イエス・キリストをより良く知るために

もし、キリストがおられなかったら?・・・エペソ書2章1~3節

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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エペソ人への手紙2章1-3節

1.まず最初に「私たちは死んでいた」ということです。

1節の言葉をお読みいたします。
さてあなた方は自分の背きと罪の中に死んでいた」。
あなたは死んでいたとあります。衝撃的な言葉ではないでしょうか。
皆さんそう言われたらどんな気持ちがしますか?もしかしたら反発するかもしれません。「いや私は生きている」と。
でもやはり私たちはこの聖書の御言葉のとうりに「死んでいた者たち」だったということを覚えたいと思います。もちろんこれは私たちの肉体の死について言ってるのではありません。肉体的には私たちは生きています。ですからパウロはここで肉体の死について言っているのではないのです。パウロがここで主張しているのは、私たちと神様の関係における死、霊的な意味における死ということになります。ルカの福音書15章に 、放蕩息子がお父さんの家へ帰ってくる話がありますね。惨めさの中に戻ってくる。お父さんはその時、抱きしめるんですけれども、その時お父さんは、なんと話したか覚えてるでしょうか?「この息子は死んでいたのに生き帰り、いなくなっていたのに見つかったのだから・・」と言っているんですね。父親は息子に関して、この息子は死んでいたと言いました。生きてるんですけれども死んでいたと言いました。父親との関係において、彼はまさに死んでいた状態だったということになります。でも彼は帰ってきましたね。そしてお父さんごめんなさいと言って帰ってきました。その息子を、お父さんが抱きしめた時に、この息子は死んでいたのに、生き返ったという風に言いました。父と子の関係はその時に回復し、 切断されていた、それまで繋がっていなかった関係が、その時つながりました。壊れていた関係がその時に、もう一度蘇った。そのような意味で彼は再び生きき始めたということが言えるわけであります。
パウロがここで使っている「死ぬ」という言葉の意味も、これと同じです。エペソの信徒たちも、かつては死んだ者たちでした。そして私たちも同じように、かっては死んだものだったんではないでしょうか。神様との関係が、全くないという意味において、その関係が切断されているという意味において、私たちはやっぱり死んだものだったということになるわけであります。関係がないですね。神様と切れてますので、神様の素晴らしさを味わうことはないです。神様の言葉を聞くこともありません。神様がどういう方であるかということを、個人的に知るということもないし、神様に語りかけるということもない。関係がないわけですから、その関係が壊れてるわけですから、そこに生きた交わりはないです。それはまさに死と呼ばれるにふさわしい状態であるということです。それがかっての私たちの状態だったということを、ぜひ覚えたいと思います。そしてもう一つ、なぜ私たちは死んだのでしょうか?死んでいたということは、それはつまり、かっては生きてたっていうことですね。かって生きていたのが、なんで死んでしまったんでしょうか?パウロは1節でこう語ってます。「さてあなた方は、自分のそむきと罪の中に死んでいたものであった」。自分のそむきと罪ののゆえに。死んでいたということがここでわかるわけであります。
ここでパウロは、二つの言葉を使ってますね。自分のそむきと自分の罪とにふたつ分けて言っています。このそむきという言葉は、これは私たち人間の、積極的、意図的、自発的な罪というものを表している言葉であります。私たちは自分の意思で、意図的、自発的に、神様に背いたんです。放蕩息子もそうでした。自分の意思で父親に反抗しました。自分の意思で父親に背を向けて、自分勝手な道を歩んで行ったんです。それは極めて意図的、自発的な罪ですよね。あえて背くのです。私たちもそうだったんですね。私たちも神に反逆しました。神に反発しました。そういう積極的な罪というものが、ここで指摘されているということを一つ覚えたいと思います。そして彼は、その次に、今度は罪という言葉を使っていますけども、この罪という言葉の元々の意味は、「マトが外れてる」っていう意味の言葉ですね。マトハズレ、れこれはどちらかと言うと消極的と言ったらいいでしょうか。あるいは結果的と言ったらいいでしょうか。結果的に的が外れてしまうという、そういう罪の側面を表している言葉でありますね。
私たちは、どんなに真面目に生きたいと思っても、あるいはどんなに神様の前に正しい生き方をしたいと願っていても、そういう真面目な思いがあったとしても、結果的に的を射ることができないです的を外れてしまうんです。神様の御心から外れてしまうんですね。私たちが歪んでるからなんですね。罪のために堕落していて、歪んでいる、つまりパウロはこの二つの言葉を通して、罪の積極的、消極的両方の面を網羅しながら、でも言いたいことは私たちが徹底的に堕落してるって言う事ですね。私たちがもう完全に罪人だっていうことをここで主張している、そのことのために私たちは神との関係が途絶えたということが、ここで主張されているわけであります。私たちも意思の面においても、あるいは性質の面においても、完全に堕落していた一人一人であったということを、ここから覚えたいと思います。そのために私たちは、神様と全く繋がることができませんでした。神様と親しく交わったり、それによって命を与えられたり、生きる目的と使命を与えられたり、このように神様を賛美したりする喜びは、決して味わうことができない。日々神様と出会い、日々神様と語り合う、そういう楽しさを味わうことはなかった。これがかっての私たちの状態だったんではないでしょうか。私等はまさに死んでいたものだったということを覚えたい。
でもそこから救われたんです。今も命があるんです。今も神様との親しい交わりが与えられているんです。本当に感謝です。でもかつては違ってた。かっては死んでいた。そのことを忘れるべきではないですよね。私がどこから救われたか?そのことを是非、覚え続けるものでありたいと思います。これが第一の私たちのかつての状態であります。

2.私たちは奴隷状態であった

2節のみ言葉を朗読したいと思います。
「かつてはそれらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」。
ここでパウロは、かつて私たちも皆それらの罪の中にあってこの世の流れに従って生きていたということ、さらに空中の権威を持つ支配者すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいたと、二つの事を指摘しております。
ここで「従う」という言葉が2回繰り返されているということが分かると思います。この「従う」という言葉が、私たちの奴隷状態を表している言葉であります。

①.私たちは第一に、この世の流れに従って歩んでいました。

この世と呼ばれる、神様がおられない神不在の世界の考え方や、価値観に従って、生きてきた、そういう私達であったんではないでしょうか。私たちは時々このような考え方に染まってしまうとか、この世の考え方に流されるとか、影響されるとか、そういう言い方しますよね。でも聖書が言ってることは、もうそんなレベルじゃないですね。それ以上のことですね。私たちは「この世の流れに従っている」ということですから、もっと深刻ですね。そういうことが指摘されているわけであります。

②サタンに従い、サタンに隷属する一人一人であった。

また2番目に、空中の権威を持つ支配者と呼ばれる存在、これはサタンを表していますけれども、このサタンに従い、サタンに隷属する一人一人であったということであります。でもどうでしょうか?私たちはかつてそういう状態であったという風に聞いても、あまり支配されていたというような感覚は、もしかすると、なかったかもしれないですね。それはそのはずです。
3節に、こう書いてあるからですね。
「私たちも皆、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、他の人達と同じように生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。
つまり、私たちは、自分の肉の欲のままに生きてきた、さらに肉と心の望むことを行ってきた、自分の心が欲していることをそのまま行ってきたということです。そのような生き方を自ら願ってきたし、おそらくそこには自由な感覚もあるんだと思いますね。自分の願ったとおりに生きるっていう、ある意味では正直な感覚もあるんだと思います。ですから自分が奴隷になっているという感覚はないんじゃないでしょうか。むしろある種の充実感があるかもしれない。ここに私たちが気をつけなければならない、そして非常に恐れなければならない、恐ろしいトライアングルと言ったらいいでしょうか、三つのものがあるということに気づかされます。
一つは、㋑この世、もう一つは㋺肉の欲、もう一つは㋩サタン、この三つのものが互いに協力しあって、ひとつになって、強力な威力を発揮して、私たちを外側から内側から完全に虜にしてしまうという、そういうことがここに示されている。その中にまさに私たちは置かれていた。まさに私たちはそういう状態だったということが示されているわけであります。

㋑この世の流れ

私たちが恐れなければならないものが、まだ自分の外側にあります。それはこの世の流れ、この世と呼ばれる神様を信じない、神様を知らない神不在の考え方、価値観にいつも私たちは、さらされていますよね。この世に一歩出ると、本当にそういう価値観がはびこっている。そういう中に、絶えず私達は晒されている。ですから私たちが、気をつけなければならない、恐れなければならない敵が、私たちの外側にいる。

㋺肉の欲

でももうひとつの敵が、私たちの内側にいるんです。それは、それを欲するんです。私たちの心が願うんですね。求めるんですね。そういう私たちの肉の欲というものが内側にある。

㋩私たちを虜にするサタン

そしてその間に入って、私たちの外側からも、内側からも働きかけて、それをしっかり結びつけて、完全に私たちを虜にしてしまおうとする霊的な力がある。それがサタンです。このサタンについてパウロは2節で、不従順の子らの中に今も働いている霊という風にこう書き記していますね。不従順の子らの中に今も働いているでこれがサタンの正体であると言えると思いますね。つまり不従順です。神様に従いたくない、神様に背いている人々の中に働いている霊的な存在、これがサタンですね。霊的な存在なので、私たちに見えないんです。ですから私たちには、とても意識できないんですけれども、でも確かにそこに生きていて、私達を狙っている、そういう霊的な存在がいるということを、私たちは意識しなければいけないと思います。

㋥この三つのものが一つになって

この三つのものが一つになって、私たちに働きかけることによって、私たちはもう本当に奴隷になりますね。奴隷状態になります。まさにこれは、私たちのかつての姿だったんではないでしょうか。この世の流れに従い、それを私たちも願い、欲し、そして霊的なサタンの支配の中に屈している。そのようにして、完全に神から引き離され、神のみ心に背いてゆくという、そういう奴隷状態の中に、私達がかつておかれていたんじゃなかったでしょか。

今やインターネットの影響で、簡単に色々な誘惑が蔓延しています。本当に私たちは目を覚ましていなければいけないなと思います。特に子供達や若い人たちがその中にさらされているということを目を開いていなければいけません。私はインターネットできませんからということではなくて、今まさにそういう世の中にあるということを是非危機感を持って、覚えて祈らなければいけないと思いますね。子供たちのために祈らなければいけないと思います。インターネットは昔はなかったけれども、でも私たちもやっぱり同じだったんではないでしょうか。堕落した世の中にあって、ひたすら堕落しくしていく私たちの歩みだったんではないでしょうか。
真面目に生きてきたつもりであっても、やっぱりこの世の流れに従って、サタンに従ってきた、そんな私達だったんではないでしょうか。そんなかつての私たちは、まさに奴隷状態。でも神様は、そこから私たちを救い出してくださって、自由にしてくださった。解放してくださった。本当に感謝だなと思います。でもかつてはそういう状態にあったということを、私たち決して忘れるべきではないですね。どこから救われたかということを、決して忘れてはいけないんですね。いつも救いの恵みに感謝しているために、かつて私たちがまさにそう言うと奴隷状態だったということを、忘れないようにしたいと思います。これが2番目のことになります。

3.み怒りを受けるべき存在

もう一つあるんですね。私たちがキリストと出会う前の状態。どんな状態だったか、もうここまででもかなり刺激的だと思いますけれども、最後のことはさらに刺激的と言っていいんではないかと思います。もう一度3節を読んでみたいと思います。
「私たちも皆、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、他の人達と同じように生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」、とこの最後の部分ですね。
私たちはどういう状態だったんでしょうか。私たちは、生まれながら御怒りを受けるべき子らであった。そういう一人ひとりであったんだよ、ということをパウロは、ここで教えている。神のみ怒りを受けるべき子らであった。もうそこから逃れられない、そういうも結果から逃れられない、そういう私たちだったということが、ここで教えられております。
3節の主語は「私たちも皆」という言葉になっておりますけれども、これはユダヤ人も異邦人も関係なく、という意味ですね。当時の人たちは、ユダヤ人は御怒りを受けないと信じてたわけです。異邦人は、神の怒りを受けるだろうと思っておりましたが、ユダヤ人たちは、自分たちは神の選びの民だということで、特別に祝福を受けてるから、滅ぼされないだろうと思っていたわけですけれども、パウロはそれを否定しました。「私たちも皆」という中の「私たち」という言葉の中には「ユダヤ人である私たちも皆」というニュアンスが込められております。私たちも皆不従順の中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、心の望むことを行い、他の人とたちと同じように、ユダヤ人と異邦人の区別に関係なく、全ての人が神の御怒りを受けるべき子らであったということが主張されているわけであります。
これがまさに私たちの姿だったのではないでしょうか。

①生まれたときから、神の御怒りを受けるべき存在

そしてさらに、生まれながらに御怒りを受けるべき子らだったという風に、ここに記されております。これは生まれた時からという意味ですね。生まれついた赤ん坊の時から、もうこのような定めの下に置かれている一人一人であったということであります。人は赤ん坊の時には純粋だけど、だんだん大人になるにつれて罪深くなっていくという風に考える人がおります。確かに大人になるにつれて、だんだん歪んでいくということはあるかもしれませんけれどもでも、実は生まれながらにして、私たちは罪人であります。ダビデの詩篇51篇の中で、こう告白しております。 「咎あるものとして生まれ、罪ある者として、母は私を身ごもりました」そう告白しておりますね。私たちは罪を犯したから罪人になるんではなくて、もともと罪人であるからこそ、罪を犯します。まさに私たちは生まれながらの罪人であります。
そして生まれながらにして御怒りを受けるべき子らだった。もうそこから逃れられないんです。生まれたその時点から、もうそこから逃れられない。そういう宿命の中に閉じ込められていた私たち一人一人です。

②神の怒りがどんなに恐ろしいものか

そして皆さんは、神の怒りっていうものの恐ろしさも想像したことがあるでしょうか?もし神が怒られたらどんなに恐ろしいか、皆さん想像したことがあるでしょうか?私たちは、神は愛であるということを信じていますから、もちろん神は愛なんですけれども、なんとなく安心してるようなところあるかもしれませんけど、もしその神が怒ったら、どんなに恐ろしいことが起こるか皆さん想像したことがあるでしょうか?それは本当に恐ろしい。神は裁き主なんですね。必ず裁きを成されるんです。そして名前を記されていない人は、火の池の中に投げ込まれると、黙示録の中に書いてあります。けれどもその光景を想像するならば、それは本当に見たくもない、目を覆いたくなるような悲劇的な最後だと思いますね。これが私たちの、かつての姿だったということを、私たちはどこかで忘れていないだろうか?私たちは本当に救われていなかったら、キリストを知らなければ、そのような悲劇的な最後が待っていた、それだけだったということを忘れていないだろうか?まさに私たちはそのような状態であったということ、でも、そこから救われて、今、命に移されたという、その恵みを感謝するものでありたいと思います。

4.まとめ

今日のメッセージはここまでなんですけれども、もしこの2章1・2・3節で聖書のメッセージが終わってしまったら、これくらい悲劇的なニュースはないと思いますね。これくらい希望のないニュースはないと思います。でも安心なんですね。この3節の後に、「しかし」という言葉が続いていくんですね。
4節の冒頭に 「しかし」という言葉が書いてあるんですね。この「しかし」によって私たちは救われます。この「しかし」が本当にありがたい接続詞です。この「しかし」があるおかげで、そしてその後に展開する、そのメッセージによって、私たちは救われるんですね。それは次回の話にしたいと思います思いますけれども、でも今日はこの「しかし」がなければどんなに私たちは悲劇的であったかということを心に留めるものでありたいなと思いますね。そしてそこから救われたんだということを、心に留めるものでありたいと思います。
東日本大震災の時もそうでしたし、この間の大阪の地震の後にも、そういうニュースがあったと思うんですけれども、本当に助けに来てくれなかったら、自分はもう死んでいたという、ギリギリの経験をした方々がいらっしゃったですよね。被災地に行くと、その人にとって、その経験はもう絶対忘れられない、そういう経験だと思いますね。もしその人が助けに来てくれなかったら、もう流されて自分の人生終わっていたっていう経験、そこから助かったということがその人にとってどれだけ大きな感謝でしょうか。どれだけ大きな経験でしょか。それを忘れることは絶対できないですよね。生涯忘れることできないと思いますね。
私たちはどうでしょうか?私たちは本当に救われた?どこから救われたかわかってるでしょうか?私たちが死んでいた。完全に奴隷だった。そして神の御怒りを受けるべき子等だった。本当に絶望的です。
救いようがない中に、イエス様が来て下さったんじゃないでしょうか?そこから救われたということが、どんなに素晴らしいことか、これを忘れてはいけない。是非私達がどこから救われたか決して忘れることがないように、その恵みを何時も心新たに感謝できるように、1節2節3節の御言葉を心に刻む者でありたいと思います。
そして同時に思いますね。多くの人々にとって、これはまさにその人の状態です。私たちは救われたかもしれません。でも、この世のほとんどの人達は、まさに1節2節3節の状態の中に、今でも置かれているんではないでしょうか。今もし皆さんの中にイエス様をまだ知らない、まだキリストと出会っていないという人がいるのなら、それは皆さんの状態なんですね。ここに書いてある通りなんです。ですからぜひイエス様を信じてほしいです。本当にキリストは自分の救い主として信じてほしい。
4節5節6節の展開があるから、私たち救われるんですけれどもでも、その前に私たちがどういう状態であったかということをぜひ忘れないでほしい。そして私たちはやっぱり、もっともっと祈らなければいけないと思いますね。私たちの家族、友人、同僚が、今どういう状態の中に置かれているかということに、もっと目を開いて覚えながら、真剣に祈るものとならなければいけないんではないでしょうか。私たちの祈りが求められているんではないでしょうか。心合わせて祈るものとしていただきたいと思います。

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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