、ぜひ私たちは覚えたいと思います。
・模範としてのイエス様
父なる神様との関係によって、知恵が豊かに与えられた、そしてその知恵を用いて機会を十分に生かした人の最高のモデルは、やはりイエス様だったと思います。
イエス様は自分の時というものをよく知っていたということが福音書を通して私たちは教えられることではないかと思います。そしてその時、その時、イエス様は自分が何をするべきか、どこに行くべきかを、よく分かっていた。そういう知恵を豊に持っていた、ということが言えるんじゃないかなと思います。イエス様は30歳になられた時にバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられて、その後、「公生涯」が始まります。そしてイエス様による宣教活動が本格的に始まって行くわけですけれども、その時のイエス様の第一声はこういう言葉でした。
「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
これがイエス様の最初の言葉だったということが聖書に書いてありますね。そしてその時にイエス様は「時が満ちた」という風に話しております。イエス様の中で、今まで満ちていなかった時が、ついに満ちたという理解があったということがわかります。そういう理解に基づいてイエス様の行動が始まった、宣教活動が始まったということを私たちは聖書を通して教えられます。その後のイエス様の公生涯は3年続いていきますがその前半部分は主にガリラヤ湖を中心とした、ガリラヤ地方で弟子達と共に過ごされたと言われております。カナという町で結婚式が開かれた時に、イエス様は母親であるマリアにこんなことを言ったそうです。
「女の方、私の時はまだ来ていません。」
マリアに向かって「女の方」と言っていますけれども、 その時のイエス様の中には、まだ時が来ていないという、そういう理解があったということがわかりますね。
でもしばらくすると、ある時イエス様はこういう風に言われました。
「人の子が栄光を受ける時が来ました。」
「人の子」と言うのはイエス様のことですが、 イエス様ご自身が栄光を受ける時がついに来たと言うそういう時の理解をイエス様は思っていたということが分かるそして十字架にかかられる 直前でした。ゲッセマネの園でイエス様がお祈りをしている時にそのお祈りが終わった後でイエス様は弟子たちに言いました。
「もう十分です。時が来ました。」
このようにイエス様が、時とどのように向き合っていたのかという点にだけ注目して、福音書を読み進めていくときに、イエス様は「自分の時」というものをよく知っているということに気づかされます。そしてその時、その時に、自分は何をするべきかということをよくわきまえている。どこへ行ったらいいのか、何を話したらいいのか、ちゃんとわきまえている。そういうイエス様の姿というのを、私たちは福音書を通して教えられるのではないでしょうか。約3年間という短い公生涯だったかもしれませんが、中身は非常に充実した中身のある3年であったということが言えるんだと思います。 実に1円とんだ人生であったということであります。
この知恵をイエス様はどこで得たのでしょうか?生まれつき持っていたのでしょうか。そうではないと思います。その知恵はやはり、イエス様が日々、神様と交わる中で、神様を畏れることの中で、神から直接与えられていた知恵だったのではないでしょうか。その知恵が与えられることによって、イエス様は、今、自分が何をすべきか、どこに行くべきか、確信を持って、迷いなく動くことができた、あゆむことができたという、そういう姿を私たちは聖書を通して教えられる。そんなイエス様の姿から私たち学びたいと思いますね。
私たちも機会を十分に 活かして歩むためには、この知恵が必要です。私たちはどうでしょうか?何をしたらいいのか日々うろうろ、今日はどこに行ったらいいのか、本当に迷うことの多い私たちじゃないかなと思いますけれども、本当に今、その時その時、何をしたらいいのか悩みます。本当に知恵が必要だと思います。
でもその知恵は、私たちと神様とのふさわしい関係の中から、与えられるということ、私たちが神を恐れる時に、神を神として崇める時に、その神から知恵が与えられるということを、ぜひ心に留めたいと思いますね。本当に与えられた時を、この機会を、十分に用いて、その為に生きていく、そんなあゆみへと私たちは導かれていきたいと思います。
・苦難の時代とやがて来る栄光の時代
パウロは続けて私たちが機会を十分に生かさなければならない理由について教えていますけれどもその理由は何でしょうか。16節の後半ですが、
「悪い時代だからです。」と一言付け加えております。
なぜ私たちが機会を十分に生かす必要があるのか?もうひとつの理由がありますね。それは悪い時代だから。その事がここで教えられている。時代が悪い、だから私たちは機会を十分に活かしていかなければならないということが、ここで教えられております。パウロの生きていた時代、 またエペソ教会の信徒たちが生きていた時代というのは、悪い時代だったのかなと言う感じがしますけれども、でもおそらく、パウロの中にはそれとは別に、違う時代の意識だったと思います。パウロの頭の中で、二つの時代があるとと意識されていたということが指摘されている。それは今の時代と、やがて来る時代、の二つの時代が、パウロの中で意識されたということが指摘されています。ローマ人への手紙8章18節でパウロはこのように言っています。
「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば取るに足らないと私は考えます。」
そういう風にパウロは言っていますね。この言葉から感じられることですが、パウロの中では二つの時代が意識されているということがわかります。一つは今の「苦難の時代」です。でももう一つは、やがてやって来る「栄光の時代」がある。この二つの時代認識をパウロは持っているということがわかります。
今は苦難の時代、私たちが今生かされている時代は、苦難の時代ということになりますね。それはサタンが支配する時代、悪が支配する時代ですから、その中に私達は生かされているので、私たちはたくさん苦労しなければならないですね。本当にたくさんの苦しみを味わわなければいけない。この時代に生かされている限り、私たちはいろんな困難をに直面し、いろんな困難に直面する。
でもパウロは言うんですね。この時代はいつまでも続くわけではない。やがて来る「栄光の時代」があるんだということを教えている。 それはサタンではなくて神が支配する時代です。それが私たちクリスチャンの希望なんだということを、パウロはそこで教えていた。そして私たちはかつてはこの時代の虜であった、奴隷であったということを、パウロはエペソ書の2章の中で教えていました2章の2節にこういう風に書いてありました。
「かつてはそれらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち不従順の子らの中に、今も働いている霊に従って歩んでいました。」
これはかつての私たちの姿ですね。かつて私たちがイエスキリストに出会う前の姿、どんな状態だったでしょうか。かつてはそれらの罪の中にあって、この世の流れに従って、空中の権威を持つ支配者、すなわち今も働いている霊にしたがって歩んでいましたと、ここに救われる前の私たちの姿が描かれております。この世の価値観、この世の考え、その背後にはこの世を支配する霊的な支配者が意識されていますが、そのようなものに支配され従って生きていたつまり私たちはみんな時代の奴隷だったということでしょうね。
ところがその後で、私達は恵みによって、イエスキリストによって救い出された。今の新しい生き方、このような新しい世界、新しい時代に組み込まれ、救い出されたんだよということをパウロはここで教えていたわけであります。それはイエス様によってもたらされた新しい時代と言ったらいいと思いますね。その時代はまだ完全な形としては現れていないですね。やがて来る栄光の時代は、まだ完成していません。イエス様の再臨の時にそれは完成しますけれども、でももうそれは、すでに始まっているんですね。そしてその新しいイエスキリストを中心とする世界、その時代の中に私たちは移されていて、今新しい生き方が与えられたんだということを、ずっとパウロは教えてきた。でもそれでも、私たちはやはり、今の時代を生きていかなければならない。そしてそれは極めて悪い時代です。パウロがここで書いてある通り、悪い時代です。この現実は変わりません。どんなに私達が信仰が与えられ、そして新しい生き方を与えられたとしても、悪い時代を生きていかなければならないという、この現実は変わらない。だからこそ私たちは、「時を十分に生かしなさい」と、ここで教えられているということに心に留めたいと思います。
「機会を十分に生かしなさい」とここに日本語で訳されていますけれども、この言葉のギリシャ語の元々の意味を調べてみました。この「機会を生かす」と言う言葉の元々の意味は、「買い取る」とか「購入する」とか、買い物の時に使う言葉であるということがわかりました。そしてその言葉が、「時」とか「時代」に関して使われる時は、「機会を活かす」「時代を活かす」という訳になるんだどういうこともわかってきたんですけれども、それを調べた時に、なんとなくすーっと納得するものがありました。
私たちは、このサタンの支配するこの世の時間を、しっかりと買い取って、神のための時間にそれを用いていくということ、それが必要なことではないでしょうか。
人間の思いとか、いろんな欲望とか、いろんな人間的なしがらみに取り憑かれているような、そういう「時」をちゃんと聖別して、買い取って、そしてそれを神様のための時間として用いていくということが、私たちに求められていることではないでしょうか。そのようにして私たちは、与えられた機会を十分に活かして、そのために用いていただきたいというふうに思います。そのように励まされていることを心に留めたいと思います。
b.主の御心を悟る
そしてパウロは更に、そのためのもうひとつのアドバイスをしてくれています。
それが17節の言葉です。
「ですから愚かにならないで、主の御心が何であるかを悟りなさい。」
やっぱりこの悪い時代の中にあって、私たちが本当に、時を 、主にあって活かしていくために必要なことは、御心を悟るということですよね。本当に主の御心がどこにあるのかということを良くわきまえる理解するということが必要です。
イエス様はまさにそうでした。本当に神の御心が分っていたからこそ、あの邪悪な世の中にあって、様々な危険がイエス様に迫ってくる中で、本当に的確に、確信を持って歩んで行けたのは、それはみ心を理解していたからですよね。
ですから私たちも本当に時を十分に活かすためにも、私たちの歩みが、召されたものとしてふさわしいものになるためにも、御心というものを悟らなければいけないことが教えられています。
3.愚かになってはいけない
ただその前に、パウロは「愚かになってはいけない」と一言付け加えているということにも、私たちは注目しなければいけないと思います。私たちは愚かになりやすいと思うんですね。御心を悟るという面においても、私たちは非常に愚かになりやすいんではないかと思います。先ほどは「知恵」という言葉が出てきましたし、今は、「愚か」という言葉が出ました。
おそらくパウロの中では箴言のメッセージが意識されていたのではないかと考えられます。どうしてかと言うと知恵のある者と愚かな者との対比というものが 箴言の中の大切なメッセージの一つだからですね。旧約聖書箴言を読むと知恵のあるものの祝福と愚か者の愚かさその惨めさというものが対比で教えられている御言葉がたくさん出てきます。例えばこんな言葉があります。10章1節。
「知恵のある子は、父を喜ばせ、愚かな子は、母の悲しみになる。」
10章14節jはこんな言葉です。
「知恵のある者は知識を蓄える。愚か者の口には滅びが迫る。」
そういう風に教えられています。また1章7節、
「主を畏れることは知識の初め、愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」
このように知恵のあるものの祝福と愚か者の愚かさというものが対比で教えられているそれが箴言の大切なメッセージの一つです。
パウロは旧約聖書に非常に通じている人でしたからこの江別書の5章17節の御言葉教える時にも当然箴言のメッセージが意識されていたんではないだろうかと予想されます。
ここにも知恵と愚かさというものが出てくるわけであります。
聖書が語る愚かな人とはどういう人でしょうか?
それは愚かな人は、神に信頼しないということですね。神を信頼しないことのゆえの愚かさです。知恵は主を畏れることが、知恵の初めでしたね。本当に主を畏れるということから、知恵が与えられる。ところが愚かさというのは、その主に信頼しないということが原因です。そして神に信頼しないということは、要するに自分自身により頼んでいるということです。 自分の力や知恵により頼んでいるからこそ、愚かなんです。それが神の前の愚かさなんです。聖書の言うところの愚かさです。
4.まとめ
私たちも多くの場合、知恵を求めながらも、知らず知らずのうちに愚かなあゆみになってしまうということがあるんじゃないかと思います。私たちも多くの場合、みこころを知りたい思います。私に対する主の御心はどこにあるのか ?私に何を願っているのか?知りたいと思うことがきっとあなたにもあると思います。でもなかなかそれがわからない、なかなかそれが確信できないということがあると思いますね。
その理由はもしかすると、自分中心に御心を求めてしまっているということがあるんじゃないだろうかと思います。自分がまずいて、自分の人生がまずあって、その自分の人生に対して神様の御心を引き付けてしまうかのような、そんな神様との向き合い方をしているということがあるんじゃないでしょうか。
果たしてそこに、主に対する畏れというものがあるんでしょうか?どこかで自分の力にしがみついている、自分の思いに囚われている、その中で主の導きを必死にもがいて求めているということが 求めているということが私たちにあるんではないでしょうか。それだとなかなか主の御心が見えてこないということになりがちではないでしょうか。
パウロは実は、エペソ書の中でもうすでに、主の御心について提示をしておりました。エペソ書の1章・2章・3章の前半部分というのは、神様の御心が何か?ということの説明でした。主の御心の全体像がそこで表されている。
神様はご自身の計画を持っていますその後計画は救いのご計画です。その救いの計画の実現のために、私たちを選ばれたということが 一章の中に書かれておりました。この世界の基の置かれる前から、私たちが主によって選ばれていたということが最初に出てきたんですね。そして私たちは神の子供とされた。イエスキリストによって御国を受け継ぐ者とされた。まず御計画の全体像があって、その計画の中に私たちが召し出された、そして天上にあるもの地上にあるものが全てキリストによって一つになるということも語られていました。さらにその計画の実現のために私たちが召し出され、私たちを新しい一人の人に造り上げた二つの物の隔ての壁を打ち壊して、キリストが平和となってくださって、敵意を廃棄し隔ての壁を打ち壊して、二つあったものが一つになって新しい人ができた。それは教会を表していますけれども、その教会はキリストの体であり、そして神の家族であり、神の御住まいであるということを教えてくださった。そしてその教会を通して神の御心が実現していくということをずっと1章から3章までで教えてきたんでね。
つまりもう全て御心は示されているんです。神様のご計画の全体像はもう明らかにされています。その上で私たちに求められていることは、その御心を悟るかどうか、ここに悟という言葉が出てきますけれども、これは知的に知るとか理解するとかではなくて、もっと深い意味が込められている言葉です。それは納得するとか、心から同意するとか、あるいは実践するとか、従うとか、そういうことを含んでいる言葉ですけれども、頭で理解して知るということだけではなくて、本当に御心を悟ることが求められているじゃないでしょうか。本当に心からそうだそうだと頷きながら、同意しながら、本当にその通りに生きていきたいと、そう願うということ、実践するということ、そういうことが私たちに求められているのではないかなと思います。
私たちは自らの人生の計画が、たくさんあるかと思いますが、その計画の前に、まず神のご計画があるんだということを認める必要があると思いますね。そしてその神のご計画成就のために、私たち一人一人が召し出された。私たち一人ひとりが救われた。そして神の子供とされた。そしてここに教会があると言うその神様の御心の全体像というものを本当にわきまえていないといけない。その中にあっての私たちそれぞれの人生であるということ を覚えるものでありたいと思います。
一人一人が主の御心の実現のために選ばれたという、そういう理解をあなたは持っているでしょうか?あなたを通して主は何か御心の実現を願っている、成し遂げたいと願っておられるということを、あなたは意識しておられるでしょうか?必ず何かあるはずなんですね。それは神様のご計画の成就のために必要なことなんですね。
それは小さなことかもしれない、でもそれは大切な一部です。そういう一つ一つの神のみ心というものを私たちは、しっかりと受け止めて悟っていく、そしてその神様にしたがってゆく者になりたいと思います。主の御心を理解し、そして忠実に仕える者と成らせていただきましょう 。「主よ御心をなさしめたまえ」という祈りを、私たちの心からの祈りとして捧げていきたいと思います。
お祈りをいたします。愛する神様、悪い時代の中にあって、私たちはすぐに足元を奪われたり、流されたり、迷ったり、つまずいたりする、弱い私たちでありますけれども、しかしそのような私たちであっても、あなたは絶えず御言葉を通して励ましてくださり、支えてくださり、どのように私たちが歩んでゆくべきかを示してくださることを覚えて感謝します。本当に神様、あなたの御心の全体が見えないような私たちではありますけれども、どうぞあなたの御心を悟ることができるように、知恵を与えて下さい。そして時を十分に活かして、あなたのために、あなたの栄光のためにお仕えすることができるように、私たちを整えてくださいますようにお願いいたします。御言葉を心から感謝して、イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。