マタイの福音書24章29~51節

この文章は、聖書の終末預言(特にイエス・キリストの再臨)についての説教内容をまとめたものです。主なポイントは以下の通りです。
1. 日常生活と終末の意識
私たちは日常生活を繰り返し、これが永遠に続くかのように感じてしまうが、いつか必ず終わり(再臨)が来ることを忘れてはいけない。
日々の出来事や世界の変化(災害、戦争、迫害など)をただ他人事として受け流すのではなく、終わりが近づいていることを意識し、自覚することが大切。
2. 御言葉への信頼
天地は消え去っても、イエス様の言葉(御言葉)は決して消えない。御言葉に日々信頼し、その導きに従うことが重要である。
3. 目を覚まし、用心する
再臨の時は誰にも分からない。だからこそ、常に目を覚まして、用心して備えていなければならない。
ノアの時代のように、人々が普通の生活をしている中で突然終わりが来ることもある。
4. 忠実な働き
それぞれに委ねられている働きや務めを、日々忠実に果たすことが求められている。
主人(イエス様)が帰ってきた時に「忠実なしもべ」と認められるよう、普段から与えられた務めに励むべきである。
5. 想定外を想定する
東日本大震災の例のように、「想定外」と言い訳せず、必ずやってくる時のために備えておくことが大切。
終わりの日は必ず来るので、今から備えを怠らずに生きるべきである。
6. 祈りと感謝
再臨と救いの希望、そして裁きの時が来ることを覚え、日々祈りと感謝をもって備える。
まとめ
日常に流されず、御言葉に信頼し、目を覚まして用心し、与えられた働きを忠実に果たしながら、いつ再臨が来ても良いように備えて生きることの大切さが説かれています。
筆耕
この24章の話は、3節に出てきます弟子たちの質問から始まっていますよね。「先生、お話しください。いつそのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時の印はどのようなものですか」という問いかけから始まっていました。
あなたが来られる、イエス様がもう一度来られるその時、そして世が終わる時というのがあるわけですけれども、その時の印ってどんな印ですか。その時が来る前に、前兆として現れる印ってどんな印ですかね。それにイエス様がお答えになったのが24章の前半でした。
それで、偽キリストが現れるとか、戦争や戦争の噂、地震が起きる、迫害が起きる、偽預言者が起こるよ、そして福音が全世界に伝えられるよ、ということが前回の話でありました。そしてさらに21節を見ると、「その時には、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような大きな苦難があるからです」ということで、苦しみの時がやってくるんだよ、ということですね。そういうことがここで示されていたかなと思います。
今日は29節で、イエス様は「そうした苦難の日々の後」というふうに始まっていますね。お話しになったことの内容は、苦難の後にやってくるということですね。そういうことがわかるかなと思います。
まず、いろんな印、前兆があって、いろんな苦しみがあるけれども、その後に何が起こるのでしょうか。順番に3つぐらいのことが今日のところで話し出され、予告されています。
まずは、天変地異が起きるということかなと思います。29節、「そうした苦難の日々の後、直ちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力が揺り動かされます」ということで、太陽とか月とか星とか、もろもろの力、天体でしょうかね、いろんな現象が起こる。天変地異と言ったらいいのか、具体的にどんなことが意味されているのか、いろいろ難しいところかなと思いますが、とにかく自然現象でしょうかね。そういうものが起こるということが、まずイエス様が語られたことかなと思います。
そしてその後、次に起こること、それが30節ですね。「その時、人の子の印が天に現れます。その時、地のすべての部族は胸を叩いて悲しみ、人の子が天の雲の内に偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」。これまさにイエス様が来られる場面ですね。再臨が起こるということがここで言われている、このことですね。
その時、地のすべての部族は胸を叩いて悲しむ。再臨の時に、地のすべての部族が胸を叩いて悲しむんだそうです。どうして悲しむのか、それはやっぱり裁きの時だからだと思いますね。胸を叩いて泣くという、その悲しみですね。胸を叩いて悲しむという非常に大きな悲しみなんだと思いますけれども、裁きの時の訪れということになると思います。
そしてその後、何が起こるか。31節、「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方から人の子が選んだ者たちを集めます」ということで、今度は何が起こるかですね。大きなラッパとともに御使いたちが遣わされていって、そして天の果てから果てまで、四方から人の子が選んだ者たちを集めるということで、ラッパによる神の民の招集と言っていいと思います。全世界の選ばれた人たち、救われた人たちが一斉に集められるという、そういう時がやってくるよ、ということがここに記されているということがわかると思います。
これはイエス様によって語られた予言になるわけですが、同じことをパウロも第1コリント15章52節で予言しているかなと思います。パウロは第1コリント15章の52節でこう言っていますね。「終わりのラッパと共に、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」。こちらにも「終わりのラッパ」と出てきますが、再臨の時、そしてその後に、世界中から選ばれた人たちを集めてくると。それだけではないですね。パウロが教えていることですね。死んだ人もよみがえって、朽ちないものによみがえる、正しい肉体を与えられてよみがえる、集められるんだよ、という、そういうことが起こるということですね。それにも予言されている。
イエス様が語られた後で、じゃあその時のために私たちはどう備えをしたらいいのでしょうか、という必要が出てきますよね。そのためにどんな準備が必要なのでしょうか。今日の箇所は、その準備についてイエス様が教えている内容だなと思いました。私たちに教えてくださっているなと思いました。
まずは、最初のこととして、時が近づいているということをよく知りなさい、自覚しなさい、ということを教えておられるなと思います。32節と33節、「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出てくると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい」というふうに、まずイエス様が語られて、33節に2回「近い」と言っていますね。夏が近い、戸口まで近づいているということですね。接近していますよ、という、そのことをよく知りなさい、ということがここで教えられている。
今ちょうど私たち、夏が近い季節を迎えておりますね。イエス様もここで「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出てくると、夏が近いことが分かります」と言われています。今、教会の周りの木々も本当に緑が日に日に濃くなっておりまして、分かるんですね。
終わりの日の印だと思いますね。迫害が起こるとか、そういうことを見たら、「そういうこと全てを見たら」と今は思いますね。もう毎日、日々そういうことを見聞きしているんだと思います。それを見たら、「あなた方は人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい」ですから、もしかしたら今はもう戸口のすぐ近くまで近づいていらっしゃるのかもしれない。もうすぐそこにいらっしゃるのかもしれない。それはもう近づいていることですね。それはよく知りなさいと。それがまずはよく分かりますね。
ですから私たちも、今いろんな世界でいろんなことが起きていますけども、それをなんとなくぼーっと見ていてはいけないんだと思いますね。いろんな地震のニュースとか、戦争の噂とか、偽預言者の惑わしとか、迫害の知らせとか、いろんなことを聞きますよね、私たち。それをただなんとなく他人事のように思って聞いていてはいけないんだと思います。そういうのを見聞きしながら、「近づいているんだな」と自覚を持つということですね。それがまずイエス様に教えられていることだと思います。
御言葉に対する信頼を深めるということが教えられているなと思います。35節、「天地は消え去ります。しかし、私の言葉は決して消え去ることがありません」と教えられました。ここで「私の言葉」、イエス様の言葉、御言葉についてイエス様は語られていますけども、天地は消え去るんですね。ちょっと信じられないですよね。でも、たとえそれが起こったとしても、イエス様の言葉は消えないんですね。いつまでも生き続ける。それはよく覚えていなさい、そしてその御言葉に信頼しなさい、ということですよね。
ローマ帝国が滅んだ時に、ローマ帝国の人々は本当に驚いたんだそうですね。どうしてかというと、ローマは「永遠の都」と呼ばれていまして、あの帝国が滅びるなんて誰も考えられなかった。ところが、そのローマが滅んだんですね。もう歴史の出来事ですけども。そして、そのローマを見ながら『神の国』という本が書かれました。この世の国は滅びる。彼はもうローマが滅びることも感じていたと思います。でも、ローマは滅びても神の国は滅びない、永遠であるんですね。それが神の国論がありますけれども、やっぱりこの世の栄華というものは、国はやっぱり滅びるんだと思います。
ところが、ただ唯一滅びないものがある。それは、キリストが語られた言葉。これだけは滅びない。ですから私たちは、御言葉に対する信頼を日々深めながら、その日を待つということですね。それはとても大事なことなんだと思います。ですから私たちも、日々御言葉に教えられながら、御言葉を学び、御言葉に信頼する、その信頼を深めていくものでありたいと思います。
三番目の準備としては、今度は42節になるかなと思いますが、イエス様は「目を覚ましていなさい」ということになりますね。いつなのかは誰も知りません。ただ父だけが知っておられます。その日が分かったらいいなと思ったりもしますが、分からないんですね。御使いも知らないんです。なんとイエス様も知らないって言っているんですね。父だけが知っている。父なる神様だけがその日を知っているんだそうですね。ですから、誰も知らない。いつその日が来るか分からない。だから目を覚ましていなければいけない、ということが分かると思います。
二番目はですね、「だからその日が来るから目を覚ましていなさい」ということなんですね。始まるんですけども、人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。洪水前の日々には、ノアが方舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、嫁いだり嫁がせたりしていました。洪水が来て全ての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです、ということで、創世記の6章以降にノアの方舟の話が出てきますけども、あの話はみんなよくご存知だと思うんですけども、あの日のようなことがまた起こるんですよ、と。ノアの日のようにその日はやってくるんですよ、ということですね。そのことがここに示されているんですね。
それでもう、全ての人をさらってしまうまで洪水が来て、彼らには分かりませんでした。その時はやっと分かった、ということなんだと思うんですけども、気づくのが遅すぎるってことなんですね。もっと前に気づいていなくちゃいけなかったんですね。ところが、もうその時が来た時に気づいたらもう遅いんです。だから、ちゃんと前から気づいていなさい、ということになるんですけれども。
でも時代の人々は何をしていたかというと、食べたり飲んだり、嫁いだり嫁がせたりしていたということなんですね。地上に人の悪が増大し、その心に計ることが皆いつも悪に傾いていた、という言葉が出てきて、ノアの方舟の時代の人たちがいかに邪悪だったか、ということが書いてあるんですね。心が悪くなっていたというか、本当に邪悪な人々だったということが創世記6章には記されています。
ですが、イエス様はここではそういうことには全然触れていないんですね。「食べたり飲んだり、嫁いだり嫁がせたりしていた」、つまり普通の日常生活を過ごしていた、ということを強調しているんですね。そういうことではなくて、ごく普通の営み、ごく普通の生活をしていたということですね。しかし、その時に洪水が起こって、そして人々は飲み込まれてしまった。まさにそういうことになるんですよ、ということですね。
お食事を作って、お弁当を作って、料理をして、お仕事に行って、学校に行って勉強しています。そうした日常生活を繰り返しながら、「この日常はこれからずっと続いていくかのような感覚」があるかなと思うんですけど、でもそれに心を全部奪われていてはいけないんですね。やっぱり、いつかそういう終わりが来る、というのでしょうか、やってくるから、だから「目を覚ましていなさいね」と言われているのです。
そして、もう一つは、選ばれる人と残される人が、その時が来ると二分されてしまうんだよ、という話が今度出てきます。40節と41節、「その時、男が二人畑にいると、一人は取られ、一人は残されます。女が二人うすをひいていると、一人は取られ、一人は残されます」ということで、一緒に労働している二人の人、あるいは女が二人でうすをひいていて一緒に仕事をしている。でも一方は残され、一方は取られる、という変化が起こるんですよ、ということですね。
(ちょっとすいません、どなたか対応お願いいたします。)
私たちはやっぱり目を覚ましていなければいけない、ということですね。この四番目は、ちょっと「目を覚ましていなさい」と似ていることかなと思うんですが、「用心していなさい」ということですね。44節に出てきます。「ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです」ということで、用心しなければいけない理由が書いてあるんですね。
それは何かというと、43節。「次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです」ということで、用心しなければいけない理由は、「盗人のようにやってくるから」ということですね。
いろんな事件が起こるので、本当にどこかから侵入してくるんじゃないか、という不安がいつもあるかなと思います。皆さんもちゃんと鍵をかけたり、窓に鍵をかけたり、そういう対処をしていらっしゃるんじゃないかなと思います。ですから、狙っていて入ってくるわけですけれども、そういう感じでやっぱりその日が来るということなんですね。ですから、「用心していなさい」でしたけど、今度は「用心しなさい」ということですね。それも私たちが大切にしていなければいけないことかなと思います。
そして最後、五番目にイエス様がもう一つの大切な備えとして教えてくださっていることは、私たちに委ねられた働きがそれぞれにありますが、その働きをよく忠実に果たしなさい、ということを最後に教えているかなと思います。
45節、「ですから、主人によってその家の下僕たちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える忠実で賢いしもべは一体誰でしょう。主人が帰ってきた時にそのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。誠にあなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります」ということで、最後に主人によってその家のしもべたちの上に任命されている話が出てきますよね。その任命されているしもべたちがたくさんいて、その上の管理をする者として任命されている話が出てきます。
そして、その任命された内容としては、食事時に彼らに食事を与えることができるように、そういう忠実な働きをしなさいと言われている。そして、主人が帰ってきた時にその働きがちゃんとなされているかどうか、それをちゃんとなされているのを見てもらえるしもべは、とっても幸せなんだよ、ということが46節に出てきます。
今、主人は帰っておられないんですけれども、でも帰ってくる時があります。帰ってきます。そういうこと、勤めをちゃんと果たしているかどうか、そのことを見られるしもべは幸いなんだよ、ということで、この話からやっぱり私たちも、それぞれに委ねられている働きがあるんだろうなと思います。それはみんな違いますね。あるいは、こう委ねられている人々というのがいるんじゃないでしょうかね。
私たちがちゃんと食事時に食事を与えると書いていますけれども、お世話をしなければいけない人がいるのかもしれません。そういう委ねられている人がいるんじゃないかなと思います。やっぱりいつもちゃんと果たしていること、いつ帰ってくるかわからないので、ちゃんとその働きをしているということがとても大事なことなんだよ、ということが教えられていることかなと思います。
48節、「しかし、もし悪いしもべが『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、仲間のしもべたちを叩き始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、そのしもべの主人は予期していない、思いがけない時に帰ってきて、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです」ということで、主人が帰って来られた時に、本当にこういう委ねられた働きを忠実に果たしているしもべは幸いなんですけれども、でもこのしもべは、悪いしもべだって書いていますね。心の中で「どうせ帰ってくるのは遅いだろう」と思っていても、主人が帰ってくることは分かっているんですね。そして、自分に委ねられた働きがあることも分かっているんだと思います。でも、「どうせ帰ってくるのは遅いだろうな」と安心して、その間は下僕たちを叩いたり、あるいは酒飲みたちと食べたり飲んだりして、宴会のようなことをして、「どうせ主人は帰ってこないからいいだろう」とワイワイやっていた、という話なんですが、その時に思いがけない時に主人が帰ってくるわけですよね。
そして、その時に主人に見られてしまう。今日の御言葉だと思いますが、私たちも同じように、やっぱりいつ来られるか分かりません。いつ帰ってくるか分かりません。いつその再臨の時が来るか分からないけれども、でも、いつ来てもいいように、もちろん目を覚ましていなければいけないし、用心していなければいけない。それと合わせて、委ねられた私たちの働きを日々忠実に果たしていること、それがとても大事な準備なんだということですね。そのことが教えられていることに、心を留めるものでありたいなと思います。
東日本大震災の後に、「想定外」という言葉がよく聞かれたかなと思います。あんなに大きな地震が起きることも、あんなに大きな津波がやってくることも、あるいは福島の原発事故も、想定外の出来事だったと、結構そういうことを言っている人がいたと思います。もう想定の域を超えたことが起きてしまったということで、みんな慌てふためいたということが、あの時あったのかなと思うんですけども、でも本当に想定外だったのかな、とも思いました。
本来はちゃんと想定しておかなければいけなかったこと、でもその想定しておかなければいけなかったことを、想定外にしてしまった怠慢というものが、あの時あったんじゃないだろうか、と考えさせられます。ちゃんとそのことを想定して、備えておかなければいけなかったんじゃないかな、というふうに思うんですね。その時がやってきた時に「想定外だった」というのは、言い訳にしかならないということなんですよね。必ずやってくるということです。
ですから、私たちはそのことをちゃんと想定した上で、今から備えをしていかなければいけない、ということが教えられていることです。私たちは決して怠ってはいけないんだと思います。日々備えていくということ、そんなことが求められていることを覚えたいと思います。その日が近づいているということを、よく意識したいなと思います。そして、御言葉に対する信頼を日々深めていきたいと思います。そして、目を覚ましていたいと思います。用心していたいと思います。
そして、私たちそれぞれに委ねられている働きを忠実に果たしながら、イエス様が帰ってきた時に「よくやった、忠実なしもべだ」と言ってもらえるように、そのように普段から与えられた務めに励んでいくものでありたいと思います。
お祈りをして終わりたいと思います。
再臨の日があること、そしてその時にはラッパが鳴り響いて、世界中の選ばれた民が集められ、そして死者もよみがえって、私たちとともに集められて賛美する日がやってくることを覚えて感謝いたします。でも、それはまた神の裁きの時でもあります。私たちは目を覚ましていることができるように、その日が近づいていることを意識することができるように、御言葉に信頼することができるように、用心していることができるように、そして日々与えられている務めに励むことができるように、そのようにしてその日の訪れを待ち続けることができるように助けてください。
御言葉の導きに感謝し、イエス様の御名によってお祈りいたします。