イエス・キリストをより良く知るために

マタイの福音書28章11~20節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」( マタイの福音書 28:11-20 SKY17 )

要約

この文章は、マタイの福音書の最後(28章18〜20節)にある「大宣教命令」と学びのまとめについて語った内容です。要点を以下に整理します。

イエス様は「行って弟子としなさい」と命じられましたが、その前提には「天と地のあらゆる権威が私に与えられている」という宣言があります。
つまり、この命令は権威ある神の力に基づいており、最後には「世の終わりまでともにいる」という約束で締めくくられています。

人間には力がなくても、イエス様が共におられることによって導かれ、支えられながら使命を果たすことができます。
弟子とされる者は、他の人を弟子とするために遣わされ、祈りと信頼をもって福音を伝えていくことが求められます。

マタイ全体のメッセージは「弟子となること」と「弟子をつくること」です。
信仰をもって学び続け、主に従う者として育てられ、人々に仕えていく歩みが強調されています。

 

筆耕

ルカの福音書、ヨハネの福音書を読んでいると、イエス様が復活された後に、もういろいろな出来事があったということが分かります。
弟子たちの前にイエス様が姿を現してくださったとか、エマオの途上で歩いている二人の弟子と一緒に歩いてくださったとか、あるいは、みんながイエス様にお会いして喜んでいたのに、トマスだけは出会えず、信じることができなかったとか──。いろいろな出来事が、イエス様の復活の後にあったということが分かります。

しかし、福音書はその多くを省略していますね。復活後の出来事について、あまり詳しく書いていないのです。ですから、復活の後の出来事を非常に簡潔にまとめているのが、マタイの特徴だと思います。

マタイがどういう視点でそれをまとめたかというと、「復活を受けて二つの反応があった」という視点からまとめていることが分かります。すなわち、復活の事実を信じない人たちがいた一方で、信じる人たちもいたということです。その二つの反応に分かれている様子が、非常に明確に表されています。

まず、イエス様が復活したのに、その事実と向き合おうとしない人々がいました。それは祭司長や長老たち、すなわちユダヤ議会の議員たちです。

11節から始まりますが、「彼女たちが行き着かないうちに、番兵の何人かが都に戻り、起こったことをすべて祭司長たちに報告した」とあります。そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えてこう言いました。
「弟子たちが夜やってきて、我々が眠っている間にイエスを盗んで行ったと言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたに心配をかけないようにするから」と。

こうして彼らは、事実をもみ消そうとしたのです。兵士たちはあの地震と天使の出現、墓の石が転がされる場面を目撃していたのに、その事実をねじ曲げ、イエス様の復活を否定する方向へと進みました。

祭司長たちもまた、イエス様が「三日後に蘇る」と語っていたことを知っていました。つまり、復活の事実と真摯に向き合うチャンスはあったのです。しかし彼らは、社会への影響や人々への影響を恐れて、その真実を確かめようともせず、むしろお金を使って事実を隠そうとしました。

15節には、「彼らは金をもらって言われた通りにしたので、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている」とあります。つまり、公式には「イエス様は復活しなかった」「弟子たちが遺体を盗んだ」という説が通用してしまったのです。復活の事実と向き合わない人々の影響が、今日にまで及んでいるのですね。

今も同じだと思います。イエス様が復活されたという事実を信仰によって受け止める人もいれば、どうしても信じられず、事実を認めようとしない人もいます。その影響は、今も変わらず続いているように思います。

一方で、イエス様の復活を信じて受け入れた人たちがいました。それが弟子たちです。

16節には「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そして、イエスにあって礼拝した。ただし、疑う者たちもいた」と書かれています。

女性たちが「イエス様がガリラヤで会おうと言われた」と弟子たちに伝えたとき、最初は彼らも信じられませんでした。しかしやがて、復活されたイエス様ご自身が現れてくださり、彼らは信じるようになりました。そして約束通りガリラヤに行き、山に登ってイエス様に再会したのです。

その場所は、弟子たちがイエス様と出会い、教えを受け、共に食事をし、訓練を受けた思い出深い場所でした。再びその場所でお会いできたことは、弟子たちにとって非常に大きな喜びだったことでしょう。

ここで注目すべきは、「弟子たちはイエスを礼拝した」と書かれていることです。これは今までにない描写です。弟子たちはイエス様を尊敬し、主として従ってきましたが、「礼拝した」と明記されているのはこの場面が初めてです。

つまり、復活という出来事を通して、イエス様は単なる師や導き手ではなく、まさに神の子、神ご自身であることを弟子たちが悟り、礼拝する者へ変えられたのです。

マタイの福音書は、実にその始まりから終わりまでを通して、「イエス様を礼拝する者たち」というテーマで貫かれています。2章では東方の博士たち、すなわち異邦人が最初の礼拝者として登場します。ユダヤ人にとっては皮肉なことに、救い主の誕生を真っ先に礼拝したのは異邦人でした。

そして最後の28章で、今度は弟子たち──ユダヤ人である彼らが──ついにイエス様を神として礼拝する者へと変えられます。救い主を神として崇める信仰に到達したのです。

このことは本当に幸いなことだと思います。イエス様が復活し、弟子たちがついに礼拝者となった、その姿にマタイの福音書のメッセージが凝縮されているのです。

私たちも同じように、イエス様を師匠として、主として仰いでいますが、同時に神としても崇めています。イエス様が私たちにとって神であることを覚え、心からひれ伏して礼拝する者でありたいと思います。

そして、今日の最後──18、19、20節──この最後の3節は「大宣教命令」と呼ばれる箇所です。イエス様が弟子たちに命じ、全世界へ遣わしていく場面で、マタイの福音書は終わります。実は、マタイの福音書のクライマックスは、この最後の3節だと言われています。十字架の場面もとても大事、復活の場面もとても大事ですが、マタイが一番伝えたかったことは、この最後の命令だったのです。これを伝えるために、それまでのすべての出来事が準備として記され、ここへとつながっています。

中心となるのは、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」という命令です。これは弟子たちに与えられた最後の命令であり、今も私たちにも与えられている命令です。

ここで少し復習しましょう。マタイの福音書を理解するための大切なキーワードの一つは「天の御国」という言葉です。これまでの学びの中で何度も繰り返し登場しました。イエス様が公生涯の最初に宣教を始めた際の言葉は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」です。

5~7章、いわゆる山上の説教では、この地上の価値観ではなく天の御国の価値観が語られました。8~9章では、病の癒し、悪霊の追放、死人のよみがえり、重い皮膚病の癒しなど、御国の到来を示す奇跡が記されています。それらは「御国が本当に来た」という証でした。

やがて弟子たちは選ばれ、訓練され、使命を与えられます。13章では御国のたとえ話が語られ、御国に反発する者たちとの対立が次第に激しくなります。そして終盤ではエルサレム入城、十字架、復活へとつながります。こうしてマタイの福音書全体は、御国をこの地にもたらすために弟子たちが選ばれ、訓練され、遣わされるまでの歩みを記したものとなっているのです。

イエス様は御国をもたらすために来られ、弱く失敗も多い弟子たちを忍耐強く育てられました。そして十字架、復活の後、再び弟子たちに会い、全世界に遣わされる使命を与えられました。ここがクライマックスです。

マタイ全体から語られるメッセージは二つあります。第一は「弟子になること」です。イエス様に選ばれたのは、弟子となるためです。弟子とはギリシャ語で「マセテース」、すなわち学ぶ人のことです。イエス様から学び、祈り方や神への信頼、人への仕え方、困難な人々への対処法などを学び続けます。

私たちは主から目を離さず、常に教えを受け取りながら成長していく者でありたいと思います。第二は「弟子をつくること」です。なぜ弟子になったのか、それは人々を弟子とするためです。

イエス様は「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名によってバプテスマを授け、私が命じたことを守るように教えなさい」と命じられました。弟子となった者は、他の人を弟子とするために遣わされます。出て行き、バプテスマを授け、教える──これが使命です。

今日でマタイの福音書の学びは終了ですが、自分のために学び、人のためにも学び、イエス様に近づき、神と人に仕える弟子となり、弟子をつくる働きへと進む者でありたいと思います。

「ただ行って弟子としなさい」と言うだけではなく、「ですから」という言葉から始まるのですね。ただ「行って弟子としなさい」という命令だけではなく、その理由が語られています。なぜ行って弟子とするのか。

その前の言葉に注目すると、イエス様は言われました。
「私は天においても地においても、すべての権威が与えられています。」
そして、「ですから」という言葉が続くのです。

つまり、イエス様が天においても地においても、すべての権威を持っておられる。神様の力が豊かにある、ということですね。

その命令のあと、最後に語られる言葉があります。
「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」
──この約束の言葉でマタイの福音書は終わるのです。命令で終わるのではなく、命令に伴う約束で終わっているのです。

天と地の権威を持っておられる力強い方が、私たちを遣わしてくださいます。そして、その方が世の終わりまで、いつも共にいてくださるという約束を持って、私たちは全世界へ送り出されていくのです。

ですから、「できなくて当然」なのです。私たち自身には力がありません。どう語ればいいのか、どう証ししたらいいのか分からない。弟子にしていくなんて難しい――そう思ってしまうかもしれません。

けれども、私たちを遣わすのは、その全権を持つお方です。共にいてくださるという約束の中で、私たちは平安を得ます。相談しながら、頼りながら、「どう語ったらよいでしょうか」「どう判断したらよいでしょうか」と祈ることができるのです。

そこに信頼があり、力があります。そのようにして天の御国は全世界に広がり、私たちを通してさらに広がっていきます。そのような神様の御心とご計画があるのです。私たちはそのことを深く覚えて歩みたいと思います。

ぜひ、私たちも弟子として成長し、人々を弟子とすることができるように、神様の御心に従って歩む者でありたいと思います。

それでは、お祈りをもって終わりたいと思います。

天の父なる神様、今日こうして学びを終えることができたことを感謝します。イエス様によって天の御国がもたらされ、私たちもその御国の民とされたことを覚えて感謝いたします。

私たちはあなたに選ばれ、弟子とされ、今、訓練を受けています。どうかイエス様から豊かに学ぶことができるように。いつもイエス様から目を離さず、イエス様の姿から学び続けることができますように。

愛に乏しく、力に乏しく、知恵に乏しい私たちですが、イエス様により頼み、絶えず教えを受けながら歩ませてください。私たちは多くの人との関わりの中に生かされています。どうかお一人お一人を通して、神様の祝福を届けることができますように。人々を弟子とする働きができますように。

いつも共にいてくださることを感謝します。あなたにより頼みながら、一歩一歩、信仰の道を歩むことができますように、これからも支えてください。

マタイの福音書の学びが与えられたことを心から感謝し、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

皆さん、本当にご苦労様でした。学びが始まったのは昨年の4月3日でしたから、およそ1年半になりますね。丁寧に1章ずつ読み進め、すべてを学ばれたことと思います。

こうして一つの書をじっくり読むことは、本当に大切で、力になることだと思います。その学びを今後の信仰生活に生かしていただけたら嬉しく思います。

なおこの口座は毎回録音していますので、後から聞き直すこともできますね。それも感謝です。

今後の予定ですが、また旧約聖書に戻りたいと思います。新約を続けることもできますが、やはり旧約の理解がまだ弱い部分がありますので、次は旧約の学びを進めたいと思います。祈りの中で導かれ、「列王記」を学んでみようと感じました。

来週からは列王記の学びを開始します。これはダビデ、ソロモンの後、イスラエル王国が北と南に分裂し、それぞれの王たちが現れる歴史をたどる内容です。あまり読む機会の少ない箇所かもしれませんが、とても意義深い学びになると思います。

どうぞ期待をもって、祈りつつ備えていただければと思います。

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